2012年2月14日火曜日

*What is the Family for the Japanese?





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 子育て最前線の育児論byはやし浩司     2月 17日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【人間が存在する意味】

●映画『フライト・ナイト』(Fright Night)

 昨夜、映画『フライト・ナイト』を観てきた。
昨日が、封切り日だった。
あまり観たくなかった。
この種の映画は、見飽きた。

が、このところよい映画がない。
ボケ防止のためにということで、観てきた。
内容は、3流。
予想通り、意味のない恐怖映画。
星はつけようもない。

 帰りに劇場から歩いて5分ほどのところにあるレストランで、遅い夕食を食べた。
すでに時刻は午後10時を回っていた。
そこでワイフと、こんな話をした。

●ドラキュラ※

 ワイフがこう聞いた。
「ドラキュラって、本当にいるの?」と。
私は即座に、こう言った。
「いるわけがない。『いる』という意味がない」と。

 映画『フライト・ナイト』は、ドラキュラの映画だった。
そのドラキュラ。
どんな生物にも、その生物が存在するためには、その「意味」がある。
たとえば庭を這うアリにしても、そうだ。
もしアリがいなければ、この地上は、ゴミだらけになってしまっていただろう。
動物や虫の死骸だらけになってしまっていただろう。

 蚊にしても、ネズミにしてもそうだ。
基本的には、ふえすぎた生物を減らすという「意味」のために、「存在」する。
(もっとほかの「意味」もあるかもしれないが……。)

 アリがいるから、地上はいつも、クリーンな状態に保たれる。
蚊にしても、ネズミにしても、伝染病を蔓延させることで、「数」を減らす。
あのクモにしても、もしクモがいなかったら、人間は絶滅していただろうと言われている。
私の意見ではない。
生物学者たちの常識である。

それが「意味」ということになる。

 では、ドラキュラは、どうか?
存在したからといって、どういう意味があるのか?

 つまり意味がない。
いなくても、何も困らない。
意味がない生物は、10万年単位の淘汰を経て、絶滅する。
1万年でもよい。
1000年でも、100年でもよい。

(注※……ドラキュラではなく、「バンパイア」のまちがい。以下、同じ。

●思考力

 言い換えると、人間にしても、そうだ。
人間が「存在」するには、それなりの「意味」がある。
「意味」があるから、この世界に「存在」する。

 それを人間自身が自覚しているかどうかは、わからない。
庭を這うアリと同じように、自分たちの「存在の意味」を知らないまま生きているかもしれない。

が、人間には、思考力がある。
こうして文にして、他人に、考えたことを伝える能力がある。
そういう能力をフルに使えば、人間は、自ら、その「意味」を知ることができるかもしれない。
人間の「存在」をはるかに超えた、その向こうにある「意味」を知ることができるかもしれない。

 その「意味」を知ることが、人間の英知の最後の目標ということになる。

●人間の存在

 が、反対に、もし人間が「存在する意味」を失ってしまったら、どうだろうか。
たとえば今、地球温暖化が深刻な問題になっている。
人間どころか、そのため、ありとあらゆる生物が絶滅するかもしれない。
つまり「人間の存在」そのものが原因で、地球を火星のようにしてしまうかもしれない。

 人間という、たった一種類の生物のために、その他ありとあらゆる生物が犠牲になる?
もしそうなら、人間には「存在する意味」がないということになる。
が、そう考えることは、あまりにも絶望的。
またそういうふうには、考えたくない。

●がん細胞

 昔、東大の松井孝典教授(東京大大学院教授・惑星物理学)が、何かの会議でいっしょになったとき、こんなような言葉を使った(「愛知万博・諮問委員会)。
「生物圏」と。
(「生命圏」だったかもしれない。あるいは「人間圏」だったかもしれない。)

 宇宙から見ると、個々の生物を見ることはできない。
が、地上には「生物圏がある」と。

 私はその言葉を聞きながら、「ああ、人間って、がん細胞と同じだな」と思ってしまった。
宇宙から見ると、地球そのものが生命体。
生物は、その地球の表面を、皮膚のように覆っている。
つまり人間が住む「生物圏」は、まさに細胞の集合体のようなもの。
その細胞の中にあって、人間は自ら、地球という生命体を自ら滅ぼそうとしている。
だから、がん細胞。

 が、「がん」にしても、「存在する意味」がある。
最終的には、がんが、生命にピリオドを打つ。
もしがんがなければ、それこそ地球上は人間だらけになってしまう。
人間だらけになってしまったら、人間の進化は、そこで停止してしまう。
絶滅してしまう。

 つまりがんは、最終的には古い人間を解体するという「意味」をもっている。

 がんによって、古い世代が死に、新しい世代が生まれる。
そのプロセスの中で、人間は、進化をつづけることができる。

●貪欲さ
 
 ということは、仮に地球が火星化したとしても、そうするのが人間の「存在の意味」ということになる。
つまりありとあらゆる生物を絶滅させる。
そのために人間は存在する(?)。
が、先にも書いたように、そういうふうには考えたくない。
またそんなことには、だれも、納得しないだろう。
この文章を読んでいるあなたにしても、「バカな!」と言って吐き捨てるかもしれない。

 そこでもう一歩、踏み込んで考えてみる。
地球を破壊しつつあるのは、人間なのか、と。
「人間の存在」なのか、と。

 どうもそうではないような気がする。
現在、この地球を破壊しているのは、「人間の存在」ではなく、「人間が原罪的にもつ貪欲さ」が、原因ではないか、と。

 もし人間が、ほんの少しだけその貪欲さをコントロールできれば、地球を破壊しないですむかもしれない。
要するに、これは「頭の使い方」の問題であって、「存在」の問題ではない。

●「淘汰」というテスト

 が、こうも考えられる。
人間は、現在、宇宙的な規模で、テストされているのではないか、と。
飛躍した意見なので、驚く人もいるかもしれない。
が、ありえないことではない。

 もしどこかの惑星に、生物がいたとする。
その生物が、進化を遂げ、人間のような知的生物になったとする。
その生物は、やがて宇宙へと乗り出していくだろう。
ちょうど昔の船乗りたちが、海へ出て、つぎつぎと大陸を発見していったように、である。

そのとき、もしこれらの生物がみな、宇宙へ飛び出したとするなら、今ごろ、この宇宙は、東京の渋谷や新宿のようになっていたはず。
この銀河系だけでも、100万の「技術文明」が存在するという(「ドレイク方程式」)。

 つまり宇宙人だらけ!

 が、そうなったら、それこそ星間戦争が始まるかもしれない。
知的にすぐれているだけに、宇宙人たちがもつ武器も、それに比例して破壊力も大きくなる。
太陽くらいの星なら、一瞬にして消すこともできる。
そうなったら、宇宙全体が、危機に瀕する。

 そこで今、私たち地球人は、その「淘汰」というテストを受けている。
「宇宙へ飛び出す、宇宙人としてふさわしいか、どうか」と。

 地球が火星化し、知的生物がそこで絶滅する。
その資格がないなら、その時点で、絶滅する。
宇宙規模で生命を考えるなら、それも「あり」ということになる。
地球程度の惑星なら、それこそ掃いて捨てるほどある。

●本質的な問題

 人間が、科学、文化、芸術、教育、宗教……、ありとあらゆる英知を使って立ち向かうべきもの。
すべての英知の最終目標といってもよい。
それが人間が原罪的にもつ「貪欲さ」ということになる。

 この貪欲さの克服なしに、人間は、知的生物の地位を確立することはできない。
地球温暖化の問題も、いろいろな分野で議論されている。
しかしそれは言うなれば、各論。
それとも対症療法?
少なくとも本質的な問題ではない。
本質的な問題は、「貪欲さ」。
強欲さ。

この問題が残るかぎり、地球温暖化の問題は解決しない。
人間……ここまでくると、「人類」と書くべきだが……人間が絶滅するのも、しかたないということになる。
つまりまさに今、私たち人間は、宇宙的な規模でテストされている。

 英知をうまく結集できれば、私たちはこの宇宙で、宇宙人として生き残ることができる。
そうでなければ、「存在の意味」を失う。
その前の段階で絶滅する。

●ドラキュラ

 話が大きく広がってしまった。
再びドラキュラの話に戻る。

 中世のヨーロッパには、人間の血を飲む集団があったらしい。
カルト教団のひとつと考えてよい。
それがドラキュラの原点という説もある。
つまり「フィクション」。
作り話。
フィクションだから、その存在の有無を論じても意味はない。
日本の幽霊とかお化けと、同じ。
もし「存在の意味」があるとするなら、この日本にも、「いた」はず。
西洋だけにドラキュラがいたというのは、論理的に考えても、おかしい。

私「しかしどうして西洋人は、ああまでドラキュラが好きなのかねえ」
ワ「ホント!」と。

 日光に当たると、燃え出すとか、あるいは十字架を見せると、退散するとか、いろいろ考えていくと、矛盾だらけ。
論ずるのもバカらしいほど、矛盾だらけ。
娯楽映画は娯楽映画。
その範囲で楽しめばよい。
『フライト・ナイト』は、そういう映画。

 観れば、少しはボケ防止になる。
ここに書いたことを参考に、そのあと、何かの議論をしてみると、おもしろい。

 では、今朝はここまで!
これから義兄夫妻と山荘で、会食。
未完成な原稿だが、このまま掲載する。
ごめん!
(はやし浩司 2012-01-08記)

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【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【新・家族論byはやし浩司】(「家族崩壊(申京淑)」をどう考えるか)

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今、「家族崩壊」が、急速に進んでいる。
少子化だけが原因ではない。
日本人の意識が、180度、逆転してしまった。
なぜか。
またこの問題について、私たちはどう考えたらよいのか。

+++++++++++++++++++++++++++

●快晴

 今日は快晴。
山荘へ行く途中、富士山が見えた。
濃紺の山々の向こうに、白い頂(いただき)が、見えた。
この浜松でも、富士山が見える日は、めったにない。

●山荘へ

 車は今、我が山荘へと向かっている。
自宅から、35~40分。
場所はxx町。
xx山の中腹あたりにある。

 ……その昔、そのあたりをワイフと2人で歩き回った。
そしてたどりついたのが、現在の山荘あたり。
一目見て、「ここだ」と。
そこに私たちの夢を「建てる」ことにした。

 が、それからがたいへんだった。
地主が、なかなか「うん」と言ってくれなかった。
時折しも、バブル経済。
月ごとに、土地の価格は上昇していた。

●山荘

 結局、小山だが、一山買うような形になった。
宅地らしい形はできていたが、山は山。
それからというもの、つまり買い取ってからは、私たちが自ら造成した。
土日ごとに、ユンボを借りてきた。
それで造成した。

 以来、26年以上。
宅地造成に6年。
建築に半年。
家だけは、地元の建築会社に頼んだ。
「一条工務店」(会社名)といって、地元でも、もっとも信頼のおける建築会社だった。
「山荘だからといって、ぜったいに手を抜かないでほしい」が、私が出した条件だった。

●義兄夫婦

 今日はその山荘に、義兄を招待した。
「一席、もうけますから」と。
義兄は、喜んでそれに応じてくれた。

 ……義兄夫婦といっても、ワイフにとっては、両親的存在。
ワイフは4歳のとき、母を亡くしている。

●会食

 会食といっても、大げさなものではない。
仕出し屋で頼んだ弁当。
それを4人で食べた。
弁当はいつも、市内の一兆庵で頼んでいる。
四季折々の弁当を届けてくれる。
味もよく、値段も良心的。

●成人式

 今日は成人式。
忘れていた。
義兄の孫が、その成人式を迎えた。
義兄夫婦は、孫の話をしながら、うれしそうだった。
が、ここで待ったア!

 「今の若い人たちは、ぼくらの青年時代とは、ちがうね」と義兄。
誤解がないように言っておく。
その話題を持ち出したのは、義兄のほうだった。

●仕送り

 義兄は、現在、76歳。
その義兄も、ボーナスを手にすると、毎年、全額、親に送っていたという。
当時はそれが常識だった。

 私もそうしていたし、つづく世代の人たちも、みな、そうしていた。
が、それが今は逆転した。
成人式の祝いをするのも、ジー様、バー様だそうだ。
孫に祝い金(おひねり)を渡すのも、ジー様、バー様だそうだ。
「どうして?」と私が聞くと、「今の若い人は、貧乏だから」と。

●ワーキング・プア

 貧乏ではない。
目いっぱいの生活をしている。
だからいつも、お金が足りない。
車にパソコン、マンションに家具一式……。
だから貧乏?

 足りなくなると、親にせびる。
「車を買う金がないから、貸して」と。
返済計画をプリントアウトして、もってきたりする。
親だましの小道具。
しかし返す気は、最初からない。

●甘やかし
 
 どうしてここまで変わったか。
親子の立場が、逆転したか。
いろいろな説がある。

 が、基本的には、(甘やかし)。
それが世代間の意識を、逆転させた。
今の若い人たちは、「親にしてもらう」のが、当たり前と考える。
もう20年も前のこと。
そのころ書いた本に、こんな話を書いた。

 ある母親が、臆面もなく、私にこう言った。
「生活費が足りないので、毎月、親に援助してもらっています」と。

(この話とて、20年前の話だぞ!)

●生活費は7分の5

 そういう話になると、話題が尽きない。
こんな例もあるという。

 その若夫婦は、毎週、土日は、夫の実家で過ごすという。
さぞかし親孝行夫婦と思いきや、中身はそうでない。
その若夫婦は、土日を実家で過ごすことによって、食費や生活費を浮かしていた。
つまりそうすれば、生活費は、土日分を除いて、7分の5ですむ。
(7分の2は、実家の両親が負担する。)

 ついで孫の世話を両親に押しつけ、自分たちは遊び放題。

●孫はかわいい?

 そうは言っても、孫が、「ジイジ……」「バアバ……」と寄ってくると、かわいい。
ほろっとする。
ほろっとして、「何か買ってやろうか」となる。

 が、ここでも待ったア!

 サイコパス(サイコパシィ)という言葉を聞いたことがあるかと思う。
反社会的人格のひとつ。
精神病質のひとつと考えられている。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『……サイコパスは社会の捕食者(プレデター)であり、生涯を通じて他人を魅了し、操り、情け容赦なく我が道だけをいき、心を引き裂かれた人や期待を打ち砕かれた人、財産を奪われ尽くした人を後に残して行く。
良心や他人に対する思いやりに全く欠けており、罪悪感も後悔の念もなく社会の規範を犯し、人の期待を裏切り、自分勝手に欲しいものを取り、好きなように振る舞う』(ウィキペディア百科事典)と。

 そのサイコパスは、大別して、先天的なものと、後天的なもの(ソシオパス)に分けて考える。
後天的というのは、『親の育て方など』(ウィキペディア百科事典)によるものとされる。

 そのサイコパス(サイコパシー)とはちがうが、似ている部分もないわけでない。
たとえばあなたが孫に、高価なプレゼントを買ってあげたとする。
あなたはそのとき、「孫は喜んでいうはず」「感謝しているはず」「孫との絆(きずな)は太くなったはず」と考える。
しかし孫は、そうではない。
ひょっとしたら、こう考えるかもしれない。

 「しめしめ……うまくやった」「このジジーは単純だから、ちょっと甘えれば何でも買ってくれる」「もっと高価なものを買わせてやろう」と。

 こうしたものの考え方が、(そういうふうに考える孫は少数派と信じたいが)、どこかサイコパス(サイコパシー)的。
ものの考え方が、捕食的。

●欲望の渦

 実は、私たち老人組は、その愚かなことをしてしまった。
「子どもには、つらい思いや、ひもじい思いをさせたくない」と。
「貧乏で苦労させたくない」とか、「もっと楽しませてやりたい」とか、そんなふうに考えた人も多いはず。

 さらに戦後のあの物質文明の中で、自分を見失ってしまった。
「より高価なものを買ってやれば、親子の絆(きずな)も、その分だけ太くなる」と。
結果、子どもの周辺には、モノがあふれた。

 が、もちろん弊害も現れた。
物欲の追求に慣れた子どもたちは、物欲的に自分を満足させることを、「善」とした。
……というのは書き過ぎかもしれない。
しかし「子どもたちが欲望の渦の中で、溺れてしまった」というのは、それほどまちがっていない。

●恋愛至上主義

 戦後の日本は、当然のことながら、アメリカ文化の影響を強く受けるようになった。
その第一が、恋愛至上主義。
「恋愛こそが人生の一大事」と。

 現在の若い人たちは、「恋愛」を人生の柱に据えた。
「恋愛が、すべて」と。
映画『タイタニック』を例にあげるまでもない。
が、そんな程度のことなら、街中をうろつくイヌやネコでもしている。
イヌやネコでもしていることをしながら、「これが人間だ」と。

 まちがっているというより、馬鹿げている。
だから今では、自分たちの結婚式の費用ですら、親(ジー様&バー様)が負担する。
で、あとはお決まりの、「家族偏愛主義」。
「仕事より家族」と。

 それがまちがっているというのではない。
私たちの世代は、仕事のために家族を犠牲にした。
その反動が、行きすぎてしまった。

●反射的弊害

 昔は、「家族」というと、そこにはかならず、祖父母の姿があった。
祖父母がいて、両親がいて、そのつぎに子どもがいた。
が、今は、ない。
若い人たちが「家族」というときは、自分たち夫婦と、その子どもだけをいう。
目が下ばかり、向いている。

 だから今、その反射的弊害として、老人問題が起きている。
独居老人はふえ、孤独死、無縁死は、当たり前。
この先、60%の老人が、そういう死に方をするという。
介護施設にしても、100~200番待ちは、当たり前。
1~3年待ちも、これまた当たり前。

 私たち老人組だけの話ではない。
現在、40歳以上の人たちが、そうなる。

●限度

 わかりやすく言えば、私たち日本人は、限度を超え、子どもたちにやりすぎてしまった。
一億、総親バカ!
親バカなことをしてしまった。

 これは一例だが、子どものときから「勉強しろ」「勉強しろ」と子どもを追い立てるから、その責任を取らされる。
今では、(もう30年前からそうだが)、親に感謝しながら高校へ通う子どもなど、ゼロ。
大学生でもいない。
アルバイトをしている学生にしても、学費のためではない。
遊興費のため。
中には、「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する子どもすら、いる。

●大勢

 こういう現実を前にしても、まだ「うちの子はだいじょうぶ」とか、「うちの子にかぎって」と、はかない幻想にしがみついている親は多い。
が、子どもの先生は、子ども。
仲間。
あなたがいくらがんばっても、そこには限界がある。
大勢という流れの前では、あなたの抵抗など、激流に差した、竿のようなもの。
あっという間に、あなたの子どものその大勢の渦の中に、のみこまれていく。

 あなたの子どもだけが無事……ということは、ありえない。

●では、どうするか

 つまるところ、あのバートランド・ラッセルの言葉に行きつく。
バートランド・ラッセルは、こう言っている。

 それについて書いた原稿をさがしてみる。
一部内容がダブるが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●失われた存在感、父と母(「家族崩壊」の問題)(はやし浩司 2011-06-29日記)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++

韓国の作家、申京淑氏の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという(韓国・東亞日報)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。

『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろう
か」という質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感す
ることが、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。

ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではなく、「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
この浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、
戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)と。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。

『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時も『ごめんね』という言葉を聞かされて育った。
私たちが当たり前のように耳にしながら育った。
この言葉は、いざ両親に対しては、かけたことがない。
言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)と。

つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。

申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。
今朝は、この問題について考えてみたい。
2011/06/12

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

●保護と依存性

 日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではな
い。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。

 が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。

 ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

 以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2,30年後に許してやる」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。

 その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎月のように、お金を借りに来ました。

『車を買うから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
100万円でした。

『自動二輪の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう5年になります」と。

 この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(話)を書くときは、その本人とわからないように書
く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいはフィクションを混ぜて書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。

 家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。

●家族崩壊

 申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。

 そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
たとえばオーストラリアでは、どんな小さな町にも、「オールドマン・ビレッジ(Old Men's Village)」というのがある。
老人たちは、そこに集まって生活をする。
たいてい町の中心部にある。
幼稚園や小学校の近くにある。
 
 そのビレッジで自活できなくなったら、その横の、日本で言う「特養」へ移動する。
わかりやすく言えば、「家族崩壊」を前提として、社会のしくみが、完成している。
フランスでも、事情は同じである。

 が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてし
まった」。

 前にも書いたが、こうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年
以上、会っていません」と。

●2つの解決策

 家族崩壊に対して、2つの解決策がある。
ひとつは、予防。
もうひとつは、事後対策。

 予防というのは、「親の存在感」の復権ということになる。
たとえば私たちが子どものころは、魚でも、いちばんおいしい部分は、祖父母、つぎに父親。
私たち子どもは、そのつぎの部分を口にした。
テレビ番組でも、祖父母が、「これを見たい」と言えば、私たちは何も言えなかった。
(それでもチャンネルを取りあって、結構、喧嘩をしたが……。)

 が、今は逆。
魚でも、いちばんおいしい部分は、子ども。
つぎに父親であり、母親。
祖父母と同居している家庭は、ほとんど、ない。
また同居していても、祖父母が口にするのは、(残り物)。

 つまり「復権」というときは、根本的な部分から、一度、ひっくり返すことを意味する。
が、今となっては、それも手遅れ。
親自身が、すでに、「親の存在感」を喪失している。

 で、事後対策。
今が、そのとき。
できること、やるべきことは、山のようにある。
そのヒントが、バートランド・ラッセルの言葉。
イギリスのノーベル文学賞受賞者。
家族崩壊を、とうの昔に経験したイギリスの哲学者である。
いわく、

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、
けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』
と。

●3つのポイント

 順に考えてみよう。

(1)子どもたちに尊敬される
(2)子どもたちを尊敬する
(3)必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない
 が、現実は、きびしい。

★父親のようになりたくない

 平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、
「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、
「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。

★親のめんどうをみない

第8回世界青年意識調査(2009)によれば、「将来、親のめんどうをみるか?」という質問に対して、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた若者は、
 
 イギリス  66.0%、
  アメリカ  63.5%、
  フランス  50.8%、
  韓国    35.2%、
  日本    28.3%、であった。
 
もう何もコメントする必要はない。
ここにあげた数字をじっと見つめているだけでよい。
それだけで、「家族崩壊」というのが、どういうものか、わかるはず。
同時に、今、私たちが親としていることの(愚かさ)に気づくはず。

●あなた自身のこと

 こう書くと、若い父親や母親は、こう言う。

「私たちの世代は、だいじょうぶ」
「私は子どもたちの心をしっかりとつかんでいる」
「私たち親子は、強い絆で結ばれているから、問題はない」と。

 が、そう思っている親たちほど、あぶない。
またここに書いたことは、50代、60代の私たちのことではない。
30代、40代の、若い親について書いたことである。
つまりあなた自身のことである。
それに気がついていないのは、あなた自身ということになる。

 では、どうするか?
結論は、すでに出ている。

『必要な訓練は施すけれども、けっして程度を越えない』(バートランド・ラッセル)。

 子どもに尊敬されようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)
子どもを尊敬しようなどと、思わないこと。
またその必要もない。(この日本では……。)

 へたに子どもに媚(こび)を売るから、話しがおかしくなる。
親は親で、親としてではなく、1人の人間として、好き勝手なことをすればよい。
自分の道を生きればよい。
子育ては重要事だが、けっしてすべてではない。
また(すべて)にしてはいけない。
それが『けっして程度を越えない』ことに、つながる。

 先日も、「ファミリス」(静岡県教育委員会発行雑誌)上で、こんな相談を受けた。

「子どもが勉強しない。どうしたらいいか」と。
それに答えて私はこう書いた。

 「子どもの勉強の心配をする暇があったら、自分の老後の心配をしなさい」と。
へたに「勉強しろ」「勉強しろ」と言うから、親はその責任を負わされる。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と豪語する学生すらいる。
そういう子どもが社会へ出れば、どうなるか。
たぶん、こう言うようになる。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 本末転倒 家族崩壊 はやし浩司 家族崩壊 家庭崩壊 保護と依存 はやし浩司 ラッセル 父親のようになりたくない 親のめんどうをみる)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●良縁?

 かなりネガティブな意見を書いた。
もちろん中には、すばらしい(?)親子関係を築いている家族もいる。
が、その(すばらしさ)も、見方を変えると、一転する。

たとえばある母親は、自分の娘が、地元の会社に勤める男性と結婚したことを、「良縁、良縁」と言って、喜んでいた。

 たしかにその母親にしてみれば、そうかもしれない。
「男を取ってきた」ということになる。
が、相手の親、つまり婿の親は、どうなのか?
その母親が「良縁、良縁」と騒げば騒ぐほど、相手の親にとっては、「悪縁」。
つまりこのあたりに、「家族論」の限界がある。

 新年を迎え、すでに8日が過ぎた。
義兄と話しながら、こう思った。
「今夜、家に帰ったら、もう一度、家族論について考えてみよう」と。

 それがこの原稿である。
子育てのあり方を見つめなおす、ひとつのきっかけになればうれしい。
もちろん、あなた自身の子育てが、うまくいくことを願いながら……。

●義兄と……

 義兄はこう言った。

「こうした問題は、この先、何世代もつづくでしょうな」と。

 私も、そう思う。
一度緩んだネジは、簡単には元には戻らない。
韓国の申京淑は、「家族崩壊」という言葉を使った。
欧米化といっても、それが正しいわけではない。
そこに至るには、それにふさわしい社会制度の整備が必要。
欧米では、そうした周囲制度が、すでに整っている。
家族崩壊を前提とした社会が、整っている。
が、この日本では、そうでない。

 私たちの世代はそれでよいとしても、つぎの世代、さらにそのつぎの世代……。
苦労するのは、そういった世代ということになる。

 私たちは自ら、自分の首を絞めてしまった。
つぎの世代は、さらに強く、自ら自分の首を絞めることになる。
「自分たちは、自分の親のようにはならない」と言いつつ、さらに悲劇的な家族崩壊を経験する。
「自分たちは、すばらしい家族を築く」と言いつつ、さらに悲劇的な家族崩壊を経験する。

 中には、「私たち若者を、ここまでけなすことはないだろう」と怒る人もいるかもしれない。
その(怒り)はよく理解できる。
しかしもちろん、私はそれを願っているわけではない。
若い人たちは若い人たちで、すばらしい人生を送ってほしい。
そのヒントになればと思い、あえて『新・家族論』(家族崩壊)について書いてみた。
若い人たちは、私たちが犯した「愚」を、けっして繰り返してはいけない。 

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