2012年2月9日木曜日

*Metacoginitive Ability

【メタ認知能力】byはやし浩司 2012-02-07日編

●私を知るために

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 今朝は、午前4時に目が覚めた。
しばらくそのまま目を閉じていた。
が、そのうち、GIVE UP!

起きるとすぐランニングマシンに。
30分の運動。
ほどよい汗が、全身を濡らした。
で、そのまま書斎に。

肌で感ずる生暖かい風。
時おり屋根を打つ、はげしい雨。
今日も始まった。

2月07日。
午前5時。

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●活動開始

 昨日、大きな講演会の申し込みが、ひとつあった。
8月x日。
8月!

 こういう寒い日々がつづくと、8月の、あの暑さが恋しい。
本当に、今年も夏が来るのだろうか。
そんな思いが、ふと、心の中を横切る。
……というか、それまで無事、生きているだろうか。
そんな心配も、同時に心の中を横切る。

 が、今、こう決めた。
「どんなことがあっても、8月まで、生きていよう」と。
(少し悲観的すぎるかな?)
その日に合わせ、体力と気力を整える。
毎日の運動と精進(=もの書き)を怠らない。
その講演を目標とし、前に向かって進む。

●恋愛

 先日、恋愛について、エッセーを書いた。
その中で、こう書いた。

同じ「愛」という言葉を使うが、若い人がする恋愛は、「愛」ではない。
愛と思い込んでいるだけ。
辛らつな言い方をすれば、「ベッドの上で、裸になってからみあう」、
それを若い人たちは、「愛」と錯覚している、と。

が、そんなことなら、そこらのイヌやネコでも、している。
そこらのイヌやネコでもしていることをしながら、「愛」と。
バカバカしい……。
(だからといって、恋愛を否定しているわけではない。誤解のないように!)

●子育て

 子育てについても、同じ。
若い父親や母親は、それが一大事とばかり、子育てをしている。
(一大事には、ちがいないが……。)
しかしその中身と言えば、本能に操られているだけ。
(だからといって、子育てを否定しているわけではない。誤解のないように!)

 最近の脳科学によれば、こういうこと。
あの赤ん坊ですら、無意識のうちに、親ごころを誘導しているということがわかってきた。
あの赤ん坊が、だぞ!
(もちろん無意識だろうが……。)
自分をかわいく見せ、親ごころを自分にひきつける。
乳児が見せる「エンゼルスマイル」もそのひとつと言われている。

 言い換えると、親はその赤ん坊に操られる。
操られるまま、「かわいい」と思う。
頬ずりする。
同時に自分の中に潜む、本能に操られる。
操られるまま、「かわいい」と言っては、子どもを抱く。

 さらに……。
このとき母親の脳内では、何かの麻薬を服用したときのような反応が起きるという。
つまり甘い陶酔感に襲われる。

そういう相互作用があり、親は子育てをする。
子どもは、親に育てられる。
子孫が後世に残される。

●メタ認知能力

 が、本能は本能。

だからといって、ブレーキをかける必要はない。
赤ん坊をかわいいと思いたければ、思えばよい。
子育てをすればよい。
(それがまちがっているというのではない。誤解のないように。)

 ただ人間というのは、そのつど、本能に操られて生きている。
無意識の世界からの命令だけに、本人がそれに気づくということは、まずない。
ないが、それに気づくかどうかによって、「私」の見方が大きく変わってくる。

つまりこういう自分を超えた視点に自分を置き、自分をより高次な立場で見る。
これを「メタ認知」というが、この地球上では、人間だけがそれをできる。
その能力を、「メタ認知能力」という。

 「メタ」というのは、「高次な」という意味※。
「メタ認知」は、英語では、「Metacognitive」という。

ウィキペディア百科事典には、こうある。

『メタ認知(メタにんち)とは認知を認知すること。
人間が自分自身を認識する場合において、
自分の思考や行動そのものを対象として、
客観的に把握し認識すること。
それをおこなう能力をメタ認知能力という』と。

ウィキペディア百科事典にケチをつけるのも気が引ける。
が、少し意味がちがうのではないか。
「メタ認知」というのは、「無意識下における自分の思考や行動を、客観的に知ること」。
私はそういうふうに、解釈している。
またそういうふうに解釈すると、意味がよくわかる。

(注※……「meta…英語の meta- は、後から(after)、超えて(beyond)、共に(with)、変化(change)などのニュアンスを持つ接頭語です。
「それまでの機能に加えて、後から機能を追加するためのもの」といった意味でしょうか」(Yahoo辞書))より。

●知的能力

 メタ認知能力は、学習と訓練によって養われる。
もちろんそれを身につけるためには、それなりの知識と、知的能力が必要である。
理性や知性が、大きく影響する。
言い換えると、本能に溺れるまま行動している人には、自分の姿が見えない。
私は私と思いながら、私でない部分に振り回される。

 先に書いた、若い人たちの恋愛にしても、そうだ。
若い父親や母親の子育てにしても、そうだ。
(だからといって、それがまちがっていると言っているのではない。誤解のないように!)

 が、自分の中に潜む本能を客観的に知るだけでも、「私」に対する見方が大きく変わる。
同時に「私」が何であるかが、よくわかるようになる。

●妄想性人格障害者(パラノイア)

 たとえば私には、妄想性人格障害的な傾向がある。
「パラノイア」ともいう。
ものの考え方が、どこか独裁者的?
あくまでも自己診断だが、私は、そう判断している。

(この自己診断が正しいかどうかということは、問題ではない。
「そういう傾向がある」というだけ。
またそのようにして、あれこれと自分を疑ってみることは悪いことではない。
そのつど、私は私をよりよく知ることができる。)

たとえば、私はひとつのことにこだわり始めると、脳内が一気に、不安定になる。
妄想が充満する。
不安や心配が、どっと大きくふくらみ、自分でも収拾がつかなくなる。
他人を信用しない。
疑り深くなる。
「パニック障害」とちがうのは、身体的症状を伴わないこと。
精神状態だけが、きわめて不安定になる。

 もちろん症状にも軽重がある。
まただれにも、そういった症状はある。
だからといって、「おかしい」とか、「欠陥人間」と決めつけてはいけない。
(私も、私のことを、そのように思っていない。誤解のないように。)

 が、それが私の弱点でもあり、欠点でもある。
パニック状態になると、大声で叫んだり、わめいたりする。
が、そんなときでもメタ認知能力があれば、自分を客観的に判断することができる。
「ああ、今の私はおかしい」と。

 そういう点では、メタ認知能力は、役にたつ。
自分をそのつど客観的に見ることができる。
それによって、自分をコントロールすることができる。
まずいのは、そういう「私」に気づかず、同じ失敗を繰り返すこと。
そこでこんなことを診断してみるとよい。

(1) いつも同じ失敗(トラブル)を繰り返す。
(2) そのつど、「二度としない」と心に誓う。
(3) が、時間がたつと、また同じ失敗(トラブル)を繰り返す。
 
 相手が配偶者であろうが、友人であろうが、知人であろうが、それは問題ではない。
ほとんどの人は、私であって私でない部分に、大きく操られている。
その原因がわかるだけでも、こうした失敗(トラブル)を未然に防ぐことができる。
「すぐに……」というわけにはいかない。
しかし時間が解決してくれる。

そのためにも、つまり「私」を知るためにも、心理学は、たいへん役に立つ。

(注※……『妄想性人格障害』について、ウィキペディア百科事典には、以下のようにある。

「この症状は、拒絶・憤慨・不信に対して過剰な感受性を示すとともに、経験した物事を歪曲して受け止める傾向に特徴がある。
普通で友好的な他人の行動であっても、しばしば敵対的や軽蔑的なものと誤って解釈されてしまう。
本人の権利が理解されていないという信念に加えて、パートナーの貞操や貞節に関する根拠の無い疑いであっても、頑固に理屈っぽく執着する。
そのような人物は、過剰な自信や自己指示を誇大にする傾向がある。
なお、この文脈で『偏執病』(パラノイア)という用語が意味するのは、単なる妄想や精神病の存在ではなく、人々に対する猜疑心や不信が理由もなく進行中であることを意味している」(以上、ウィキペディア百科事典より)。

●性Yからの解放

 もう何度も同じことを書いて、申し訳ない。
また同じことを書く。

……私は55歳前後に、「男の更年期」なるものを、経験した。
男性にも更年期があるかどうかという議論もある。
そうした議論は別として、そのころ私は、性YOKUから解放された。
(BLOGによっては、「禁止用語」というのがある。
ここでは「性YOKU」と書く。
「YOKU」というのは、「欲」のこと。
以下「性Y」と表記する。)

 最初にそれに気がついたのは、どこかのレストランで、雑誌を読んでいたときのこと。
巻末に、女性の裸の写真が載っていた。
かなりきわどい写真だった。
そのときのこと。
いつもなら、じっと見入るはずの私だったが、そのときは、ちがった。
その女性が、脂肪の塊(かたまり)のように見えた。
言葉はきついが、「ラード(脂身)」の塊ように感じた。
同時に、こうも思った。
「どうして今まで、こんな写真を見たがっていたのだろう」と。

 性Yからの解放というのは、それをいう。
とたん、脳の中を実にさわやかな風が流れるのを覚えた。

●性的エネルギー
 
 あのフロイトは、たいへんおもしろいことを言っている。
「人間を原点で動かしているのは、性的エネルギーである」と。

 この言葉は、若いころから知っていた。
が、それを実感したのは、そのときだった。
恐らくフロイトも、ある年齢で、私と同じ経験をしたにちがいない。
伝説によれば、フロイトはかなりの好色漢だったという。
それだけに、よけいに大きな落差を感じたにちがいない。
そして気がついた。

 「今まで私を動かしていたのは、性的エネルギーである」と。

 これは私の勝手な解釈によるものだが、それがそのとき、よくわかった。
はっきりとした輪郭(りんかく)をともなって、よくわかった。

●講演の感想

 話題を変える。

 こんなメールが届いていた。
それを紹介するのは、どこか自慢たらしい。
よくわかっている。
が、うれしかったので、原文のまま、紹介する。

『本日の教育講演会、ありがとうございました。
本校の教頭が、授業で講演会に出られなかった先生方に
自慢のように先生の話をしていました。
担任はなかなか時間がとれないのでつらいところでありますが、
大目的である保護者の方には充分に時間を取ることができました。

あんなに保護者の方々が大きな声で笑ったり、うなずいたり、
自分を振り返ったりする姿は初めて見ました。

楽しい時間、すばらしい時間ほどあっという間に過ぎてしまいます。
私も本日お聞きしたことを、今とこれからの子どもたちにぶつけて
いきたいと思います。

今後とも、よろしくお願いします。
本日は本当にありがとうございました』(K市O小学校、主幹S先生より)と。

●ハゲタカ!

 もうひとつ、話題を変える。

 「ヘッジファンド」と呼ばれる、訳の分からない組織がある。
平たく言えば、マネー(現金)そのものを売買する組織。
モノ(商品)を売買するように、彼らはマネーを売買する。
おかしな組織だが、その組織が、世界の表舞台を今、堂々と渡り歩いている。

 今度のギリシャの金融危機に際しても、大量のギリシャ国債を買い入れている。
ならば、ギリシャがデフォルト(債務超過=国家破綻)すれば、損をするはず。
……と、だれしも考える。

 が、ヘッジファンドは、損をしない。
デフォルトも予想しながら、ちゃんと保険をかけている。
「クレジット・デフォルト・スワップ」(CDS)というのが、それ。
万が一、ギリシャがデフォルトしても、元本は保証される。
金融派生商品のひとつ。

 わかりやすく言えば、ギリシャ国債を購入するに際し、購入先の銀行から同時に、CDSを購入する。
だから今度のギリシャの金融危機でも、ヘッジファンドだけは、涼しい顔をしている。
前例がないわけではない。
10年ほど前、アルゼンチンがデファルトしたとき、ヘッジファンドだけは、大儲けした。

 つまりハゲタカ!

 が、その分だけ、CDSを販売した銀行団が、大損を被(こうむ)ることになる。
大損を被った分だけ、ヘッジファンドは儲ける。
が、問題は、それだけではない。
各国がいくら会議を重ねても、ヘッジファンドだけは、それを拒否している。

EU「ギリシャの借金を、7割棒引きにしてやってくださいよ」
ヘッジ「いやだね」
EU「そんなこと言えば、ギリシャが破綻してしまいます」
ヘッジ「ハハハ、私は構いませんよ」と。

 ここでへたに救済策に加担すれば、それこそ利益が吹き飛んでしまう。
ヘッジファンドにしてみれば、ギリシャをデフォルトさせ、その分、銀行団から、保証金を得たほうが得。
だから、ハゲタカ!

 が、これは日本の近未来像でもある。
すでに世界のヘッジファンドは、この日本を標的にし、動き出している。
「つぎは日本!」と。
が、こんな連中が、堂々と渡り歩いているところが、へん。
異常。
資本主義体制の矛盾が、ここに集約されている。

 コツコツとまじめに働いている人たちがいる。
わずかな給料で、何とか生き延びている人たちがいる。
が、その一方で、パソコンの画面をながめながら、一国の破綻を、今か、今かと楽しみにしている連中がいる。
扱う金額も、ハンパではない。
今や、1兆円単位!

 こんなことが許されてよいのか?
……ということで、話を戻す。

●依存性による魔力

 最近、こんなことをよく考える。
題して、「依存性による魔力」。

 もう少しよいネーミングがつけられないものかと思うが、私は苦手。
たとえば横文字で、「サイコパシー」という言葉がある。

(簡単に言えば、親切な人に出会ったりすると、その人を金儲けのカモととらえる。
心のゆがんだ人のことを、「サイコパシー」という※。)

そういうようなネーミングができたらよい。
そのサイコパシーと、ここでいう「依存性による悪魔」は、どこか共通している。
こういう例で、説明してみよう。

(注※……精神病質のひとつ。反社会性をもつことで、よく知られている。)

●線条体

 その前に、欲望論について。
「欲望」は、線条体に受容体と作りやすい。
その受容体ができると、条件反射的に、欲望を満たしたくなる。
よく知られた例に、アルコール中毒やニコチン中毒がある。

 これらの人たちは、ビールのコマーシャルを見ただけで、ぐいとビールが飲みたくなる。
どこかでタバコのにおいを嗅いだだけで、タバコを吸いたくなる。

 受容体は、子どもほど、できやすい。
たとえば、買い物依存症。

このタイプの人(子ども)は、それが必要だから、それを買うのではない。
「買いたい」という衝動が先に起き、そのものを買う。
ゲーム中毒の子どもが、新しいゲーム機やソフトを、狂ったようにほしがることがある。
それが、その1例ということになる。 

 ……だから、子どもには、安易にものを買い与えないほうがよい。
買い与えることで、子どもの中に中毒性が生まれる。
……という話は、この世界では、常識。
ここではもう一歩、この話を先に進めてみる。

●お人好しの祖母

 一度、この受容体ができると、常識的な感覚が通用しなくなる。
たとえば、こんな例で考えてみよう。

 どこかにお人好しの祖母がいたとする。
(祖父母というのは、たいていお人好しだが……。)
その祖母が、孫の子どもに、数万円もするゲーム機器を買い与えたとする。
(よくあることだが……。)

 こういうとき、買ってやった祖母は、こう思う。
高価なものを買ってやったのだから、孫は感謝しているはず、と。
またそれによって、たがいの絆(きずな)も太くなったはず、と。

 ふつうの常識で考えれば、その祖母の思いは正しい。
しかしそのとき、孫である子どもに、受容体ができていると、そうはいかない。
高価なゲーム機器を買ってもらった子ども(孫)は、こう思う。

「しめしめ、うまくいった。
このバーちゃん、甘いぜ。
うまくだませば、もっと高価なものを買ってもらえる」と。

 依存性がベース(基本)になっているから、「買ってもらって当然」と考える。
もちろん感謝などしない。
それで絆が太くなるということもない。

 これが、私がいう、「依存性による魔力」である。

●ドラ息子

 依存性というのは、そういうもの。
一度、保護、依存の関係ができると、それを断ち切るのは、容易なことではない。
それがその人の常識になる。

 先日も、私が書いたBLOGにこんなコメントが付いた。

「……親が、息子(娘)に老後のめんどうをみてもらいたかったら、息子(娘)に、そう頼めばいい」
「私は自分の子どもは、親のめんどうのことで、束縛したくない」(千葉県、E.H.氏より)と。

 若い父親らしいが、少なくとも私のもっている常識とは、180度ちがう。
それに驚いた。

その第一。
「親が、息子(娘)に頼め」という部分。
ドラ息子、この一言に、極まれり。

 その第二。
子どもが親のめんどうをみることを、この父親は、『束縛』ととらえている。
親は子どものめんどうをみる。
しかし子どもに、親のめんどうをみさせることは、束縛、と。
もう一度、繰り返す。
ドラ息子、この一言に、極まれり。

 こんな息子(娘)に、自分の老後のめんどうをみてもらいたい思う親は、い・な・い。

 そう言えば、昔、こんな高校生がいた。
「老人のような役立たずは、早く死ねばいい」と。
そこで私が、「君だって、いつかは、その老人になるんだよ」と話すと、その高校生はこう言った。

「ぼくは、それまでにうんとお金を稼いでおくからいい。
みんなに、迷惑をかけないからいい」と。

●「結婚式をやってやる」

 問題は、そういう子どもがいるということではない。
どうしてそういう子どもになるか、だ。
その理由の第一が、先に書いた、「依存性による魔力」である。

 保護、依存の関係が常態化すると、常識が狂う。
保護してもらうのが当たり前、依存するのが当たり前という、ものの考え方をする。
ある息子氏は、親にこう言った。

「地元で結婚式をやってやるから、結婚費用を出せ」と。
「地元で結婚式をやってやるから、感謝せよ」と。
(息子が親に、感謝せよと言ったんだぞ!)

 また20年ほど前のこと。
こう言った高校生がいた。
「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と。

 私はその言葉に驚いた。
驚いて、当時書いた本の中で、それについて書いた。
が、当時は、このタイプの子どもは、まだ少数派だった。
が、今は、逆転した。
むしろここに書いたような若い人たちのほうが、多い。

●修復は不可能

 が、問題は、さらにつづく。

 一度、こうした親子関係(人間関係)になると、それを修復するのは、ほぼ不可能。
親の方は、「肉親だから……」という幻想をもちやすい。
「そうは言っても、親子だから……」と。

 が、息子(娘)のほうは、そうでない。
むしろ、逆。
親が死んでからも、してもらわなかったことを、恨む。
こう言った女性(当時、40歳くらい)がいた。

 「私は結婚するとき、親から1円も出してもらえなかった。
どうしてそんな親の墓参りをしなければならないのか」と。

●殺伐とした人間関係

 殺伐とした人間関係。
現在の親子関係を、一言で表現すればそうなる。
子どもたち自身が、ドラ息子、ドラ娘になりながら、それに気づいていない。
ちょうどバブル経済が、華(はな)やかりしころ。
その時代に、今の若い人たちは生まれた。

 生まれると同時に、「蝶よ、花よ」ともてはやされた。
飽食とぜいたくの中で、幼児期から少年少女期を過ごした。
苦労を知らない。
「ひもじい」という言葉の意味すら、知らない。
食べ物にしても、それがあるという前提で、生きている。

●団塊の世代 

 さらにショッキングな事実がつづく。

 私は、昭和22年生まれの団塊の世代。
強く意識したわけではないが、(……というもの、あくまでも結果論にすぎないので)、私たちの世代は、みなこう思っている。
「日本の繁栄を築いたのは、私たちの世代」と。

 しかし現実は、ちがう。
現在の若い人たちは、そうは思っていない。
むしろ、逆。
「日本の繁栄を破壊したのは、団塊の世代」と。

 こうした意識も、私たちの意識とは、180度、ちがう。
現在の若い人たちは、(繁栄)を前提として、生まれ、育った。
つまりこの日本は、奈良時代の昔から、(江戸時代でもよいが)、リッチだった。
それをつぶしたのが、団塊の世代、と。

●意識調査

 こうした事実を、如実に表しているのが、内閣府(総理府)による、意識調査である。
何度も取りあげているが、もう一度、ここに掲載する。
(2012年1月記)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ゴミ?

 少し前、「ジジ・ババ・ゴミ論」について書いた。
私が「ゴミ」という言葉を使っているのではない。
若い人たちの書くBLOGに、そう書いてある。
最近の若い人たちの老人論には、辛らつなものが多い。
「老害論」から「ゴミ論」へ。
まさかと思う人がいたら、一度、若い人たちのBLOGに目を通してみるとよい。

 それについては、もう何度か書いてきた。
ここでは「なぜ?」について、書いてみたい。
なぜ、私たちはゴミなのか?

●「将来、親のめんどうをみる」

 「将来、どんなことをしてでも、親のめんどうをみる」と答える、日本の若い人たちは、世界でも最下位。
総理府、それにつづく内閣府が、数年おきに、同じ調査をしている。
「青少年の意識調査」というのが、それである。
それによれば、つぎのようになっている。
(第8回青年意識調査:内閣府、平成21(2009)年3月)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

●年老いた親を養うことについてどう思うか

「どんなことをしてでも親を養う」

   イギリス66.0%、
   アメリカ63.5%、
   フランス50.8%、
   韓国35.2%、
   日本28.3%
(平成9年、総理府の同調査では、19%。)

 日本の若い人たちの意識は、28・3%!
アメリカ人の約半分。

 「親孝行は教育の要である。日本人がもつ美徳である」と信じている人は多い。
しかし現実は、かなりちがうようだ。
今どき、「親孝行」という言葉を使う、若い人は、いない!

●「自分の子どもに老後の面倒をみてもらいたい」と思うか

『そう思う』:

   イギリス70.1%、
   アメリカ67.5%、
   フランス62.3%、
   日本47.2%、
   韓国41.2%

+++++++++++++++++++++++++++++++++

 平たく言えば、現代の若い人たちは、「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と考えている。
しかし「経済的に余裕のある若い人」は、ほとんど、いない。
どの人も、目一杯の生活をしている。
結婚当初から、車や家具一式は、当たり前。
中には、(実際、そういう夫婦は多いが)、結婚してからも親からの援助を受けている夫婦もいる。

金融広報中央委員会の調査によれば、現在、貯蓄ゼロ世帯は、23%。

全国約4000万世帯の、23%。
4世帯につき、約1世帯。

さらに生活保護を受ける世帯が、2011年度、最高数を記録した。
その数、150万世帯!

++++++++++++++++++++++++++++++

金融広報中央委員会の「家計の金融資産に関する世論調査(2006年)」によれば、
つぎのようになっている。

   20代は171万円、
   30代は455万円、
   40代は812万円、
   50代は1154万円、
   60代が1601万円、
   70歳以上が1432万円。

この調査は「20歳-79歳代の男女10,080人」を対象に調べたもので、
このうち貯蓄を持っているのは全体の、77・1%。
残りの22.9%は貯蓄ゼロ。

貯蓄ゼロの家庭は、年収が300~500万円未満でも21.1%。
500~750万円未満の家庭でも16.2%。

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 なお、団塊の世代についてみると、8・1%の世帯が、貯蓄ゼロとなっている(「格差脱出研究所」調べ)。
ただしここに載っている数字にしても、あくまでも、「平均」。
70歳以上だけをみても、中に数億円以上もの金融資産を保有している人たちがいる。
大多数の人は、400~500万円程度と言われている(某経済誌)。

 「親のめんどうをみる」と答える、若い人たちの減少。
それと反比例する形での、「ジジ・ババ・ゴミ論」。
両者を関連付けるのは、危険なことかもしれない。
しかし無関係とは、これまた言えない。

●それまでにあの世行き

 今さら、社会改革などというのは、不可能。
若い人たちの意識を変えていくというのも、不可能。
意識というのは、そういうもの。
10年単位、20年単位の年月がかかる。
それまで待っていたら、間に合わない。
(つまりそれまでに、私たちは、あの世行き!)

 だったら、私たちは私たちで、(つまり老人組は老人組で)、それを前提として生きる。
老後の生活を組み立てる。
その上で、よき息子、よき娘、よき孫に恵まれれば、もうけもの。
そう考えればよい。
期待が大きければ大きいほど、落胆する度合いも大きい。
だから期待しない。

●38年後

 悲観的な意見ばかり書いてきた。
これを読んでいる人たちも、暗い気分になったはず。
が、これは何も、私たちだけの近未来像ではない。
2050年には、この状況は、さらに悪化する。
今から、38年後。

 つまりあなたの年齢に、38歳を足してみればよい。
そうすればあなた自身も、それがあなたの近未来像ということがわかるはず。
そのころこの日本がどうなっているか。
経済誌を少しでも読んだことがある人なら、それがわかるはず。
が、経済はそうなってもしかたないが、もうこれ以上、心まで破壊してはいけない。
ただ私は、こんな時代はいつまでもつづかないと思う。
つまり繰り返す。

 悪い時代も繰り返すが、一方、よい時代も繰り返す。
それを望むわけではないが、日本もやがてドン底に叩き落とされる。
トイレもボットン便所になるかもしれない。
そこにたまった便で、野菜を育てるようになるかもしれない。
が、そのとき、再び、日本は再生の道を歩き始める。

 ドラ息子、ドラ娘……結局は苦労するのは、彼ら自身ということになる。

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 親の面倒 親のめんどう 総理府 内閣府 青年の意識調査 サイコパシー サイコパス 依存性という悪魔 ドラ息子 ドラ娘 はやし浩司 千葉県 E.H.EH 団塊の世代)


Hiroshi Hayashi+++++++Feb. 2012++++++はやし浩司・林浩司

 

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