2012年2月1日水曜日

*Sage my G-son sent me his Video

【誠司(孫)製作のビデオ】(はやし浩司 2012-02-01)



Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

朝、起きると、軽い頭痛。
風邪の頭痛らしい。
鼻水が出る。

で、布団の中でパソコンを立ち上げると、誠司(孫)が製作した
ビデオが届いていた(2012年02月01日)。

http://youtu.be/uZP3zb-r6FE

英語はよくわからないが、才能がキラリと光っていた。
子どももこの時期に、才能の「芽」を出す。
それがその子ども(人)の基本となることも多い。

かく言う私は、子どものころ、大工さんになりたかった。
毎日学校から帰ると、木工細工ばかりしていた。
それがどこかで狂い(?)、今の私になった。

誠司(孫)も、その才能を光らせはじめている。
そう感じた。
近く、近くのショップで、アニメが製作できるデジカメを探してみる。
以前、私も1台もっていたが、落とし、壊してしまった。

さて、今日から2月。
2月01日。
気合いを入れて、がんばろう!

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司


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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
凸/Σ▽乃q ・ ・ p ̄Σ▽乃 ̄` /
\   /(″ ▽ ゛)\    厂 ̄偶
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司   12年  2月  1日号
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2011年月8日1日現在……1552号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【冬休み】(今年は、遊ぼう!)

●第1日目

 昨日、岐阜県関市板取村にある、「山の宿・ひおき」に電話を入れた。
コテジ風の民宿である。
宿泊を申し込もうとしたが、「冬の間は、やっていません」とのこと。
つまり休業中。
残念!

 しかたがないので(失礼!)、今朝、浜名湖かんざんじ荘に電話を入れた。
「本日なら、部屋が取れます」と。
ラッキー!
……ということで、冬休み初日は、かんざんじ荘の温泉(温泉だぞ!)で、1泊。
1年のアカ落としを、そこですることにした。

●年賀状

 本日(28日)、年賀状を発送。
元旦に着くことを願いながら、本局まで行って、投函した。

 途中、DVDショップに立ち寄った。
ワイフは旅館ではいつも、DVDを観る。
そのDVDを借りた。

 ついでに郵便局の帰りに、行きつけのざるそば屋で、ざるそばを食べた。
そのとき私はこう宣言した。
「今年の冬休みは、遊んで、遊んで、遊びまくるぞ」と。

●ベトナム

 オーストラリアの友人は、今、ベトナムにいる。
オーストラリアを出発する前、そんな連絡が入った。
「ベトナムかあ……いいなあ」と。

あの国の人たちは、ヒマさえあれば、外国へ出かける。
距離に対する感覚が、日本人のそれとは、まったくちがう。
500キロ、1000キロなど、彼らにしてみれば、隣町。
加えて移民国家。
「外国」という言葉についても、私たちとはちがった概念をもっている。

●舘山寺に向かう

 舘山寺に向かう前、沼津のH会館(ホテル)に電話した。
正月X日の講演のあと、沼津の温泉に一泊する。
あれこれ迷ったあと、H会館にした。

ネットで予約できないからといって、あきらめてはいけない。
電話で直接交渉すると、繁忙期でも部屋が取れるときがある。
H会館にしても、そうだ。
ネットでは、「満室」となっていた。
「念のため……」と思って電話をすると、「空いています」と。

 ラッキー!

 X日は、そのH会館に一泊することにした。

●小食派
 
 若いころは、温泉に泊まるなどということは、考えもしなかった。
どこか老人臭い。
「温泉というのは、老人が泊まるもの」と。
(たしかにそうだが……。)
そう思っていた。
が、今はちがう。
どこへ行っても、まず温泉地をさがす。
そこで一泊する。

 料理には、あまりこだわらない。
そこそこのものであればよい。
ワイフも私も、小食派。

 ところで「小食」と書くのが正しいのか、それとも「少食」と書くのが正しいのか。
が、こういうときは、その反対を考えてみると、わかる。
「大食」とは言うが、「多食」とは言わない。
だから「小食」が正しいということになる。
理屈の上では……。

●講演

 講演をするようになってから、もう20年になる。
当初は近くの小学校や幼稚園でさせてもらった。
もちろん私のほうから頼んで講演をさせてもらったことは、一度もない。
講演というのは、そういうもの。

 ただ政治家とちがい、講演したからといって、メリットはまったくない。
講演には、(そのつぎ……)がない。
いつも話しっぱなしで、終わる。
名誉にはなるが、数週間もすれば、私の話したことなど、人々の記憶からも消えてしまうだろう。

 が、楽しいことも多い。

●講演旅行

 何が楽しいかといって、そのまま旅行ができること。
その地域の名物が食べられること。
それもあって、講演の依頼があると、すぐその地域の温泉や名物を調べる。

 最近では私たちよりワイフのほうが、楽しみにしている。
「今度、○○で講演だよ」と報告すると、「じゃあ、○○温泉ね」と。
のんきな性格で、私の苦労など、ぜんぜんわかっていない。
講演といっても、かなり神経を使う。
緊張する。
講演のあと数時間は、食欲そのものが失(う)せる。

 実際には、講演のある日は、朝から食事を抜く。
胃の中をからっぽにしておかないと、脳みその活動そのものが鈍る。
それに体調。

大きな講演会があるときは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
また当日にしても、どんなに近くても私は電車を利用する。
車だと、渋滞に巻き込まれたりする。
まだある。
約束の電車より、いつも1つ前の電車で現地へ着くようにする。
この仕事には、遅刻は許されない。

 「旅行」と浮かれることができるのは、講演が終わってから。
が、そうでないときもある。
講演のできが悪かったりすると、そのあとガクンと気分が落ち込む。
そうなると旅行気分など、どこかへ吹き飛んでしまう。

●湖上百景・浜名湖かんざんじ荘にて

 かんざんじ荘には、午後4時ごろついた。
軽い悪寒を覚えたので、そのまま温泉に。
温泉には、私、ひとりだけだった。
のんびりできた。
ほぼ夕暮れ時だったが、直線的な白い陽光が、ガラス窓を通して顔に当たった。

 部屋に戻ると、ベランダの椅子に座り、あれこれ考えた。
遠くには、山荘のある山々も見える。
が、この安心感は、どこから来るのか?
……?

 最近、気がついたことがある。
ときどき海ぎわの旅館やホテルに泊まることがある。
そのときのこと。
どうも落ち着かない。
このあたりでも3・11震災並みの大地震が起こるかもしれないという。
もし起これば、同じような津波が海岸地域を襲うはず。
海ぎわの旅館やホテルなど、ひとたまりもない。
それが私を不安にさせる。

 が、このホテルは、山の上。
津波の心配は、まったくない。
それが安心感につながっている。
たぶん……。

●特異現象

 金正日が死んだ日、北朝鮮ではいろいろな特異現象が観察されたという。
たとえば……。

『……冬空に稲妻が走り、タンチョウヅルはこうべを垂れた……。北朝鮮メディアは金正日総書記の死去発表後、特異な自然現象の発生を死去と関連付け相次いで報じている』(ロイター)と。

朝鮮中央通信という公的機関(?)が、そういうことを報道するから楽しい。
いわく『同通信はまた、東部の咸興市に建てられた金日成主席の銅像に20日夜、タンチョウヅルが飛来し、銅像の上を3回、回って木に止まった後、長時間こうべを垂れていたとも伝えた。
目撃者は「ツルも弔意を表したようだ」と話したという』(共同通信)と。

 が、こういう記事を読んで、笑ってはいけない。
この程度の記事なら、カルト教団の機関紙には、いつも載っている。
言い換えると、北朝鮮という国家そのものが、カルト化しているということ。
わかりやすく言えば、「宗教国家」。
核兵器を本尊とする、宗教国家。
またそういう前提で考えないと、あの国を真に理解することはできない。

 だからいくらアメリカや韓国が、がんばっても、北朝鮮は核兵器を放棄などしない。
いくら餓死者が出ても、それはそれ。
カルト教団では、理屈はご法度(はっと)。
理屈で考えたら、教団そのものが崩壊してしまう。
北朝鮮にしてもそうだ。

どうしてタンチョウヅルなのか?
タカやワシでは、だめなのか?
あの種の鳥はどれも、クチバシが長いから、休むときは、みな頭(こうべ)を垂れる。
が、こうして理屈で考えたら、体制そのものが崩壊してしまう。

 もし私が今、北朝鮮に住んでいたら……。
あっという間に、公開処刑!
それを考えると、ゾッとする。

●心の汗?

 肉親や親類の死を知り、ほとんどの人は、その死を悲しむ。
しかし(悲しむ)ことと、(泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。
さらに(泣く)といっても、(密かに泣く)という行為と、(公然と泣く)という行為の間には、大きな距離がある。
個人差もある。

 一般論から言えば、人は泣くことによって、抑圧された感情を発散する。
わかりやすく言えば、泣くことによって悲しみを軽減することができる。
が、それにも臨界点がある。

 悲しみもその臨界点を超えると、泣いたくらいでは癒せなくなる。
そのため悲しみを、さらに倍加させてしまう。
このことは泣く子どもを観察してみると、わかる。

 たとえばピアノのレッスンなら、ピアノのレッスンでよい。
そのとき子どもによっては、その前になると、決まってぐずったりする。
が、このばあいの涙は、心の汗のようなもの。
ぐずることによって、心にかかった負担(=ストレス)を発散する。
だからある程度それがすむと、ケロッとし、ピアノのレッスンを始めたりする。

 だから親にはこう教える。
「子どもがぐずるときは、温かく無視し、ぐずりたいだけぐずらせてあげなさい」と。

 こういうケースのばあい、けっして無理をしてはいけない。
叱ったり、強制してはいけない。
が、それでもぐずるようであれば、本人の処理能力を超えたと判断する。
ピアノのレッスンを控える。

 金正日の葬儀の場で、ワーワーと泣く北朝鮮市民の姿をネットで見ながら、そんなことを考えた。
みなの見ているところで、おおげさに泣いて見せる。
ふつうの常識のある人なら、そんなことはしない。
たとえ本当に悲しくても、そんなことはしない。

感情をむき出しにするというのは、怒りであれ、恨みであれ、それだけその人の人格の完成度が低いことを示す。
もちろん大げさに泣くのも、そのひとつ。

●男が男湯で盗撮?

 さらに驚いた事件が、これ。

『……京都教育大学の職員の男が、東京・調布市にある温泉施設の男湯の脱衣所に、盗撮目的で侵入したとして、警視庁に現行犯逮捕されていたことがわかりました』(TBSi-。ニュース)と。

 男が男の脱衣所に侵入し、カメラで男の裸を撮ろうとした、と。
「京都教育大学の職員」という部分は、愛嬌。
私はこの記事を読んだ直後、「何かのまちがいではないか」と思った。
が、何度読んでも「男湯」。

 どうして?
そんなに見たかったら、湯船にでもつかり、ゆっくりと見ればよい。
どうして盗撮なのか?
性癖ほど、摩訶不思議なものはない。
それはよくわかっているが、この事件は、私の常識をはるかに超えている。

私「妻のために、夫が盗撮してやったのだろうか」
ワ「女性は、そんなこと、望まないわよ」
私「わからないよ。中には男の裸を見たいと、夫にねだる妻だっているかもしれないよ」
ワ「いないわよ……」
私「そう、決めつけてはいけないよ」と。

 以前、記憶にある事件には、こんなのがあった。

 男児や少年の裸を盗撮し、それを児童ポルノとして販売していた男がいた。
そういうケースも考えられなくはない。
が、この記事からだけでは、よくわからない。
何か、裏がありそう。

●男心vs女心

 ここでクェスチョン。

 男が女湯に入ってみたいというのは、よくわかる。
男は視覚的に、女性の中に、「女」を感ずる。
が、女はどうか?

 ワイフの説によれば、女にはそれがないという。
ならば聞くが、どうして女は、男に体を見られるのをいやがるのか。
「見たい」と思う男。
しかし女は、「見られたくない」と。
私は「見られても減るものではないから、もっと見せてくれてもいい」と思う。
が、現実には、そうでない。

 なぜか?
男に、「見たい」という本能があるとするなら、女には「見られたくない」という本能があるということになる。
が、これはおかしい。
「見られたくない」と言いつつ、女は無意識のうちにも、肌を露出し、男心を誘っている。
誘っておきながら、「見られたくない」とは?
そういう矛盾を、どう理解したらよいのか。

●夕食

 浜名湖かんざんじ荘の夕食は、すばらしい。
今回も、もっともスタンダードなコースを頼んだ。
が、それでも大満足。
景観、料理ともに、これで文句を言う人はいない。
ただ部屋だけは、旧国民宿舎ということもあり、狭い。
8畳+2畳ほどのベランダ。
内湯はなし。
部屋食もなし。

 が、こういうところでは、どうしても食べ過ぎてしまう。
「食べたら、損(そこ)ねる」。
それがわかっていても、食べ過ぎてしまう。

 部屋へ戻ってから、しばし後悔の念で、心が塞ぐ。

●DVD『ロシアン・ルーレット』

 ワイフは、『ロシアン・ルーレット』というDVDを観ている。
発想からして、バカげている。
意味のない殺人映画。
こんなシーンが目に留まった。

 10数人の男が、円になってぐるりと並ぶ。
それぞれがその前の人の後頭部に、ピストルの銃口を向ける。
ピストルには、弾が、1発ずつこめられている。
合図と同時に、ピストルの引き金を引く。
(ピストルは、リボルバー式。
弾が1発のときは、弾が発射される確率は、6分の1となる。)

 ……こうしてそのつど、何割かの男たちが床に倒れていく。
それを見ながら、別の男たちが、だれが生き残るか、お金を賭ける。

 問題は、その合図。
DVDの中では、天井につりさげられた電球が灯ったとき、みながピストルを撃つ。
そのときのこと。
合図の電球が灯ったら、すかさず、すぐ引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味で引き金を引いたほうが、得なのか。

(1対1のとき)……すぐ撃ったほうが、得。
(3人のとき)……すぐ撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は低くなる。
つまり自分を撃つ男の生き残る確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、高くなる。

が、反対に、遅れ気味で撃てば、自分の前の男がピストルを撃つ確率は高くなる。
つまり自分を撃つ男の死ぬ確率は高くなる。
その分だけ、自分が撃たれる確率は、低くなる。

 だから3人のときは、遅れ気味に引き金を引いたほうがよい。
敵の敵は味方。
そう考えると、わかりやすい。

(4人以上のとき)……どちらが得なのだろう?
合図と同時にすかさず引き金を引いたほうが得なのか。
それとも遅れ気味に引き金を引いたほうが得なのか。

 そんなことをぼんやりと考えていたら、眠くなってきた。

●鈴木M氏

 あの鈴木M氏が、仮釈放により出所してきた。
その鈴木M氏が、すかさず始めた運動が、新党結成。
届け出た名前が、ウサン臭い。
「真民主党」。

 その政党がそうというわけではない。
が、人は、自分の醜い意図を隠すため、えてして逆の名前をつけたがる。
「真」という文字も、そのひとつ。
何をもって、「真」というのか?

それに私の記憶にまちがいがなければ、鈴木M氏は、今後5年間は選挙に出られないはず。
法の趣旨からすれば、5年後であれ、今は選挙活動を自粛するのが常識。
が、ことあの鈴木M氏に関していえば、そういった常識が通じない。……らしい。

 受託収賄罪についても、当初から無罪を主張。
最高裁まで争った経緯がある。
その話は別として、私はあの鈴木M氏を見るたびに、こう思う。
「この男を動かしているエネルギーは、いったい、何なのか。どこから生まれるのか」と。

 ふつうのエネルギーではない。
すさまじいばかりのエネルギーである。
私には権力欲に狂った、ただの亡者にしか見えないのだが、亡者なら亡者でもよい。
どこからそういったエネルギーが生まれるのか。

 「日本をよくしたい」と、鈴木M氏は、本気でそう考えているのかもしれない。
それにしても、すさまじいばかりのエネルギーである。
が、フロイト風に考えるなら、リビドー(性的エネルギー)が強い分だけ、サナトス(破滅的エネルギー)も強いはず。
今はまだよくわからないが、「日本をよくしたい」という思いよりは、「日本をメチャメチャにしたい」という思いのほうが強いのではないのか。
鈴木M氏の今までの言動を追ってみると、私には、そう見える。

 あのタイプの政治家の出現には、じゅうぶん注意したらよい。

●深夜

 午後10時ごろ、2回目の入浴をした。
部屋に帰ると、そのまま就寝。
だから10時半ごろ、就寝したことになる。
が、夜中に夢を見た。
……というか、のどの渇きを覚え、目が覚めた。

●リクラゼーション・ルーム

 温泉の右隣に、リクラゼーション・ルームという部屋がある。
夜中に3時に、パソコンをもち、その部屋に移動した。
その部屋でなら、思う存分、パソコンを叩ける。
そう考えた。

入り口の前には、自動販売機があった。
私は2本のペットボトルを買った。

 ルームの中には、2台のマッサージ機と、いくつかのソファ。
本棚と本箱があった。
本棚には、マンガ本がずらりと並んでいた。
本箱には、「司馬遼太郎・街道をゆく」という写真雑誌が、5冊並んでいた。

●「街道をゆく」

 3本目のペットボトルを買うため、立った。
そのついでに、「街道をゆく」を、何冊かパラパラとめくって読んでみた。
一読して、「すごい旅行記だなア」と思った。
思ったが、その中の1ページに、立松和平のコラムが載っていた。
とたん、読みたいという気持ちが、スーッと萎えてしまった。

 立松和平……1度、盗作事件が発覚してからというもの、彼の文章を読みたいとは思わなくなってしまった。
が、2度目があった。
そのとき立松和平は、テレビ画面に向かって、こう言って泣きじゃくっていた。
「許してもらえましたア」と。

 盗作した相手に許してもらえた、と。

 が、この問題は、許すとか、許されるとかいうレベルの問題ではない。
私はいつも逆の立場で考える。
こんな事件があった。

●盗作事件

 ちょうど1年ほど前のこと。
ネットで私の文章を検索していたら、私の書いた原稿がそのまま載っているサイトを見つけた。
1ページや2ページではない。
全体で、10ページ前後。
N県の県警本部が管理するサイトであった。
(N県の県警本部という、県警本部が管理するサイトだぞ!)

 私の文章が3~5段に分割され、前後を入れ替えた状態で、そこに掲載されていた。
しかも丁寧に、いちばん下に、「無断転載禁止」と。
私は即座に、そのN県の県警本部に電話を入れた。
が、電話に出た相手は、逆ギレ。
「証拠があるのか!」というようなことまで言った。

 そこで私は私が書いた文章と、そのサイトに載っている文章を、電話口で読み比べてみせた。
1時間半ほど、かかった。
結果、相手はそれを認め、一転、「浜松まで謝罪に行く」と言い出した。

 力のある者が、力のない者を利用する。
有名人が無名人を、利用する。
私は、それが許せなかった。
つまり立松和平がした行為は、まさにそれに当たる。

 もの書きの世界では、一事が万事。
万事が一事。
立松和平は、日常的に盗作をつづけていた。
そう疑われても、しかたない。
そういうことが平気でできる(作家)というのは、そうはいない。

一般の世界では、「ちょっと他人の文章を拝借して……」ということもあるかもしれない。
しかし(ものを書く人間)には、それはない。
それをしたら、おしまい。

 こんな私でも、……つまりまったく無名で、しがないもの書きの私でも、「盗作」だけはしない。
したら、おしまい。
ものを書く人間には、ものを書く人間の(魂)というものがある。
文に対する、思い入れそのものが、ちがう。

立松和平は、そんなもの書きの心を、自ら土足で踏みにじった。
立松和平はそれでよいとしても、その悲しみ、怒りは、盗作されたものでないとわからない。
「許してもらえましたア」と、泣きじゃくって喜ぶようなレベルの話ではない。

 それにもう一言、付け足すと、こうなる。

 「盗作」などというのは、偶然の、そのまた偶然が重ならないと、発覚しない。
N県の県警本部のサイトにしても、それが見つかったのは、偶然中の偶然だった。
相手がサイトにUPしていたからこそ、わかっただけで、ふつうなら、わからない。

●仮面

 人はだれしも、仮面をかぶっている。
私もかぶっているし、あなたもかぶっている。
仮面が悪いというのではない。
仮面をかぶるからこそ、円滑な人間関係が維持できる。
わかりやすいのは、ショッピングセンターの女子店員。
にこやかな顔をし、やさしい声で、こう言う。
「いらっしゃいませ」と。

 が、そういう女子店員を見て、人間的にすぐれた人と思ってはいけない。
(だれもそうは思わないが……。)
女子店員は、「店員」という仮面をかぶっているだけ。
そういう仮面をかぶりながら、私たちをよい気分にさせる。
それを利用し、私たちから、金(マネー)を、むしり取る。
(と、まあ、そこまで考える必要はないが……。)

 が、中には、仮面をかぶったまま、仮面をかぶっていることを、忘れてしまう人がいる。
仮面の自分を、本物の自分と思い込んでしまう。
「聖職者」と呼ばれる人たちに、このタイプの人が多い。

 そこで大切なことは、私たち自身も、その仮面を見抜く力を養うこと。
仮面にだまされては、いけない。
さらに言えば、仮面の向こうにある、本物の相手を見抜くこと。

 このことは子どもを教えてみると、よくわかる。
たとえば中に、従順で、私の指示にそのまま従う子どもがいる。
が、そういう子どもほど、心配。
いろいろな問題を引き起こす。
教えにくい。

 反対に、そのつど反発する子どもがいる。
プリントを渡したりすると、「また、プリント! いやだ!」と。
このタイプの子どもは、一見生意気で、教えにくい。
が、その実、心がつかみやすい。
教えやすい。

●得体の知れない人

 私の年齢になると、人間関係を総括することが多くなる。
が、それはむずかしい作業ではない。
心の中の印象をさぐってみればよい。

 そのとき、ふと温かい印象が返ってくる人もいれば、そうでない人もいる。
中には、20年とか30年もつきあっているはずなのに、得体の知れない人もいる。
いろいろ思い出してみるのだが、その人の(形)が浮かび上がってこない。
上辺(うわべ)では、よい人ぶっている。
しかしその実、心の中は、ねたみと怒り、恨みと不平不満だらけ。

 こんな人もいた。

●辛辣(しんらつ)な書き込み

 こうして文や動画を公表していると、ときどき、辛辣な批判が届く。
が、そんなことをいちいち気にしていたら、文や動画など、公表できない。
しかしその批判は、群を抜いていた。
原文のまま、ここに紹介する。

「このおっさんなんですか、全然わかってない。
本人にしかわかんないこともあるんだよ。
このおっさん何でたらめばかり言ってんだ。
ちゃんと勉強してから出直せば・・・・ って言いたいです。
とにかくでたらめ。
やってる子供は気持ちいいって何・・ xx症の娘を持つ母親ですが、この人、何者。
ドーパミン説は知っていますが、なぜ、ドーパミンが過剰分泌されるか(その反対でもよい)、そこに家庭に原因があると解いています。
今は家庭環境のせいではなく、ドーパミンの過剰発生が原因とされているようです。
親の教育が悪いというのは偏見だそうです。
偏見を助長するだけだよ。
娘は辛くて泣きそうなんだよ 浜松のおっさんへ!
育児論で障害を語るなよ」と。

 反論は別の機会にすることにして、私はこの女性に興味をもった。
そこでいろいろなチャンネルを使って、この女性を追跡してみた。

 まずハンドルネームを検索。
そこからその女性が発行している、別のBLOGをヒット。
さらにそこで使っている、別のハンドルネーム(MR)を検索。
最終的に、九州のK県に住んでいる、45歳の女性ということがわかった。
本名もわかった(TM)。
しかもその女性は、1冊だが、育児書を出版していることまで、わかった(「~~日記」)。

「ちゃんと勉強してから出直せば・・・・」という言葉も、そのあたりの(自信?)から出てきたらしい。

 「○○症」という神経症の多くが、家庭環境に原因があると書いたのが、よほど強く癇(かん)に障(さわ)ったらしい。

が、現在では、子どもの問題は、家族の問題と考えるのが常識。
子どもは家族の「代表」にすぎない。
私がそう言っているのではない。
医療機関でも、子どもに何かの問題があると家族全員を集め、家族全員を指導する。
2000年ごろから、そういう傾向がたいへん強くなった。

 それはともかくも驚いたのは、その女性が別のBLOGなどでは、まさにレディ然とした文章を書いていること。
どちらが仮面で、どちらが本物かなどということは、論ずるまでもない。
私はその(落差)に驚いた。

●仮面は仮面

 話を戻す。

 仮面は仮面。
仮面はかぶらないほうがよい。
かぶっても、それが仮面であることを、いつも自覚する。
また相手を見るときも、そうだ。
仮面の向こうにどんな顔があるかを、知る。

 こうした操作を忘れると、人間関係がメチャメチャになってしまう。
みながみな、悪人というわけではない。
しかし同時に、みながみな、善人というわけでもない。

●第2日目

 冬休み、第2日目になった。
12月29日、木曜日。
部屋のカーテンを開けると、真っ青な空が一面に飛び込んできた。
朝食まで、あと15分。
現在時刻は、午前7時15分。
そろそろ帰り支度をしなければならない。

 ……ということで、浜名湖かんざんじ荘とも、そろそろお別れ。

 では、みなさん、おはようございます!
(はやし浩司 2011-12-29朝記)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


【橋下徹市長の行政改革・支持する】「がんばれ、大阪市長、橋下徹氏!」

●あわててダイエット

 ハハハ!
今日から、あわててダイエット!、プラス、運動!
体重が3キロも、オーバー。
現在、67キロ!

 ハハハ!
正月には、いつも太る。
何を食べても、おいしい。
運動も、さぼり気味。
これだから正月は、困る。

●おせち料理

 ワイフは、おせち料理の心配ばかりしている。
毎年、そうだ。
年末になると、そうだ。

HPの更新作業が終わったら、買い物に行くつもり。
まとめて買ったほうが安くつく……という説もある。
が、私たちはいつも、バラバラ。
つまり気に入ったものだけを、個別に買っている。

 今年は、岐阜の従兄(いとこ)が、餅を送ってくれた。
だから、餅つきはなし。
(もともと餅つきをするつもりは、なかったが……。)
何ともさみしい正月。
まったくふだん通りの正月。
平凡であることを、喜ぼう!

●計画

 計画はいくつか、ある。
あるが、こうしたBLOGでは、公表できない。
またしてはいけない。
公表すれば、泥棒に「おいで」を言っているようなもの。
以前は、講演日時を公開していた。
それについて、親切な人が、こう教えてくれた。
「公表しないほうが、いい」と。

 BLOGには、予定や計画を、書いてはいけない。
さて、本題。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●大阪市長

 橋下市長の意気込みには、頭がさがる。
まさに平成の坂本龍馬!
今朝の読売新聞には、「(橋下市長)、労組に闘争宣言」とある。

++++++++++++++以下、読売新聞より+++++++++++++++

原稿に目を落とすことが多かった橋下徹・大阪市長が顔を上げて訴えたのは、職員労働組合との「闘争宣言」だった。

 橋下市長が就任後初の施政方針演説に臨んだ28日の市議会。橋下市長は演説で……「組合が、公の施設で政治的な発言を一言でもするようなことがあれば、断じて許さない」と職員組合批判を繰り出した。

 問題にしたのは、大阪交通労組(大交)など労組による市庁舎内の政治活動。
市長選で争った前市長の推薦者カードを、勤務時間に配布したなどとされる。

 橋下市長は、労組側がこの問題で謝罪文を提出しようとしたことを明かし、「組合は謝罪文1枚で済まそうとした。市民感覚とかけ離れている」とかみついた。
その後も「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」と敵視する発言を繰り返し、最後は「市役所の組合を改善することで、全国の公務員組合を改めることしか、日本再生の道はない」と言い切った。

 労組批判は用意した原稿にはなく、すべてアドリブで、約5分間に及んだ。
さらに、演説後の市の幹部会議でも批判は続き、橋下市長は「組合の言うことを聞かないと人事で冷遇される、という手紙やメールが中堅、若手職員から来ている」と言い放った。

 市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市民受けを狙ったんだろう」と漏らした。

++++++++++++++以上、読売新聞より+++++++++++++++

●目の前で歯磨き

 だれが見ても、現在の公務員社会は、おかしい。
先日も、県の○○局へ書類を取りに行った。
そこでのこと。
12時JUSTになったら、収入印紙の販売窓口が、パタリと閉まった。
収入印紙が買えなければ、自動的にすべての業務が停止する。
……停止してしまった。

 私とワイフは、しかたがないので、午後1時まで、その前の座席で窓口が開くのを待った。
が、私が信じられないような光景を見たのは、そのあとのことだった。

 しばらくすると職員たちが、食事から戻ってきた。
が、そのうちの2人が、私たちの見える場所で、歯を磨き始めた。
そのうち1人は、歯ブラシをくわえたまま、フラフラと歩いていた。

その態度のでかいこと、でかいこと。
民間企業では、ぜったいにありえない光景である。
客である私たちの見ているところで、歯磨き?
私とワイフは、その光景を見て、心底、驚いた。

 仕事に対する感覚そのものが、ずれている。
完全に、ずれている。
市民感覚から、完全にずれている。
大阪市長は、恐らくそういう光景を、毎日のように見ているのだろう。
だからかみついた!

●橋下市長の闘争宣言

 「ギリシャを見てください。公務員の組合をのさばらしておくと国が破綻する」(読売新聞)と。

 現在、公務員が覆面のまま、政治活動をしている例は、たいへん多い。
そういうサイトが、(正確な数はわからないが)、何10とある。
ためしに公務員を批判したBLOGを書いてみるとよい。
そのあと、かならずと言ってよいほど、抗議の書き込みやコメントが届く。

あるいは試しに、「はやし浩司」を検索してみるとよい。
どういう連中が、どのように私をこき下ろしているか、それを読めばわかる。
それが現在の公務員社会である。

 ともかくも、今や、公務員社会に対する怒りは、爆発寸前。
1人ひとりの公務員に責任があるわけではない。
それはよくわかっているが、しかし爆発寸前。

が、悲しいかな、私たち一般庶民は、どうすることもできない。
ワイフはこう言った。

「だって、警察も機動隊も、それに自衛隊も公務員でしょ」と。
つまりいくら騒いでも、勝ち目はない。
私たちはいつの間にか、この日本をそういう国にしてしまった。
詳しくは『おいしい公務員』(週刊ダイアモンド・2011・10・15日号)を読んでみたらよい。
怒る前に、あきれてしまう。

 だからいろいろ問題はあるが、今は、橋下市長に、エールを送りたい。
「めげるな、橋下市長! その旋風を全国にまき起こせ!」と。

 なおこれに対して、読売新聞はつぎのように伝える。

『市の労組出身の民主系市議は苦々しい思いで演説を聴き、「組合を当面の敵役にして、市民受けを狙ったんだろう」と漏らした』(読売新聞)と。

 そうじゃないよ、民主系市議さん。
あなたの感覚は、市民感覚から、完全にずれている!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 大阪市 橋下市長 がんばれ 支持 支持する はやし浩司 橋下 徹 橋下徹)


Hiroshi Hayashi+++++++Dec.2011++++++はやし浩司・林浩司

●冬休み、3日目(映画『ニュー・イヤーズ・イブ』 (New Year's Eve)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

昨日、『ニュー・イヤーズ・イブ』という映画を観てきた。
一言で表現すれば、ゴチャゴチャ映画。
8組の人々が新年に向け、それぞれの思いをもって、動き出す。
……という内容の映画。

最初の90%は、観るに耐えない映画。
何度も席を立って帰ろうかと思った。
ボン・ジョビや、ロバート・デニーロなど、スターは
豪華だが、駄作は駄作。
アメリカ人の軽薄さを、そのまま凝縮したような映画。
恋愛主義、セックス主義……。
星など、つけようもない。

おまけに8組の人々が、同時進行で描かれているため、
場面ごとに頭を切り換えるだけでも、たいへん。
何がなんだか、さっぱり訳が分からない。……分からなかった。
料理にたとえるなら、ラーメンと寿司、スパゲッティと
ドーナツ、(←これで4組)、カツ丼と焼き肉、シャブシャブと
豆腐料理、その8組を同時にテーブルに並べたような映画。

最後の10%は、ほどほどのできだったが、それまでがまん
できる人は、少ない。
劇場だったから最後まで観たが、家庭では無理。
家庭だったら、私なら最初の10分で、DVDをパッケージに
しまっていただろう。

頭の中がゴチャゴチャになる苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。
がまんして、椅子に座っている苦痛がどういうものか、
それを知りたい人には、最適の映画。

私はその『ニュー・イヤーズ・イブ』を観ながら、改めて
こう実感した。

「日本は、完全にアメリカ文化にノックアウトされている!」と。
先に書いた恋愛主義もそのひとつ。
「恋愛がすべて」というものの考え方を、恋愛主義、あるいは恋愛
至上主義という。
(私がそういう名前をつけた)。

プラス、セックス主義……といっても、節度のないフリーセックスだが、
日本もそのセックス主義に毒されてしまった。
恋愛とセックス……それがすべて!

私はそのつど、頭の中で、昔の日本と対比させた。
(昔の日本が、かならずしもよいわけではないが……。)
「昔の日本は、こうだったのだがなあ……」と。

『ニュー・イヤーズ・イブ』の中に描かれている世界は、
そっくりそのまま、日本の現代の若い世代の世界ということになる。
享楽主義と快楽追求主義。
親には無私の愛を求めながら、自分たちは勝手し放題。
酒とセックスと金(マネー)。

人間が本来もっているはずの(まじめさ)が、どこにもない。

で、ああいう映画を無批判に観てはいけない。
気がついたつきには、そのままアメリカの低俗文化に、毒されてしまう。
(現代が、そうだが……。)
そのまま恋愛主義、金権主義、ゆがんだ家族主義、さらには
享楽主義、快楽追求主義に、洗脳されてしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 ニューイヤーズ・イブ ニュー・イヤーズ・イブ ニューイヤーズイブ New Year's Eve 映画評論)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●浜松の言葉

 前にも書いたが、浜松には浜松の、独特の言い方がある。
たとえば、ほかの地方で、「本当ですか?」と言うとき、浜松では、「ウッソー!」と言う。

 浜松の人たちは、ごく日常的にこの言葉を使う。
が、私はそうでなかった。
はじめて浜松へ来たときには、この言葉には心底、面食らった。
「ウソとは何だ!」「失礼ではないか!」と。
本気で、けんか腰になったこともある。

 ほかに、たとえば、「まだ、(あの仕事を)やってるのノ~?」という言葉がある。
「ノ~?」という部分で、尻上がりになる。
「まだ、あの仕事をつづけているのですか?」という意味で、相手に、そう言う。

が、この言葉は、ときとばあいによっては、相手を激怒させる。
浜松に住んで40年以上になるが、今でも、頭にカチンと来る。……ときがある。
たとえば昔の知り合いに、久しぶりに会ったとする。
そのとき、相手が、こう言う。

「まだ、(あの仕事を)やってるのノ~?」と。

 聞き方によっては、「まだ、(あんなつまらない仕事)、つづけているの?」とも取れる。
「いいかげんに、やめたら」とか、「くだらない仕事してるね」とか、そんなふうにも取れる。
だからカチンとくる。

 ほかにもある。

 浜松の人は、相手の行為を傍から見ながら、よくこう言う。

たとえば自転車に乗ろうとすると、それを傍から見ながら、こう言う。
「自転車に乗るのオ~?」と。
とたん、「見ればわかるだろ!」と言い返したくなる。
わかりきったことを、いちいち確認してくる。

 これも聞き方によっては、馬鹿にされたように感ずる。
「今どき、自転車で通勤するなんて!」とも取れる。
「恥ずかしくない?」とも取れる。

 全体としてみると、浜松の言葉は、ぶっきらぼう。
感情をそのままぶつけてくる。
そのため、奥ゆかしさがない。
浜松が、「街道沿いの宿場町」と言われる所以(ゆえん)は、こんなところにもある。

●恋愛主義

 映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の話に戻る。

 先に「恋愛主義(恋愛至上主義)」について、書いた。
「恋愛こそ、すべて」と考え、行動の原点にするのが、恋愛主義。
ほかにも出世主義、金権主義、家族主義などがある。

『ニュー・イヤーズ・イブ』に出てくる、8つの組のうち、7組までが、恋愛がらみ。
残り1組だけが、死にいく父親(ロバート・デニーロ)と娘の関係。 
それぞれがそれぞれの立場で、恋愛を成就していく。
が、どうしてそれが「奇跡」(映画案内)なのか。
 
 もちろん私は恋愛を否定する者ではない。
しかしそれにも、限度というものがある。
人間は恋愛のためだけに、生きているのではない。
いわんやセックスのためだけに、生きているのではない。
それぞれがそれぞれの目的や使命をもって、生きている。
が、こうしたアメリカ映画ばかり観ていると、それがわからなくなる。
そこらのイヌやネコと同じことをしながら、それが最高にすばらしいことと錯覚してしまう。

●お涙ちょうだい

 ロバート・デニーロ演ずる父親は、最後に娘と再会し、そのまま息を引き取る。
そのあとのこと。
娘が父親の遺品をみると、そこに自分の子ども時代の写真があることを知る。
娘は、じっとその写真に見入る……。

 おなじみの(お涙ちょうだいシーン)である。
が、現実は、きびしい。

 昨年、こんな話を聞いた。
この話も前に書いたことがあるが、こんな話。

 父親が臨終を迎えた。
そこで娘が、遠くにいる弟に連絡をした。
弟、つまりその父親の息子からは、15年来、音信がなかった。

 息子が病院へかけつけると、それを制したのは、母親だった。
母親はその息子に、こう言った。
「今ごろ、何をしに来たの!」と。
息子は病院の玄関先で、追い返されてしまった。

●幻想

 こういう話を聞くと、若い人ならこう思うにちがいない。
「何てひどい母親なんだ!」と。
が、本当にそうだろうか。
そう思ってよいのだろうか。

 その母親というのは、ワイフの遠い親類にあたる女性だが、ワイフにはこう言った。
「夫(息子の父親)からは、万が一、息子が会いに来ても、部屋へ通すなと言われていましたから」と。

 それぞれの家庭には、それぞれの家庭の、複雑な事情というものがある。
その事情を無視し、第三者が短絡的に判断をくだしてはいけない。
その父親と母親にしても、息子が去ったさびしさを、15年間も堪え忍んだ。
15年間だぞ!
それは想像を絶する苦しみだったにちがいない。
そのため、夫婦関係がおかしくなったこともあるという。
そういう困難を何とか、夫婦で力を合わせ、乗り越えた。
その結果の、15年間である。

 息子は、「親だから……」という幻想でもって、親をみるかもしれない。
「親だから、子どもに深い愛があるはず」と。
しかし親とて、1人の人間。
神や仏ではない。
息子のほうは、神や仏のような愛や慈悲を期待するかもしれない。
が、それは先にもかいたように、「幻想」。

 映画『ニュー・イヤーズ・イブ』の中では、父親と娘が最後の瞬間、抱き合って、(許し合う)。
感動的なシーン(?)のはずだったが、私は感動しなかった。
私なら、こう思っただろう。
「このまま、そっと死なせてくれ」と。

 先に書いた父親と母親だが、ワイフが聞いたところによると、息子を忘れるため、アルバムさえ、すべて燃やしてしまったという。
私はこちらのほうが(現実)だと思う。
恋愛主義、セックス主義の若い人たちには、それが理解できないかもしれないが……。

 もちろんその逆もある。

●山城新吾

 少し前、俳優の山城新吾氏が亡くなった。
生前、山城新吾は、娘にだけは会いたがっていた。
が、娘は、それをがんとして拒否した。

 そのころ、つまり山城新吾氏が亡くなったころ書いた原稿に、こんなのがある。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「やさしさがないなとは思う」とは?

++++++++++++++++++

俳優の山城新伍が亡くなったことについて、
波紋が広がりつつある。
山城新伍のマネージャー氏は、次のように
語っている(ディリースポーツ・8月15日)。

++++++++++++++++++

『……山城さんは糖尿病に加え、認知症と高血圧を患っていたという。

 07年7月ごろより、都内を徘徊することが多くなり、昨年3月31日に東京・町田市内の老人ホームに入所。
その際に町田市役所が元妻で女優の花園ひろみと一人娘で女優の南夕花に連絡したが、花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという。

 その後、山城のマネジャーが花園らに連絡を取ったが、ついには音信不通になってしまったという。
S雄さんは「優しさがないなとは思う。わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした。

 生前、山城さんは「引退した者やから何もしなくていい。
このままひっそりとしてほしい。
人と接したくない」と老人ホームを終(つい)の棲家に考えていたというが、「娘には会いたいなあ」とよくこぼしていたが、その願いはかなわなかった。

 なお密葬は近親者のみで18日に京都で行われ、四十九日法要後、大親友の梅宮辰夫が発起人となり都内で「お別れ会」を開く予定。骨は京都市内に、自身が建てた2カ所のお墓に分骨される……』と。

 この中でとくに気になったのは、『S雄さんは「優しさがないなとは思う。
わたしから連絡を取ることもない」と肩を落とした』という部分。
「S雄氏」というのは、山城新伍の弟氏をいう。

 何があったのか?
私たち部外者の知るところではないが、この記事からも、よほどの確執があったらしいことは、容易に察しがつく。
元妻ですら、「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らした』という。

 この記事を読んで、あなたなら、どう考えるだろうか?
弟のS雄氏のように、「優しさがない」と思うだろうか。
それとも別の考え方をするだろうか。

 こういうケースのばあい、まず念頭に置かねばならないことは、それぞれの家庭には、
言うに言われない複雑な事情があるということ。
表面的な部分だけをみて、それに自分の常識を当てはめて考えてはいけない。
どんなにあなたが社会経験が豊富で、常識豊かな人であっても、こと家庭の問題となると、
話は別。

 こうした問題で、安易にコメントを寄せる人というのは、それだけでノーブレインの人と考えてよい。
(S雄氏がそうであると言っているのではない。誤解のないように!)
いわんや、その家族のことを批判するのは、最小限にしたい。
元妻の花園さんについても、『……花園は「静かに暮らしていたのに」と連絡にさえ激怒。
山城さんサイドの家族に、電話で怒鳴り散らしたという』とある。

 問題は、そうした電話のやり取りを、だれが外部の人に漏らしたかである。
あるいはどうして私が知っているか、でもよい。
記事の内容からすると、マネージャー氏が、マスコミに暴露したと考えてよい。
となると、これまた背信行為ということになる。

 マネージャーという立場上、元妻や娘を批判したい気持ちはよくわかるが、一方的に、このような内容を暴露するのは、どうか?
たとえそうであっても、やはりこうした話は内々で伏せておくべきではないのか。
こんなことを暴露すれば、今度は、花園さんと弟氏の関係も、破壊されてしまう。
つまりこういうことが重なって、先の記事のような内容になったとも考えられる。

 「電話で怒鳴り散らした」とあるから、相当のわだかまりがあるとみてよい。
であるなら、なおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
何も、山城新伍の死を理由にして、ことを荒立てる必要はない。

(日本人は、葬儀という場面になると、どんな無礼なことをしても許されると考える傾向が強い。)

むしろ私も経験があるが、こうした事情をよく知らない人たちが勝手に騒ぎたてると、遺族はそれまで以上に、とことん傷つけられる。
それは身を引きちぎられるような苦痛と表現してもよい。

 恐らくディリースポーツのこの記事を読んで、花園さんや娘さんたちは、さらに激怒しているにちがいない。
傷口に塩を塗りこまれたような状態ではないか。

 私自身は、山城新伍が好きだったし、今も好きだ。
しかしそれはスクリーンを通してでの話。
もちろん実物の山城新伍を知らない。
知る必要もない。
興味もない。
元妻や娘さんに冷たくされたといって、それで私の山城新伍への気持ちが揺らぐわけではない。
どこの家にも、似たような話はある。
だったらなおさら、そっとしておいてやるべきではないのか。
静かに冥福を祈るだけである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●アメリカ文化の侵襲

 ……かくして日本人の心の中に、今の今も、アメリカ文化が侵襲しつつある。
ありとあらゆるメディアを使って、侵襲しつつある。
それがよいものであれば、それはそれでよい。
しかしこと恋愛主義、セックス主義については、どこかでブレーキをかけないと、人間が本来的にもっている(まじめさ)まで、破壊されてしまう。

 (まじめさ)というのは、静かな牧歌的な温もりのある(まじめさ)をいう。
時間が今より、はるかにのんびりと流れていたころの(まじめさ)をいう。

私が子どものころには、恋愛といっても、そこにはいつも両親がいたし、親類、近所の人たちがいた。
そういう人たちに支えられて、恋愛というものがあった。
だから恋愛するにしても、そういう人たちの気持ちも考えて、恋愛した。
ここでいう(まじめさ)の中には、そういう人たちへの(思いやり)も含まれる。

 が、今は、ちがう。
若い人たちは、恋愛したとたん、両親はもちろん、親類、近所の人たちを蹴飛ばしてしまう。
「自分たちが幸福なら、それでいい」と。
その返す刀で、「息子や娘が幸福なら、親も喜ぶべき」と。
へたに異議を唱えようものなら、息子や娘のほうが、親を捨ててしまう。
先に書いた、父親と母親にしてもそうだ。
その結果の15年である。

 父親が死ぬ間際になって、のこのことやってきた息子。
それにおめおめと会う父親は、いない。
映画の中では、感動的なラスト・シーンということになる。
しかし映画は映画。
機関銃をバンバンと撃ち合う警官と銀行強盗。
映画の中ではおもしろいシーンだが、それと同じように、現実には、ありえない。

私「許すにも、時間がかかるよ」
ワ「そうね、会った瞬間に、許し合うということは、ありえないわよね」
私「それまでのわだかまりを溶かすというのは、容易なことではない」
ワ「……死ぬ間際だったら、余計に、無理でしょうね」
私「みんな、誤解していることがある。それはね……」と。

●死ぬ間際

 死ぬ間際に、人は、どんな心理状態になるか?

 数は多くないが、私も人に死に、何度か立ち会ってきた。
私自身も、そこに死を、直接感じたこともある。
そういうときの心理を、自分なりに解釈してみると、こうなる。

 死ぬ間際というのは、人はみな、心が抜けたような静けさと穏やかさを覚える。
私もそうだった。
ちょうど2年前、山荘の廊下で倒れたときがそうだった。
あれほどまでに死を恐れていた私だったが、こう感じた。
「ああ、これで死ねる」と。

その瞬間、うらみ、ねたみはもちろん、さみしさや孤独、さらには、家族や親類の人たちへの愛や思いまで、消える。
そこは恐ろしく何もない世界。
まったく何もない世界。

 そんな死の瞬間に、「父親と娘が抱き合って、許し合う」などということは、ありえない。
だから私は、先にこう書いた。
「映画は映画」、つまり作り話、と。

●12月30日、金曜日

 これから大掃除。
庭掃除。
正月の準備。
残すところ、今年も、あと1日。

 私の時間も、ここまで。
……ということで、今日もがんばる。

2011/12/30朝記

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 死の瞬間 臨終の心理 臨終の心理学)


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