2010年10月28日木曜日

*Short Essays on Education

●子育て雑感集

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今朝、私のEマガ、10月27日号を読んだ。
1か月前に発行予約を入れたマガジンである。
内容も、1か月前のもの。
それを読みながら、・・・というのは、その
マガジンでは、「雑感集」というテーマで書いた
ので、今日は「子育て」についての雑感を
書いてみたい。

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●10月27日

 10月27日。
本当は、今日が、私の誕生日。
10月27日に生まれたのだが、父が役所へ出生届を出したとき、日にちをまちがえた。
父は、10月28日生まれとして、役所に届け出た。
それで私の誕生日は、10月28日になってしまった。
まちがいに気がついたのは、母の話では、私が小学校に入学するときだったという。
戸籍を調べたら、10月28日になっていた。

 10月27日でも、28日でも、どちらでもよい。
が、私は10月27日のほうが、好き。
子どものころは、ずっと10月27日が私の誕生日と思っていた。
そのときの思いが、今でも心のどこかに残っている。

その10月27日。
つまり、今日。
外では肌寒い風が吹いている。
庭の栗の木も、心なしか元気がない。
灰色の沈んだ空を背景に、葉をゆらゆらと揺らしている。

●Sさん

 先週、18年間私の教室に通ってくれたSさんの、大学合格祝いをした。
若いころは、18年間通ってくれた生徒も、少なくなかった。
が、今は、少ない。
中学生になるころ、あるいは高校生になるころ、進学塾へとみな、移っていく。

そのSさん。
大学が決まっても、まだ来年3月まで、通ってくれるという。
母親から電話があり、母親はこう言った。
「ずっと習慣になっていまして・・・3月まで、よろしくお願いします」と。

 18年というと、私の人生にとっても約3分の1。
(Sさんにしてみれば、全生涯!)
理知的な女の子で、ものごとを何度も頭の中でかみくだいて考える。
もの静かな女の子だが、振り返ってみると、私のそばにいつもいたような気がする。
私のそばにいて、ずっと私をうしろから見つめていた。
生徒というよりは、私の娘。
今にして思うと、そんな感じがする。

●よき親子関係

 「娘」と書いたが、もしSさんが私の娘なら、私はSさんはすばらしい親子関係
を築いたことになる。
Sさんは、何でも話してくれる。
私はSさんに、何でも話せる。
私はSさんの話を真剣に聞くし、Sさんもまた私の話を真剣に聞いてくれる。
それでいてたがいに礼儀をわきまえ、尊敬しあっている。

 一方、そこには、教師と生徒という関係もある。
私はSさんに命令したこともないし、Sさんを叱ったこともない。
何かを教えても、私はいつもそこでじっと待っていた。
Sさんもそれを知っているから、自分ができるまで、黙々と自分の勉強をこなした。

 ・・・そう言えば、Sさんが中学生のころは、そのクラスは生徒は2人だけだった。
経営的な意味では、採算が取れる教室ではなかった。
が、私は気にしなかった。
長く通ってきてくれる子どもについては、利益を考えことはない。
そのときすでにSさんは、8~10年間、私の教室に通っていた。

●A君

 が、みながみな、円満な別れ方をするというわけではない。
けんか別れのような別れ方をする生徒も、いる。
理由というか、原因は、子ども自身にある。

 子どもというのは、教室をやめたくなったりすると、親に、教室の悪口を言い始める。
「先生がまじめに教えてくれない」「ふざけて遊んでばかりいる」と。
子どもの常とう手段と考えてよい。
つまりこうして子どもは、親をして、「そんな教室ならやめなさい」と思わせるようにする。

 一方、私には、こう言う。
こうしたウソには双方向性がある。
「ママが、BW(=私の教室)なんか、やめて、S進学塾へ行けと言っている」と。
印象に残っている子どもに、A君(小4)という子どもがいた。
4、5年も前の話だが、A君は、こう言った。
「BWは月謝ばかり高くて、中身がないとママが言っていた」と。

 そこで私が「君のお母さんが本当にそんなことを言っているかどうか、電話で確かめて
みる」と言うと、A君は、泣きながら「それだけはやめて!」と。

 A君の母親は、A君の話だけしか聞いていないから、それこそ蹴飛ばすようにして、
教室を去っていった。
その月の月謝も、未納のままだった。
 
●バツ

 今朝のニュースにこんなのがあった。
どこかの小学校で、先生がバツ・サイコロというのをしていたらしい。
(今でもバラエティ番組などの中で、ときどき登場する。)
何かのことで悪いことをして先生に注意されたら、そのサイコロを振るのだそうだ。
それによってバツを決める。

 鼻くそをどうのとか、お尻をどうのとか、そういう内容のバツである。
バツの内容が、よくなかった。
それがセクハラ行為にあたるとかで、問題になった。
しかしもし教師と生徒、教師と親の間に、信頼関係があれば、こんなことは何でもない。
「遊び」で終わる。

 私の教室でも、居眠りをしていたり、あくびをしていたりすると、私は布でできた
ボールを投げつけることにしている。
もちろん当たっても、痛くない。
が、それ以上に、自閉傾向のある子どもには、この指導法は、たいへん効果的である。
集中力の欠ける子どもにも、効果的である。
若いころ、オーストラリアの幼稚園で、先生がそういうふうにして指導しているのを見て、
私もまねをするようになった。

 そのオーストラリアの幼稚園では、先生と生徒がキャッチボールをしながら、
授業を進めていた。
が、見方によっては、この方法は「体罰」に当たる。
しかしこの方法が問題になったことはない。
私の教室にはいつも参観している親たちがいる。
その親たちが、笑って見ている。
ボールを投げつけられた子どもにしても、それが楽しいらしい。
ボールを拾って、すかさず、投げ返してくる。

 それに・・・。
それがいやだったら、いつでも教室をやめることができる。
親や生徒の意思で、先生を取りかえることができる。
私もいつも、生徒たちにこう言っている。
「いやになったら、いつでもやめていいよ」と。

●相反した目的

 教師はいつも2つの相反した問題で、悩む。
「どうすれば、子どもたちを楽しませることができるか」という問題。
「どうすれば、子どもたちに学ぶことに耐えてもらえるか」という問題。

 わかりにくい書き方をしてしまったので、もう一度、書く。

(楽しさ)と(苦痛)を、いかに両立させるか、と。

 楽しさを追求すれば、勉強がどうしてもおろそかになる。
一方、勉強ばかりさせると、子どもが逃げてしまう。

 もうひとつ多くの進学塾がしているように、成績で子どもを脅すという方法もある。
「こんな成績では、○×中学には入れないぞ!」と。
しかしこれは邪道。

 で、さらに問題はつづく。

 楽しませようとすると、必要以上に乗りまくってしまう子どもが出てくる。
このタイプの子どもは、「教室」の秩序を、メチャメチャにしてしまう。
授業そのものが、成り立たなくなってしまう。
昔、こんなことがあった。

 B君というやや多動性のある子どもがいた。
こういうときはB君を抑えながら、ほかの子どもたちを楽しませなければならない。
教える方も、たいへん神経をつかう。
が、そのとき異変が起きた。

 私は楽しませているはずなのに、ふとB君の両側の子ども(女児)を見ると、2人も
涙ぐんでいるではないか。
「どうしたの?」と聞くと、「先生が、こわい」と。

 B君には鋭い視線を投げかけていた。
B君をこまかく注意しながら、授業を進めていた。
それが両側にいた子どもに、影響を与えていた。

●親との問題

 学校の先生は、みな、こう言う。
「教育という職業は、すばらしいです。親が介在してこなければ、もっとすば
らしいです」と。

 親と言っても、いろいろな親がいる。
10人のうち、9人まではよくても、残りの1人に問題があると、教師はとことん
神経をすり減らす。
で、その鍵を握るのが、親と教師との間の信頼関係ということになる。
信頼関係があれば、よし。
そうでなければ、ささいなできごとが、そのまま大きな問題となってしまう。

 たとえば体罰にしても、体罰を問題にするのは、体罰を受けた子どもの親ではない。
その体罰を見ていた子どもの親である。
むしろ体罰を受けた子どもの親は、感謝するケースのほうが多い。
(だからといって、体罰を肯定しているわけではない。誤解のないように。)

 しかし今、教師がプリントを丸めて子どもの頭をたたいただけで、親たちは、
「そら、体罰だ」と言って騒ぐ。
それはそれで仕方のないことかもしれないが、こうした親たちの姿勢が、教師を
萎縮させる。
その結果、教育の内容そのものまで、萎縮してしまう。

 で、私の住む地域でも、万事、事なかれ主義が蔓延し始めている。
「やるべきことはやります。しかしそれ以上のことはしません」と。
たとえば小学2年生で、かけ算を学ぶことになっている。
昔は(20~30年前は)、かけ算ができなかったりすると、教師は残り勉強をさせてでも、
子どもに九九を暗記させた。
子どもが泣いても、暗記させた。
かけ算でつまずくと、そのあと、いろいろな学習でつまずくようになる。

が、今は、それをしない。
通り一遍のことを教えて、それで終わってしまう。
またそういう指導の仕方は、自粛されている。
それがよいことなのか、悪いことなのかということになれば、悪いことに決まって
いる。

 結果、中学生でもかけ算のできない子どもが、続出している。
「七八(しちは)?」と聞かれても、即座に、「56」と答えられないなど。
「約20%の中学生がそうでないか」と言われている。

 教育力の低下がよく問題になる。
たしかに低下している。
しかしその原因の大半は、親にある。
どうして親たちは、もっと自由に、子どもの教育を学校の教師に任せないのか。
親が介在してくるから、話がおかしくなる。
それが「親が介在してこなければ、もっとすばらしいです」という言葉になって、
はね返ってくる。


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

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