2010年10月23日土曜日

*Jesus himself explained this loneliness.

【孤独論】
Jesus himself experienced this loneliness.(マザーテレサ)

●孤独

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どこかの男性が、110番に繰り返し電話、
警察に逮捕されたという。
年齢は、62歳。
しかも、学校元教諭。
理由について、「さみしかったから」と。

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●実兄

 この話を聞いて、私は真っ先に私の実兄のことを思い浮かべた。
兄は、ちょうど今の私の年齢のころから、夜になると、あちこちに電話を
かけた。
もちろん私のところにも、毎晩のようにかかってきた。
が、電話に出ると、何かをボソボソ言ったあと、そのまま電話を切ってしまった。

 兄もさみしかったのだろう。
毎日が孤独との闘いだった。
友もいなく、家族もいなく、話し相手もいなかった。
母と同居していたが、その母も、兄にはつらく当たっていた。
それを思うと、つまり今になってみると、もっと話を聞いてやればよかったと、
悔やまれる。

 孤独は恐ろしい。
本当に恐ろしい。
あのマザーテレサも、孤独の恐ろしさを説いている。
「キリストでさえも孤独だった」と説き、その苦しさを、『渇き』に
たとえている※。

●実兄

 その男性は62歳。
若い!
家族はいなかったのか。
あるいは認知症か何かになっていたのか。
私の兄のばあいは、うつ病と診断されていた。
しかし62歳というのは、若すぎる。
私と同じ年齢というだけで、そう判断するのは正しくない。
しかし私は、そう思う。

何があったのか。
新聞報道では、そこまで詳しくは書いてない。
しかしけっして他人ごとではない。
私も、日々に、心のどこかで孤独と闘っている。

●ひとりでは生きていけない

 人間は、ひとりでは生きていかれない。
「ひとり」というのは、だれにも愛されず、だれをも愛せずという意味。
だれにも相手にされず、だれをも相手にせずという意味。
死んでも悲しんでくれる人はいない。
死んでも悲しむ人もいない。

 一度そうなると、生きていること自体が、乾いた砂のようになる。
味気なく、つまらない。
すべてのものが色あせ、何をしても虚しい。

●孤独との闘い

 「生きていけない」ということは、つまるところ、そのまま「死」につながる。
死ぬことが、最後に残された希望ということになる。
「希望」というよりは、「最後の逃げ道」?

 希望には、それにつづく未来がある。
しかし死には、それがない。
そこですべてが終わる。

 だからだれしも、自らを孤独の世界に追い込まないようしている。
自分の置かれた環境を整えようとする。
意識的な行動というよりは、無意識的な行動ということになる。
心のどこかで孤独を感じながら、孤独にならないよう、自らを回避させる。
それが孤独との闘いということになる。
 
●だれが石もて打てる

 愛にせよ、幸福にせよ、そして孤独にせよ、どれも実感しにくい。
「形」がない。
が、賢明な人は失う前に、愛の価値を知り、幸福の価値を知る。
孤独になる前に、孤独の恐ろしさを知る。
しかしそうでない人は、失ってから、愛の価値を知り、幸福の価値を知る。
孤独になってはじめて、孤独の恐ろしさを知る。

 が、いくら賢明であっても、人生というのは、ときに空回りをする。
あれよあれよと思うまもなく、人生そのものが、自分の望む方向とは
逆の方向に進んでしまう。
その人の責任というよりは、その人の力では、どうにもならない。

 だから・・・というわけでもないが、冒頭の男性を、だれが笑うこと
ができるだろうか。
私には、できない。

 こんな人もいた。

●詰め所でひとり

 この浜松で、かなりの財を築きあげた男性がいた。
高度成長、それにつづくバブル経済をうまくくぐりぬけ、巨億の富を蓄えた。
が、その男性は数か月の入院生活のあと、亡くなってしまった。
その入院生活をしているときのこと。
その男性は、毎晩夜になると、看護士の詰め所の隅で、眠っていたという。
三角座りをしたまま眠っていたという。

 家族というか、娘は近くに1人いたが、断絶状態にあった。
看護士が娘にときどき電話をかけたが、死ぬまで一度も、面会に来なかったという。

●たった1人

 たった1人でも、本当に愛し、理解してくれる人がいたら、
その人のもとで、安らかに死ぬことができるだろう。
たった1人でよい。
心底許しあい、心底忘れあえる人が、1人、いればよい。

 その人が、いるかどうか。
あるいは一生かかって、そういう人を1人、もつことができるかどうか。
それが人生の最大の目標ということになる。
多くは、夫や妻が、その人ということになる。
親友かもしれない。
あるいは高徳な信仰者だったら、神や仏がその「人」かもしれない。

●許して忘れる

 愛の深さ(=「許して忘れる」の度量の広さ)が、孤独に強くするのか。
それとも孤独が、愛を深くするのか。
どちらであるにせよ、愛と孤独は、紙で言えば表と裏のようなもの。
愛を深めながら、人は孤独と闘い、孤独と闘いながら、愛を深める。
愛の価値を知る。

 たとえば『許して忘れる』。
それをしなければ、家族にせよ、友にせよ、みな、どんどんとあなたから離れていく。
だから『許して忘れる』。
これを繰り返していると、反対に、家族にせよ、友にせよ、再びあなたのもとに、
戻ってくる。

 ただ誤解していけないのは、孤独というのは、その状況にならないと「顔」を出さない
ということ。
それまでは心の奥に潜んでいて、あなたの心のスキをねらっている。
病気になったとき、だれかと離別したとき、事業に失敗したときなどなど。
そういうときに顔を出し、私やあなたを一気に孤独地獄へとたたき落とす。
それまで「オレはひとりでも生きていかれる」と豪語していたような人でも、その
とたんにガタガタになる。

●うつ病

 冒頭にあげた男性のばあい、何かの心の病気になっていた可能性もある。
認知症から、うつ病になる人がいる。
うつ病から、認知症になる人がいる。
どちらが先で、どちらがあとかということは、専門家でも判断がむずかしいという。

 私の知人に、現在、そういった人が3人いる。
みな、家の奥に引きこもってしまい、寝たきりの状態にある。
だれにも会わない。
一日中、暗い家の中でじっとしている。

 共通しているのは、たまたまその3人とも女性であること。
とくに不思議なのは、よい家族に恵まれていること。
「孤独」とは、とても言えない世界に住んでいる。
やさしくて、思いやりのある夫、それに息子や娘たちに囲まれている。
そういう人たちがみな、近くにいて、その人の世話をしている。
心配している。
が、それでもそうなる人は、なる。

 これについて私のワイフは、こう言った。
「いい家族に恵まれていると、かえって『がんばらなくちゃあ』という気持ちが
弱くなるのでは?」と。
しかしこれは俗説。
うつ病かどうかは別として、心の病気は、その向こうで起きる。
つまりその人の意思ではどうにもならない。
意思でコントロールできるようなものではない。

●昔の家族

 田舎の人たちの生活をみていると、そこにいつもだれかが出入りしているのが
わかる。
近所の人、親類の人などなど。
「プライバシーが守れない」と若い人たちはこぼすが、プライバシーという概念
そのものが通じない。
その家の家計の内容まで、たがいに知りつくしている。

 そういう生活にはデメリットもあるが、その反面、メリットもある。
いわゆる「温もり」というメリットである。

日本の社会は、つぎの社会への準備期間もないまま、現代という今の
社会に移行してしまった。
「核家族」という名のもと、親子関係だけは濃密になった。
が、「核家族」というときには、そこには両親の姿はない。
兄弟姉妹、親戚の人たちの姿もない。
あるのは、親と子、だけ。

そのためかえって、「家族」はバラバラになってしまった。
その結果が、今。
わかりやすく言えば、周囲の人たちとの(つながり)、つまり温もりが
消えてしまった。

●「さみしかったから」

 どんな気持ちだったか?
110番へ繰り返し電話をかけたとき、どんな気持ちだったか?
「さみしかったから」ということになるが、本人は逮捕覚悟の上での行為
だったという。
「逮捕されれば、話し相手ができる」と。
つまりその元教諭は、そこまで追い詰められていた。

もしほんの少しだけ勇気があったら、その元教諭は自ら命を絶っていたかもしれない。
この世の中、生きていくのもたいへんだが、死ぬのもたいへん。
簡単には、死ねない。
そういう人は、ただ生きていく。
それしかない。
昼はあてどもなく歩きつづけ、夜は夜で、夜の暗闇におびえる。
人に会っても、乾いたあいさつだけ。
心を開くこともない。
「さみしい」という言葉を使うなら、その男性は、さぞかしさみしかった
ことだろう。

●心の傷

 私は子どものときから、ずっと孤独だった。
昔の私を知る人は、私のことを、明るく朗らかだったという。
しかし私は孤独だった。
いつもさみしかった。
「家庭」といっても、家庭そのものがなかった。
「家族」といっても、みな、心はバラバラだった。

 当時としては、むしろ恵まれた家庭だったかもしれない。
が、私の居場所はなかった。
家の中では、どこにいても落ち着かなかった。

 その状態は、今も、変わらない。
60歳を過ぎた、今も、変わらない。
恐らく死ぬまで、変わらないだろう。
何度も努力はしてみたが、振り返ってみると、いつもあきらめるしかなかった。
だから今は、あまり考えないようにしている。
だれにもひとつやふたつ、弱点がある。
過去を消すことができないように、心の傷も消すことはできない。
過去を消しても、心の傷だけは残る。

●老後

 老後は、孤独との闘いといってもよい。
それについて義兄は、こう言った。
「どこかのクラブに入って、仲間をつくったらいい」と。

 それもひとつの方法かもしれない。
しかし長生きをすればするほど、皮肉なことに、そこに待っているのは、孤独。
だから私はワイフと、ときどきこんな会話をする。
「ぼくは、お前より、先に死ぬよ」と。
ワイフも私の弱点をよく知っているから、こう言う。
「そうね・・・。それがいいわねえ」と。

 その男性は、110番に繰り返し電話をして、逮捕された。
警察には警察の立場がある。
そういう形で、110番を利用されたら、困るだろう。
それはわかるが、しかしだれがそういう男性を、石もて打てるか。
まさに、明日はわが身。

 今回のこの事件ほど、身につまされたものは、なかった。
これ以上、言葉がつづかない。

(補記)●闇恐怖症

 昼間は何とか、ごまかせる。
こわいのは夜。
闇。
ひとりぽつんとしていると、ひしひしと孤独感が襲ってくる。

 こうした恐怖感は、そうでない人には、理解できない。
私のワイフもその1人。
結婚して37年になるが、いまだに、「気のせいよ」と言い、
話すら聞いてくれない。
のんきな性格で、本当にうらやましい。

昨夜もこたつの中でうとうとしていたら、「そんなところで寝ると
風邪をひくわよ」と。
私はワイフが寝るのを待っていたが、ワイフはそのまま寝室のドアを
閉めて、先に寝てしまった。
そういうとき、言いようのない孤独感が、襲ってくる。

 こういうのを「闇恐怖症」というのか。
あまり聞かないが、恐怖症には定型がない。
その人のもつトラウマに応じて、千差万別に姿を変える。
今の状態からして、ワイフにしても、それを理解するのは、不可能だろう。
私はそのままじっと、闇の恐怖に耐えながら、こたつの中で寝た。

(注※)マザーテレサ

●孤独は、無間の地獄

孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。この中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger.  キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物としてのパンを求める空腹を意味したのではなかった。

彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 孤独論 マザーテレサ hunger 渇き イエスキリスト はやし浩司 2010-10-23)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

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