2010年10月4日月曜日

*Can ore-school children understand Division?

【幼児に分数を教えてみる】BW実験教室(浜松)Hamamatsu Japan
(幼児に分数の概念は理解できるか? 幼児の能力と可能性についてbyはやし浩司)

●嫌われ代行業

「教育」とはいうものの、中身は、嫌われ代行業。
勉強が好きで学校や塾へ通う子どもは、まずいない。
イギリスでは、『学校監獄論』が、今でも根強く残っている。
『子どもは生まれながらにして、10年の懲役刑が科せられる』という格言もある。
勉強にはある種の苦痛がともなう。
その苦痛が、子どもをして、勉強から遠ざける。

そこでまだ判断力の乏しい幼児の段階から、「勉強とはしなければならないもの」という
意識を叩き込む。
またこの時期を逃すと、その(しつけ)はむずかしい。

中には、きれいごとを並べる人もいる。
そうでもしなければ、自己否定につながってしまう。
しかし本音を言えば、嫌われ代行業。
ついでに言えば、人間選別機関。
日本では、明治の昔には、「もの言わぬ従順な民づくり」が教育の柱になっていた。
「戦争に行け!」と言われれば、黙ってそれに従う。
それが「民」としてのあるべき姿と考えられていた。

かなり過激な、かつ否定的な教育観だが、もちろんそれだけではない。
一部だが、「学ぶことの楽しさ」もある。
「教えることの楽しさ」もある。

私はこの2つを、自分の教室を通して、追求してきた。
「幼児教室」というと、誤解と偏見に満ち溢れている。
数か月前だったが、AERAという雑誌が、「早期教育無用論」を載せた。
「幼児期に文字を覚えても、小学校ですぐ追いつかれる」と。
古典的というより、時代錯誤もよいところ。
引用した文献が、1970年以前のもの。
何も文字教育だけが、幼児教育ではない。

たとえば今週、私は幼児に「分数」を教えてみた。
「分数の概念」と書くほうが正しい。
幼児たちが、どこまで食いついてくるか、それを知りたかった。
その様子は、YOUTUBEのほうに収録しておいたので、興味のある人は、
(はやし浩司のHP)→(BW公開教室)へと進んでみてほしい。

とくにAERAの編集部の人たちには、見てもらいたい。
誤解と偏見を解いてもらいたい。
そのかわり、幼児たちの思考の柔軟性、可能性にもっと率直に驚いてほしい。
「幼児に分数?」と驚いているあなたたちのほうが、おかしい。
それをわかってほしい。

つまり私は嫌われ代行業。
親に嫌われ、子どもに嫌われ、社会に嫌われ……。
それを納得した上で、「そうであってはいけない」「そうでない教育もあるはず」と、
ずっと考えてきた。
今がその結果ということになる。

で、今日、分数(分数の概念)を教えてみた。
結果は、大成功。
子どもたちがずっと笑っていた。
その笑い声こそが、成果!
幼児でも、ちゃんと分数の概念を理解することができた!

なおこの時期に、分数の概念の「種」を蒔いておくと、(私はよく幼児教育は種蒔きと
思うことがある)、そのあと子どもたちは自分の力でその種を育ててくれる。
学校の勉強で役立つとか、立たないとか、そんなことは考えない。
考えても意味はない。

なぜなら学校のカリキュラムにしても、神様が決定したものではない。
DNAの中にそれが組み込まれているわけでもない。
AERAにしても、「へたに先取りしてできるようになると、学校の勉強が
つまらなく見えてくる」というようなことを書いていた。
一体、何十年前の話?

高校生の大半が授業中に居眠りをしているという現実を、AERAは、どの程度
知っているのか?

AERAばかりを攻撃したが、そのときの反論記事を末尾に再掲載しておく。

少し頭が熱くなったが、だからといって教育を否定しているのではない。
要するに、内容と教え方。
それを見失うと、「教育」ほど、つまらない仕事はないとなる。

今日、ひとつの実験教育として、幼児に分数を教えてみた。
改めて繰り返す。

幼児のもつ柔軟性、可能性をもう一度、YOUTUBEを見て、再確認してほしい。

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【YOUTUBE】












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年月に書いた原稿です。

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●反響(AERA・アエラの記事への反論)

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数日前、雑誌「AERA」の記事に対して、
反論原稿を書いた。
その原稿にたいする反響には、ものすごい
ものがある。
直接的な意見はまだ届いていないが、「アラーム」
という機能を使うと、反響の大きさが、数字でわかる。
私の原稿を取り上げたBLOGやHPの数が、
そのまま、数字として、表示されるしくみになっている。

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●「AERA」の記事

 「早期教育効果は小学生で消える」と題した、雑誌「AERA」の記事を要約すると、こうなる。

 早期教育の一例として、「読み書き」をあげ、幼児期に読み書きを教えても、その効果は小学校で消える。
そればかりか、無理な学習が、子どもを勉強嫌いにしてしまう。
「臨界期」というのは、科学的に証明されたものではない。
むしろ家で、先取り教育をすると、子どもは学校での勉強をつまらなく思ってしまうようになる……などなど。

 その一例として、5~6歳児が、小学5年生で学ぶ漢字を書いた子どもの例、高校へ入ったとたん、無気力になってしまった子どもの例などが、書いてあった。

 その底流に見え隠れするのは、「塾必要悪論」、もしくは、「家庭教育不要論」。
結論は、「あわてて教育しても、無駄」と。

私はその記事を一読して、「これはいつの原稿か?」と、ライターの常識というよりは、年齢を疑った。
今から25年ほど前の原稿というのなら、まだ話もわかる。
しかし今、どうしてこの時代に?

●親子のふれあい

 たまたま先月、私は、「ママターナル・デプリベイション(Maternal Deprivation)(母性愛欠乏)」についての原稿を書いた。

マターナル・デプリベイションというのは、「乳幼児期の母子関係の不全」をいう。
乳幼児期に、母子関係が不全だったりすると、それが後々、さまざまな症状の遠因となることがある。
その一部を、転載する。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

子どもというのは、心豊かな家庭環境、とくに心豊かな母子関係の
中で、心をはぐくむ。
が、母親側に何かの問題があり、本来あるべき母子関係が
築けなくなることがある。
育児拒否、ネグレクト、育児放棄、母性愛の欠落、虐待、暴行など。
また自分の子どもであっても、子どもを愛せない母親は、
8~10%はいる。
こうした母親側の育児姿勢が日常化すると、子どもには独特の
症状が現れるようになる。
ホスピタリズム(施設病)に似た症状を示すと説く学者もいる(後述)。

その第一が、他者との共鳴性の欠落。
わかりやすく言えば、心の温もりを失い、心の冷たい子どもになる。
他人の心の痛みが理解できない。
相手の立場に立って、ものを考えることができない、など。
そのため年齢を重ねるについれて、自分より弱い者をいじめたり、
自分より弱い立場にある動物を、虐待したりするようになる。

さらに成人してから、心の病気となって発現することもある。
ネットを使って、そうではないかと思われる症状をもった人を、
参考までに拾ってみた(2チャンネルより)。

もちろんここにあげた人たちの症例が、マターナル・デプリベイション
が原因というわけではない。
その疑いがあると、私が思うだけの話である。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●早期教育

 雑誌「AERA」では、「親子のふれあいこそ大切」と書いている。
しかしそんなことは、今では、常識。
常識中の常識。
が、それはここにも書いたように、「マターナル・デプリベイション」という分野で、考えられるべき問題。

が、どうしてそれが、「早期教育」と結びつくのか?
「早期教育不要論」と結びつくのか?

 要するにAERAのライターは、「無理な早期教育の結果、親子のふれあいが犠牲になる」と言いたいのだろう。
が、ここでライターは、巧みに言葉のトリックを使っている。
(あるいは、「早期教育」の意味さえ、知らないのでは?
「先取り教育」と「早期教育」を混同している?)
何も文字の「読み書き」だけが、早期教育ではない。
また早期教育をしたからといって、親子関係が破壊されるというものでもない。

 AERAでは、無理に進学塾へ通わされた子どもの例や、目的の学校へ入学したとたん、無気力になってしまった子どもの例などをあげている。
そしてその上で、「臨界期なるものは、科学的に証明されたものではない」と。

 ?????

 ライターは、自説を補強するため、20年前、40年前の資料を、(~~教授)などと実名を添えて、並べている。
こうした手法は、多くのライターが使う。
自説に不安を感じたとき、権威者の名を借りて、それを補強する。
それにしても古すぎる!

 が、「臨界期」はある。
また臨界期をはずすと、人間は人間でなくなってしまうこともある。
その一例が、「野生児」である。
インドで1920年代に見つかったオオカミ姉妹にしても、同じころフランスで見つかった、ビクトールという少年にしても、それ以後、人間生活に復帰することはなかった。
言葉すら、覚えなかった。
人間らしい人間の心を取り戻すこともなかった。

 もっと簡単な例で言えば、小学校へ入学してから、音楽教育をほどこしても、そこそこの才能を見せるようになることはあっても、そこまで。
あえて言うなら、「読み書き」(=国語能力)について言えば、親子のふれあいというよりは、母親の言語能力が子どもに大きな影響を与える。
母親が、「ホラホラ、バスバス、ハンカチ、もった?」というような話し方を日常的にしていて、どうして子どもに国語力がつくというのか。
こういうとき母親は、子どもには、こう言う。

「もうすぐ、お迎えのバスが来ます。あなたはハンカチをもっていますか」と。
つまりこれが、わかりやすく言えば、「早期教育」である。

 AERAは、5~6歳の子どもが、小学5年生で習う漢字を書いている例をあげている。が、私は、40年近く幼児と接しているが、そんな子どもを見たことがない!
もしいるとしたら、自閉症(アスペルガー)の子どもということになる。
このタイプの子どもは、ある特定のことがらに、ふつうでない(こだわり)をもつことがある。

●小学校で消失?

 「計算力」と「算数の力」は、別。
計算力は、訓練で身につく。
しかし算数の力は、簡単には身につかない。
生活環境やその子どもの知的能力が、大きく影響する。

 同じように、「読み書き」と「国語の力」は、別。
読み書きは、訓練で身につく。
しかし国語の力は、簡単には身につかない。
生活環境やその子どもの知的能力が、大きく影響する。
ともに「思考力」の問題ということになる。

 その「思考力」を養うのに、早すぎるということはない。
乳幼児期でも、早すぎるということはない。

 が、AERAは、(読み書き)を例にあげ、そうした力は、小学校で消失する、と。
だから「早期教育は不要」と。
バカバカしいというか(失礼!)、反論するのも、疲れる。

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司・林 浩司

●早期教育効果は小学生で消える(?)「AERAの記事に、疑問あり!」(改訂版)

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こんな記事が、AERAという雑誌に載っていた。
いわく「早期教育効果は、小学生で消える」と。

つづいて、
「……小学校入学前に読み書きを習得する子どもは多い。その風潮に警鐘を
鳴らす研究が報告されている。本質的な学力を決めるのは親子関係だという」と。

しかしこの原稿には、いくつかの言葉のトリックがある。
その第一、「早期教育」を、「読み書き」にすり替えている。

たしかに「読み書き」については、その効果は「小学校で消える」。
たとえば計算力にしても、幼児期に速くできるようになったからといって、
それがそのまま「数の力」に結びつくとはかぎらない。

よい例が、幼稚園によっては、かけ算の九九を暗唱させているところがある。
が、九九が言えるようになったからといって、「算数の力」が身についた
ということには、ならない。

が、こんなことは常識。
その常識を、逆手に取って、「小学生で消える」とは?

さらに言えば、消えたところで、無駄とは言い切れない。
その上に、さらに新しい知識を組みあげていく子どももいる。
(そうでない子どもも、もちろんいるが……。)

あえて言えば、「早期教育」と言っても、「知識教育」から離れ、最近では「考える子ども」
にするのが、ひとつのテーマになってきている。
ごく最近では、「Active Learning」という言葉も使われるようになった。
「ものごとに積極的に取り組む子どもにするための指導」という意味である。

「文字の読み書き」ではない!

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●読み書き

 「読み書き」をもって、早期教育と位置づける。
「だから、早い時期から学んでも、意味がない」と。
この原稿の最大のミスは、ここにある。
つまりこの原稿を書いた人は、「幼児教育」というのが、何であるか、よくわかっていない。
「早期教育」、さらには「先取り教育」の意味もよくわかっていない。
さらに最近話題になっている、「臨界期」という言葉も、知らない?

 たとえば、こんなことも書いてある。

「また、別の研究でも、漢字の習得では、早期教育を受けなかった子どもとの差は小学校
2年生ごろに消滅し、むしろ国語嫌いは早期教育を受けた子に多かったということもわか
っている(黒田実郎、「保育研究」)」(AERA)と。

(しかしこの資料も、調べてみたところ、1969年「日本保育学会」「就学前の幼児の恐
怖」の中に収録されているものとわかった。
1969年といえば、40年以上も前!
大阪万博の前の年の資料!)

 それはさておき、それはその通り。
無理な文字指導が、子どもを文字嫌いにするという例は、多い。
その(文字嫌い)が悪循環となって、子どもを(国語)から、遠ざける。
たとえば年中児でも、「名前を書いてごらん」と声をかけただけで、体をこわばらせる子ど
もは、いくらでもいる。
中には涙ぐむ子どもさえいる。
文字に対して恐怖心をもっているためである。

 こんなことは、少し幼児に接してみれば、だれにでもわかること。
また幼児に接した経験のある人なら、だれでも知っている。
それを、ことさら学者名まで出して強調するところが、わざとらしい。

 逆に、世界広しといえども、幼児期の幼稚園教育で、文字の読み書きを教えないのは、
この日本だけ。
そういう事実をさておいて、あたかも「幼児期に、文字教育は必要なし」というような印
象を与えるのは、どうか。
誤解というより、偏見。

 そして「文字教育」を例にあげながら、「幼児期には何もしないほうがいい」というよう
な印象を読者に与える。

こうした論法には、「?」マークを10個くらい、並べたい。
大切なことは、「教える」ではなく、「文字の読み書きは楽しい」ということを教えること。
それが幼児教育。
またそれが重要!

●偏見

 さらに……。

「……早期教育熱はやがて中学受験熱に変わる。Aさんの長女は、過酷な競争を勝ち抜き
都内の難関の中高一貫進学校への入学を果たしたが、その後勉強熱が急速に冷めてしまっ
た。競争の激しい進学校で成績は伸びず、大学受験は苦労した。

 有名中学に合格し、張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れてしまったかのように、そ
の後の成績が伸び悩む例は多い。子どものストレスは早期教育で終わらない。小学校に入
れば塾通い、中学受験、それが終わっても大学受験と、常に急き立てられていく」(AER
A)と。

 これを読んだときには、ア然とした。
このライターは、「燃え尽き症候群」「荷下ろし症候群」という言葉さえ、知らない?
そんな印象すらもった。

 たしかにこのタイプの子どもは、多い。
浜松市内の進学高校でも、高校入学と同時に、約20%の子どもが、燃え尽きる。
そのため無気力になったり、怠学に陥ったりする。
それはそれだが、だからといって、みながみな、そうなるわけではない。
何も受験競争の肩をもつわけではないが、「だから教育は無駄」式の論法には、首をかしげ
る。

 つまりここでも、「受験競争」と「早期教育」を、言葉のトリックを使ってすりかえ、読
者を煙に巻いている。

●親子のかかわり

 幼児教育の第一は、「親子のかかわり」で始まる。
またそれで終わる。
その重要性は、基本的信頼関係に始まって、心の育成などなど、今さらあえて説くまでも
ない。
が、ここでも、このライターは、言葉のトリックを使っている。
つぎの文章を、よく読んでほしい。

 「……長男は文字をほとんど書けないまま小学校に入学した。入学後、近所の5歳の女
の子が持っていた「お勉強ノート」を見て圧倒された。画数の多い小学校中学年向けの漢
字がびっしりとノートのマスを埋めていた。入学後も、わが子がカタカナに四苦八苦する
傍らで「5年生の漢字が書けるよ」「九九できるよ」と豪語する級友の存在を知り、長男が
勉強についていけるか心配になった。

 しかし、お茶の水女子大学の内田伸子教授(発達心理学)は、文字の読み書きなどの早
期教育に批判的だ。内田教授は昨年秋の東アジア学術交流会議で「幼児のリテラシー習得
に及ぼす社会文化的要因の影響」調査を発表した」(AERAより)と。

 ある親は、ほかの子どもが、スラスラと漢字を書いている子どもを見て、ショックを受
けたという。

(5~6歳の子どもが、5年生の漢字を書く?
しかし私は幼児教育を40年もしているが、そんな子どもを見たことがない!
本をスラスラと読む子どもはいたが、漢字を書いた子どもは知らない。
もし本当にいるとするなら、心に何らかの障害をもった子どもということになる。
その子どもがそうというわけではないが、たとえば自閉症の子どもは、ある特定のことが
らに、ふつうでない(こだわり)を示すことがある。
全国の駅名を暗記する、どんな音楽でも一小節を聞いただけで、曲名を当てる、など。
5歳児が、5年生の漢字を書くというのは、おおげさというか、きわめてマレなケース。)

 つまりそういうトンデモナイ例を引きながら、その一方で自分の原稿に権威付けをする
ため、大学の教授名を並べる。
いわく、「……すでに内田教授は20年以上前に実施した調査で、3、4歳で文字を習得し
ている子と、習得していない子との差は、小学校入学後に急速に縮まり、1年生の9月に
は両者の差は消えてしまうということを指摘してきた」と。

 (この資料も、20年前の資料!)

●過熱する幼児教育?

 早期教育というと、文字教育と考える。
早計というか、無知。
無知というか、誤解。
あるいは偏見。
私も「文字」をテーマに、レッスンを進めることは多い。
しかし「文字を教えよう」という気持ちは、さらさらない。
先にも書いたように、「文字は楽しい」ということは、教える。
もっと言えば、子どもたちを、楽しませる。
「文字は楽しい」という思いが、良循環となって、その子どもを前向きに引っ張っていく。
それが幼児教育。
その重要性は、ここに改めて書くまでもない。

 それをさておいて、「子どもには、必要な栄養食品だけを与えておけばいい」
「料理は無駄」と。
さらに言えば、こんなことも言える。
「大学へ入っても、無駄。人生の結論は、死ぬときの死に際の様子で決まる」と。
どこかのカルト教団が、信者たちにさかんに説いている言葉である。
このライターの(おかしさ)は、その一点に集約される。

●不適切な指導

 このライターの意見によるまでもなく、不適切な指導で、伸びる芽すら摘まれていく子
どもは、多い。
たとえばここでは「読み書き」がひとつのテーマになっている。
実のところ私の二男もそうだった。

 私の二男は、生まれつき、左利き。
私たち夫婦は、自然の流れに任せた。
が、小学校へ入学して一変した。
学校の先生から、「文字は右手で書かせてください」と。
担任の先生が、書道の先生であったことも、災いした。

 毎晩、二男は泣きながらノートに漢字を書いていた。
鏡文字はもちろんのこと、書き順もめちゃめちゃ。
で、1年もたったころ、私は学校の先生に向かって、こう宣言した。
「息子は、左利きで通します。無理な指導は結構です」と。

 それに対して先生は、こう反論してきた。

「冷蔵庫でも、何でも、右利き用にできています。
不便を感ずるのは、あなたのお子さんですよ」と。

 が、さらに私は反論した。
「そんなことは、慣れれば何でもないことです!」と。

 そういう問題はある。
あるが、一方的に、「消滅するから無駄」という論法には、かなり強い違和感を覚える。

●針小棒大論

 受験塾の受験競争には、私も批判的。
擁護したことは、一度もない。
しかしそれは「学習」という面からではなく、「心の育成」という面から、問題にしてきた。
またそのような趣旨で、原稿を書いてきた。

 それをストレス説と結びつけて、「子どもの教育はストレスにつながる」と一方的に決め
つけている。
さらにいつの論文かは知らないが、「脳神経学的に胎児期や乳幼児期の早期教育の有効性を
正当化する科学的根拠はないとしている」(お茶の水女子大学の榊原洋一教授は、著書『子
どもの脳の発達臨界期・敏感期』)と。

 だったら、「野生児」の問題など、なかったはず!
ある時期、親子のふれあいのなかった子どもが、どうなるか?
野生児と呼ばれた子どもを知っていれば、こんな意見は出てこないはず。
「科学的根拠」というが、その研究は、今、始まったばかり。
「臨界期」という言葉が、再びクローズアップされてきたのは、ここ数年のこと。

 そこでこの本(『子どもの脳の発達臨界期・敏感期』)の発行年月日を調べてみたら、2
004年とわかった。
6年前!
現在は、廃刊になっている。
当時は「科学的に」は、無理だったかもしれない。
が、ここ数年の、脳科学の進歩には、著しいものがある。
脳の中の動きを、リアルタイムで観察することもできるようになった

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