2010年10月31日日曜日

*TFぃghtおfmySon from Haneda to Okinawa

【息子の初飛行】はやし浩司 2010-10-29

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息子の初飛行について書く前に、息子が
航空大学校の学生のとき、単独飛行したときに
書いた原稿を添付します。

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【息子の初フライト】

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今日(29日)は、息子が、はじめて
名古屋空港(小牧)にやってくる日。
ワイフが、朝早く、小牧まで、でかけて
いった。

私は、ひとりで、留守番。

見たかった。私も、飛行機、大好き。
飛ぶのが、大好き。「飛ぶ」というより、
飛ぶものが、大好き。

小学生のころ、板で翼(つばさ)をつくり、
それを両腕に結んで、1階の屋根から
飛び降りたこともある。

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 今日(1月29日)は、息子が、はじめて名古屋空港(小牧)にやってくる日。ワイフがそれを迎えるため、朝早く、小牧まででかけていった。

 が、私は、ひとりで留守番。見たかった。私も飛行機、大好き。飛ぶのが大好き。「飛ぶ」というより、飛ぶものが大好き。ラジコンはもちろん、ロケット、紙飛行機にいたるまで、ありとあらゆるものが、大好き。ついでに鳥も、大好き。

 こんな思い出がある。

 小学生のころ、板で翼(つばさ)をつくり、それを両腕に結んで、1階の屋根から飛び降りたことがある。板には、大きな紙を張りつけた。私はそれで空を滑空するつもりだった。

 結果は、みなさん、予想のとおり。ドスンと地面にたたきつけられて、それでおしまい。体が軽かったこともあり、たいしたけがもしないですんだ。私が、小学3年生くらいのことではなかったか。年齢はよく覚えていない。

 以来、私は、飛行機人間になった。パイロットになるのが、夢になった。が、中学生になると近眼が進んだ。当時は、近眼の人は、パイロットにはなれなかった。みなが、そう言った。だからあきらめた。

 そこで今回は、息子のBLOG特集。今までに息子が書いた記事を集めてみる。

 言い忘れたが、今日は、仙台→名古屋→宮崎、明日(30日)は、宮崎→高知→仙台というルートで飛ぶという。明日(30日)は、正午ごろ、浜松の自衛隊基地上空を通過するとのこと。
高度は、1500フィート、約4500メートル。

 双発のジェット小型機。もしその時刻に空を見あげることができる人がいたら、ぜひ、見てほしい。「私」が飛んでいる!

++++++++++2007年1月30日+++++++++++

【黄色い旗】

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2007年1月30日。
息子のEが、自分で飛行機を操縦して、
はじめて、浜松市の上空を飛ぶ。

そこで、私は、2メートル四方の大きな
旗をつくった。テカテカと光る黄色い旗である。

それを地上から振り、息子に合図を送る。

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●電話

 高知県の高知空港から、連絡が入った。「これから高知空港を飛び立って、浜松に向う」と。
私は、すかさず、「何時ごろ?」と聞く。

E「1時から、1時半ごろの間だよ」
私「わかった。ぼくとママは、自衛隊基地の南西の角地で、旗を振る。黄色い、大きな旗だ」
E「見えるかなあ?」
私「南西の角地だ。わかったか。そこを見ろ」と。

 一度、電話を切ったものの、すぐまた電話。今度は、こちらからかけた。

私「そうそう、飛行機はどちらの方向から飛んでくるんだ」
E「真西から、真東に向う」
私「地図で見ると、南西の方角ではないのか?」
E「一度、名古屋の先まで向かい、そこから、東に向う」
私「わかった」と。

 私の声は、子どものようにはしゃいでいた。それが自分でもよくわかった。

 現在、息子は、航空航空大学にいる。2年間の全寮制の大学である。それがいよいよ終了に近づいてきた。現在は、宮城県の仙台市にいて、最終的な訓練を受けている。練習機も、単発機のボナンザから、双発ジェットのキングエアに変わった。正確には、ターボプロップエンジンといって、ジェットエンジンでプロペラを回して飛ぶ飛行機である。

 巡航速度は、550~600キロ(毎時)だそうだ。

●旗

 旗は、長い棒に、セロテープでとめた。テカテカと光る黄色い旗である。それに合わせて、ワイフも、私も、黄色いジャケットに着替えた。「これなら空から見えるかもしれないね」と。

 空を見あげると、ほんのりと白いモヤがかかっているものの、ほぼ快晴。ところどころに、白い雲がポツポツと見える。青い空が、目にしみる。

 「これなら、飛行機が見えるかもしれない」と、また私。

 私とワイフは、旗を車に載せると、航空自衛隊の基地のほうに向った。途中、コンビニよって、おにぎりを買うつもりだった。

ワ「私ね、あなたと結婚して、よかったと思うことが、ひとつ、あるわ」
私「なんだ?」
ワ「あなたといると、感動の連続で、退屈しない……」
私「なんだ、そんなことか」と。

●1万5000フィート

 自衛隊の基地へは、10分ほどで着いた。手前のコンビニで、おにぎりとお茶を買った。1時までは、まだ時間がある。時計を見ると、12時45分。

 基地の南西の角にある空き地に車を止めた。止めるとすぐ、ワイフが、車の屋根に、黄色いシートをかぶせた。私は、旗を出すと、それを振る練習をしてみた。通り過ぎる車の中から、みな、人がこちらを見ていた。が、私は気にしなかった。

私「これなら、見えるよ、きっと」
ワ「でも、高いところを飛ぶのでしょ」
私「1万5000フィートだそうだ。約4500メートル」
ワ「富士山より高いのよ」
私「見える、見える、あいつは、視力がいい」と。

 私は何度も時刻を聞く。ワイフは、空をまげたまま、動かない。ときどき、大きなライン機が、
空を飛びかう。白い雲が、今日は、いじらしい。

ワ「あの飛行機は、どれくらいの高さを飛んでいるのかしら?」
私「あれも、4500メートルくらいではないかな?」
ワ「あれくらいの高さだったら、見えるかもしれないね」と。

●1時15分

 そのとき、真西のほうから、飛行機が近づいてきた。ライトをつけている。それを見て、ワイフが、「あれ、E君じゃ、ない?」と。

 私は「そうかもしれない」とは言ったものの、それにしては高度が低すぎる。「あんな低くはないよ」とは言ったものの、期待はふくらんだ。「ひょっとしたら、Eかもしれない。あいつ、基地に近づいたら、前輪灯をつけると言っていた」と。

 目をこらしていると、その飛行機は、基地をめざしてまっすぐに飛んできた。が、やがてそれに爆音がまじるようになった。

ワ「ジェット機よ……。自衛隊の……」
私「そうだよな、あんな低いはずはないよな」と。

 ジリジリと時間が過ぎていく。1時は過ぎた。しかし、薄いモヤを通して飛行機をさがすのは、容易なことではない。飛行機そのものが、空に溶け込んでしまっている。そんな感じがした。

私「何時だ?」
ワ「1時10分よ」
……
私「何時だ?」
ワ「1時12分よ」と。

 そのとき、一機の飛行機が、2本の飛行機雲を残しながら、上空を横切っていった。

私「あれは、ちがうよね」
ワ「あれは、旅客機みたい。大きいわ。Eのは、小型機よ」
私「そうだね……」と。

 するとそのあとすぐ、それを追いかけるかのように、一機の飛行機が空を横切っていった。後退翼の飛行機である。翼端の青い線が、何となく見えた気がした。その飛行機が、丸い雲の間から出て、まっすぐと東に飛んでいった。

ワ「あれよ、きっと、あれよ」
私「あれかなあ? キングエアの翼は、まっすぐだよ。後退翼ではないはず……」と。

 しかし旗を振るヒマはなかった。目にもわかる速い速度で、その飛行機は、スーッと視界から遠ざかり、再び、丸い雲の中に消えていった。

私「時刻は、何時?」
ワ「ちょうど、1時15分よ」
私「そうか。やっぱりあれが、Eの飛行機だ。あいつは、昔から時間に正確な子どもだったから。1時から1時半の間と言えば、1時15分だ」
ワ「そうよ、きっと、あれよ。よかったわ。見ることができて」
私「うん」と。

●キングエア

 私たちは、すぐには帰らなかった。「ひょっとしたら、まちがっているかもしれない」という思いで、そのまま、そこに立った。手には黄色い大きな旗をもったままだった。

 が、通るのは、明らかにライン機と思われる大型のものばかり。それから1時半まで、小型の飛行機は通らなかった。

私「やっぱり、あれだった」
ワ「私も、そう思うわ。あれよ」
私「あとで、Eに聞いてみればわかる。あいつも浜松を通過した時刻を覚えているはずだから」
ワ「そうね」と。

 何となく、後ろ髪をひかれる思いで、私とワイフは、その場を離れた。時刻は、1時35分ごろだった。

 旗をしまい、つづいて、車の上のシートをしまった。ワイフは、何度も、「やっぱり、あの飛行機よ」と言った。

 Eが操縦していたキングエアは、翼に上反角がついている。だからうしろ下方から見ると、後退翼の飛行機のように見える。はじめは、後退翼の飛行機だったから、キングエアではないと思った。しかしそのうち、それを頭の中で、打ち消した。「やっぱり、あの飛行機だった」と。

●息子のE

 ふたたび、私たちは現実の世界にもどった。いつものように車を走らせ、信号で、止める。

 そのとき、ふと、私は、こう言った。「あいつは、本当にあっという間に、飛び去っていったね」と。

 Eをひざの上に抱いたのが、つい、先日のように思い出された。生まれたときは、3000グラムもない、小さな子どもだった。何もかも、小さな子どもだった。

 そのEが、今は、もうおとな。身長も180センチを超えた。本当に、あっという間に、そうなってしまった。そして私たちのところから、飛び去ってしまった。

私「あの飛行機の中に、あいつがいたんだね」
ワ「そうね」
私「もう東京あたりまで、行っているかもしれないよ」
ワ「そんなに早く?」
私「そうだよ。時速600キロだもん。30分で東京へ着いてしまうよ」
ワ「飛行機って、速いのね」
私「うん……」と。

 うれしくも、さみしさの入り混じった感情。それが胸の中を熱くした。多分、ワイフも、同じ気持ちだったのだろう。家に着くまで、ほとんど、何もしゃべらなかった。

 車をおりるとき、再び、ワイフが、こう言った。「本当に、あなたといると、退屈しないわ」と。
 私は、それに答えて、「ウン」とだけ言った。
(2007年1月30日記)

【追記】

 やっぱり、あの飛行機が、キングエアでした。以下、EのBLOGから、日記をそのまま紹介します。

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 一泊航法、2日目。この上なくスッキリとした寝起き。僕たちの班は、高知経由で仙台へ帰還する。高知~仙台間が、僕の担当するレグだ。僕は浜松出身なので、どうしても浜松上空を通って帰りたかった。名古屋のあたりから新潟へ抜け、そこから真東へ帰るルートが主流なのだが、僕は名古屋から浜松、大島を経由し館山、御宿、銚子と房総半島を沿うように北上、仙台に至るルートを選択。教官すら飛んだことのないルートで、フライトプランが受理されるかどうか心配だった。というのも、羽田や成田の周辺は、国内一、航空交通量の多いところなので、C90のような遅いプロペラ機が訓練でフラフラ来られると迷惑がかかるのでは、と思ったのだ。
実際、高度帯によっては迂回させられる場合もあるんだとか。今回は17,000ft、約5000mを選択。空港に離着陸するライン機は、空港周辺ではこの高度よりも低いところを飛んでいるだろうと予想した結果だ。難なく許可されたので一安心。

 14,000ft以上の高度を航空業界では、『フライトレベル』と呼ぶ。フライトレベル1・7・0(ワン・セブン・ゼロ)。そこから見た日本の姿は、本当に綺麗だった。


航空自衛隊・浜松基地。両親がこの南西端にいて旗を振っていたらしいが、インサイトできず。

アクト・シティ。デジカメの望遠でここまで見えた。

一生忘れられない景色を、今日はたくさん見た。

 この他、羽田空港や成田空港なども見ることができた。成田空港では、アプローチする海外のエアラインが僕らのはるか下方を、列を作って飛んでいるのが見えた。見えたは2~3機だけだったが、等間隔のセパレーションを保って、はるかかなたの海から繋がる飛行機の列は、まるでベルトコンベアーのようであった。高知離陸から仙台着陸まで2時間45分。今日は仙台に来て初めて、ランウェイ09に着陸した。

 今回の旅で感じたことはたくさんあったが、まとめると、本当に楽しかった、という言葉になるだろう。操縦技術やオペレーションの訓練はもちろん、日本の空、日本の地形というものの全体的なイメージが掴めた気がする。そして、日本国内だけでなく、海外にだって行けそうな、そんな自信も手に入れた。本当に、すばらしい2日間であった。一泊航法で得た経験を、見た景色を、初めて飛んだ地元の空を、誇りに思ってくれた両親を、宮崎で再確認した初心を、僕は一生、忘れない。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

【息子の初フライト】JAL搭乗機

● 羽田へ向かう

 これから羽田に向かう。
新幹線に乗って、品川まで。
品川で一泊。
朝イチで、羽田へ。
903便。
午前8時10分離陸
息子の初飛行。
副機長になっての初飛行。
機種はB777-300。
500人乗り。

が、あいにくの悪天候。
目下、台風14号が、沖縄を直撃中。
言い忘れたが、初飛行は、羽田から那覇(沖縄)まで。
明日は「欠航」になるはず。
それでも私たちは、羽田に向かう。
ワイフが、こう言った。
「沖縄へ行けなくてもいいから……」と。
ワイフにはワイフの思いがある。
息子のにおいをかぎたいらしい。
「E(息子)に会えなくてもいいから……」とも。
私はすなおに、同意した。

・・・いつだったか、私は息子に約束した。
「初飛行のときは、飛行機に乗るよ」と。
その約束を、明日実行する。

●搭乗券

 息子が、JALの無料搭乗券を送ってきた。
が、その券では飛行機の予約はできない。
私とワイフは、割高の席を予約した。
往復で、14万円。
(このLCCの時代に、14万円!)
LCC、つまりロー・コスト・キャリアー。
欧米では、ばあいによっては、300~500円で飛行機に乗れるという。
そういう時代に、14万円!

 「高い」と思う前に、私のばあい、
「無事に帰ってこられたら、安い」と考える。
何を隠そう、私は飛行機恐怖症。
一度、飛行機事故に遭ってから、そうなってしまった。
今の今も、欠航になればよいと思う。
同時に、約束は守らねばならないという義務感。
その両者が、心の中で相互に現れては消える。

 本音を言えば、どちらでもよい。
飛行機は好きだが、今年(2010)になってからというもの、一度も空を
見あげていない。
いろいろあった。
加えて飛行機事故のニュースが報道されるたびに、ヒャッとする。
そうした状態がこの先、一生、つづく。

もし欠航になったら、羽田見物をする。
羽田でも、国際線が発着するようになったという。
それを見て、明日は、そのまま帰ってくる。

●息子の初飛行

 2010年、10月xx日。
JALに入社した息子が、副機長として
初飛行をする。
羽田から那覇まで。
飛行機の世界では、「初~~」というのは、
そのつど特別な意味をもつ。

 先週、その知らせを受け取るとすぐ、飛行機の予約を入れた。
長い手紙と、10枚近い写真が、それに添えてあった。
訓練につづく訓練で、忙しかったらしい。

●初飛行

 先にも書いたが、2010年の正月以来、ほぼ11か月。
私とワイフは、一度も空を見上げたことがない。
飛行機の話もやめた。
それまでは毎日のように空を見上げていたが・・・。

 正月に事件があった。
どんな事件かは、ここには書きたくない。
一度ハガキを書いたが、返事はなかった。
無視された。
手紙ではなく、ハガキにしたのは、家族の間で、秘密を作りたくなかったから。
ともかくも、その事件以来、私は苦しんだ。
ワイフも苦しんだ。

『許して忘れる』という言葉がある。
この言葉は自分以外の人には有効でも、自分に対しては、そうでない。
自分を許して、忘れることはできない。
自己嫌悪と絶望感。
……いろいろあった。

●ケリ

 そんな私がなぜ初飛行に?、と思う人がいるかもしれない。
それにはいろいろ理由がある。
ひとつには、自分の気持ちにケリをつけたかった。

息子が横浜国大を中退して、パイロットになりたいと言ったときのこと。
私は息子に夢を託した。
私も学生時代、パイロットにあこがれた。
仲がよかった先輩が、航空大学へ入学したこともある。

 が、息子が、航空大学に入学し、その夢がかなった。
息子が単独飛行で、浜松上空を横切ったときは、ワイフと二人で、
毛布を2枚つないだほどの大きな旗を作った。
黄色い旗だった。
それをワイフと2人で、空に向かって、振った。
JALに入社して、さらにその夢がかなった。
が、私の夢は、そこまで。

●私の夢

 私たちがその飛行機に乗ることは、昨日になってはじめて連絡した。
同じようにハガキで書いた。
たがいの連絡が途絶えて、10か月以上になる。
が、内緒で乗るというような、卑屈な気持ちはみじんもない。
私には私の夢があった。

息子の操縦する飛行機で、旅をする。
私の代理として、息子が操縦桿を握る。
その夢に終止符を打つために、飛行機に乗る。

私は私で夢をかなえ、あとは静かに、引き下がる。

●子離れ

 が、どうか誤解しないでほしい。
だからといって、息子との関係が壊れているとか、断絶しているとか、
そういうことではない。
(連絡は途絶えているが……。)
ワイフはいつも、こう言っている。
「自然体で考えましょう」と。

 その自然体で考えると、「どうでもよくなってしまった」。
「めんどう」という言い方のほうが、正しい。
親子の関係にも、燃え尽き症候群というのがあるのかもしれない。
その事件をきっかけに、私は燃え尽きてしまった。

 もちろん苦しんだ。
心臓に異変を感ずるほど、心を痛めた。
家にいる長男は、E(息子)を怒鳴りつけてやると暴れた。
私は私で、体中が熱くなり、眠られぬ夜もつづいた。
しかしそれも一巡すると、ここに書いたように、どうでもよくなってしまった。
もし修復するという気持ちが息子にあったとしたら、11か月というのは、
あまりにも長すぎた。
遅すぎた。

 これも子離れ。

●呪縛

 「今ね、息子や嫁さんに会っても、以前のようにすなおな気持ちで、
いらっしゃいとは言えないよ」と。
ワイフも同じような気持ちらしい。
仮に言えたとしても、そのときはそのときで、終わってしまうだろう。
長つづきしない。
やがて今のような状態に、もどる。

 悲しいというよりは、ワイフの言葉を借りるなら、「そのほうがいい」と。
「息子たちは息子たちで、私たちに構わず、幸福になればいいのよ」と。

 私は逆に、若いころから、濃密すぎるほどの親子関係、親戚関係で苦しんだ。
2年前、実兄と実母をつづいてなくし、やっとその呪縛から解放された。
そんな重圧感は、私たちの世代だけで、終わりにしたい。
もうたくさん。
こりごり。

●だれかがしなければならない仕事?

 息子から長い手紙がきたとき、チケットの予約はした。
メールはたびたび出したが、返事はなかった。
それで今回は、メールを出さなかった。
たぶん、アドレスを変えたせいではないか。
いろいろな文章が頭の中を横切ったが、手紙にはならなかった。
今さら、何をどう書けばよいのか。

 繰り返しになるが、今までもそうだったが、これからも飛行機事故の
ニュースを聞くたびに、心臓が縮むような思いをしなければならない。
危険な職業であることには、ちがいない。
が、私にこう言った人がいた。

「だれかがしなければならい仕事でしょ」と。

 そんな酷な言葉があるだろうか。
もし自分の息子だったら、そんな言葉は出てこないだろう。
たとえば自分の息子が戦場へ行ったとする。
そしてだれかに、「心配だ」と告げたとする。
で、そのだれかが、「だれかがしなければならない仕事でしょ」と。

●夢?

 夢をかなえた?

・・・今にして思えば、やはりあのとき、私は反対すべきだった。
学費の援助を止めるべきだった。
空を飛びたいという気持ちは、よくわかる。
しかし多かれ少なかれ、だれしも一度は、パイロットにあこがれる。
が、空の飛び方は、必ずしもひとつではない。
客となって、空を飛びまわるという方法もある。
またその夢がかなわなかったからといって、負け犬ということでもない。

 たとえばあの毛利氏(宇宙飛行士)は、浜松市で講演をしたとき、こう言った。
「みなさん、夢をもってください」「実現してください」と。
子ども相手の講演会だった。
「みなさん」というのは、子どもたちをさす。

 しかし自分の子どもを宇宙飛行士にしたいと願う親はいない。
もし、あなたの息子が「パイロットになりたい」と言ったら、あなたはどう思うだろうか。
「なりなさい」と言うだろうか。
「危険な仕事」というのは、それをいう。

 今回も、何人かの知人に、「息子が初飛行します」と告げた。
みな「おめでとう」とは言ってくれたが、そこまで。
それ以上のことは言わなかった。
みな、口を閉じてしまった。

●運命

 ともかくも今夜は、品川で一泊する。
早朝便で、羽田から那覇へ飛ぶ。
しかし台風。
台風14号。
このままでは明日、台風は沖縄を直撃する。
私の予想では、当時のフライトは、欠航するはず。
大型台風のまっ只中へ、着陸を強行する飛行機は、ない。

 そう、何ごとも中途半端はいけない。
直撃なら、直撃でよい。
そのほうが、あきらめがつく。

 しかしこれも運命。
私たちはいつも無数の糸にからまれている。
今は「天候」という糸にからまれている。

●S氏

 ときどきふと、こう考える。
長生きするのも、考えもの、と。
数年前までよく仕事を手伝ってくれた、S氏という男性が亡くなった。
病院で腎透析を受けている最中に、眠るように亡くなったという。
私より、5歳も若かった。

 もし私も5年前に死んでいたら、私の周辺はもっと平和だったかもしれない。
息子たちにも、「いい親父だった」と言われているかもしれない。
それにこの先のことを考えると、私はみなに迷惑をかけることはあっても、
喜ばれることはない。
さみしい人生だが、これも運命。
無数の糸にからまれて作られた、運命。

●ケリ

 先ほど「ケリ」という言葉を使った。
この数年、私はこの言葉をよく使う。
ケリ。
いろいろなケリがある。
とくに人間関係。

 それまでモヤモヤしていたものを清算する。
きれいさっぱりにする。
それがケリ。

 最初にケリをつけたのは、山林。
30年ほど前、1人のオジが、私に山林を売りつけた。
「山師」というのは、イカサマ師の代名詞にもなっている。
オジはその山師だった。
当時としても、相場の6倍以上もの値段で売りつけた。
私はだまされているとはみじんも疑わず、その山林を買った。
間で母が仲介したこともある。

 その山林を昨年、買ったときの値段の10分の1程度で売却した。
株取引の世界でいう、「損切り」。
損をして、フンギリをつける。
いつまでも悶々としているのは、精神にも悪い。
そうでなくても、私の人生は1年ごとに短くなっていく。
 
●人間関係

 つぎに人間関係。
私はいくつかの人間関係にも、ケリをつけた。
まず「一生、つきあうことはない」という思いを、心の中で確認する。
そういう人たちを順に、ケリをつけていく。

 妥協しながら、適当につきあうという方法もないわけではない。
しかしそんな人間関係に、どれほどの意味があるというのか。
というか、私は自分の人生の中で、妥協ばかりして生きてきた。
言いたいことも言わず、したいこともしなかった。
みなによい顔だけを見せて生きてきた。
子どものころから、ずっとそうしてきた。
若いときは、働いてばかりいた。
そんな自分にケリをつける。
そのために人間関係にも、ケリをつける。

 この先、刻一刻と自分の人生は短くなっていく。
無駄にできる時間はない。
それでも私のことを悪く思うようなら、「林浩司(=私)は死んだ」と、
そう思いなおして、あきらめてほしい。

●選択
 
 もうひとつ、ここに書いておきたい。
それが「選択」。
何かの映画に出てきたセリフである。
「私の人生はいつも、選択だった」と。

 いくら私は私と叫んでも、毎日が、その選択。
「私」など、どこにもない。
Aの道へ行くにも、Bの道へ行くにも、選択。
選択を強いられる。
そこでその映画の主人公は、こう叫ぶ。
「もう選択するのは、いやだア!」と。

 この言葉を反対側から解釈すると、「私は私でいたい」という意味になる。
つまり先に書いた、「ケリ」と同じ。
私が言う「運命論」は、その「選択論」に通ずる。
私たちは大きな運命の中で、こまかい選択をしながら生きている。
その選択をするのも、疲れた。

●孤独

 たまたま今朝も書いたが、この先、独居老人ならぬ「無縁老人」が、どんどんと
ふえるという。
私もその1人。

 しかし誤解しないでほしい。
無縁は、たしかに孤独。
しかし有縁だからといって、孤独が癒されるということではない。
世界の賢者は、口をそろえてこう言う。
老齢期に入ったら、相手を選び、深く、濃密につきあえ、と。
あるいはこう教えてくれた友人(私と同年齢)もいた。

 「林さん(=私)、酒を飲むと孤独が癒されるといいますがね、あれはウソですよ。
そのときは孤独であることを忘れますがね、そのあと、ドカッとその数倍もの
孤独感が襲ってきますよ」と。

 人間関係も同じ。
心の通じない人と、無駄な交際をいくら重ねても、効果は一時的。
そのときは孤独であることを、忘れることはできる。
しかしそのあと、その数倍もの孤独感がまとめて襲ってくる。
私も、そういう経験を、すでに何度かしている。

●親子関係

 そこで問題。
よき親子関係には、孤独を癒す力があるか否か。
答は当然、「YES」ということになる。
人は、その親子関係を作るために、子育てをする。
が、このことには2面性がある。

 私は私の親に対して、よい息子(娘)であったかどうかという1面。
もうひとつは、私という親は、息子(娘)に対して、よい親であったかという1面。
私を中心に、前に親がいて、うしろに子どもがいる。
実際には、よき親子関係を築いている親子など、さがさなければならないほど、少ない。
が、今、子育てに夢中になっている親には、それがわからない。

 「私だけはだいじょうぶ」
「うちの子にかぎって……」と。
幻想に幻想を塗り重ねて、その幻想にしがみついて生きている。
が、子どもが思春期を迎えるあたりから、親子の間に亀裂が入るようになる。
それがそのまま、たいていのばあい、断絶へとつながっていく。

 それともあなたは自分の親とよい人間関係を築いているだろうか。
「私はそうだ」と思う人もいるかもしれない。
が、ひょっとしたら、そう思っているのは、あなただけかもしれない。

●品川のホテルで

 ホテルへ着くと、私はすぐ睡眠導入剤を口に入れた。
睡眠薬ともちがう。
ドクターは、「熟睡剤」と言う。
朝方に効く薬らしい。
早朝覚醒を防ぐ薬という。
それをのむと、明け方までぐっすりと眠られる。
が、午前5時前に目が覚めてしまった。

 ……このつづきは、またあとで。

●宿命的な欠陥

 話はそれる。

 これは現代社会が宿命的にもつ欠陥なのかもしれない。
私たちは古い着物を脱ぎ捨て、ジーンズをはくようになった。
便利で合理的な社会にはなったが、そのかわり、日本人が昔からもっていた温もりを
失ってしまった。

 こんな例が適切かどうかはわからない。
が、こんな例で考えてみる。

 私が子どものころは、町の祭りにしても、旅行会にしても、個々の商店主がそれを
主導した。
どこの町にも、そうした商店街が並んでいた。
近所どうしが、濃密なコミュニティーをつくり、助けあっていた。

 が、今は、大型ショッピングセンターができ、街の商店街を、駆逐してしまった。
こうこうと光り輝く、ショッピングセンター。
山のように積まれたモノ、モノ、モノ。
そこを歩く華やかな人々。
ファッショナブルな商品。 

 しかしそういう世界からは、温もりは生まれない。
わたしはそれを、現代社会が宿命的にもつ「欠陥」と考える。
当然のことながら、親子関係も、大きく変わった。

●私の時代

 何度も書くが、私は結婚する前から、収入の約半分を実家へ、送っていた。
ワイフと結婚するときも、それを条件とした。
当時の若者としては、けっして珍しいことではなかった。
集団就職という言葉も、まだ残っていた。

が、今の若い人たちに、こんな話をしても、だれも信じない。
私の息子たちですら、信じない。
そんなことを口にしようものなら、反対に、「パパは、ぼくたちにも同じことを
しろと言っているのか」と、やり返される。

 実際に、そんなことを言ったことはないが、返事は容易に想像できる。
だから言わない。
言っても、無駄。

 が、今はそれが逆転している。
親が子どものめんどうをみる時代になった。
なったというよりは、私たちが、そういう時代にしてしまった。
飽食と少子化。
ぜいたくと繁栄。
それが拍車をかけた。

●翌、10月29日

 チケットを購入し、今、11番ゲートの出発ロビーにいる。
昨夜のんだ、頭痛薬のせいと思う。
今朝から軽い吐き気。
私はミネラルウォーターを飲む。
ワイフは横でサンドイッチを食べている。

 どうやら飛行機は、定刻どおり、離陸するらしい。
うしろ側にモニターがあって、飛行機の発着状況を知らせている。
今のところ「欠航」という文字は見えない。
だいじょうぶかな?
台風14号は、どうなっているのかな?

 B777は、大型飛行機。
その中でもB777-300。
日本では、最大級の飛行機。
ジャンボと呼ばれた747よりも、実際には大きいという。
風にも強いとか。

 しかしこわいものは、こわい。
この体のこわばりが、それを示している。
恐怖症による、こわばり。
体が固まっている!

●ラウンジで

 ワイフが席にもどってきた。
あれこれしゃべったあと、また席を立った。
もどると、私のシャツのシミを拭き始めた。
「白いシャツだと、目立つから……」と。

 「搭乗手続き中」の表示が出た。
那覇行き、903便。
だいじょうぶかなあ……?

●離陸

 飛行機がスポット(駐機場)を離れたとき、熱い涙が何度も、頬を流れた。
同時に息子の子ども時代の姿が、あれこれ脳裏をかすめた。
「走馬灯のように」という言い方もあるが、走馬灯とはちがう。
断片的な様子が、つぎつぎと現れては消えた。

 最初は、息子が私のひざに抱かれて笑っている姿。
生まれたときは、標準体重よりかなり小さな赤ん坊だった。
だから私は息子を、「チビ」とか、「チビ助」とか呼んでいた。
それがそのあと、「ミニ公」となり、「メミ公」というニックネームになった。

 つぎに大きなおむつをつけて、かがんでいる姿。
どこかの田舎のあぜ道で、道端を流れる水をながめている。
オタマジャクシか何かを見つけたのだろう。
息子はその中を、じっと見つめていた。

 そのメミ公が、私の身長を超えたのは、中学生になるころ。
今では180センチを超える大男になった。

 ……先ほど通路を通るとき、私たちを見つけたらしい。
左の席にいた機長が何度も、頭をさげてくれた。
私は思わず、親指を立て、OKサインを出した。

 私は、飛行機が空にあがると、息子が航空大学時代に送ってくれた学生帽を
かぶりなおした。
金糸で、それには「Hiroshi Hayashi.」と縫いこんであった。

●白い雲海

 シートベルト着用のサインが消えた。
電子機器の使用が許可された。
私はパソコンを取り出した。
息子は今日から飛行時間を重ね、つぎは機長職をめざす。
いや、息子のことだから、それまでおとなしくしているとは思わない。
何かをするだろう。

 どうであれ、おそらく私はそれまでは生きていないかもしれない。
窓の外には白い雲海が広がっていた。
まぶしいほどの雲海。
台風14号の影響か、見渡す限り、雲海また雲海。
息子は毎日、こんな世界を見ながら仕事をするのだろうか。

●B777-300

 だれだったか、こう言った。
「これからは飛行機のパイロットも、バスの運転手も同じだよ」と。
しかしB777-300に乗ったら、そういう考えは吹き飛ぶ。
風格そのものがちがう。
飛行機は飛行機だが、B777-300は、さすがに大きい。
新幹線の1車両(普通車)は、90人(5人がけx18列)。
その約5~6倍の大きさということになる。
それだけの大きさの飛行機が、機長と副機長という2人の技術力だけで飛ぶ。

 国際線は何10回も利用させてもらったが、そんな目で見たことは、今回が
はじめて。
それに、ここまでくるのに、つまり航空大学校に入学してから、5年半。
ANAに入社した大学の同期は、すでに1~2年前から、副機長として
飛んでいるという。

 パイロットという仕事は、そこまでの段階がたいへん。
またそのつど、感動がある。

 はじめてフライトしたとき。
はじめて単独飛行をしたとき。
はじめて双発機を飛ばしたとき。
はじめて計器飛行をしたとき。
はじめて夜間飛行をしたとき。
いつも「はじめて……」がつく。
今回は、副機長。
はじめての副機長。

●JAL

 飛行機に乗るなら、JALがよい。
けっしてひいきで書いているのではない。
訓練のきびしさそのものが、ちがう。
先ほど航空大学校の話を書いたが、卒業生でもJALに入社できたのは、3名だけ。
ANAも3名だけ。
そのあと、カルフォルニアのNAPA、下地島(しもじしま)での訓練とつづいた。

 外国のパイロットは、そこまでの訓練はしない。
退役した空軍パイロットが、そのまま民間航空機のパイロットになったりする。
会社自体は現在、ガタガタの状態。
しかしパイロットだけは、ちがう。
息子の訓練ぶりの話を聞きながら、私は幾度となく、そう確信した。

 みなさん、飛行機はJALにしなさい!
多少、料金が割高でも、JALにしなさい!
命は、料金で計算してはいけない。
たとえば中国の航空会社は、少しの悪天候でも、つぎつぎと欠航する。
夜間飛行(=計器飛行)もロクのできないようなパイロットが、国際線を
操縦している。
だからそうなる。

●アナウンス

 先ほど、息子がフライトの案内をした。
早口で、ややオーストラリア英語なまり(単語の末尾をカットするような英語)でも
話した。

 この原稿は息子にあとで送るため、気がついた点を書いてみたい。

(1) もう少し、低い声で、ゆっくりと話したらよい。
(2) 「タービュランス(乱気流)」という単語が、聞きづらかった。
(3) こうした案内は、「Ladies & Gentlemen」ではじめ、必ず終わりに、「Thank you」
でしめくくる。

 早口だと、乗客が不安になる?
静かで落ち着いた口調だと、もっと安心する。
とくに今日は、台風14号の上空を飛ぶ。

●沖縄

 いつもそうだが、飛行機恐怖症といっても、飛行機に乗っている間は、だいじょうぶ。
離陸前、着陸時に緊張する。
それに先方の出先で不眠症になってしまう。
今回も、おとといの夜くらいから不眠症に悩まされた。

 今夜は沖縄でも、ハイクラスのホテルに泊まる。
ワイフが料金を心配していたが、私はこう言った。
「14万円もかけていくんだぞ。ビジネスホテルには泊まれないよ」と。

 1泊2日の旅行(?)だが、行きたいところは決まっている。
数か月前、沖縄に行ってきた義兄が、「こことここは行ってこい」と、あれこれ
教えてくれた。
そのひとつが、水族館。
ほかにショーを見せながら夕食を食べさせてくれるところがあるそうだ。
ワイフは、そこへ行きたいと言っている。

●オーストラリア

 飛行機に乗る前は、「家族もろとも、あの世行き」と考えていた。
しかしまだまだ死ねない。
やりたいことが山のようにある。
それにまだ若い。 
ハハハ。
まだ若い。

 ……今、ふと、オーストラリアに向かって旅だったときのことを思い出した。
離陸するとすぐ、BGMが流れ始めた。
その曲が、「♪アラウンド・ザ・ワールド」だった。
私はその曲を耳にしたとき、誇らしくて、胸が張り裂けそうになった。
1970年の3月。
大阪万博の始まる直前。
その日、私はオーストラリアのメルボルンへと向かった。

 ……しかしどうしてそんなことを思い出したのだろう。
あのときもJALだった。
機種はDC-8。
香港、マニラと、2度も給油を重ねた。
つばさの赤い日の丸を見ながら、私は心底、日本人であることを誇らしく思った。

●台風

 再び息子が案内した。
「台風の上を通過するから、シートベルトを10分ほど着用するように」と。
とたん、飛行機が揺れ始めた。

 息子は英語で、「about ten minutes」と言ったが、こういうときオーストラリア
人なら、「approximately ten minutes言うのになあ」と思った。
どうでもよいことだが……。

息子はアデレードのフリンダース大学で、8か月を過ごしている。
オーストラリアなまりでは、「about」も、「アビャウツ」というような発音をする。
どうでもよいことだが、息子の英語は、どこか日本語英語臭い。
いつだったか、そんな英語で管制官に通ずるのかと聞いたことがある。
それに答えて、息子はこう言った。
「へたに外国なまりの英語を話すと、かえって通じないよ」と。

 そう言えば、こんな笑い話がある。

 たまたま息子が単独飛行を成功させたときのこと。
録音テープが送られてきた。
息子と管制官とのやり取りが録音されていた。
そのときたまたま二男の嫁(アメリカ人)と妹(アメリカ人)が私の家にいた。
そのテープを2人が何度も聴いてくれた。
が、そのあとこう言った。
「何を言っているか、まったくわからない」と。

 私には、よくわかる英語だったが……。

 息子も、こうした機内では、思い切って、オーストラリアなまりでもよいから、
外国調の英語を話したほうがよい。
そのほうが外人の乗客たちは安心する。

 ……こういう飛行機の中では、いろいろな思いがつぎからつぎへと出てきては消える。
やっと少し、気持ちが落ち着いてきた。
イヤフォンを取り出して、音楽を聴く。

●思い出

 あれから40年。
またそんなことを考え始めた。
羽田からシドニーまで。
往復の料金が、42、3万円の時代だった。
大卒の初任給がやっと5万円を超えた時代である。

 このところいつもそうだが、こうして過去のある時点を思い浮かべると、
その間の記憶がカットされてしまう。
あのときが「入り口」なら、今は「出口」。
部屋に入ったと思ったとたん、出口へ。
過去のできごとを思い出すたびに、そうなる。

 「これが私の人生だった」と、またまたジジ臭いことを考えてしまう。
白い雲海をながめていると、人生の終着点が近いことを知る。
ワイフには話さなかったが、今朝も、起きたとき足がもつれた。
自分の足なのに、自分の足に自信がもてなくなった。
40年前には、考えもしなかったことだ。

●機内で

 右横にワイフ。
いろいろあったが、機内で「死ぬときもいっしょだね」と言うと、うれしそうに、
「そうね」と言ってくれた。
がんこで、カタブツで、男勝りのワイフだが、はじめてそう言った。

 が、総合点をつけるなら、ほどほどの合格点。
何よりも健康で、ここまでやってこられた。
たいしたぜいたくはできなかったが、いくつかの夢は実現できた。
山荘をもったのも、そのひとつ。
やり残したことがあるとすれば、……というか、後悔しているのは、何人かの友と、
生き別れたこと。
とくにオーストラリア人のP君。
一度、謝罪の長い手紙を書いたが、返事はなかった。
そのままになってしまった。

 P君は生きているだろうか。
元気だろうか。

 ……どうして今、そんなことを考えるのだろう?
白い雲海が、どこまでもつづく白い雲海が、私をして天国にいるような気分にさせる。

●息子へ 

 私は約束を果たした。
同時に私のかわりに、私の夢をかなえてくれた、お前に感謝する。
長い年月だった。
あの山本さんと夢を語りあってから、43年。
山本さんは、JALの副機長として、ニューデリー沖の墜落事故で帰らぬ人となった。
いつか、お前も、インドへ飛ぶことがあるだろう。
そのときは、そこで最高の着陸をしてみてほしい。
最高の着陸だ。

 いつかお前が言ったように、そよ風に乗るように、着地音もなく静かに着陸。
逆噴射が止まったとき、飛行機は滑るようにランウェイを走り始める。
そんな着陸だ。
楽しみにしている。

●気流

 やはり気流がかなり悪いようだ。
下を向いてパソコンにキーボードを叩いていると、目が回るような感じになる。
飛行機はガタガタと小刻みに揺れている。
先ほどのアナウンスによれば、ちょうど今ごろ、台風の真上を通過中とのこと。
体では感じないが、かなり上下にも揺れているらしい。

 もうすぐ飛行機は那覇空港に到着。
電子機器の使用は禁止になった。
では、またあとで……。

●10月30日、那覇空港出発ロビー

 昨日は、那覇空港を出ると、そのまま沖縄観光に回った。
タクシーの運転手と、交渉。
貸し切りにして、1時間3000円見当という。
私は首里城。
ワイフはひめゆりの塔を希望した。

 ひめゆりの塔を先に回った。
それに気をよくしたのか、タクシーの運転手は、あちこちの戦争記念館を回り始めた。
旧海軍司令部壕、沖縄平和祈念資料館などなど。
かなりの反戦運動家とみた。
アメリカ軍の残虐行為、横暴さを、あれこれ話した。
「自粛なんてとんでもない。大規模なデモをしたりすると、その直後から、アメリカは
わざと大型の戦闘機を地上スレスレに飛ばすんだよ」と。

 沖縄の現状は、沖縄へ来てみないとわからない。
いかに沖縄が、日本人(ヤマトンチュー)の犠牲になっているか、それがよくわかる。
……というか、4時間近く運転手の話を聞いているうちに、私はすっかり洗脳されて
しまったようだ。

 「沖縄戦は悲惨なものだったかもしれませんが、問題は、ではなぜそこまで悲惨なもの
になったか、です。ぼくは、そこまでアメリカ軍を追い込んだ日本軍にも責任があると
思います」と。
運転手はさらに気をよくして、「そうだ、そうだ」と言った。
沖縄では、「反日」という言葉を使えない。
「反米」という。
しかしその実態は、「反日」と考えてよい。

 中国人や韓国人が内にかかえる、反日感情とどこか似ている。
「私たちは日本人」という意識が、本土の日本人より、はるかに希薄。
1人のタクシーの運転手だけの話で、そう決めてしまうのは危険なことかもしれない。
が、私は、そう感じた。

●夕食

 夕食は、息子を交えて、3人でとった。
国際通りの一角にある平和通り。
さらにそこから入ったところに、公設市場がある。
魚介類が生きたまま並べてある。
そこから自分の食べたい魚や貝、カニやエビを選ぶ。
それをその上の階の食堂で、料理してもらい、食べる。

 台湾や香港で、そういう店によく入ったことがある。
というか、売り場の女性をのぞいて、従業員は日本語が通じない人たちばかりだった。
私は店の女性と交渉して、3人前で6000円になるようにしてもらった。

 で、話を聞くと息子はこう言った。
「何も届いていない」と。

 私が書いたはがきも、メールも、何も届いていない、と。
???
息子は「住所がちがっていたのでは?」と数回、言った。

息子が、私のはがきやメールを無視したのではなかった。
音信が途絶えたのではなかった。
何かの理由で、行き違いになったらしい。
それを聞いて、半分、ほっとした。

●ロアジール・スパ・ホテル

 泊まったのは、ロアジール・スパ・ホテル。
沖縄でも最高級ホテルという。
知らなかった!
新館は2009年にオープン。
その新館。
あちこちのホテルや旅館に泊まり歩いてきたが、まあ、これほどまでに豪華な
ホテルを私は知らない。

 昔はヒルトンホテルとか、帝国ホテルとか言った。
東京では、いつも、ホテル・ニュー・オータニに泊まった。
あのときはあのときで、すごいホテルと思った。
しかし今ではその程度のホテルなら、どこにでもある。
が、ロア・ジール・スパ・ホテルは、さらに格がちがった。
驚いた!

 チェックインも、ふつうのホテルとは、ちがった。
ロビーのソファに座りながらすます。
飲み物を口にしていると、若い女性が横にひざまづいて、横に座った。
そこで宿泊カードに記入。
それがチェックイン。

部屋に入ったとたん、ワイフはこう言った。
「こんなホテルなら、一週間でもいたい」と。

 人件費が安いのか、いたるところに職員を配置している。
そのこともあって、サービスは至れり尽くせり。
なお「ロア・ジール」というのは、フランス語で、「レジャー」という意味だそうだ。
温泉の入り口にいた、受付の女性が、そう教えてくれた。

●沖縄

 沖縄を直接目で見て、「ここが昔から日本」と思う人は、ぜったいに、いない。
首里城を見るまでもなく、沖縄はどこからどう見ても沖縄。
沖縄というより、台湾。
台湾の文化圏に入る。
もう少しワクを広げれば、中国の文化圏。
どうしてその沖縄が、日本なのか?
ふと油断すると、「ここは台湾か?」と思ってしまう。

 平たい屋根の家々。
平均月収は東京都の2分の1という。
町並みも、どこか貧しそう。

 現代の今ですら、そうなのだから、江戸時代にはもっと異国であったはず。
沖縄弁にしても、言葉はたしかに日本語だが、発音は中国語か韓国語に近い。
それについての研究は、すでにし尽くされているはず。
素人の私が言うのもおこがましいが、もちろん九州弁ともちがう。

●沖縄戦

 沖縄戦の悲惨さは、改めて書くまでもない。
つまり先の戦争では、沖縄が日本本土の防波堤として、日本の犠牲になった。
その思いが、先に書いた「反日」の底流になっている。
「ひめゆりの塔」が、その象徴ということになる。

 が、実際には、沖縄がアメリカ軍によって南北に二分されたとき、北側方面に
逃げた人たちは、ほとんどが助かったという。
南側方面に逃げた人たちは、ほとんどが犠牲になったという。
その原因の第一が、あの戦陣訓。
「生きて虜囚の……」という、アレである。
「恥の文化」を美化する人も多いが、何をもって恥というか。
まっとうな生き方をしている人に、「恥」はない。

で、有名な「バンザーイクリフ(バンザーイ崖)」というところも通った。
アメリカ軍に追いつめられた住民が、つぎつぎとその崖から海に身を投げた。
が、今は、木々が生い茂り、記録映画などの出てくる風景とはかなりちがう。
それをタクシーの運転手に言うと、運転手はこう教えてくれた。

「それ以前は緑豊かな土地でした。雨あられのような砲弾攻撃を受けて、このあたりは、
まったくの焼け野原になってしまったのです」と。

 戦争記念館には、不発弾の様子がそのまま展示してあった。
畳10畳ほどの範囲だけにも、不発弾が4~5発もあった。
うち一発は、250キログラム爆弾。

 不発弾というのは、そうもあるものではない。
つまりそれだけ爆撃が激しかったことを意味する。
あるところには、こう書いてあった。

 爆破された塹壕をのぞいてみると、兵隊や女子学生のちぎれた肉体が、
岩の壁に紙のようになって張りついていた、と。

●国際通り

 国際通りを歩いて、驚いた。
店員という店員が、みな、若い。
20代前後。
活気があるといえば、それまでだが、同時にそれは若者たちの職場がないことを
意味する。
職場があれば、こんな路頭には立たない。
日本よ、日本企業よ、外国投資もよいが、少しでも愛国心が残っているなら、
沖縄に投資しろ!

 その国際通り。
そこには、本土では見たこともないような商品が、ズラズラと並んでいた。
ワイフは「外国みたい」と、子どものようにはしゃいでいた。
 
●ホテルへ

 息子とは国際通りで別れた。
私とワイフはそこからタクシーに乗り、ホテルに戻った。

 温泉に入り、息抜き。
そのころから私に異変が置き始めた。
飛行機恐怖症という異変である。
体が固まり始めた。
ザワザワとした緊張感。
同時に孤独感と、虚無感。

 外国ではよく経験する。
しかしここは「日本」。
「心配ない」と、何度も自分に言い聞かせる。

●孤独

 不安と孤独は、いつもペアでやってくる。
こういう離れた土地へやってくると、私はいつも、そうなる。
不安感が孤独を呼ぶのか。
孤独が不安を呼ぶのか。
横にワイフがいるはずなのに、心の中をスースーと隙間風が吹く。
なぜだろう?
どうしてだろう?
老齢のせいだけではない。
私は若いころから、そうだった。

 横を見ると、ワイフは寝息を立てて、もう眠っていた。

●10月30日

 午前中、再び国際通りを歩いてみた。
昨夜、カメラをもってくるのを忘れた。
それで再び、国際通りへ。

 「やはり夜景のほうがよかった」と私。
昼間の国際通りも悪くはないが、異国風という点では、夜景のほうがよい。
私は国際通りを歩きながら、片っ端からデジタルカメラで写真を撮った。

●台風14号

 沖縄へ向かうときも恐ろしかった。
しかし帰るときは、もっと恐ろしかった。
ちょうどその時刻。
台風14号は、羽田にもっと接近していた。

 飛行機は大きく揺れた。
が、息子のアナウンスが、私たちを安心させた。

「落ち着いた声で、ゆっくりと話せ」と、昨夜、父親らしく(?)、指導した。
「あのな、ぼくのように飛行機恐怖症の人も多いはず。そういう人たちに安心感を
与えるような言い方をしなければいけない。若造の声で、ぺらぺらとしゃべられると、
かえって不安になる」と。

その効はあったよう。
息子は、昨日より、ずっとじょうずにアナウンスした。
静かで、落ち着いた声だった。
 
 飛行機は何度か大きく揺れたが、無事、羽田空港に着陸した。
さすがB777-300。
安定感がちがう。
それ以上に、操縦がうまかった。

●品川から浜松へ
 
 品川から京急線で、18分。
羽田がぐんと便利になった。
しかしこんなことは、40年前にしておくべきだった。
おかしなところに国際空港を作ったから、日本の航空会社は、世界の航空会社に
遅れをとってしまった。
アジアで今、ハブ空港といえば、韓国の仁川か、シンガポールのチャンギ。

 成田空港がいかに不便なところにあるかは、外国から成田空港に降り立ってみると
よくわかる。
がんばれ、羽田!
往年の栄華は無理としても、少しは取り返せるはず。

●帰宅

 無事、帰宅。
あまり楽しい旅行ではなかった。
息子に会ったときも、さみしかった。
別れたときは、もっとさみしかった。

 ワイフに、「これからは2人ぼっちだね」と言うと、「うん」と言って笑った。

「健康だ、仕事がある、家族がいるといくら自分に言って聞かせても、健康も
このところあやしくなってきた。仕事も年々、低下傾向。今では家族もバラバラ」と。
電車の中でそんな話をすると、ワイフは、こう言った。

 「だからね、あなた、私たちはね、これからは自分のしたいことをするのよ」と。

 ワイフのよい点。
いつも楽天的。
ノー天気。
ものごとを深く考えない。
「この人はいいなあ」と、すっかりバーさん顔になったワイフを横から見ながら、
そう思った。

 以上、沖縄旅行記、おしまい。

はやし浩司 2010-10ー31記

(補記)

【息子のBLOGより】2006-10ー27

●三男のBLOGより

++++++++++++++++++

三男が、仙台の分校に移った。
パイロットとしての、最終訓練に移った。

操縦しているのは、あのキングエアー。

MSのフライト・シミュレーターにも、
その飛行機が収録されている。

文の末尾に、キングエアーの機長席に座る
友人を紹介しながら、
「このコクピットに、ようやくたどり着きました」と
ある。

++++++++++++++++++

【仙台フライト課程】

 1年と半年前、パイロットのパの字も知らなかった僕が、宮崎に来
て、最初に出会った先輩が、まさにその時、宮崎フライト課程を修了
し、仙台へ旅立とうとしていたところだった。その口から発せられる
意味不明な単語の羅列。本気で同じ国の人とは思えなかった。中には
僕よりも年下の先輩もいたが、その背中はとてつもなく大きく、遠い
ものに感じられた。そこまでたどり着く道のりが、果てしなく長く、
険しいものに感じられた。

 あれから、色んなことがあった。毎日が、これでもかと言わんばか
りに充実していた。すごい勢いで押し寄せては過ぎ去っていく知識と
経験の波にもまれ、その一つ一つを逃さぬように両手を一杯に広げ、
倒されぬよう走り続けて来た。

初めて飛んだ帯広の空。細かい修正に苦労した宮崎の空。教官に叱咤
激励され、同期と切磋琢磨し、涙を流したことも数知れず。楽しかっ
たが、決して楽な道のりではなかった。その間に垣間見た、キングエ
アと仙台の空の夢。フライトを知れば知るほど、遠くなって行くよう
な気がしていた。途方に暮れてうつむくと、そこには誰かの足跡が。
そう、あの時見た先輩たちの足跡だ。大きく見えた先輩たちも、この
細く曲がりくねった道を一歩ずつ這い上がって来たのだ。

 そして今日、僕は、空の王様、キングエアと共に再び空へ飛び上が
った。ずっと想像していただけの景色が、現実にそこに広がっていた
。コクピットに座り、シートベルトを締め操縦桿を握ると、ハンガー
の向こう側から1年前の僕が見ている気がした。あの頃の僕の憧れに
、ようやくたどり着いたのだ。先輩たちが踏み固めてくれたあの道は
、確かに、この空に続いていたのだ。

人は成長する。それを強く実感した一日だった。毎日、少しずつでも
いい。前進し続けること。小さな成長を実感し続けること。時々、何
も変わっていないじゃないかと失望することがあるかもしれない。そ
れでも、諦めないこと。そうすることで人は、自分よりも何百倍も大
きかった夢を、いつの間にか叶えることが出来る。そういう風に、出
来ているのだ。努力は必ず報われる。

 最高の教育と、経験と、思い出を、僕は今ここで得ている。一つも
取りこぼしたくない、宝石のような毎日だ。

このコクピットに、ようやくたどり着きました。

(以上、原文のまま。興味のある方は、ぜひ、息子のBLOGを訪れ
てやってみてください。私のHPのトップ画面より、E・Hayas
hiのWebsiteへ。)

Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

********************

【ようこそハナブサ航大日記へ】

 航空大学校は、国が設置した唯一の民間パイロットの養成学校で、宮崎に本校が置かれています。入学するとまずこの宮崎本校で半年間座学を行い、その後帯広分校に移って初めて自分の手で飛行機を操縦します。

半年後、自家用レベルまで成長した訓練生たちは再び宮崎に戻り、宮崎フライト過程へと進みます。ここでは事業用レベル、つまりプロになるための訓練を行います。半年後、宮崎を卒業し、最終過程が行われる仙台分校へ移動、より大きな飛行機への移行訓練、及び計器飛行証明という資格を取るための訓練に入ります。

同時にエアラインへの就職活動も始まり、卒業後はJAL,ANA,ANK,JTAなどの会社へパイロットとして就職します。仙台過程も半年間行われます。

 在学期間は計2ヵ年。その間、航大生(航空大学校生)は校舎に併設された寮で、同期や先輩・後輩たちと過ごします。部屋はすべて2人部屋。宮崎過程では先輩、後輩の組み合わせで、それ以外は同期同士の組み合わせで寝食を共にします。校舎は空港に隣接されており、宮崎、帯広、仙台とも、滑走路から「航空大学校」と書かれた倉庫が見えるはずです。同期は18人。毎年72人の募集があり、4期に分かれて4月、7月、10月、1月にそれぞれ入学します。

 ハナブサ航大日記では、ここ航大での生活を写真を通して紹介しています。僕にとっては初めての寮生活、同期や先輩・後輩や教官のこと、訓練の様子、空からの眺め、フライト中に思ったこと、などなど。訓練は厳しく、付いていくのがやっとですが、同期と助け合い、試験に見事合格したときの喜びは何にも替えがたいものがあります。

またどんなに訓練が大変でも、それを忘れさせてくれる美しさが空の上にはあります。それを伝えたい。また、何でもない一人の人間がどのようにして一人前のパイロットになっていくのか、何を考え、どう変わっていくのか。その過程を楽しんでいただければ幸いです。ときどき関係のないことも書きますが、ご容赦ください。どうぞ、楽しんでいってください。

 ちなみに自分は1981年生まれの今年25歳。航大へは去年の4月に入学し、現在仙台フライト過程です。卒業まで、あと少し!


++++++++++++++++++++++++

●2005年3月・入学

 航大に入学して今日で3日目。同期は口をそろえ、まだ3日しかいないのに、もう何週間もここにいる気がすると言う。自分もそう感じる。ここ航空大学校は、本当に厳しく、本当にすごいところだ。

 入寮した日、先輩方から手厚い歓迎を受けた。その歓迎方法は、残念ながらある理由によりここで書くことはできないが、「けじめ」と「親しみ」を同時にしっかり学ぶことができる、伝統的な
すばらしい儀式だった。同期たちとは時間が進むにつれ、どんどん深くなって行っている。こんなに人と深くなれるのは、後にも先にもこれだけだと思う。みんなほんとにいい人たちばかりで、今までの自分、人間関係っていったい何だったんだと疑問に思うくらいだ。

 はっきり言って感動しているのだろうか。今のこの心境を語るには、もう少し時間が必要だ。明日から授業が始まるので、今夜はもう寝よう。

+++++++++++++++++++++++

●2005年4月

 制服も来たので、同期全員でハンガーに行って写真を撮ろうということになった。ホームページ用のプロフィール写真もそろそろ撮り始めたかったので、個人撮影も兼ねて一同ばっちり決めていった。初めてのハンガー&エプロンは、まじやばくて、みんな大興奮。やっぱみんな飛行機好きなんだね。滑走路がもう目と鼻の先で、MDやB3の離陸、着陸にみんな釘付けになっていた。近くで見るボナンザは思った以上に大きくて、そして美しくかっこいい。乗れるのはまだまだ先だけど、今は座学を一生懸命頑張って、「生きた知識」をたくさん帯広に持っていこう。

++++++++++++++++++++

●2005年6月

航空機システムの時間に、聞きなれない飛行機の音。休み時間に外に出てみると、宮崎空港に航空局のYS-11が来ていた。かっこいい。既に先輩が退寮されていたので、教官にお願いして滑走路が見える側の教室に移動して授業をやってもらった。99.999%授業に集中して、残りの0.001%でYS-11を横目でちらちら。プロペラが回り始め、地上滑走、そして離陸・・・。ロールスロイスの音は気品があって、何かいい。

++++++++++++++++++++

●2005年7月

 本日昼頃、宮崎空港に政府専用機が来た。政府専用機といえば、アメリカで言ったらエアフォース・ワン。政府要人を乗せるための専用機なのだが、今回は首相などは乗っていない。訓練のため、宮崎空港でタッチアンドゴーをし、フルストップし、そして帰っていった。B4のタッチアンドゴーなんて、なかなか見られるものではない。

訓練とはいえ、あの飛行機のコクピットには、日本一のパイロットが乗っていたに違いない。自分たちはあの飛行機を運転する機会はないだろうが(絶対とは言い切れないが)、民間機パイロットとして、政府専用機のパイロットと同じくらい「すごい」パイロットにはなれるはず。頑張ろ
う!

 ちなみにコールサインは、シグナス(?)・ワンだった。中はいったいどうなっているのだろうか。

++++++++++++++++++++

●2005年7月

最近、毎週のようにテストがあって、なかなかやりたいことができない。今やりたいこと(1)ラジコンを飛ばしたい、(2)カラオケに行きたい、(3)映画を見たい(見たい映画が5個くらいある)、(4)山に登りたい、(5)一日中同期とHALOやりたい、(6)本を読みたい、など。HALOというのは、ネット対戦型ゲームで、広めてから3ヶ月くらい経つが、未だに健在。熱しやすく冷めやすい1-4にしては珍しいことだ。

 いよいよ一週間を切った事業用の試験の勉強もままならず、ATCの試験やら、実験のレポートやらが山積み。ワッペンやTシャツのデザインも考えなくちゃ。お盆休みに帰る用の航空券も、帰りの便がまだ取れていないし、事業用が終わってもレポート、試験が3つくらい、そして何より、プロシージャーという恐ろしい課題が首を長くして待っている。いったい、我々に休みというものは存在するのだろうか。

・・・いや、何を甘ったれたことを言っている。同年代の人たちはもう社会に出て働いているというのに、まだ社会の「しゃ」の字も知らないものが「辛い」などという言葉を口にするなんて、おこがましい。

 クーラーのあたりすぎか、今日は一日風邪っぽかった。鼻水が止まらない。休憩時間に寮にもどって仮眠してたら、授業に遅刻してしまった。そういえば関東には台風が来ているらしい。こないだ大きな地震もあったし、心配だ。

 夏休みに入って、宮崎空港には777が来るようになった。11時15分くらいに来て、12時過ぎに飛び立っていく。こないだは777に代わって-400が来ていた。空港に不釣合いなほどでかかった。エンジンが滑走路からはみ出ていて、普段はジェットの後流を受けないところの地面の噴煙を巻き上げながら離陸していく姿は圧巻だった。改めて、「ジャンボ」というものはすごいと感じた。

 こないだの週末にはCップの彼女さんが宮崎に遊びに来ていた。日曜の夜にみんなで飲んで、花火をやった。

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●2005年7月

 2003年7月11日、航空大学校のビーチクラフトA36(JA4133)が、エンジントラブルで宮崎市内の水田に墜落した。

 搭乗していた4名は3名死亡、1名重症の事故となった。

 今日は、校内の慰霊碑「飛翔魂」に前で、慰霊祭が執り行われた。学生は全員参列し、事故が発生した午後4時2分、1分間の黙祷を捧げたのち、献花した。

 エンジンが停止してから、墜落までの5分間、機内は壮絶としていたそうだ。眼下に猛烈な勢いでせまってくる地面を、どんな思いで見ていたんだろう。今日の天気は曇り、風はやや強く、蒸し暑い日だった。いろんなことを考えたが、思いを言葉にするよりも、今日のこの空気の感じ、風の匂いを忘れないようにしようと思った。

 亡くなられた方々のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

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●2005年12月

目安の高度よりも若干低めでファイナルターンを開始する。滑走路と計器を交互にクロスチェックしながら、パスが高いか低いか判断する。高度が低かったせいで、旋回開始前からPAPIは2RED。スロットルをちょっと足して、ピッチを指一本分くらい上げる。滑走路が目の前に来て、ロールアウト。気温が低く、エンジン出力が増加するため、目安の出力ではスピードが出すぎてしまう。90ノットを維持できずに、速度計は95ノット近辺をフラフラ。気をとられてるうちに、エイミングがずれる。

 「エイミング!」

 右席から激が飛ぶ。あわててピッチとパワーを修正する。

 「何か忘れてるものはないか!?」

 ラダーだ。教官がこういう言い方をするのは、ラダーのことを言うときだ。僕はいつもラダーを忘れてしまう。ボールを見ると、大きく右に飛んでいる。右足にほんの少し力を入れて、機軸をまっすぐに直す・・・。

 教官と、最後の着陸。いつもとなんら変わりのない着陸。最後だから、今までで一番うまい着陸を見せたかった。でもやっぱりいつもと同じことを言われてしまう。そんな自分が歯がゆくて、悔しくて、情けなくて、でもそういう感情を押し殺して、冷静に、「落ち着け」と何度も唱えながら、僕は教官を滑走路まで連れて行く。スレショールドまで、あと900m。

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●2005年12月

 今週は午後フライト。乗るはずだったJA4215が突然スタンバイに。原因は一本のボールペン。午前にこの機体で訓練していた学生が、ボールペンを機内に落として紛失した。そのペンが見つかるまで、僕たちはこの機体を使うことはできない。JAMCO(整備)さんがいくら探しても見つからないので、結局飛行機の床を剥がすことに。最終的に見つかったのかどうかはさだかではないが、とりあえず4216が空いていたので、訓練はそっちで行った。

 なぜたかがボールペン一本にここまで執着するのだろうか。それにはちゃんと理由がある。
もしそのボールペンがラダーペダルの隙間にはまり込んでいたらどうなるか。ラダーが利かなくなる。それ以外にも、思わぬところに入り込んで安全運航に支障をきたしかねない。ボールペン一本くらいいいや、という甘えが、命取りになりかねないのだ。ちなみに、何かがはまりこんでラダーが利かなくなった事件は、実際航大の訓練機で過去に起こっている。

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●2006年2月

 Y教官が班会を開いてくれた。Y教官は帯広分校の中で、1,2を争う厳しい教官だ。でもその厳しさの裏側には、愛がある。当たり前のことかもしれないが、そのことを強く再確認できた、すばらしい班会であった。

Y教官は防衛庁出身で、当時の訓練の話などをたくさん聞くことができた。教官の時代から航空界は大きく変わってきたが、その中でも変わらないものを教官の中に見つけることができた。パイロットの世界を言葉で表現するにはまだ経験が浅く難しいが、独特の世界感が確かに存在する。職人の世界であり、それでいてチームワークの世界でもあり・・・。教官は3人の娘さんがいるが息子さんはいない。だから僕たちのことを息子のようだ、と言ってくれた。僕もこのパイロットの世界の一員なんだなぁと実感し、嬉しくなった。

 町のK居酒屋はパイロットがよく集まるお店だ。航大の教官もよく訪れると言う。実はこの店の主人も飛行機好きで、仕事の傍ら、近くの飛行場で免許のいらないウルトラライトプレーンという種類の飛行機を飛ばしているんだそうだ。Y教官もよく乗りに行って、その主人に「フレアが足りない」などと指導されてしまうんだそうだ(Y教官の飛行時間は1万時間を超えている)。

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●2006年2月

 空を飛ばない人にとって、飛行機は「ただの騒音」以外何物でもない。周辺の人が一人も不満を持っていない空港なんて、世の中にはない。飛行機が大好きな僕たちでさえ、ときどき五月蝿く感じることがあるのだから、地上で静かな生活を送りたいと思っている人たちにとっては、大変な被害となっているに違いない。ハエのように、手で払いのけたり、殺虫剤を使うわけにもいかない。ストレスも溜まるだろう。

 地上の人が知っているかどうか知らないが(気づかれないようにする配慮なので、知らないはずか)、僕たちはできるだけ地上の人に迷惑がかからないような飛び方に心がけている。プロペラ機は回転数を落とすと音が静かになるので、対地1500ft以下ではプロップをしぼる。その分、当然出力は落ちる。また、低空飛行訓練は人家のほとんどないエリアを選んで、そこから出ないようにしながら行っているし、もっとも、町の上は飛ばないようにしている。十勝管内には既に騒音注意地域が数箇所あり、その上空は通過しないようにしている。機長は、乗っている人のことだけを考えればいいというわけではないのだ。

 それでも、苦情は届けられる。航法を行うためのスタート地点によく指定される町があって、そこの上空でぶんぶん発動(スタート)しまくっていたら、付近の牧場から牛に悪影響が出たと苦情が入った。急遽、その町上空の低高度通過などが禁止された。

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●2006年4月

 何にもない帯広にいた頃のほうが、毎週末何か見つけて出かけていたような気がする。帯広に比べたら何でもあるこっち(宮崎)では、金曜の夜はそれなりにでかけるものの、土日は部屋でだらだらして、夕方くらいに後悔が始まって、焦ってイオンに行ったりする。何かないかなぁ。暇・・・。

 宮崎はほんと天気が悪くって、先週は5日間あるうちの1日しか飛べなかった。海に近いせいか、風の強い日が多い。おとといは45kt(時速83km以上)の風が吹き荒れていた。風に向かって対気速度一定で飛んでいくと、対地速度は風の分だけ遅くなる(飛行機は対気速度が重要)。だから、風の強い日のライン機の離陸はおもしろい。でっかい鉄の塊が、びっくりするくらいゆっくりゆっくり上昇していく。

 飛行機の操縦を何かにたとえるとすると、何になるのだろうか。車で高速道路を一定の速さで走りながら、誰かと重要な話を電話でしつつ、クロスワードパズルを順番に解いていくようなものだろうか。僕たちが上空でしていることを列挙していくと、まず諸元の維持(スピード、高度、進路、姿勢を変わらないように止めておくこと;上昇や降下、増速・減速のときは別)、ATC(管制機関との交信)、機位(現在地)の確認、見張り・周りの状況把握(他の飛行機はどこを
飛んでいるのかとか、空港は今どんな状況なのかとか)、運航(経済性、効率性、安全性、快適性、定時性)、乗客への配慮、あとは教官に怒られること、など。もちろん、これらを同時にこなすことなんて不可能だから、優先順位をつけて、一つずつ消化していく。何か、パズルみたいでしょ。

 こんなことを考えている間に、外はもう日が傾き始めてる。やばい、イオンにでも行かなくちゃ!写真はFTD(シミュレーター:通称ゲーセン)。前方のスクリーンに景色が映し出され、様々な状況(エンジンが止まったとか、ギアが出ないとか)を模擬的に作り出して体験することができる。

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●2006年7月

 6月が終わる。今月の飛行回数、わずか5回。時間にすると6時間ジャスト。梅雨だけのせいではない。

 6月最後の今日の天気は曇り。梅雨前線は北上し、九州の北半分は朝から絶望的。午後には南側にも前線の影響が出始めるという予報だったが、今日は何が何でも飛ぶ!とSぺーと固く誓い合い、種子島へのログ(飛行計画)を組む。午前10時。

 午前11時30分。ブリーフィングの準備開始。種子島空港に電話して、スポット(駐機場)の予約を入れる。何でも、自衛隊が14時20分までスポットを占有しているらしく、それ以降でないと駐機できないとのこと。しかたなく14時40分からスポットを予約。出発を遅らせるしかない。こっちが到着するころに、自衛隊機が一斉に飛び立っていくのが見られるかもしれない。

 正午過ぎ、整備のJAMCOさんがシップの尾翼のあたりを脚立を使ってなにやら調べているのが気になる。ブリーフィングの準備は整い、教官が来るまでのわずかな間に、もう一度イメージトレーニング。ランウェイは09。高度は8500ft。あの雲を超えられるかな・・・観天望気のため外に出て、空を見上げる。行けそうだ。行こう。飛ぼう。

 午後12時半、帯広で尾翼のVORアンテナが脱落したという報告が入る。宮崎のシップもチェックしてみたら、アンテナにひびが入っていたものが3機ほど見つかる。他のシップにもチェックが入るため、僕らのシップは試験を目前に控えた先輩に回されてしまう。

 完璧に準備されたブリーフィング卓の前で呆然とする3人。教官が入ってきて、「何かシップないみたいよ~」と。拍子抜け。5~6分、立ちブリーフィング。あまり飛びたくないときに飛ばされて、ほんとうに飛びたいときに飛べない。その気持ちの切り替えが、パイロットに課せられた課題の一つなのだ。こういうこともある・・・。

 先週は別の故障でシップが2~3機足りず、キャンセルになっていたこともあった。シリンダーにクラックが見つかったとか、バードストライク(鳥と衝突)したとか。どうなるんだろう、この学校・・・。でも、もうすぐ死ぬほど飛べる日々がやって来るんだろな。地上気温、30度。8500ft上空、気温13度。とりあえずプール行こう。

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●2006年9月

前段。それは飛行機を、最初に空へ上げる人。誰よりも早く飛行機に乗り込む人。

 透き通った青い空のもとに置かれたピカピカの飛行機へ足早に向かう。目に映るのはボナンザと、その向こうに広がる誘導路と滑走路、そしてそこを疾走してゆく大型旅客機だけ。心地よい向かい風を肩で感じながら、次第に時間がゆっくりになっていくのを確かめる。一瞬一瞬が輝き始める。集中力が僕に呼びかける。そうだ、今日も飛ぶんだよ、と。

 どこから見ても本当に美しい機体。その表面を撫でて何かを確かめる。包み込まれるように優しく乗り込んで操縦桿を握ると、僕が飛行機の一部なのか、飛行機が僕の一部なのかわからなくなる。そこから見える景色は、いつもと同じ景色でもあり、まったく違う景色でもある。これは現実なのか、夢なのか。考えている間に手がひとりでに動き出す。流れるようなプロシージャー。それはまさに音楽。飛行機が生まれ変わってゆく。

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●2006年9月

C'Kの1週間くらい前から、左目の目じりがずっと痙攣している。C'Kが終わった今でも、それは続いていて、秋雨前線の雲に覆われたこのところの空のように、気分はどうもすっきりしない。

 C'K当日の朝も、空ははっきりしない雲に覆われていた。C'Kを実施するにはあまり好ましくない天気だが、とにかくこの日にC'Kを終わらせたかったので、最後の最後まで悩んだ挙句、行く決断をした。試験官との相性というものがあって、自分はI教官にぜひ見てもらいたかった。この日以降、I教官は休みに入ってしまう予定だった。

 出題されたコースは、南回りで鹿児島。鹿児島は苦手意識が強く、できれば行きたくなかった空港だ。C'Kの神様は本当によく見ている。大島、枕崎、鹿児島city、鹿児島空港、坊ノ岬、都井岬、白浜。

 上がってみると、案の定コース上は雲だらけ。計画をどんどん変更し、上がっては下がり、右に避けては左に戻り、視程の悪い中、必死に目標を探す。岬だの、駅だの、石油コンビナートだの。鹿屋空港上空を通過後、エンジンフェイル(シミュレート)。『鹿屋空港に緊急着陸します!』でケースクローズ(課題終了)。枕崎変針後、雲は一段と低く、多くなってきて、鹿児島cityまでに2000ft、スパイラルで降下(螺旋降下)。鹿児島離陸後は雲の袋小路に入り込み、管制圏すれすれを迷走。帰りの鹿屋上空で大雨。もうめちゃくちゃだった。泣きそうだった。何度ももう止めたいと思った。

 でも、頑張った。

 天気の悪い日は出来る限り飛ばないほうがいい。でも、得るものが多いのも、自信がつくのも、天気の悪い日だ。最後のVFRナビゲーションで今までで1、2を争う天気の悪さの中を飛んで、無事合格して、大きな大きな自信が身についた気がする。できればもう一度、飛びたいと思った。

 学歴は高卒、これといった資格のなかった僕が、事業用操縦士になった。つまり、飛行機を操縦することによりお金を稼ぐことができるようになったということだ。総飛行時間145時間、総着陸回数324回。短いようで、長い長い1年間だった。

 今の僕は、JISマーク付きのイスみたいなものだ。一定の安全基準を上回っただけの操縦
士。ちょっと行儀の悪い子供が座ったり、ゴツゴツしたところに設置されたりすると、ボキっといってしまう、まだひ弱なイスだ。『ミニマムのプロ』。I教官の講評。そう。ここが、新しいスタートだ。

 協力してくれた同期のみんな、応援してくれたみんな、どうもありがとう。Finalも頑張ります。

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●2006年11月

 仙台課程では、取得しなければならない資格が2つあり、それに加えエアラインへの就職活動も並行して行われる。これが、仙台課程が大変だといわれる所以である。

 航大生だからといって、卒業後、自動的に各エアラインに就職できるわけではない。航大のためだけの特別なスケジュールは確保されるものの、他の一般就活者と同じように、まず4社に履歴書を送り、会社説明会に参加し、SPIや心理適性検査、そして身体検査を受け、一般面接、役員面接を経て、ようやく内定という手はずを踏まなくてはいけないのだ。第一志望の会社に受かる者もいれば、当然、どの会社にも縁をいただけない者もいる。後者は、卒業後、他の航空会社に独自にアプローチをかけていかねばならない。

 つい先日、僕らの一つ上の先輩の一次内定者の発表があった。いくらパイロットの大量退職という追い風があったとしても、やはりまだまだ思うようにいかないのが現実であるようだ。それにしても、エアラインがいったいどういう人材を欲しているのか、いまいち掴みにくいのが僕らの悩みどころである。

 航大の場合、最終内定前に就職がうまくいっていることを確認できる段階が、3つほどある。

 就職活動はまず履歴書を書くことから始まる。その後身体検査と面接が行われ、しばらくすると何人かに再検査の通知が来る。身体検査にはお金がかかるので、再検査が来るということは、面接では合格したものと見込んでいいのだそうだ。

もちろん、身体にまったく異常がなければ、来ない場合あるが。とにかく、これが第一段階。第二段階は、オブザーブだ。オブザーブというのは、会社が学生を何人か指名し、その学生のフライトを、その会社の機長が後席から観察するというもの。当然、会社が見たいと思う学生はほしいと思っている学生なので、オブザーブが来るということは期待していい証拠なのだそうだ。しかし、これはかなり緊張するらしい。

 第三段階は一次発表。これはほぼ内定と見込んでもいいらしい。その後大手2社以外の身体検査、及び役員面接を経て、最終内定の発表となる。

 先輩を見ていて、少しずつ希望が輝いていく人と、翳っていく人がいる。その表情の違いに、果たして3ヵ月後、自分はこのプレッシャーに耐えられるだろうかという緊張感を覚える。夢が現実になる瞬間が近づいている。

 僕らはというと、既に履歴書は提出済み。来週はいよいよ、一週間かけての会社訪問&身体検査に臨む。大鳥居のホテルに8連泊。航大至上初の、一人部屋である。身体検査に向け、各自様々な取り組みをしているようだが、僕も仙台に来て約2ヶ月間、ずっと運動を続け、結果減量に成功した。目標まで、あと少し!

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●2007年1月

 再検査、と聞くと、何だかあまりいい印象を受けないと思うが、ここ航大の就職活動においては、比較的縁起のいいものとして扱われている。なぜなら、見込みのない学生に、お金のかかる再検査をわざわざやらないだろう、というのが定説だからだ。身体検査→面接→再検査という順番を考えれば、再検査が来たということは、少なくとも面接ではOKだったんだなと思っても、大きな間違いではないだろう。

もちろん、身体検査が一発で受かっていれば、そもそも再検査など来ないのだけれども。幸い、と言うべきか、僕はJ社、A社の両方から再検査の通知が来た。

 J社では心エコー検査というものを受けた。心臓にエコー(音波)を照射して、反射してきたものを映像化する装置で、いろんな角度からぐりぐり見られた。自分の心臓を見たのは生まれて初めてだったので、興味津々で画面を見つめていた。どこかで勉強した通り、心室や心房、またその間の弁まではっきり見えて、僕も同じ人間なんだなぁと当たり前のことをしみじみ感じていた。

しばらく無言で作業を続けるドクター。心配したが、最後に『うん、いい心臓だ』と言ってくれたので安心した。『まぁ大丈夫でしょう』と。って、そんなこと言っていいんですか先生。身体検査は通常、結果は本人に知らされない決まりになっている。

 それ以外にも、J社では検尿、A社では腹部エコーと採血の検査があり、これらについては結果は知らされなかったので、どうなっているか不安だ。でも今は、そんなことを心配するよりもフライトに集中しなくては。2日間で両社回ったのだが、滞在時間はそれぞれ15分くらい。それ以外はほぼホテルでくねくねしていただけなので、ゆっくり休むことができた。今週末も金曜・土曜と連続ALL DAY。頑張るぞ!

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興味のある方は、どうか、息子のBLOGをつづけて読んでください。

http://xxxxx

です。

では、よろしくお願いします。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●航空大学校

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日本には、ひとつだけだが、国立の航空大学校が
ある。今は、独立行政法人になっているが……。

テレビのトレンディドラマの影響もあって、
入試倍率は、毎年、60倍前後。

これに合格すると、2年間の合宿生活を通して、
パイロットとしての訓練を受ける。衣食住を
ともにするわけである。

が、訓練のきびしさは、ふつうではない。

そのつど技能試験、ペーパーテストがあって、
それに不合格になると、そのまま退学。留年と
いうのはない。

パイロットといっても、単発機の免許、
双発機の免許、計器飛行の免許、事業用の
免許などなどほか、飛行機ごとに免許の種類が
ちがう。

ライン機ともなると、飛行機ごとに免許の
種類がちがう。もっとも、JALやANAの
ようなライン機のパイロットになれるのは、
その中でも、10~15人に、1人とか。

健康診断でも、脳みその奥の奥まで、徹底的に
チェックされる。

で、あるとき「きびしい大学だな」と私が
言うと、息子は、こう言って笑った。

「燃料費だけでも、30分あたり、
5万円もかかるから、しかたないよ」と。
10時間も飛べば、それだけで100万円!
 
チェック試験に合格できず、退学になった
仲間もいたそうだ。ほんの少し、飛行機の
中でふざけただけで、それで退学になった仲間も
いたそうだ。

無数のドラマを残して、息子が、もうすぐ
その大学を卒業する。今は、就職試験のときだ
そうだが、どうなることやら?

結果はともあれ、息子よ、よくがんばった。
空が好きで好きで、たまらないらしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++JAN.07+++++++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 沖縄旅行記 息子の初フライト 黄色い旗 はやし浩司 黄色い旗 浜松上空 はやし浩司 2010-10ー31)


Hiroshi Hayashi+++++++Oct. 2010++++++はやし浩司

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