2010年10月3日日曜日

*Oct 1st, 2010 Short Essays

● 2010年、10月1日(金曜日)
満63歳まで、あと20数日弱

+++++++++++++++++++

今日から10月。
初日は、まあまあ。
平凡な滑り出し。
ただここ数日、朝起きがけに、
悪夢に悩まされる。
悪夢といっても、オカルト的な夢ではない。
飛行機に乗り遅れそうになる夢とか、
おかしな連中にからまれて、喧嘩ごしに
なるとか、
そういう夢。
たいていハラハラした状態で、目が覚める。

たぶん私も睡眠時無呼吸症候群とかいう病気に
かかっているのかもしれない。
ワイフがときどき、そう言う。
目が覚めたとたん、ハーハーと深呼吸を繰り返す。
つまりその瞬間、ハラハラドキドキしながら、呼吸を止めている。
そのとき悪夢を見る。
(これは私の素人判断。)
精神状態は、あまりよくないようだ。

+++++++++++++++++++

●山荘にて

 今夜は夜遅く、こうして山荘へやってきた。
ひとりでやってきた。
バスを乗り継いで、やってきた。

で、先ほど村祭りの祝い金を、班長に届けてきた。
10月の第一土曜日か第二土曜日か、いずれかの日に、祭りがある。
明日は第一土曜日。
あわてて祝い金を届けてきた。
が、班長が、「祭りは来週です」と言ってくれた。
ほっとした。

●ひとりぼっち

 美空ひばりの名曲に、「♪悲しい酒」がある。
その歌詞に、「ひとりぼっちが、好きだよと・・・」という箇所がある。
私もひとりぼっちが好きというわけではない。
しかしときに、こうしてひとりぼっちになる。
ひとりぼっちになって、自分の時間をつくる。

 時刻は10時20分になったところ。
軽い頭痛がする。
こういうときは、まず水で頭を冷やす。
ついで湿布薬を貼る。
そのあとまだ頭痛がするようであれば、何かを食べる。
そのあと、頭痛薬をのむ。
幸い、偏頭痛ではなさそうだ。
偏頭痛の痛さは、経験したものでないとわからない。

●孤独

 孤独にも、2種類ある。
肉体的、つまり物理的にひとりぼっちという意味。
これは耐えられる。
もうひとつは、信じられる者がいないという意味。
これは苦しい。
だれにも相手にされないというのも、それに含まれる。
だれにも愛されないというのも、それに含まれる。
つまり、「心の孤独」。

 ときどき私は生徒たちにこう聞く。
「先生(=私)が死んだら、悲しいか?」と。
すると生徒たちはみな、「うれしい」と答える。

それが本音だろう。
私はもともと嫌われ役。
嫌われ役を代行しながら、親たちからお金を受け取る。
だから(教えること)で、孤独がいやされるなどとは思っていない。
実際には、その反対。
生徒たちと面していると、ときどき、言いようのない孤独感に襲われる
ことがある。
生徒は生徒。
とくに私の生徒は年少者が多い。
人間関係を結んだり、育てたりするということができない。

●Sさん

 そう言えば、先週、Sさん(高3)が大学入試に合格した。
小さな声で、「合格が確定しました」と。
もの静かで、理知的な子である。
私の教室に、年中児のときから、14年間、通ってくれた。
Sさんにとってもそうだろうが、私にとってもSさんは、私の人生の一部。

 来週、食事会を開くつもり。
Sさん、おめでとう!
うれしかったよ!

●仕事

 2011年度の仕事を考え始めている。
来年(2011年)は、さらに仕事に没頭してみたい。
「してみたい」ではなく、「する」。

 同時に身のまわりの整理をする。
私は若いころ、骨董品だとか、置き物に凝った。
そういったものが、あちこちにゴロゴロしている。
売るといっても、売り方がむずかしい。
そのうちヒマ(閑)になったら、ネットオークションに、順に並べて
みる。
そういう手もある。

 が、いちばんよいのは、生徒にそのつどあげること。
もっていても、仕方ない。
どうせ死ぬときは、裸。
それも2年前に死んだ、母が教えてくれた。
あれほどモノにこだわった母だが、死ぬときはささいな身のまわりの
日常品だけ。
モノのもつむなしさを、いやというほど、母を通して知った。
・・・学んだ。
 
 で、仕事。
2011年は、自分を完全燃焼させてみたい。
今、いちばん力を入れているのが、幼児教室のビデオ撮影。
「こんな教え方もある」ということを、世界の人たちに見てもらいたい。
この世界には、誤解と偏見が満ち溢れている。
幼児教育というと、先取り教育か受験教育。
さもなければ、子どもをしごく、悪徳教育と考える人は多い。
その偏見と誤解を解いてほしい。

 幼児はたしかに未熟で未経験だが、それを除けば、立派な人間である。
それをわかってほしい。

 また私がこわいのは、(流れ)が止まること。
仕事がその柱というか、「川」になっている。
これが止まったら、私はそのまま腐ってしまう。
だからつづける。

●車の運転

 今、明日はどうしようかと考えた。
どうしようか?
たぶん朝早く山をおり、県道を走るバスに乗って、街まで行く。
私は車を運転しない。
だからいつもそうしてバスや電車を利用する。
あとはワイフに頼んで、あちこちへ連れていってもらう。

 が、実のところこのところワイフの運転が、こわくてならない。
2週間前には、バックをしているときコンビニのポールに激突。
今日、車がやっと修理されてきたと思ったら、さっそく駐車場で、壁に衝突。
勘が悪いというか、鈍ったというか・・・。
とくに右折がめちゃめちゃ。
すぐ前に対向車が迫っていても、その前を横切る形で、平気で右折する。
相手の運転手にクラクションを鳴らされたり、怒鳴られることも、しばしば。 

「お前には運転は無理だね」と言うと、すかさず、「相手が悪い」と
切り返す。
「向こうが止まればいいのよ」と。
ワイフは、他罰型。
他責型ともいう。
子どもにも多い。
机の上のお茶をこぼしたりすると、すかさず、こう言い返す。
「先生が、こんなところにお茶を置いておくから悪い!」と。
「ごめんなさい」という言葉が、口から出てこない。
脳が、そういう構造になっていない。
がんこで、融通がきかない。
だから車の運転が、下手!
(私はもっと下手。ハハハ。)

 だからあまりそのことを責めると、いつもこう言い返される。
「私はあなたの運転手じゃないのよ。自分で運転したら!」と。

●思慮深さ

 ワイフだけが一例というわけではない。
しかし総じてみると、脳の老化は、思慮深さの欠落から始まる。
そう考えてよい。

 たとえば先日も、車のドアが内部から開かなくなってしまった。
そこで私が「おい、車のドア、開かないぞ」と声をかけると、すかさず、・・・
つまり私の話もロクに聞こうとしないうちから、「あなたのやり方が
おかしいんじゃない?」と切り返す。

 もう何年も乗った車である。
ドアの開け方など、まちがえるはずがない。

 が、若いころのワイフはそうでなかった。
もう少し思慮深かった。
私の言ったことを聞いてから、おもむろに自分の意見をはさんだ。

 こうした現象は、50歳を超えると、たいていの人に見られるようになる。
中には自分がボケたのを隠すために、わざと利口ぶって見せる人がいる。
さらにアルツハイマー病か何かになると、とりつくろいや、言い訳、弁解が
多くなる。
病気を隠そうとするためである。

 しかし思慮深さの欠落は、それとは趣(おもむき)を、やや異(こと)にする。
脳みそが薄っぺらくなったような感じになる。
もちろんワイフは、それに気づいていない。
脳のCPU(中央演算装置)に関する問題だけに、自分でそれを知るのはむずかしい。

 で、こうして文章にして書いておく。
ワイフのことだから、たぶん、これを読んでも、即座に否定するだろう。
自分では思慮深い人間と思い込んでいる。

 一般論として言えることは、要するに思慮深い人は、口が重い。
逆に言えば、思慮深くない人は、口が軽い。
思いついたことを、ペラペラと口にする。
つまりそうなったら、脳の老化が始まっているとみてよい。
よい例が、観光バスの中などで、間断なく、しゃべりつづけるオバちゃんたち。
一度、ああいう人たちの会話に耳を傾けてみるとよい。

●不眠症

 幸い頭痛が軽くなってきた。
眠いはずなのに、あまり眠くない。
昨日は、4~5時間しか眠っていない。
悪夢のせい。
だから今朝は、4時ごろ目を覚まし、そのまま起きてしまった。

 「不眠症」という言葉がある。
私もその不眠症だが、ここ10年は、居直って生きている。
「無理に眠ることはない」と。
人間という動物は、2、3日なら、眠らなくても、どうということはない。
「不眠、不眠」と悩むと、かえってストレスがたまってしまう。 
万事、成り行き任せ。
眠くなかったら、起きていればよい。
眠くなったら、眠ればよい。

●独居老人

 ところで私の家の近くに、今年85歳くらいになる独居老人がいる。
男性である。
少し前まで、奥さんがいたが、奥さんは現在、特別養護老人ホームに。
ほとんど寝たきりと聞いている。

 その老人のことが、よく話題になる。
先日も、前自治会長と話をした。
道端での立ち話だった。
昔からの知り合いらしい。
その前自治会長も、「あの人ねえ・・・」と言って、苦笑いをした。
若いときから、みなに嫌われていたらしい。

その独居老人の心境を、今、私は模擬体験していることになる。
孤独と言えば、孤独。
さみしいと言えば、さみしい。
しかしそれを認めたら、おしまい。
だからこうして懸命に、何かにしがみつこうとする。
パソコンのキーボードを叩くのも、それ。
もし手の動きを止めたら、本当に孤独になってしまう。
だから眠くなり、どうしようもなくなるまで、文章を叩く。
(読んでくれている人には、申し訳ないが・・・。)

 独居老人と呼ばれる老人たちも、たぶん、毎日そうして生きているのだろう。
ある知人は、こう言った。
「林さん(=私)、人間というのは、何かをしていないと、生きていかれない
動物なんですよ」と。
その何かをしながら、心を紛らわす。
孤独と闘う。

●基本的不信関係

 孤独の話を書いたので、もう少し、それについて書いてみたい。
つまり私のような人間は、自ら孤独にならざるをえない運命にある。
性格がゆがんでいる。
心を開くことができない。
友だちも少ない。
人を信用しない。
私を知る人は、たぶん私のことを明るく、楽天的な人間と思っているに
ちがいない。
そういう面は、たしかにあるにはある。
笑わせ上手。
ジョークもうまい。
しかしそのくせ、全幅に相手に心を開くことができない。
基本的不信関係というか、基底不安というか、それが私の心の
ベースになっている。

原因は不幸な乳幼児期にあるが、今さらそれを恨んでも始まらない。
私はもうすぐ63歳。

●63歳

 63歳・・・平均余命(寿命)から計算すると、あと15年ほどの命。
健康寿命は、それから10年を引いた年齢だそうだ。
それで計算すると、こうして元気でいられるのも、あと5年。
そのあとは病気と闘いながら、徐々に、死んでいく。

 今、いちばん心配な病気は、脳腫瘍。
若いときから、頭痛もち。
何かあると、すぐ頭痛が始まる。
頭痛がない日のほうが、珍しいほど。
そんなときも、長くつづいた。

おかげで、私は頭痛の神様になった。
「神様」というのは、頭痛のことなら何でも知っているという意。
近くに「頭が痛い」という人がいると、とても他人ごととは思えない。
ついあれこれとアドバイスしてしまう。

 その脳腫瘍。
もともとはおとなしいがんだそうだ。
2倍の大きさになるのに、10年単位も時間がかかる。
だったら切らないほうがよい。
仮に今、私の頭の中に脳腫瘍が見つかっても、私は切らない。
あと10年くらいなら、何とか生きられそう。
もし耐えられないほど痛くなったら、そのときは安楽死。
オーストラリアで医師をしている友人に、そのときの薬を頼んである。
「パラダイスxxx」という名前の薬である。
「違法だが・・・」ということらしい。

 ただ長生きはしたい。
しかし問題は、どう生きるか。
母の介護をしているとき、私の脳みその中にトラウマができてしまった。
特別養護老人ホームに通ううちに、自分の未来に自信を失ってしまった。
「私も、ああなるのか」と。

 もしそうなら、長生きも考えもの。
みなに迷惑をかけるくらいなら、早めに死んだほうがよい。
・・・というより、みなに、迷惑をかけたくない。
たとえばこうしてものを書くことができなくなったら・・・。
書いていることが支離滅裂になり始めたら・・・。
そのときは、おしまい。
やがて確実に、そうなるが・・・。

●ホームベーカリー

 今、菓子パンをかじったところ。
とくに空腹というわけではないが、こういうときは何かを口に入れない
と落ち着かない。
だからすぐ太る(?)。
その菓子パンを見ながら、「じょうずにできているな」と。
「どうしたらこういう皮の薄いパンができるのだろう」と、
不思議でならない。

 この数週間、ホームベーカリーというのを買って、パンづくりに
挑戦している。
けっこう、うまくなった。
冷水の代わりに、牛乳を入れてみたり、バターのかわりの蜂蜜を入れたり。
そういう小技(こわざ)も、自由にこなせるようになった。
が、ここにある菓子パンのようなわけには、いかない。
値段も安い。

 まじまじと菓子パンをながめる。
キメもこまかい。
やわらかい。
それにおいしい。
口の中で溶かしながら、「バターを使っているな」「卵を使っているな」
とか、そんなことを考える。

●趣味

 こうして私の趣味は、周期的に変化する。
今は、ホームベーカリー。
一通り、それをマスターすると、つぎに急速に興味を失っていく。
しばらくあれこれと、さまよい歩いたあと、また別の趣味に乗り移っていく。
こんなことを、子どものときからずっと繰り返している。

 だからいろいろなことをしてきた。
していないことはないと言えるほど、いろいろなことをしてきた。
パソコンのソフトにしても、同じようなことがある。

 ひとつのソフトを使う。
それを一通りマスターすると、また別のソフトに手を出す。
だから私のパソコンは、しょっちゅう故障する。
OSをいじったり、レジストリーをいじったりする。
そのたびに故障する。

 だから教訓。
「それなりにサクサクとパソコンが作動するときは、冒険をするな」と。
いつも自分にそう言って聞かせている。

●結膜炎

 今、目の付け根を指でかいたところ。
夏場になると、私は結膜炎になりやすい。
理由はわからない。
で、そういうときは、エタノールを目の付け根にチョンとつけて、
しばらく静かに目を閉じている。
(ぜったいに、みなさんは、まねをしないように!)
たいていそれでかゆみは収まる。

今、それを洗面所でしてきたところ。

 目のかゆみは取れた。
先ほどまで眠かったが、眠気も消えた。
もう少し文章を書いてみよう。

●60%

 先ほど独居老人のことを書いた。
模擬体験をしているとも書いた。
で、統計的な予想によれば、私たち団塊の世代は、約60%が、
その独居老人になるそうだ。

よく「家族主義」という言葉を使う人がいる。
私もその1人だが、若い人たちが言う「家族主義」と、私たちがいう
「家族主義」とはちがう。
両者の間には、ひとつの大きなちがいがある。

 若い人たちがいう「家族主義」には、両親、つまり老人が含まれて
いない。
自分たちという夫婦と、自分たちの子どもだけの世界をいう。
昔は「核家族」と言った。
つまり「核家族主義」。

一方、私が説いてきた「家族主義」には、自分たちの親が含まれる。
親も含めて、家族主義という。
つまり「大家族主義」。

 そのことは今の若い人たちの生き方を見れば、わかる。
「将来、親のめんどうをみなければならない」と考えている若い人たちは、
ほとんどいない。
統計的にも、30%前後。
つまりその結果として、この先、独居老人は、ますますふえる。
あなたも私も、独居老人になる。 
「60%」という数字は、それを表す。

 だから中に、「ぼくは(私は)、家族を第一に考えています」という
若い夫婦がいても、私は「そうですか」と言って、口を閉じてしまう。
「結構なことですね」と言いたいが、それは言わない。

 若い人たちよ、横(夫や妻)や下(子ども)ばかり見ていないで、たまには
上(親)を見ろ。
君たちだって、やがてその上(親)になる。

●暗い話

 暗い話になってしまった。
明るい話をしたい。

 ・・・と書いたところで、指が止まってしまった。
「筆が止まった」と書くべきか。
ざっと見回しても、明るい話がない(?)。
これはどうしたことか?
「世の中、右を見ても、左を見ても、真っ暗闇」。
元気がない。
今年になって、サラリーマンの平均給与もさがったという。
つまり大不況の真っ最中。
おとといは、あの武富士も倒産した。
10年ほど前、あの山一證券が倒産したときも驚いたが、武富士にも
驚いた。
「そういうこともあるのかなあ?」と。

 で、この先どうなるのか?
今日も、TOSHIBAが、有機液晶テレビから撤退するというニュース
が伝わってきた。
「これからは小型の液晶テレビの生産に専念する」と。
「この先は、韓国のS社の独壇場になる」とも。
さらにあのモービル石油が、日本から撤退するというニュースも。
日本が今、どんどんと見捨てられつつある。
国際的に見れば、そういうこと。

 で、本来なら政府が予算をうまく配分して、工業を活性化しなければ
ならない。
(公共投資=道路工事だけが、投資ではないぞ!)
が、その余裕が、まったくない。
国の借金が、あまりにも大きすぎる。
1000兆円を超えている。
日本人1人あたり、1000万円!
そんな借金、返せるわけがない。

 言うなれば、息子や娘たちの事業に出資してやりたい。
しかし肝心の親が、借金だらけ。
だからみな、身動きが取れない。
穴にこもって、じっとしている。
今の日本をおおざっぱに表現すれば、そういうことになる。

●高コスト

 で、本来なら、行政改革(=官僚制度の是正)を、10年前、20年前に
すませておくべきだった。
しかし行政組織がここまで肥大化してしまうと、もう手遅れ。
どうしようもない。

「天下り先」という言葉がある。
しかし天下り先は、何も中央官僚だけの特権ではない。
全国津々浦々・・・小さな役所の役人にもある。

 先日も自衛隊員にも天下り先があると聞いて、驚いた。
公的機関のガードマンや、守衛などとなって、天下っていく。

また最近になってJALは、日本の公務員社会の縮図であると説く人がふえて
きた。
高コスト体質が理由で、JALは破綻をした。
二次破綻も時間の問題。

実は日本の公務員社会そのものが、全体として、高コスト体質になっている。
たとえば役所の役人たちは、どんなに役所にごみがたまっても、窓ガラスが
雲っても、自分たちでは掃除をしない。
若いころそれについて質問したことがある。
「どうして自分で掃除をしないのか」と。
すると役人をしていた友人が、こう話してくれた。
「そんなことをすれば、掃除婦のオバチャンたちの仕事を奪うことになる」と。

 そういった組織が、網の目のように入り組んで、今の公務員社会を作り
あげている。
だから役人の世界では、非効率が当たり前になっている。
つまりその分だけ、高コストになる。
JALが生き残るためには、この高コスト体質から抜け出るしかない。
しかしそれはかなりむずかしい。
世論のみならず、支援銀行までもが、背を向け始めた。

●1人8役

 一方、低コストといえば、私の職場。
私1人が、すべてをこなしている。
教材作りから、指導まで。
掃除はもちろん、宣伝、広告、それにHPづくり。
生徒の送り迎えまでしている。
1人8役くらい?
つまりそれくらいのことをしないと、やっていかれない。

 が、もし私が今、ここで、電話番を雇ったり、デザイナーを雇ったり
したらどうなるか。
見た目にはサービスの向上になるが、とたん、破綻。
1人の人間を雇うということは、たいへんなこと。
私1人が生きていくだけでも、たいへん。
そういう現実が、現場の役人たちは、まったくわかっていない(?)。

●官僚国家

 要するに、日本政府は、高度成長期に先取りする形で、公務員社会を
肥大化させてしまった。
経済がそのまま成長すれば問題はなかった。
しかしここ10年以上、成長は止まったまま。
それが今、裏目となって出てきた。

 山荘周辺の農家の人たちも、補助金が目的で農業をしているようなもの。
農協という組織が、そういった指導をしているのだから、話にならない。
「こういうふうにすれば、補助金が出ますよ」と。

 漁業も林業も、同じ。
実はコンピューター産業も、同じ。
浜松市市内の小さなソフト会社ですら、いかに多く公的機関の仕事を
受注するか。
それで経営の安定性が決まる。

 つまり社会そのものが、ガチガチに硬直してしまっている。
そんな日本に、未来などあるわけがない。
発展するわけがない。

 日本を活性化するためには、野趣味を取り戻すしかない。
わかりやすく言えば、荒っぽさ。
世界中が腰に銃をぶらさげて歩いているのに、日本だけが、オホホで、
通るわけがない。
が、現実には、すべてが逆行している。
規制、規制、また規制。
何をするにも、許可、資格、認可・・・。
その分だけ、さらに公務員社会は肥大化する。
人々は、自由を見失う。

 そう、大学生にしても、職業とは、資格を取って、もらうものと思っている。
ちがう!
職業というのは、自分で作るもの。
「自由」とは、もともとは、「自ラニ由ル」という意味。

●デフレ恐怖

 物価はさがる。
仕事が減る。
その分、収入も減り、経済が動かなくなる。
せっかく手にした現金にしても、多くはタンス預金となり、そのまま
死に金。
内需につながらない。
今は、この悪循環が、かぎりなく繰り返されている。
が、タンス預金をする人を責めることはできない。
将来に不安をいだくから、貯金をする。

 だからこの悪循環を断ち切るためには、人々が感じている不安を
一掃するしかない。
政治家ならそう考えるだろう。
が、具体的な方法となると、みな、頭をかかえてしまう。

あああ・・・。

●捨てる人vs捨てられる人

 世の中には、「捨てる人」と「捨てられる人」がいる。
「捨てる」ではなく、「棄てる」でもよい。
たいていは力のある人、上の立場にいる人が、「捨てる人」になる。
が、実際には、捨てる人は、人を切り捨てながら、自分が捨てられている。
それに気づいていない。

 たとえば、(あくまでも例えだが)、だれかがこう言ったとする。
「あの林(=私)は、偉そうなことを言うが、親の法事すら満足にして
いない。人間のクズだ」と。
ついでに「あんなヤツの書いた文章には、読む価値はない」と。

 そう言いながら、その人は、私を捨てていることになる。
ある種の優越感に浸っていることになる。
そして自分の意見に同調する人たちを周囲に集め、ガードを固くする。

 一方、捨てられた私は、その分だけ、たしかにさみしい思いをする。
しかし本当に捨てているのは、私のほう。
口に出して言わないだけ。
言ってもしかたない。
つまり相手にしない。
「かわいそうな人だ」と思って、それで終わる。

 これは私の持論。
「利口な人からは、馬鹿な人がよくわかる。
しかし馬鹿な人からは、利口な人がわからない」。
だから馬鹿な人は、利口な人が近くにいても、自分と同等と思う。
自分のレベルで相手を判断する。
が、このことは、もうひとつ重要な教訓を含んでいる。

 どんなことがあっても、相手を捨ててはいけないということ。
相手を捨てたとたん、自分が捨てられる。
JALの話を書いたので、ついでに一言。

 今度JALでは、強制解雇に踏み切るかもしれないという。
強制的に、社員のクビを切る。
ニュースとしては、ただのニュースかもしれないが、その内部では今、
想像を絶する地獄絵図が進行中。
私は以前、同じような状況を、ある出版社で直接見聞きしている。
ある社員はこう言った。
「いつ部長から呼び出しがあるかと、不安で不安で、仕事にならない」と。

 そこで社員は、実現性のないアドバルーンばかりをあげるようになる。
何とか目立った企画を立て、クビ切りを避けようとする。
「捨てる人」と「捨てられる人」の間で、壮絶な闘いが繰り広げられる。
が、それは地獄そのもの。

 が、それ以上に恐ろしいのは、一度、そういう人間関係になると、
それまでの関係も、すべて破壊されること。
いっしょにしてきた仕事まで、価値を失う。
他人以上の他人。
つまり憎しみ相手になる。
せっかく創りあげた人生に、大きな穴をあけることになる。
それが長い時間をかけて、ジワジワとその人の心を蝕(むしば)んでいく。

 余計なことだが、こうして山荘でひとりでいると、世の中を捨てて、
ここに来ているはずなのに、実際には反対に、捨てられている。
それが自分でもよくわかる。

●捨てられる前に・・・

 中国では『だまされる前に、相手をだませ』というそうだ。
「だまされたほうが悪い」と。
悪しき拝金主義の弊害ということになる。

 同じように、『捨てられる前に、捨てろ』という考え方もある。
自分が傷つく前に、先に相手を傷つけて、自分が傷つくのを防ぐ。
要するに、『殺される前に、殺せ』ということか。

 これに対する格言が、『負けるが勝ち』。
子育ての世界では、とくに有効な格言である。
子どもの問題、子どもの友人との問題、学校での問題、先生との問題
などなど。
そのつど、『負けるが勝ち』。
「すみません、うちの子のできが悪いものですから・・・」と。
先に負けてしまえば、それ以上、問題が大きくなることはない。
へたにがんばるから、問題が大きくなる。
大切なことは、子どもが気持ちよく学校へ通えること。

 それができる親を、賢い親という。
そうでない親を、愚かな親という。

 相手にまず自分を捨てさせる。
相手がよいように、させる。
そのあと、こちらはその人から去ればよい。
つまり人生というのは、その連続。
満身創痍(そうい)になってはじめて、人生の意味がわかる。
教育も、また同じ。

・・・ところで先ほどから、断続的に睡魔が襲うようになってきた。
ときどきふと目を閉じる。
その瞬間、強い眠気を感ずる。
もうそろそろ床に入る時間のようだ。

 このつづきは、明日の朝にでも考えてみたい。
では、みなさんおやすみ。
時刻はちょうど午前0時10分前。

●10月2日(土曜日)(翌朝)

 今朝は8時に起きた。
軽い吐き気がする。
ときどきゲップも出る。
逆流性食道炎になっているらしい。
寝る前に何かを食べると、ときどきそうなる。

 あとで何かを食べ、そのあと薬をのんでみる。
で、今朝も悪夢を見た。
たいした悪夢ではないが、やはり観光バスに乗り遅れそうになる夢。
もっとも今朝は、うまく観光バスに乗ることができたが・・・。
こういうのを「強迫観念」という。
いつも何かに追い立てられているような気分。
それが抜けきらない。
昔は、「貧乏性」と言った。
のんびりと休日を過ごすということができない。

 「乗り遅れる」というのは、記憶の中にはないが、幼いころ、そういう
経験をしたのかもしれない。
あるいは母子分離不安?
それがトラウマとなって残っている(?)。

●受容体

 先ほどから、朝日が窓越しに、力強く部屋の中を照らしている。
窓枠の影がはっきりと畳の上に映っている。
多分、今日はよい天気。
まだ外は見ていないが、それがよくわかる。

 で、このところまたまた私のビョーキが始まった。
今度は、「時計」。
このところ時計のカタログばかり、見ている。
とくに必要というわけではないが、機能がごちゃごちゃとついているのが、
ほしい。
気圧計、温度計、コンパス、月の満ち欠け、潮の干満表示などなど。
取り扱い説明書が、ズシンと重く、分厚いものほどよい。
カシオでそういう時計を出している。
が、値段が高い。
ネットでも、3~4万円。

 脳の線条体に、「デジモノ」に対する受容体ができてしまっている。
つまり条件反射。
そのモノが欲しいというよりは、その受容体を満たすために、そのモノが欲しい。
アルコール中毒者やニコチン中毒者が見せる反応と同じ。

 だから手に入れてしまえば、満足する。
そのあと、それを使うということは、あまりない。

●北朝鮮

 さて一段落。
パンをかじって、薬をのむかどうか、迷っている。
逆流性食道炎かどうか、本当のところ、はっきりしていない。
痛みはほとんど、ない。
ゲップだけ。
もうしばらく様子をみてみよう。

 で、話をつづける。

 北朝鮮では、どうやら三代目独裁者が決まりつつある。
それについて、韓国や中国につづいて、アメリカまでもが、「おかしい」と
言い出している。
「世襲で指導者を決めるのは、おかしい」と。
(中国は「認める」というような発言を繰り返しているが・・・。)
が、この日本は、ただひたすら沈黙。
何しろこの日本には、天皇制という制度がある。
へたに「おかしい」と言おうものなら、世界中から、「じゃあ、お前の
ところは何だ!」とやり返される。
だから沈黙。
沈黙あるのみ。

 ただこういうことを書いても、この日本では公開処刑になることはない。
一応の言論の自由は、保障されている。
が、北朝鮮でこんなことを書けば、即、公開処刑。
しかしたった65年前には、そうでなかった。
天皇制を批判しただけで、即、投獄。
獄死する人も、少なくなかった。
ひょっとしたら、つぎの65年後には、またそうなるかもしれない。
それを忘れてはいけない。

●天皇制について

 もう少し、自分のことを書く。

 田舎の小さな自転車屋だったが、3代つづいた「本家」。
そのせいもあって、昔から、私の家は、「林家」と、「家(け)」がつけられていた。
大正時代の昔のことは知らない。
しかし私が中学生のころには、斜陽の一途。
家計はあってないようなもの。

 最近になって私の実家が、伝統的建造物に指定されたとか。
しかし何も好き好んで、伝統的建造物として残したわけではない。
改築したくても、その資金がなかった。

 が、その社会的負担感には、相当なものがある。
「お前は、林家の跡取りだから、しっかりと責任を果たせ」と。
だから結婚する前から、収入の約半分を、実家へ送り続けてきた。
当時はまだ、そういう時代だった。

 で、この話と天皇制とどう関係があるか?

 つまり天皇もたいへんだろうな、ということ。
まわりの人たちは、「天皇だから幸福なはず」という『ハズ論』だけで
片づけてしまう。
しかし当の天皇自身はどうなのか。
皇族の人たちは、どうなのか。
その社会的負担感には、相当なものがあるはず。
街の中を、ひとりで自由に歩くこともできない。

 「生まれながらにして天皇」というのは、かわいそうというより、酷。
自分の人生を自分の意思で生きることができない。
つまり私が書きたいのは、こういうこと。

一度は、天皇や皇族の人たちにこう問うてみる。
「たいへんな重責とは思いますが、引き受けていただけますか?」と。
そのとき天皇が、「いいですよ」と言えば、それでよし。
しかしそうでなければ、別の生き方をみなで、用意する。
私は何も、天皇制に反対しているわけではない。
天皇個人の人格と人権に、もっと配慮してもよいのではと考えている。

●新聞

 ここではインターネットは使えない。
だから今朝のニュースは、まったく入ってこない。
新聞もない。

 ところで最近は、テレビでニュースを見ることが、少なくなった。
ネットが浸透してくる前は、定時のニュースの時間になると、5分前には
テレビの前に座った。
が、今は、ニュースの時間さえ、気にしない。

 同じように新聞。
新聞に目を通しても、すでに読んだ記事ばかり。
若い人たちから、新聞離れが進んでいる。
すでに10年ほど前、「ぼくは新聞を取っていません」という若者がいた。
どこかのパソコンショップの店員だった。
それを聞いたとき、私は少なからず、驚いた。
「新聞を取っていないとは、どういうことだ!」と。
が、今ではそれが常識になりつつある。

 もっとも私個人は、新聞派。
いくらネットでニュースを読んでも、そのあと新聞で内容を確認しないと、
どうも落ち着かない。
電子の文字と印刷された文字。
安心感がちがう。
そのちがいは、大きい。

 何でもそうだが、私は「言葉」というのを信用しない。
「書かれた文字」を信用する。
これは元法科の学生だったという、その名残かもしれない。
だから生徒たちへの連絡事項も、すべて、一度文書にして渡すように
している。

●禁断症状

 ネット中毒という言葉がある。
私のその中毒者の1人だが、こういうとき軽い禁断症状に襲われる。
ニュースのみならず、ネットから遮断された世界。
そこにポツンとひとりでいると、不安でならない。

 携帯電話を片時も放さないで持ち歩く人の心理状態が、よくわかる。
ある人は、弁当を忘れても、携帯電話だけは忘れないと言っていた。
私もどこへ行くにも、パソコンだけは、忘れない。
それさえあれば、どこにいても、こうして時間をつぶすことができる。
が、ネットは、どうか?

 半日も放置しておくと、メールだけでも100通前後、入ってくる。
大半はSPAMメールだが、そのあとの処理も、めんどう。
丸1日も放っておいたら・・・、ゾーッ!

 それにニュースに触れられないのは、つらい。
今、世界で何が起きているのか。
それを知りたい。
このイライラ感。
この焦燥感。
それこそが、まさに禁断症状。

●パソコン

 で、今日のお供は、TOSHIBAのUX(11インチ)。
ミニ・ノートである。
が、キー幅は、19ミリの通常サイズ。
このところ、これが打ちやすい。
ほかに、同じくTOSHIBAのMX(12インチ)とTX(16インチ)。
もう一台、台湾製のパソコン。
そのつど状況に応じて、使い分けている。

 で、今、ほしいのは、同じくTOSHIBAのMX。
表面がザラザラしているのが、気に入った。
指先が受ける感触がよい。
しかし今は、がまんのとき。
私の予想では、1、2年後には、ノートパソコンはみなこうなる。

(1) キーボードは、セパレート式になる。(キーとキーの間に、
5ミリ前後の隙間がある。)
(2) 表面がツルツルパソコンから、ザラザラパソコンになる。
(ツルツルパソコンは、どうも使い勝手が悪い。指先がすべって
しまう。初期のHPのミニノートがそうだった。)
(3)タッチパネル式のキーボードは、普及しない。
   iPadのキーボードがそうだ。
ペタペタと画面を押すような感触では、文章は打ちにくい。
   これも「慣れ」の問題かもしれないが、私のばあい、キーピッチは
   深いほど、打ちやすい。
   2ミリだと、打ちにくい。
   3ミリだと、打ちやすい。
   たった1ミリの差だが、その「差」は大きい。
   タッチパネル式では、0ミリになる。

 もちろんハードディスクは、消える。
すべてSD方式になる。
3Dは、それほど普及しないのでは?
その必要もないし、かえってわずらわしい。
映画にしても、そうだ。

●夫婦

 たった今、庭先で鳥が鳴いた。
ヒヨドリの声?
何か危険が迫ったときに出す声。
何があったのだろう?
少し心配。
光の影が、先ほどよりも弱くなっている。
どうやら雲ってきたらしい。
それに寒い。

 この山荘の電話線は、先日は解約した。
携帯電話もない。
もってくるのを忘れた。
今ごろワイフはワイフで、のんびりと土曜日の朝を過ごしているはず。
基本的には、ワイフは私がいないほうが、のんびりできる。
深層のその奥深い脳の部分では、私を嫌っている。・・・と思う。
昨夜も、「これから山(=山荘)へ行ってくるよ」と声をかけたら、
「どうぞ!」と。
ワイフはめったに、「私も行きたい」とか、「連れてって」とか言わない。
若いときから独立心が旺盛。
男まさり。
ふつうの女性のように(?)、男に甘えるということを知らない。・・・しない。
マリリンモンローのような女性を見るたびに、「バカみたい!」と言って、
吐き捨てる。
つまりかわいげがない。
だからこちらから連絡しなければ、迎えにくるということもない。
私も期待していない。

 考えてみれば、さみしい夫婦だが、夫婦に定型はない。
みな、それぞれ。
よい面もあれば、悪い面もある。
夫婦円満のコツは、要するに求めすぎないこと。

●山荘を売る
 
 先週、この山荘を手放すことにした。
今すぐというわけではないが、加齢とともに通うことが少なくなった。
息子は3人いるが、アメリカにいる息子をのぞいて、都会派。
田舎生活には、見向きもしない。
むしろ嫌っている。
同じように育てたつもりだが、志向性がまったくちがう。

 一方、私は子どものころから田舎派。
都会生活が肌に合わない。
人ごみの中を半日も歩くと、それだけで頭が痛くなる。

 ということで、売ることにした。
もちろん愛着はある。
さみしい。
土地づくりには、6年もかけた。
毎週、終末にはユンボを借りてきて、それで土地を平らにした。
そういう思い出が、ここにはぎっしりと詰まっている。
私の「命」の一部といってもよい。
若いからできた。
そう、あのころの私は若かった。

 いくらで売れるかはわからない。
この先、「ほしい」という人が現れたら、相談して決める。

●UFO

 昨夜は眠る前に、10~15ページほど、UFOについての本を読んだ。
コンビニで買ってきた本である。
寝る前はいつもその種の本と、決めている。
地球を宇宙からながめているような気分になれる。
それがよい。

 学生時代には、たしか早川書房(今でもあるかな?)というところが
出していたSF小説を読みあさった。
当時は、ほかの惑星へ出かけていき、そこで宇宙人と戦うという、たわいも
ない内容のものが多かった。
それを一新させたのが、「2001年・宇宙の旅」。
これは映画だったが、私に与えた衝撃は大きかった。
それにテレビでは、「スタートレック」とか、「サンダーバード」など。

 言い忘れたが、地球を宇宙的な規模からながめなおすということは、
悪いことではない。
それを信ずるかどうかは別にして、視野が広くなる。
またUFOを信ずるかどうかは、私たち個々の問題。
信じたからといって、害はない。
カルト教団のように、組織があるわけではない。
あくまでもロマン。
空想ロマン。

 で、そのUFOだが、そうした本によれば、最近ではさまざまなタイプのもの
があるようだ。
私のいちばん興味をひいたのは、「異型UFOドローンズ」。
まるで針金細工か何かで作ったようなUFO。
YOUTUBEでも紹介されているが、そんなUFOが、スーッと
空を自由に飛びまわっているという。
「どんな原理で飛んでいるのだろう」と、そんなことを考えているうちに
いつも眠ってしまう。

●ダラダラ話

 意味のないダラダラ話がつづいた。
ここまで読んでくれた人に、申し訳ない。
少しまともな話をしてみたい。

先日、ローカル電車の中で、こんな広告を見た。
どこかの大学が出している広告である。
こうした広告がおかしいと言うには、それなりの覚悟が必要。
その大学を敵に回すことになる。
しかしおかしいものは、おかしい。
考えれば考えるほど、おかしい。
その広告は、「多元心理学を(私たちの大学で)
いっしょに学びましょう」という言葉で
結んでいた。
「多元心理学ねえ・・・?」。

● やる気

記憶によるものなので、内容は不正確。
あらかじめ、それを断わっておく。
しかし主旨は、できるだけ正確にここに書く。
わかりやすくするため、箇条書きにする。

(1)「勉強をさあ、やろう」と思っていた。
(2)ところが母親が、そのとき、「勉強しなさい」と言った。
(3)とたん、勉強をしようという意欲がそがれた。
(4)みなさんにも、そんな経験があるだろう。
(5)これは「Rxxxx」と呼ばれる心理現象である。
(6)勉強をすることで、「自由になりたい」と思っている。
(7)その意欲が、母親の言葉で、押しつぶされた。
(8)そこで猛烈な反発が働く。
(9)人間は自由を制限されると、自由を取り戻そうとする。
(10)が、それが思うようにできない。
(11)そのため、やる気を失う。
(12)だからそういうときは、「勉強しなさい」ではなく、「無理をしないでね」
    と言ったほうがよい。
(13)そういう勉強を、あなたもいっしょにしてみないか。
(14)KJ大学。

●やる気論

 「やる気論」については、たびたび書いてきた。
が、一般的には、やる気は、「オペラント(自発的行動)」という言葉を
使って説明する。

自分が好きなことを、自分の意思でしていると、脳内は、カテコールアミン
というホルモンで満たされる。
そのホルモンが、脳内を陶酔感で満たす。
それが「やる気」につながっていく。

 が、今度は、その反対の場合を考えてみよう。
たとえばいやなことを無理強いされると、それがストレッサーとなる。
ストレッサーとなって、今度はサイトカインという脳内ホルモンを分泌する。
このサイトカインが、心身にもろもろの変調をもたらす。
頭痛、肩こり、吐き気などなど。
当然、やる気をなくす。

・・・おおざっぱに言えば、そういうことになる。

●疑問

 せっかくやる気になっていた。
ところがそのとき母親が、「勉強しなさい」と言った。
とたん、やる気をなくした。
私にもそういう経験がある。
あなたにもあるだろう。

 そういうことは、よくある。
が、ここで重大な事実の誤謬(ごびゅう=取り違い)がある。
前提として、「やる気が起きていた」ということになっている。
しかし勉強を例にあげるなら、勉強が好きな子どもは、まずいない。
勉強には常に、ある種の苦痛がともなう。
その苦痛を乗り越える力を、「忍耐力」という。
平たく言えば、「いやなことをする力」。

 この段階で、その子どもがもし勉強をすることが好きなら、母親に
そう言われたくらいでは、影響を受けない。
「はい、わかりました」で終わるはず。
が、母親に「勉強しなさい」と言われたとたん、やる気をなくした(?)。
つまりここがおかしい。
もともと「やる気」など、ないと考えるのが自然。
「いやな勉強だが、しかたないからやってやるか」と思っていた。
そのとき母親が、「勉強しなさい」と言った。
その言葉でやる気をなくしたというのなら、私も納得する。
しかしそれは、自由を求める意思とは、本質的に異質なものである。

●自由への葛藤

 人間というのは、身勝手な動物である。
自由であるときは、それが自由であると気がつかない。
またその自由を、使うわけでもない。
が、その自由が抑圧されたと感じたとたん、猛烈な反発心がわいてくる。
それはたしかに、ある。
たとえばこんなケースで考えてみよう。

 もしある日突然、政府がこんな命令を出したとする。
「旅行で隣の県へ行くのを禁止する」と。
とたん、だれしもそれに反発するだろう。
旅行をするつもりがなかった人でも反発する。
「どうしてだめなのか」と。

 それなりの合理的な理由、たとえば戦争が起きたとか、伝染性の病気
が発生したとか、そういう理由があればまだ納得できる。
しかしそういう理由もないまま禁止されると、簡単にはそれに従うこと
はできない。

●相手の問題

 が、そのことと「やる気」は、どこでどうつながるのか。
逆のケースだって、考えられる。
「ようし、がんばろう」と思っていたところ、恋人が、「勉強、がんばってね」と
言ったとする。
そういうときひょっとしたら、その子どもはますますやる気を出すかもしれない。
たまたま相手が母親だったのがまずかった。
となると、それは言葉の問題ではなく、相手の問題ということになる。
さらに言えば、相手との人間関係の問題ということになる。
「自由がどうのこうの」という問題とは、次元がちがう。

●抑圧

 さらに言えば、親子関係には、長い過去というものがある。
その過去の中で、よい関係を築いている親子もいれば、そうでない親子も
いる。
いつも「勉強しなさい」と追い立てられてばかりいた子どももいる。
そういう子どものばあい、親がそう言っただけで、それに猛烈に反発
するだろう。
しかしそれは心理学的には、「抑圧」という言葉を使って説明される。
それまで心の隅に抑圧していたうっ憤(不満や不平)が、そこで爆発する。
ドカーン、と。

●タイプ
 
 が、このとき子どもは、(おとなもそうだが)、2つのタイプに分かれる。
ひとつはそのまま抑えつけられてしまうタイプ。
もうひとつは、暴力的にそれに反発するタイプ。
もちろんその中間型もあるだろう。
ほかにも依存型、同情型、服従型もある。
しかしそのままやる気をなくしてしまうタイプは、あくまでもその中の
ひとつに過ぎない。

 「自由を抑圧されたから」「やる気をなくした」と結びつけるのは、短絡的。
無理がある。
先にも書いたように、某大学の大学案内に書かれた文章である。
当然その道のプロたちが、知恵をしぼり、かつ専門的な知識を総動員
して書いたにちがいない。
が、おかしいものは、おかしい。
またどうしてそれが「多元心理学」なのか?
「多元」というほど、大げさなものではない。

●「無理をしないでね」

 英語では、「がんばれ」に相当する言葉がない。
「Do your best(最善を尽くせ)」が近いが、実際には、
こういうケースのばあい、「Take it easy(気楽に構えよ)」
と言う。

 今、何かのことでがんばっている子どもがいたとする。
歯を食いしばってがんばっている。
しかし思うように成果が出ない。
苦しい。
そんなときだれかに、「がんばれ!」と言われることほど、つらいことはない。
「これ以上、何を、どうがんばればいいのだ!」と。

 そういうときは、たしかに反発する。
が、それとて「自由を求めて・・・」というのとは、異質のものである。

●オペラント

 「やる気論」については、すでにオペラント(自発的行動)論によって
常識的に定説化している。
たとえばここに漢字の得意な子ども(小4)がいる。
自分でも「漢字が得意」と自負している。
そんな子どもに、小6の漢字を10個、書かせてみる。
とたん、「知らない」「書けない」「わからない」といって、瞬間的に
パニック症状を示したあと、急速にやる気をなくす。
もちろんプライドにも、大きなヒビが入る。
中にはふてくされてしまい、不遜な態度を示す子どももいる。

 つまり「やる気論」は、むしろそちら側から攻めるべきであって、
自由論とは、本来、関係ないものと考えるのが正しい。

・・・ということで、この話は、おしまい。
ついでに今日の日誌も、これでおしまい。
これからもう一眠りするつもり。
頭は重くないが、耳鳴りがする。
風邪の前兆かもしれない。
これからうがいをし、葛根湯をのむ。

 2010年10月2日、朝。
午後から行動開始!
ではみなさん、今日もがんばろう!

●変更

 ここまで書いて、パソコンを閉じようとしたら、すでに31ページも
書いていることがわかった。
隙間だらけの31ページだから、本の1ページに換算するわけにはいかない。
しかし31ページ。
編集の仕方にもよるが、50~60ページも書けば、薄い本になる。
がぜん、やる気が出てきた。
どうせここまで書いたのだから、あと少し、つづけて書いてみる。

●ものを書く

 ものを書くとき重要なことは、自分を偽らないこと。
飾らないこと。
ありのままを書く。

 もちろんだれかを傷つけるようなことは、書いてはいけない。
教育の世界では、とくにそうである。
その人個人と特定できるようなことは、書かない。
そこでいろいろな手法を用いる。

 他人の話を自分の話にしてみたり、その逆をしてみたり。
数人の話を1人にまとめてみたり、その逆をしてみたり。
けっしてウソを書いているのではない。

 が、やはりできるだけありのままを書く。

 自分を偽ったり、飾ったりした文章は、あとで読んでも後味が悪い。
しかしどんなへたくそな文章でも、そのときの自分がそのまま出ていれば、
読んでいても、懐かしさを覚える。
「あのときは、ああだったな」と。

 時間を無駄にしないためにも、ありのままの自分を書く。
これはものを書くときの、大鉄則と考えてよい。

●もうひとつ変更

 昼から家に帰るつもりだったが、やめた。
もう一晩、この山荘に泊まることにした。
電話なし、ネット接続なし。
まさに陸の孤島(大げさかな?)。
しかし問題は食事。

 昨夜コンビニで、一食分しか食物を用意しなかった。
それは先ほど、朝食として消えた。
お米が少し残っているはずだから、それを炊こう。
おかずは・・・。
何とか、なるだろう。

 で、こうして山の中にひとりでいると、そこにまた別の世界が
見えてくる。
第一に、私という人間が、いかにワイフに依存していたかがわかる。
2人で一人前?
一体性が強い分だけ、こうして離れてみると、禁断症状に似たものが
現れてくる。

 仏教の四苦八苦のひとつに、愛離別苦というのがある。
「愛する人と別れる苦しみには、相当なものがある」という意。
八苦のひとつ。

よく「妻に先立たれた夫は哀れ」という。
妻には生活力があるが、夫にはない。
あの長谷川一夫(往年の名優)にしても、妻が亡くなったあと、1か月あまりで
この世を去っている。
毎日毎晩、妻の仏壇の前に座っていたという。
何かの本で読んだ話なので、不正確。
しかし似たような話は、よく聞く。

 その愛離別苦。
私は今、それも模擬体験している。
が、問題がひとつある。
「私は本当に、ワイフを愛しているか」と。

 つまり「愛」という概念ほど、曖昧模糊(あいまい・もこ)とした概念はない。
喜怒哀楽のように「形」すらない。
キリスト教徒の人たちは、「愛はある」という前提で話を進める。
しかし愛とは何か。
どこに「ある」のか。

 それを埋める概念が、『許して忘れる』。
人は相手を、どこまで許し、忘れることができるか。
その度量の深さによって、「愛」の深さを知る。

 これは私の持論だが、愛というのはそういうもの。
その度量が、私にはない?
ワイフにもない?
考えてみれば、おかしな夫婦。
そんな夫婦生活を、40年以上もつづけてきた。
これからもつづけていくだろう。
しかしこうして離れてみると、けっこう、さみしい。
「今に迎えにくるかな?」という淡い期待感はあるが、こと私のワイフに
かぎっては、それはない。
言えば、きちんとそれをしてくれるが、それ以上のことは、ぜったいに
しない。
子どものころ、今で言うアスペルガー児ではなかったか?
その疑いはある。
どんなささいなことでも、一度批判したら最後、そのまま殻(ナッツ)に
こもってしまう。
その様子が、小娘みたいで、おもしろい。

 ふだんはやさしく、親切なワイフなのだが・・・。

●今を受け入れる

 こういう心理状態のときは、先のことは考えない。
「ヌカ喜び」と「取り越し苦労」。
これは躁鬱病の人によく見られる現象である。
「多幸感」(私は幸福という満足感)と「絶望感」。
この2つが交互にやってくる。

 だからここは「平穏を旨とすべし」(『黄帝内経』)。
つまり今は、今だけのことを考える。
こうして山の中にひとりでいると、不安感がヒシヒシと襲ってくる。
しかしこの近くの農家の人たちは、そういう生活を当たり前のものとして
生きている。
私にだって、できないはずはない。
それに妻を亡くし、ひとりさみしく生きている男性となると、ゴマンといる。
そういう人たちと比べたら、私が今感じている孤独感など、何でもない。

・・・くだらないことだが、この近くには、何10匹ものサルが住んでいる。
そういったサルにも、孤独感というのはあるのだろうか。
あったら、とてもこんな世界には住めない・・・だろう。

●住めば都

 その一方で、その農家の人たちだが、以前、その反対のことを言った。
隣人のUさん(当時50歳くらい)だが、こう話してくれた。

「私ら、町へ行っても、うるさくて眠れません」と。

 Uさんは結婚式か何かがあって、その夜は浜松市内のホテルに泊まった
そうだ。
その夜のこと。
「通りを歩いてみましたが、飲食店のにおいが臭くて、吐き気がしました」と。

 住めば都というが、山の中に住んでいる人たちは、逆に町の中では生活できない。
一方、ときどき山へやってくる私は、森のにおいに驚く。
湿気を帯びた冷たい風。
その中に樹木のにおいが、プンと香る。
夏場でも、夕日が山の端に隠れたとたん、谷底から冷たい風が、スーッと
かけあがってくる。
今年も35度を超える猛暑がつづいたが、山荘では扇風機だけでじゅうぶん。
この村にいる人たちも、こう言う。

「エアコンは、客用です。私らは、使わないよ」と。
山荘生活のすばらしさが、まだ私にはわかっていない。

●人生観

 当然のことながら、環境は人生観に大きな影響を与える。
ただとても残念なことに、田舎の人たちの人生観が、都会の人たちの人生観に
影響を与えるということは、まずない。
このマスコミ社会。
情報は常に、都会から田舎へと、一方的に垂れ流されるだけ。
テレビのバラエティ番組を例にあげるまでもない。
ああいう人たちは、田舎にはいない。
言うなれば、都会で作られた、人工のサル。

 実際には、日本は農村文化。
その文化が、今、つぎつぎと破壊されている。
私も、その「結果」。
こういうすばらしい環境にいながら、その(すばらしさ)を満喫できない
でいる。
「どうすればネットがつながるか」と。
そればかりを考えている。

●カンパン
 
 今、戸棚を調べたら、いくつかの食品が出てきた。
その1つが、カンパン。
お米はなかった。
災害時の非常食として買っておいたもの。
缶の上に、白い斑点状のサビが出ている。
品質保存期間を調べたら、「2001年8月」となっていた。
「2010年のまちがいではないか」と、もう一度確かめたが、「2001年」
だった。
封を開けて食べてみたが、どうやら問題はなさそうだ。

 あと干し海苔とマカロニ。
マカロニはゆでてみたが、どこかカビ臭くて、食べられなかった。
今日は何とか、これで生き延びる。

(この間、2時間ほど、昼寝。)

●山荘の夕方

 このところ急速に日が短くなっていくのを感ずる。
加えて山の一日は、短い。
昼寝から起きて、何かをしたわけでもないのに、外を見たら、もう夕暮れ時。

 早い。

 で、こういうところに住んでみると、改めて近隣の人たちとのつきあいの
大切さを知る。
たとえば私の母の実家のある村では、どの家でも、いつも人の出入りがある。
いつも何かの会合がある。
村全体が、ひとつの家族のように機能している。

 一方、都会では、隣にだれが住んでいても、気にしない。
行き来もしない。
しても回覧板を届ける程度。
それでは孤独死をしても、だれも気がつかない。
今の私の家庭がそうだ。
近隣の人たちとの行き来は、ほとんどない。
隣の人が死んでも、気がつかないだろう。

「それではいけない」と、今、つくづくそう思う。

●地域の人たちとのつきあい

 が、現実問題として、そういう(しくみ)そのものが育っていない。
またそういった(しくみ)は、何十年というより、何世代もかけてでき
あがるもの。

 この山荘のある村にしても、それぞれの家が、みな親戚のようなもの。
それぞれの家庭が、「血」でつながっている。
土地にしても、A氏の土地の中にB氏の土地があり、そのB氏の土地の
中にまたA氏の土地があったりする。

もちろんマイナス面もないわけではない。
それぞれの家庭の内情が、筒抜け。
隠しごとができない。
そのためこういうばあい、村の人たちとつきあうときは、最初からすべて
オープンにする。
どう抵抗したところで、勝ち目はない。
あるいは「よそ者」を自称し、距離を置く。

 私のばあい、後者を選んだが、本当は(?)、村の世界に入りたかった。
私は子どものころから、「村」の人たちがもつ暖かさを知っている。
が、いくらこちらがそれを望んでも、村の人たちには村の人たちの考え方
がある。
伝統もある。
ある人はこう言った。
「この400年で、あなたが外から来た最初の人だ。
村の人間と認められるまでには、3代はかかるだろうね」と。
それであきらめた。

●自由

 今、ここまで書いた文章を読みなおしてみた。
雑文もいいところ。
くだらない文章の羅列(られつ。)
たわいもない独り言。
一応、BLOGに載せるつもりで書いた。
しかし今、それを迷っている。
こんな文章を読んで、どうなるのだろう。
読んでくれる人に、申し訳ない。

 が、逆に言うと、こういうことにもなる。
私ほど、マスコミやそういった世界の外にいる人間も珍しい。
だからだれにも遠慮せず、書きたいことが書ける。
たとえば以前、ある宗教団体の機関誌の編集を手伝っていたことがある。
息苦しい世界だった。
言葉の一言一句に、神経を使った。
ちょっとしたミスで、その号すべてが、廃棄処分になったこともある。

 宗教団体だけではない。 
組織がからんでくると、書きたいことも書けなくなる。
たとえばこの日本では、NHKや大手雑誌社の批判は、タブー。
そのとたん、仕事が止まってしまう。
だからそれなりに、みな、シッポを振る。
が、今の私は、自由。
(もともとだれにも相手にされていないこともあるが・・・。ハハハ。)
その自由ぽさを、私の文章の中に感じてもらえば、うれしい。
さて、話を戻す。

●カンパン

 静かな一日だ。
雨戸は閉め切ったまま。
来客もない。
電話もない。
横には、カンパンとお茶の入ったボトルが一本。

 ところでそのカンパン。
こんなにおいしいものとは、知らなかった。
メーカーは、「三立製菓」とある。
本社は、この浜松。
賞味期限は2001年。
それを2010年の今、食べられる。
考えてみれば、これはすごいことだ。
これなら、火星往復旅行にだって、もって行かれる。

フ¬¬~~ンと感心しながら、またひとつ、口の中に入れる。
が、ほめてばかりいてはいけない。

カンパンは、缶詰になっている。
その缶の表面に絵が描いてある。
その絵が、バグパイプを吹いているスコットランド兵。
どうしてカンパンの缶に、(「乾燥したパン」という意味で、「カンパン」とした
のだろうが)、スコットランド兵なのだろう。
「1985年9月、世界食品ゴールドメダル受賞」という文字が光る。
私なら、そのメダルの写真と文字を、缶全面に表示する。

●歩く

 明日、帰るとき、ひとつやってみたいことがある。
山荘から東名西インターまで、12・5キロ。
そこから家まで、さらに20キロ。
家までは無理としても、12・5キロくらいなら、歩ける。
その距離を、歩いてみたい。
このところ運動不足ぎみ。
自分の体がモタモタしているのが、よくわかる。
体重も、62キロ。
あと1キロは、減らしたい。
やや寒いかなという気候だが、ウォーキングには最適。

 少し前まではサイクリングが、私の健康法のひとつだった。
20代のはじめから、通勤には自転車を使っていた。
そのおかげだと思うが、この年齢になっても、成人病とは無縁。
太もも(大腿筋)の太さも、ふつうの人の2倍はある。
腰もしっかりとしている。

 私の年齢になると腹筋も弱り、寝ている状態から上体を前に起こすことが
できなくなるそうだ。
私には当たり前のようにそれができる。
みなも、できるものとばかり思っていた。
だからある人の前で、それをして見せたら、その人はかなり驚いていた。
「どうして、林さん(=私)はできるのですか?」と聞くから、「たぶん
サイクリングのおかげと思います」と答えた。

 自転車をこぐとき、ハンドルを手前に引きながら、ぐいぐいと腹に力を入れる。
足の力だけでは、自転車は走らない。
そのとき知らず知らずのうちに、腹筋を鍛えていた。

 が、最近は歩くことが多くなった。
とくに私のばあい、何かいやなことがあると、すぐ歩き出す。
ボケ老人の徘徊のようなものではないか。
歩いていると、いやなことを忘れられる。
明日は、それをしてみたい。
つまり西インターまでの12・5キロを歩いてみたい。
時速5キロで歩くとして、2時間半の距離。
何とかなるだろう。

●テレビ

 先ほどテレビのスイッチを入れた。
アンテナが折られていることもあって、映りは悪い。
サルたちが、折った。

 時間帯は午後7時台。
あちこちでバラエティ番組をやっていた。
まさにバカ番組一色。
あるチャンネルでは、ドジな失敗ばかりを集めて放映していた。

雪でスリップした車のところへ、また別の車がスリップして激突。
羊が角を電線にひっかけて、宙に浮いていた。
強盗が偽FBIに化けて住宅に侵入しようとしたが、逆に発砲されて退散などなど。

内容からして、アメリカのテレビ局あたりから仕入れてきたものだろう。
それを12~5人のタレントたちが、ギャーギャーと騒ぎながら見ている。

 それはそれとして結構おもしろかった。
しかし意味のない情報。
情報の洪水。
ハハハと笑って、それでおしまい。
数日もすれば、思い出すこともなく、そのまま忘れてしまう。
あとはその繰り返し。

 人間もサルと同じと言うべきか、それともサルも人間と同じと言うべきか。
人間は、言葉をもっている。
その言葉を使って、知識を豊富にもっている。
が、それをのぞけば、人間もサルも、それほどちがわない。
バラエティ番組を見ていると、それがよくわかる。

 ・・・話が愚痴ぽくなってきたので、やはり書くのは、ここまで。
これから風呂に入り、明日に備える。
その前に、もう一度、仮眠する。
少し眠い。
2010年10月2日記


Hiroshi Hayashi++++++Oct 2010++++++はやし浩司(林浩司)



 









Hiroshi Hayashi++++++Oct 2010++++++はやし浩司(林浩司)

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。