2010年11月15日月曜日

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 11月 15日
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【生きがいの追求】2010年10月18日

●プロッター

 昨日の朝、プロッターが届いた。
プロッターというのは、パソコンにつなげて、文字をカッティングする
機械のこと。
それで文字をカッティングして、アクリル板などに張りつける。
それで看板ができあがる。

 で、そのため昨日は、日曜日というのに、朝から忙しかった。
ショッピングセンターへ行き、材料を仕入れた。
そこにない材料は、画材屋まで行き、仕入れた。
家に帰ってからは、パンをかじりながら、早速、作業。
ドライバーをパソコンにインストール。
プロッターを準備。
何とか、1枚、2枚……と、看板ができた。
が、外を見ると、もう夕方!

 一日の終わるのが何と、早いことよ!

 その途中のこと。
つまりあちこち車で走り回っていたときのこと。
ショッピングセンターの近くに大きなパチンコ屋がある。
そのパチンコ屋に、車が出入りしていた。
それを見ながら、私はこう思った。
「もったいない!」と。
ついでに、「どうしてそんな時間があるのだろう?」とも。

 何もパチンコをするのが、時間の無駄と書いているのではない。
ただ私など、それをしたくても、(めったにしたいと思わないが)、
そんな時間がない。
時間が今の2倍あっても足りない。

●生きがい

 「もっと生きたい」と思いつつ、それができない人は多い。
そういう人たちがいる一方で、パチンコ屋で時間をつぶす人も多い。
そう、まさに「つぶす」。
パチンコを稼業にしているプロもいるそうだが、そういう人にしてみれば、
パチンコ屋は職場ということになる。
となると、今度は、「職場とは何か」という問題が起きてくる。

 職場とは何か?

 いつだったか田丸謙二先生が、「最高の仕事は、研究です」と話してくれた
ことがある。
そうかもしれない。
しかしみながみな、研究者として、生きていかれるわけではない。
能力の問題もある。
そこで人は、自分の能力と才能に応じて、稼業を選択する。
が、総じて言えば、職業の価値は、その人の(生きがい)によって決まる。
真・善・美の追求もあるだろう。
その一方で、金儲けの追求もあるだろう。
となると、またまた今度は、「生きがいとは何か」という問題が起きてくる。

 生きがいとは何か?
 
●生きるvs息(いき)る

 朝、起きたとき、やりたいことがある人。
そういう人は、本当に幸福な人だ。
そしてそれがそのままできる人は、本当に幸福な人だ。
さらに言えば、それをしたとき、充実感を覚える人は、本当に幸福な人だ。

 もちろんそうでない人もいる。
その人に責任があるというのではない。
やりたいことがあっても、空回りばかりする。
やろうと思っても、空回りばかりする。
あるいはやってもやっても、失敗また失敗。
もしくは裏目、裏目と出てくる。
それが毎回のようにつづくと、やがてやる気をなくす。
自信喪失、自己嫌悪、自己放棄、自暴自棄……。
何でもござれ!

 一度そうなると、今度は無力感との闘いということになる。
「生きる」と言っても、ただ息(いき)ているだけ。
そうなる人も多い。

●人それぞれ

 ……と考えていくと、「生きる」ということは、「生きがい」の問題
ということになる。
年齢に関係ない。
職業に関係ない。
平たく言えば、どこに価値観を定め、どうその価値観の追求をしていくか。
それで生きる意味が決まる。

 名誉や地位が大切と思う人は、それを追求する。
豪邸やぜいたくな生活が大切と思う人は、それを追求する。
家族の「和」が大切と思う人は、それを追求する。
もちろん真・善・美の追求もある。
金儲けの追求もある。
私の周辺には、子育てに生きがいを求めている人も多い。

 人それぞれ。
私は私。
あなたはあなた。

 価値観というのは、そういうもの。
正しいとか、正しくないとか、よいとか、悪いとか、そういう判断に
なじまない。

●統合性

 どうであるにせよ、これからは時間との闘いということになる。
刻一刻と、時間は短くなっていく。
人生は短くなっていく。
残り10年か?
それとも5年か?
今は健康だが、明日のことはわからない。

 そこで重要なこと。

(1)価値観の選択
(2)時間の無駄の排除
(3)あとは邁進(まいしん)あるのみ。

 ……というか、「やる気」などというものは、あとからついてくる。
努力という努力を意識しなくとも、楽しんでそれをすることができる。
(やりたいこと)がそこにあり、それができる(環境)がそこにあれば、
(やる気)は、自ずとわいてくる。
つまりそういう自分を、用意する。
そういう環境を、用意する。
それが結局は「統合性」へとつながっていく。
もし「努力」という要素があるとするなら、そういう自分を作りあげていく。
それが努力ということになる。

●もう一度生きる

 実のところ、私は過去、半年、かなりやる気をなくしていた。
いろいろあった。
とくに三男の問題があった。
相手が他人なら、足で蹴飛ばして、それでサヨウナラ。
が、自分の息子だと、そうはいかない。
かなり苦しんだ。

 で、私が選択した道は、(1)考えない、(2)忘れるだった。
『許して忘れる』は、子育ての神髄だが、それは相手に対しての言葉。
自分に対しては使えない。
自分を、どう許し、どう忘れるのか。

 が、それもやっと一巡した。
その先に、小さな光明だが、出口が見えてきた。
つまり私は私なりに、最後の人生をがんばるしかない。
それが今回の、看板作りにつながった。
「もう一度、がんばってみよう」と。

 が、看板作りは、思ったより手間取った。
切り抜いた文字を、板に張りつけるところが難しい。
画材屋で相談すると、一度透明のフィルムに張りつけてからするとよいと
教えてくれた。

 途中からワイフが手伝ってくれた。
長男も手伝ってくれた。
ああでもない、こうでもないと、それぞれが勝手なことを言い合った。
それが楽しかった。

●映画『エクスペンダブルズ』

 ……昨日という一日は、それで終わった。
いや、そのあと昨夜は、ワイフと深夜劇場へ行ってきた。
観た映画は、シルベスタ・スタローン主演の、『エクスペンダブルズ』。
いろいろな名優が名を連ねていたが、みな飾りというか、友情出演。
簡単なセリフだけ。
最初から最後まで、スタローンのひとり芝居。
内容は、『ランボー』の続作ということになるが、制作の荒っぽさばかり
が目立った。
前回、『ロッキー・ザ・ファイナル』が名作だっただけに、がっかり!
星は、2つか3つの、★★。
ただのアクション映画。

 もうすぐ『トロン』が公開される。
それに期待をかけよう。

 そうそうDVDだが、『テイキング・ライブズ(Taking Lives)』は
よかった。
こちらは、星が4つの、★★★★。

 では、今日も始まった。
がんばろう!
10月18日、2010年


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●映画「十三人の刺客」&日本の「権威主義」

+++++++++++++++++

先日、映画「十三人の刺客」を観てきた。
星は2つか3つの、★★。
部分的には迫力のある映画だったが、
バラバラ。
連続性がなかった。
日本映画独特の、あの「力み」は少なかったが、
その代わり、格好のつけ過ぎ。
全体として武士道なるものを、映画の背景に
まぶしたかったのだろう。
しかし欧米人には、武士道は理解できない。
同じアジア人にも理解できない。
もとから理解できるようなものでもない。
筋の通った、哲学があるわけではない。

こんな話を、昔、聞いた。
朝鮮半島が日本の植民地だったころのこと。
朝鮮の人たちはよく日本の兵隊にこう聞いたそうだ。
「武士道って何か?」と。
すると決まって日本の兵隊は、こう言って相手を、
怒鳴りつけたという。
「貴様らに、日本の武士道がわかってたまるかア!」と。

が、今日は、ここで武士道について書くつもりはない。
改めて、「十三人の刺客」の映画案内を読んで、驚いた。
そこにはこうあった。

「・・・ベネチア映画祭、コンペティション部、出品作品」と。
その両横を、黄金色のオリーブの葉で飾っていた。

+++++++++++++++++++

●権威主義

 「してやられた!」と、私は思った。
よく読んでほしい。
「出品作品」。
つまり出品しただけ。
賞は取っていない。
出品するだけなら、だれにだってできる。
私にもできる。
あなたにもできる。
(あの作品では、賞は無理。)

 しかしたしかテレビのモーニングショーでは、どこかの会場で俳優たちが
祭り騒ぎをしていた。
舞台の上で、あたかも賞を取ったように、俳優たちは喜びあっていた(?)。
それで「観る価値がある」と、私は思ってしまった。
が、それでも私は懐疑的でなかったわけではない。
あの映画祭では、私たちの日常的な常識を大きく離れた作品が賞を取る。
ビートT氏の作品が、その一例。
あの映画祭での賞は、あまりアテにならない。
が、まさか・・・?

 こういうのを権威主義という。
もしその映画祭でどんな賞でも賞を取っていたら、配給会社(映画会社)は、
大げさな宣伝をしただろう。
何かの賞、つまり肩書きをぶらさげて、相手を煙に巻く。
それを権威主義という。

●教育の世界でも・・・

 日本人独特の、お上への隷属意識。
それが転じて、権威主義に発展した。
遠い昔の話ではない。
たった30年前のこと。
私はある出版社で教材の原案を描く仕事をしていた。
そのときのこと。

 問題集はもちろんのこと、参考書、育児書、さらには専門書など
にしても、つぎのような手順を踏んで出版されていた。

(1)出版社が企画を立てる。
(2)その下でうごめく私のようなライター、あるいはプロダクション
に、そのほとんどを制作させる。
(3)出版社とライター、もしくはプロダクションの間で、やり取りを
かわす。
(4)その段階で、肩書きのある有名人をさがす。
(5)その有名人に、監修者となってもらったり、著者となってもらったり
する。
この世界には、自分の肩書きや地位を切り売りしても、みじんも
はじない博士や教授は、ゴマンといる。
欧米では、そうした行為は、「地位利用」ときびしく禁じられている。
が、この日本では、本の表紙に、肩書きを堂々と載せるのが慣わしになって
いた。
(最近は、そういった手法は少なくなり、出版社名だけで出版されることが
多くなったが・・・。)

●水戸黄門の世界

 しかし出版社を責めても意味はない。
日本人全体の意識が、それを下から支えていた。
同じような問題集が2冊並んでいたとする。
そういうとき親は、「飾り」の立派なほうの本を選ぶ。
「~~大学~~教授監修」とあれば、そちらのほうを選ぶ。
「BW教室、はやし浩司」の名前では、本は売れない。
しかし実際には、教授ともあろうお方が、子どもが使うワークブックなど
監修することなど、ありえない。
そんなヒマはない。
私が関係した問題集やワークブックにしても、たいてい電話一本で、
話がついた。

出版社「今度、幼児向けのおけいこブック、ひらがな編を出します。
また先生には、監修をお願いしたいのですが・・・」
どこかの教授「いいですよ」
出版社「ありがとうございます」と。

 つまりこれは日本人全体の(意識)の問題。
出版社にしても、またそれを買う親たちにしても、「権威」を意識した。
そこはまさに「水戸黄門」の世界。
三つ葉葵の紋章を見せ、「控えおろう」と一喝すると、みな、頭をさげた。
今の今でも、テレビの「水戸黄門」は、人気番組。
視聴率も20%前後もあるという。

●権威の象徴

 武士の世界は、まさにその「権威」で成り立っている。
権威をのぞいたら、何も残らない。
江戸時代は、徳川家がその権威の象徴。
徳川家を否定したら、武士の世界のみならず、江戸時代という時代
そのものが崩壊してしまう。
現在の天皇と官僚制度に、その名残を見る。
なぜ官僚が官僚なのかと言えば、そこに最高権威である「天皇」をいだく
からにほかならない。
日本は今でこそ、民主主義国家を標ぼうしているが、明治、大正、昭和と、
天皇を最高権威者に置くことで、自分たちの地位、立場を正当化した。
ついで政権の大義名分を正当化した。
その結果が、あの戦争である。

●侍

 「武士だって、ただの人間だ」と言うのは、簡単。
『十三人の侍』の中にも、「お前ら武士は、いつも威張りくさっている」
というようなセリフが出てくる(記憶)。

 その通り。
なぜ威張るか、また威張ることができるか。
それを支えるのが、「権威」ということになる。

 その権威を否定する。
いくら江戸末期の日本とはいえ、侍であるなら、それは不可能であった。
将軍の弟(映画の中)を暗殺するなどということは、自己否定そのもの。
一方で侍の権威を笠に着ながら、他方で権威を否定する。
もし否定するなら、侍であることをやめてから……、ということになる。

●由比正雪

 以前、由比正雪について書いた原稿がある(中日新聞掲載済み)。
その原稿をさがしてみる。
少し話題がそれるが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

++++++++++++++++++

前にも取りあげたが、あの信長ですら、
この日本では、英雄(?)になっている。
それについて書いたのが、つぎの原稿。
(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++

●「偉い」を廃語にしよう

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。よく似たよ
うな言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉
い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は
古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業がで
きるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?  
  
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民(とく
に農民)は極貧の生活を強いられた。

もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」
でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラ
ム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、
彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、
あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人を
めざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだ
しも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一番偉い人」
と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

ついでに、「水戸黄門」について
書いた原稿を添付します。
(中日新聞発表済み)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●水戸黄門

 テレビドラマに「水戸黄門」というのがある。葵三つ葉の紋章を見せて、側近のものが、
「控え おろう!」と一喝するシーンは、あまりにも有名である。今でも、視聴率が20~
25%もあるというから、驚きである。

 で、あの水戸黄門というのは、水戸藩二代藩主の徳川光圀(みつくに)と、家来の中山
市正と井上玄洞をモデルとした漫遊記と言われている。隠居した光圀は、水戸の郊外、西
山村に移り住み、百姓光右衛門と名乗り、そのとき、先の二人を連れて、関東を漫遊した
という。それが芝居、映画、テレビドラマになり、「水戸黄門」が生まれた。(芝居の中で
は、二人の家来は、佐々木助三郎(通称「助さん」)と、渥美格之進(通称「格さん」)に
なっている。)

 徳川光圀は実在した人物だが、ただ光圀自身は、関東地域からは一歩も出ていない。そ
れはさておき、水戸黄門は、全国各地を漫遊しながら、悪代官をこらしめたり、仇討ちの
助けをしたりして、大活躍をする。日本人にはたいへん痛快な物語だが、ではなぜ「痛快」
と思うかというところに、大きな問題が隠されている。

以前、オーストラリアの友人が私にこう聞いた。「ヒロシ、もし水戸黄門が悪いことをし
たら、日本人はどうするのか」と。そこで私が「水戸黄門は悪いことはしないよ」と言
うと、「それはおかしい」と。

 考えてみれば、水戸黄門がたまたま善人だったからよいようなものの、もし悪人だった
ら、その権威と権力を使って、したい放題のことができる。だれか文句を言う人がいたら、
それこそ「控えおろう!」と一喝すればすんでしまう。民衆の私たちは、水戸黄門の善行
のみをみて、それをたたえるが、権威や権力というのは、ひとつ使われ方がまちがうと、
とんでもないことになる。

だいたいにおいて水戸黄門は封建時代の柱である、身分制度という制度をフルに利用し
ている。身分制度を巨悪とするなら、代官の悪行など、かわいいものだ。善行も何も、
ない。「頂点にたつ権力者は悪いことをしない」という錯覚は、恐らく日本人だけがもつ
幻想ではないのか。

長くつづいた封建制度の中で、日本人は骨のズイまで魂を抜かれてしまった。もっと言え
ば、あの番組を痛快と思う人は、無意識のうちにも、封建時代を是認し、身分制度を是
認し、さらに権威主義を是認していることになるのでは……? あるいは権威や権力に、
あこがれをいだいている……?

 教育の世界には、まだ権威や権力がはびこっている。こうした権威や権力は、その世界
に住んでいる人には居心地のよいものらしいが、その外で、いかに多くの民衆が犠牲にな
っていることか。

むずかしいことはさておき、あのドラマを見るとき、一度でよいから、水戸黄門の目線で
はなく、その前で頭を地面にこすりつける庶民の目線で、あのドラマを見てほしい。あな
たもあのドラマを見る目が変わるはずである。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●悪役

 『十三人の侍』は、民主主義のために闘ったのでもなければ、封建主義に
反対して闘ったのでもない。
狂った暴君を暗殺するために、闘った。
あえて言うなら、この部分が映画の前提として、弱い。
暴君ぶりを示すシーンはいくつかあったが、暴君独特のあの異常性を演ずるには
やや役不足。
演技力不足。
あれほどまでの暴君なら、たとえば『羊たちの沈黙』に出てくるような悪人に仕立てる。
そこまでしないと、観客は、映画の中に感情移入することができない。
その前で、立ち止まってしまう。

 その点、あの『七人の侍』は、わかりやすかった。
目の前で虐げられる農民たちを見、7人の侍が立ち上がった。
殺した相手も、悪党ばかり。
が、『十三人の侍』はちがう。
殺した相手は、言うなればサラリーマン侍。
みながみな、悪人というわけではない。
で、あとは意味のない、殺戮映画。

●出品作品?

 きびしい映画批評を書いてしまった。
しかし「ベネチア・コンベンション・出品作品」とは何か?
国内の選考委員会か何かがあって、そこを通過しているのだろうか。
あるいはただの飾り。
ハク付け?

 つまり私はこの飾りの中に、日本人独特のあの権威主義を見た。
よい映画だったら、賞はあとからついてくる。
観客も、そのあとからついてくる。
まず賞ありき。
そのための「出品作品」?

 とても残念だが、映画としては、星2つ。
さらに一言。

 13人の侍(実際には12人の侍)が、命を捨てて、暴君(将軍の
弟)の暗殺を企てる。
しかしそれは同時に、死を覚悟した暗殺劇を意味する。
江戸末期には、ここにも書いたように、武士もサラリーマン化していた。
そういう世の中で、命をかけてまで・・・という侍は、本当にいたのか?
その背景に、よほどの恨みでもないかぎり、そういった行動には出ない。
哲学でもよい。
とくに政治哲学。
封建主義という諸悪の根源と闘うというのなら、まだよい。
将軍の弟ではなく、将軍そのものを暗殺する。
が、それこそ革命。

●権威主義

 要するに、自分の主君から、「あいつ(=将軍の弟)は悪人だから、
暗殺せよ」という命令を受けて、その暗殺劇を実行しただけ。
「切って、切って、切りまくった」だけ。
そのシーンが映画としても、長すぎる。

 もし私が脚本家なら、もう一本、その間に複線を入れる。
暴君を替え玉にする。
埋蔵金をからませる。
家来の裏切りを挿入する。
あだ討ち劇を並行して進める、などなど。
ストーリーとしては、単純。
ハラハラ、ドキドキするシーンは、なかった。

 またまたきびしい批評を書いてしまった。
「もう二度と、この手の宣伝にはだまされないぞ」という思いで、
書いてしまった。
私はあの権威主義というのが、大嫌い。
侍というだけで、みなが頭をさげる。
そんな時代は、2度とごめん。

(補記)

●日本人のオメデタサ

 岐阜県の岐阜市へ行くと、『信長祭り』というのがある。
石川県の金沢市へ行くと、『百万石祭り』というのがある。
これは、藩祖前田利家公が天正11年(1583年)金沢城に入城したのを祝った祭りである。
もっとも祭りは祭り。
それほど重い意味はない。
中身は観光。
町おこし。

 が、私たちの先祖は、その95%以上が、武士とやらに虐げられた農民であったことを
忘れてはいけない。
血筋をたどっていけば、1人や2人、武家出身の人はいるかもしれないが、基本的には
「混血」はありえなかった。
その子孫である私たちが、どうして「信長祭り」をし、「百万石祭り」をするのか。

 オーストラリアで、「提督祭り(イギリス総督府の提督)」など企画しようものなら、
それだけで袋叩きにあうだろう。
韓国で、「植民地祭り」を企画しても、同じ。

 が、悲しいかな日本人は一度とて、あの封建時代を清算していない。
明治維新にしても、英語では「王政復古」と翻訳されている。
その結果が今。
過去の暴君を美化し、それを祭りにまで仕上げている。
まずもって私たち日本人は、そのおかしさに、自ら気がつくべきではないのか。
あるいは福沢諭吉らが合流した「明六社」の精神に、一度は、心を通してみるべきでは
ないのか。

 ウィキペディア百科事典から、そのまま拾ってみる。

++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

1873年(明治6年)7月にアメリカから帰国した森有礼が、福澤諭吉・加藤弘之・
中村正直・西周(にしあまね)・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・
箕作麟祥らとともに同年秋に啓蒙活動を目的として結成。名称の由来は明治六年結成から
きている。会合は毎月1日と16日に開かれた。会員には旧幕府官僚で、開成所の関係者
と慶應義塾門下生の「官民調和」で構成された。また、学識者のみでなく旧大名、
浄土真宗本願寺派や
日本銀行、新聞社、勝海舟ら旧士族が入り乱れる日本の錚々たるメンバーが参加した。

1874年(明治7年)3月から機関誌『明六雑誌』(岩波文庫全3巻)を発行、開化期の
啓蒙に指導的役割を果たしたが、1875年(明治8年)、政府の讒謗律・新聞紙条例が施
行されたことで機関誌の発行は43号で中絶・廃刊に追い込まれ事実上解散となった。その
後、明六社は明六会となり、福澤諭吉を初代会長とする東京学士会院、帝国学士院を
経て、
日本学士院へと至る流れの先駆をなした。

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

 明六社にかぎらず、こうした(動き)は、つぎつぎと弾圧、閉鎖されていった。
その結果が、「今」ということになる。
日本人の意識はそのまま。
今でも、「尊敬する人物は織田信長」(小沢一郎氏)と公言してはばからない政治家が、
後を絶たない。
それもそのため。

 私たちは一度、あの封建時代を、清算しなければならない。
もちろん歴史は歴史だから、評価すべき点があれば、評価する。
しかしけっして、美化してはいけない。
礼賛してはいけない。

 方法は簡単。
おかしいものは、おかしいと、みなが、声をあげればよい。
みなが声をあげれば、そこで歴史が変わる。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【虚栄論】(満63歳まで、あとxx日)

●見栄張(みえはる)君

+++++++++++++++++++

今日、車の中で、ワイフと「見栄」について
話しあった。
世間体、メンツ……総じて「虚栄」ともいう。
世の中には、見栄を張る人は多い。
「見栄張君」という。
「君」をつけるが、男性とはかぎらない。
女性にも多い。

+++++++++++++++++++

●グーグルアース 

 グーグルアースというサービスがある。
それを使うと、宇宙から見た地上の様子が、そのままわかる。
そんなことは、インターネットを楽しんでいる人には常識かもしれない。
しかし読者の中には、インターネットをしていない人もいる。
だからもう少し詳しく説明する。

 グーグルアースというサービスを立ち上げて、ボックスの中に住所を書き込む。
すると自動的にその住所の上空に、視点が移動する。
あとはマウスを使って写真を拡大する。
解像度によっては、数10メートル上空から地上を見ているような写真が浮かびあがって
くる。

 たとえば「浜松市西区入野町xxxx」と書き込む。
視点は私の家の上空に移動する。
私の家には、□のマークが表示される。
その状態で写真を拡大する。
私の家がそのまま見えてくる。
私の家の庭には、庭灯がある。
直径は20センチくらい。
そんなものまで、グーグルアースを使うと、識別できる。

●U氏

 たまたま今夜、夕食のあと、グーグルアースを立ち上げてみた。
アメリカに住む二男の家をさがしてみた。
が、そのあとのこと。
ふと、若いころからの知人のU氏のことを思い出した。
かなりの人物らしい。
U氏は、自分ではいつもそう言っている。

 「隣人は、医師とか弁護士ばかりでね。
高級外車がずらりと並んでいるよ」と。
「芦屋(あしや)でもx丁目といえば、そういうところで、よくテレビの取材
なんかも来るよ。うるさくて、たまらないよ」とも。

 関西でも芦屋と言えば、高級住宅地。
それは私もよく知っている。
その中でも一等地に住んでいるということだった。
で、私は彼の住所をボックスの中に、打ち込んでみた。
軽い好奇心だった。

●自己嫌悪

 私もときどき見栄を張る。
こうしてもっともらしいエッセーを書くのも、そのひとつ?
実力以上の自分を、演出する。
寛大なフリをしたり、金持ちのフリをしたりする。
大物ぶることもある。
時にウソを混ぜることもある。
しかしそこには一定の限度がある。
あとで自分を追い込むようなことはしたくない。
どうせバレるような見栄は、張らない。
また見栄を張るにも、相手を選ぶ。

 が、見栄を張るというのは、疲れる。
神経をすり減らす。
が、それ以上に、そのあとやってくる自己嫌悪感には、相当なものがある。
そのときの自分を消し去りたいような衝動にかられることもある。
だから……。
私は見栄を張らない。
努めて張らないようにしている。
ありのままをそのままさらけ出して生きる。
そのほうが、ずっと気が楽。

●路地

 知人の家は、すぐわかった。
その家をズームアップ。
その家を中心に、5、6軒の家が並んでいた。
が、私は住所をまちがえたのではないかと思った。
が、再三住所を確かめてみたが、まちがいなかった。
そこに見たのは、狭い路地。
道幅は、車一台分くらいしかない。
しかも畑につづく袋小路。
知人の家は、その袋小路の奥の家から、2軒目の家だった。

 私が頭の中に描いていたイメージとは、あまりにもちがった。
高級住宅地?
医師や弁護士の家?
高級外車?

 私はその映像をワイフに見せた。
ワイフも驚いた。
「この家が、あの人の家?」と。
「そう、これがあの人の家……」
「でもあの人、退職したら、市長になるって言っていたわよ」
「あのとき、お前もいたのか?」
「横で聞いていたわ」と。

●自我の同一性 

 人はなぜ見栄を張るか。
先に書いたことを、もう少し深く考えてみる。
が、これについては、ワイフが単純な答を用意した。
「自分がないからよ」と。

 自我の同一性といっても、若いころだけの問題ではない。
人は、老後を迎えるまで、自我の同一性をめざす。
もがく。
「こうでありたい」という自分と、現実の自分を、一致させようとする。
自分と闘う。

 しかしそれは簡単なことではない。
ありのままに生きるためには、自分をさらけ出さなければならない。
さらけ出すためには、さらけ出しても、それに耐えうる自分を用意しなければ
ならない。
「恥」という言葉は好きではないが、つまりは「さらけ出しても恥ずかしくない」
自分を用意しなければならない。

 その構築に失敗すると、人は自分を飾るようになる。
それがやがて見栄、世間体、メンツへとつながっていく。

●快感

 が、それだけではない。
人は見栄を張ることで、相手を自分の支配下に置こうとする。
支配欲のひとつと考えてよい。
「私はあなたより、すばらしい人間だ。私の言うことを聞け」と。

 といっても、実利がそれほどあるわけではない。
自己優越感を満足させるだけ。
あるいは自分の居場所の居心地をよくするだけ。

しかし見栄を張る人は、それだけではない。
そうすることによって、快感を覚える。
「快感」には、当然、中毒性がある。
見栄を張りながら、さらに見栄を張る。
それが加齢とともに、エスカレートする。

●Gさん(50歳)

 ワイフの知人に、Gさんという女性がいる。
今年、50歳になるという。
そのGさんが、見栄張君と、ワイフは言う。

 自分では「学習院大学卒」と言っているが、本当は名古屋市にある高校を
出ただけ。
「夫は、ソフト会社の社長」と言っているが、大型電気店の店員をしているだけ、
などなど。
何も高卒がどうとか、店員がどうとか書いているのではない。
高卒でもよいではないか。
店員でもよいではないか。
ついでにいえば、路地裏の家でも構わないではないか。
が、Gさんのばあいは、少しちがう。
わざと人前で、こう言うという。

「今度、学習院大学の同窓会がありましてね」とか、
「社長業も楽じゃありませんのよ。人づき合いがたいへんで」とか、など。
それとなく、自分の会話の中に、そうした言葉を混ぜる。
つまり相手をだます。

 が、その一方で、こうも言う。
「近所に、独居老人の人がいましてね。私、毎週、一度は訪問をし、声を
かけたり、食事を分けてあげたりしていますの」と。
 
●統合性

 さらに老齢期を迎えると、今度は統合性の問題が起きてくる。
知人のIK氏(藤沢市在住は)は、「還元」という言葉をよく使う。
自分の生きてきた人生を、つぎの世代の人たちに還元していくという意味で、
そう言う。
「統合性」とは、つまるところ、「還元」の問題ということになる。

 「人間として最後にやるべきことを求め、そこに自分を統合させていく」。
それが統合性ということになる。
が、その最大の障害物が、見栄ということになる。
つまり見栄を張るようになると、統合性の構築ができなくなる。
言うまでもなく、統合性は、無私、無欲でなければならない。
ほんのわずかでも、功利、打算が混入すれば、統合性の確立は霧散する。
それだけではない。

統合性の確立には、長い時間と、準備が必要。
「退職しました。明日からゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」という
わけにはいかない。
またそんなことをしても、長つづきしない。

●ありのまま生きる

 先にも書いたように、私も見栄を張ることがある。
大物ぶってみせることがある。
そういう自分の弱さをよく知っている。
だからこそ、いつも、……ほとんどいつも、自分にこう言って聞かせている。
「ありのままをさらけ出そう」と。

 一方、自分の息子のことを書くのも気が引けるが、それを私は二男から学んだ。
現在、アメリカに住んでいる。
インディアナ大学で、コンピューター技師をしている。
CERN(スイス)のスパコンを通信衛星を介してつなぎ、それをさらに世界中の
コンピューターとつないでいる。
何でもCERNからあがってくるデータは、ぼう大なものらしい。
そこらのスパコン程度では、役に立たないという。
それで世界中の科学者のもつ中型コンピューターとつなぎ、データを解析している。
何やら、とんでもないことをしているらしい。

 その二男が、日本へ帰ってきたときのこと。
地元の中学校から、講演会の講師に招かれた。
そのときのこと。
二男は穴のあいたTシャツとジーパン姿で、講演会に出かけていった。
「もう少し、ましな服を着ていけ」と私が言うと、二男はこう言った。
「ぼくは、いつもこのままだよ」と。

 どうしてそういう生き様を身につけたのかは、私にはわからない。
しかし私はそういう二男に、畏敬の念すら、覚えた。

●あとxx日

 さて私のこと。
今日は日曜日。
いろいろある。
で、心に決めた。
「今日1日だけでも、ありのままをさらけ出して生きよう」と。
これが今日の目標。

2010年10月17日。
私の満63歳の誕生日まで、あとxx日。 
62歳をどう生きたか。
その日までに、結論を出さなければならない。


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