2010年11月23日火曜日

*The Life after 60 (2)

【老後と死の受容】

●軽費老人ホーム
 
 昨日、近くにある、軽費老人ホームを訪れてみた。
ほどよい作りの、環境のよいところにある。
「今、すぐ」ということではないが、現在でも、30番待ち。
今、申し込んでも、3年ほど先になるという。

 入居費は、収入(年金額)に応じて異なる。
月額7万円(+光熱費、通信費ほか)から、17万円まで。
財産のあるなしは、関係ないという。
私もいずれは、しかしそれほど遠くない将来、そこへ入らなければならない。
その準備もかねて、訪れてみた。

●三界の足かせ

 本来なら、家族見守られてあの世へ旅立つ……というのが、理想かもしれない。
しかし今の現状を見る限り、その希望はない。
この先、現在50歳以上の約60%の人は、独居老人となり、孤独死を迎える。
「無縁老人」という言葉も、最近、生まれた。

 若い世代の人たちは、「私たちはだいじょうぶ」と高をくくっている。
現実のきびしさを、みくびっている。
しかしこのきびしさは、ますことはあっても、減ることはない。
今は60%だが、この先、70%、80%となる。
それもそのはず。
若い人たちが「家族」という言葉を使うとき、そこには「両親」は入っていない。
夫婦とその子ども、そのワクの中だけを「家族」という。

しかし自分たちもいつか、その両親になる。
ジジ・ババになる。
今の私たちが、家族からはじき飛ばされているように、自分たちもはじき飛ばされる。
そのときになって、「家族って何だろう?」と考えても遅い。

 が、だからといって、家族との同居が望ましいということではない。
『子はかすがい』とも言うが、同時に『三界の足かせ』とも言う。
子ども(息子や娘)が親のめんどうをみるのではなく、老親が子ども(息子や娘)のめんどうをみるというケースもふえている。
親にしてみれば、死ぬに死ねないということになる。

●受容段階説

 ともあれ、私たちは否応なしに年を取っていく。
やがて花が朽ち果てるように、死を迎える。
この先は、「どう生きるか」に併せて、「どう死ぬか」。
それが人生の大きなテーマとなっていく。
言い替えると、老後の「死」をどう受け入れていくかということ。
キューブラー・ロスの『死の受容段階説』が、まず頭に思い浮かぶ。
それについては、何度も書いてきた。

 「あなたはがんです。余命はあと1年」と言われるのも、「あなたの寿命は
残り15年です」と言われるのも、同じ。
どこもちがわない。
(男性の平均寿命は、78歳前後。現在私は63歳。だから「15年」となる。)
大学の同窓生100人のうち、11人がすでに他界している。
老後というより、「死」は、すぐそこまで来ている。

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キューブラー・ロスの『死の受容段階説』に
ついての原稿をさがしてみます。
(2009年5月の原稿集より)

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【老人心理】(キューブラー・ロスの『死の受容段階論』)

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 キューブラー・ロスの『死の受容段階論』は、よく知られている。
死を宣告されたとき、人は、(否認期)→(怒り期)→(取り引き期)
→(抑うつ期)→(受容期)を経て、やがて死を迎え入れるように
なるという。

 このロスの『死の受容段階論』については、すでにたびたび書いてきた。
(たった今、ヤフーの検索エンジンを使って、「はやし浩司 死の受容段階」
を検索してみたら、113件もヒットした。)

 で、またまた『死の受容段階論』(死の受容段階説、死の受容過程説、
死の受容段階理論などともいう)。

その段階論について、簡単におさらいをしておきたい。

●キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)

(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。

(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。

(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。

(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。

(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わりを静かに受け入れる。(以上、同書より)

●老人心理

 老人心理を一言で表現すれば、要するに、キューブラー・ロスの『死の受容段階論」に、
(第0期) を加えるということになる。

(第0期) 、つまり、不安期、ということになる。

 「まだ死を宣告されたわけではない」、しかし「いつも死はそこにあって、私たちを
見つめている」と。
不治の病などの宣告を、短期的な死の宣告とするなら、老後は、ダラダラとつづく、
長期的な死の宣告と考えてよい。
「短期」か「長期」かのちがいはあるが、置かれた状況に、それほど大きなちがいは
ない、。

 ロスの説く、(第1期)から(第5期)まぜが混然一体となって、漠然とした不安感
を生みだす。
それがここでいう0期ということになる。
そしてそれが老人心理の基盤を作る。

●死の受容

 死の宣告をされたわけではなくても、しかし死の受容は、老人共通の最大のテーマ
と考えてよい。
常に私たちは「死」をそこに感じ、「死」の恐怖から逃れることはできない。
加齢とともに、その傾向は、ますます強くなる。
で、時に死を否認し、時に死に怒りを覚え、時に死と取り引きをしようとし、時に、
抑うつ的になり、そして時に死を受容したりする。

もちろん死を忘れようと試みることもある。
しかし全体としてみると、自分の心が定まりなく、ユラユラと動いているのがわかる。

●「死の確認期」

 この「0期の不安期」をさらに詳しく分析してみると、そこにもまた、いくつかの
段階があるのがわかる。

(1) 老齢の否認期
(2) 老齢の確認期
(3) 老齢の受容期

(1)の老齢の否認期というのは、「私はまだ若い」とがんばる時期をいう。
若いとき以上に趣味や体力作りに力を入れたり、さかんに旅行を繰り返したりする時期
をいう。
若い人たちに対して、無茶な競争を挑んだりすることもある。

(2)の老齢の確認期というのは、まわりの人たちの「死」に触れるにつけ、自分自身
もその死に近づきつつあることを確認する時期をいう。
(老齢)イコール(死)は、避けられないものであることを知る。

(3)の受容期というのは、自らを老人と認め、死と共存する時期をいう。
この段階になると、時間や財産(人的財産や金銭的財産)に、意味を感じなくなり、
死に対して、心の準備を始めるようになる。
(反対に、モノや財産、お金に異常なまでの執着心を見せる人もいるが……。)

 もっともこれについては、「老人は何歳になったら、自分を老人と認めるか」という問題も
含まれる。

 国連の世界保健機構の定義によれば、65歳以上を高齢者という。
そのうち、65~74歳を、前期高齢者といい、75歳以上を、後期高齢者という。
が、実際には、国民の意識調査によると、「自分を老人」と認める年齢は、70~74歳が
一番多いそうだ。半数以上の52・8%という数字が出ている。(内閣府の調査では
70歳以上が57%。)

 つまり日本人は70~74歳くらいにかけて、「私は老人」と認めるようになるという。
そのころから0期がはじまる。

●「0期不安記」

 この0期の特徴は、ロスの説く、『死の受容段階論』のうち、早期のうちは、(第1期)
~(第3期)が相対的に強く、後期になると、(第3期)~(第5期)が強くなる。

 つまり加齢とともに、人は死に対して、心の準備をより強く意識するようになる。
友や近親者の死を前にすると、「つぎは私の番だ」と思ったりするのも、それ。
言いかえると、若い人ほど、ロスの説く(否認期)(怒り期)(取り引き期)の期間が
長く、葛藤もはげしいということ。

 しかし老人のばあいは、死の宣告を受けても、(否認期)(怒り期)(取り引き期)の
期間も短く、葛藤も弱いということになる。
そしてつぎの(抑うつ期)(受容期)へと進む。

 が、ここで誤解してはいけないことは、だからといって、死に対しての恐怖感が
消えるのではないということ。
強弱の度合をいっても意味はない。
若い人でも、また老人でも、死への恐怖感に、強弱はない。
(死の受容)イコール、(生の放棄)ではない。
老人にも、(否認期)はあり、(怒り期)も(取り引き期)もある。
それゆえに、老人にもまた、若い人たちと同じように、死の恐怖はある。
繰り返すが、それには、強弱の度合は、ない。

●死の否認期

 第0期の中で、とくに重要なのは、「死の否認期」ということになる。
「死の否認」は、0期全般にわたってつづく。
が、その内容は、けっして一様ではない。

 来世思想に希望をつなぎ、死の恐怖をやわらげようとする人もいる。
反対に、友人や近親者が死んだあと、その霊を認めることによって、孤独をやわらげ
ようとする人もいる。
懸命に体力作りをしたり、脳の健康をもくろんだりする人もいる。
趣味や道楽に、生きがいを見出す人もいる。

 が、そこは両側を暗い壁でおおわれた細い路地のようなもの。
路地は先へ行けば行くほど、狭くなり、暗くなる。
そしてさらにその先は、体も通らなくなるほどの細い道。
そこが死の世界……。

 老人が頭の中で描く(将来像)というのは、おおむね、そんなものと考えてよい。
そしてそこから生まれる恐怖感や孤独感は、個人のもつ力で、処理できるような
ものではない。
つまりそれを救済するために、宗教があり、信仰があるということになる。
宗教や信仰に、救いの道を見出そうという傾向は、加齢とともにますます大きくなる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
 
●縁切り

 この年齢になってはじめて、私は「家族」というものを、考えなおしている。
(これはけっして、愚痴ではない。)
私自身も、他の多くの親と同じように、人一倍、家族を大切にしてきた。
無我夢中で働いてきた。
しかしその結果、そこに残ったものは、何か。
(これはけっして、愚痴ではない。)

 多くの息子や娘たちは、理由にもならないような理由をこじつけ、平気で親を
切り捨てていく。
ある息子は、子ども(=孫)が生まれたとき、妻(=嫁)を見舞ってくれなかった
ことを理由に、親と縁を切っている。
ある娘は、結婚式の費用を負担してくれなかったことを理由に、親と縁を切っている。
つまり盆暮れの行き来を絶っている。

 「話が逆だろ」と私は思うが、その逆転現象が、今では常識。
親が息子や娘に、誕生日カードを送ることはあっても、その逆はめったにない。
そのバカらしさを親が感じたとき、親子の関係は、絶縁する。
つまり子どもの方が、それを理由に縁を切っていく。

●人生の終わりに……
 
 この1年間で、私の育児観は大きく変わった。
飽食論を説いていたら、いつの間にか、人々は飢餓状態になっていた。
もう少し具体的には、老後の生き方を説いていたら、生き方どころではなく、命そのもの
まで危うくなっていた。
家族論についても、同じことが言える。

 「個」は「家族自我群」の犠牲になってはいけない。
それを説いていたら、家族そのものが、それ以上にバラバラになってしまっていた。
正直に告白するが、今の私は、自己嫌悪そのもの。
自己否定の一歩寸前。
「私はまちがっていた!」と、あと一歩で、そう叫ぶようになるかもしれない。

 何かがおかしい。
おかしいというよりは、狂った。
それについては、この先、たくさんの原稿を書くことになるだろう。
このままでよいとは、だれも思っていない。
またこのままだと、それこそ日本は、その根底から精神がバラバラになってしまう。
それもそのはず。

 懸命に生き、懸命に追い求めてきたものが、皮肉なことに「孤独」だったとは!
それこそこんな時代は、私たちの世代だけで終わりにしなければならない。
つぎの世代に残してはいけない。

●再び軽費老人ホーム

 部屋は1人ずつの、6畳。
ほかに小さなクロゼットと机。
食事はみなで、食堂ですますようになっている。

 条件としては、心身ともに健康で、自活できる人ということになっている。
言い忘れたが、年齢は60歳から。
「あなたには入居資格があります」と言われた。
(喜んでいよいのか、それとも悲しむべきなのか?)

「6畳は狭いな」と思ったが、ぜいたくは言えない。
入居できるだけでも、御の字。
独居老人になり、孤独死を迎えるよりは、よい。

 あとはその心の準備を整えること。
そのためには、どうすればよいかを考えること。
なおそのホームの老人たちは、アルバイト程度ではあるが、何らかの仕事を
している人もいるという。
老人ホーム、イコール、けっして「死の待合室」ではないし、またそうであっては
いけない。
そうした老人になってからの生きがいを今から準備する。
それも「今」という時期の重要なテーマと考えてよい。

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