2011年1月11日火曜日

●Q&A(3)

●子育て不安



【不安なあなたへ……】



●子どもの心がつかめない(?)



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心がつかめない娘(小6)について、

そのお母さんから、こんな相談があり

ました。



この問題について、考えてみたいと

思います。



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どこからお話ししていいのか分りません。沢山の問題があるように思うのですが・・・。

どうか、少しでも、問題点が整理できればと、こちらのHPに投稿させて頂きました。



事の始まりは、先日娘の担任の先生から電話があったことです。



「実は、P子さん(=私の娘、小6)が、最近、A子さんにひどい言い方をしているようだ。下校
中、上下関係があるように見える」と言われました。それがたいへん、気になりました。



さらに、「実は去年の冬ごろ、ちょっとした事件がありまして」と、聞かされました。



先生の話の内容は、こういうことでした。娘のP子が、B子さんに本を貸したのですが、なかな
か返してくれないので、「返して」と言ったところ、B子さんは、「私は借りていない」と言ったとの
こと。



「確かにB子さんに貸したはず」と娘は言いましたが、しかし別の子から、「あっ、私、借りてる
よ」と、本を渡されました。娘はB子さんに謝り、この件は終了しました。



ところが、その後、B子さんが、「私のペンがない!」と騒ぎ出しました。周りの友人も手伝っ
て、探したところ、それが娘のP子の筆箱の中に、あったというのです。「あっ、そのペン私のじ
ゃない?」と、B子さんが言ったといいます。それを見ていた先生も中に入り、娘に聞くと、「違
う、これはお母さんに買ってもらったもの」と答えたというのです。



先生は「じゃあ、お母さんに聞いてもいいですか?」と、娘のP子に訪ねると、「ダメ」と答えたと
いうのです。



それはおかしいなーと、いうことで、周りからも疑われた。・・・・と、いう事がありました。先生
は、「もう、このことは済んだことなので、いいのですが・・・・。しかしP子さんが、A子さんにひど
く当ることなどを、とても心配しています。おうちでも話しあってみてください」と言いました。



 初耳でした。でも、結果として娘はみんなの前で泥棒にされてしまったのでしょうか。

とにかく、真実を知りたいと、私は、娘に聞いてみました。



まず、A子さんのことですが、娘のP子は、「思い当たることはない、何の事を言っているのか
わからない」と言いました。無意識でも、つまりこちらがその気でなくても、相手が傷ついている
としたら、とっても悲しい事だから、これから気をつけてねなどと、話しました。次にペンの事を
聞いたのですが、その話になるろ、娘は泣きだしてしまいました。



 ・・・・実はこのずっと以前から気になっていたのですが、子どもたちは文房の交換をしている
ようです。「このペンどうしたの? この前買ったペンはどこ行ったの?」と私がP子に聞くと、屈
託なく、「うん、友達が交換してっていうからいいよって」とか言います。



私「え? 何で?」

娘「どうしても欲しいって言うし、交換ならいいかなって。それに断る理由がないから」とのこと。



これもショックでしたが、きちんと「物をもっと大切にして欲しい。簡単に交換しないでほし
い。。。」などなど沢山話しこれからはしないでねと、そのときは、そういう話で終わりました。



 で、本題ですが、「ペンのことだけど、こんなことがあったんだって? そのペンはどうしたもの
なの?」と聞くと、娘はなかなか答えようとしませんでした。そこで(1)持ってきてしまった、(2)
拾った、(3)自分で買った、(4)その他の中のどれ?、と聞くと、やっとの事で、「交換したもの」
と言いました。



「じゃあ何であの時、そういわなかったの?」と聞くと、泣くばかりです。泣いて泣いて、やっと聞
けたのが、「交換しようって言われてしたのに、Bちゃんがどうしてそんな事を言い出したのか
分らなくって」と。



私「あなたは泥棒だと、他の人はそう思うよ、それでもいいの?」

娘「盗んだと思われてもいい。それでも自分の思いは言えない」と。



 最近、大きくなってきて、少し手が離れてきたと思って手を抜いてしまったと、我にかえりまし
た。低学年のころは、毎日のように主人と夜、子どもたちのことについて話し合っていたのも、
最近ではしていない事にも気付かされました。



で、昔からの悩みの種は、娘(相談の娘小6・この下に小3の妹がいます)の、対人関係につい
ての問題です。



私が働いていたため、娘が1歳半のときから保育園へ預けました。教育熱心で有名な保育園
でしたが、右を向きなさいと指示されても、右を向かないような娘でした。そんなわけで、先生
も、娘にかなり手を焼いていたようでした。何度も主人と呼び出されては、「お宅の子は人を見
る」とこんこんと言われました。



人見知りが極端にはげしく、突然話し掛けられたりすると、かたまって口を閉ざしたり、下を見
る、隠れるなどの行為をしました。ですから、極力休日は、家族で一緒にのんびりゆったり、栄
養を蓄えるつもりで、常に皆で横に手をつなぎ、時には後ろに回り背中をなでながら過ごしてい
ました。



小学校の入学時には、「大丈夫、なにも心配要らないよ」と、ぽんっと送り出したりしましたが、
当時は、本当に元気よく通っていました。が、大人に理解されにくい性格は中々変わることもな
く、「こう思ってるんだよ!」などと、口にした事は無いようです。



が、その一方で、娘は、地道に努力するタイプで、昨年、放送委員になったのですが、家で練
習し、運動会やおひつの放送も、物怖じせず、こなしていきました。



一時期、これは、何かの障害なのではないかと、悩みました。が、素人判断も出来ず、なんと
かやっていけていましたので・・・・。



現在も、三者面談などでは体をこわばらせ、手に冷や汗をかいています。落ち着きがなくなり、
なんとか作り笑いをしてみせたりするのですが、それも先生にはふざけているように見えるの
か、あまりよい印象は与えていないようです。



 そのような関係の先生ですが、今回の話し合った結果を、その先生に連絡しました。



私としては、なんとか、先生にだけでも誤解を解きたい。このままでは娘のP子がかわいそうと
の思いで話しました。



先生は「分りました。ペンの事は申すんでしまった事なので、(確かに時がたちすぎている)、今
さら蒸し返すのも何ですのでやめます」と言ってくれました。またペンのことについては、「やは
りあのペンはB子さんのものだったわけだ。でも、B子さんは、交換した気は全く無いですよ」と
のこと。私は「また相談にのって頂きたいので、よろしくお願いします」と言えただけです。



先生は、本当に娘のことを心配しているのか不安になりました。なぜ先生は、娘の側を少しで
も見ようとしてくれないのでしょうか。私は常に平等を心がけ、こちらが悪いのでは、と思いなが
ら話を聞くようにしているのですが。。。



長々とすみません。娘から話しを聞いて、娘には、「お母さんは、あなたを信じている。本当に
信じている。世界で一番の味方だから」「分った、お母さんが守ってあげる。心配しないで。で
も、努力しようね」と、言いました。



A子さんには本当に申し訳ない事をしたと思っています。とてもおとなしい子です。B子さんは、
大人うけする、ハツラツとしたとても気持ちのいい子です。クラスのリーダー的存在。親友の子
と喧嘩をした時だけ、娘に愚痴を言いにくるようです。



私は今、娘に何をしたらいいのか。先生に何を言ったらいいのか。主人とも話し合っています
が、行き詰まってしまっています。



本当に長くなって申し訳ありません。毎晩、この問題を考えていると、眠れません。アドバイスを
お願いします。

(大阪府、KR子、P子の母親より)



【はやし浩司より、P子さんのお母さんへ】



 メール、ありがとうございました。



 まず、最初に、一言。



 この種の問題は、たいへんありふれた問題です。はっきり言えば、何でもない問題です。



 まず、A子さんについてですが、A子さんは、P子さんに、いじめられていると訴えただけのこ
とです。ただP子さんには、その意識はなかった。つまり(いじめている)という意識がないまま、
結果として、いじめているという雰囲気になってしまった。それだけのことですが、これも(いじ
め)の問題では、よくあることです。



 B子さんとの本のトラブルについては、P子さんが、ウソを言っているだけのことです。何でも
ない、つまりは、子どもの世界では、よくあるウソです。一応たしなめながらも、おおげさに考え
る必要は、まったくありません。



 思春期の子どもは、自立を始めるとき、それまでになかったさまざまな変化を見せるようにな
ります。フロイトの説によれば、イド(心の根源部にある、欲望のかたまり)の活動が活発にな
り、ときとして、子どもは欲望のおもむくまま、行動するようになります。



 ウソ、盗みなどが、その代表的なものです。万引きもします。性への関心、興味も、当然、高
まってきます。しかしそういう形で、つまり親や社会に対して抵抗することで、子どもは、親から
自立しようとします。



 ですから、ここに書いたように、一応はたしなめながらも、それですませます。あなたのよう
に、子どもを追いつめてはいけません。これはP子さんの問題というよりは、完ぺき主義(?)
のあなたのほうに問題があるのではないかと思います。



それともあなたは、子どものころ、あなたの親に対して、ウソをついたことはないとでも言うので
しょうか? ものを盗んだことはないとでも言うのでしょうか? 親の目の届かないところで、男
の人と遊んだことはないとでも言うのでしょうか? もしそうなら、あなたは修道女? (失礼!)



 もしP子さんに問題があるとするなら、乳幼児期に、母子の間で、しっかりとした信頼関係が
結べなかったという点です。母子の間でできる信頼関係を、心理学の世界では、「基本的信頼
関係」といい、それが結べなかった状態を、「基本的不信関係」といいます。



 この信頼関係が基本となって、その後、先生との関係、友人関係、異性関係へと発展してい
きます。



 そのころの(不具合)が、今、P子さんの対人関係に、影響を与えているものと思われます。
が、しかしそれは遠い過去の話。今さら、どうしようもない問題です。



 ですから今は、「うちの子は、人間関係を結ぶのが苦手だ」「他人に心を開くのが苦手だ」「外
では無理をして、いい子ぶる」「自分の心の中を、さらけ出すことができない」と、割り切ることで
す。だれでも、ひとつやふたつ、そういう弱点があって、当たり前です。



 大切なことは、そういう子どもであることを、認めてあげることです。認めた上で、P子さんを
理解してあげることです。「なおそう」とか、そういうふうに、考えてはいけません。(どの道、今さ
ら、手遅れですから……。)



 あとはP子さん自身の問題です。もしP子さんが、もう少しおとなになり、人間関係の問題で悩
むようなことがあったら、ぜひ、私のHPを見るように勧めてあげてください。あるいはマガジン
の購読を勧めてあげてください。無料です。同じような問題は、そのつどテーマとして、マガジン
でもよく取りあげていますので、参考になると思います。



 で、今、あなたの目は、P子さんのほうに向きすぎています。そんな感じがします。しかも、P
子さんへの不信感ばかり……! 心配先行型の子育てが、いまだにつづいているといった感
じです。



 ですからあなたはあなたで、もう少し、外に向かって目を向けられたらどうでしょうか? 多
分、あなたはP子さんにとっては、うるさい、いやな母親と映っているはずです。たかがペンぐら
いの問題で、親からここまで追及されたら、私なら、机ごと、親に向かって投げつけるだろうと
思います。ホント! 今では、ペンといっても、いろいろありますが、100円ショップで、3~5本
も買える時代です。



 いわんや子どもが泣きだすほどまで、子どもを追いつめてはいけません。またこの問題は、
そういう問題ではないのです。



 さらに学校の先生も、それほど、おおげさには考えていないはずです。先にも書きましたが、
こうした問題は、まさに日常茶飯事。ですから、先生がP子さんのことを悪く思っているとか、娘
が誤解されてかわいそうとか、先生が親側に立ってものを考えてくれないとか、そういうふうに
考えてはいけません。



 またP子さんに向かって、「信じている」とか何とか、そんなおおげさな言葉を使ってはいけま
せん。また使うような場面ではありません。繰りかえしますが、たかがペン1本の問題です。わ
かりやすく言えば、P子さんが、B子さんのペンを盗んで、自分の筆箱に入れた。それだけのこ
とです。



 多少の虚言癖はあるようですが、それもこの時期の子どもには、よくあることです。(もちろん
病的な虚言癖、作話、妄想的虚言などは、区別して考えますが……。)



 あなたにも、それがわかっているはず。わかっていながら、P子さんを追いつめ、P子さんの
口からそれを聞くまで、納得しない。つまりは、あなたは、完ぺき主義の母親ということになりま
す。



 P子さんは、いい子ですよ。放送委員の一件を見ただけでも、それがわかるはず。そういうP
子さんのよい面を、どうしてもっとすなおに、あなたは見ないのですか。あなたが今すべきこと
は、そういうP子さんのよい面だけを見て、あなたはあなたで、前を見ながら、前に進む。今
は、それでよいと思います。つまりは、それが(信ずる)ということです。言葉の問題ではありま
せん。



 またこうした問題には、必ず、二番底、三番底があります。あなたはP子さんの今の状態を最
悪と思うかもしれませんが、しかし、対処のし方をまちがえると、P子さんは、その二番底、三番
底へと落ちていきますよ! これは警告です。



 反対の立場で考えてみてください。私なら、家を出ますよ。息が詰まりますから……。P子さん
が、家を出るようになったら、あなたは、どうしますか。外泊をするようになったら、どうします
か。



 ですから今は、「今以上に、状態を悪くしないことだけを考えなら、様子をみる」です。



 だれしも、失敗をします。人をキズつけたり、あるいは反対に人にキズつけられながら、その
中で、ドラマを展開します。悩んだり、苦しんだり……。そのドラマにこそ、意味があるのです。
子どもについて言えば、そのドラマが、子どもをたくましくします。



 P子さんは、たしかにいやな思いをしたかもしれませんが、それはP子さんの問題。親のあな
たが、割って入るような問題ではないのです。親としてはつらいところですが、もうそろそろ、あ
なた自身も、子離れをし、P子さんには、親離れをするよう、し向けることこそ、大切です。



 とても、ひどいことを言うようですが、私はあなたの相談の中に、子離れできない、どこか未
熟な親の姿を感じてしまいました。あなたはそれでよいとしても、P子さんが、かわいそうです。



 で、たまたま昨夜、『RAY』というビデオを見ました。レイ・チャールズの生涯をつづったビデオ
です。あのビデオの中で、ところどころ、レイ・チャールズの母親が出てきますが、今のあなた
に求められる母親像というのは、ひょっとしたら、レイ・チャールズの母親のような母親像では
ないでしょうか。



 最後に、もう一言。



 こんな問題は、何でもありませんよ! 本当によくある問題です。ですから、「A子さんに申し
訳ない」とか、B子さんがどうとか、そんなふうに考えてはいけません。今ごろは、A子さんも、B
子さんも、学校の先生も、何とも思っていませんよ。



 あなた自身が、心のクサリをほどいて、自分のしたいことをしたらよいのです。心を開いて!
 体は、あとからついてきますよ!



 すばらしい季節です。おしいものでも食べて、あとは、忘れましょう! 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの虚言 子供の虚言 盗み)



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いくつか、今までに書いた

原稿を添付しておきます。



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【信頼関係】



 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。



 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。



 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。



 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。



 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。



 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。



 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。



 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。



●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。

●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。

●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。

(030422)

((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 信頼
関係 親子関係 親子の信頼関係)



















 Q&A INDEX   はやし浩司のHPへ 
【7】



●若者の暴力について



【掲示板への書き込み記事より】



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20歳の男性から、

こんな書き込み記事がありました。



若者の暴力について、です。



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【20男さんより、林へ】



はじめまして。 掲示板には名前は書かないほうがいいので、ここでは、「20歳男」と名乗りま
す。



相談と言ったらいいのか、伝えたい事と、質問したい事があります。



最近の若者はよくキレると言われ、実際その通りだと思います。では昔はどうだったのだろう
か?、と言う質問です。



また、人を殴ったりしても罪悪感を覚えない若者には、外見上の共通項があるのか。あるとし
たらどんな姿か、ご存知でしょうか。



自分は男の20歳で、(年齢的には、もっと下に見えるそうですが)、

癖毛で長髪、運動する時など、紐で後ろに縛ります。身長163cm程。

少なくとも現代の若者からすると、髪型が笑われます。(自分もついこの前まで高校生でし
た。)



しかし、顔の造詣自体は、目付きが鋭く、オタクの様に気持ち悪がられるより前に、暴力沙汰
に近そうと、怖がられる事もあります。



若者自身がカッコイイと思っている髪形は、スポーツ刈り、普通の短髪、ジェルで短髪を逆立て
たものなどがあります。



こちらが歩いているだけで殴りかかってくるのは上記の、ジェルで短髪を逆立てた小奇麗な外
見の若者です。また殴られはしないものの、このタイプの男は、学校でも乱暴だったような記憶
があります



しかし自分はそういう、若者同士から好評価を得られる髪形ではなく、癖毛で長髪で、ただ伸
ばしているだけです。長髪を紐で後ろに縛っています。



その自分の風貌が目に付いたのでしょう。先日健康のために公園を走っていると、笑われな
がら、缶を投げつけられたり、殴られたりと言う事がありました。被害届を出しました



年代が上の方には分りづらいかもしれませんが、自分のただ伸ばしているだけの長髪は、年
代が上の方には不良、あるいはカッコ良い、音楽をやっている人間と見られる事があります。



しかし今の若者からすると、それはカッコ良い髪型と言う訳でもなく、攻撃の対象(暴力沙汰の
対象)になる事もあります



自分には、男としての魅力だとかは余り無いのでしょうし、それが殴りやすかったり、絡まれや
すかったりする原因なのだと思います。



自分に絡んでくる若者は雄であり、恐らく若い女性だったら、自分が殴られるのを目撃しても、
止めようとはせず、通り過ぎていくことでしょう。(その女性が高校生だとしたら、通報してくれた
りする姿が、自分には、想像できません)。



性的に、どういう人間が魅力的なのかという基準について、どうこう言いたいのではなく、外見
の良し悪しの基準が、ひとつの原因となって、人に襲われるという事もあるということです。



その基準は全ての人間に共通というわけではなく、若者同士の間でだけかけられる見方なの
だと思います。キレた小奇麗な若者は、年代が上の人が見れば、普通の明るい少年に見える
かもしれません。



若者は2極化しています。誰かを殴りながら、その人を、ゴミの様に扱うのもいます。では昔は
どうだったのだろう?、と疑問に思い、こうして、聞きたくなりました。



昔は今よりもマトモな時代だったのでしょうか?



++++++++++++++++++++



 この青年は、今、他人から受ける暴力について、悩んでいる。公園の中を走っているだけで、
笑われたり、缶を投げつけられたりすることもあるという。殴りかかられたこともある。



 そこでこの青年は、その原因として、自分の風貌(ふうぼう)ではないかと書いている。そして
同時に、そういう暴力行為をする人間には、一定の共通点があるかどうかと、私に聞いてきて
いる。



 一見、淡々と自分のことを書いているが、その青年の立場に立って考えてみると、これはた
いへん深刻な問題と言ってよい。へたをすれば、その青年は、人間不信から、自暴自棄に陥
(おちい)ってしまうかもしれない。その青年の置かれた環境は、あまりよくないらしい。それは
よくわかるが、そういう環境しか知らず、その中でもがいている、その青年は、かわいそうです
ら、ある。



 が、決して同情しているのではない。むしろ私は、そういう環境をよいことに、その青年を、理
由もなく、笑ったり、缶を投げつける連中が、心底、許せない。なぜそんなことをするのかという
ことを聞く前に、私でも、そういう連中を、叩きのめしたい衝動にかられる。暴力には暴力という
考え方は正しくないが、しかし暴力でしか、そういう連中に、自分の非を認めさせる方法はない
のではないか。



 そう、弱いものいじめほど、卑怯なものはない。ただこれだけは、覚えておくとよい。人は、い
じめられれば、いじめられるほど、何が大切で、何がそうでないかを知る。一方、いじめる側の
人間は、ますます人生の真理から遠ざかり、遠い、遠い、回り道をすることになる。つまらない
人生を送ることになる。時間を無駄にすることになる。



 気がついたときには、人生も終わっている……。そうなる可能性はたいへん高い。



 だから、そういう連中は、反対に、笑ってやればよい。心底、軽蔑してやればよい。しかしそ
れには、ひとつ、条件がある。そういう連中を笑えるほどまでに、自分自身を高めなければなら
ない。それをしないと、自分自身も、結局は、ズルズルと、そういう連中の仲間に引きずりこま
れてしまう。



 愚劣な連中を相手にしていると、自分まで、その愚劣な人間になってしまうということは、この
世界ではよくある。つまり批判したり、嫌ったりするだけでは、問題は、解決しない。



 が、自分を高めれば、やがてそういう連中が、餌を求める山猿に見えてくる。ゴミをあさる、カ
ラスに見えてくる。そういう形で、そういう連中と決別する。そういう自分と決別する。同時に、そ
ういう環境と、決別する。



 それがその青年には、できるだろうか?



【はやし浩司より、20歳男さんへ】



 私の時代にも、暴力事件は、ありました。今よりも、もっと多かったかもしれません。しかし1
対1の関係というよりは、集団対集団という関係のほうが多かったように思います。



 ある高校の連中が、突然、となりの学校へ押し入って、そこで相手の連中と殴りあうというよ
うな暴力行為です。また私が入った高校では、上級生が、下級生を暴力でしごくというようなこ
とが、慣例として、なされていました。



 先生たちは、見て見ぬふりをしていたのではなかったのかと、今にして思うと、そういう感じが
します。そのほうが、学校としては、都合がよかったからです。生徒が、先生に対して、おとなし
くなり、従順になるからです。



 そういう意味では、昔の暴力の方が、わかりやすかったかもしれません。まだ戦後のドサクサ
が残っているような時代でしたから……。



 しかしあなたの今、置かれている環境は、ふつうではないですね。心がすさんでいるという
か、殺伐(さつばつ)としているというか……。まるで暴力映画を、地でいくような世界のような感
じがします。



 で、私が今、アドバイスできることと言えば、できるだけそういう世界とは、早く、縁を切りなさ
いということ。でないと、あなた自身も、そういう世界に巻き込まれてしまう。その危険性は、た
いへん高いです。



 何か、自分を高める方法はありませんか? 目標はありませんか? 夢や希望は、ありませ
んか? もしあれば、そういうものに向かって、今は、まっしぐらに進むべきときです。そういう
連中にかかわりあっている暇は、ないはずです。



 はっきり言えば、キレる子どもに定型は、ありません。もちろん髪型で区別するということは、
できません。しかし心がゆがんだ子どもには、共通の症状、つまり俗に言う、ツッパリ症候群と
いうのはあります。独特の歩き方、すさんだ目つき、拒否的態度などなど。



 しかし彼らとて、精一杯、そういう形で、自分の(顔)をもとうとしているのですね。何もとりえが
ないものだから、暴力で訴えることによって、自分の存在感を作ろうとしている。そういう点で
は、あわれな人たちです。あなたから見て、目立つ髪形をするのも、その存在感をアピールす
るためのものと考えてよいです。



 今のあなたに、そういう人たちを、かわいそうと思うだけの余裕はないかもしれません。しかし
あなたが、自分を高めれば、いつかすぐ、そういう目で、そういう人たちを見ることができるよう
になります。あるいは相手にしなくなる。



 私は、少し前、T氏という男性と、2時間ほど、あることで話しあいました。T氏というのは、多
分、明日(15日)、ワールドカップ代表選手として、選ばれる人です。その男性と話しているとき
のこと。私は、その途中で、何度も、その男性のもつ人格の完成度に驚きました。



 「この人は、私より、30歳近くも若いのに、何という完成度!」と。



 T氏は、昨年のアジアカップ杯では、初戦から、最後の北京でのあの優勝戦まで、ずっと活躍
した人です。つまりそこにいたるプロセス、そして幾多の国際試合が、T氏をして、そういうT氏
にしたのですね。



 別れるとき、「すばらしい人生を歩んでおられますね」と声をかけると、T氏は、はにかみなが
ら、「ぼくには、スポーツ(サッカー)しかできませんから」と笑っていました。しかしひとつのこと
をやりとげた人というのは、そういう人を言うのですね。



 20歳という年齢は、すばらしい年齢ですよ。その上、あなたは若いのに、すでに自分を静か
に見つめる目をもっている。今の若い人たちには、なかなかない(目)です。それを信じて、そ
れがたとえかなわぬ夢であっても、あなたはあなたで、ただひたすら前に進む。進むことに、意
味があるのです。



 結果があっても、なくても、です。あるいは結果は、必ず、あとからついてくる。



 私はよく「山登り」という言葉を使います。あなたはあなたで、どんな小さな山でもよいから、登
ってみる。そうするとですね、不思議なことに、意外と、視野が広い。「あんな低い山……」と思
って登ってみても、実際に登ってみると、遠くに、太平洋や、富士山が見えたりして……。



 そしてそれまで自分がいたところが、驚くほど低いところにあったのがわかる。山登りという
のは、そういうものです。



 ここに書いたT氏にしてみれば、この日本中が、足元の小さなゴミのように見えるかもしれま
せん。ひょっとしたら、日本の総理大臣すらも、足元でうごめく、小さな人間に見えるかもしれな
い。そういう人を、人格の完成度の高い人といいます。



 でね、私はそのT氏と別れたあと、こう思いました。「いったい、自分は、この50年間、何をし
てきたのだろう」と。自分という人間が、どこまでも、つまらない人間に見えてきたからです。何
かをしてきたつもりなのに、その何かが、何も残っていない……。それに気がつくのが、私のば
あい、30年、遅かった!



 しかし今のあなたなら、それができる。こう言うのは自分の敗北を認めるようでつらいです
が、あなたがうらやましい! 私があなたの年齢のときには、私の心の目は、盲目だった。た
だがむしゃらに、人を蹴飛ばしながら、生きていた。



 自分のことしか考えていなかった。自分の利益しか考えていなかった。私は、そういう意味で
は、盲目でした。人の心が、まるで見えなかった。



 だから何も残っていないのです。が、あなたは、盲目ではない。自分につけられた心のキズを
通して、相手の心を冷静に見ようとしている。これはとても、すばらしいことなのですね。



 さあ、あなたも勇気を出して、一歩、前に進んでみよう。前に山があれば、その山に登ってみ
よう。それができたとき、今のあなたがかかえる問題は、自然消滅の形で、あなたの前から消
えているはずです。



 笑われても、缶を投げつけられても、また殴られても、……いや、あなたがどんな小さな山で
もよい、その山に登れば、だれもあなたに対して、もう、それができなくなりますよ。



 「宝島」という本を書いた人に、スティーブンソンという人がいます。そのスティーブンソンは、
こう書き残しています。



 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことだ』とね。よい言葉で
すね。今のあなたにあげたい言葉です。



 どうか、がんばってください!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 青年
の悩み いじめ 暴力)





Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司



●ヒトシ君(いじめ問題の陰で)



 ヒトシ君(中2)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめられ
ていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされて
も、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい
た。 



 そのヒトシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、ヒトシ君の祖母から聞い
た話だ。



 祖父はヒトシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。ヒトシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とヒトシ
君は、センターの北にある神社へお参りに行くことになっていたという。そこでのこと。



帰る道すがら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、ヒトシ君は、「高校に合格しま
すようにと祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの病気が治るように
祈らなかったか」と。そこでヒトシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りなおしたという。



 この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「ヒトシ君(実名)」で呼ぶようになった。
とても呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、ヒトシ君のような子
どももいる。



 今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ
とで後悔するときがくる。世の中には、しっかりと人を見る人がいる。そういう人が、しっかりと
判断する。愚かな人ばかりではない。



ヒトシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内のK高校を卒業したあと、東京のK大学
へと進んでいる。ヒトシ君は、見るからに人格が違っていた。



 自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ
められながら成長し、そしてたくましくなる。



つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐える。そうでないと、子どもがひ弱になってしまう。
今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こう
いう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめ
は別である。



しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に相談。



親や教師ができることといえば、せいぜい、子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているん
だよ」と励ましてあげることでしか、ない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、
親や教師にも、できることには限度がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、親や教師の
務めではないかと、私は思う。

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