2011年1月28日金曜日

*Loneliness is the cancr of the mind

●喪失の受容段階論(孤独と真理)「喪失の受容段階論」


●孤独は心のがん細胞


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喪失の内容、程度は、さまざま。
失恋、事業の失敗、健康、離婚、
子どもの巣立ち、肉親の死、配偶者の
死など。


そのつど人は、はげしい喪失感を
覚える。
ときにそれがそのまま絶望感になることもある。
襲い来る孤独感、孤立感、虚無感……。


少し前、「孤独は心のがん細胞」という
記事を書いた。
孤独をけっして軽く見てはいけない。
孤独は、心をむしばみ、やがて自らの死、
つまり自殺へと、心を導く。


が、この孤独。
闘えば闘うほど、キバをむいて
私たちに向かって襲いかかってくる。
もがけばもがくほど、孤独という糸に
からまれ、身動きが取れなくなる。


仏教でも、「無間地獄」と位置づける。
あのイエス・キリストも、孤独に
苦しんだ(マザーテレサ)。


が、受け入れてしまえば、何でもない。
孤独に身を任せ、静かにそれを受け入れる。
それで苦しみが消えるわけではない。
悲しみが消えるわけではない。
孤独であることは、苦しい。
魂が引き裂かれるほど、苦しい。
が、その苦しみを受け入れたとき、
その先に小さな光明が見えてくる。


人は、人生において2度、産道をくぐりぬける。
母胎からの産道。
そして孤独からの産道。
2度目の産道をくぐりぬけたとき、人は、
真理の世界に生まれ出ることができる。


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●喪失


 人は、どう喪失感を受け入れていくか。
その参考となるのが、キューブラー・ロスの「死の受容段階論」。
言うまでもなく、「自分の命」を失うことを超える喪失感は、ない。
まさに死は究極の喪失感ということになる。


●死の受容段階論


 キューブラー・ロスの死の受容段階論(「発達心理学」山下冨美代著、ナツメ社より)は、つぎのような段階論をいう。


(第1期) 否認……病気であることを告知され、大きなショックを受けたのち、自分の病気は死ぬほど重いものではないと否認しようとする。


(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の健康な人、家族で、医療スタッフに対する不平不満としても生ずる。


(第3期) 取り引き……回復の見込みが薄いことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試みる。祈ることでの延命や、死の代償として、何かを望む。


(第4期) 抑うつ……死期が近づくと、この世と別れる悲しみで、抑うつ状態になる。


(第5期) 受容……最後は平静な境地に至という。運命に身を任せ、運命に従い、生命の終わりを静かに受け入れる。(以上、同書より)


●喪失の受容段階論


 喪失感がはげしければはげしいほど、ロスの『死の受容段階論』に似た段階を経て、やがて人は喪失を受け入れるようになる。
こまかい点ではちがいはあるのだろうが、おおまかに言えば、それに近い。
順に整理してみる。


(第1期) 否認……失ったことを知り、大きなショックを受けたのち、失ってはいないと、はげしく否認する。ささいなことに希望をつなぎ、「まだ何とかなる」と思う。


(第2期) 怒り……否認の段階を経て、怒りの反応が現れる。その対象は、神や周囲の幸福そうな人、家族で、相手本人に対する不平不満としても生ずる。


(第3期) 取り引き……喪失の回復の見込みがないことを自覚すると、神や医者、家族と取り引きを試みる。祈ることでの延命や、喪失の代償として、何かを望む。


(第4期) 抑うつ……喪失感が持続的につづくと、虚無主義に陥ったり、抑うつ状態になる。


(第5期) 受容……最後は平静な境地に至る。運命に身を任せ、運命に従い、喪失による孤独感を静かに受け入れる。(以上、ロスの『死の受容段階論』を一部、改変。)


●孤独をどう受け入れていくか


 孤独というのは、闘っても意味がない。
闘う必要もないし、また人間にはそれに打ち勝つ力はない。
そこで大切なことは、居直る。
「ああ、私は孤独なんだ」と。
同時に、「みな、そうなんだ」と思えばよい。


 一見、派手な世界で愉快そうに振る舞っている人にしても、孤独でない人はいない。
みな孤独を背負っている。
あるいは孤独という氷の上を歩いている。
薄い氷。
その下では孤独が、「おいで、おいで」と手招きしている。


孤独を知らない人というのがいたら、本物のバカか、ものを考えないノーブレイン
(=脳なし人間)。
あるいは孤独をごまかして生きているだけ。
孤独から逃げているだけ。


 もちろん財力や名誉、地位、肩書き、経歴など、孤独の前では、一片の価値もない。
意味もない。
乾いた煙ほどの力もない。
孤独を癒す力など、まったくない。
もがけばもがくほど、孤独の糸がからんでくる。
身動きが取れなくなる。


 が、ひとたび孤独を受け入れれば、周りの世界は一変する。
それまで見えなかったものが、見えるようになる。
何が大切で、何がそうでないか。
何が価値があり、何がそうでないか。
言うまでもなく、私たちが探し求めている真理は、その向こうにある。


●真理探究


 財力や名誉、地位、肩書き、経歴に毒されている間は、真理など求めようもない。
そういう世界で踊っている人は、作りあげられた幻想の世界で、酔いしれているだけ。
それは一時のさみしさを紛らわすために飲む、酒のようなもの。
酒から覚めたら、その何倍もの孤独感が襲ってくる。


 言い替えると、財力や名誉、地位、肩書き、経歴にしがみつけばつくほど、その人は
孤独を前に、もがき、苦しむ。
絶望のどん底へ叩き落とされる。
「自らの死」を選択することにもなりかねない。


 が、孤独は「第二の産道」。
その産道をくぐり抜けることなしに、人は、真理の世界に入ることはできない。
もちろん「真理」は、その人によってちがう。
真理はひとつではないし、真理の向こうにまた別の真理がある。
そこは平和で、満ち足りた世界。
豊かで、おおらかな世界。
が、その世界もまた、無限のかなたへとつづく。


 方法は簡単。
孤独を受け入れる。
静かに受け入れる。
それで苦しみや悲しみが消えるわけではない。
しかしやがて、その先に、一筋の光明が見えてくる。
あとはその光明に向かって歩いていけばよい。


 ……この先のことは、私にもわからない。
ただこれだけは言える。


真理などというのは、そんなに遠くにあるものではないということ。
私やあなたのすぐそばにあって、私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて
じっと待っている。


 さあ、あなたも勇気を出して、孤独の世界に身を横たえてみよう。
声に出して叫んでみよう。
「私はさみしい!」と。


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Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●雑感(2011/01/28)

●金価格

 少し前まで天井知らずに見えた金価格が、この数週間、じわじわとなだらかな山をくだ
るように低下している。
が、こういう低下のしかたそのものが、不自然。
「じわじわ」というところが、不自然。
つまり巨大な力が、その裏で動いている。
つまりコントロールしている。

 「巨大な力」というのは、国家的規模の力をいう。
こうした操作をするには、それくらいの規模の力が必要。
「急激に下がりすぎても困る」……そのときは適当に(買い)を入れる。
しかし「現在のような高値で何とか売り抜けたい」……しかし下がりすぎても困る、と。
言い替えると、利食いの売りを入れながら、一方で金価格の暴落を防ぐ。
こんな芸当ができるのは、やはり「巨大な力」だけ。

 アメリカか?
それとも中国か?
現在、グラム3700円前後(田中貴金属)。
が、いつまでも下がりつづけるわけではない。
3500円くらいで底を打つはず。


●窓から小便

 みんなやっている。
男なら、みんなやっている。
窓から、小便。

 私は高校生くらいのときから、よく窓から小便をした。
前に小屋根があって、店の看板がそこに立っていた。
その看板の下あたりを、めがけて小便をした。
それには理由がある。

 ひとつは私の家は細長い家で、私の部屋は二階の一番北側。
便所は一階の一番南側にあった。
だからいつだったか、間に合わないと思ったとき、窓から外に向かってした。
もうひとつは、私は子ども(幼児)のころから、あの便所が怖かった。
ボットン便所で、いつも薄暗かった。
それに臭かった。
で、以後、それが習慣になった。

 で、今でもときどき、窓から外に向かってする。
それについてワイフが、こう言った。

ワ「あなたは窓からしているしね……」と。
私……ドキッ!、「……知っていたの?」
ワ「知っていたわよ。ずっと前から……」
私「だったら、言ってくれればいい」
ワ「言う必要もないでしょ」と。

 ナーンダ!
私だけの秘密かと思っていた。
ワイフは、とっくの昔に知っていた。

私「ぼくね、高校生のときから、していたよ」
ワ「……」
私「でね、ある夜、いつものようにそれをしたら、下の道路から声が聞こえてきたよ」
ワ「その話は、いつか、聞いたわよ」
私「そうだったか? 母親と娘だった。その娘がこう言った。『あら、お母さん、雨よ!』
って」

ワ「……かわいそう……」
私「だろ。だからそれからは、じょうずにするようになった」
ワ「じょうずにって?」
私「左右に振りながら、小出しに、うまく樋(とい)の中に流すんだよ」
ワ「今も、そうしているの?」
私「まあ、ね」と。

 立ち小便は、男の特権。
(女性でも、できなくはないらしいが……。)
尿を膀胱にいっぱいためて、一気に放出する。
あの解放感は、たまらない。

 いちばんよいのは、山の頂上から、下をめがけてする。
そういう場所を見つけて、下をめがけてする。
あの解放感は、たまらない。

●若い人たちのアイデンティティ(同一性の確立)

 私たちの世代では、権力との闘いが、ひとつのテーマになっていた。
安保闘争もそのひとつ。
政治のことは何も知らなかった。
しかし自分たちを抑えつける権力に、抵抗した。
それが私たちにとっての、安保闘争だった。

 が、つぎの世代では、世代との闘いが、ひとつのテーマになっていった。
それをわかりやすく表現したのが、尾崎豊の「卒業」。
「♪夜の校舎、窓ガラス、壊して回った」と。
あの歌の出現に、私たちは少なからず、驚いた。
その歌の向こうに見える、若者たちの猛烈な反発を感じ取ったからだ。

 で、現在はどうかというと、それが「恋愛ごっこ」。
「韓流ドラマ」の流行に、私は、それを見る。
歴史も政治も、どこかへ吹きとんでしまった。
「反日、嫌韓など、どうでもいい」と。
つまり「恋愛こそ、すべて」。

 つまり自我の同一性といっても、「だれを、どの程度好きなのか、それが問題」。
これが現在の若い人たちの「自己概念」。
そしてその人と、どうつきあっているか。
それが「現実自己」。
それが一致した状態を、今の若い人たちがいう、「自我の同一性」ということになる。

 今ではほとんどの男子高校生は、避妊具つまり、コンドームを持ち歩いている。
「放課後の部室、空き部屋はラブホテルのよう」と。
ある高校の教師はそう言った。

これをわかりやすく、チャート化してみる。

(私たちの世代) 権力との闘い
(つぎの世代)  世代との闘い(=古い世代の否定)
(現在の若者)  恋愛ごっこ

 「これでいいのか?」と思ったところで、この話はおしまい。
私たちの世代にしても、その前の世代のこととなると、ほとんど知らない。
たとえば私たちの一世代前の人たちは、国を守るためと、戦場で命を落としていった。
その数、300万人。
(日本人が殺した外国人の数も、同じく300万人。)
そういう人たちから見れば、私たちの世代は、何ともだらしない。
「何が、権力闘争だ!」となる。

 それぞれの世代は、それぞれ勝手なことをしながら、自分たちの世界を作る。
私たちの世代が正しいというわけではない。
私たちの前の世代が正しいというわけでもない。
つぎのつぎの今の世代が、正しいというわけでもない。

●運動のしすぎ

 重要な講演が近づいた。
日を追うごとに、運動量をふやした。
その結果、昨日あたりから、太ももや腰が痛くなり始めた。
ギコギコとした感じ。

 運動もやはり、ほどほどに……。

 では、今日も始まりました。
みなさん、おはようございます。
これからいつもよりやや遅い、朝食です。
1月28日 2011年
はやし浩司 2011-01-28


Hiroshi Hayashi+++++++JAN. 2011++++++はやし浩司・林 浩司

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