2010年12月12日日曜日

*Declining Japan

【暴論・論】

●暴論

+++++++++++++++

偏(かたよ)った意見。
一方的な意見。
偏見と誤解に基づいた意見。
論理性のない意見。
実現性のない意見。
宗教かぶれした意見。
空理、空想をもとにした意見。
短絡的で感情的な意見。

そういう意見が、パワーを
もったとき、それを「暴論」という。

ものを書くとき、もっとも
警戒すべきは、暴論という
ことになる。

暴論というのがどういうものかを
知りたかったら、『文G春秋』
(今月号=正月号)の対談記事を
読んでみればよい。

2人の学者が、「英語教育をやめ、
論語を教えろ」と主張していた。

++++++++++++++

●「英語教育は必要なし」という暴論

 いまだに「英語教育は必要なし」という暴論が、天下の公論になっているのには、驚く。
中には、「日本語も満足に話せない子どもに、英語教育は必要ない」と説く人もいる。
一見、合理性があるように見えるが、その実、どこにもない。
仮に日本語も満足に話せない子どもがいたとしても、それは英語教育のせいではない。
すでにそうした現象は、20年前、30年前から見られた。
また英語教育をしたからといって、日本語が乱れるということもない。
外国に10年とか20年とか、それくらい長く住めば別。
日本語を忘れるということも、あるかもしれない。
そうでなければそうでない。

(ただし0歳~2歳までの言葉の適齢期には、バイリンガルにしないほうがよいという
説もある。
この時期に子どもは、言葉の文法を脳に刻む。
その文法が乱れる。
私の孫の誠司(Sage)もそうだった。
どこかの遊園地へ連れていったときのこと。
「帰ろうか?」と声をかけると、「NO GO HOME」と。
そのとき孫は、1歳半だった。)

むしろ日本語を英語と対比させることによって、言葉として認識を深めることになる。
この私がそうだった。
「過去形」「進行形」「完了形」「過去完了形」……と学ぶうちに、日本語も併せて
正確になっていった。
私が中学生のときのことである。

●変化する日本語

 日本語はたしかに乱れている。
それは事実。
が、それは教育のせいと考えてはいけない。
また教育でできることにも限界がある。
とくに「言葉」については、そうである。
言葉を決めるのは、大衆。
教育ではない。
 
それにそもそも日本語という言語は、未完成な言語と考えてよい。
未熟な言語と言い換えてもよい。
たとえばほんの100年前に書かれた文章を読むのにさえ、私たちは苦労する。
400年前、500年前以上の文章となると、辞書なくして読むことさえできない。
書かれた手紙すら、読むことができない。

今の今でさえ、日本語は変化しつづけている。
10年単位で変化しつづけている。
たとえば10年前、「デニる」という言葉を知った。
意味を聞くと、その子ども(中学女子)はこう教えてくれた。
「(レストランの)デニーズで時間をつぶすこと」と。
ほかに「チクル」「シカト」「フタマタ」などなど。

 それが最近では、二語言葉になった。
「マジ」「ダサ」「クサ」「ウザ」……など。

完成された言語なら、こういうことはありえない。
たまたま手元に、ソニーのPSP(ゲーム機)がある。
子どもたちの世界で人気NO1のゲームソフトが、「モンスターハンター」。
1人のハンターが訓練と努力を重ね、最強のハンターとなり、モンスターと戦う。
私もときどきしているが、結構、おもしろい。

 そのゲームに出てくる会話をひとつ紹介する。
ハンターが、オープニングの第一に、猫と会話する場面である。

「ここはポッケ村。
雪山の懐に抱かれた、平和な村ニャ。
ほほう、あんたですニャ?
雪山で倒れてたっていうハンターは。

村長が心配してたニャ。
元気になったら、まず村長に挨拶してくる
ことニャ……」(モンスターハンター2Gより)と。

 このあたりが、もっとも最近的な日本語ということになる。
が、100年後の日本人が果たして、この文章を読めるだろうか。
読めても、理解できるだろか。
日本語には、そういう危うさが、いつもつきまとう。

●英語教育

 英語教育に賛成とか、反対とかいう議論そのものが、ナンセンス。
英語教育が必要と思う親がいる。
必要でないと思う親がいる。
英語を勉強したいと思う子どもがいる。
したくないと思う子どもがいる。

 だったら、どうして英語教育を自由化しないのか。
わかりやすく言えば、学校教育という「場」から離れて、子どもに英語を学べる場を
提供すればよい。
クラブ制でも、何でもよい。
ドイツやイタリアでは、そうしている。
オーストラリアでも、そうしている。
日本でも、学外教育として英語教室がある。
英会話教室もある。
民間に任せられるものは任せたらよい。
言うなれば教育の民活化。
何も学校だけが、「道」ではない。

 つまりそうした議論をまったく重ねないで、いきなり「英語教育は必要ない」は
ない。
さらに短絡的に、「日本語も満足に話せない子どもに……」と結びつけるのはおかしい。
昨日読んだ、文G春秋(今月号)では、2人の学者が対談していた。
いわく、「英語を公用語にしている会社はつぶれる」「イギリスでは全員英語を話せる
が、イギリスは落ちぶれてしまった」と。
そしてその返す刀で、「学校では、論語を教えろ」と。

 いくら文G春秋でも、これはメチャメチャな論理と言ってもよい。
反論するのも疲れるが、順に考えてみたい。

●英語が公用語 

 日本から外資がどんどんと引きあげている。
今年になってからも、多くの外国企業が東京市場から撤退している。
今では、数えるほどしか残っていない。
2008年には、たったの16社。
ピークだった1991年(127社)の、8分の1。
それが2009年、2010年と、さらに減った(注※)。

理由は簡単。
翻訳料が高額すぎる。
日本では日本人投資家保護のもと、一度すべての書類(決算書など)を日本語に翻訳しな
ければならない。
これが第一の理由である。

 で、日本を撤退した外国企業は、シンガポールや上海へ逃げている注。
とくにシンガポール。
シンガポールの公用語は、英語。
一人当たりの国民所得では、すでに日本はシンガポールに抜かれている。
こういう現実をさておき、「イギリス人はみな、英語を話せるが……」はない。
そのイギリスのことはよく知らない。
が、オーストラリアのグラマースクールでは、中1レベルで、中国語、日本語、
インドネシア語、フランス語、ドイツ語から、1科目を選択して学習できるように
なっている。
英語国では、英語しか教えないと考えるのは、まったくの誤解。

 また企業レベルで英語を公用語にするのは、すばらしいこと。
どうしてそれが悪いことなのか。
外国の情報を、直に、しかも「生(なま)」のまま、自分のものにすることができる。
どうしてそういう会社が、「つぶれる(倒産する)」のか。
仮につぶれたとしても、(つぶれる会社も出てくるだろうが)、英語を公用語にしたから
ではない。

 文G春秋には、こうあった。
「そういう会社をしっかり応援して、つぶれるのを楽しみにしましょう。
他山の石となるでしょう」と。

 もしこんなアホな論理がまかり通るなら、(「アホ」と断言してもよい)、毎日朝礼の
場で、論語の素読を社員にさせてみればよい。
ついでに孔子信仰も始めてみたらよい。
そういう会社なら、つぶれないのか。

●論語

 論語については、たびたび書いてきた。
「仁」は、まさに仏教でいう「慈悲」、キリスト教でいう「愛」と並ぶ。
尊い思想であることは、事実。
しかしこれは両刃の剣。

 「学校で論語を教えろ」と言うことは、「学校で仏教典を教えろ」「学校で聖書を教えろ」
と言うことに等しい。
「イスラム経典を教えろ」でもよい。
現に中国では、昔から孔子は信仰の対象となっている。
(ノーベル平和賞に替えて、中国では、孔子平和賞を創設しようという動きすらあるぞ!)

 最大の問題は、どうして英語教育と論語教育が、バーター(交換取り引き)されるのか
ということ。
両者の間には、つながりもなければ、因果関係もない。
英語教育に反対なら、反対でよい。
論語教育に賛成なら、賛成でよい。
しかしそれは別々の「場」で、別になされるべき議論。
その底流に見え隠れするのは、「教育万能主義」、あるいは「学校万能主義」。
飛躍した意見に思う人もいるかもしれない。

平たく言えば、文G春秋で意見を対論していた2人の学者は、現場で子どもたちを
教えた経験がない。
「学校」だけが、ゆいいつの教育機関と考えている。
また学校で科目として取りあげれば、それで問題は解決すると考えている。

子どもを教えたことがあるなら、こんなアホなことは言わない。
「学校で英語を教えれば、日本語がだめになる」
「学校で論語を教えたら、論語が身につく」と。

 だったら自分で教壇に立って、論語を教えてみればよい。
子どもたちがどんな反応を示すか、それを自分で体験してみればよい。

●日本の英語教育

 今ではほとんどの小学校で、何らかの形で、授業の中に組み込んでいる。
授業時間数や内容は、学校ごとに、まちまち。
が、同時に、多くの学校では、みな、デッドロックに乗り上げ、四苦八苦している。
英語の教師(外人)そのものが、逃げ腰。
資格がきびしい上に、重労働。
給料も安い。
地域によっては、英語教師をさがすのに苦労している。

「英会話」なるものにしても、言うなれば暗記につづく暗記。
が、だからといって、「英語教育が無駄」と書いているのではない。

 問題点はある。
批判すべき点や反省すべき点はある。
しかしそれはつぎの一里塚への一歩に過ぎない。
試行錯誤を重ねながら、現場で苦労している教師も多い。
つまり方法論の問題であって、目的とすべき方向性はまちがっていない。
英語を第二言語と設定しても、何らおかしくない。
それとも日本は、このまま日本語だけの世界で生きていくというのか。
生きていかれると、思っているのか。

 文G春秋の中の対談では、「英語を使って仕事をしているのは20%前後しかいない」
(数字は記憶)というようなことが書いてあった。
だから「英語教育は必要ない」と。
しかし本当にそうだろうか。
ひとつの例をあげて考えてみよう。

●山荘で

 今、この原稿を浜松市郊外にある、私の山荘で書いている。
以前は、このあたりもミカン畑に埋もれ、秋を過ぎると黄色いミカンがまるで咲いた花
のように見えた。

 が、今では見る影もない。
たった10年で、すっかり様変わりした。
その理由の第一が、専業農家の高齢化と人手不足。
ミカンの収穫作業は、まさに手作業。
重労働。
そこで考えられたのが、季節労働者を外国から呼び寄せること。
現にオーストラリアのリンゴ農家や、イチゴ(ワイン)農家ではそうしている。
東南アジアから労賃の安い労働者を連れてきて、彼らに収穫をさせている。

 が、悲しいかなそうした労働者を使いこなす力量が、このあたりには「ない」。
農家にもないが、それを取り仕切る農協にもない。
国際的なマナーで外国人労働者を使いこなすことはもちろん、簡単な英会話すらでき
ない。

 「英語を使って仕事をしているのは20%しかいない」(記憶)ではない。
「20%しかいないから、こういう問題が起きてくる」。
それが問題。
まず英語が話せる。
それが国際的であることの基盤。
国際性とは、それをいう。
その国際性のなさが、こんな山荘の周辺でも問題になっている。

●論語教室

 教育の力には限界がある。
「時間数」という限界である。
「何もかも教育で」という発想には、そもそも無理がある。
学校教育の場で、論語を教えようとすれば、どこかでほかの教科の時間を
削らなければならない。
それが「英語」というわけだが、どうして英語なのか?

 また「論語」という教科を作れば、それでよいというものでもない。
こういうのを教育万能主義というが、それについては、別のところで何度も書いて
きた。
だれが、何を、どう教えるのか?

 一方、人間の脳力、なかんずく子どもの脳力には、限界がない。
子ども自身が興味をもてば、あとは子ども自身が自ら学んでいく。
が、これだけ子どもの興味が多様化している時代に、逆に、どうして今、論語なのか
という疑問も起きてくる。

私の生徒の中には、フルートのレッスンを個人的に受けている子ども(小6)がいる。
毎週、韓国語の講座を受けている子ども(中2)もいる。
スポーツにしても、野球やサッカーだけではない。
スケボーのクラブや、水上スキーのクラブに通っている子どももいる。
まさに何でもござれ。

 つまりそういう子どもたちを、いっしょくたにして、「論語」とは!
もしそれでも……というのなら、先にも書いたようにクラブ制にすればよい。
何なら、自分で「論語教室」でも開いてみればよい。
自分で子どもたちに論語を教えてみればよい。

 私も子どもたちに、「塾」という立場で英語を教えてきた。
40年のキャリアがある。
が、これだけは断言できる。
「論語教室」など開いても、生徒は1名も集まらないだろう。
世の親たちは、そんなに甘くない。
だれがそんな教室に金を払うか。
子どもを通わせるか。
子どもだって、素読をさせたら、1日もがまんしないだろう。

 自分で子どもを教えたこともない学者が、研究室の奥から、やれ「英語教育は無駄」
だの、やれ「論語を教えろ」だのと、勝手なことばかり言っている。
このおかしさ。
それが集積されたとき、冒頭に書いた暴論となる。

●武士道?

 今までは、こういう大(?)先生の意見に耳を傾けた。
天下の「文G春秋」に載った意見ともなれば、なおさら。
しかしみなさん、もうこうしたバカげた意見に従うのは、やめよう。
ありがたがるのも、やめよう。
日本人の悪い癖だ。
中央から来たというだけで、ハハーと頭をさげる。
……さげてしまう。
が、それではいけない。

私たちは私たちで自分の頭で考える。
自分の頭で考えて、意見を言う。

 方法は簡単。
おかしいものに対しては、「おかしい」と声をあげる。
今が、そのときである。
結論を先に言えば、おかしな復古主義には、異議を唱えよう。
論語どころか、その学者は別のところで、「武士道こそ日本人の精神的バックボーンで
ある」と説いている。
が、どうして今、武士道なのか。
それについても私は繰り返し反論してきた。
無数の原稿も書いてきた。

 こうした意見を野放しにしておいたら、本当に日本はそちらの方向に向かって
進んでしまう。
戦前の日本どころか、江戸時代にそのまま逆戻り!
それだけは何としても、防がねばならない。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●付記(1)

 少し頭を熱くし過ぎた。
ほどよく眠くはなっていたが、床に就くと頭が冴えてしまった。
30分ほどがんばってみたが、やはり眠れなかった。

 起きあがり、パソコンの前に……。
「MS」という熟睡剤を少し割ってのむ。
これは朝方、効く薬だそうだ。
しかし舌の上で溶かしてのむと、少量でも睡眠薬がわりになる。

 一度、自分の書いた原稿を読みなおす。
推敲する。
たしかに本を書くときとちがい、推敲の仕方も甘い。
いいかげん。
当然といえば当然だが、原稿料をもらって書くときの原稿と、そうでないときの
原稿とでは、書くときの真剣味がちがう。
言い換えると、こうした原稿を書くときは、自らの脳みそにムチを打たねばならない。
だれに頼まれたわけでもない。
原稿料が入るわけでもない。
こうした評論を書けば、損になることはあても、得になることはない。
文G春秋社にブラックリストがあるかどうかは知らない。
しかしあれば、まっさきに私の名前が載るはず。

 が、「はやし浩司」の名前で原稿を発表する以上、妥協は許されない。
あえて「真剣味」を奮い立たせなければならない。
それが結構、たいへん。

●時刻は午前1時10分

 時計を見たら、午前1時10分。
12月12日。
先ほど窓の外を見たが、満天の星空。
山荘でながめると、星空は何倍も広く見える。
寒さを忘れて、しばし見取れる。
 
 話を戻す。

 私は何も、論語教育に反対しているわけではない。
今の英語教育を支持しているわけでもない。
この原稿のタイトルは、「暴論・論」。
暴論というものが、この原稿を通して、どういうものかを読者のみなさんにわかって
ほしかった。
が、悲しいかな、私の力は、あまりにも弱い。
文G春秋に載った意見をブルドーザーにたとえるなら、私の意見など、その下に
巻き込まれる雑草。
その程度の抵抗力しかない。
一般世間の人たちも、そういう目で判断する。
天下の文G春秋にたてつけば、「何を偉そうに!」と、そう思う人も多いはず。
門前払いを受けるだけ。

 このところそういう自分の限界が、よくわかるようになった。
言うなれば負け犬。
負け犬の遠吠え。
おまけにこのところ文章に鋭さがなくなってきた。
脳みそが鈍ってきた?
集中力もつづかない?
それが自分でもよくわかる。
やはり今夜はここまで。
明日(本当は今日)、自宅に帰ったら、真剣に(?)、この原稿をもう一度推敲してみよう。

 今日(12月11日)も、たいした成果もなく終わった。
運動も、30分のウォーキングだけ。

 みなさん、おやすみなさい。
そうそう、この原稿を書いているとき、ワイフは、ずっとビデオを観ていた。
『小さな命が呼ぶとき』という、ハリソン・フォード主演の映画だったそうだ。
先ほどいっしょに床に入るとき、私にこう言った。

「あなたも観なさいよ。すばらしい映画だったから」と。
「どう、すばらしかったの?」と聞いたら、「涙がポロポロ、こぼれたわ」と。

 あのワイフが涙をこぼした!
それだけで星5つの、★★★★★と評価してよい。
言い忘れたが、ワイフは、めったに涙など、こぼさない。
私よりはるかに気丈夫。

●ついでに離婚劇

 ここ2週間ほどは、落ち着いている。
ワイフとはほどほどに、仲よく過ごしている。
「来年のX月には、オーストラリアへ行こう」という話し合いも重ねている。
そのためのパスポートの準備も始めた。

 ……名古屋のセントレア空港から南オーストラリア州のアデレードへ。
アデレードの友人宅で2、3日過ごしたあと、列車でメルボルンへ。
メルボルンでは、最高級のホテルに泊まる。
この宇宙でいちばん大切な女性に、私のいちばん大切な街を案内する。
NG先生が亡くなったあと、そう決心した。
私もいつポックリと逝くか、わからない。

 だからしばらくは、離婚劇のドタバタは、お預け。
私にもそのつもりはない。
ワイフにもない。
つまり離婚するつもりはない。
言うなれば夫婦げんかは、我が家の祭りのようなもの。
あるいは月例行事。
(倦怠期)→(緊張期)→(爆発期)→(冷静期)を、数か月単位で繰り返す。
しかしそれもそろそろ、おしまい。
こんなことを繰り返していたら、寿命を縮めるだけ。

 で、気がついたことがひとつ、ある。
つまり夫婦にもいろいろなタイプがある。
すっかり冷え切っているにもかかわらず、表面的にはうまくやっているように見える
夫婦がいる。
反対に仲がいいにもかかわらず、離婚騒動を繰り返している夫婦もいる。
どうであるにせよ、夫婦げんかというのは、自分の心を相手に投影させて起こる。
それに気づいた。

 たとえば私が自己嫌悪に陥ったとする。
そのとき「私はいやな人間」と思う気持ちを、ワイフに投影させる。
心理学の世界でも「投影」という。
「こんないやな自分だから、ワイフも私を嫌っているはず」と。
そこでワイフのささいな行動に、ケチをつける。
自分に対するイライラを、ワイフにぶつける。
それが夫婦げんかの原因となる。

 本当のところ、私はワイフなしでは、生きていかれない。
そういう自分が、時として、いやになる。
だらしなく思える。
これが自己嫌悪。
その自己嫌悪を、ワイフのせいにする。
ワイフが私を嫌っていると思い込む。
これが投影。

 その結果、「お前はぼくを嫌っている」「あなたの思い過ごしよ」と、夫婦げんかが
始まる。
みながみな、この図式に当てはまるとは思わないが、私たち夫婦のばあいは、そう。

 そう言えば、私の知人の中に、会うたびに、「私は今の夫を愛しています」「すば
らしい人です」と言う人がいる。
結構な話だが、しかし本当にそう思っているなら、口に出しては言わない。
そうでないから、つまり愛してもいないし、(愛の意味を誤解しているのかもしれない)、
すばらしい人とも思っていない。
むしろ逆。
あえてそれを口にすることによって、自分の心をごまかす。
だからそう言う。

 私のばあいだが、私は38年来、ワイフのことを他人にそう言ったことはない。
「あいつは、バカで、頑固で、アホだ」と言うことはある。
ワイフも、私のことを、他人に対して、「愛している」とか、「すばらしい人です」など
と言ったことはない。……と思う。
私は聞いたことがない。
外の世界で、何と言っているかは知らない。
たぶん私と同じように、「うちのダンナは、しつこくて、気分屋で、神経質」と言っている
にちがいない。

 が、2人だけのときは、ときどきこう言う。
今夜も言った。
「ぼくがこうして好きなだけ原稿が書けるのも、お前のおかげだよ。ありがとう」と。
そういうときワイフは、本当にうれしそうな顔をする。

晃子へ、

ありがとう!

……ということで、そろそろ目がしょぼしょぼしてきた。
眠くなってきた。
では、みなさん、2度目のあいさつ。
おやすみなさい!

2010年12月12日、午前1時40分、就寝。

●付記(2)

 朝起きて、居間の雨戸をあけると、目の前に秋の山々がどっと飛び込んできた。
このあたりでは、今が紅葉のまっさかり。
12月の初旬から、中旬。
幾重にも重なる赤や黄色。
それが朝日を受けて、黄金色に輝いていた。

 それを見て、ワイフがこう言った。
「あとでもう少し奥まで行ってみない?」と。

私「奥って?」
ワ「水窪(みさくぼ)のほうよ」
私「いいね」と。

 ここから水窪まで、車で行っても、2時間はかかる。

私「途中まで車で行って、そこから電車に乗ったほうがいいかも?」
ワ「そうねえ」と。

 私たち夫婦は、ほんとうにおかしな夫婦だ。
今月のはじめには、離婚届けの話ばかりしていた。
が、今は、オーストラリア旅行の話。
パスポートをどう申請するか。
「有効期間が5年だと、1万1000円。10年だと、1万6000円。おかしいと
思わないか?」と。

私「いいか、有効期限で申請料がちがうというのは、どう考えても合理性に欠ける」
ワ「どうしてそういうめんどうな料金システムになっているのかしら?」
私「それが役人根性というものだよ。ゴルフの会員権と同じように考えている」
ワ「10年にすれば、その分、役所の手続きが楽になるはずよ。だったら、みな、
10年にすればいいのよ」
私「5年ごとに更新させて、申請料でもうけようというわけさ。中には1回ポッキリの
外国旅行という人もいるからね」
ワ「だったら、みな、低額にすればいいのよ」と。

 役人が役人なのは、権限と情報、それに組織をもっているから。
役人からこの3つを除いたら、あとには、何も残らない。
同じように、中央の学者たちが学者なのは、権威と情報、それに組織をもっているから。
学者からこの3つを除いたら、あとには、何も残らない。
少なくとも、今まではそうだった。
が、インターネットの発達で、大きく変化した。
私のように地方に住む者でも、直に最新の情報を、外国から仕入れることができる。
権威と組織がなくても、ものを書くことができる。
書いたものを、直接読者に送ることができる。

 話をぐんと戻すが、中央の出版社を通さなければ、原稿の発表ができないという時代
は終わりつつある。
文G春秋にしても、しかり。
こんなアホな対談で誌面を飾るようになったら、おしまい。
先は短い。

 2010年12月12日、朝記。
みなさん、おはようございます。

(注※)(時事通信より)

 2008年に東京証券取引所への上場が廃止となった企業は27日現在、79社に達し、過去最悪だった02年(78社)を上回った。
世界的な景気後退や金融危機のあおりで経営破綻(はたん)し、退場を余儀なくされた企業が前年の4倍に膨らんだことが主因だ。

 東証によると、民事再生法・会社更生法の申請といった破綻による上場廃止は、アーバンコーポレイションやオリエンタル白石など16社。
イラク情勢の緊迫化で世界経済が減速し、倒産が急増した02年の22社に次ぐ規模だ。今回の景気低迷は長引く公算が大きく、「来年も高水準の上場廃止が続く可能性がある」(野村総合研究所の大崎貞和主席研究員)との指摘が増えている。

 外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になった。株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車をかけている。
東証上場の外国企業は16社と、ピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。(以上、時事通信(2008年12・27))

(参考:2008年に書いた原稿より)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【撤退する外国企業、規制緩和の必要性】

●この現実を、知っているか?

++++++++++++++++++++

日本の証券取引所から、外国企業の撤退が
つづいている。
現在、東京証券取引所の上場している外国企業は、
「16社と、ピークだった1991年(127社)の
8分の1減少した」
(時事通信・08・12・27)。

かつては127社あったのが、現在は、たったの16社。
(2002年には36社。3分の1に減った。
さらにそれから2分の1以下に減ったことになる。)

その理由として第一にあげられるのが、
「日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、
コストに見合う上場メリットが見いだせないこと」(同)
ということ。

+++++++++++++++++++

時事通信(12・27)は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++

外国企業の上場廃止も英金融大手バークレイズなど9社に上り、前年(3社)の3倍になった。株式取引の低迷に加え、日本語による経営情報の開示など企業側の負担が大きく、コストに見合う上場メリットが見いだせないことも外資の撤退に拍車を掛けている。東証上場の外国企業は16社とピークだった1991年(127社)の8分の1に減少した。 
(時事通信・12・27)

++++++++++以上、時事通信より++++++++++

日本から逃げた外資企業は、どこは行ったか?
今さら言うまでもなく、その行き先は、シンガポール。
すでに10年ほど前から、アメリカへ入ってくるアジアの経済ニュースは、
シンガポール経由。
東京ではない。
シンガポール。
東京の経済ニュースすら、シンガポール経由である。
いったい、こうした事実を、日本人はどれほど知っているのか。
深刻にとらえているのか。

言葉の問題だけではない。

シンガポールには、アメリカ本土とそっくりそのまま同じ、アメリカ人向けの
医療機関が整っている。
医療保険も、そのまま使える。

だからアメリカ人ならだれしも、アジアのどこかに拠点を構えるとしたら、
東京ではなく、シンガポールを選ぶ。
逆の立場で、考えてみればわかる。

もしあなたがヨーロッパに、あなたの会社の支店を作ろうと考えたとする。
そのときあなたは、言葉もちがい、医療制度もちがう、A国を選ぶだろうか。
それとも、言葉はそのまま使え、医療制度が同じ、B国を選ぶだろうか。

日本の証券取引所は、投資者保護(?)という名目のため、「経営情報の開示」
も含めて、ほとんどの書類を、日本語に翻訳することを義務づけている。
が、この負担が大きい。
日本における経費の大半が、翻訳にかかるという話を聞いたことがある。

だったら、翻訳を義務づけるのをやめればよいということになるのだが……。

こんなことをしていれば、そのうち日本の証券取引所から、外資系企業は
消えることになる。
(事実、すでに消えかかっているが……。)

日本がアジアの経済の中心地という話は、とうの昔の話。
「国際化」などという言葉は、この日本では、絵に描いた餅(もち)の
ようなもの。
日本のどこを、どのようにとったら、そう言えるのか。

東京へ行くにも、へき地の成田空港で降りなければならない。
どうして羽田空港であっては、いけないのか?

もう一度、私が6年前に書いた原稿を読んでみてほしい。

++++++++++++++++++

●日本から逃げる外資

 今日、1月4日、日本の株価は、戦後最大とも言える、大暴落を経験した。終値で616円安。それについて、東証のS社長は、欧米やアジアの主要株式相場に比べて日本株が出遅れていることに触れ、「(日本株の低迷は東京市場が)投資したい場所としての魅力を失いつつあることを示唆しているようにも映る」と危機感を募らせたという(日本経済新聞)。

 この記事を読んで、数年前に書いた原稿を思い出した。つぎのが、それである。日付は、2002年になっている。

+++++++++++++++

【みんなで考えよう、日本の教育改革】(Open the door and liberate the market)

More and more foreign enterprises are going out of Japan. In 1990, there used to be 125 enterprises in Tokyo Exchange Market but in 2002 there were only 36 enterprises. The number of enterprises are decreasing. The reason is very simple. It costs a lot of money for translation from their languages to Japanese. We should open the door to the world and liberate the market. Or more and more foreign enterprises will go out of Japan. Here is my article which I wrote 6 years ago in 2002.

●遅れた教育改革

 2002年1月の段階で、東証外国部に上場している外国企業は、たったの36社。この数はピーク時の約3分の1(90年は125社)。さらに2003年に入って、マクドナルド社やスイスのネスレ社、ドレスナー銀行やボルボも撤退を決めている。

理由は「売り上げ減少」と「コスト高」。売り上げが減少したのは不況によるものだが、コスト高の要因の第一は、翻訳料だそうだ(毎日新聞)。悲しいかな英語がそのまま通用しない国だから、外国企業は何かにつけて日本語に翻訳しなければならない。

 これに対して金融庁は、「投資家保護の観点から、上場先(日本)の母国語(日本語)による情報開示は常識」(同新聞)と開き直っている。日本が世界を相手に仕事をしようとすれば。今どき英語など常識なのだ。しかしその実力はアジアの中でも、あの北朝鮮とビリ二を争うしまつ。日本より低い国はモンゴルだけだそうだ(TOEFL・国際英語検定試験で、日本人の成績は、165か国中、150位・99年)。

日本の教育は世界の最高水準と思いたい気持ちはわからないでもないが、それは数学や理科など、ある特定の科目に限った話。日本の教育水準は、今ではさんたんたるもの。今では分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、正解率は59%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ。

●日本の現状

 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、1000近い分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。

オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本には数えるほどしかいない。あの天下の東大には1人もいない。ちなみにアメリカだけでも、250人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。

「日本の教育は世界最高水準にある」と思うのはその人の勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日からの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。


Hiroshi Hayashi+++++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司

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