2011年11月21日月曜日

*John Milton's "On Time"

●老人心理と貪欲さについて(はやし浩司 2011-11-20)
(John Milton's "On Time")

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今夜の夕食は、私がインスタント焼きそばと白いご飯。
ワイフが、レトルトの牛丼。
息子が、インスタント・ラーメン。
まことにもって、質素な夕食。……でした。

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●運動2単位

 先ほど、ウォーキングマシンの上で30分、歩いた。
時速は6キロ(MAX)。
ダラーと汗をかいたところで、終了。
これで1単位。
(1単位=約30~40分。全身に汗をかく程度を1単位とする。)

●竹やぶ

 自宅の横に、大きな竹やぶがある。
その竹やぶの竹を、草払機で100本ほど、切り倒した。
放っておけば、自宅のほうまで伸びてくる。
壁をこする。

また枯れた竹や葉が、かなり積もっている。
だれかがタバコの吸い殻でも捨てたら、そのまま火事になる。
……ということで、毎年、今の時期になると、竹やぶの竹を切る。

 夏場は、ハチの巣があるので、それはできない。
切るなら、今ごろ。
毎年、それが恒例行事になっている。
で、今日はそのあと、庭の芝生も刈った。
その運動が、ちょうど1単位。

だから今日は、計2単位。
運動の量としては、まずまず。

●半眠状態

 脳みその健康のためには、運動は欠かせない。
とくに私のような低血圧気味の人間には、欠かせない。
運動をする前と、運動したあととでは、脳みその働きはまったくちがう。
ものを書いていると、それがよくわかる。

 が、今は、どこかぼんやりとしている。
集中力というより、(怒り)がわいてこない。
食後ということもあって、脳みそは半眠状態。
平和。
穏やか。
さて本論。

++++++++++++++++++はやし浩司

イギリスの詩人、ミルトンはこう書いている。
『老人が落ち込む、その病気は、貪欲である』と。

私は英語の原文を知らない。
「貪欲」というのは、「greedy」のことか。
卑しい意味で、「greedy」という。
「あなたはgreedyだ」と言われ、それを喜ぶ人はいない。
日本語で言うと、「むさぼる」という意味になる。

++++++++++++++++++はやし浩司

●老人のこだわり

 ある老人が、自宅で倒れた。
たまたま隣人が医師だった。
それでその老人は隣人の家まで、這うようにしてやってきた。
が、ここからが常人には、理解できないところ。

 その医師が「救急車を呼びましょう」と声をかけると、「それだけはやめてくれ」と。
理由を聞くと、「近所に恥ずかしいから」と。

●見栄?

 こうした老人特有の(こだわり)は、あちこちでよく耳にする。
たとえばA氏、82歳。
A氏の妻も、同じく、82歳。
A氏は自宅に住んでいる。
A氏の妻は、有料老人ホームに住んでいる。

 ところが最近、A氏の体調が悪くなってきた。
10年ほど前に、前立腺がんの手術を受けている。
それが再発。
大腸がんを併発した。

 が、A氏は、どんなことがあっても、自宅の雨戸を閉めたまま、あるいは開けたままにしない。
A氏が自宅にいないときは、A氏の妻が有料老人ホームからタクシーでやってきて、その時刻になると、雨戸を開けたり、閉めたりしている。

 見栄なのか?
それとも虚栄なのか?

 これらの老人に共通しているのは、自分の弱みを人に知られることを、極度に警戒しているということ。
私の母にしても、そうだ。
兄と自転車店を経営していたが、60歳を過ぎてからは、めったに外泊すらしなかった。
店を閉める……ということを、極端にいやがっていた。
たとえば兄が胃潰瘍で入院したときも、医師とかけあって、1週間程度で病院から連れ出してしまった。

●恥?

 こういう老人特有の心理を、どう理解したらよいのか。
ふつうの常識のある人なら、ケース・バイ・ケースでものを考える。
若い人なら、なおさらであろう。
救急車を呼ぶことを、恥と考える。
自宅や店を閉めることを、恥と考える。

 他人の目の中で生きてきた人ほどそうかもしれない。
が、それだけでは、理解できない。
もうひとつ考えられるのは、そうした老人たちは、そういう目で他人を判断してきたということ。
たとえば近所の人が救急車で運ばれたりすると、それを喜んだり、笑ったりする。
店を閉めた人についても、そうだ。
あれこれとその家の事情を詮索し、それを世間話にして花を咲かせる。

 低俗な人たちだが、そういう人は、たしかにいる。

●他人の不幸をのぞく人

 義姉の母親が倒れた。
義姉の義母、つまり夫の母親だった。
その母親は2年間ほど、義姉の家にいた。
義姉が介護した。

 そのときのこと。
ある日突然、夫の従姉と従兄の2人が見舞いに来たという。
いろいろ事情があった。
その事情について書くのは、ここでの目的ではない。
簡単に言えば、「来るはずもない2人が来た」(義姉)と。

 義姉はこう言った。
「好奇心というか、物見見物といった感じです。義母が倒れたのが、よほどうれしかったのでしょうね。それを自分の目で確認するために来たのです」と。

 私にも似たような経験がある。
あるので、そのときの義姉の気持ちがよく理解できた。
世の中には、本当に残念なことだが、他人の不幸を酒の肴(さかな)にして、喜ぶ人がいる。

●人生の総決算

 老齢期になると、それまで奥に隠し持っていた醜悪な人間性が、そのまま表に出てきてしまう。
隠そうという意欲そのものが、薄れてくる。
(反対に若いときは、気力で、それをごまかすことができる。)
言うなれば、持病のようなもの。
それがどっと表に出てくる。

 老齢期というのは、そういう意味で、人生の総決算期。
老齢期の人間性を見れば、その人がどういう人生観をもっていたかが、おおよそわかる。
もちろんそれがよいものであれば、よし。
しかしそうでなければ、そうでない。
みなにあきられ、嫌われる。

●では、どうするか

 釈迦は、「精進」という言葉を使った。
「日々に鍛練あるのみ」と。
この鍛練にみによって、自分の人生観を変えることができる。
しかもその時期は、早ければ早いほど、よい。
30歳や40歳を過ぎてからでは、遅い。
50歳では手遅れ。
60歳では、先に隠された人間性のほうが表に出てきてしまう。

 つまり一度できた人間性は、簡単には改まらない。
ゆがんだ心となると、さらにそうだ。
ばあいによっては、(ほとんどがそうだが)、死ぬまでそのまま。

●縁を切る

 あなたの周囲にも、ずる賢い人はいくらでもいる。
小細工に小細工を重ね、善人ぶっている人はいくらでもいる。
ウソをつき、インチキを繰り返す。
大きな悪事こそできないが、平気で人をだます。

実のところ、私のまわりにもそんな人がいた。
が、50歳を過ぎるころから、私は心に決めた。
「縁を切ろう」と。

 そういう人たちとつきあっていても、得るものは何もない。
ないばかりか、しばらくつきあっていると、そういう人たちがもつ、あの独特の毒気に染まってしまう。
そういう人たちは、そういう人たち同士が集まり、独特の社会を形成している。
そういう社会に取り込まれると、それこそ私やあなたは、酒の肴にされてしまう。

 が、それが本当の被害ではない。
本当の被害は、時間を無駄にすること。
時間を無駄にすること以上の、「損」はない。

●総決算

 「救急車を呼ぶな」と言った老人。
毎日、雨戸をきちんと開けたり閉めたりする老人。
それがその老人たちがもつ人生観の、総決算ということになる。

 ……この話は以前にも書いた。
原稿をさがしてみる。

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「救急車を呼ぶな」と言った老人。
日付を見ると、2002年となっている。
今から9年前。
その前後に書いた原稿と併せて、再掲載する。

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●ある退職者


 退職してからも、現役時代の肩書きや地位を引きずって生きている人は多い。とくに「エリート」と呼ばれた人ほど、そうだ。そういう人にしてみれば、自分が歩んだ出世コースそのものが、自分の人生そのものということになる。Y氏(六七歳)もその一人。


 私に会うと、Y氏はこう言った。「君は、学生時代、学生運動か何かをしていたのかね? それでまともな仕事につけなかったのかね?」と。


 彼は数年前まで、大手の都市銀行で、部長をしていた。この浜松へは、生まれ故郷ということで、定年と同時に、移り住んできた。彼の父親の残した土地が、あちこちにあった。そこで私が、「本も書いています」と言うと、「いやあ、こういう時代だから、本を書いてもダメでしょ。本は売れないでしょ」と。たしかにそうだが、しかしそういうことを面と向かって言われると、さすがの私でもムッとくる。


 問題は、なぜY氏のような人間が生まれるか、だ。仕事第一主義などという、生やさしいものではない。彼にしてみれば、人間の価値まで、その仕事で決まるらしい。いや、それ以上に、なぜ、人は、そこまで鼻もちならないエリート意識をもつことができるのか。自尊心という言葉があるが、その自尊心とも違う。肩書きや地位にしがみつくのは、自尊心ではない。自尊心というのは、生きる誇りをいう。肩書きや地位とは、関係ない。彼のような人間は、戦後の狂った経済社会が生みだした、あわれなゾンビでしかない。


 もっとも彼にしてみれば、過去の肩書きや地位を否定するということは、自分の人生そのものを否定することになる。最後は部長になったが、その部長をめざして、どれほど身を粉にして働いたことか。家庭を犠牲にし、自分を犠牲にしたことか。それはわかるが、「では、Y氏は何か?」という部分になると、実のところ何もない。何も浮かんでこない。少なくとも私には、ただの定年退職者(失礼!)。


 別れぎわ、「今度、また自治会の仕事をよろしくお願いします」と言ったら、こう言った。「ああ、県や市でできることがあれば、私に一度、連絡してください。私のほうから口をきいてあげます」と。そうそう、こうも言った。「林君は、カウンセリングもできるのですか。だったら、国のほうでも、そういう仕事があるはずですから、今度、私のほうで、話してみてあげますよ。知事とも、懇意にしていますから……」と。


 おめでたい人というのは、Y氏のような人をいう。が、私は心の中で、Y氏とは、完全につながりを切った。「何かの仕事の話になっても、(そういうことはありえないが)、断ろう」と心に決めた。
(02-12-2)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司


●老後


 おととい、Pペイントという、日本でも一、二を争うペンキ会社で、会長をしていたというT氏が、久しぶりに我が家へ寄ってくれた。一五年ぶり? 玄関で会ったとき、「お元気ですか」と言いかけたが、思わず、その言葉がのどの奥に引っ込んでしまった。T氏は、すっかり老人ぽくなってしまっていた。


 居間でしばらく話していると、やがて年齢の話になった。私が「五五歳になりました」と言うと、「いいですねえ、これからですよ」と。私が驚いていると、こうつづけた。「ちょうどバブルのころということもありましてね。私が本当に自分の仕事ができたと思うのは、五六歳から六三歳までのときでした。頭も体も、すこぶる快調で、気持ちよく仕事ができました」と。


 実のところ、私は、自分でも実感できるほど、体の調子がよい。昨日も講演先の小学校で、階段を三段とびにのぼっていたら、あとから追いかけてきた校長が、「足がじょうぶですね」とほめてくれた。「はあ、自転車で鍛えていますから」と答えたが、そのおかげというか、健康には、これといって、不安なところはない。ダイエットしたおかげで、どこか頭の中もスッキリしている。


 私は年配の人が、私に向かって、「若くていいですね」と言うときは、いつもそれを疑ってしまう。「本当にそうかな?」「なぐさめてくれているのかな?」「お世辞かな?」と。五五歳になった私の印象としては、「先が読めない」という不安感のほうが強い。「これからはガンになる確率がぐんと高くなる」とか、「これからはすべてが先細りになる」とか、そんなことばかり考える。よくワイフは、「あなたは、見かけは若々しいけど、中身は老人ぽい」と言うが、本当にその通りだと思う。


 ルソー(フランスの思想家、一七一二~七八)が、『エミール』の中でこう疑問を投げかけている。多分、これを書いたとき、彼も今の私と同じ、五〇歳代だったのだろう。


 「一〇歳では菓子に、二〇歳では恋人に、三〇歳では快楽に、四〇歳では野心に、五〇歳では貪欲に動かされる。人間はいつになったら、英知のみを追うようになるだろうか」と。


 あのルソーですら、「貪欲に動かされる」と。いわんや私をや……と、居なおるわけではないが、五五歳というのは、ちょうど、「そうであってはいけない」「しかしそういう自分も捨てきれない」と、そのハザマで悩む年齢かもしれない。まだ野心の燃えカスのようなものも、心のどこかに残っている?


 T氏はさかんに、「まだまだ、これからですよ」と言ってくれたが、「これから先、何ができるのだろうか」という思いも、また強い。またそういう思いとも戦わねばならない。「貪欲さ」がよくないとはわかっているが、しかしそれがなくなったら、生活の基盤そのものが、あやうくなる。働いて、仕事をして、稼ぎを得て、それで生きていかねばならない。私のばあい、悠々自適(ゆうゆうじてき)の年金生活というわけにはいかない。いわんや「英知のみを追う」などというのは、夢のまた夢。


 そうそうT氏は別れぎわ、こうも言った。「林さんは、いいねえ。道楽が多くて……。私なんぞ、人間関係のウズの中で、自分を支えるだけで精一杯でした」と。しかしこれは、T氏一流の、私への「なぐさめ」と理解した。


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司


●アンビリーバブル


 世の中には、信じがたい人たちというのは、たしかにいる。ふつうの常識では、考えられない人たちである。実は、先日も、こんなことがあった。


 その男性は、現在、八五歳。子どもはいない。大手の自動車会社の研究所で、研究員を長年したあと、筑波(つくば)の国立研究所で、一〇年ほど研究員をした。そのあと、しばらく私立大学の教壇に立ったあと、今は、退職し、年金生活を送っている。が、そのあといろいろないきさつがあって、このH市に住んでいる。


 ここまではよくある話だが、実は、その男性は、がんを患っている。もう余命はそれほど、ない。手術も考えたが、年齢が年齢だからという理由で、抗がん剤だけで治療している。が、私が「信じがたい」というのは、そのことではない。その男性は、莫大な資産家でもある。市内だけでも、大きなビルを、三か所もっている。それに大地主。市の中心部と郊外に、一〇〇〇坪単位の土地をいくつかもっている。ハンパな金持ちではない。


 が、だ。その男性、今、別の男性(五二歳)と、わずか一〇坪の土地について、民事調停をしている。本来なら、話しあいでどうにかなった問題だが、関係が、こじれてそうなった。先日も、その土地をはさんで、二人が道路で、大声で怒鳴りあう喧嘩(けんか)をしていたという。


 私はこの話を聞いて、「へえエ~」と言ったきり、言葉が出なかった。


 もし私ががんを宣告されたら、それだけで意気消沈してしまうだろう。何もできなくなるだろう。しかも八五歳といえば、私より三〇歳も年上ということになる。そういう人生の大先輩が、その上、大金持ちが、わずか一〇坪の土地のことで、言い争っている? 人間の「生」への執着心というか、はっきり言えば、愚かさというか、それが私には信じられなかった。あるいは何がそうまで、その男性を、駆り立てるのか?


 ここまで考えて、私はしばらく、あちこちの本を読みなおしてみた。で、最初に目についたのが、ミルトン(一六〇八~七四、イギリスの詩人)の『わめく女』。その中でミルトンは、こう書いている。「老人が落ち込む、その病気は、貪欲である」と。これだけを根拠にするわけではないが、どうも年をとればとるほど、人間的な円熟味がましてくるというのは、ウソのようだ。中には、退化する人もいる? そういえば、ギリシャのソフォクレスも、「老人は再び子ども」という有名な言葉を残している。


 私はこの男性の話を聞いたとき、「老年とは何か」、それを考えてしまった。あるいはこういう人たちは、その年齢になっても、まだ人生は永遠につづくとでも、思っているのだろうか。仮にあの世があるとしても、あの世まで、財産をもっていくことができるとでも思っているのだろうか。さらに「死」を目前にして、我欲にとりつかれることの虚しさを覚えないのだろうか。さらにあるいは、老年には老年の、私たちが知る由もない、特別の心理状態があるのだろうか。


 これは近所の男性(八〇歳)のことだが、こんな話もある。ある夜、隣の家の人に、その男性が「助けにきてほしい」と電話をしてきたという。そこでその隣の人が、その男性の家にかけつけてみると、その男性は玄関先で倒れていたという。隣の人がそれを見て、「救急車を呼びましょうか?」と声をかけると、その男性は、こう言ったという。「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ」と。


 この話を聞いたときも、私はわが耳を疑った。その男性は、だれに対して、何を恥ずかしいと思ったのだろうか。


 さてさて、人はだれしも、老いる。それは避けることのできない未来である。末路と言ってもよい。そういうとき、どういう心理状態になり、どういう人生観をもつか。私は私なりに、その準備というわけでもないが、それを知りたいと思っている。で、こういう人たちが一つの手がかりになるはずのだが、しかし、残念ながら、私には、まったく理解できない。冒頭に書いたように、どれだけ、また何回、頭の中で反芻(はんすう)しても、理解できない。信じられない。つまりアンビリーバブルな話ということになる。この問題は、ひょっとしたら、私自身がもう少し年をとらねば、わからない問題なのかもしれない。


 ただここで言えることは、老人のなり方をまちがえると、かえってヘンな人間になってしまうということ。偏屈でがんこになるのならまだしも、邪悪な人間になることもある。そういう意味では、人間は、死ぬまで、前向きに生きなければならない。うしろを向いたときから、その人間は、退化する。釈迦も、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、それを説明した。「死ぬまで精進せよ(前向きに生きろ)」と。
(02-12-4)


●老人が、人生の大家であるというのは、まったくの幻想である。何と醜い老人が多いことか。またこの世の中に、のさばっていることか。……と書いて、私たちはそうであってはいけない。またそういう老人になってはいけない。一方的に老人を礼さんする人というのは、その人自身がすでに、その老人の仲間になっているか、前向きに生きるのをやめたということを意味する。本当にすばらしい老人というのは、自らが醜いことを知っている老人である。安易な老人美化論には、注意しよう!


●私の観察では、人間は、早い人で、もう二〇歳くらいから進歩することをやめてしまう。あるいは三〇歳くらいから、それまでの人生を繰り返すようになる。毎年、毎月、毎日、同じことを繰り返すことで、そのときどきを、無難に生きようとする。あるいは考えることをやめてしまう。が、なおさらに、タチが悪いことに、自らを退化させてしまう人もいる。そういう意味で、人間にとっては、「停滞」は、「退化」を意味する。それはちょうど、川の流れのようなものではないか。よどんだ水は、腐る。


●自らを輝かせて生きるためには、いつも前向きに生きていかねばならない。恩師は、一つの方法として、「新しい情報をいつも手に入れることだ」と教えてくれた。また別の恩師は、「いつもトップクラスの人とつきあうことだ。新しい世界にチャレンジすれば、自然と、自分が磨かれる」と教えてくれた。方法はいろいろある。山に登るにも、道は必ずしも一つではない。


●そこで考えてみよう。あなたのまわりには、老人と呼ばれる人がたくさんいる。あなた自身も、すでにその老人の仲間になっているかもしれない。そういう老人や、あなたは、今、輝いているか、と。実は、これは私自身の問題でもある。私は今、満五五歳。このところとみに気力が衰えてきたのがわかる。何かわずらわしいことが起きると、それが若いころの何倍も気になるようになった。チャレンジ精神も薄れてきたように思う。できるならひとり、のんびりと暮らしたいと思うことも多い。つまり私自身、輝きをなくしつつあるように思う。


●そこで、考える。どうすればいいのか、と。逃げるわけではないが、この問題は、これから先、私にとっては、大きな問題になるような気がする。今は、ここまでしか書けないが、この問題は、近々、決着をつけなければならないと思っている。


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●ルソーとミルトン

 ルソーもミルトンも、同じ言葉を使っている。
「貪欲」という言葉である。

(1)まず、ルソー。

 ルソー(フランスの思想家、一七一二~七八)が、『エミール』の中でこう疑問を投げかけている。
多分、これを書いたとき、五〇歳代だったのだろう。

 「一〇歳では菓子に、二〇歳では恋人に、三〇歳では快楽に、四〇歳では野心に、五〇歳では貪欲に動かされる。
人間はいつになったら、英知のみを追うようになるだろうか」と。

(2)ミルトン(一六〇八~七四、イギリスの詩人)は、『わめく女』の中で、こう書いている。
「老人が落ち込む、その病気は、貪欲である」と。

 ただしミルトンは、敬虔なキリスト教徒の立場で、「貪欲」という言葉を使っている。
そのことは、ここにあげる「On Time」という詩を読んでもわかる。

 ともあれ年を取れば取るほど、貪欲になっていく老人は多い。
少なくとも、加齢とともに、人は賢くなっていくわけではない。
多くは世俗に巻き込まれ、自分を見失い、強欲になっていく。
それを避けるために、私たちは何をすべきか。
何を準備すべきか。
結局は『精進』という言葉に行き着く。

 それがそのまま、このエッセーの結論ということになる。

●補記(John Miltonの詩より・「On Time」)

ON TIME(予定どおりに)

FLY, envious Time, till thou run out thy race;ねたましい時よ、燃え尽きるまで過ぎろ
Call on the lazy leaden-stepping hours,怠惰で、鉛にように重い時を訪ねよ
Whose speed is but the heavy plummet's pace;その速さは、恐ろしく遅い
And glut thyself with what thy womb devours,子宮がむさぼるもので、汝の食欲を満たせ
Which is no more then what is false and vain,それは失敗でも無駄でもない
And merely mortal dross;ただの死すべき無価値なもの
So little is our loss,失うものは、ほとんどない
So little is thy gain.得るものも、ほとんどない。
For when, as each thing bad thou hast entomb'dなぜなら悪しきものはすべて墓に葬られ
And last of all thy greedy self consumed,汝の貪欲さは、すべて消耗されるから
Then long Eternity shall greet our bliss,そのとき長い永遠が、祝福で私たちを迎える
With an individual kiss;それぞれの接吻で
And Joy shall overtake us, as a flood,喜びが洪水のように、私たちを包み、
When every thing that is sincerely good,誠実でよきものすべてが
And perfectly divine,完ぺきに神々しいものとなる
With truth, and peace, and love, shall ever shine,真実と平和と愛が、永遠に輝く
About the supreme throne神の最高位の王位の上に
Of Him, to whose happy-making sight, alone,そこに見えるのは、幸福な光景のみ
When once our heavenly-guided soul shall climb,ひとたび魂が天に導かれ昇るなら
Then all this earthly grossness quit,地上の世俗は、消え失せる
Attired with stars, we shall for ever sit,星々で飾られ、私たちは永遠にそこに座る
Triumphing over Death, and Chance, and thee, O Time死と運命と汝を乗り越えて。

(注:訳は私が直感的につけたので、かなり不正確。
ミルトンの基本的なものの考え方を知るにはよい。
ミルトンは、こう言っている。

『貪欲にやりたいことを、とことんやってみろ。
自分を燃やし尽くしてみろ。
それは失敗でも、無駄でもない。
やがてそれが無価値であったことがわかれば、
あなたも神の座に座ることができる』と。)

(はやし浩司 教育 林 浩司 林浩司 Hiroshi Hayashi 幼児教育 教育評論 幼児教育評論 はやし浩司 「救急車を呼ぶな」 老人の見栄と体裁 貪欲 人格の暴露 人間性 邪悪な人間性)


Hiroshi Hayashi+++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司



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