●悪魔の論理(合理vs弱者の論理)
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抑圧が長くつづくと、心は悪魔的になる。
サイコパスもそのひとつだが、それ以前の段階で、
ものの考え方がゆがんでくる。
たとえばこんな例で考えてみよう。
たとえば今、あなたは失業しているとする。
働いても、働いても、たいした収入にはならない。
子どももいる。
家計は火の車。
明日の食費すらままならない。
もしそんな状態が、1年から10年単位でつづいたとする。
こんな状態で、ものの考え方を正常に保つのは不可能。
ひがみ、ねたみ、不平、不満、怒り、不安、心配……。
これらが混然一体となって、あなたの心をゆがめる。
が、これは個人にかぎらない。
国全体が、そうなることもある。
たとえば北朝鮮。
先のワールドカップ3次予選では、日本側チーム、サポーターは、
「冷遇」(ニュース各社)されたという。
どう冷遇されたかは、すでにみなさんご存知の通り。
それに対して、北朝鮮が、猛然と反論してきた。
「冷遇したのは、日本側」と。
読めば読むほど、ガラスに爪をたて、かきむしるような不快感が充満してくる。
しかしこれが「悪魔の論理」である。
国も心がゆがむと、そこまでゆがむ。
MSNの記事を、そのまま紹介する。
+++++++++++++以下、MSN記事より++++++++++++++
●「まるで監獄だった」北が日本での待遇を逆非難
北朝鮮・平壌で15日に行われたサッカーワールドカップ(W杯)予選の日朝戦で、日本代表が空港で足止めされるなど異例の対応を受けたと、日本メディアが報じたことに対し、北朝鮮は機関紙を通じて9月に日本であったW杯予選での北朝鮮代表への待遇を挙げ、「まるで監獄だった」と逆非難した。
ラヂオプレス(RP)によると、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」は18日、ウェブサイトで、北朝鮮選手に対して日本警察がトイレまで付いてきたりしたとし、「まるで監獄に行ってきたようだ」との選手の話を紹介した。入国時にチョコレートを没収されたとも訴えたが、真偽は全く不明だ。
日本サポーターは日の丸などの応援グッズを没収され、観客席の一角に押し込まれる“冷遇”を受けたが、「選手団も応援団、取材団も平壌に来て、商店をはじめ行きたいところに自由に行った」と事実に反する主張を繰り広げている。
+++++++++++++以上、MSN記事より++++++++++++++
●相手にしない
こういう国は、相手にしないほうがよい。
言いたいように言わせておけばよい。
こちらが本気になればなるほど、相手の思うつぼ。
で、ここでは話を、もう一歩、先に進める。
●まともでない国
経済学がそのつど、かならずといってよいほど、デッドロックに乗り上げるのは、悪魔の論理を計算に入れていないから。
つまり経済学は、(まともな論理)を基盤にし、その上に成り立っている。
が、世界には、(まともでない国)のほうが、多い。
北朝鮮もそうだが、たとえばスペインも症状は軽いが、そのひとつ。
多額の国家負債をかかえ、明日にでもデフォルト(債務不履行)を起こすかもしれない。
が、スペイン自体は、どこか居直っている?
一部の人たちは都市で、緊縮予算反対などと騒いでいるが、あくまでも一部。
たいはんの人たちは今日も裏通りで、バックギャモンに興じている。
それに対して、ドイツやフランスが、大あわて。
表向きはスペイン救済を口にしているが、実際には、自分たちの救済。
「国」ではなく、「一家」にたとえてみると、それがよくわかる。
●アンダーワールド
あなた(スペイン)は年収の何倍もの借金をかかえている。
明日の生活を維持するためには、さらに借金を重ねるしかない(=国債を発行するしかない)。
利息も、バカにならない。
この先、増収分よりも、利息のほうが多くなる。
つまり働いても働いても、そこはアリ地獄。
もうこうなったら、自己破産(デフォルト)するしかない。
自己破産して、借金をチャラにする。
その上で、もう一度、一家を立て直す。
が、金を貸している銀行(ドイツ銀行)は、そうでない。
もしここでチャラにされたら、元も子もなくなる。
相手が個人なら、財産の没収ということもできるが、相手が国ではそれもできない。
スペインの半分の領土を、ドイツに渡せとも言えない。
本当に、元も子もなくなる。
つまり(まともな論理)を振りかざすドイツと、(まともでない論理)を振りかざすスペイン。
ここで両者がたがいに、はげしく衝突する。
が、その衝突を裏で支えるグループがある。
それが23%とも言われる、失業中の若年労働者たち。
この人たちにしてみれば、もうこれ以上、失うものは何もない。
このグループが、「力」で、政治を裏で操ろうとする。
つまりここで悪魔の論理が働く。
まともな経済学の論理が通じない、いわば、アンダーワールドの世界。
このアンダーワールドの世界が、こわい。
●弱者の論理
悪魔の論理をさらに理解するためには、弱者の論理を知らなければならない。
弱者には弱者独特の論理がある。
またその上で、ものを考える。
++++++++++++++++++はやし浩司
2006年6月に書いた原稿より。
++++++++++++++++++はやし浩司
【主義の限界】
++++++++++++++++++++
なぜ、共産主義も、資本主義も、そして
民主主義も、最後の最後のところで、
行きづまってしまうのか?
わかりやすく言えば、そのどれも、
最後の、あと一歩というところで、
ほころびを生じてしまう。ボロボロに
なってしまう。
よい例が、今のイラク。民主主義は最善
とばかり、それを押し付けようとする、
アメリカ。
しかしその民主主義とやらを、イラクの
人たちは、どうやら別の目で見ている?
なぜか?
++++++++++++++++++++
●教育論の限界
教育論という「論」がある。それはそれとして、その「論」にも、限界がある。いくら高尚な教育論を説いたとしても、そこには、一定の限界がある。
こんな例で考えてみよう。
私たちが「子ども」というときは、子ども全体をさす。1人ひとりの子どもについて書くこともあるが、しかしそれでも、「個人」については、書かない。また書いてはならない。
私たちが「子ども」というときは、顔をもたない、子どもたちの世界、全体を意味する。
教育論は、そうした「子ども」を前提として、組み立てる。が、最後の最後のところで、子どもをもつ親は、こう言う。
「先生、うちの子は、だいじょうぶでしょうか?」と。
つまり、「うちの子は、ちゃんと目的どおり、SS中学校へ、入学できるでしょうか」と。
これが教育論の限界である。私たちは「論」を説きながらも、そこにいつも、一定の限界があることを知る。
●主義の限界
資本主義にも、共産主義にも、似たような限界がある。民主主義にも、ある。ある一定のところまでは、その「主義」は、有効であり、それなりの支持を得る。が、それを越えると、とたんに、ほころびが生ずる。ボロが出る。矛盾が生ずる。
なぜか?
こうした限界も、教育論がもつ限界を当てはめてみると、簡単に理解できる。
「高尚な教育論も結構だが、私という親が目的とすることは、自分の子どもを、SS中学に入れることなのです」と。
つまり今日の生活にも困っている人に向かって、資本主義や共産主義、さらには、民主主義という「主義」を説いても意味はない。「高尚な主義も結構だが、今日の生活を、まず、何とかしてくれ。主義の話をするのは、そのあとで、結構!」となる。
●強者の論理vs弱者の論理
こうした「限界」を、如実に表しているのが、「経済理論」である。ご存知のように、経済理論ほ
ど、ツギハギだらけの理論はない。ツギハギにツギハギを重ねながら、何とかその場、その場をしのいでいる。ごまかしている。
遠い昔には、アダム・スミスがいた。ケインズがいた。マルクスがいた。最近では、ドラッカー(1909~)がいた。しかし一度とて、その理論どおりに、経済が動いたためしがない。
理由は、簡単である。
こうした経済理論は、いわば、強者の論理でしかないからである。わかりやすく言えば、とりあえずは、日ごろの生活には困らない、それなりのエリートたちが考えた論理だからである。
それに対して、弱者と呼ばれる人たちは、いつも別の論理で、ものを考え、行動する。しかも不幸なことに、そういった弱者は、「もの言わぬ民」である。自分たちの主義(?)を、論理として、まとめることもできない。今日という現在を、生きていくだけで、精一杯。明日の生活を心配しながら、不安な毎日を送っている。
そのためには、ときには、法もやぶる。悪いこともする。そうでもしないと、生きていかれない。そういう人たちが、時として、主流となり、エリートたちが説く「主義」を、ことごとく否定していく……。
●教育の世界でも……
高尚な教育論など、受験塾の玄関をくぐれば、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。そこでは、教育そのものが、個人の欲得の追求の場になっている。
「1人でも多く、他人を蹴落とせ」
「点数こそ、すべて」
「人間の勝ちも、それで決まる」と。
しかしだれが、そういう受験塾を否定することができるだろうか。彼らは、みな、決まってこう言う。
「私の目的は、SS中学校の入試に、合格すること」と。
わかりやすく言えば、歴然とした社会的格差をそのままにしておいて、いくら、高尚な教育論を説いても意味はない。親や子どもたちは、日々の生活を通して、否応なしに、その格差を、肌で感じ取っている。
「来月はどうやって生きていこうか」と悩んでいる人もいれば、数千万円の年収を稼ぎ、外車を何台も乗り回している人もいる。
その入り口に、「教育」がある。つまり彼らにとっての「教育」とは、そういう教育をいう。そして私たちが説く教育論とは、まったく異質のものである。
●民主主義の限界
民主主義といっても、いかにいいかげんなものであるかは、すでに、みさなん、ご存知のとおり。国政選挙があるたびに、だれしも心のどこかで、何かしらの疑問を感じている。「こんなことで、本当に政治が変わるのだろうか」と。
このH市でも、中央から天下り官僚がやってきて、選挙に出馬する。当選する。そしてまた中央へと戻っていく。それが明治の昔から、慣例になっている。
で、選挙が終わっても、生活は、何も変わらない。相変わらず、今日という「今」を生きていくだけで、精一杯。
もっとも、これは「個人」の話だが、これが、「国家」の話になることもある。
欧米先進国が、いくら高尚な民主主義を説いたところで、国によっては、今日という「今」を生きていくだけで精一杯という国もある。
そういう国へ行けば、「何が民主主義だ!」となる。つまりこれが、民主主義の限界ということになる。
●弱者の論理
こうした「限界」を乗り越えるためには、弱者の論理でものを考え、そのレベルで主義を作らねばならない。が、しかしそうした主義は、今度は、強者の利害と、まっこうから対立する。
これも教育の場で考えてみると、それがよくわかる。
「とにかく、この日本では、学歴のあるものが勝ち」
「勝てば、官軍」
「1点でも、点数をあげろ。すべては偏差値で決まる」と。
講演などでも、「日本の教育の未来」という演題では、人は、集まらない。しかし「こうすれば、あなたの子どもを、目的の大学へ入学させることができます」と言えば、人は、集まる。
現実の世界は、そこにある。
しかし教育論を説く人が、そんな話をするわけには、いかない。先にも書いたが、「子ども」といっても、子ども、そのものが、ちがう。こんな私にしても、ものを書きながら、その限界を、毎日のように感じている。
●主義の限界
つまりは主義には、限界があるということ。それがつまりは、共産主義にせよ、民主主義にせよ、資本主義の限界ということにもなる。
もちろん限界があることが、悪いというのではない。またそれがあるからといって、それぞれを否定するのも、おかしい。
大切なことは、いくら主義をもっても、それは強者の論理でしかないということ。弱者は弱者で、別の論理で動く。たとえば宗教、さらにはカルト、迷信、占い、まじないにしても、それを「おかしい」と思うのは、その人の勝手だが、だからといって、そういうものに身を寄せている人を、「まちがっている」と言ってはいけない。
そういうものに身を寄せることで、懸命に自分を支えている人だっている。
それを忘れると、いくらすばらしい主義を唱えても、やがて矛盾を露呈し、ここに書いたように、ボロボロになってしまう。
なぜあのイラクで、ブッシュ大統領が説く民主主義が定着しないかという理由も、こんなところにあるのではないか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 主義 はやし浩司 弱者の論理 貧者の論理 主義の限界 民主主義 経済学の限界)
Hiroshi Hayashi++++++++++July 06+++++++++++はやし浩司
●弱者の論理vs依存性
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弱者が必ずしも正しいというわけではない。
弱者の論理が、同じように、正しいというわけではない。
弱者の論理の根底を流れるのが、「依存性」。
弱者の論理を、依存性の観点から、考えてみた。
それがつぎの原稿。
日付は2009年の2月(BLOG)になっている。
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●依存性(Dependence)
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依存性には中毒性がある。
依存される側を、「主者」とする。
依存する側を、「従者」とする。
一度、二者の間で依存関係ができると、主者はいつも主者となり、
従者は従者となる。
途中で、立場が入れ替わるということはない。
これについては、前にも何度か書いた。
そこでここでは、もう一歩、話を進める。
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●親子の依存性
実は、親子関係においても、この依存性が生まれることがある。
親が主者となり、子が従者となるケースが多い。
が、反対に、親が従者となり、子が主者となるケースもある。
一般的に、精神的欠陥、情緒的未熟性があると、従者になりやすい。
親側にそれがあれば、親が従者になる。
で、こうした依存性を、自分の中に感じたら、できるだけ早い時期に、
依存性と決別したほうがよい。
自分の親や、自分の子どもに感じたときも、そうである。
主者はますます主者になり、従者はますます従者になる。
従者は、「助けてもらうのが当たり前」という考え方をする。
そのためお金やモノの流れが、一方的になる。
で、親子のばあいは別として、(親子でもそうなるケースは多いが)、
従者が主者にそれだけ感謝しているかというと、それはない。
立場が逆転したとき、その分だけ、今度は従者が、主者を助けてくれるかというと、
それはない。
こんな例がある。
●麻痺する感覚
A氏(50歳)は、実母の実家ということで、長い間、伯父を財政的に援助してきた。
伯父は実家を守っていたが、定職はなかった。
そこで「小遣い」と称して、実母はそのつど、伯父に渡していた。
もとはと言えば、A氏が実母に渡したお金である。
ハンパな額ではない。
合計すると、年間、数百万円にはなった。
それを10年近く、つづけてきた。
が、A氏が50歳になったとき、A氏の事業が行き詰った。
一時的に多額の借金を負った。
そこでA氏はそれとなく伯父に打診してみたのだが、伯父は、だんまりを決め込んだ。
A氏はこう言った。
「私の窮状を知りつつ、音なしの構え。そればかりか、それとなく『うちは貧乏』と、
そればかりを口にするようになりました。
それもズルイ言い方をするのですね。『この3年間、旅行などしたことがない』とか、
『家の改築費に、600万円かかった。ローンの返済で、たいへん』とかなど。
実際には、町に空き地を買い上げてもらっていたのですが……」と。
だからA氏はこう言う。
「依存関係ができたら、その人を援助しても無意味です。感謝されるのは、最初だけ。
しばらくすると、それが当たり前になり、さらにしばらくすると、援助しないでいると、
逆に請求されるようになります。
それに応じないと、かえって恨まれることもあります」と。
なぜか。
●弱者の立場で
従者の心理を理解するためには、一度、弱者の立場に自分を置いてみる必要がある。
弱者には、弱者の論理がある。
こんな例で考えてみよう。
あなたの隣に、金持ちが住んでいる。
大型の外車に乗り、大きな家に住んでいる。
毎日、ごちそうを食べている。
が、あなたは貧乏。
その日の食費さえ、満足にない。
子どもの学費もままならい。
そんなある日、隣人が、金銭的な援助をしてくれた。
あなたは涙を出して、それを喜んだ。
が、あなたは一時的には感謝するかもしれないが、その気持ちは、いつまでも
つづかない。
あなたはそれまでにも、そしてそのときにも、別の心で、隣人をねたみ、そういった
不公平があることについて、大きな不満を感じていた。
だから「隣人が自分を助けてくれるのは当然」とまでは考えないにしても、
助けてくれたからといって、それまでのねたみや不満が消えるわけではない。
そのねたみや不満が、それまでにもていった慢性的な(怒り)が、
感謝の念を消してしまう。
むしろ助けてもらったことによって、ねたみや不満を増大させてしまうこともある。
●日本政府の援助
よい例が、日本政府が外国に対してする、政府間援助。
日本は毎年、東南アジアを中心に、70~80億ドル規模の、援助をしている
(政府開発援助・06)。
しかしそういう国々が、日本に対して感謝しているかといえば、それはない。
中国にせよ、韓国にせよ、東南アジアの国々やアフリカ諸国の国々にせよ、
いまだかって、日本に感謝したという例は、ひとつもない。
「援助をやめる」と言っただけで、逆に抗議される。
あのK国にいたっては、核兵器で脅して、日本から援助をとりつけようとしている!
だから冒頭の話に戻る。
依存性には、中毒性がある、と。
が、それでもだれかを助けたくなったら、どうするか?
そういうときは、無私、無欲、自分とは関係のない人に対してしたらよい。
人間関係を破壊したくなかったら、そうする。
そうそうもうひとつ。
援助するならするで、相手をよく見極めてからするのがよい。
「逆の立場だったら、この人は、私を助けてくれるか」と。
そういう目で、相手を見ながら援助するのがよい。
●依存性の内容について
依存性にも、(1)攻撃型と、(2)同情型、(3)服従型がある。
ある親に向って、自分の努力なさを棚にあげて、「こんなオレにしたのは、お前だろ!」と
叫んだ男性がいた。
「だから、オレの責任を取れ」と。
これを攻撃型依存性という。
一方、弱々しい自分を演じながら、相手に依存する人もいる。
相手が援助しなければならないように、相手を追い込んでいく。
ある男性は、「あなたが助けてくれなければ、一家心中です」と言って、相手に
援助させていた。
これを同情型依存性という。
さらに相手に、「あなたにすべてを任せます」といった様子を売りこんで依存する
ケースもあります。
ある女性は、実弟が生活費を渡すたびに、こう言った。
「大切に使わせてもらいます」と。
つまり(もらう)のが当然という考え方をする。
これを服従型依存性という。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
依存性 攻撃型依存性 服従型依存性 同情型依存性)
++++++++++++++++++はやし浩司
●弱者の論理
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最後に、私が好きな私の原稿。
この原稿を読むたびに、ジンと
胸が熱くなる。
(中日新聞発表済み)
+++++++++++++
●尾崎豊の「♪卒業」論
学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。
そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。
「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。
「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。
現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。
尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。
宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。
「子どもたちよ、夢をもて」と。
しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。
ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえることができる。
大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。
尾崎はこう続ける。
「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。
日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。
目が上ばかり向いている。
たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。
しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。
それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。
そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。
「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。
彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。
実際この世の中、偽善が満ちあふれている。
年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。
いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。
こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。
そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。
「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。
もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。
この「卒業」は、空前のヒット曲になった
。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。
この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 尾崎豊 卒業)
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●合理との対立関係
人の心もゆがむときには、ゆがむ。
が、問題は、どうゆがむかではなく、なぜゆがむかということ。
そこにメスを入れないかぎり、この世の中は、ますますゆがんでいく。
わかりやすく言えば、人間が原罪的にもつ(欲望)。
その欲望をどうコントロールしていくか。
そのあたりまで掘り下げないと、この問題、つまり弱者の論理(貧者の論理)は、解決しない。
いつまでたっても、合理と対立関係を維持したまま、私たちの住む世界を、ゆがめていく。
2011/11/21
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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