●ドン・キ・ホーテ(2011年11月24日)【日本亡国論vs豆腐系人種】
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今朝は、ウォーキングから始まった。
30分間、時速6キロで歩いた。
全身にジワーッと汗をかいたところで、おしまい。
ウォーキングマシンから、降りた。
居間のヒーターは、目下故障中。
こういうときは自家発電しかない。
運動で体を温めるしかない。
称して「貧者の暖房法」。
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●ラ・マンチャの男(ドン・キ・ホーテ)
昨日、ラ・マンチャの男について少し書いた。
セルバンテスの『ラ・マンチャの男』である。
その原稿を探してみる。
2008年の1月に、BLOGにその原稿を
書いている。
++++++++++++++++++はやし浩司
●2月29日号(Magazine for Feb. 29th edition)
I will issue nr. 1011st magazine on Feb. 29th, which is this. I issued nr. 1000th on the last Feb. 4th but it is funny that I dont feel anything special in my mind that I have done something. Why not? I am stepping forward again to another goal of nr. 2000th, but I shall follow my nose. I just keep writing, which is everything for me.
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この原稿は、2月29日号ということ
になる(2008年)。
去る2008年2月4日(月)に、電子マガジンは、
1000号になった。
だからこの2月29日号は、1011号という
ことになる。
つぎの1000号をめざして、また、
長い戦いが始まった。
しかし2000号は、目ざさない。
成り行きに任せる。
あとは行けるとこまで行く。
ただとても残念なことに、1000号
を超えたというのに、「何かをなし遂げた」という
実感は、ほとんど、ない。
どうしてだろう?
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●雑感・あれこれ
今日は、2008年1月30日。
このところ、何かにつけて、忙しい。
たとえば、こうだ。
私のしたいことと、ワイフのしたいことが
同時にあったとする。
そういうときは、両方とも、する。
あるいは、1時間でもヒマができたら、
その1時間で、したいことをする。
けっして、あと回しにしない。
もちろん私の仕事もある。
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●まじめに生きる
ときどき、まじめに生きるのが、バカらしくなる。
ほんとうは、そうであってはいけない。
それはわかっている。
しかしそのバカらしさと戦うのも、たいへん。
言うなれば、これは(内なる敵)との戦いということか。
ワイフも、ときどき、こう言う。
「あなたは、ラマンチャの男(=ドンキホーテ)みたい」と。
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原稿をさがしてみた。
何と、6年前にも同じことを考えていた。
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●私はドンキホーテ
セルバンテス(ミゲル・デーサーアベドラ・セルバンテス・1547~1616・スペインの小説家)の書いた本に、『ドンキホーテ』がある。
『ラマンチャの男』とも呼ばれている。夢想家というか、妄想家というか、ドンキホーテという男が、自らを騎士と思いこみ、数々の冒険をするという物語である。
この物語のおもしろいところは、ひとえにドンキホーテのおめでたさにある。
自らを騎士と思いこみ、自分ひとりだけが正義の使者であり、それこそ世界をしょって立っていると思いこんでしまう。
そして少し頭のにぶい、農夫のサンチョを従者にし、老いぼれたロバのロシナンテに乗って、旅に出る……。
こうした「おめでたさ」は、ひょっとしたら、だれにでもある。
実のところ、この私にもある。
よくワイフは私にこう言う。
「あんたは、日本の教育を、すべてひとりで背負っているみたいなことを言うね」と。
最近では、「あなたは日本の外務大臣みたい」とも。
私があれこれ国際情勢を心配するからだ。
が、考えてみれば、私一人くらいが、教育論を説いたところで、また国際問題を心配したところで、日本や世界は、ビクともしない。
もともと、だれも私など、相手にしていない。
それはいやというほどわかっているが、しかし、私はそうではない。
「そうではない」というのは、相手にされていると誤解しているというのではない。
私は、だれにも相手にされなくても、自分の心にブレーキをかけることができない。
そういう意味で、ドンキホーテと私は、どこも違わない。
あるいはどこがどう違うのか。
よく、私塾を経営している人たちと、教育論を戦わすことがある。
私塾の経営者といっても、経営だけを考えている経営者もいるが、中には、高邁(こうまい)な思想をもっている経営者も、少ないが、いる。
私が議論を交わすのは、後者のタイプの経営者だが、ときどき、そういう経営者と議論しながら、ふと、こう思う。「こんな議論をしたところで、何になるのか?」と。
私たちはよく、「日本の教育は……」と話し始める。
しかし、いくら議論しても、まったく無意味。
それはちょうど、街中の店のオヤジが、「日本の経済は……」と論じるのに、よく似ている。
あるいはそれ以下かもしれない。
論じたところで、マスターベーションにもならない。
しかしそれでも、私たちは議論をつづける。
まあ、そうなると、趣味のようなものかもしれない。
あるいは頭の体操? 自己満足? いや、やはりマスターベーションだ。
だれにも相手にされず、ただひたすら、自分で自分をなぐさめる……。
その姿が、いつか、私は、ドンキホーテに似ていることを知った。
ジプシーたちの芝居を、現実の世界と思い込んで大暴れするドンキホーテ。
風車を怪物と思い込み、ヤリで突っ込んでいくドンキホーテ。
それはまさに、「小さな教室」を、「教育」と思い込んでいる私たちの姿、そのものと言ってもよい。
さて私は、今、こうしてパソコンに向かい、教育論や子育て論を書いている。
「役にたっている」と言ってくれる人もいるが、しかし本当のところは、わからない。
読んでもらっているかどうかさえ、わからない。
しかしそれでも、私は書いている。
考えてみれば小さな世界だが、しかし私の頭の中にある相手は、日本であり、世界だ。
心意気だけは、日本の総理大臣より高い? 国連の事務総長より高い?
……勝手にそう思い込んでいるだけだが、それゆえに、私はこう思う。「私は、まさに、おめでたいドンキホーテ」と。
これからも私というドンキホーテは、ものを書きつづける。
だれにも相手にされなくても、書きつづける。
おめでたい男は、いつまでもおめでたい。しかしこのおめでたさこそが、まさに私なのだ。だから書きつづける。
(02-12-21)
● 毎日ものを書いていると、こんなことに気づく。
それは頭の回転というのは、そのときのコンディションによって違うということ。
毎日、微妙に変化する。
で、調子のよいときは、それでよいのだが、悪いときは、「ああ、私はこのままダメになってしまうのでは……」という恐怖心にかられる。
そういう意味では、毎日、こうして書いていないと、回転を維持できない。
こわいのは、アルツハイマーなどの脳の病気だが、こうして毎日、ものを書いていれば、それを予防できるのでは……という期待もある。
● ただ脳の老化は、脳のCPU(中央演算装置)そのものの老化を意味するから、仮に老化したとしても、自分でそれに気づくことはないと思う。
「自分ではふつうだ」と思い込んでいる間に、どんどんとボケていく……。
そういう変化がわかるのは、私の文を連続して読んでくれる読者しかいないのでは。
あるいはすでに、それに気づいている読者もいるかもしれない。
「林の書いている文は、このところ駄作ばかり」と。
……実は、私自身もこのところそう思うようになってきた。ああ、どうしよう!!
●太陽が照っている間に、干草をつくれ。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
● 命のあるかぎり、希望はある。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
● 自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばならない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
● パンさえあれば、たいていの悲しみは堪えられる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
● 裸で私はこの世にきた。だから私は裸でこの世から出て行かねばならない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」
● 真の勇気とは、極端な臆病と、向こう見ずの中間にいる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
●2011年11月24日へタイムスリップ(日本亡国論)
9年前に書いた原稿を、こうして読みなおす。
ほぼ10年前。
当時の私は、認知症になるのが、何よりも恐(こわ)かった。
今も恐い。
しかし今のところ、何とかもちこたえている。
認知症だけは、頭のよしあしでは決まらない。
東大の薬学部長をしていたMZ先生だって、認知症になってしまった。
●日本の命運
この10月(2011)に始まった世界大恐慌。
今はまだ、その前哨戦に過ぎない。
あるいは「最後の悪あがき」?
今朝のニュース(Bloomberやロイター)を読むと、あのドイツまでおかしくなってきた。
中国も、つい先日までは「ソフト・ランディング」と言われていたが、ここにきて急に「ハードランディング」という言葉が使われるようになった。
もしそうなると、日本経済に与える影響は、計り知れない。
最後に残された道は、ただひとつ。
EU中央銀行による、ユーロ(札)の大増刷(ユーロ共同債の発行)。
ユーロ(札)をばらまいて、急場をしのぐ。
ドイツのメルケル首相は、つい数日前までそれに反対していた。
が、昨日(24日)、10年物国債の入札で、応札額が募集額を35%も下回ったという。
つまり売れ残った。
わかりやすく言えば、ドイツ政府が「金を貸してくれ」と、世界に申し出た。
が、手にしたのは、そのうちの35%。
……この先、この日本は、どうなるのか?
ここまで考えて、思考停止。
日本の命運は、アメリカと中国の動向によって決まる。
●仕事がなかったら、屋台でも引け
ちょうど1か月ほど前、市内で弁当屋を経営しているFD氏(社長)と話した。
そのFD氏がこう言った。
「林さん、今に失業者が街にあふれるようになりますよ」と。
その弁当屋も現在、不況のドン底であえいでいる。
いくら値段を下げても、客の数は減っていくばかり。
「バブルのころは、1店舗だけで、1日、数百万も売り上げがあったのですがねエ」と。
が、今は、1店舗、店員を1人態勢にしても、経営が厳しいという。
……しかし『命のあるかぎり、希望はある』(セルバンテス)。
これをもじるとこうなる。
『希望がなくても、命があるかぎり、生きていくしかない』と。
私たちが考えるべきことは、「そのあとどうするか?」ということ。
大不況のあと、どう日本を立て直していくかということ。
その第一が、教育ということになるが、最近の子どもたちをみていると、絶望的と言わざるをえない。
草食系と言えば、まだよい。
豆腐系?
中身は、「ヤワ」。
国を支えていくという、気概すら感じられない。
「仕事がなかったら、屋台でも引け」と言いたいが、そんなことを言えば、かえって私の方が奇人に思われる。
(私はしたぞ!
浜松に来たころ、画家の卵をしていたSJ君と2人で、SJ君の父親の描いた絵をリヤカーに積み、団地で売って歩いたぞ。)
この先この日本が立ちなおるためには、あの野生臭をもう一度、取り戻すしかない。
そうでなくても、日本を一歩、外に出れば、そこは海千山千の世界。
猛獣が住む、野蛮世界。
そんな世界を相手に、これからこの日本は、どうやって戦っていくというのか。
何をするにも、資格、認可、許可、免許、登録……。
官僚制度によって、体中ががんじがらめに縛られている。
狭い世界でこぢんまりと生きていくには、よい。
しかしこんな日本を、どうして「自由な国」と言えるのか。
●曲がった信号
話を変える。
10月に、この浜松市を巨大な台風が直撃した。
それ以来、あちこちの四つ角の信号が、風で向きを変えた。
信号といっても、歩行者用の小さな信号。
ひどいところで、20~30度、横を向いた。
そういう信号が、自宅から4キロほど離れたところにある西郵便局(このあたりの主要郵便局)までに、3~4か所もある。
が、すでに2か月近くもたつのに、手つかずのまま。
それに対して浜松市は、今度、補正予算を組んだ。
額は忘れたが、億単位。
名目は、「台風被害による……信号の……」とか何とか。
しかし、である。
そんな信号なら、脚立とペンチ一個で、直せるはず。
金槌で叩いても直せる。
どうして自分でそれをしないのか?
警察官でもよい。
市役所の役人でもよい。
つまりその(しないところ)が、(野生臭の欠落)ということになる。
豆腐系ということになる。
●よい子論
今、教育現場では、こんな珍事が続発している。
世の母親たちは、静かでおとなしい子どもほど、「できのいい子」と評価する。
反対に、腕白で、元気があり、自己主張のはげしい子どもを、「できの悪い子」と評価する。
そういう子どもをもつ母親は、きまってこう言う。
「みなさんに、迷惑をかけてすみません」と。
さらに私の教室でも、そういう腕白で、元気があり、自己主張のはげしい子どもがいたりすると、母親のほうが「この教室はよくない」というレッテルを張ってしまう。
「うちの子がかえって萎縮してしまいます」などと言って、去っていく母親すらいる。
が、これはとんでもない誤解である。
もし誤解でないというのなら、では、いったい、どういう子どもを「よい子」と言うのか。
たぶんこの日本では、柔和で、やさしく、ハキがなく、おとなしく、追従的で、キバのない子どもを、「よい子」と言うのだろう。
しかしそんな子どもは、私のような団塊の世代から見ても、不気味。
世界の基準から見れば、さらに不気味。
映画に出てくる、平安時代の公家のようでもある。
顔中に「白粉(おしろい)」を塗りたくって、オホホホと口を押えて笑う。
女ではない。
男が、だぞ!
その結果、小学1年生で、いじめられて泣くのは男児。
いじめて泣かすのは女児。
そういう構図ができあがって、もう20年になる。
●異常な完ぺき主義
だからといって、私の生き様が正しいというのではない。
しかし今の日本人に求められているのは、まさに「ラ・マンチャの男」ではないのか。
この違和感。
この孤立感。
私がおかしいというよりは、世の中がおかしくなってしまった。
完ぺき主義も、ここまでくると異常。
繰り返すが、この日本では何をするにも、資格、認可、許可、免許、登録……!
この完ぺき主義が、やがてこの日本を滅ぼす。
官僚主義にもよい点はある。
しかしそれにも限度がある。
最後に7、8年ほど前、アメリカでタクシーに乗ったときの話を書く。
++++++++++++++++++はやし浩司
●日本は超管理型社会(2010年9月記)
最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。
そこで私はこの歌(「♪卒業」)を説明したあと、中学生たちに「夢」を語ってもらった。
私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず1人の中学生(中2女子)がこう言った。
「ない」と。「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。
「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。
もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。
そこで私が、「では、今ここに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。
「毎日、机の上に置いてながめている」と。
ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。
今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。
15~17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えた
のが、41・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。
●超の上に「超」がつく管理社会
日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。
アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2001年4月)。
タクシーにはメーターはついていなかった。
料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。
しかも運転してくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られないから……」と。
社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれない
が、一方ですき間をつぶす。
そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。
息苦しいだけならまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。
尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に対する、若者の抗議の歌と考えてよい。(2010年9月記)
●今日も始まった
……ということで今日も始まった。
株価は、予想通り、3・11大震災直後のそれを下回った。
今になって、東京証券取引所と大阪証券取引所を統合するという。
バカめ!
今さら、それをしてどうなる?
上場している外資企業など、10社もない。
みんなシンガポールへ逃げていってしまった。
理由は言わずとしれた、翻訳料。
資格、認可、許可、免許、登録に加えて、規則、規制。
それがふえればふえるほど、天下り先がふえる。
官僚たちは決まってこう言う。
「日本の公務員数は、欧米並みです」と。
が、文科省だけでも、天下り先機関は2000近くもある。
もしそういう機関の職員も含めたら、日本はギリシャ以上の公務員王国。
そういう現実が、まったくわかっていない!
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Hiroshi Hayashi++++++Nov. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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