2011年11月18日金曜日

●電子マガジン(11-18)万策尽きて

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子育て最前線の育児論byはやし浩司   2011年 11月 18日
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選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「万策尽きた」(教師による破廉恥事件に関して)

+++++++++++++++++++++++++++++

性欲をコントロールすることは、不可能と考えてよい。
研修会や指導会程度で、性欲をコントロールできるようになるとは思わない。
メカニズム的には、アルコール中毒、ニコチン中毒と同じ。
本能に根ざすだけに、線条体に受容体ができやすい。
様態はさまざま。
つまり性癖といっても、その人(男性)がもつ受容体によって、みなちがう。

で、一度受容体ができると、条件反射的に、脳は反応する。
アルコール中毒者が、ビールのコマーシャルを見ただけで、酒が飲みたくなるように、またニコチン中毒者が、他人が吸うタバコの臭いをかいだだけで、タバコが吸いたくなるように、その状況に応じて、猛烈な性欲が発生する。
このとき視床下部からの指令を受け、多量のドーパミンが分泌されるという。
線条体に受容体ができていると、受容体は即、ドーパミンに反応する。

こうした一連の条件反射をコントロールするのが、前頭連合野ということになる。
「理性の府」と呼ばれている。
しかしその「力」には限界がある。
そのことも、アルコール中毒者やニコチン中毒者をみれば、よくわかる。

では、どうするか。

もしどうしても……ということであれば、2つの方法しかない。

(1)厳罰主義(アメリカやオーストラリアでは、そうしている。)
(2)制度を改革する(2ーTeacher システムにする。あるいは教師と生徒の直接的な接触を、禁止する。カナダでは、そうしている。)

残念なことに、この静岡県では、教師による破廉恥事件が多発している。
教育委員会による指導も頻繁に、なされている。
しかしそういう指導を受けたにもかかわらず、この種の事件を起こした教師もいるという。
そこで県の教育委員長は、こう嘆いた。

「万策尽きた」と。

読売新聞の記事を紹介する。

++++++++++以下、読売新聞より(10-22)+++++++++

 静岡県で教師が生徒への強制わいせつ容疑で逮捕されるなど性的な不祥事が止まらず、県教育行政トップの県教育長が「万策尽きた」と発言する事態になっている。

 県教委は、懲戒免職処分を受けた教職員の氏名公表に加え、研修などの対策を打ってきた。
教育現場から教育長に理解を示す声も漏れ、無力感が漂う。
生徒から「誰が生徒を守るのか」「先生は何やっているんだ」と厳しい声が噴出している。

 県立科学技術高校の男性教諭(47)が17日、女子生徒への強制わいせつ容疑で逮捕された事件を受け、県教委は20日、臨時校長会を開催。
AB教育長は「私としても万策尽きた」と苦渋の表情で語り、「学校で連帯感を持った人間関係を作ってほしい」と約120人の校長らに訴えた。

 静岡県内で、校長や教諭がセクハラで懲戒処分されたり、教諭が盗撮やのぞきで逮捕されたりするなど、8月からだけでも5件の性的不祥事が発覚。
県教委は、外部講師による研修やセクハラ根絶のためグループ研修を導入してきた。

 ところが、研修を受けていた高校教諭が9月に女性のスカート内を盗撮した容疑で逮捕。
生徒への強制わいせつ容疑で捕まった教諭も研修を受けている。

 AB教育長は「万策尽きたという言葉は、思わず口に出てしまった」と打ち明ける。
不祥事防止を訴える機会が再三あり、「また同じような状況で同じような話をしなければいけないのか」と無力感に襲われたという。
「適切な言葉でなかったと反省している。
効果的な対策を考えていかなければいけない。
具体策の検討を始めている」と話した。

 県高等学校長協会会長のAS県立静岡高校長は「苦しい心境が表れた言葉」と理解を示す一方、「現場は万策尽きていない。
即効性がある対策はないかもしれないが、まだ努力することはある」と話す。

++++++++++以上、読売新聞より(10-22)+++++++++

●だれが「石もて打てる」のか?

 性欲……この無にして、不可思議な欲望。
たとえば「女性のスカート内の盗撮」。
私のワイフはいつも、こう言っている。
「どうしてあんな(汚い)ところを、男は見たがるの」と。

 そう汚い。
臭い。
その器官は、大便、小便の排泄器官と隣接している。
いくらそうとわかっていても、人(男)はそこに限りないロマンを抱く。
若い男なら、24時間、そのことで頭がいっぱい。
が、だからこそ、人間は、(ほかの動物もみなそうだが)、子孫を後世に残すことができる。
私たちがなぜ生きているかといえば、結局はすべてこの一点に集約される。
子孫を残すため。

 が、その様態は、さまざま
私のことを正直に書く。

 私は大学生のとき、女性の脚(太もも)を見ただけで、興奮状態になってしまったことがある。
そのとき私はたまたま自転車に乗っていた。
当時はまだミニスカートというのが、珍しかった。
で、信号か何かで、止まったときのこと。
前に立っていた女性の太ももが見えた。
風にスカートが舞ったのかもしれない。
明るく輝く、白い脚だった。

 とたん、下半身のほうが勝手に反応してしまった。
理由などない。
当時の私は、そのメカニズムなど、知る由もない。
そういう反応は、健康な男なら、みな、ある。
あって当然。

●様態

 私はこの分野については、あまり詳しくない。
一応、私がスタンダードという前提で考えると、私は女性のスカートの中には興味はない。
ないから、そういう男が理解できない。
だから京都大学の教授(当時)が、手鏡で女性のスカートの下をのぞいたという事件を知ったときも、「どうして?」と思うと同時に、そこで思考が停止してしまった。

 が、私自身は風呂上がりの女性に弱い。……弱かった。
濡れた髪。
甘い石けんの香り。
美しく光る肌。
……とたん、猛烈な性欲がわいてくる。……わいてきた。
 
 こうして「過去形」にするのは、遠い昔の話だからである。
今でも「美しい」とは思うが、性的な反応は、ほとんどない。
足腰は鍛えてきたが、しかしそれでも年齢には勝てない。

 が、そうした自分が正常であるとか、異常であるとかは考えない。
手の指が5本、あるように、目が2つあるように、それは「私であって私でない」と、自分を客観的に見るようになった。

 そうした性欲の存在を知っているからこそ、仮にそれが教師によるものであっても、私は教師を責める気にはなれない。
先にも書いたように、様態は、みなちがう。
たとえば私が親しくしていた友人は、太った女性が好きと言った。
太った女性の尻で、顔を押しつぶしてもらうと、最高の恍惚感を覚えるともいった。
彼は当時、ある通信会社で部長職をしていた。
部下は、50~60人もいた。
もちろん都内の有名大学を出ている。
そういう男でも、そう言った。

 で、指導とか、研修会。
それも結構だが、では、その指導者はどうなのか?、という問題も残る。
教職が聖職とは、今どきだれも思わない。
私自身も思わない。
それともその指導者は、スケベDVDを観たことがないというのか。
不倫や強姦を夢想したことがないというのか。
もしそうなら、私はむしろ、その指導者のもつ「異常性」のほうを疑う。

 この場で、こんなことを宣言するのも馬鹿げていると、自分でも思う。
しかし私はこう宣言する。
「私だって、ふつうの男だ」と。

言い換えると、それぞれの男は、自分がもつ性癖に応じて、性欲を覚える。
それ自体を、どうして「悪」と決めつけることは、まちがっている。
もちろん反社会的な行為は、別である。
相手の女性の心を傷つけたり、あるいは犯罪性のある行為は、別である。

●では、どうするか?

 その答は冒頭に書いた。
教師による破廉恥行為と、その予防については、つぎのように考える。

(1)厳罰主義(アメリカやオーストラリアでは、そうしている。)
(2)制度を改革する(2ーTeacher システムにする。あるいは教師と生徒の直接的な接触を、禁止する。)

 これについては、すでに何度も書いてきた。
原稿をさがしてみる。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ハレンチ事件(2010年6月18日に、電子マガジンで発表した原稿より)

++++++++++++++++++

数日前、またどこかの教師が、18歳未満の
女性とS交渉をもって、逮捕された。
その教師は、出会い系サイトで、女性と
知り合ったという。
逮捕されたとき、その教師はこう言った
という。
「こんなに簡単にできるとは思っていなかった」と。

「簡単」ということは、「簡単」ということ。
そういったシステムが、アンダーワールドの
世界では、すでに完成している。

+++++++++++++++++++

●悪者?

 こういう事件を見聞きすると、私たちはすかさず、教師を悪者として見る。
たしかに悪者だが、しかし「悪者」と断言することもできない。
正常な(?)男性なら、若い女性に興味をもつのは、当然のこと。
またそうした本能をコントロールするのは、容易なことではない。
実際には、不可能。
こうした本能は、理性の外にある。

だからといって、その教師を擁護するわけではない。
私が言いたいのは、「誰が、その男性を、石をもって打てるか?」ということ。
最近、ときどき、こんなことを考える。

 つまり男性は、若い女性と遊びたがる。
しかし実際には、若い女性に遊ばされているのは、男性のほうではないのか、と。
たとえばえばタバコがある。
喫煙者は、タバコを吸う。
そのとき喫煙者は、「自分の意思でタバコを吸っている」と思うかもしれない。
しかし実際には、「タバコにタバコを吸わされている」。

 酒にしても、そうだ。
一日の仕事を終え、家に帰って一杯のビールを飲む。
うまい!
暑い日には、なおさらうまい!

 そういうとき、私たちは、「自分の意思でビールを飲んでいる」と思うかもしれない。
しかし実際には、「ビールにビールを飲まされている」。

●ナンパ・ビデオ

 どこかあやしげなビデオショップへ行くと、その種のビデオがズラリと並んでいる。
私も若いころは、そういうビデオをよく見た。
「よく見た」といっても、「ふつう程度に」という意味。
当時はやったビデオに、『洗濯屋のケンちゃん』というビデオもあった。
私たちの世代には、衝撃的なビデオだった。

 そんなある日、ちょうど1年ほど前のこと。
いつも通うビデオショップの裏口に、そういったビデオだけを並べているコーナーがあるのを知った。
それまで10年近くその店に通っていたが、そんなコーナーがあることさえ気がつかなかった。
私は入ったついでに、「ナンパもの」と呼ばれるビデオを1本、借りた。

●ナンパもの

 「ナンパもの」というのは、街角で男たちが若い女性に声をかけ、その女性と最終的には、Sxxするというもの。
「モデルになってください」とか、「水着を試着してくれませんか」とか、そんなことを言って、女性に近づく。
このとき理性というブレーキが働くなら、女性たちは男たちの申し出を断るはず。
しかし女性たちは、男たちについていく。
いとも簡単についていく。
部屋の中に入っていく。
はじめは抵抗するそぶりを見せるが、はじめだけ。
やがてすぐ、本気になっていく。
で、ある一線を越えたとき、女性は、今度は、むしろ積極的に男たちの体を求め始める。

 こうした「ナンパもの」で驚くことは、今では、「中出し」が当たり前ということ。
男たちは、女性の体の中で、射Sする。
もしこのときも、女性たちに一片の理性でも残っていれば、それがどういうことかわからないはずはない。
が、その時点になると、女性たちには、その理性はない。
無我夢中。
されるがままというより、むしろ自らそれを求めて、それに応ずる。

 そういうのを見ていると、先にも書いたように、「男たちが、女性を誘惑している」というよりは、「男たちが、女性に女性を誘惑するよう仕向けられている?」と。
ストレートな言い方をすると、「男たちが、女性を誘惑しているのではない」。
「男たちが、女性に、もてあそばれている」と。
そんなふうに考えてしまう。

●食欲

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。
たとえば食欲。

 最近ではどこの旅館でもホテルでも、バイキング料理が多くなった。
そのほうが、人件費が安くすむ。
そこでのこと。
おいしそうな料理がズラリと並んでいる。
そういうのを見ると、「食べなければ損」という、あの卑しい根性がわいてくる。
が、実際には、「食べなければ損」ではなく、「食べたら損(そこ)ねる」。
理性で考えたら、「食べたら損」。
が、そういうとき、食欲と闘うのは、容易なことではない。
いつもなら食べないデザートまで、しっかりと食べてしまう。
2つ、3つと、余計に食べてしまう。

 が、部屋にもどったとたん、後悔の念。
「しまった!」と思う。
「食べたのではなく、食べさせられた!」と。

●一片の理性

 じゅうぶん分別もある男性の教師が、18歳未満の若い女性に手を出す。
もしそのとき、その男性の教師に一片の理性でも残っていれば、そういった女性には手を出さないはず。
が、現実には多くの教師たちが、そういった事件を引き起こし、警察沙汰になり、職場を追われていく。
それまでの名誉も地位も、すべて失っていく。

が、「一片の理性もない」という点では、会ったばかりの男に、体内での射Sを許す女性も同じ。
が、だからといって、そうした教師や女性を責めるのもどうか?
(もちろん擁護もしないが……。)
ともに、その人たちの責任というよりは、その人たちの中に潜む、もっと大きな力によって、操られている。
当人たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、「私」など、どこにもない。
そういうふうに考えないと、この問題は理解できない。
 
●自分の意思

 で、こうした人間の一連の行動を見ていると、こういうことが言える。
私たちはなにごとにつけ、自分の意思でしているかのように思っている。
が、実際には、そうするように、仕向けられている、と。
もっと平たく言えば、「操られている」。

 とくに本能と呼ばれる部分についてはそうで、それゆえに理性の力でコントロールすることは、たいへんむずかしい。
不可能ではないが、それをしようとがんばると、心の状態そのものがおかしくなることもある。

 たとえば私のばあいは、「モノ」。
ある特定のモノがほしくなると、終日、そのモノのことばかり考えるようになる。
デジカメならデジカメでもよい。
そうした状態が1、2週間もつづいたりすると、神経そのものが、苛立ってくる。
自分でもその変化が、よくわかる。
が、買ってしまえば、落ち着く。
そのモノを、手の中でいじって遊ぶ。

●生かされている

 私たちは「している」のではない。
「させられている」。
あらゆることがそうだ。
たとえば「生きる」こともそうだ。

今、私はこうして生きている。
一見すると、自分の意思で生きているようにも感ずる。
が、実際には、「生かされている」。
脳の視床下部あたりから、「生きろ!」「生きろ!」という強力な信号が出ている。
その結果として、「生かされている」。

 話をもとに戻すと、冒頭に書いた男性の教師にしても、自分の意思でそういう行為をしたというよりは、「若い女性によって、仕向けられた」と考えられなくもない。

(だからといって、そういう男性教師を擁護しているのではない。
反社会的行為については、弁解の余地はない。
どうか、誤解のないように!)

繰り返しになるが、男も女も、それぞれにもっている本能によって、操られる。
たとえば若い女性が、化粧をしたり、ファッションに気をつかうのも、結局は「男の目」を気にしているからではないのか。
もちろん当の本人は、それを否定するだろう。
「私は男性を誘惑するために、化粧をしたり、ファッションに気をつかっているのではない」と。

●「私」

 こうして考えていくと、私たちはいったい、どこからどこまで生かされ、どこから先で生きているのか、わからなくなる。
もっとわかりやすく言えば、どこまでが「私」で、どこから先が「私でない」のか、わからなくなる。
先に書いたように、「生きている」ことにしても、そうだ。
本当に私たちは、自分の意思で生きているのか?
あるいは、ひょっとしたら、生かされているだけではないのか?

 そういうふうに考えていくと、「私」と言える部分は、ほとんどないのではないかということになる。
話を戻す。

 冒頭で書いた男性の教師にしても、結局は「私でない」部分に操られてしまった。
相手の女性にしても、それは同じだろう。
現在の社会通念からすれば、男性の教師は「悪人」ということになる。
18歳未満だったその女性は、「被害者」ということになる。
しかし私には、「悪人」「被害者」と、決めつけることが、どうしてもできない。

 では、どうするか?

●結局は厳罰主義

 この問題だけは、結局は厳罰主義で臨むしかない。
18歳未満の女性に声をかけられただけで、男たちは震えあがる。
そういう法的な環境を用意する。

 オーストラリアでは、そうした関係を見聞きしただけで、罪に問われる。
見聞きした人には、警察への通報義務が生まれる。
通報義務を怠ったばあい、警察に逮捕されることもある。

 日本も、とくに教職にある者であれば、問答無用式に2年の懲役刑とすればよい。
見聞きして、通報義務を怠った人も、同罪。
そういう形で、理性の欠陥を、補う。
つまり理性によるコントロールには、限界がある。
その限界を認め、それを厳罰主義で補う。
それしか方法はない。

 が、現実には、「教職を追われるなど、すでに社会的制裁を受けている」とか何とか、
理由にもならない理由で、たいていは執行猶予刑になる。
(教職を追われることは、当然のことではないか。)
こうした(甘さ)が、こうした犯罪を野放しにする。
いつまでたっても、跡を絶たない
繰り返し、繰り返し、新聞で報道される。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 厳罰主義 本能と理性)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●カナダでは……

なお、カナダでは、教師と生徒との接触を、きびしく制限している。

たとえばカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。

教育のあり方を、基本的な部分で考えなおす
ための、その参考にしてほしい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の標準?

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーン
だが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過
ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解でき
る。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐
をするのか」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」と
いうことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害
を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、
あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、
一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府
時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、
伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的な
ことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本
では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。
欧米の教育は能力主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメ
リカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言
し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の
基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出
す」が基本になっている、などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地
ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになって
いる」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこ
で「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてく
れた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太
子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュ
ラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、
と。そういう学校をよい学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもら
いたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 
1999年記

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【常識が偏見になるとき】 



●たまにはずる休みを……!



「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいていの人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこそ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。



アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもった偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たとえば……。



●日本の常識は世界の非常識



(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政府が家庭教師を派遣してくれる。



日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふえ、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。



それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。



(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。



そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約14000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。



 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対する世間の評価はまだ低い。



ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。



(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさんであるのもあった。「○○大学、○名合格……
と(※)。



この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。



 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。



なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。



●そこはまさに『マトリックス』の世界



 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことでも、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあるべきか。さらには子育てとは何か、と。



その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。



●解放感は最高!



 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育しているのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよい。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。



※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めることができる。



Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司



●「自由に学ぶ




 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。



 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えてよい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政治を行うための手段として用いられてきている」と。



 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。



 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見には、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率はむしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではないのか」と(以上、要約)。



 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえている。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。

(以上、2000年ごろ書いた原稿より)

(はやし浩司 フリースクール 自由な教育 LIE Learn in Freedom 不登校 常識論 意識 はやし浩司 教育評論 教育論 はやし浩司 教師による性犯罪 破廉恥事件 はやし浩司 ハレンチ行為)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ネットの世界(10月24日記)

 最初にその変化を感じたのは、「2チャンネル」でのことだった。
当初、……といっても数年前のことだが、それをのぞいたときには、あまりの低劣さに驚いた(失礼!)。
しかし最近は、ちがう。
読み応(ごた)えがある。
内容も深い。
文章もしっかりしている。

 この世界も、確実に進化している。
たとえばニュースサイトにしても、10年前には、新聞社やテレビ局の「小出しニュース」しかなかった。
少しだけ一部を見せ、あとは新聞で……と。

 が、今はたとえば、ロイターやYahooなどは、新聞やテレビ以上の情報を提供している。
情報の質と量も、桁違いに多くなった。
もちろんそれに並行して、私たち(私?)の生活も、大きく変わりつつある。
たとえばテレビのニュースにしても、私はたまに見る程度。
新聞の記事にしても、ネットの記事の確認用。

●情報の質

 ほんの5、6前には、(確たる資料があるわけではないが)、ネットで得られる情報には、信頼感がほとんどなかった。
「本に書いてあった……」「新聞に書いてあった……」と言えば、みな黙った。
しかし「ネットに書いてあった……」と言っても、だれも本気にしなかった。

 が、今はちがう。
辞書や百科事典にしても、安心して読んだり、引用したりできるようになった。
もちろん中身も濃くなった。

 たとえばときどき世界の株価の動向を調べるときがある。
そういうときでも、たとえばBloombergを使えば、世界中の株価が、リアルタイムでわかる。
しかもどれも、詳細なグラフ付き。

 この先、ネットの世界はさらに進化する。
無限というか、そこには限界がない。
が、私が常々、不思議に思うことがひとつある。
たとえばYOUTUBE。

私は週に、10~15本のビデオをUPLOADしている。
が、どれだけUPLOADしても、制限なし。
期限なし。
現在、3300本近いビデオをUPLOADしているが、そういった情報は、どのような形で、どこへ蓄積されていくのだろう。

 膨大な情報量とは思うが、それが不思議でならない。
つまりこの世界は、底なし(?)。

●選択と淘汰

 が、情報量が多い分だけ、その一方で「選択」の問題がある。
へたをすれば、私たちは情報の洪水の中で溺れてしまう。
そこで必要な情報だけを取りあげ、それ以外は捨てる。
それをしないと、あっという間に、わけがわからなくなってしまう。

 たとえば私のこのメインのパソコンには、「お気に入り」がズラリと登録されている。
その数、500~1000。
フォルダーに格納してあるのもあるから、実際にはもっと多いかもしれない。

 そこで私はそのつど、使わなくなったサイトを削除する。
しかしその一方で、興味のあるサイトを、どんどん登録していく。
こうしてサイト、つまり情報源が淘汰されていく。

 もっとも利用者はそれでよいかもしれない。
しかし情報を提供する側は、そうではない。
淘汰されるということは、「消える」ことを意味する。
そこで提供する側は、より良質の情報を提供しようとする。
それが先に書いた、「質の向上」につながる。

 利用者は選択する。
そのつど提供者は、淘汰されていく。
選択と淘汰。
現在、それがネットの世界では、目まぐるしく繰り返されている。

●私のばあい

 私も、ほかのネットユーザーと同じように、ネットの利用者でもあり、同時に情報の提供者でもある。
利用者である部分については、大きな問題はない。

しかし提供者である部分については、そうではない。
「淘汰」という問題がある。
「淘汰される」ということは、先にも書いたように「消える」ことを意味する。
たとえば電子マガジン。

 今年の夏、10年近く利用させてもらった、Eマガ社が閉鎖された。
ひとつのマガジン社が消えるということは、(この世界では、本当に跡形もなく消えてしまうが……)、それまでに蓄積された原稿そのものが消えることを意味する。
これは私にとっては、恐怖以外の何ものでもない。

 そこで私は原稿の救出をしたが、その作業だけで、1か月もかかった。
が、それだけではない。

 たとえば私は、ホームページにしても、メインにしているサイトから、10~15本のサイトに枝分かれさせている。
それぞれが独立している。
その10~15本のサイトにしても、アクセス数がふえていくのもあれば、減っていくのもある。

 最近急速にアクセス数がふえているのが、YOUTUBEを紹介している「BW公開教室」。
これは現在、毎日1000~1500件もある。
「最前線の子育て論byはやし浩司」も、ほぼ同じ。

その一方で、1年前には、毎日500~1000件近いアクセスがあった「音楽と私」は、このところ100件前後で低迷している。

 情報を提供する側としては、アクセス数が多いサイトにどうしても「力」が入る。
そうでないのには、そうでない。
「音楽と私」は、このところ更新するのも、おっくうになってきている。
つまりこうして私自身が、情報を淘汰していく。

●この先

 この先もネットの世界は、どんどんと変化していく。
「ついていくだけで、たいへん」と書きたいが、このところ、そういうことはあまり考えない。
「どうすれば、私の書いたものを、私の死後も残せるか」と。
そんなふうに考えることが多くなった。
というのも、「変化」というのは、まさにエンドレス。
命には限界がある。

 エンドレスvs限界。

 エンドレスなものと闘っても意味はない。
負けるに決まっている。
だったらはじめっから負けを認め、その分のエネルギーを、「限界」のほうに使ったほうがよい。

「どうすれば原稿を残せるか」と。

 「書籍」という方法もあるが、私のばあい、毎月、単行本にして、3~4冊分の原稿を書いている。
そんな原稿を本にしてくれるような出版社は、ない。
また出版したところで、売れないだろう。
いや、それ以上に、あの書籍という世界は、窮屈。
こうして自由にものを書いている今の私を、空を飛ぶカモメにたとえるなら、書籍の世界は、「鳥かご」のようなもの。

 ああでもない、こうでもないという出版社からの注文を聞きながら、自分の思想を、ギュウギュウと本の中に押し込めていく。
だから「鳥かご」。

 本を書くのをやめてから、もう10年近くになる。
こうして自由にものを書くようになってから、もう10年近くになる。
だから私はもう、あの書籍の世界に戻ることはないだろうし、戻れない。

●賭(かけ)

 これは大きな賭(かけ)かもしれない。
実のところ先に書いたYOUTUBEにしても、もしYOUTUBE社が閉鎖ということにでもなったら、万事休す。
バックアップはどこにも保存していない。
仮にバックアップしてあっても、3300本近いビデオ(ほとんどが10~15分編集)を、再UPLOADするのは、時間的にも無理。

 同じように、ホームページの世界は、「金の切れ目が縁の切れ目」。
私が死んだら、それでおしまい。
(メインサイトは、有料サービスを利用している。)
が、フリーのホームページ・サービスを使えば、永遠ということはないにしても、10年単位程度には、そのままそこに残してくれる。

 だから私はあえて、フリーのサービスを利用している。
が、それで安心できるわけではない。
フリーということは、無料ということ。
これもいつ閉鎖されるか、わからない。
閉鎖されても、文句は言えない。

 そこで私はホームページのほうで原稿を保存しながら、同時にBLOGのほうでも原稿を発表している。
現在、7~8社から、同時に発表している。

 たいへんな作業に思う人もいるかもしれない。
しかし原稿は、コピペ(コピー&ペイスト)すればよい。
時間にすれば、毎回5分程度ですむ。

 が、これに文句を言ってきた人がいた。
「同じ原稿を、あちこちで出すな!」と。

 しかしそれは私の勝手。
しかもそれにはちゃんとした理由がある。

 最近はBLOGのサービス会社も安定してきた。
が、草創期にはそうではなかった。
それこそ雨後の竹の子のようにBLOGのサービス会社が生まれ、そして消えていった。
その「消えていく」とき、私の原稿も消えていった。
そういう苦い経験があるから、7~8社となった。

●毎月50万件以上!

 こうしてカウントを取っている分だけでも、毎月50万件以上のアクセスをカウントするようになった。
2年前には、30万件だったから、上昇傾向にあることには、ちがいない。
が、実際には、ハイパーリンクといって、サイトの一部に直接アクセスしてくる人も多い。
そういうアクセスも含めると、もっと多いはず。
あるいはその数倍はあるはず。

 もっともアクセス数が多いからといって、それは「数字」の話。
実感はない。
利益もない。
が、そうであるからこそ、別の楽しさがある。
言うなれば、未知の宇宙を航行するような楽しさ。
私の目の前には、漆黒だが、無限の宇宙が広がっている。
それに向かって進んでいくような楽しさ。

 ひょっとしたら、10年後には、アクセス数が、毎月500万件とか、1000万件になるかもしれない。
それを想像するだけでも楽しい。

 ……ということで、今朝は「ネットの世界」について考えてみた。

 みなさん、おはようございます。
はやし浩司 2011-10-24朝記


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

●八方美人(日韓経済戦争・2011-10-25版)

 今日だけを見ているのではない。
ここ数日、日本の株はさがりっぱなし。
『東京株式午前10時:指数はマイナス転換、値下がり銘柄数は1000超に』(Yahoo経済記事の)の見出し。

 一方、日韓スワップ協定のあと、韓国の株価は上昇に転じ、ウォン安にも歯止めがかかった。
そればかりか、サムスンは、増資増資の大合唱。
何しろ日本政府のお墨付き。
資金調達も楽になった。
「万が一のときは、スワップ協定が起動します」と。
その額、700億ドル。
約6兆円!

 が、もちろん韓国側からは、一言の礼もない。
ないばかりか、またまた竹島(独島)問題。
言いたい放題、やりたい放題。

●戦略なき日本外交

 一方で韓国を助け、その韓国に、日本の産業が叩きのめされている。
が、何も言えない。
何もできない。

 IMFは、つい先月まで、「韓国はここ数か月にデフォルト(債務不履行)に陥る」と警告していた。
だったら、デフォルトさせればよい。
何も日本の首相がノコノコでかけて行ってまで、救済を申し出る必要はなかったはず。
仮に韓国のデフォルトで、日本の金融機関が被害を被れば、日本の金融機関を救済すればよい。

 ウィキーリークスの暴露報道によれば、日本の鳩山内閣が誕生したとき、韓国のイ大統領は、アメリカの国務大臣(クリントン)に、つぎのように打電している。
「鳩山内閣は、自民党内閣とはまったく異質の、北朝鮮側寄りの政府である」と。
「北朝鮮側と、何本もの人脈もある」というようなデタラメまで伝えている。

 こういうのをモマシという。
告げ口という。
たしかに反米色の濃い内閣ではあったが、そこまでの左翼政権ではなかったはず。
つまりこうしてアメリカを日本から離反させ、自らはアメリカの忠実な子分であることを宣言した。
現在の日米関係は、その延長線上にある。

 今まで私は、お人好し外交はやめようと書いてきた。
しかし今、もうひとつ、新しい言葉を思いついた。
日本よ、八方美人は、やめよう、と。
このままでは、本当に日本は沈没してしまう。

 最後にもうひとつ。
オバマ大統領とイ大統領との晩餐会での席でのこと。
何でも日本料理が出たそうだ。
それについて今(10月25日)、韓国では大問題になっている。
フランス料理やドイツ料理には、文句を言わない。
中華料理にも文句を言わない。
日本料理にだけ、文句を言う。

 料理をごちそうになる立場であっても、日本料理が出たことに腹を立てる。
韓国という国は、この44年間、何も変わっていない。


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司


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