2012年8月6日月曜日

Preah Vhear

【夏の夜の、大ロマン】2012年の夏

●偶然

点と点がつながる。
1本の線が浮かびあがる。
が、線だけでは、意味をもたない。
そこには「偶然」という壁が立ちはだかる。
今回も、一連のこうした原稿を書き始めただけで、「偶然」という言葉を、何10回も聞いた。
私の息子たちですら、その言葉を口にした。

 が、点と点が、さらにつながっていく。
さらに多くの線が現れ、そこに、形が現れる。
最初はおぼろげな姿だが、やがてだれにも、「それ」とわかる形が現れる。
同時に、「偶然」という言葉が、「もしかしたら……」という気持ちに変わる。

●確信

 私たちには、確信があった。
みなが言うUFOなるものを、目撃している。
あのUFOだけは、見た人でないと、信じない。
一方、見た人は、その日から人生観そのものが、変わる。

 先日、九州まで会いに行った男性もそうだった。
それまでは、UFOの「ユ」の字も信じていなかった。
UFOの話をする人は、変わり者と考えていた。
頭のおかしな人だけが、UFOを信じていると思っていた。
だれがどのように話をしても、UFOを信じなかった。
「信ずる」ことは、それまでの自分を否定することになる。

 が、自分で見たとたん、その男性は、「信ずる」という範囲を超えた。
確信するまでもない。
その男性は「見た」のだ。

●正体

 私が見たUFOについても、そうだ。
それが今、こうして原稿を書く、原動力となっている。
けっして他人の話を信じているからではない。
またその程度の「確信」では、ここまで書けない。
気力がつづかない。

 私は、ワイフとあの夜見たものの、正体を知りたい。
あれが何であったのか、それを知りたい。
死ぬまでに、どうしてもそれを知りたい。
残り、15年……。
平均余命年齢まで生きられるとして、15年。
……という思いが、私の気力を、底からつきあげる。

●検証

 かつて、そして今も、宇宙を自由に航行している人たちがいる。
それを宇宙人と呼ぶなら、宇宙人は、確実にいる。
その宇宙人が、私たちの文明を築いた……というのは、想像だが、しかしその可能性は高い。
その証拠は、ほぼそろった。

 そこであとは、それを検証していく。
が、今回もそうだが、検証すればするほど、謎は深まる。
同時に、その答は向こうからやってくる。
「事実」というのは、そういうもの。
どんな謎にも、ちゃんとした理由がある。

●三叉の大燭台

 先ほど何気なく本を読んでいたら、「三叉の大燭台」という言葉が目に留まった。
名前だけは以前から、知っていた。
ナスカの地上絵の近くで発見された図形である。

 が、その本の中でも、「謎」という言葉が、いくつか使ってあった。
で、最後には、考古学者たちのお決まりの意味のない説明。

 ……私は、その写真を見て、すぐわかった。
「標識」と。
そこで調べ出すと、数分もたたないうちに、解答が見つかった。
やはり標識だった。

●場所を示す記号

 そこまでわかると、今度は、模様の意味まで、おぼろげながらわかるようになる。
その標識を書いた人物の視点の中に、こっそりと入り込めばよい。
たとえば方向を示す「矢印」を描いたら、あなたなら、つぎに何を書くだろうか。

 そう、距離と行き先名。
もっとも、宇宙を航行する人たちにとっては、距離など、あまり意味はない。
ひょっとしたら、時速数千キロ、あるいは数万キロまで、一気に加速することができる。
(私とワイフが目撃したUFOにしても、そうだった。
あっという間に、加速し、空の闇の中に溶け込むようにして消えていった。)

 となると、「地名」ということになる。
あるいは「場所を示す記号」ということになる。

●広がる事実

 三叉の大燭台は、下の直線を左に進めば、あのマチュミチュの天空都市に着く。
あとの2本は、ナスカの大十字架と、アンコールワット。
3本の柱になっているのは、左から、マチュピチュ、ナスカ、そしてアンコールワットを意味する。

 上のほうに図形が描いてある。
その図形と地名を結びつければ、それを書いた人たちが使っていた文字さえ解読できるかもしれない。
……というように、(推理)は、つぎつぎと広がっていく。

 なおこれについて、あのような(いいかげんな絵)では、方向は定まらないという批判が届いた。

 が、一見粗雑に見える絵だが、実は、精密に方向をとらえる方法が隠されていた。
それを示したのが、下の図である。
つまり調べれば調べるほど、そうした謎が隠されていたことを知る。

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●仮定

 その一方で、大胆な仮定も生まれる。
たとえば、こんな仮定。

 以上の事実からだけでも、(1)イースター島、(2)ナスカの地上絵、(3)アンコール・ワット、(4)エジプトのピラミッド、(5)メキシコのテオティワカンは、同時期に、「活動」していたということが、仮説として成り立つ。

 言い換えると、どれかひとつでも時代(年代)が特定できれば、ほかの残りもすべて、芋づる式に特定できる。
で、ここで重要なことは、過去の考古学者の意見ほど、いいかげんで、あてにならないものはないということ。
こじつけだけは、懸命にする。
しかし王道から、はずれている。

 たとえばイースター島。
モアイでよく名を知られている。
で、あのモアイは、「墓」だったそうだ。
モアイの下から、人骨が多く見つかったからだという。

 が、発想そのものが逆。
私なら、こう考える。
「後の人たちが、墓に利用しただけ」と。

 どこのバカが、あんな巨大な墓など、作るものか!

●『ピラミッド、5000年の嘘』

 同じように、ピラミッドについても言える。
「~~王」の名前のつくピラミッドは、多い。
しかしそういた王が作ったピラミッドもあるだろうが、(規模も小さく、建設途中で崩落したり、ギブアップしたものがほとんどだが)、たいていはもとからあったピラミッドを墓として利用しただけ。
権威づけのためである。

 映画『ピラミッド、5000年の嘘』は、まさにそこを突いた。
が、それで終わっては、はやし浩司が泣く。
……ということで、今回の原稿を、夢中になって書いた。

●証拠集め

 物理学者が、理論の段階で、素粒子の存在を予測したように、同じように、私はつぎのことを予測する。

(1) イースター島、(2)ナスカの地上絵、(3)アンコール・ワット、(4)エジプトのピラミッド、(5)メキシコのテオティワカンは、同時期に、「活動」していた、と。

 私の立場では、「活動していた」に決まっている。
が、少し奥ゆかしく、「していた」と書く。
あとは、その証拠集めだけをていねいにすればよい。
で、この中で、もっとも取っ組みやすい相手といえば、(5)のテオティワカンということになる。
テオティワカンにあるピラミッド(太陽のピラミッド)の側面は、東西南北ではなく、まっすぐイースター島の方向を指している。
(側面の直線を延長すれば、ドンピシャ、イースタ島に当たる。)

●年代特定
 
 まず、つぎの5つの遺跡の年代を調べてみる。

(1)イースター島
(2)ナスカの地上絵
(3)アンコール・ワット
(4)エジプトのピラミッド
(5)メキシコのテオティワカン

 ウィキペディア百科事典に出てくる数字を並べてみる。

(1)イースター島……「最初の移民がだどり着いたのは4世紀~5世紀頃だとされている」
(2)ナスカの地上絵……「これらの結果から、時期的には、先行するパラカス文化の終わる紀元前200年から紀元後800年のナスカ文化の時代に描かれたものだと、ほぼ確定されている」
(3)アンコール・ワット……アンコール・ワット遺跡についての記述は多いが、7段式ピラミッドについては、ほとんど記録なし。
(4)ピラミッド……「三大ピラミッド(さんだいピラミッド)とは、エジプト、ギザの砂漠にある3基のピラミッドの総称。被葬者は、古代エジプトのファラオであるクフ王、カフラー王、メンカウラー王とされる」
「エジプト第4王朝(紀元前2613年頃 - 紀元前2494年頃)は、エジプト古王国時代の古代エジプト王朝。古代エジプト文明を代表する建造物であるギザの大ピラミッドを建設した王朝であり、そのピラミッドを建設した王としてクフ王、カフラー王、メンカウラー王の名は広く知られている」
(5)メキシコのテオティワカン……「メキシコシティ北東約50キロの地点にあり、紀元前2世紀から6世紀まで存在した、テオティワカン文明の中心となった巨大な宗教都市遺跡」

 一読してわかるように、点と線でつながっている古代文明の時期が、バラバラ。
いちばん古い年号をもってくると、「クフ王の紀元前2650年前後」ということになる。

 つまりそのときに、エジプトのピラミッドがあったとするなら、他の4つの地域も「活動」していたことになる。
が、ここに書かれたとおりの年代順ということになると、こうなる。

 まずエジプトのギザに、ピラミッドが建設された。
それが紀元前2500年ごろ。
今から4500年ほど前。
そのあとイースター島が「活動」を始めた。
そのあと、ギザとイースター島を結ぶ線の直下に、ナスカの地上絵が描かれた。
それが、紀元前200年ごろ。
アンコール・ワットとテオティワカンのピラミッドが建設されたのは、そのあとということになる。

●謎の繰り返し

 が、ここでまた謎が降り出しに戻ってしまう。

 私が気になるのは、テオティワカンと、ギザ、ウル(シューメル文明)、西安(黄河文明)が、メルカートル地図の上では、一直線に並ぶこと(既知事実)。
エジプト、メソポタミア、黄河文明が、同時に勢ぞろいする。
エジプト文明のほうが、若いと言われている。

私は、シュメールのアッシリア物語(旧約聖書の母体となった物語、洪水の話なども酷似している)と、黄河の黄帝につづく、帝王たちの治世の計算により、紀元前3500年という数字を、はじき出している。

「黄帝(こうてい)は神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年~紀元前2448年)」(ウィキペディア百科事典)とある。

 この五帝のうち、尭、舜、禹の、帝禹の時代に、中国でも大洪水が発生している。
(というか、もともとこれらの帝王というのは、シュメールの神々と同一人物ではなかったかと私は思っている。
が、それについては、また別の機会に書いてみたい。)

 こうしたことから、宇宙を自由に航行する人たちは、紀元前3000年ごろには、すでに「活動」を始めていたと考えられる。
ナスカの地上絵が描かれたころや、テオティワカンの文明が栄えた、紀元前200年ごろというのは、ありえない。

 いわんやイースター島に、住民が移り住んできたころには、イースター島の使命は、すでに終わっていた。

●つづく点と線

 ともあれ、点と線はまだまだつづく。
すべてを線でつなげるわけではない。
が、今日もたまたま、三叉の大燭台という点が、3つの点と線でつながった。
三叉の大燭台もまた、ナスカの地上絵があったころ、またマチュ・ピチュの天空都市が「活動」していたころ、描かれた。

 言い換えると、三叉の大燭台も、ナスカの地上絵も、マチュ・ピチュの天空都市も、それぞれ別の文明をもつ人間によって、描かれたり、作られたものではない。
いくら近いといっても、三叉の大燭台とナスカの地上絵までは、160キロ近くも離れている。
マチュ・ピチュまでは、約480キロ。
「ともに連絡を取りあう」ような文明ではなかった。
つまりそうした距離を、まったく問題としない人たちによって、こうした世界は、総合的に支配されていた。

●新たなる謎解き

 もう一度、ナスカ(大十字架)と、アンコール・ワットの位置関係に着目する。
つぎの表が、それである。

img650

アンコール・ワットピラミッド頂点 E 103度51分21・97秒
N  13度25分25・62秒
(1)
三叉の大燭台 W  76度18分31・24秒
S  13度47分39・19秒
(2)
ナスカ(大十字架の交点) W  75度10分32・25秒
S  14度42分40・39秒
(3)
三叉の大燭台の正・反極点
(計算上の地点) W 103度41分28・76秒
S  13度47分39・19秒
(4)
ナスカの正・反極点
(計算上の地点) E 104度59分27・25秒
N  14度42分40・31秒
(5)



img650

img651
(ナスカの反極点が、アンコールワットの近郊。三叉の大燭台の反極点が、アンコールワットであることを示す。
その間の距離は、たがいに、190キロと160キロ。
地球が完全な球形でないことを考慮するなら、これは許容誤差の範囲内にあるといえる。)

●ナスカ(大十字架)の反極点

 この中で、(5)のナスカの反極点だけは、位置がわかっていない。
そこで調べてみる。
が、以外とその位置(?)は、簡単に見つかった。
その経度と緯度あたりをさぐってみたら、山の上に残る「世界遺産」を発見することができた。

 プレアー・ビヒール(プレア・ヴィヘア)・テンプル(Preah Vhear Temple)というのが、それ。
東経……104度40分48・55
北緯…… 14度23分33・72

 ナスカ(大十字架)の反極点(地球の反対側)である、
東経……104度59分27・25秒
北緯…… 14度42分40・31秒と、たいへん近い。
 
 しばしプレアー・ビヒール・テンプルの写真に見入る。
カンボジア政府監修の観光ビデオが見つかった。
いきなりティワコナ遺跡(ボリビア)に残る、の太陽の門を思わせる門が出てきたのには、驚いた。



 一見して、「この寺しかないだろうな」と思う。
これは私の勘。

順に写真を並べてみる。

preah_vihear-764877
(「天空の城・ラピュタ」のモデルになったという。)

phrea_32

preah-vihear-temple_W8yBz_3868

Vihear石組み
(石組みの仕方に着目。インカ帝国のそれに似ている?)

20091109_3331843
(石の門に着目。ボリビアのティワコナ遺跡にも「太陽の門」というのが、ある。)

foto33
(これはボリビアのティワコナ遺跡の「太陽の門」。)

左(ビヒール)、右(マチュピチュ)
(左が、ビヒールにある門。右がティワコナ遺跡の「太陽の門」。)

 この寺院が、計算上、ナスカの大十字架の反極点あたりにあると考えてよい。
ナスカ平原の大十字架は、縦横10(縦10キロ、横9・5キロ)キロ近くにわたって広がっている。

●ロマン

 こうして私のロマンは、新たなる世界へと広がっていく。
今度は、カンボジア。
今まで知らなかった世界。
そこにそんな寺院があることさえ知らなかった。

 もちろん
だからといって、ここがナスカの反極点というわけではない。
ナスカと関連性があるというのでもない。
あくまでも「近い」というだけ。
これからは、ここを拠点として、周囲の古代遺跡に目を向けてみる。
新たなる旅立ち……ということになる。
2012/08/06記

(参考)左が(ヴィヒア)、右が(ボリビア・ティワコナ遺跡)

比較10
(ビヒア……約460メートル)

比較1

比較3

比較4

比較6


Hiroshi Hayashi+++++++Aug. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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