2010年7月10日土曜日

*What is "Me"?

●「私」の中の私(私論)「私とは何か?」
What is "Me", myself?

++++++++++++++++++++

「私」というのは、言うなれば、タマネギの
ようなもの。
無数の皮を巻いた、タマネギのようなもの。
みなは、その「皮」を、「私」と思い込んでいる。
「これが私」と。
しかし皮は皮。
ただの「皮」。
名誉、地位、財産、世間体、さらに性格、人格、
性質、すべてが「皮」。
その皮をめくっていたら、最後には、何も残らない。
わかりやすく言えば、「私」と言えるものは、
それくらい小さく、少ない。

++++++++++++++++++++++

●操られる「私」

 最近の大脳生理学によれば、こうらしい。
つまり生命の根源と言われるものは、どうやら脳の中心部にある視床下部あたりから、
パルス信号のようにして、発せられているらしい。
そのパルス信号が、脳全体を機能させる。
が、もしその信号が弱ければ、生命力そのものが弱くなる。
強ければ、強くなる。

 フロイトが説いた「性的エネルギー」も、ユングが説いた「生的エネルギー」も、
こうして一連のつながりをもって説明できる。
で、その生命力をコントロールするのが、「理性」ということになる。
が、それを司っているのが、前頭連合野ということになる。
細部はともかくも、大筋ではまちがっていない。

●前意識の世界

 さらに……。
私たちが「私の意思」と思っている部分についても、最近の研究によれば、
実は脳の別の部分で、前もって作られているということまでわかってきた。
(意識)の下に(前意識)がある。
つまり私たちが意識できない部分で、前もって「意識の意識」が作られる。
その「意識の意識」が意識できる部分にまであがってきて、そこで「意識」として
意識される。

 たとえばあなたが台所へ行って、水を飲みたいと思ったとする。
あなたは自分の意思でそう考えて、行動していると思っているかもしれない。
しかし実際には、(のどが渇いた)→(水を飲んで来い)という意識は、それよりも
先に、無意識の世界で作られる。
それ以前に、のどの渇きを視床下部のセンサーが感知する。
空腹感でもよい。
それがある一定の限度を超えたとき、無意識の世界で、「意識」が作られる。
「水が飲みたい」と。
そしてそれがその人のつぎの行動を、決定する。
 
 わかりやすく言えば、私たちが「私の意思」と思っている意識にしても、
そのほとんどが、脳の内部で、勝手に作られているだけ。
「勝手に」だ!
そう考えて、ほぼまちがいない。

●生的エネルギー

 もっともわかりやすい意識に、たとえば「性欲」がある。
わかりやすいから、あえて説明するまでもない。
つまりそれがあるから、人間は種族を後世に残すことができる。

 「性的エネルギー」イコール、「生的エネルギー」。
「生的エネルギー」イコール、「性的エネルギー」。
人間にかぎらず、あらゆる生物について、なぜここに生きているかといえば、
種族を後世に残ることに集約される。

 もろもろの人間が見せる行為は、すべてそのバリエーションに過ぎない。
女性が化粧やファッションに夢中になるのも、男性がスポーツに夢中になるのも、
すべてそのバリエーションに過ぎない。
私たちはそのバリエーションの中で、操られているだけ。
……というのは、言い過ぎかもしれない。
しかしそう考えると、私たちは自分の「意思」の実態を正確にとらえることができる。

●理性の力 

 もし「私」があるとするなら、「私」の中から、私を操るエネルギーを取り除いたもの
ということになる。
そのひとつのヒントが、「人格」ということになる。
(心理学的というよりは、たぶんに文学的なとらえかただが……。)

 人格……つまりその人の人格は、人格論(EQ論)によって説明される。
いかに利他的であるか、いかに共鳴性があるか(サロベイ)、など。
それには当然、性格的な一貫性、情緒の安定性なども含まれる。
さらに道徳論の立場から、視野の広さ、公平性なども含まれる(マズロー)。

 つまりこれがタマネギの「芯」の部分ということになる。
そしてそれこそが、まさに「私」ということになる。

●真・善・美

 が、「私」の追求はむずかしい。
それ自体を追求しようとしても、第一、得体がつかめない。
もともと得体の知れないものだから、当然、そうなる。
そこで古今の哲学者たちは、こぞって、「真・善・美」の追求をあげた。
その結果として、もっと正確には、副次的に、「私」を追求する。

 偉大な科学者、偉大な宗教家、あるいは偉大な芸術家には、神々しいほどまでの
「人格」を感ずる。
その人格が、その人の「私」ということになる。
(ただしスポーツマンには、私は最近疑問を感ずるようになってきた。
日本の相撲界が、その一例ということになる。)

 つまり「私」を知るということは、それほどまでにむずかしいということ。
その前の段階として、「私」を創りあげるのは、それほどまでにむずかしいということ。
私(はやし浩司)も含めて、「これが私」と思っている部分は、タマネギの皮の、
その表面的な部分に過ぎない。

だから北海道の「私」も、沖縄の「私」も、みな、同じ。
同じようなことをしている。
日本の「私」も、アメリカの「私」も、みな、同じ。
同じようなことをしている。
スズメはスズメ、カラスはカラス。
それぞれちがった行動をしているが、全体としてみると、ある一定のワクの中で、
蠢(うごめ)いているだけ。

 それを抜け出たところに、「私」がある。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 私論 私とは タマネギの皮 「私」論)


Hiroshi Hayashi+++++++July. 2010++++++はやし浩司

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。