【ローソクの残り火】はやし浩司 2012-06-01
(年中4歳児に、形と図形を教える)(はやし浩司 2012ー05-31)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
昼間は見えない。
明るい日差しのもと。
ローソクの灯も、小さな炎。
が、夜になると、その炎が、薄闇の中で、やさしく燃える。
ゆらゆらと、あたりを照らし、ついで、私の過去を照らす。
ローソクの残り火。
人生の残り火。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●孤独
死ぬことは、恐怖でも何でもない。
一瞬の眠りが、そのまま永遠の眠りになる。
すでに何度か、模擬体験をしている。
が、そこに至る孤独が怖い。
徐々に蝕(むしば)まれていく、肉体と心。
その先は、暗闇に包まれた袋小路。
じっと耐える。
闇の中で、静かに目を閉じ、孤独に耐える。
けっして癒されることのない、底なしの孤独。
●モノ
先日、オーストラリアの友人が、私の家に来てくれた。
銀製の飾り物をくれた。
が、私にはモノへの執着心が、すでにほとんどない。
うれしいというより、どうしたらいいか。
それを先に考えてしまう。
事実、私の家からは、モノがどんどんと消えている。
縁のあった人や、子ども(生徒)たちに、分け与えている。
旅行先で買ったみやげものや、記念品。
昔から実家にあった、骨董品や壺。
コレクションで集めた飛行機や、船の模型、などなど。
ビーズで作ったネックレスも、一時は、何十個もあった。
が、今は、1~2個を残すのみ。
置物や掛け軸は、たいはんが、消えた。
古い切手は、ほとんどを使ってしまった。
古銭も、今では、ただの賞品。
がんばった子どもに、賞品として、与えている。
だから当然のことながら、ここ4~5年、モノは買っていない。
必要なモノ以外は、買っていない。
で、ワイフがときどき聞く。
「あなたは何がほしいの?」と。
私はすかさず、こう答える。
「思い出かな……」と。
が、これでは答にならない。
そのあと、「健康」「仕事」……と、答える。
●どう死ぬか
どう生きるか。
が、もっと考えるのは、どう死ぬか。
生きるのもたいへん。
死ぬのもたいへん。
宇宙から見れば、点にもならない小さな空間。
そこで私は生きてきた。
生きている。
が、つぎの瞬間には、煙のように消える。
が、ただの煙にはなりたくない。
この世に「はやし浩司」が生きたという証(あかし)を残したい。
その証が、つぎの世代の人たちの、1歩とまではいかないにしても、半歩でも役にたてばよい。
が、それとてぜいたくな話。
で、考える。
どう死ぬか。
●愚かな人vs賢い人
が、
ないものねだりほど、老後をみじめにするものはない。
……ということが、おぼろげながら、わかり始めた。
大切なことは、そこにあるものに、感謝する。
これは私のワイフが教えてくれた。
が、その感謝がむずかしい。
愚かな人は、それを失って、その価値を知る。
賢い人は、それを失う前に、その価値を知る。
が、問題は、どうすれば、その賢い人になれるか。
それが「感謝」ということになる。
これについても、たびたび書いてきた。
原稿をさがしてみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【老齢期の統合性】
●生きる価値
賢い人は、失う前に、その価値を知り、愚かな人は、失ってから、あわてて、その価値を知る。
わかりやすい例では、健康がある。
健康のときは、健康の価値というのがなかなかわからない。
病気になったり、けがをしたりしたときに、その価値がわかる。
同じように、仕事がある。
仕事をしているときは、仕事をしていることに価値というのが、なかなかわからない。
「早く休みになればいい」とか、「できるだけ楽をしたい」とか、考える。
しかしその仕事がなくなると、とたんに心の中に、ポッカリと穴があいたような状態になる。
それがわからなければ、その反対の状態を想像してみればよい。
もしあなたがこう言われたとしたら、あなたは、どう思うだろうか。
「あなたはもう、何もしなくていい。
あなたの役目は終わった。あなたには用はない」と。
あなたはそれを喜ぶことができるだろうか。
「長い休暇を手にした」と、喜ぶことができるだろうか。
答は、NO!、のはず。
人間の価値は、他者とのかかわりの中で、決まる。
同時に、生きる価値も、他者とのかかわりの中で、決まる。
いわんや、死を待つだけの人生に、いくら健康であっても、あなたは、それに耐えることができるだろうか。
私の知人にこんな老人がいる。
55歳で定年退職してからというもの、優雅な(?)年金生活。一日とて、働いたことがない。
間に、数年ほど、地区の補導委員のようなことはしたことがある。
が、それだけ。
近所のゴミ拾いすら、したことがない。
家の裏に70~80坪ほどの畑をもっているが、まさに庭いじり三昧(ざんまい)。
健康なときは、朝から夕まで、その庭で遊んでいた。
が、このところ健康が、思わしくなくなってきた。
年齢は85歳を超えているのではないか。肥満も重なった。歩くのもままならない。
ときどき、妻に支えられて、庭の中を行ったり来たりしている。
つまりその老人は、定年退職と同時に、死んだも同然という状態になった。
一見、うらやましいような老後生活に見えるが、しかしそんな生活を、だれも、理想的とは思わない。
その老人は、30年という年月を、1年、あるいは1か月にして過ごしているだけ。
(少し、言いすぎかな?)
私も、ある時期、教材づくりに没頭したことがある。
それなりに楽しかった。
お金にもなった。
しかし今、振り返ってみると、そこに何もないことを知る。
反対に、だれかに利用されただけという思いだけが、今になって、後悔の念ばかりが、胸をふさぐ。
つまり仕事といっても、中身の問題もある。
そういうことはあるが、「時間を無駄にした」という思いは、年齢とともに、ボディブロウのように、ジワジワと体に響く。
●我ら、ヤング・オールド・マン!
さあ、私は心に決めた。
もうすぐ満60歳になるが、その日を、私の満30歳の誕生日とする。
その日を境に、私はもう一度、がむしゃらに働く。その日からではない。
今日、今のこの瞬間から、がむしゃらに働く。
どうしてこの私が、老人臭く生きなければならないのか。
老人臭くならなければならないのか。老人らしく生きなければならないのか。
私は自分がすべきことをやる。
(とりあえずは、書きたいことを書く。)
だれのためでもない。
私のためだ。私自身の命のためだ。
「統合性」という言葉がある。
私のエッセーでも、たびたび取りあげてきた。
その統合性というのは、(自分のすべきこと)と、(自分のしていること)を一致させることをいう。(自分のすべきこと)というのは、ほとんどのばあい、(自分のしたいこと)ではない。
それはたとえて言うなら、寒い夜に、ジョギングにでかけるようなもの。
だれだって、コタツの中にうずくまっていたい。
楽をしたい。しかしそれでは、自分の健康を維持することはできない。
統合性についても、同じ。
「したくないから、しない」というのでは、もとから統合性など、望むべくもない。
そうの統合性の確立させる。
それが老後を心豊かに生きる、秘訣ということになる。
ただしそれには条件がある。
統合性を確立するためには、無私無欲でなければならないということ。
打算や功利が混ざり込んだとたん、統合性は、そのまま霧散する。
(結果として、それが利益につがったとしても、それはあくまでも、結果。目的であってはいけない。)
それにこの統合性は、一朝一夕に確立できるようなものではない。
「人生の正午」と呼ばれる、満40歳前後から、その準備に入らなければならない。
「定年退職をした。さあ、統合性を確立しよう!」と考えても、遅いということ。
よい例がボランティア活動。その基礎づくりは、40歳でも遅すぎる。
30歳でも遅すぎる。10代、20代のころからはじめて、その人の基礎になる。
【統合性、チェック・テスト】
(1) 毎朝、起きると、すぐ、すべきことが、あるか?
(2) 毎朝、起きると、すぐ、何かをし始めるか?
(3) 毎日、したいこと、すべきことが、はっきりとしているか?
(4) 毎晩、眠る前に、その日の充実感を覚えるか?
(5) 毎晩、眠る前に、明日の計画が、思い浮かぶか?
これらのテストで、5項目とも当てはまれば、統合性の確立した人ということになる。
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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●感謝
こうして元気なことに感謝する。
ものが見える。
ものが聞こえる。
ものを考えられる。
それに感謝する。
すべてはここから始まる。
命がないことを嘆くのではない。
今まで生きてきたことに感謝する。
そう言えば、釈迦も同じことを教えている。
それが今朝の結論ということになる。
過去に書いた原稿を2作、添付します。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●ふつうこそ最善
ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。
賢明な人はその価値をなくす前に気づき、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。
健康しかり、家族しかり、そして子どものよさもまたしかり。
私は三人の息子のうち、二人をあやうく海でなくしかけたことがある。
とくに二男が助かったのは奇跡中の奇跡。
そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの二人とは変わってしまった。
二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでいい」と思いなおすようになった。
たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登校を繰り返した。
中学二年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。
しかしそのつど、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。
子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。
「下(欠点など)を見ろ」というのではない。
「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するから不思議である。
またそれで解決しない問題はない。
……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。
その男性(五〇歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小便をすることができるようになった。
そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたいうのだ。
私は幸運にも、生まれてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。
ないが、その人のそのときの気持ちがよく理解できる。
いや、最近になってこんなふうに考えることがある。
私はこの三〇年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。
ひどい雨の日以外は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。
しかし三〇年もしていると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。
たとえば今、同年齢の多くの友人たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。
しかし私はそうした成人病とは無縁だ。
そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。
「ああ、運動をつづけてよかった」と。
その喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通したものではないか。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●それ以上、何を望むか
法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。
あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言う。
「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。
どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。
それに答えて釈迦はこう言う。
「明日のないことを嘆くな。
今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
これまで多くの親たちが、こう言った。
「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。
そういう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。
「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではないか。
それ以上、何を望むのか」と。
子育てはたいへんだ。こんな報告もある。
東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。
そしてその大半が何らかの形で虐待しているという。
「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。
七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、それ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。
言いかえると楽な子育てというのは、そもそもない。
またそういう前提で考えるほうが正しい。
いや、中には子どものできがよく、「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめて稀だ。
……と書きながら、一方で、私はこう思う。
もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつまらないものであったか、と。
人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子どもは私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。
たとえば子どものほしそうなものを手に入れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。
もちろん悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてくれた。
もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。
その証拠に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのような感じがする。
あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。
今でもいろいろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。
「お前たちのおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。
……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。
今まで楽しかったことだけを考えて、前に進めばよい。
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司
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