Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【6月23日・土曜日】山荘にて
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
「もう本は書かない」と思っていた。
「本より、ネット」と。
そう思っていた。
が、書くことにした。
その本の原稿が、今日、ほぼ完成した。
この月曜日に書き始めたから、6日間で書いたことになる。
出版社への売り込みはこれから。
しかし長年の勘というか、「この本は出る」と思う。
「出る」というのは、書店に並ぶという意味。
若いころには、1年間で、10冊の本を出したことがある。
ただし誤解がないように。
私は自費出版なるものは、したことがない。
私にとっては、自費出版は、屈辱以外の何ものでもない。
昨夜、ワイフに、「原稿はできたよ」と言うと、ワイフでさえ、驚いていた。
6日間というのは、私にとっても、最短記録。
明日から推敲に入る。
が、山登りにたとえるなら、下り坂。
家の建築にたとえるなら、内装工事。
あとは楽。
「あさってからはつぎの本を書くよ」と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●64歳の生きがい
恩師の田丸謙二先生は、80歳を過ぎてから、本を出版している。
80歳だぞ!
そういう(事実)が、私を勇気づける。
「先生ができるなら、ぼくにもできるはず」と。
……このところ、何をしても、落ち目。
負け戦(いくさ)。
それで本を書く気になった。
人間というのは、怠惰な生物。
崖から落とされないと、空を飛ばない。
崖から落とされてはじめて、翼(つばさ)をもっていたことを知る。
言い換えると、安逸な生活からは、何も生まれない。
平凡は美徳だが、平凡な人生からは、ドラマは生まれない。
が、同時に、私は感謝している。
何に対して……というのではない。
こうして前向きに、生き甲斐をもって文章が書けることに感謝している。
またそれができることに感謝している。
今回も、本を書く気になったら、6日間で、それができた。
そういう自分がうれしい。
それに感謝している。
●山荘にて
ワイフは、先ほど、「12時には寝ようね」と言った。
素直に、私は同意した。
が、今は、まだ10時。
2時間、ある。
2時間も、ある。
で、この文章を書き始めた。
2時間もあれば、20ページは書ける。
単行本だと、120~150ページで1冊の本になる。
そう考えれば、6日で、1冊の本を書くのは、それほどたいへんなことではない。
もちろん内容にもよる。
目下、出版業界は、大不況。
それなりにインパクトのある本でないと、出版社がつかない。
で、月曜日に、企画書を、T社という出版社に送った。
このところT社の本を買うことが多い。
販売力がある。
それでT社にした。
すぐ「検討させてください」という返事が届いた。
今は、そういうやり取りが、ネットを介して、即日にできる。
仕事のテンポが、20年前、30年前とは、比較にならないほど速い。
以前は、見本原稿を10~20作、プリントアウトし、あちこちの出版社に原稿を送った。
こうしたやりとりだけで、数週間はかかった。
●盗作
私が元気そうだと、ワイフも、うれしそう。
そうでないと、そうでない。
それがよくわかる。
「出版が決まったら、また温泉に行こうね」と声をかけると、うれしそうに笑った。
もし出版が決まれば、10年ぶりの本ということになる。
先週までは、「原稿は無料で……」と考えていた。
しかし盗作、盗用、無断転載の多いのには、驚いた。
先月は、1000枚(40字x36行)近くが、あるサイトに、無断転載されていた。
「はやし浩司」の名前は、すべて削ってあった。
同時に、あたかも本人が書いたかのように、体裁を整えていた。
こういうことがつづくと、まじめにものを書いている自分が、阿呆に見えてくる。
馬鹿ではなく、「阿呆」。
お人好しの阿呆。
善人になる必要はない。……私は善人ではない。
悪人でもないが、しかし悪人の餌になってはいけない。
その悪人が多すぎる。
一方、私は、いまだかつて、(当然のことだが)、他人の文章を流用したり、あたかも自分の文章のように偽ったことはない。
これを「盗作」という。
私は無名のもの書きだが、そんな私でも常に、自分にこう言い聞かせている。
「盗作したら、おしまい」と。
……若いころ、Kという日本を代表する作家と交流させてもらった。
たくさんの著作物を残した。
が、その作家は、N県に住む無名の作家の原稿を買い取り、それに自分の名前を載せ、本にした。
それがその作家の死後、発覚した。
原稿を売った作家が、名乗り出た。
以後、そのKという作家は、文壇の世界から、消えた。
この世界では、「盗作」というのは、それを言う。
●挑戦
私「今さら、有名になりたいとは思わない。なってもしかたないし……」
ワ「じゃあ、なぜ本を書いたの?」
私「自分への挑戦みたいなものかな……。このところ脳みその老化を強く感ずる。気力も弱くなってきた」
ワ「まだ、あなたは若いわよ」
私「そうかなア……。でもまだ10年くらいは、がんばれるような気がする」
ワ「そうよ。がんばれるわよ」と。
2、3日、運動をさぼると、とたんに体がだるくなる。
動きが鈍くなる。
で、昨日、薬局で、栄養ドリンク剤を買ってきた。
たてつづけに、2本飲んだ。
それがきいた。
テレビのコマーシャルに出てくる男性のように、元気になった(?)。
「ファイト!」という、あれである。
「あんなものは、効果がないよ」と言う人もいる。
しかし私にはきいた。
それで今夜も、この山荘へ来る前、ドラグストアに寄り、ドリンク剤を3本、買った。
「アリナミン・ゼロ7」と、瓶の表には、そう書いてある。
「7種類の有効成分が入っている」ということらしい。
●旅館の米
……ということで、今夜は気分がよい。
少しだが、昨日、ある出版社から原稿料が振り込まれた。
予定していなかっただけに、うれしかった。
即座に、「xx日に、温泉へ行こうか?」と私。
……と書いたところで、「待った!」。
今夜もここへ来る途中、KE苑というラーメン屋に寄った。
全国規模のチェーン店を展開している。
その店で「ここでは、どこの米を使っていますか」と聞くと、店長がテーブルまでやってきた。
一枚のプリントアウトされた紙を、私に見せた。
それには、「栃木米と山形米のブレンド米」と書いてあった。
ともに、東北産。
どうして?
2週間ほど前、浜名湖周辺のホテルや旅館に電話をかけ、調べた。
どこの米を使っているか、それを知りたかった。
結果、どこも東北産の米を使っていた。
この静岡県で、東北産?
ファーストフードの、「すきや」では、鳥取米を使っていると教えてくれた。
そういうことなら、話もわかる。
が、どうしてどこも、東北産?
このことを先日、タクシーの運転手に話すと、運転手はこう言った。
「ワシなんかさあ、3食とも、外食だよ。今さら、……遅すぎるよ」と。
つまりもう手遅れ、と。
……ということで、今月は、温泉巡りは、2度だけ。
「お金が入ったら、温泉」という話は、あまりしない。
●相談
たった今、マガジン読者の方から、相談が入った。
返事を書いた。
「相談内容を掲載してよろしいですか?」という一文も添えた。
明日の朝までに許可がもらえれば、掲載する。
許可がもらえなければ、回答の部分だけ、掲載する。
【はやし浩司より、NGさんへ】
(掲載許可が届かなかったので、回答の部分のみ。6月24日、朝記)
NG様へ
こんばんは。
NGさんは、すでに自分の過去を冷静に分析しています。
こうした問題は、過去を冷静に見ることができれば、半分は解決したことになります。
あとは時間がかかります。
10年単位の時間です。
ただし一度傷ついた心は、もとには戻りません。
つまりもうもとに戻ろうとは思わないこと。
仲よくつきあうことです。
だれにも、ひとつやふたつ、大きな傷(トラウマ)があります。
私にもあります。
で、私のばあいも、もう闘うのをやめました。
受け入れたのです。
ぼくは、どうしようもない人間、とです。
あとは、そういう自分と知った上で、それに合った生活を組み立てていきます。
たとえば私は、この年齢になっても、夜がこわくてなりません。
ひとりで寝るのがこわいです。
だからいつもワイフといっしょに、寝ます。
ワイフは、もうあきらめていますが、そういう私と知った上で、つきあってくれます。
NG様も、自分を責めてはいけません。
あなたはあなた。
みな、平然としていますが、傷のない人はいません。
またあなたが経験した程度の苦しみや悲しみは、乗り越えられるものです。
今は、お母様の介護で、たいへんでしょうが、この時期も、振り返ってみると、あっという間に終わります。
なお「自己愛的」ということですが、一方で完璧主義になっていないか、注意してみてください。
世の中、いいかげんなものです。
今のあなたには、許せないかもしれませんが、そういうものです。
もし怒りを感じたら、文章なり、絵画なりに、それをぶつけてみたらいいですよ。
私はいつも、書きまくることによって、怒りを燃焼させています。
何か、そういう方法があるといいですね。
何か、ありませんか。
あなたはすばらしい経験をしています。
すばらしい青春時代を過ごしています。
ほかの人が見ることができない世界を見てきています。
そういった自分に自信をもちなさい。
それがあなたの灯台ですよ。
あなたの人生の、あなたの足元を照らしている。
あとはその光に沿って、前に進めばいいです。
ぼくも、さみしい。
あなたもさみしい。
みんな、さみしい。
けっして、自分だけがと思わないこと。
追い詰めないこと。
40歳?
うらやましいほど、若いですよ。
私はもうすぐ65歳になります。
が、負けてはおれない。
ということで、この6日間で、一冊の本を書き上げました。
来週から出版社との交渉に入ります。
40歳、すばらしい年齢ですよ。
エリクソン(ユングだったかな?)が説いた、まさに人生の正午。
どうか今というすばらしい時を見失わないように!
賢人は、それを失う前に、その価値を知ります。
愚人は、それを失ってから、その価値を知ります。
どうか賢人であってください。
なおたぶん、だめだと思いますが、いただいたメールを明日のBLOGに載せていいですか?
もちろん内容(固有名詞など)は、すべて改変し、NG様とはぜったいにわからないようにします。
いかがでしょうか。
同じような悩みを抱えている人は、多いと思います。
みなの力になると思います。
最後に、あのマザーテレサは、こう書いています。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【生き様論】「己こそ、己のよるべ」
(はやし浩司 2012-01-01夜記)
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年賀状を1枚、1枚、読む。
読みながら、こう思う。
「若いころは気づかなかったが、みな、それぞれの思いをもち、
年賀状を書いているのだなあ」と。
思いといっても、いろいろある。
平たく言えば、「こだわり」。
ことさら幸福であることを演出してみせる人、
虚勢を張る人、
有意義な人生を送っていることを自慢する人、
活躍ぶりを書いてくる人、などなど。
人はそれぞれ何かの負い目をもって生きている。
そういった負い目が、そのまま年賀状に表れる。
それが悪いというのではない。
人、それぞれ。
かく書く私だって、年賀状の中に、自分の負い目を織り込む。
子どものころからお金(マネー)に苦労した人は、
立派なビルを建てたことを、誇らしげに書いてくる。
家族に恵まれなかった人は、多人数の家族に囲まれた
写真のある年賀状を送ってくる。
その点、生徒がくれる年賀状には、イヤミがない。
ありのままを、そのまま書いてくる。
自分を飾らない。
おとなのような、腹芸を使わない。
では、私は、どうなのか?
これは年賀状をどうとらえるかによっても決まるが、
私は子どものころから、「年賀状というのは、それを
読んでくれる人を楽しませるもの」と考えていた。
だから毎年、趣向をこらし、あれこれと工夫した。
最近は、もっぱら読んでくれる人にとって、役立つことを
書くようにしている。
今年は、漢方で説く、五臓六腑論を図示したものを載せた。
が、このやり方が正しいというわけではない。
「年賀状は、人と人の絆(きずな)を深めるもの」と説く人もいる。
そういう人たちは、たがいに消息を知らせることで、
絆を深めている(?)。
要するに書き方も、人それぞれなら、解釈の仕方も、
人それぞれということ。
ただ最近の私は、年賀状をもらいながら、こう考える。
表面的な文言ではなく、また写真でもなく、「この人は
この年賀状で、みなに、何を伝えたいのか?」と。
そういう視点で見ると、中にはイヤミな年賀状もあるにはある。
こちらが聞きたくもないような話を、あえて年賀状の中に
織り込んでくる。
そういうときは、こう思う。
「ならば、どうして年賀状など、送ってくるのか?」と。
もちろん99・9%の年賀状は、もらってうれしい。
知りあいが元気でやっているのを知るのは、楽しいというより、
それによって、ほっとした安堵感を覚える。
ともすれば狭くなりがちな世界に、空間を与えてくれる。
過去という時間を与えてくれる。
ともかくも、人はそれぞれの負い目を抱きながら、生きている。
年賀状には、それがストレートに表れる。
年賀状を、そういう目で見るのも、また楽しい。
では、また硬い話を……。
平均余命まで、残り、15年を切った。
つまらないことを書き、時間を無駄にするのは、やめた。
+++++++++++++++++++++++++
【己こそ、己のよるべ論】
●ジョン・レノン
ジョン・レノンは、つぎのように言っている。
★You make your own dream. That's the Beatles' story, isn't it? That's
Yoko's story . That's what I'm saying now. Produce your own dream. If you
want to save Peru, go save Peru. It's quite possible to do anything, but not
to put it on the leaders and the parking meters. Don't expect Jimmy Carter
or Ronald Reagan or John Lennon or Yoko Ono or Bob Dylan or Jesus Christ to
come and do it for you. You have to do it yourself. That's what the great
masters and mistresses have been saying ever since time began. They can
point the way, leave signposts and little instructions in various books that
are now called holy and worshipped for the cover of the book and not for
what it says, but the instructions are all there for all to see, have always
been and always will be. There's nothing new under the sun. All the roads
lead to Rome. And people cannot provide it for you. I can't wake you up. You
can wake you up. I can't cure you. You can cure you.
……John Lennon, In Music/John Lennon
君は、自分の夢を作るよね。それはビートルズの物語だよね。それはヨーコの物語だよ。そのことを今、ぼくは言っているよ。君自身の夢を生み出しなよ。ペルーを救いたかったら、ペルーへ行って、救えばいい。何だってできるよ。しかしね、それをどこかのリーダーに任せたり、パーキングメーターに任せちゃ、だめだよ。
ジミー・カーターや、ロナルド・レーガンや、ジョン・レノンや、ヨーコ・オノや、ボブ・ディラン、あるいはイエス・キリストが、君のためにやってきて、君のためにするなんて、期待しちゃ、だめだよ。自分でしなければ、いけないよ。
それは、この世が始まってからというもの、偉大な人たちが、みんな言っていることだよ。彼らはみな、いろいろな本の中で、道を示して、道しるべを立て、少しのやり方を示すことはできるよ。本の表紙を飾るために、神聖なとか、いろいろ書いてはあるけどね。しかしそのやり方というのは、そこにあるんだ。今までもあったし、これからも、ね。
太陽の下には、何も新しいものはないよ。すべての道はローマにつづくよ。だれも、君のためにはしてくれないよ。ぼくだって、君を起こすことはできない。癒(いや)すことはできない。君だけが、それをできるよ。
(ジョン・レノン・「In Music」の中で)
●仏教では
ついでに言えば、釈迦だって、何もできない。
あなたに道を示すことはできても、あなたを助けることはできない。
いくらあなたが一心不乱に祈ったとしても、だ。
釈迦は、こう言っている。
『己こそ、己のよるべ』(法句経)と。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれ(誰)によるべぞ』(法句経)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●中日新聞に掲載記事より
法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれによるべぞ』というのがある。
法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。
(「原始」という言葉は、後の仏教学者たちが、(さげすむ目的)で使った。
北伝仏教を、「大乗仏教」と呼ぶのも、そのひとつ。
「自分たちの仏教こそが本物」という理由で、「原始」という言葉を使い、「大乗」という言葉を使った。
「原始」という言葉に、誤った先入観をもってはいけない。)
釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。
その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。
つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。
この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。
自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。
つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。
好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。
子育ての基本は、この「自由」にある。
子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。
が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。
先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。
私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。
このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。
その不信感が姿を変えて、過干渉となる。
大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。
ある母親は今の夫といやいや結婚した。
だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。
次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。
あるいは自分で行動させない。
いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。
「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。
子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。
俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。
さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。
自分と子どもの間に垣根がない。
自分イコール、子どもというような考え方をする。
ある母親はこう言った。
「子ども同士が喧嘩をしているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動にかられます」と。
また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。
警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。
たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。
己のことは己によらせる。
一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
法句経については、
何度も書いてきた。
以下の原稿は、2002年7月に書いたもの。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【家庭内宗教戦争】
福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。
いわく「妻が、新興宗教のT仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。
長い手紙だった。その手紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。
●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。
●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫してしまう。
●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれていなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。
●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やしている。
布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。
●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけで、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。
●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」と、逆にやり返される。
今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。
たいていは夫が知らないうちに妻がどこかの教団に入信するというケース。
最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超えると、急に、おおっぴらに信仰するようになる。
そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信するか、それとも離婚するか」という状況に追い込まれる。
こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラになった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。
すでにその前からバラバラ、つまり危機的な状況であったということ。
それに気がつかなかったのは、夫だけということになる。
よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗教がある。
とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自分の勢力を伸ばす。
しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈迦、つまりゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べている。
『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。
生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダのやり方ではない。
ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与えた。
死の臨終に際しても、こう言っている。
「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたもって、実践し、盛んにしなさい。
それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。
そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。
また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。
事実、「あとの書かれた経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。
たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。
そしてそれぞれが宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそが、唯一絶対である」と主張している。
それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということは別にして、しかしその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、そのうちのひとつであるということは常識。
中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威・故人)も、「原始仏典を読む」の中で、「原典批判研究を行っている諸学者の間では、異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いている。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。
この一節は、その法句経の一節である。
私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。
●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使っていない。
いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。
●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」
と教えるところが多い。
しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。
(だからといって、仏の心に甘えてはいけないが……。)
そういう仏が、自分が批判されたとか、あるいは自分から離れたからといって、バチなど与えない。
とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、気にしない。
大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と言われて、怒るだろうか。
バチなど与えるだろうか。
ものごとは常識で考えたらよい。
●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心のドアを閉ざす。
「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」という視点で、夫
婦のあり方をもう一度、反省してみる。
時間はかかるが、夫の妻に対する愛情こそが、妻の目をさまさせる唯一の方法である。
ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻三二頁)と言っている。
友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教えあい、助けあい、そして全幅の心を開いて迎えあう関係をいう。
夫婦で宗教戦争をするということ自体、その時点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。
繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。
すでにその前から、危機的状況にあったとみる。
ただこういうことだけは言える。
この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。
あるいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。
そういう人でも、つぎの鉄則だけは守ってほしい。
(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。
(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。
(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んでからにしてほしいということ。読んで、決して、損はない。
(02-7-24)
【注】
法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。
話し言葉のままと言ってもよい。
もともと吟詠する目的で書かれた文章である。
それが法句経の特徴でもあるが、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解できる内容だという(中村元氏)。
しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。
仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。
寺の僧侶が読む経典にしても、ほとんどの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。
肝心の中国人が聞いてもわからないのだからどうしようもない。
さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとんどいない。
いるわけがない。
(サンスクリット語の当て字によるものというのが、その理由である。
たとえば、サンスクリット語では、「ナム」=「帰依する」、「ミョウホウ」=「不思議な」、「レンゲ」=「因果な物語」を、それぞれ意味する。
それぞれに漢語(中国語)の漢字を当てた。
だから「南無妙法蓮華」は、「不思議な因果な物語」という意味になる。
南無も、妙法も、蓮華も、すべて当て字。)
そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇の前で、僧侶がうやうやしく読みあげる。
そしてそれを聞いた人は、意味もなくありがたがる……。
日本の仏教のおかしさは、すべてこの一点に集約される。
それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年からそれ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。
中村元氏は、生前、何かの本で、「大乗非仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏教は、釈迦の説いた本来の仏教ではない)を唱えていたが、それが世界の常識。
こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、この日本ということになる。
たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いてあるが、来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。
むしろ法句経の中には、釈迦が来世を否定しているようなところさえある。
法句経の中の一節を紹介しよう。
『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※
来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。
そういう意味では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。
「チベット密教そのもの」と主張する学者もいる。
チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治したりする。
護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。
みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇でバチバチと護摩をたいているところを見たことがあると思う。
あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、仏教の儀式ではない。
釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を否定すらしている。
『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。
外のものによって、完全な清浄を得たいと願っても、それによっては清らかな心とはならない。
バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻169ページ)と。
仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過去論 前世論 未来論 来世論 はやし浩司 仏教論 日本の仏教 法句教 ダンニパダ ゴータマ・ブッダ はやし浩司 木片を焼いて バラモン はやし浩司 中村元 中村 元 原始仏教 北伝仏教 大乗仏教 はやし浩司 パーリ原本協会)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
2003年6月、今から9年ほど前に
こんなことを書いていた。
宗教とは何か。
それについて書いた原稿である。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●未来と過去
未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。
ある心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。
しかしこれには、当然、個人差がある。
70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。
反対に、40歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。
もちろんどちらがよいとか、悪いとかいうのではない。
ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。
が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。
それはほとんど毎日、幼児や小学生と接しているためではないか。
そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、ない。
が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、私の生きザマが、それにかかわってくる。
私にとって大切なのは、「今」。
10年後、あるいは20年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」という程度のことでしかない。
ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。
しかし釈迦の経典※をいくら読んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。
イエス・キリストも、天国の話はしたが、前世論や来世論とは、異質のものだ。
(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。
日本に入ってきた仏教典のほとんどは、釈迦滅後4、500年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミックスされてできた経典である。
とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)
今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。
あるいは「あればもうけもの」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。
本当のところはよくわからないが、私には見たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。
本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなものを、神や仏が、相手にするわけがない。
少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手にしない。
どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。
大きな正義を貫く勇気も、度胸もない。
小市民的で、スケールも貧弱。
仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づけないだろう。
だからよけいに未来には、夢を託さない。
与えられた「今」を、徹底的に生きる。
それしかない。
それに老後は、そこまできている。
いや、老人になるのがこわいのではない。
体力や気力が弱くなることが、こわい。
そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。
個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむようになったら、おしまいということ。
あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉にぶらさがるようになったら、おしまいということ。
そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。
そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進することこそ、大切だ」と教えている。
しかも「死ぬまで」と。
わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。
そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私もそう思う。
人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。
過去ではない。未来でもない。「今」を、だ。
1年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。
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【前向きの人生、うしろ向きの人生】
●うしろ向きに生きる女性
毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。
偉そうなことは言えない。
しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。
しかしできるなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。
自信はないが、そうしたい。
自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)がいた。
その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だった。
くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を5人ほど雇うほどまでになった。
が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸前にまで追い込まれた。
(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってから二年後に他界している。)
それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をしていた。
が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。
その人には、私と同年代の娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。
「母は、異常なまでにケチになりました」と。
たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出したという。
「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。
値段も、2000円とか3000円とかいうような、安いものです」と。
●人生は航海のようなもの
人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。
つぎからつぎへと、大波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。
波があることが悪いのではない。
波がなければないで、退屈してしまう。
船が止まってもいけない。
航海していて一番こわいのは、方向がわからなくなること。
同じところをぐるぐる回ること。
もし人生がその繰り返しだったら、生きている意味はない。
死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。
私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。
雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。
唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がいる。
しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。
いくら釣りがうまくなっても、いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しても、それがどうだというのか。
そういう人は、まさに死んだも同然。
しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。
昨年、私はある会で講演をさせてもらったが、その会を主宰している女性が、八〇歳を過ぎた女性だった。
乳幼児の医療費の無料化運動を推し進めている女性だった。
私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚いた。
「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。
「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばらしい女性も、少ないが、いるにはいる。
のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。
しかしそういう航海からは、ドラマは生まれない。
人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。
そしてそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。
人生の大波小波は、できれば少ないほうがよい。
そんなことはだれにもわかっている。
しかしそれ以上に大切なのは、その波を越えて生きる前向きな姿勢だ。
その姿勢が、その人を輝かせる。
●神の矛盾
冒頭の話にもどる。
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向きになる。
そこで信仰論ということになるが……。
人は何かの救いを求めて、信仰する。
信仰があるから、人は信仰するのではない。
あくまでも信仰を求める人がいるから、信仰がある。
よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなければ、神など生まれなかった。
もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって説明するのだろうか。
これは私が若いころからもっていた疑問でもある。
人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。
ひょっとしたら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。
しかし嘆くことはない。
そのあと、また別の生物が進化して、この地上を支配することになる。
たとえば昆虫が進化して、昆虫人間になるということも考えられる。
その可能性はきわめて大きい。
となると、その昆虫人間の神は、今、どこにいるのかということになる。
反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。
隕石の衝突が恐竜の絶滅をもたらしたという。
となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。
そのときの恐竜には神はいなかったのかということになる。
数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数十万年など、マバタキのようなものだ。
お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。
しかし数十万円では、パソコン一台しか買えない。
数億年と数十万年の違いは大きい。
モーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年~6000年ほど前のこと。
たったの6000年である。
それ以前の数十万年の間、私たちがいう神はいったい、どこで、何をしていたというのか。
……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているのではない。
この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多い。
だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。
そしてその論理に従って、人間を創ったのかもしれない。
そういう意味もふくめて、ここに書いたのは、あくまでも私の疑問ということにしておく。
●ふんばるところに生きる価値がある
つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。
(だからといって、神や仏を否定しているのではない。念のため。)
仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こすようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするものではない。
ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。
キリスト教のことはよくわからないが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは……。
生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどうかを決めるのは、私たち自身である。
仏や神の意思ではない。
またそのふんばるからこそ、そこに人間の生きる尊さや価値がある。
ドラマもそこから生まれる。
が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。
毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その一人と言ってもよい。
同じようなことは子どもたちの世界でも、よく経験する。
たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもがいる。
そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。
いわんや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが……)、さらに困る。
もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら不合格で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
●私の意見への反論
……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。
「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。
そう言ったのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(75歳くらい)だった。
が、何も私は、そういう女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。
またその女性に向かって、「そういう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。
その女性の生きザマは生きザマとして、尊重してあげねばならない。
この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言ってはならない。
まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずすようなもの。
ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。
何らかのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないことと言ってもよい。
が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。
どうすれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。
そしてどうすれば、うしろ向きに生きなくてすむかということ。
●今、どうしたらよいのか?
少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまいと思っている。
そういう人生は敗北だと思っている。
が、いつか私はそういう人生を送ることになるかもしれない。
そうならないという自信はどこにもない。
保証もない。毎日、毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。
私とその女性は、本質的には、それほど違わない。
しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うなら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。
歯をくいしばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇の世界に、吹き飛ばされてしまう。
しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。
生きる価値もそこから生まれる。
もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。
……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。
●老人が気になる年齢
私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく気になる。
電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察する。
先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる目的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考えているのだろう」と。
そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまでわかるようになった。
で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題から逃げようとしているのではないか。
その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと考えている人も多い。
中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。
クシャクシャになったオートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。
人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。
愚かになるだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでしまうこともある。
私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。
しかしふと油断すると、いつの間か自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。
それは実に甘美な世界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。
何も考えなければ、それだけ人生も楽?
●前向きに生きるのは、たいへん
前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。
それは体の健康と同じで、日々に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。
ゴータマ・ブッダは、それを「精進(しょうじん)」という言葉を使って表現した。
精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始める。
そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。
つまりいつも前向きに進んでこそ、その人はその人でありつづけるということになる。
改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(以上、2003年06月13日記)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●自分の力で生きる
生きることは、孤独なこと。
自由に生きようと思えば思うほど、
またひとりで生きようと思えば思うほど、
孤独。
が、孤独を恐れてはいけない。
孤独であるのが、当たり前。
最後にマザーテレサの言葉をあげる。
あのイエス・キリストも孤独だった、と。
マザーテレサは、そう説いている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●孤独は、無間の地獄
孤独とは、究極の地獄と考えてよい。
イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。この中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。
When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the
hunger for bread and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus
himself experienced this loneliness. He came amongst his own and his own
received him not, and it hurt him then and it has kept on hurting him. The
same hunger, the same loneliness, the same having no one to be accepted by
and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger.
キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物としてのパンを求める空腹を意味したのではなかった。
彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。
(終わりに一言)
マザー・テレサのこの言葉には、本当に勇気づけられる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 孤独論 マザーテレサ hunger 渇き イエスキリスト はやし浩司 マザーテレサ キリ
ストも孤独だった イエス・キリスト 孤独論 はやし浩司 マザー・テレサ)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
NG様へ
みんなで力を合わせて、生きていきましょう。
では
はやし浩司
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●6月24日
今朝は6時に目が覚めた。
さわやかな朝だった。
山荘ではいつもそうだ。
梅雨時でも、湿っぽさの中に、さわやかさを感ずる。
そうそう、昨夜知ったが、今回の台風4号で、入り口にあるコナラの木の枝が折れた。
人間の太ももほどもある、太い枝で、押してもビクとも動かなかった。
今週中に、チェーンソーをもってきて、シイタケの原木を作る。
その枝だけでも、20~30本は、できそう。
こういうのを、「怪我の功名」という。
大辞泉には、こうある。
「過失や災難と思われたことが、思いがけなく好結果をもたらすこと。
また、何げなくしたことが、偶然にも好結果を得ること」と。
「怪我の功名」ね?
「語源由来辞典」(ネット)には、つぎのようにある。
「怪我と書くのは、当て字。
……本来は過失を意味し、その過失から生まれる失敗(けが)を含むようになった。
……語源は未詳であるが、『けがる』『けがれる』が語源かと思われる」と。
どうして怪我を「怪我」というか、今朝、その意味をはじめて知った。
と、同時に、これからは「ケガ」もしくは、「けが」と書くことにした。
当て字は、できるだけ避けるようにしている。
●朝雲
山間(やまあい)の谷では、小綬鶏(コジュケイ)が、鳴いている。
♪チョットコイ、チョットコイ……と。
空は曇り、その向こうに、まだらになった薄い青空が見える。
台風5号が近づいているということだから、断言はできないが、昼前にはこの雲も晴れるはず。
私は勝手に「朝雲」と呼んでいる。
夜明け前後に山間を覆う雲のことをいう。
大地のぬくもりが残っているとき、冷たい風が上空を覆うと、朝雲が発生する。
こういう朝は、小綬鶏の声が、シンと胸に響く。
もうすぐホトトギスも鳴きだすはず。
♪トーキョートッキョ、キョカキョクと鳴く。
……が、この曇天では、どうかな?
●帰り支度
ワイフは、まだ眠っている。
時刻は、午前7時、ちょうど。
私は帰り支度を始める。
今日は原稿の推敲で、忙しい。
それにPippi(ぼたんインコ)に会いたい。
人間の子どもにたとえるなら、もう自立期に入ったらしい。
勝手に部屋から部屋へと飛び回っている。
用がないときは、私たちには見向きもしない。
名前を呼んでも、近くへ来ない。
が、そのくせ、何かこわいことがあると、サーッと私のシャツの中に入ってくる。
先日、大雨が降ったときもそうだった。
で、そのときこんなことがあった。
シャツの中にいたPippiが、突然、モゾモゾと動き出した。
あちこちを動き回った。
肩から胸へ、胸から腹へ……。
何ごとかと思って見ていると、外へ出てきた。
出てきたところで、糞をした。
で、その糞が終わると、またシャツの中へ。
一目散にシャツの中へ。
その様子が、便をしたくて焦る人間の姿に、よく似ていた。
私は糞をティッシュペーパーで拭きながら、笑った。
Pippiは、本当に楽しい。
……ということで、今朝は、ここまで。
35枚程度の原稿になった。
この2倍もあれば、1冊の本になる。
分量的には、そうなる。
来週は、別の本に挑戦してみる。
2012/06/24記
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【NGさんより、はやし浩司へ】
●今日(2012年6月23日夕)、NGさんより、返事が届いた。
+++++++++++++++++++
はやし浩司先生
こんにちは。今日は蒸し暑いお天気ですね!
私からの一方的な長々としたメールに対して、早々に丁寧なメールの返信を頂き、恐縮しております。
先生からのメールを読んでみて、傷ついた心についてはもう、皆同じような傷を一つや二つ持っている
ものだと思い、仲良くつきあうことにしようと思いました。
そして、今までつまらない青春時代を送ってしまったと思っていましたが、先生の
>あなたはすばらしい経験をしています。
>すばらしい青春時代を過ごしています。
>ほかの人が見ることができない世界を見てきています。
>そういった自分に自信をもちなさい。
>それがあなたの灯台ですよ。
>あなたの人生の、あなたの足元を照らしている。
>あとはその光に沿って、前に進めばいいです。
の言葉に涙が出ました。まるで父親からかけられた言葉のように思いました。
そして、結婚については、ゆっくり焦らず、お釈迦様の教えをよく考えて、そういう人に巡り会えたらしようと思います。
> ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻三二頁)と言っている。
>友というのは、いたわりあい、なぐさめあい、教えあい、助けあい、そして全幅の心を開いて迎えあう関係をいう。
そして、自らを灯火とし、今が一番の正念場と思い、正しく舵を取り、自信を持ってこれからの残りの人生を日々一日一日を
懸命に生きて行こうと思いました。
私のメールですが明日のBLOGに載せて頂いて構いません。むしろ取り上げて頂いて有難く思います。
(先生のBLOGのアドレス教えて頂けますでしょうか?)
それでは、みんなで力を合わせて生きて参りましょう。
先生のご健康とご活躍をお祈りしております。
ありがとうございました。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●NGさんからのメール(掲載許可をいただけましたので、紹介させてもらいます。)
【 年 齢 】:40 歳
【 性 別 】:女性
はやし浩司先生へ
はじめまして、私40才のS県在住の女性、NGと申します。
私は現在うつ病(統合失調質人格障害)を患っており、精神科にかかっております。
が、なぜこんな病気になってしまったのかと、その原因が何かとずっと悩んでいます。
それで、先生がギャングエイジに関してHPに書いておられることを知り、ギャングエイジで失敗をした経験がずっと心から離れないので、ぜひ先生にお話を聞いて頂き、解決の糸口を見つけたいと思い、メールさせて頂きました。
私の経歴を以下に記します。
6ヶ月……新興住宅街に父が家を建てたため引っ越してくる。
近くの幼稚園が数が足りず、入れなかったため、親たちが作った幼稚園(地元の神社の境内にあった)に通う。
親しい友達は近所の男の子と、転入生の女の子2人だけだった。
小2年……ギャングエイジで親しい女友達と男友達と性的な仲間集めの遊びをしていたのだが、学校の帰りの会で、皆の前で立たされ、叱られ、その恥ずかしさのあまり、それまで活発だった性格だったのが、一転、目立たない様に、おとなしくするようになってしまった。
(担任の先生にはギャングエイジについての知識がなかったのか?
この時静かに見守ってもらっていたら、違う人生だったのではないかと思う。)
小3年……クラスのある男の子をいじめてしまい、差別だと言われまた帰りの会で叱られ、また落ち込む。
完全に心を閉ざ すようになってしまう。
小4年……同じ学年の優秀な女の子(幼稚園も一緒だった)に誘われ、キリスト教の教会の日曜学校へ通いだす(数年続く)。
暗唱成句を守る生活をするようになる。
小5年……アイドルブームで周りの女の子が華やかになって行く中で、自分だけついていけないことに悩みだす。
小6年……一度登校拒否のような早退をしたことがあった。
中1年……校則の厳しいマンモス校で、はじめ、友達を作りやっていけるかどうか不安で、泣いたことがあった。
誘ってくれた友人は、私立の御三家の中学へ進学。
クリスマスに久しぶりに教会へ行ったが、彼女が既に洗礼を受けていることを知り、ショックを受け、行かなくなる。
好きな私服が選べなくなる。
親に買って欲しいとも言えなくなる。
中2年……優等生を演じることで必死だった。
中3年……とにかく3年間部活動と受験勉強に明け暮れ、身も心もボロボロになっていたと思う。
高1年……地区で2番めに優秀な進学校へ入学。
部活と勉強に必死。
独りで繁華街をさまよい買い物依存症が始まる。
高3年……受験勉強のため塾通いを始める。
帰りは夜10時。
大1年……中学1年の時に好きだった男子の通う大学の近くのN大英文学科に入学したが、サークルには入らず、勉強が辛い毎日。
夜は歯科助手のアルバイト。
帰りは10 時。
大2年……姉が結婚して家を出る。
父が脳梗塞で左側軽い半身不随になると同時に退職。
お酒を辞めない。
母がだんだんヒステリーになっていく。
姉を失った悲しさから1年間泣き通し。
好きだった男の子とデートに行くも、帰り家まで送ってもらえず、都内の駅でそのまま別れ、失恋したと思い込む。
勉強が大変で、そちらばかりに打ち込む。
他大から来た老教授に見出される。
大3年……辞書学研究会に入れてもらう。
英語での論文に悩む様になる。
老教授からセクハラを受けるが、何も言えず我慢する。
女子大育ちの女性教授との板ばさみになる。
大4年……出身中学へ教育実習へ行った後、胃を壊し、以来35歳まで胃腸科通いが始まる。
(この時精神科受診していれ ば良かったと今後悔している)
就職活動の要領がわからず、老教授の勧めもあり大学院進学を決める。
院1年……ほとんど授業に着いていけない辛い毎日。
院2年……途中、老教授の計画に組み入れられ英国留学。
日本人の人たちとの人間関係に悩み、好きでもない男性
から結婚を迫られ、ノイローゼになり夜眠れなくなり、帰国。
24歳……昼夜逆転の自宅療養生活を1年間続ける。
25歳……女子大の女性教授の世話でT大の言語学関係の研究室でアルバイトを始めるが、辛い毎日。
科学研究費の裏金工作をさせられる。
28歳……我慢できず大学のアルバイトを3年半で辞める。
29歳……パソコン教室に通いだす。
30歳……眠れなくなり初めて精神科受診。
自己愛神経症の診断。
父他界。
生命保険会社で営業職を始めるも3ヶ月で辞める。
31歳……父他界の数年前から母が認知症に……自宅療養兼介護。
32歳……自宅療養と介護。
34歳……派遣契約社員としてIT企業のコールセンターで働くも年下の男性が好きになり、結婚したいと言ったら、結婚とは唐突ですねと言われショックで薬を大量服用し、胃腸科に入院。
退職。
年内にまた2度大量服用し、年が 明けて精神病
院に入院(7ヶ月)。
うつ病(回避性人格 障害)の診断。
母は母の友人(クリスチャン)の経営するグループホームに入居。
35歳……退院し、実家に一人で戻って来る。
母の友人(クリスチャン)に再び教会へ連れて行かれる。
36歳……自宅療養。
37歳……エビリファイという薬と出会い、体調が改善し、近所のスーパーの清掃員のアルバイトを始める。
統合失調質人格障害と診断される。
38歳……初めて男性と付き合う。
39歳……ブログを始める。
40歳 現在に至る。
教会の牧師から、52歳の男性との結婚を勧められているが、気が進まないのです。
もともと自分が行きたくて行き始めた教会ではないし、信仰も子どもの頃はあったような気がするが十字架の意味は未だ分からないです。
最近、信じているのかよく分からないのに、信仰告白してしまいました。
もう40歳、誰も結婚してくれる年齢ではありません。
思春期のつまづきにより辛いことだらけだったが、妥協して好きでもない男性と結婚するのが良いのか、もうこのまま一生独身で居るか、迷っています。
実家で一人が一番気楽ですが、経済的な不安があります。
なぜこんな病気になってしまったのか、原因が何にあったのか、知りたいです。
長々と申し訳ありません。
先生のご意見をお伺いしたいです。
ギャングエイジを失敗させられたことを今から訴えることは出来ますか?
だれが先生に知らせたか未だに分かりません。
藁をもすがる思いです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
S県NGより
2012/06/24記
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司
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