●ザワザワとした不安感(6月26日朝記)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
昨夜床に就いてから、あちこちのニュースサイトをのぞく。
Bloombergm、ロイター、MSN……。
とたんザワザワとした不安感?
得体の知れない不安感?
「このまま世界は、どうなるのだろう……」と。
欧州不安は、今や、世界中に拡大しつつある。
インド、ブラジルからも、資金の引き上げが始まっている。
予想はされていたこととはいえ、実際に始まると、「この先は……?」と、どうしても考えてしまう。
わかりやすく言えば、世界中が、札の印刷合戦をした。
「我も、我も……」と、札を市中へばらまいた。
日本にいるとその実感は薄い。
が、世界中が今、バブル経済状態にある。
そのバブルが、はじけ始めた?
が、それにしても、この不況感はどこから来るのか?
今、市中を歩いても、どこも元気がない。
飲食店や販売店は言うに及ばず、ふと足下の商店街をながめると、どこもシャッターを下ろしたまま。
こんな状況であるにもかかわらず、消費税はあがり、札は紙くず化する。
本来なら、強固な政府が、国民を先導しなければならない。
が、この体(てい)たらく!
与党は目下、内ゲバ状態(6月25日現在)。
消費税UPに賛成なわけではないが、今ごろ消費税をあげても、焼け石に水。
どうしようもない。
その前に、どうして行政改革をしないのか?
無駄な公共事業をやめないのか?
借金に借金を重ね、道路ばかり立派にしても、しかたない。
それを話すと、ワイフはこう言った。
「若いときなら、5年くらいなら穴にこもることもできるわ。
経済の回復を待てばいい。
でも、私たちの年齢になると、それができないわね」と。
5年も待ったら、私も70歳。
再起不能。
だったら「今」にしがみつくしかない。
この緊迫感。
この悲壮感。
そう言えば、G県で理容業を営んでいる友人(65歳)も、こう話していた。
「もう店を閉めようかと思っている」と。
が、閉めたら最後、未来が消える。
で、先ほど、個人商店の景況概況を調べてみた。
が、カメラ店、メガネ店、文具店……どれも10%~30%の落ち込み。
自転車屋も悪い。
群馬県T市の調査結果をみると、従業員1~2人の零細商店ほど、落ち込みがはげしい。
大手販売店の安売り競争が激しさをます中、小売店が、どんどんと廃業に追い込まれている。
つまりこの日本は、足下から、総崩れ。
ガタガタ。
そこで若い人たちは、公務員を目ざす。
「公務員になれば、安泰」と。
が、この状況は、5年前、10年前のギリシャそのもの。
その結果が今ということであれば、どうしても悲観的にならざるをえない。
……そう言えば、そのギリシャ。
緊縮案賛成派が政権を握ったが、握ったとたん「緊縮案の実行を2年、延期してほしい」と。
つまり「公務員の削減を2年、延期してほしい」と。
だったら、「賛成派」というのは、おかしい。
「拒否派」と同じ。
あの「やりなおし選挙は何だったのか」と。
そういうことになる。
だからということもあり、ドイツのメルケル首相が、態度を硬化させた。
「こんなことを繰り返していたら、モラル・ハザードが起きる」と。
(すでに起きているが……。)
はっきり言えば、右も左も、メチャメチャ。
この日本もメチャメチャ。
数日前、ある経済評論家は、こう書いていた。
「これ以上、EUに深入りするな」と。
が、日本はすでに深入りしすぎている。
銀行株、証券株の値動きは、EUの動向にそのまま直結している。
それがその証拠。
「どうなるんだろう……?」と考えたところで、思考停止。
昨夜は、睡眠導入剤を、そのあと半分割って、のんだ。
「私の知ったことではない」というニヒリズム。
「私ひとりが心配したところで、どうにもならない」という無力感。
それらが混然一体となり、ザワザワとした不安感につながった?
ともあれ、昨夜は昨夜。
今朝は今朝。
やるべきことをやり、前に進むしかない。
(朝食までの目標)
(1)マガジン7月号の準備をする。
(2)BLOGに原稿を載せる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【モンスタママの子育て狂騒】(第3回目)
費用もかえって安いのじゃないかしら?
七五三の祝いを式場で?(失敗危険度★★★)
●費用は一人二万円
テレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でも今では、子どもの七五三の祝いを、ホテルかどこかの式場でする親がいるという。見ると、結婚式の花嫁衣裳のような豪華な着物を着た女の子(六歳ぐらい)が、中央にすわり、これまた結婚式場のように、列席者がその前に並んでいた。費用は一人二万円くらいだそうだ。レポーターが、やや皮肉をこめた言い方で、「(費用が)たいへんでしょう」と声をかけると、その母親はこう言った。「家でするより楽で、費用もかえって安いのじゃないかしら」と。
●ため息をついた私と女房
私と女房は、それを見て、思わずため息をついた。私たちは、結婚式すらしてない。と言うより、できなかった。貯金が一〇万円できたとき、(大卒の初任給がやっと七万円に届くころだったが)、私が今の女房に、「結婚式をしたいか、それとも香港へ行きたいか」と聞くと、女房は、「香港へ行きたい」と。それで私の仕事をかねて、私は女房を香港へ連れていった。それでおしまい。実家からの援助で結婚式をする人も多いが、私のばあい、それも望めなかった。反対に私は毎月の収入の約半分を、実家へ仕送りしていた。
そののち、何度か、ちょうど私が三〇歳になるとき、つぎに四〇歳になるとき、「披露宴だけでも……」という話はあったが、そのつど私の父が死んだり、女房の父が死んだりして、それも流れてしまった。さすが五〇歳になると、もう披露宴の話は消えた。
●「何か、おかしいわ」
その七五三の祝いを見ながら、女房がこう言った。「何か、おかしいわ」と。つづけて私も言った。「おかしい」と。すると女房がまたこう言った。「私なら、あんな祝い、招待されても行かないわ」と。私もそれにうなずいた。いや、それは結婚式ができなかった私たちのひがみのようなものだったかもしれない。しかしおかしいものは、おかしい。
子どもを愛するということ。子どもを大切の思うということ。そのことと、こうした祝いを盛大にするということは、別のことである。こうした祝いをしたからといって、子どもを愛したことにも、大切にしたことにはならない。しないからといって、子どもを粗末にしたことにもならない。むしろこうした祝いは、子どもの心をスポイルする可能性すらある。「自分は大切な人間だ」と思うのは自尊心だが、「他人は自分より劣っている」と思うのは、慢心である。その慢心がつのれば、子どもは自分の姿を見失う。こうした祝いは、子どもに慢心を抱かせる危険性がある。
さらに……。子どもが慢心をもったならもったで、その慢心を維持できればよいが、そうでなければ、結局はその子ども自身が、……? この先は、私の伯母のことを書く。
●中途半端な人生
私の友人の母親は、滋賀の山村で生まれ育った女性だが、気位の高い人だった。自転車屋の夫と結婚したものの、生涯ただの一度もドライバーさえ握ったことがない。店の窓ガラスさえ拭いたことがないという。そういう女性がどうこうというのではない。その人はその人だ。が、問題はなぜその女性がそうであったかということ。その理由の一つが、その女性が育った家庭環境ではないか。その女性は数一〇〇年つづいた庄屋の長女だった。農家の出身だが、子どものころ畑仕事はまったくしなかったという。そういう流れの中で、その女性はそういう女性になった。
●虚栄の世界で
たとえばその女性は、医師の妻やその町のお金持ちの妻としか交際しなかった。娘と息子がいたが、医師の娘が日本舞踊を習い始めたりすると、すぐ自分の娘にも日本舞踊を習わせた。金持ちの娘が琴を学び始めたりすると、すぐ自分の娘にも琴を習わせた。あとは一事が万事。
が、結局はそういう見栄の中で、一番苦しんだのはその女性自身ではなかったのか。たしかにその女性は、親にかわいがられて育ったのだろうが、それが長い目で見てよかったのかどうかということになると、それは疑わしい。結局友人の母親は、自転車屋のおかみさんにもなれず、さりとて上流階級の奥様にもなれず、何とも中途半端なまま、その生涯を終えた。
●子どもはスポイルされるだけ?
話を戻すが、子どものときから「蝶よ、花よ」と育てられれば、子ども自身がスポイルされる。ダメになる。それだけの財力と実力がいつまでもともなえば、それでよいが、そういうことは期待するほうがおかしい。友人の母親のような末路をたどらないとは、だれにも言えない。
で、その女性にはつづきがある。その女性は死ぬまで、家のしきたりにこだわった。五月の節句になると、軒下に花飾りをつけた。そして近所に、甘酒を配ったりした。家計は火の車だったが、それでもそういうしきたりはやめなかった。友人から、「ムダな出費がかかってたいへん」という苦情が届いたこともある。
●子どもというのは皮肉なもの
子どもというのは不思議なものだ。お金や手間をかければかけるほど、ダメになる。ドラ息子化する。親は「親に感謝しているはず」と考えるかもしれないが、実際には逆。
一方、子どもは使えば使うほど、すばらしい子どもになる。苦労がわかる子どもになるから、やさしくもなる。学習面でも伸びる。もともと勉強には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を乗りこえる忍耐力も、そこから生まれる。「子どもを育てる」という面では、そのほうが望ましいことは言うまでもない。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん?
子どもに与えるお金は、一〇〇倍せよ(失敗危険度★★★★)
●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。
●一〇〇倍論
そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこの時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。
●やがてあなたの手に負えなくなる
子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あるいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあなたの手に負えなくなる。
先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲームソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというのだ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがとう」と。
●この話はどこかおかしい
一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労した人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあちゃん」にすぎないのではないのか。
●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だが、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャルにもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太くする。
●モノに固執する国民性
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。
さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんなプレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
一方的にものを言わないでほしい!
視野のせまい親たち(失敗危険度★★)
●摩擦はつきもの
こういう仕事、つまり評論活動をしていると、いつもどこかで摩擦を生ずる。それは評論の宿命のようなものだ。たとえば以前、「離婚家庭で育った子どもは、離婚率が高い」ということを、新聞のコラムに書いたことがある。あくまでもそれはコラムの一部であり、そのコラム自体が離婚問題を考えたものではない。が、その直後から、一〇人近い人からはげしい抗議が届いた。私は何も離婚を批判したのでも、また離婚が悪いと書いたのでもない。ただの統計上の事実を書いた。それに離婚が離婚として問題になるのは、離婚にまつわる家庭騒動であって、離婚そのものではない。この騒動が子どもの心に影響を与える。
が、そういう人たちにはそれがわからない。「離婚家庭でもがんばっている子どもがいる」「離婚者に対する偏見だ」「離婚家庭で育った子どもは幸福になれないということか」など。こうしたコラムを不愉快に思う気持ちはわからないでもないが、どこかピントがズレている。ほかにも似たような事件があった。
●「一方的にものを言わないでほしい」
同じく本の中で、「公務員はヒマをもてあましている」というようなことを書いた。これはお役所の外では、常識と言ってもよい。その常識的な意見を書いた。が、それについても、「私の夫は毎朝六時に起きて……」と、長々と、数ページにもわかって、その夫の生活をことこまかに書いてきた人がいた。そして最後に、「私の夫のようにがんばっている公務員も多いから、一方的にものを言わないでほしい」と。さらにこんなことも。
●いじめられる側にも問題
二〇年ほど前から、いじめが大きく話題になり始めた。その前は校則が話題になったが、ともかくもそのいじめが話題になった。私も地元のNHKテレビに二度ほどかりだされて意見を述べることになったが、そのときのこと。そのいじめを調べていくうちに、当時、いくつかの「おやっ」と思うような事実に出くわした。もちろんいじめは悪い。許されないことだが、しかしいじめられる側にも、まったく問題がないというわけではない。もっともその問題というのは、子ども自身の問題というよりは、育て方の問題といってもよい。
いじめられっ子のひとつの特徴は、社会性のなさ。乳幼児のときから親子だけのマンツーマンだけの環境で育てられていて、問題を解決するための技法を身につけていないということがある。いじめられても、いじめられっぱなし。やり返すことができない。たとえばブランコを横取りされても、それに抗議することができない、など。そこで私は「家庭環境にも問題があるのでは」と言った。が、これがよくなかった。その直後から猛烈な抗議の嵐。ものすごいものだった。(テレビの反響は、新聞や雑誌の比ではない!)「あなたは評論家として、即刻筆を折れ!」というのまであった。
●個人攻撃をしているのではない!
こうした抗議は、評論活動にはつきもの。いちいちそれで滅入っていては、評論などできない。しかしどうしてこうも、こういう人たちは近視眼的なのだろうかと思う。私は全体として、ものの本質を問題にしているのであって、決して個人攻撃をしているわけではない。いじめにしても、私はいまだけって一度もそれを是認したことはない。が、こういう人たちは、文の一部に集中的にスポットをあて、あたかも自分が攻撃されたかのように思うらしい。学校の先生とて、例外ではない。親たちの執拗な抗議を受けて、精神を病んだり、転校をさせられた先生は少なくない。こんなことも……。
●学校の先生もたいへん!
まだバブル経済、はなやかりしころのこと。ある学校のある先生が、たまたま仕事を手伝いにきていた一人の母親に、ふとこう口をすべらせてしまった。「塾へ、四つも五つも行かせているバカな親がいる」と。その先生は「バカ」という言葉を使ってしまった。これがまずかった。当時(今でもそうだが)、子どもを塾へ四つや五つ行かせている親は珍しくなかった。水泳教室、音楽教室、算数教室、英語教室と。しかしその話は一夜のうちに、父母全員にいきわたってしまった。そして「Aさんがバカと言われた」「いや、これはBさんのことだ」となってしまった。結局この問題は教育委員会レベルの問題にまで発展し、その先生は任期半ばで、その学校を去ることになってしまった。
視野が狭くなればなるほど、結局は自分の姿が見えなくなる。そして自分の姿を見失えば見失うほど、その人は愚かになる。これも子育てでハマりやすいワナの一つということになる。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
あなたのご主人は、どちらの大学ですか?
学歴に興奮する親たち(失敗危険度★★★★)
●おもしろい習性(失礼!)
親というのは、自分で自分の子どもをバカと呼ぶのは平気だが、しかし他人に言われるのを許さない。それはそうだが、それと同じように、自分の子どもが評価される場に落とされると、独特の心理状態になる。動物的な嫉妬心や闘争心が刺激されるらしい。
その一つ、親、とくに母親は、学歴の話になると、興奮状態になる。これは親が共通してもつ習性(?)ではないか。夫の学歴、自分の学歴、さらに子どもの学歴となると、興奮状態になる。なぜそうなのかということは、別として、これをうまく利用して、金儲けにつなげている人たちがいる。いわゆる受験屋と呼ばれる人たちである。
●ある教育機器メーカーの戦略
ある教育機器メーカーの説明会でのこと。私も興味があったので、招待状をもって、その会にでかけた。予定では九時三〇分に始まるということだったが、行ってきると、黒板に、「一〇時から」と書いてあった。そこでしばらく待っていると、うしろのほうからヒソヒソ話が聞こえてきた。サクラである。主催者の教育機器メーカーが送り込んだサクラである。
耳を傾けると、「あなたのご主人は、どちらの大学ですか?」「あなたのお子さんは、将来、公立、それとも私立?」と。とたん、会場の中におかしな緊張感が漂い始めた。しかしそれこそまさに、その会社のねらいである。サクラが、「あの中学はむずかしいそうよ」「進学塾では役にたたないそうよ」と言い出した……。
●親たちは興奮状態に!
それに拍車をかけるように、一〇時からの説明会では、まずビデオが映し出された。N研という東京の進学塾が制作したビデオだが、子どもの受験勉強の様子、受験会場に行く様子、受験しているときの様子、そして合否発表の様子がつぎつぎと映し出された。意味のないビデオだが、しかし合否発表のところでは、受験に落ちて、泣き崩れる母親や子どもの姿が、これでもかこれでもかとつづいた。時間にすれば、約一〇分間程度だったが、会場がますます異様な雰囲気になるのがわかった。しかしそれこそがまさにその会社のねらいでもあった。
やがてその会社の教育機器の説明会が始まり、それが終わると同時に、ワンセット二四万円もする教材が、飛ぶように売れていた。驚いたというより、それはあきれんばかりの光景だった。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
近所に人に息子の制服をみられたくナ~イ!
見え、メンツ、世間体(失敗危険度★★★★★)
●家庭教育の元凶
見え、メンツ、それに世間体。どれも同じようなものだが、この三つが家庭教育をゆがめる。裏を返せば、この三つから解放されたら、家庭教育にまつわるほとんどの悩みは解消する。
まず(1)見え。「このH市では出身高校で人物は評価されます」と、断言した母親がいた。「だからどうしてもうちの子はA高校に入ってもらわねば、困ります」と。しかし見えにこだわると、親も苦しむが、それ以上に、子どもも苦しむ。
つぎに(2)メンツ。ある母親は中学校での進学校別懇談会には、「恥ずかしいから」と、一度も顔を出さなかった。また別の母親は、子どもが高校へ入学してからというもの、毎朝、自動車で送り迎えしていた。「近所の人に、子どもの制服を見られたくないから」というのが、その理由だった。また駅の近くの親戚の家で、毎朝、制服に着がえてから、通学していた子どももいた。が、こういう姿勢は子どもの自尊心を傷つける。
最後に(3)世間体。見えやメンツにこだわる親は、やがて世間体をとりつくろうようになる。「どうしてもうちの子どもにはA高校を受験してもらいます」と言った親がいた。私が「無理だと思いますが」と言うと、「一応、そういうところを受験して、すべったという形を作っておきたいのです」と。不登校児になった子どもを、親戚の叔父に預けてしまった親すらいた。こうした親は何とか「形」だけは整えようとするわけだが、ここから多くの悲喜劇が生まれる。私のような立場の人間が、「世間は、あなたのことを、そんなに気にしていませんよ」と言っても、ムダ。このタイプの親は、世界は自分を中心にして回っているかのように錯覚している。あるいは世界中が自分に注目しているようかのように錯覚している。
●「しかたないので、C中学にしました」
見えやメンツ、それに世間体を気にするということは、結局は自分を飾るということ。そういう親には共通点がある。自分の周囲をウソで塗りかためる。たとえば……。
「私はどこの中学でもいいと思っているのですが、息子がどうしてもA中学と言いますので、先生、息子の願いをかなえてあげてください」と。そこでその息子にそれとなく聞くと、「ぼくはどこでもいいけど、ママがそうしてもA中学にしろと言ってうるさい」と。あるいは「学校の先生はB中学でも合格できると言っているのですが、息子はどうしてもC中学のほうがいいと言って私の言うことを聞きません。しかたないので、C中学にしました」と。このときも息子に聞くと、「先生がB中学は無理だと言ったので、C中学にした」と。さらにこんな例もある。
Tさん親子の間には、息子が中学生になるころから、会話という会話はほとんどなかった。食事も別々、廊下ですれ違っても目をそむけあう。どんな会話をしても、すべて一触即発。そんな関係であるにもかかわらず、Tさん(四五歳女性)は、ことあるごとにその息子が東京のT理科大学に入学したことを自慢していた。「猛勉強をしてくれたおかげで、T理科大学に入ってくれましてね」と。Tさんの家の居間には、息子の卒業証書が高々とかかげられている。もちろん息子はほとんど家には帰っていないのだが……。
●私は私、人は人という人生観
他人の目の中で生きれば生きるほど、結局は「自分」を犠牲にすることになる。が、これほどつまらない人生もない。自分の人生をドブへ捨てるようなもの。しかしそれは同時に、他人の目から見ても、それほど見苦しい人生はない。笑うとか笑われるとかいうことになれば、そのほうが笑われる。皮肉といえば、これほど皮肉なことはない。
この見えやメンツ。それに世間体と闘う方法があるとすれば、それは「私は私、人は人」という、人生観をもつこと以外にない。が、これは容易なことではない。人生観というのはそういうもので、一朝一夕には確立できない。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
でも、あの子はD小学校ですって!
ブランドにこだわる親たち(失敗危険度★★★)
●テーマはブランド
参観日のあと、母親たちが校門の内側に立ってワイワイと話し合っている。教育の話かとおもいきや、そうではなかった。一人の母親がもっていたブランドのバッグについてだった。「どこで買ったの?」「わあ、ステキ!」「いくらだった?」「あら、いいわネ~。私もこんなほしいわ」「あら、あなたのも、ステキじゃない」と。
●人間の思考回路
人間には思考回路というのがある。人というのは、一度自分の頭の中にその思考回路をつくると、その思考回路にそって、ものを考えたり、行動したりするようになる。脳の神経細胞のシナプス(神経細胞の接合部)※が、そのようにできあがったためと私は勝手に考えている。たとえば暴力団の男たちは、何か問題が起きると、暴力を使ってそれを解決しようとする。私のようなモノ書きは、何か問題がおきると、文を書いてそれを解決しようとする。それが思考回路である。
●ブランドで選ぶ幼稚園
同じように、ブランドにこだわる親というのは、そのときどきにおいて、ブランドにこだわるようになる。そのほうが本人も楽ということもある。で、一度その思考回路ができあがると、その思考回路からはずれたことをするのは容易なことではない。それはそれとして、このタイプの親は、子どもの教育でもまた、ブランドを重視する。幼稚園でも、学校でも、ブランドで選ぶなど。中身ではない。あくまでもブランドだ。それはもう信仰のようなもの。理由など必要ない。ブランドのある幼稚園や学校なら、安心し、そうでなければ不安になる。そしてその返す刀で、(子どもの中身が変わったわけではないのに)、それ以外の幼稚園や学校へ通っている子どもを「下」にみる。「うちの子はA小学校よ。でも、あの子はD小学校ですって」と。
●しかし失敗も多い
が、いつもいつもうまくいくとは限らない。このタイプの親は、反対に自分の子どもが、その「下」に落とされると、奇怪な行動をとり始める。毎朝、車で自分の息子を送り迎えしていた母親がいた。息子の学校の制服を近所の人に見られると恥ずかしいというのが、その理由だった。もう一〇年も前のことだが、毎朝、学校の制服を、駅前の喫茶店で着替えさせていた親すらいた。プライドをキズつけられると、親はそこまでする。こうした親の心理を理解できないわけではないが、その結末はいつもおかしい。そして悲しい。
※……人の大脳には、一〇〇億の神経細胞があると考えられ、その一個ずつの神経細胞に、約一〇万個のシナプスがあると考えられている。すると大脳全体で、一〇の一五乗のシナプスがあることになり、その数はDNAの遺伝子情報の一〇の九乗~一〇乗を超えることになる(新井康允氏)。人間の思考が、DNAの設計図の外にあることがこれでわかる。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
A中学では、うちの子は不幸になります!
占いにこる親たち(失敗危険度★★★★)
●かわいそうな人たち
占いや運勢にこる人というのは、自分で考えることのできない、かわいそうな人とみてよい。一見、人間は知的な生き物に見えるが、イヌやサルと、それほど違わない。「思考」ということになると、「思考していない人」のほうが、「思考している人」より、はるかに多い。
だいたいにおいて、他人の運命が読み取れるような人が、駅前の路地や喫茶店、さらにはデパートの通路などで、若い女性を相手に占いなどするだろか。自分で自分を占い、お金をどんと儲けて、豪邸で遊んで暮らせばよい。自分で自分を占うことはできないというのなら、仲間の占い師にみてもらえばよい。ああいったものは、一〇〇%インチキ。そう断言して、まちがいない。
●私も預言者?
ただ私は、数一〇分も子どもと接すると、その子どもの能力や性質、さらには問題点やこれから先その子どもがそうなり、どういう問題を引き起こすかが手にとるようにわかる。しかしこれは超能力のようなものではなく、経験だ。三〇年も毎日子どもをみていると、そういうことができるようになる。しかし私は、たとえわかっていても、それは言わない。親に頼まれても言わない。万が一、まちがっていたら……という迷いがあるからだ。それに治療法も用意しないで、診断名だけをくだすのは、良心のある人間のすることではない。が、そういった連中は、平気で、相手の運命を、あたかも知り尽くしたかのように口にする。
先日もテレビを見ていたら、『浄霊』と称して、若い娘にこう言っていたインチキ霊媒師がいた。「あなたの体に乗り移っている悪霊は悪質です。ほうっておくと、あなたの命すらあぶない」(〇二年四月)と。こういうことを平気で口にすることができる人は、人格そのものが崩壊した人とみてよい。
●子どもの教育も占いで……
若い女性ならまだしも、母親の中にも、いくらでもいる。そして子どもの教育すら、そういう占いや運勢に頼っている……! こういう親を前にすると、会話そのものがかみ合わない。
「先生、A中学と、B中学の件ですが、私は息子をB中学へ入れたいのですが……」
「どうしてA中学ではだめなのですか? 距離も近いでしょう」
「それが先週、うちの主人がG神社で占ってもらったら、A中学では、子どもが不幸になるというのです」
「不幸って?」
「いじめにあったりして、結局は転校することになるって。そういう結果が出ました」と。
そういうとき、私の頭の中では、私の思考回路がショートを起こす。バチバチと火花が飛び散る。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
立派な社会人になれ!
いい学校から、いい家庭へ(失敗危険度★★★★)
●いい家庭を!
「いい学校」を口にする親はいても、「いい家庭」を口にする親は少ない。「いい学校」を誇る親はいても、「いい家庭」を誇る親は少ない。日本人は伝統的に、仕事第一主義。学歴第一主義。もっと言えば出世第一主義。しかしその陰で犠牲にしているものも多い。その一つが、「家庭」であり「家族」。そのよい例が、単身赴任。私が学生時代には、「短期出張」と言った。商社のばあい、六か月以内の短期出張は、単身赴任が原則。しかし六か月で短気出張が終わるとはかぎらない。いわゆる出張のハシゴというので、一度外国へ出ると、数年は日本へ帰ってこられなかった。
それについて、ある日オーストラリアの教授がこう聞いた。「日本には短期出張について、法的規制はないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにいた学生までもが、「家族がバラバラにされて何が仕事か」と騒いだ。日本の常識は、決して世界の常識ではない。が、こんな家族もある。
●すばらしい家族
その娘の一人が、やや重い精神病をわずらった。しかし親は、それをすなおに受け入れた。そして家族が力を合わせてその娘を支えることにした。娘は学校へは行かなかったが、母親は娘にあれこれ経験させることだけは忘れなかった。その中の一つが、絵画。娘はその絵画をとおして、やがてろうけつ染に興味をもつようになった。で、中学二年生のときに、市内で個展を開くまでになった。こういう家族をすばらしい家族という。
●親子関係を破壊する子育て
一方、こんな親は多い。子どもの受験勉強で無理に無理を重ねて、親子関係そのものを破壊してしまうような親だ。その日のノルマがやっていないと、その父親は、子どもを真夜中でもふとんの中から引きずり出してそれをさせていた。私が「何もそこまで……」と言うと、その親はこう言った。「いえ、私は嫌われてもかまいません。息子さえいい中学へ入ってくれれば。息子もそれで私を許してくれるでしょう」と。
このタイプの親の頭の中には、「いい家族」はない。脳のCPU(中央演算装置)そのものがズレているから、私のような意見そのものが理解できない。それはちょうど映画『マトリックス』に出てくるような世界のようなもの。現実と仮想世界が入れかわり、仮想世界に住みながら、そこが仮想世界だとすら気がつかない。本来大切にすべきものを粗末にし、本来大切でないものを大切だと思い込んでしまう。
●友だちの数が財産
少し前、アメリカ人の友人だが、私にこう言った。「ヒロシ、一番大切なのは、友だちだよ。友だちの数こそが財産だよ」と。彼のこの言葉を借りるなら、「一番大切なのは、家族だよ。家族のきずなこそ財産だよ」ということになる。
欧米が何でもよいわけではないが、欧米と日本とでは、家族に対する考え方そのものが違う。たとえばオーストラリアでは、学校の先生も親も、子どもには、「よき家庭人になれ」と教える。「よい市民になれ」と言うときもある。カナダでもアメリカでもそうだ。フランスでもドイツでもそうだ。しかしこの日本では、「社会で役にたつ人」、あるいは「立派な社会人」が教育の柱になっている。「社会」という言葉は、「全体」という言葉の代名詞と考えてよい。この違いが積もりに積もって、日本の単身赴任になり、それに驚いたオーストラリアの学生になった。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
うちの子は、まだ何とかなる!
あきらめは悟りの境地(失敗危険度★★★)
●子育てはあきらめの連続
親の欲望には際限がない。子どもができなければできないで悩むが、少しでもできるようになると、「もっと……」と考える。たとえば中学への進学。「せめてC中学、それが無理ならD中学」と言っていた親でも、子どもがC中学へ入れそうだとわかってくると、今度は「B中学」と言い出す。しかしこういう親はまだラッキーなほうだ。中には、D中学、E中学と、どんどんと志望校をさげていかなければならないときがある。しかし一度こういう状態になると、あとは何をしても空回り。親があせればあせるほど、子どもの力は落ちていく。「そんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばればがんばるほど、子育ては袋小路に入る。そしてやがてにっちもさっちもいかなくなる。
要するにどこであきらめるかだが、受験にかぎらず、子育てをしていて、あきらめることを恐れてはいけない。子育てはまさに、あきらめの連続。またあきらめることにより、その先に道が開ける。しかもその時期は早ければ早いほどよい。もともと子育てというのはそういうもの。
●自分で失敗するしかない
……と言っても、これは簡単なことではない。どの親も、自分で失敗(失敗という言葉を使うのは適切でないかもしれないが)とはっきりとわかるまで、自分が失敗するとは思っていない。「うちの子にかぎって」「私はだいじょうぶ」という思いの中で、行きつくところまで行く。また行きつくところまで行かないと気がつかない。
子どもの限界にできるだけはやく気づくこと。それがわかれば親も納得し、その段階であきらめる。そこで一つの方法だが、子どもに何か問題が生じたら、「自分ならどうか」「自分ならできるか」「自分ならどうするか」という視点で考える。あるいは「自分が子どものときはどうだったか」と考えるのもよい。子どもの中に自分を置いて、その問題を考える。たとえば子どもに向かって、「勉強しなさい」と言ったら、すかさず、「自分ならできるか」「自分ならできたか」と考える。それでもわからなければ、こういうふうに考えてみる。
●あなたなら耐えられるか?
もしあなたが妻として、つぎのように評価されたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。「あなたの料理のし方、七六点。接客態度、五四点。家計簿のつけ方、八〇点。主婦としての偏差値四五点。あなたにふさわしい夫は、○○大学卒業程度の、収入四○○万円程度の男」と。またそういうあなたを見て、あなたの夫が、「もっと勉強しろ!」「何だ、この点数は!」とあなたを叱ったら、あなたはそれに一体どう答えるだろうか。子どもが置かれた立場というのは、それに近い。
●親は身勝手?
親というのは身勝手なものだ。子どもに向かって「本を読め」という親は多くても、自分で本を読んでいる親は少ない。子どもに向かって「勉強しろ」という親は多くても、自分で勉強する親は少ない。そういう身勝手さを感じたら、あきらめる。そしてここが子育ての不思議なところだが、親があきらめたとたん、子どもに笑顔がもどる。親子のきずながその時点からまた太くなり始める。もし今、あなたの子育てが袋小路に入っているなら、一度、勇気を出して、あきらめてみてほしい。それで道は開ける。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
字がヘタだから、書道に!
悪筆、言ってなおらず(失敗危険度★)
●年長児でわかる悪筆
年長児くらいになると、子どもの悪筆が目立ってくる。小学校へ入ると、さらにそれがはっきりとわかるようになる。手の運筆能力が固定化してくるためと考えられる。その運筆能力は、子どもに丸(○)を描かせてみるとわかる。運筆能力のある子どもは、きれいな、つまりスムーズな丸を描くことができる。そうでない子どもは、多角形に近いぎこちない丸を描く。
ちなみに縦線を描くときと横線を描くときは、指、手、手首の動きは基本的に違う。違うことは一度、自分で縦線と横線を描き、それらがどう変化するかを観察してみるとわかる。さらに丸を描くときは、これからがきわめて複雑な動きをするのがわかる。つまりきれいな丸を描くというのは、それだけたいへんということ。
●書道教室へ行けばうまくなる?
悪筆が目立ってくると、親はすぐ、「書道教室へ」と考えるが、これは誤解。運筆能力のない子どもでも、書道をならわせると、見た目にはきれいな文字を書くようになる。が、今度は時間ばかりかかるようになる。学校の授業でも、先生が黒板に文字を書く速さについていけないなど。以前、M君(小二)という男の子がいた。文字はきれいだが、とにかく遅い。皆が書き終わっても、まだノロノロと書いている。そこである日、私はきつく注意した。「はやく書きなさい!」と。とたんM君ははやく書くようになったが、私はその文字を見て驚いた。文字がめちゃめちゃなんていうものではなかった。しかしそれがM君の本来の文字だったのだ。
●運筆能力はぬり絵で
運筆能力を養うためには、ぬり絵がよい。ぬり絵をしながら、子どもは運筆能力を養う。ぬり絵をしながら子どもは、こまかい四角や丸い部分を、いろいろな線を使って塗りつぶそうとする。そうなればしめたもの。(ぬり絵になれていない子どもは、横線なら横線ばかりで色を塗ろうとするから、線があちこち飛び出したりする。)文字の学習に先立って、子どもにはぬり絵をさせる。あとあと文字がきれいに書けるようになる。
なおクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは三本の指でつかむようにしてもつ。鉛筆は、親指と人さし指でつかみ、中指でうしろから支えるようにしてもつ。(だからといってそれが正しいもち方と決めてかかってもいけないが……。)鉛筆を使い始めたら、一度正しいもち方を教えるとよい。ちなみに年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは約五〇%。クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、三〇%。残りの二〇%は、きわめて変則的なもち方をするのがわかっている(筆者調査)。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
ああ、運動をつづけてよかった
ふつうこそ最善(失敗危険度★★★)
●なくしてから気づく
ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。賢明な人はその価値をなくす前に気づき、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。健康しかり、家族しかり、そして子どものよさもまたしかり。
私は三人の息子のうち、二人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったのは奇跡中の奇跡。そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの二人とは変わってしまった。二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでいい」と思いなおすようになった。たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登校を繰り返した。中学二年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。しかしそのつど、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。
●子どもは下から見ろ
子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。「下(欠点)を見ろ」というのではない。「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するから不思議である。またそれで解決しない問題はない。
……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。その男性(五〇歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小便をすることができるようになった。そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたという。私は幸運にも、生まれてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。ないが、その人のそのときの気持ちがよく理解できる。いや、最近になってこんなふうに考えるようになった。
●健康であることの喜び
私はこの三〇年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。ひどい雨の日以外は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。しかし三〇年もしていると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。たとえば今、同年齢の多くの友人たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。しかし私はそうした成人病とは無縁だ。そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。「ああ、運動をつづけてよかった」と。その喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通しているのではないか。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか?
それ以上、何を望むか(失敗危険度★★)
●子育てで失敗した
法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言う。「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そういう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではないか。それ以上、何を望むのか」と。
●母親とのきずなが虐待の原因?
子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らかの形で虐待しているという。「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。
七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、それ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。言いかえると楽な子育てというのは、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめてマレだ。
●子育てが人生を豊かに
……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつまらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子どもは私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。たとえば子どものほしそうなものを手に入れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてくれた。
もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのようなさみしさを覚える。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろいろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たちのおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。
……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に進めばよい。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
いつになったら、できるの!
己こそ、己のよるべ(失敗危険度★★★)
●自由とは、「己による」こと
法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。
この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。
●考えさせない過干渉ママ
子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。
私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」、
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」、
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」、母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。
このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と、今でいう「できちゃった婚」をした。どこか不本意な結婚だった。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。
●行動させない過保護ママ
次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、「すぐ風邪をひく」。
●責任をとらせない溺愛ママ
さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親は、「子ども(小六男児)が合宿訓練にでかけた夜、涙がポロポロと出て眠れなかった」と言った。私が「どうしてですか?」と聞くと、こう言った。「あの子は私がいないと何もできない子です。みんなにいじめられているのではないかと思うと、かわいそうで、かわいそうで……」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。
己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
口がうまい親ほど、要注意!
あせる親は結論も早い(失敗危険度★★★)
●口がうまい親ほど……?
あるおけいこ塾の講師が、こんなことを言った。「親の中でもワーワーと騒いで入会してくる親ほど、要注意。そういう親ほど、やめ方がきたない」と。たとえば「先生の教え方はすばらしい。うちの子がおとなになるまで、お世話になりますと言う親ほど、ある日突然、ハイ、さようならとやめていく」と。別の塾の教師も、同じようなことを言っていた。「口がうまい親ほど、気をつけている」と。「どうしてですか?」と聞くと、「口のうまい親は、やめたとたん、今度は悪口をあちこちで言い始める」と。
私にも、つきあいたい親と、そうでない親がいる。そのキーポイントとなるのが、やはり信頼関係。この信頼関係があれば、つきあっていても心地よいが、そうでなければそうでない。もっとも私のばあいは、その信頼関係が切れたとき、それは同時に互いの別れということになる。が、学校の先生はそうはいかない。中にはその母親からの電話がかかってきただけで、体中が震えると言う先生もいる。
●教育は人間関係
……と書きながら、これ以上書くと、親の悪口になるので、書けない。私の世界では、親はいつもスポンサーであり、また私のよき理解者である。いわばお客さんのようなもの。そういうお客さんに向かって、「こういう客はよい客だ。こういう客は悪い客だ」と書いていたら、仕事(商売)にならない。しかしこれだけは言える。
教育がふつうの商売と違うところは、そこに太い人間関係ができること。ものの売り買いとは違う。自動車学校や予備校の指導とも違う。子どもに与える影響は、きわめて大きい。だから教育を商売と同じように考えることはできない。そこでいくつかのポイントがある。これは親側からみたポイントということになる。
●先生とつきあうポイント
(1)先生とつきあうときは如水淡交……子どもの教育だけにかかわり、プライベートなことは、避ける。よく誤解されるが、プライベートなつきあいをしたからといって、信頼関係が深まるということは、ない。
(2)過剰な期待はしない……教師を聖職者だと思っている人は多い。神様のように思っている人もいる。そしてそれに甘える形で、やりたい放題のことをする人がいる。しかし先生が聖職者と思うのはまったくの誤解。子どもを相手に仕事をしているという点をのぞけば、あなたやあなたの夫と、どこも違いはしない。とくに人間性がすぐれているということもない。怒るときには怒る。不愉快に思うときは思う。そういう前提で、つまり同じ人間という前提でつきあう。
(3)別れ際を大切に……人間関係は、すべてその別れ際の美学で決まる。出会い以上に、別れ際を美しくする。美しい別れ方をするということは、つぎの新しい出会いをまた美しくするということにもなる。教師というのは因果な商売で、その人との出会い方をみると、その別れ方までおおよその見当がつくようになる。「ああ、この人は別れ方がきたないぞ」と。しかしそう思ったとたん、信頼関係は半減する。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ!
先生の悪口は言わない(失敗危険度★★★)
●良好な人間関係が基本
教育もつきつめれば人間関係。それで決まる。教師と生徒との良好な人間関係が、よい教育の基本。この基本なくして、よい教育は望めない。そこで大原則。「子どもの前では、先生の悪口は言わない」。先生を批判したり、あるいは子どもが先生の悪口を言ったときも、それに相槌(づち)を打ってはいけない。打てば打ったで、今度は、「あなたが言った言葉」として、それは先生の耳に入る。必ず、入る。子どもというのはそういうもので、先生の前では決して隠しごとができない。親よりも、園や学校の先生と接している時間のほうが長い。また先生も、この種の会話には敏感に反応する。
●先生も人間
一方、先生もまた生身の人間。中には聖人のように思っている人もいるかもしれないが、そういうことを期待するほうがおかしい。子どもと接する時間が長いというだけで、先生とてこの文を読んでいるあなたと、どこも違わない。そこでこう考えてみてほしい。もしあなたが教師で、生徒にこう言われたとする。「あんたの教え方ヘタだって、ママが言っていたよ」と。そのときあなたはそれを笑って無視できるだろうか。中には、「あんたの教え方ヘタだから、今度校長先生に言って、先生をかえてもらうとママが言っていた」と言う子どもさえいる。あなたは生徒のそういう言葉に耐えられるだろうか。
●学校の問題は、先生がいないところ
教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでもかけられる。しかし手を抜こうと思うえば、いくらでも抜ける。ここが教育のこわいところでもあるが、それを決めるのが、冒頭にあげた「人間関係」ということになる。実際、やる気を決めるのは、教師自身ではなく、この人間関係である。それを一方で破壊しておいて、「よい教育をせよ」はない。が、それだけではすまない。
●結局は子どもの損に
あなたが先生の悪口を言ったり、先生を批判したりすると、子ども自身もまた先生に従わなくなる。一度そうなるとそれが悪循環となって、(損とか得とかいう言い方は好きではないが……)、結局は子ども自身が損をすることになる。仮に先生に問題があるとしても、子どもの耳に入らないところで、問題を処理する。子どもが先生の悪口を言ったとしても、「あなたが悪いからでしょ」と言ってのける。これも大原則の一つである。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
学ぶものは山に登るごとし
知識と学力(失敗危険度★★★)
●知識と学力は別
もの知りの人が、賢い人ということにはならない。知識と学力は本来別のものであり、これを混同すると、教育そのものが混乱する。たとえば幼稚園児が掛け算の九九をペラペラと口にしたとしても、その子どもが賢い子どもということにはならない。いわんや算数ができるとか、頭のよい子ということにもならない。が、もしその子どもが、「車が三台では、そのタイヤの数は一二」と、即座に計算できれば、算数のできる子どもということになる。その計算方法を自分で考えだしたとしたら、さらに頭のよい子ということになる。
●知識教育が教育?
ところがこの日本では、子どもに知識をつけさせることが教育だと思い込んでいる人が多い。教育の体系そのものがそうなっている。たとえば学校でも、「わかったか」「覚えたか」「ではつぎ……」という教え方が基本になっている。アメリカやオーストラリアでは、「どう思う?」「それはいい考えだ」という教え方が基本になっている。また入試内容にしても、学力をためすというよりは、知識をためすものになっている。いろいろな改善策がこころみられてはいるが、基本的にはこの構図は明治以来、変わっていない。
その結果というか、今でこそやや少なくなったが、三〇年前にはどこの進学高校にも、いわゆる頭のおかしい「勉強バカ」というのがいた。勉強しかしない、勉強しかできない、頭の中は成績の数字だけという子どもである。しかしそういう子どもほど、スイスイと一流大学の一流学部(「一流」という言い方は本当にいやだが……)へ進学していった。私は進学塾の講師をしながら、そのときはそのときで、「こんなことでいいのか」と、少なからず疑問に思ったことがある。
●学ぶことは苦しい
では、学力とは何か。また学力はどうやって養えばよいのか。実はその答はあなた自身が一番よく知っている。あなたが今、三五歳なら三五歳でよい。あなたは二〇歳のときから今までの一五年間で、何かを自ら学ぼうとしたか。あるいは学んだか。何かを発見したとか、何かを新たにできるようになったとか、そういうことでもよい。
そのとき「知識」は除外する。知識は学力ではない。するとたいていの人は、何もないことに気づくはず。もともと学ぶということにはある種の苦痛がともなう。美濃部達吉も「語録」の中で、「学ぶ者は山に登るごとし」と書いている。「学ぶということは楽ではない」と。だからたいていの人は学ぶことを、自ら避けようとする。私やあなたとて例外ではない。学力とはそういうものであり、また学力を養うということはそういう苦痛との戦いでもある。つまりそれだけたいへんだということ。教育のテーマそのものと言ってもよい。ここでもう一度、あなたにとって子どもの教育とは何か、それをじっくりと考えてみてほしい。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
私こそ親のカガミ!
代償的過保護(失敗危険度★★★★★)
●代償的過保護
本来、過保護というのは親の愛がその背景にある。その愛があり、何かの心配ごとが引き金となって、親は子どもを過保護にするようになる。しかしその愛がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。いわば自分の心のスキ間をうめるための、過保護もどきの過保護。親のエゴにもとづいた、自分勝手な過保護と思えばよい。
代償的過保護の特徴は、(1)親としての支配意識が強く、(2)子どもを自分の思いどおりにしたいという欲望が強い。そのため(3)心配過剰、過干渉、過関心になりやすい。(4)子どもを人間というよりは、モノとして見る目が強く、子どもが自立して自分から離れていくのを望まないなどがある。そしてそういう愛を、理想的な愛と誤解することが多い。「私こそ、親のカガミ」と言った母親すらいた。
●子どもを自分の支配下に
このタイプの親は、一見子どもを愛しているように見えるが、(また親自身もそう思い込んでいるケースが多いが)、その実、子どもを愛するということがどういうことか、わかっていない。わからないまま、さまざまな手を使って、子どもを自分の支配下に置こうとする。もともとはわがままな性格の人とみてよいが、それゆえにものの考え方がどうしても自己中心的になる。「私は絶対正しい」と思うのはその人の勝手だが、その返す刀で、相手を否定したり、人の話に耳を傾けなくなる。がんこになることも多い。
●お前には学費が三〇〇〇万円かかった!
ある父親は、息子が家を飛び出し、会社へ就職したとき、その会社の社長に電話を入れ、強引にその会社をやめさせてしまった。またある母親は、息子の結婚にことごとく反対し、そのつど結婚話をすべて破談にしてしまった。息子を生涯、ほとんど家の外へ出さなかった母親もいるし、お金で息子をしばった父親もいる。「お前には学費が三〇〇〇万円かかったから、それを返すまで家を出るな」と。
結果的にそうなったとも言えるが、宗教を利用して子どもをしばった親もいた。ことあるごとに、「親を粗末にすると、バチが当たるぞ」と教えている親もいる。そうでない親には信じられないような話だが、実際にはそういう親も少なくない。ひょっとしたら、あなたの周囲にもこのタイプの親がいるかもしれない。いや、あなたという親にも、いろいろな面があり、その中の一部に、この代償的過保護的な部分があるかもしれない。もしそうならそうで、あなたの中のどの部分が代償的過保護であり、あるいはどこから先がそうでないかを、冷静に判断してみるとよい。
●自分に気づくだけでよい
この問題は、どこが代償的過保護的であるかに気がつくだけで、問題のほとんどは解決したとみる。ほとんどの親は、それに気づかないまま、代償的過保護を繰り返す。そしてその結果として、親子の間を大きく断絶させたり、反対に子ども自立できないひ弱な子どもにしたりする。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
うちの子は生まれつきそうです!
勉強が苦手な子ども(失敗危険度★★★★★)
●勉強が苦手な子ども
勉強が苦手な子どもといっても、一様ではない。まず第一に、学習能力そのものが劣っている子どもがいる。専門的には、多動型(動きがはげしい)、愚鈍型(ぼんやりしている)、発育不良型(知的な発育そのものが遅れている)などに分けて考える。最近よく話題になる子どもに、学習障害児(LD児)という子どももいる。教えても覚えない。覚えてもすぐ忘れる。覚えても応用がきかない。集中力がつづかず、教えたことがたいへん浅い段階で止まってしまう、など。
●症状をこじらせない
しかし実際に問題なのは、能力そのものに問題があるというよりは、たとえば私のようなもののところに相談があったときには、すでに手がつけられないほど、症状がこじれてしまっているということ。たいていは無理な学習や強制的な学習が日常化していて、学習するということそのものに、嫌悪感を覚えたり、拒否的になったりしている。中には完全に自身喪失の状態になっている子どももいる。
原因は親にあるが、親自身にその自覚がないことが、ますます指導を困難にする。どの親も、「自分は子どものために正しいことをしただけ」と思っている。中には私がそれを指摘すると、「うちの子は生まれつきそうです!」と反論する親さえいる。(生まれた直後から、それがわかる人などいない!)
●コースからはずれたらダメ人間?
……と書きながら、日本の教育はどこかゆがんでいる。日本の教育にはコースというのがあって、親たちは自分の子どもがそのコースからはずれることを、異常なまでに恐れる。(「異常」というのは、国際的な基準からしてという意味。)こういうばあいでも、本来なら子どもの能力にあわせて、子どものレベルで教育を進めるのが一番よいのだが、日本ではそれができない。スポーツが得意な子どももいれば、そうでない子どももいる。勉強についても、得意な子どもがいる一方、不得意な子どもがいる。いてもおかしくないのだが、日本ではそういうものの考え方ができない。勉強ができないことは悪いことだと決めてかかる。このことが、本来何でもないはずの問題を、深刻な問題にしてしまう。それだけならまだしも、子どもに「ダメ人間」のレッテルをはってしまう。考えてみれば、おかしなことだが、そのおかしさがわからないほどまで、日本の子育てはゆがんでいる。
●落第を喜ぶアメリカの親たち
……という問題が、勉強が苦手な子どもの問題にはいつもついて回る。だからといって、勉強などできなくてもよいと書くのは暴論だが、子どもの勉強は子どもの視点で考える。たとえばアメリカでは、学校の先生が親に、子どもの落第を勧めると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。事実だ。子どもの成績がさがったりすると、親のほうから落第を頼みにいくケースも多い。アメリカの親は、「そのほうが子どものためになる」と考える。しかし日本ではそうはいかない。そうはいかないところに、日本の子育ての問題がある。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
やる、やらないも能力のうち
馬に水を飲ますことはできない(失敗危険度★★)
●無理に水を飲ますことはできない
イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』というのがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように説明されている。
●動機づけを決める帯状回?
大脳半球の中心部に、間脳とか脳梁とか呼ばれている部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織がある。つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維持するための機関と考えられていた。しかし最近の研究では、それぞれにも独立した働きがあることがわかってきた(伊藤正男氏ほか)。)
●やる気が思考力を決める
思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。
●乗り気にさせるのが伸ばすコツ
新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。新井氏はこう書いている。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあいと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本実業出版社「脳のしくみ」)と。
親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、しかしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できない」。それだけのことかもしれない。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
子どものうしろを歩くとイライラする!
子育てじょうずな親(失敗危険度★★★)
●子どものリズムをつかめ
子どもには子どものリズムがある。そのリズムをいかにつかむかで、「子育てがじょうずな親」「子育てがへたな親」が決まる。子育てじょうずな親というのは、いわゆる子育てがうまい親をいう。子どもの能力をじょうずに引き出し、子どもを前向きに伸ばしていく親をいう。
結果は、子どもをみればわかる。子育てじょうずな親に育てられた子どもは、明るく屈託がない。心のゆがみ(ひねくれ症状、ひがみ症状、つっぱり症状など)がない。また心と表情が一致していて、すなおな感情表現ができる。うれしいときは、うれしそうな顔を満面に浮かべるなど。
●子育てじょうずな親
子育てじょうずな親は、いつも子どものリズムで子育てをする。無理をしない。強制もしない。子どものもつリズムに合わせながら、そのリズムで生活する。そのひとつの診断法として、子どもと一緒に歌を歌ってみるという方法がある。子どものリズムで生活している人は、子どもと歌を歌いながらも、それを楽しむことができる。子どもと歌いながら、つぎつぎといろいろな歌を歌う。しかしそうでない親は、子どもと歌いながら、それをまだるっこく感じたり、めんどうに感じたりする。あるいは親の好きな歌を押しつけたりして、一緒に歌うことができない。
●リズムは妊娠したときから始まる
そもそもこのリズムというのは、親が子どもを妊娠したときから始まる。そのリズムが姿や形を変えて、そのつどあらわれる。ここでは歌を例にあげたが、歌だけではない。生活全般がそういうリズムで動く。そこでもしあなたが子どもとの間でリズムの乱れを感じたら、今日からでも遅くないから、子どもと歩くときは、子どもの横か、できればうしろを歩く。
リズムのあっていない親ほど、心のどこかでイライラするかもしれないが、しかし子どもを伸ばすためと思い、がまんする。数か月、あるいは一年のうちには、あなたと子どものリズムが合うようになってくる。子どもがあなたのリズムに合わせることはできない。だからあなたが子どものリズムに合わせるしかない。そういうことができる親を、子育てがじょうずな親という。
はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
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