【親を尊敬しない子どもたち】(BW公開教室)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
年長児のクラスでは、「地図」について学習しました。
その様子をご覧ください。
もう1本は、「娘に「死ね」と言われた母親」からの相談です。
近ごろになく、この相談には、ドキッとしました。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
【思春期という反抗期】
●ああ、父親たるものは……!
平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬していない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、
「はい」と答えたのは、51・5%。
また「父親のようになりたくない」は、78・8%、「母親のようになりたくない」は、71・5%であった。
この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。
また、では残りの約45%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。
この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。
白書の性質上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。
それでこうした、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。
……という話しは、すでに何度も書いてきた。
●それから13年
先の調査から、13年が過ぎた。
で、先ほどまで最近はどうなったか、それを調べてみた。
便利になったものだ。
ネットで検索をかければ、即座に情報を手に入れることができる。
それに内閣府(旧総理府)は、数年ごとに同じような調査を繰り返している。
そのため青少年の意識のちがいや変化を、数字として知ることができる。
が、私が調べた範囲では、平成10年以後、同じような調査がなされた形跡がない。
だからこの調査結果を基に考えるしかない。
●繰り返される親子関係
『子育ては本能ではなく、学習である』。
そういう視点で類推するなら、こうした意識は、つぎの世代へと連鎖していく。
つまり戦後の流れからすると、現在は、平成10年当時の調査結果より、悪化していると考えられる。
(それを「悪化」と言ってよいかどうかという問題もあるが……。
しかし家族というのは、たがいに尊敬しあっているほうがよい。
そういう点で、「悪化」という言葉を使った。)
●尾崎豊
私の印象では、尾崎豊が『卒業』を歌ったのを節目に、日本の青少年の意識は大きく変わった。
青少年が、自分たちより上の世代に反旗を翻した。
「親に何か言われると、ムシャクシャする」
「親にあれこれ指図されたくない」
「親の言うことは、イチイチ、うるさい」と。
直接的には、親に対し、「アンタには、関係ない」と突っぱねる。
それが「親のようになりたくない」(約80%)という答えとなって、はね返ってくる。
そこでそうした青少年が、今度は自分が親になる。
そしてこう覚悟する。
「私は私の親とはちがう」
「私はすばらしい家族を築く」
「よい親子関係を作る」と。
が、現実は甘くない。
結局は、自分がしたこと(=思ったこと)と同じことを、その子どもたちが繰り返す。
子ども、つまり先の親から見れば孫たちが、こう言い出す。
「父親のようになりたくない」
「母親のようになりたくない」と。
それを世代連鎖という。
だからこう言う。
『子育ては本能ではなく、学習』と。
●変わる青少年の世界
ネットで検索していたら、こんな情報にヒットした。
たまたま先ほど、市内の地下街を歩いていたら、携帯電話を片手にサーッと通り抜けていった若者(高校生くらい)がいた。
それで気になってあたりを見回すと、そこにいた若者たち、全員が片手に携帯電話をもっているのを知った。
10人はいただろうか。
年齢的には、10代後半から20代。
全員、である。
それを青少年白書は、こう調査している。
『内閣府がまとめた「平成20年版青少年白書」によると、携帯電話を使ったインターネットの利用率は、小学生27%、中学生56・3%、高校生は95・5%となっています。
もはや中高生にとっては携帯電話の通話機能よりも、インターネットやメールを使っての……』と。
携帯電話ではなかった。
携帯端末だった。
青少年白書は、「携帯電話ではなく携帯端末」と。
知らなかった!
そこでたまたま近くにいた中3の女子(生徒)に聞いてみた。
「携帯電話なら、使わなければ利用料金も少なくてすむけど、携帯端末だと、そういうわけにはいかないよね」と。
するとその女子は、こう教えてくれた。
「定額料金にすれば、6000円くらい。学割があるけどね。でもね定額料金にしていない人なんか、月に1万円くらい使っているよ」と。
話が脱線した。
子どもたちの世界は、日々に変化している。
話しを戻す。
●中学生たちと
で、この話しを、中学生のクラスでしてみた。
「父親のようになりたくないが、78・8%、母親のようになりたくないが、71・5%ということだけど、君たちはどうかな?」と。
すると5人いた中学生のうち、4人が、こう言った。
「いろいろなときがあるからね。そう思うときもあるし、そうでないときもある」と。
ナルホド!
これは、「YES/NO」で答えられるような問題ではないということか。
私「じゃあ、君たちは、お父さんを尊敬しているか?」
子「……ウ~ン、尊敬できる面もあるし、尊敬できない面もあるよね」
子「そうだよね。好きなところもあるし、嫌いなところもある……」
私「お父さんは、うるさくないのか?」
子「うるさいから、そういうときは、『アンタには、関係ないでしょ!』と突っぱねることにしている」と。
となると、総理府(現在の内閣府)のした調査は何かということになってしまう。
「78・8%」という数字は、どこから出てきたのか。
もしこの数字に信頼性がおけないというのなら、それを基礎に議論を進めること自体、無意味になってしまう。
それに私のばあいもそうだったが、年齢とともに、親に対する考え方は変わる。
思春期における印象が、すべてというわけではない。
あるいは思春期というのは、そういうものなのか。
直接的には、親に反抗することによって、自立を目指す。
●親の立場から
どうであれ、子どもは10歳前後(小学3年生前後)から、親離れを始める。
この時期、(家庭)という束縛から自分を解き放ち、友人との(社会)に、自分の世界を移し始める。
が、ほとんどの親はそれに気づかない。
ほとんどの親は、「私はすばらしい親だ」「私は子どもたちに慕われ、尊敬されている」と思い込んでいる。
が、これが思い込みであることは、数値の信頼性はさておき、先の「78・8%」という数字を見てもわかる。
言い換えると、それが「ふつう」ということ。
つまり、子どもに尊敬されようと思わないこと。
思っても意味はない。
親は親で、自分の道を行く。
中には家族主義(たいていは行きすぎた家族主義)を信奉し、「家族こそすべて」と考える人も、いる。
「親子の太い絆こそ、何よりも大切」と。
しかし親子というのは、皮肉なもの。
親のこうした気負いが強ければ強いほど、子どものほうはそれを負担に思う。
その負担感が、かえって、親子の間に溝を作る。
だから親は親で、自分の道を行く。
「子どものため」という義務感、犠牲心は、もたないほうがよい。
もっても、意味はない。
やるべきことはやるが、期待しない。
またそのほうが、結果的に、親子の絆は太くなる。
子どもも親を尊敬するようになる。
だからあのバートランド・ラッセルは、こう言った。
『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要な訓練は施すけれども、
けっして程度を越えないことを知っている両親たちのみが家族の真の喜びを与えられる』と。
繰り返し取りあげてきた言葉だが、この言葉の中に、子育ての神髄が凝縮されている。
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Hiroshi Hayashi++++++Aug. 2011++++++はやし浩司・林浩司
昔、オーストラリアの友人がいつもこう言っていた。親には3つの役目がある。
1つ目は親は子どもの前を歩く。子どものガイドとして。2つ目は子どものうしろを歩く。子どもの保護者(プロテクター)として。そして3つ目は、子どもの横を歩く。子どもの友として。
日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意だが、横を歩くのが苦手。
その理由の一つが、日本ではおとなと子どもを分けて考える傾向が強い。
おとなはおとなだが、子どもを半人前の、未熟で、未経験な人間と位置づける。もともと対等ではないという前提で、子どもをみる。
たとえば先日もロープウェイに乗ったときのこと、背中合わせにすわった女性(60歳くらい)が、5歳くらいの孫に向かってこう話していた。「楽チイネ、楽チイネ、おばあチャンと、イッチョ、楽チイネ」と。
5歳といえば、人格の形成期に入る。
その時期に、こうまで子どもを子ども扱いしてよいものか。
子どもをかわいがるということは、子どもによい思いをさせることではない。同じように子どもを大切にするということは、子どもを子ども扱いすることではない。
子どもを大切にするということは、子どもを一人の人格者として尊敬することである。子どもの年齢には関係ない。子どもがたとえ赤ん坊でも、また成人していても、子どもを一人の人間として認める。子育ての基本はここにあり、すべての子育ては、ここを原点として始まる。
日本には親意識という言葉がある。
この親意識には、2つの意味がある。
1つは「親としての自覚」を意味する親意識。これは重要な親意識である。
もう1つは、「私は親だ」式に、子どもに向かって親の権威を押しつける親意識。
この親意識が強ければ強いほど、親は、子どもの横に立つことができなくなる。
というのも、もともと親意識の根底にあるのは、上下意識。男が上、女が下。夫が上、妻が下。
そして親が上、子が下と。
日本人は長い間の、極東の島国という特異な環境で、独特の上下意識を育てた。たとえば英語には、「先輩、後輩」にあたる単語すらない。
あえて言えば、ジュニア、シニアだが、それとて日本で使う意味とはまったく違う。
言うまでもなく、この日本ではたった1年でも先輩は先輩、後輩は後輩という考え方をし、そこに徹底した支配、従属関係を築く。
が、今、幸か不幸か、(幸なのだろうが……)、この権威主義が急速に崩れつつある。
その一例が、尾崎豊が歌った「卒業」である。
あの歌は、CDのジングル版だけでも200万枚(CBSソニー広報部)も売れたそうだ。「アルバム版、カセット版も含めると、300万枚以上」ということだそうだ。
あの歌の中で尾崎は、「しくまれた自由」からの「卒業」を訴えた。
私たち団塊の世代(戦後生まれ)にとっては、青春時代は、まさに反権力闘争一色だったが、尾崎の世代(今の父親、母親の世代)には、反世代闘争へとそれが変化していった。
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【補記】2002年ごろに書いた原稿より
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●子どもの携帯電話を考える
携帯電話をもつ子どもがふえている。調査のたびに、ぐんぐんとうなぎ昇りにふえているので、調査そのものがあまり意味がない。が、それと同時に弊害も表面化してきた。それらを並べると……
(1)マジックミラー症候群……膨大な情報量の中で、知りたい相手の情報は見ても、自分の情報は流さない。一方的に相手を観察するだけで、自分の正体は明かさない。あるいは他人の意見を知り、それを攻撃することはできても、自分の意見は述べない。情報が一方通行化する。
(2)リセット症候群……一度、嫌いになると、ちょうどスイッチを切るかのように、相手を自分の世界から抹殺してしまう。その後その相手からメールが入っても、それを受けつけないか、無視する。
(3)オセロ症候群……白黒はっきりした人間関係をつくろうとする。敵の敵は味方という考え方をしながら、その色分けをはっきりする。中間色的なつきあいができなくなる。
(4)マトリックス症候群……バーチャルな人間関係を結ぼうとする。相手は無臭、無味、体温の感じない状態のほうが、つきあいやすい。自分の側の臭いや味、感情も文の上でコントロールしようとする。一方、現実の世界の人間とは、心を結べなくなる。
(5)字幕症候群……相手からの文字に、自分の心をのせて相手の文を読む。たとえば相手が「バカだなあ」と書いたとする。相手は冗談のつもりで書いたとしても、その「冗談」の部分はわからない。わからないから、こちらの感情でその文を読んで、ときには憤慨したり、怒ったりする。
(6)携帯電話依存症候群……携帯電話がないと落ち着かない。気分がすぐれない。携帯電話に固執する。
(7)カプセル症候群……メール用語、メールの世界だけしか通用しない用語だけで会話をしようとする。またそれを知らない人を、よそ者的に排斥しようとする。
(8)ワイアレス症候群……膨大な情報の中に埋もれてしまい、自分がわからなくなる。無能化、愚鈍化が進む。一日の行動が決められず、電話の運勢占いにすべてをかける。
(9)グラフィック症候群……音声の会話ができなくなる。メールでは何でも話せるのに、いざその人と直接対面すると、何も話せない。
(10)ボーダーレス現象……性情報が氾濫し、それが見境なく低年齢層に浸透している。
(11)情報のフェザー現象……情報の価値が限りなく軽くなり、その分、思考回路も軽くなる。会話能力の低下、思考能力の低下をきたす。
(12)親指人間、会話能力欠如、言葉の短文化、感情化、短絡化、文字のマンガ化、ムダ話がなくなった分だけ、黙々と携帯に文字を打ち込んでいる。
ついでに言葉の使い方そのものが、大きく影響を受け始めている。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●壊れる日本語
今日、ある店で、たいやきを2枚買った。
1枚は、あずき。
これは私用。
もう1枚は、カスタード。
これはワイフ用。
そのときのこと、店の若い女性が、袋の詰めながら、こう言った。
「シタアンです」と。
私は2度も聞き返した。
「シタアン?」
「どういう意味ですか?」と。
瞬間、ポルトガル語かとも思った。
つまり「2枚重なっているが、下のたいやきが、あずきです」と。
私はそれを知ったとき、日本語そのものが、携端末機化していると感じた。
もちろん文章になっていない。
そればかりか、省略につづく省略。
つまりメチャメチャ。
しかしこれも時の流れか?
携帯端末機世代がつぎの日本を背負うようになると、私がここに書いているような
文章は、消えてなくなるかもしれない。
たとえば、こうなる。
「・・・夕食まだ。おかず焼きそば。腹へった。油少し願う。ワイフ同意。私待つ」と。
「それでいいのかなあ・・・?」と、かなり強い疑問を感じながら、たいやきを食べた。
2010年記
Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司
2012年6月19日火曜日
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