●今週の年中児クラス@BW子どもクラブbyはやし浩司
(地図の学習)
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司
【親子の断絶】(母親側の問題)
●子どもを呪い殺すと言った母親
一方、こんな相談もあった。
母親に向かって「死ね」と言った娘もすごいが、娘に向かって「呪い殺す」と言った母親もすごい。
今度は、母親側の問題。
10年ほど前のこと(2000年)。
同じ浜松市在住の、ある女性(当時、30歳前後、名前をBさんとしておく)からのもの。
最初の子どもが生まれた直後のことだった。
そのBさんはこう言った。
当時の記録をもとに、箇条書きにしてみる。
★実の母親から、「あんたを呪い殺してやる」と言われている。
★「不幸になるのを楽しみにしている。墓場で見届けてやる」と言われている。
★で、Bさんは、夫とともに住居を変更。電話番号も変えた。
★が、その母親はどこでどう調べたのか、その3日後には電話がかかってきた。
★「どこへ逃げても、すぐわかるからね」と母親は言った。
★さらに「昨日はカレーライスを食べたわね。ちゃんとしたものを食べなよ」と。
母親は、実の娘であるBさんに対して、ストーカー行為まで繰り返していた。
そのためBさん夫婦は、1年の間に、3度も、引っ越しを繰り返した。
で、やっと……と思っていたら、今度は、母親は夫の会社にまで電話をかけてくるようになったという。
「娘を、お宅の会社の社員に奪われた。
返してほしい」と。
母親は会社の上司はもちろん、同僚たちにも、片っ端から同じ内容の電話をかけたという。
それについて、「どうしたらいいか?」と。
書き忘れたが、Bさんの母親は、女性が10歳のころ夫と離婚している。
Bさんは、1人娘。
●母親側の言い分
電話での相談だったが、こういうケースで、一方の当事者の話だけを聞いて判断するのは、たいへん危険なことである。
相談者はいつも、自分にとって都合の悪い話はしない。
あるいは自分を客観的に見ることができない人も多い。
母親の行為は、その女性の話を聞く範囲では、常軌を逸している。
本当にそうなのか?
母親がそこまでの行動をする背景には、それなりの理由があるはず。
が、母親側の言い分を聞くことはできない。
私とBさんの電話は、回を重ねた。
4~5回はしたと記憶している。
●理由
Bさんは、地元の国立大学(4年生)の教育学部を卒業している。
教員になるつもりだったが、卒業と同時に、現在の男性と恋愛。
そのまま婚約。
男性は、高卒で、大手の運輸会社で、整備工をしていた。
Bさんより、12歳、年上。
Bさんの母親は当初から、結婚に反対だった。
が、母親とBさんの間がこじれたのは、夫側の母親にも原因があった。
夫側の母親は、「良縁、良縁」と、喜んだ。
息子の結婚について、あきらめていた矢先のできごとだった。
が、Bさん側の母親が結婚に反対していると知ると、一転、結婚に反対し始めた。
プライドが高く、短気な人だった。
たがいに「何よ!」「あんたこそ、何よ!」ということになったらしい。
結婚式は、夫側の両親と友人たちだけが集まってしたという。
Bさん側(妻側)の両親、親類は、出席しなかった。
●縁を切る
親子でも、結婚を契機に疎遠になり断絶するケースは、少なくない。
昔は「格式が合わない」といって、たがいの両親が反対するケースがあった。
「年齢が合わない」というのも、よく理由になった。
が、結婚前後にこじれると、以後、修復されるということはまず、ない。
同じ浜松市内(人口80万人)に住みながら、20年間、一度も会ったことがないという親どうしもいる。
たがいにテリトリーのようなものを決めていて、相手の家には近づかないにしているという。
孫が、たがいの間をとりもつということはあるが、こじれ方が悪いと、一方が孫を独り占めするというケースになりやすい。
(他方は、孫とも縁を切る。)
『幸福な家庭はみな似ている。が、不幸な家庭はみなちがう』と、ある賢人は言った。
断絶には形はない。
中身も、千差万別。
が、こうした断絶は、即、「恨み」に走りやすい。
親子であるが故に、「憎」も、これまた深く、大きくなりやすい。
ある男性(「娘を取られた」と主張している)は、こう言った。
「相手の両親に、殺意すら覚える」と。
自分の娘ではなく、相手の両親というところに、この種の恨みの特徴がある。
●「ハイ、さようなら!」
「あんたを呪い殺してやる」と言った、Bさんの母親。
当初、その話を聞いたとき、「何という母親!」と、私は思った。
しかし母親の悲しみも、大きい。
子どものときから、苦労し、育て、やっとの思いで4年生の大学を出した。
先にも書いたように、母子家庭。
生活も楽ではなかった。
(こういう書き方をすると、今どきの若い人たちは、大きく反発するだろうが……。)
いっしょに夢を見ることもあったはず。
母親は母親で、娘夫婦との同居生活を夢見ていた(?)。
その娘が、卒業と同時に、「ハイ、さようなら!」(母親の言葉)と。
夫側の両親が出した年賀状は、Bさんの母親をさらに激怒させた。
その年賀状には、生まれたばかりの孫の写真を抱く、夫側の両親の写真が載っていた。
Bさんの母親は、その年賀状をビリビリに破り、娘に送り返したという。
で、最後の電話。
そのつど私は、Bさんの立場で、話をした。
が、私がこう言ったのを最後に、連絡は途絶えた。
Bさんは、そのつど「恩着せがましい母親が、許せない」と言った。
「何かあると、母は、私に、だれのおかげでここまで大きくなれたかわかっているのと言います。
私には、それが苦痛でした」と。
が、私はこう言った。
「あなたは、娘である自分が幸福になれば、親は喜ぶべきと考えているかもしれない。
しかし母親とて、1人の人間。
そんな簡単なことではない。
子どもに夢や希望を託し、子育てを人生の目標にしている人もいる。
あなたは、『私の母親は子離れできない、未熟な女性』と言うかもしれない。
が、私は未熟な女性とは、思わない。
あなたの気持ちもよくわかるが、あなたももう少し、母親の立場になって考えてみる必要があるのでは」と。
●『未知との遭遇』
……改めて、意識について考える。
というのも、こうしたケースでは、若い人たちと、私たちの世代とでは、考え方が180度ちがう。
そういうことも珍しくない。
それを説明するのに、こんな話もある。
昔、『未知との遭遇』という映画があった。
1977年に公開されたアメリカ映画である。
監督、脚本は、あのスティーブン・スピルバーグ。
あの映画の中では、形の上では、妻のロニーが先に夫のロイを捨てる形で、家を出る。
夫のロイは、そのあとデビルズタワー(地名)へ行き、そこでUFOに乗り込んでいく。
それについてスティーブン・スピルバーグは、最近になってテレビ番組の中で、こう述べている(2005年ごろ)。
「あの作品は、私が若いころ制作したもの。
今の私なら、ああいう映画は作らない」と。
つまり夫ロイは、妻や子どもたちを捨てて(?)、UFOに乗り込んでいく。
この「捨てる」という意識が、若い人たちと私たちの世代とでは、大きく異なる。
若い人たちで、あの映画を見て、「夫が妻や子どもたちを捨てた」と思う人はいない。
ロイはロイとして、当然のことをしたと思う。
が、実際には「捨てた」。
スティーブン・スピルバーグは、それを言った。
が、同じような展開の映画が、あの『タイタニック』。
どういう事情であれ、またどんな母親であれ、主人公のローズは、母親を捨てた。
これについては、すでに書いた。
が、私たちの世代には、それがよくわかる。
若い人たちには、それがわからない。
おおかたのアメリカ人にも、わからないだろう。
意識というのは、そういうもの。
国どころか、年代によっても、変わる。
が、子どもへの愛が、時として憎悪の念に変化することもある。
それが「呪い殺す」という言葉になった。
●ネズミを殺すために、家を燃やす
愛と憎は紙一重。
愛が深い分だけ、憎もまた深くなる。
が、ここで重要なことは、子どもを恨まないこと。
恨みを感じたら、できるだけ早い段階で、それに気づき、原因を取り除くこと。
ある賢人はこう言った。
『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』
(H・フォスディック)
つまり人を恨んでいると、心、つまりその人の人間性全体まで、大きな影響を受ける。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。
では、どうするか?
簡単に言えば、忘れる。
去る者は追わず、我が道を行く。
その一言に尽きる。
Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司
2012年6月22日金曜日
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