2012年6月21日木曜日
家族崩壊byはやし浩司
【第2章】
●家族崩壊
韓国に申京淑という作家がいる。
その申京淑の書いた小説、『ママをお願い』が、フランスで話題になっているという(韓国・東亞日報・2011年6月)。
申氏は、在フランス韓国文化院での出版記念館で、つぎのように述べている。
『「家族崩壊をいち早く経験した西洋人が、果たして韓国文化や情緒を理解できるだろうか」という質問に対し、「文学においては、同質であることが必ずしも良いものではない。
見慣れないものとコミュニケーションを図り、それを受け入れる開かれた気持ちで共感することが、より重要かもしれない』(以上、東亞日報より抜粋)と。
ここで出てくる「家族崩壊」という言葉に注意してほしい。
「家庭崩壊」ではない。
「家族崩壊」である。
けっして他人ごとではない。
わかりやすく言えば、欧米では「家族崩壊」が当たり前。
「家族」というシステム(意識ではなく、システム)そのものが、崩壊している。
その上で社会のしくみが、成り立っている。
一方、この東洋では、親と子が、強い粘着力をもってつながっている。……つながっていた。
が、今、その粘着力が、急速に失われつつある。
私は称して、「パサパサ家族」と呼んでいる。
●パサパサ家族
たとえばこの浜松市でも、東海随一の工業都市でありながら、一度東京などの都会へ出た子どもは、戻ってこない。
「戻ってきても、10人に1人くらいかな」(浜北H中学校校長談)という程度。
浜松市でも、家族崩壊は起きている。
いわんや過疎地と言われる地方の町や村では、この傾向は、さらに強い。
が、申氏は、そのことを言っているのではない。
申氏は、こう述べている。
『その後、「私たちは何時も、母親からの愛を溢れるほど受けてばかりいながら、何時もごめんねという言葉を聞かされて育った。
私たちが当たり前のように耳にしながら育ったこの言葉は、いざ両親に対してはかけたことがない。
言葉の順番が変わるべきだという気がした』(同)と。
つまり「家族崩壊」の背景には、この「一方向性」がある。
親から子への一方向性。
親はいつも子のことだけを考える。
が、子は、親のことは何も考えない。
だから「一方向性」。
またそれが原因と考えてよい。
それが原因で、家族は崩壊する。
申氏は、「親はつねに子どもたちに対して、『ごめんね』と声をかける。
しかし子どもの側から、そうした言葉が発せられたことはない。
家族崩壊、つまり人間関係がパサパサしてきた原因のひとつに、この一方向性がある。
●保護と依存性
日本では、親のことを、「保護者」という。
韓国でもそうだと理解している。
しかし保護と依存の関係は、申氏が指摘するように、つねに一方向的なもの。
保護する側は、いつも保護する。
依存する側は、いつも依存する。
そして一度、この保護・依存の関係ができあがると、それを変えるのは容易なことではない。
それを基盤として、人間関係が構築されてしまう。
が、悲劇はそのあとにつづく。
当初は感謝していた依存側も、それがしばらくつづくと、「当然」になり、さらにつづくと、今度は依存側が、保護する側に向かって、それを請求するようになる。
親子関係とて、例外ではない。
ある息子氏は、結婚式の費用を親に請求した。
が、そのとき親は定年退職をしたあと。
貯金はあったが、老後資金としては、じゅうぶんではなかった。
それもあって「なら、半分くらいなら……」と答えた。
が、この言葉が、息子氏を激怒させた。
「親なら、結婚式の費用くらい、負担してくれてもいいだろ!」と。
以後、息子氏は、親との縁を切った。
「2、30年後に、許してやる!」と
親が言ったのではない。
息子氏が、「許してやる」と言った。
その親は、私にこう言った。
「息子が学生のときは、生活費のほか、毎月のようにお金を貸しました。
『就職したら返す』と言っていました。
で、東京の大手運輸会社に就職しましたが、当初の2年間は、『給料が少ない』と言っては、毎月のように、借金の催促がありました。
『マンションを引っ越すから、お金を貸してほしい』と言ってきたこともあります。
200万円でした。
『特殊車両の運転免許を取るため、30万円貸してほしい』と言ったこともあります。
そのつど『給料があがったら、返す』と言っていました。
が、縁を切った(?)ことをよいことに、以後、ナシのつぶてです。
もう3年になります」と。
この話は事実である。
というのも、こうしたエッセーで(事実)を書くときは、その本人とわからないように書く。
いくつかの話しをまとめたり、あるいは別の人物の話として書く。
が、あまりにも非常識な話しなので、あえて事実を書いた。
つまりこれが「家族崩壊」である。
家族崩壊の根底には、保護・依存の関係がある。
それがいびつな形で増幅したとき、ここに書いたようなできごとが起こる。
●家族崩壊
申氏には悪いが、申氏は、ひとつ事実誤認をしている。
申氏には、欧米の家族が、「家族崩壊」に見えるかもしれない。
しかし欧米では、伝統的にそうであり、それが社会の中で、「常識」として定着している。
どんな小さな町にも、オールドマン・ビレッジがあるのもそのひとつ。
だからたとえばアメリカ映画などをみても、そこにあるのは、両親と子どもだけ。
祖父母がからんでくることは、まず、ない。
そのため社会のシステムそのものが、それを包む形で完成している。
が、この日本では、そうでない。
若い人たちの意識だけが、先行する形で欧米化してしまった。
社会のシステムが置き去りになってしまった。
そのため多くの老人や、老人予備軍の退職者たちが、言うなれば「ハシゴをはずされてしまった」ような状態になっている。
またこうした悲劇は、地方の町や村で顕著に現われている。
北信(長野県北部)から来た男性(75歳くらい、元高校教師)はこう言った。
「過疎化なんて言葉は、一昔前のもの。
私にも息子と娘がいますが、娘とは、もう20年以上、会っていません」と。
●ハリウッド映画
たまたまこの原稿を書いているとき、映画『君への誓い(The Vow)』を見てきた。
お涙頂戴の、2流映画だった。
星は2つもきびしい、★★。
1人、レイチェル・マクアダムス(主人公の女性)の演技だけが、光った。
美しい女優だが、ちょっと歳を取りすぎたかな……という感じ。
髪の毛を長くし、若くは見せていたが……。
その中で、こんなシーンがあった。
主人公のページ(レイチェル・マクアダムス)は、進学の問題がこじれ、両親と3年近く、音信を切る。
ページのほうが、家を飛び出したらしい。
(アメリカでは、息子や娘のほうが、親と縁を切ることが多い。)
で、それについて、ページの夫、レオ(筋肉ムキムキのハンク)が、ページの両親にこう詰め寄る。
「親なら、(3年間も娘を放っておかず)、修復を試みるべきだった」(記憶)と。
つまり家を飛び出した娘が悪いのではない。
修復を試みなかった親の方が悪い、と。
この発想は、まさにアメリカのハリウッド映画そのもの。
もっと正確には、アメリカ西部の、親子意識をそのまま表象している。
で、現在の日本は、その影響をまともに受けている。
よい例が、あの映画『タイタニック』。
●タイタニック・シンドローム(症候群)
ローズは、母親を棄て、名前を聞かれたとき、「ローズ・ドーソン」と答える。
「ドーソン」というのは、ジャックの名前。
「ローズ・ドーソン」と答えた瞬間、ローズは、母親を棄てた。
観客は、ローズの立場で、つまり母親を悪者ととらえることで、ローズの行動に納得する。
しかし本当に、そうか?
そう考えてよいのか?
聞くところによると、そのあとローズの母親は、生涯、ローズを捜しつづけたという……というのは、ウソだが、親には親の気持ちがある。
(あなたが親として、子どもにもつ愛情を振り返ってみれば、それがわかるはず。)
ジャックにしても、そうだ。
ジャックにも両親がいた。
その両親の気持ちは、どうなのか?
もしあの話が実話なら、ジャックの両親は、死ぬまでジャックを探しつづけただろう。
言い換えると、現代の若い人たちは、あまりにも勝手すぎる。
それがあの映画『タイタニック』ということになる。
称して、「タイタニック・シンドローム(症候群)」。
恋愛第一主義。
「恋愛」こそがすべて。
恋愛が、人生の柱。
恋愛したら、すべてを棄てる。
親をも棄てる。
それが「タイタニック・シンドローム」。
●変わる意識
先週、ある知人宅(67歳)を訪れた。
この15年来、たがいに行き来している。
いわゆる3世代同居家族で、知人は、息子夫婦(ともに40歳前後)のために畑をつぶし、そこに家を建てた。
もちろん費用は、全額、知人(親)の負担。
孫も2人いて、知人夫婦が、家でめんどうをみている。
その知人が、こう言った。
「息子のヤツがね、私にこう言うんですよ。
おやじね(=知人のこと)、死ぬときは、老人ホームで死んでよね、ってね」と。
自宅では介護できないし、共働きだから、めんどうをみられないということらしい。
また今、自宅で老人が死ぬと、即、警察が検死にやってくる。
知人の息子夫婦は、それを心配しているらしい。
しかしそれにしても、「老人ホームで死んでよね」は、ない。
一昔前には、私たちはこう言った。
「おやじやおふくろは、死ぬときは、自宅の畳の上で、死なせてやりたい」と。
が、今は、時代が変わった。
日本人がもっている意識そのものが、変わった。
なお、私はその息子夫婦とは、ときどき話をすることがある。
ごくふつうの、見た目には、やさしそうな人たちである。
そんな夫婦でも、そう言う。
が、こんな例もふえてきた。
●小5のIさん
昨日、小5のIさん(女児)がこう言った。
「私、SR進学塾にも通っている」と。
隣にいたMさん(女児)がそれを聞き、「受験するの?」と。
するとIさんは、「ううん、ただ通っているだけ。中学も高校も、ふつうの学校にする」と。
……今、そういう子どもがふえている。
子どもというより、親の意識も、こうした変化に応じて、より現実的になりつつある。
●外へ出る
もう10年ほど、前のこと。
名前は忘れたが、こんなことを言っている祖母がいた。
「へたに学力をつけると、外へ出て行ってしまうから、子どもには学力をつけさせない」と。
そのため、「勉強しなさい」と子どもを叱る母親と、「勉強なんかしなくてもいい」と諭(さと)す祖母との間で、嫁姑戦争が起きている、と。
当の母親からそういう相談を受けたときには、「何という祖母!」と思った。
……というか、当時の私の常識には、まったく反していた。
が、今にして思うと、その祖母には、祖母の哲学があった。
「外へ出て行ってしまう」ということは、家族崩壊を意味する。
「崩壊」とわからないまま、崩壊してしまう。
●希薄になる親子関係
自分の子どもが行方不明になれば、親は、必死になってその消息を
求める。
が、子どものほうは、どうか。
つぎの調査結果をみてほしい。
それが結論ということになる。
あるいは親子というのは、もともとそういうものなのか。
またそう考えてよいのか。
今どきの若者たちに、親が、「親のめんどうはどうするのか?」と聞くと、こう答える。
「お前は(=親は)、見返りを求めて、オレたち(=自分)を育ててきたのか!」と。
あるいは気持ちをたずねただけで、「干渉」「束縛」「拘束」とかいう言葉を使って、はねのける。
日本と韓国は、双子国と揶揄(やゆ)されるほど、中身がよく似ている。
日本人の親子関係も希薄なら、韓国人の親子関係も希薄になりつつある。
そんな中で、申京淑は、『ママをお願い』を書いた。
フランス人に、強烈な印象を与えた。
●掛け軸の言葉
が、多くの親たちは、「うちにかぎって、そういうことはない」と思い込んでいる。
つまり幻想にしがみついている。
しかし幻想は、幻想。
いくら親ががんばっても、子どもたちは子どもたちの世界で、自らの哲学を作り上げていく。
親がもっている価値観など、子どもたちの世界では、床の間の掛け軸ほどの意味もない。
いくら立派なことが書いてあっても、ただの飾り。
意識というのは、そういうもの。
社会へ出たとたん、吸い取り紙が水を吸い取るように、周囲の哲学を吸収していく。
それがわからなければ、あなた自身を観察してみればよい。
あなたは将来、親のめんどうをみるのか。
その意識はあるのか。
●社会的重圧感
たいていの人は、「もちろんある……」と答えるだろう。
が、待ったア!
その意識にしても、相対的なもの。
私たちの世代は、外に出たものは、そのほとんどが、実家への仕送りを欠かさなかった。
私の意識というよりは、それが当時の常識だった。
私も、吸い取り紙のように、周囲の常識を吸収していた。
みながそうしていたから、私もそうした。
今のワイフと結婚するときも、毎月、実家への仕送りが条件になっていた。
毎月だぞ!
だからワイフは結婚してからも、以後、私が45歳になるまで、一度もそれを欠かさなかった。
それだけではない。
27歳ごろからは、実家での冠婚葬祭の費用、さらには税金の支払い、商品の購入代金の支払いまで、私が負担するようになった。
が、経済的な負担というより、社会的な負担……「重圧感」と書いた方が正確かもしれない。
が、それには相当なものがあった。
母の哲学と、私の哲学が、まっこうから対立した。
死生観そのものが、ちがった。
たとえば母は、冠婚葬祭だけは、派手にやった。
そのたびに、20万円~30万円の現金が消えた。
私はそれを乗り越えなければならなかった。
さらに言えば、私の母は最期の2年間を、私の家で過ごした。
最初の1年間は、私の家で過ごした。
もちろん便の始末などは、すべて私がした。
ワイフにはさせなかった。
つまりそこまでしてはじめて、「めんどうをみた」という。
●恋愛第一主義
私たちの世代にとっては、「親のめんどうをみる」というのは、それをいう。
またその程度のことをして、はじめて、「親のめんどうをみた」となる。
が、その意識も変わった。
盆と暮れに実家へ帰る程度で、「親のめんどうをみている」と、多くの若い人たちは考えている。
が、今ではそれすらしない若い人たちもふえている。
多くは、結婚したとたん、「ハイ、さようなら!」。
おかしな恋愛第一主義が、はびこっている。
古い世代と思われるかもしれないが、私たちの時代には、そうではなかった。
親の許可がないと、結婚できなかった。
私自身も学生時代、恋愛をした。
が、「収入がない」という理由で、結婚をあきらめた。
が、いまどき「許可」を求める若い人たちはいない。
恋愛したとたん、それがすべて。
後先のことも考えず、「結婚します!」と。
「恋愛」を、一世一代の大仕事と誤解している。
が、そんなことなら、そこらのイヌやネコでもしている。
サルでもしている。
だからというわけでもないが、その一方で、離婚率も鰻上り。
現在離婚率は、30%近くになっている。
(注……離婚率の算出の仕方はむずかしい。
たとえば平成19年度には、結婚した人の数が71万9822人に対して、離婚した人の数は25万4832人となっている。
単純に、離婚した人を、結婚した人の数で割ってみると、35・4%という数字が出てくる。)
●無縁老人
それもあって独居老人がふえている。
しかも従来、親子関係が濃密と思われていた農村部で、ふえている。
もちろん都会部でも、ふえている。
この先すぐ、つまり私たちが後期高齢者になるころは、約60%の人たちが独居老人になると言われている。
が、今はさらに一歩進んで、「無縁老人」。
それもそのはず。
2050年には、1・2人の勤労者が、1人の老人を支えなければならなくなる。
(現在は、2・6人の勤労者が、1人の老人を支えている。)
少子高齢化の問題が、いかに深刻なものであるかは、この数字を見ただけでもわかる。
「2050年」と言えば、38年後。
あなたの年齢に、38歳を足してみればよい。
それがあなたの老後ということになる。
●葬儀
もっともこの先、葬儀など、望むほうが無理。
先にも書いたように、2050年には、1・2人の日本人が、高齢者1人を支えるようになる。
(表は、「2050年問題・サイト」より、コピー・転載)
この表を見てもわかるように、2050年には、人口は9000万人に減る。
その一方で、65歳以上の高齢者がふえ、全体の38・9%を占めるようになる。
15~65歳までが、52・3%。
(「15歳」というのは、中学を卒業する年齢である。)
52・3を、38・9で割ってみると、1・34という数字が出てくる。
全員が中学を卒業すると同時に働き始めたとしても、1・34人(男女含む)が、1人の高齢者
(65歳以上)を支えることになる。
この表から推計すると、「18歳以上の人が1・2人に対し、高齢者が1人」ということになる。
と考えると、「1・2人」というのは、単純な割合比であることがわかる。
つまり、男女も含め、すべての人が働いたとしても、1・2人の人が、1人の高齢者を支えるということになる。
しかしこんなことは不可能!
つまり1・2人の人が、1人の高齢者を支えるなどということは、不可能。
●2050年
2050年というと、38年後。
逆算すると、65-38=27歳。
現在(2012年)、27歳の人たちが65歳になったときに迎える、これはまさに近未来の日本の姿ということになる。
50歳とか60歳の人の話ではない。
現在、30歳前後の人たちの話である。
現在、30歳前後の人たちが、65歳になるころには、この日本は、超の上にもうひとつ「超」がつく、超・超高齢者社会になる。
が、このグラフを見てもわかるように、2050年に人口の減少が止まるわけではない。
さらに日本の人口は減りつづける。
高齢者の割合は、さらに高くなる。
2080年には、2050年までの30年間の変化のままであるとすると、つぎのようになる。
人口は、さらに3200万人、減る。
高齢者の割合は、さらに10・1%、ふえる。
その結果、日本の人口は、7000万人。
高齢者の割合は、49・0%!
こんな近未来を前に、葬儀だ何だの言っているほうが、バカげている。
葬儀をする人そのものが、いなくなる。
●無縁仏の増加
同時に、今、無縁仏が増加しているという。
「無縁仏(むえんぼとけ)とは、供養する親族や縁者のいなくなった死者またはその霊魂、またはそれらを祭った仏像や石仏などを意味する」(ウィキペディア百科事典)とある。
で、どれくらい増加しているのか。
あちこちのサイトを調べてみた。
が、どうもはっきりしない。
「都市部で10%」と書いているサイトもあった。
「名古屋市で急増加中」と書いているサイトもあった。
が、都市部よりも、実は、農村部のほうが多いという説もある。
長野県の北部(北信)の寺ではどこでも、無縁仏だけを集める、慰霊碑の建立が当たり前になっているという(友人談)。
若い人たちが都会に出る。
そのまま帰ってこない。
無縁仏がふえる。
そういう流れになっているらしい。
無縁仏の定義も定かではない。
寺自体が、無住になっているケースも多い。
実数の把握は、むずかしいようだ。
●居直る
だったら、居直るしかない。
「どうしよう?」と悩んでいても、道は見えてこない。
先にあげた表を見てもわかるように、これはもう動かしがたい「事実」である。
「この先、60%の人が、孤独死もしくは無縁死を迎え、発見までの平均日数は、死後6日」という数字まで、聞こえてくる。
「この先」とは、いつのことを言うのか?
そういう問題もあるが、「60%」でも、まだよいほうかもしれない。
そのうち70%になるかもしれない。
どうであれ、この文章を読んでいるあなたが、その60%に含まれる可能性は、きわめて高い。
「私には息子がいる」「娘がいる」と、高をくくっている人ほど、あぶない。
息子や娘が、親のめんどうをみる時代は、すでに終わった。
反対に、あなたという親が、いつまでも息子や娘のめんどうをみる時代に入っている。
ウソだと思うなら、あなたの周辺を冷静に観察してみればよい。
年老いた両親が、若い夫婦のめんどうをみているという話はよく聞く。
が、その反対は、ほとんどない。
さらに「親孝行も遺産次第」と考えている若い人たちが、増加している。
「それなりの遺産があれば、めんどうをみる。そうでなければそうでない」と。
(この話とて、すでに20年前の話だぞ。)
私が、ほんの数か月前に聞いた話には、こんなのがある。
嫁が夫の実家へやってきて、こう言った。
「100万円、よこせ」と。
そこで80歳を過ぎた母親が、「5万円くらいなら……」と言って、5万円を渡すと、その嫁は、そ
の5万円を廊下に叩きつけて帰っていった。
(実の娘ではなく、嫁がだぞ!)
もっともこんな話は、例外。
●加山雄三
どうしてこのエッセーに、「加山雄三」が出てくるか?
理由は簡単。
あの加山雄三がギターを片手に、「♪二人を夕闇がア~」と歌った。
そのとたん、日本人の意識は大きく変わり始めた。
すでにその時、底流はあったのかもしれない。
ともかくも、そのときから、恋愛至上主義が始まった。
いや、ひょっとしたら、私たちは「恋愛」の中に、「自由」を見たのかもしれない。
それまでの私たちは、体中を、ぐるぐると取り巻いていたクサリに、もがき、苦しんでいた。
加山雄三はアメリカ式の恋愛映画を見せてくれることで、それを取り除いてくれた。
たとえひと時の幻想ではあっても、甘い夢を見ることで、自分をなぐさめることができた。
加山雄三がまちがっていたというのではない。
加山雄三は、そのクサリを解いてくれた。
が、今、そのクサリを解きすぎてしまった。
ユルユルから、パサパサに。
●親としての限度
老後は、確実にやってくる。
それもあっという間にやってくる。
私自身もそうだった。
つまり私も、20代、30代のころは、老後なんて、ありえない世界のように考えていた。
だから50歳になった人を見たとき、とんでもないジーさんのように感じた。
が、その私ももうすぐ65歳になる。
そういう自分を振り返ってみても、「あっという間」だった。
つまり今、もしあなたが、「老後の問題など、私には関係ない」と思っているとしたら、それはとんでもないまちがい、ということになる。
回りくどい言い方をしたが、あなたはあなたで、自分の老後を最優先で考えたほうがよい。
子どもは子ども。
子どもの学費は学費。
しかしそこには一定の限度をしっかりともつ。
「親としてやるべきことはする。しかし限度を超えてはしない」と。
●親子関係の復権
IGさんが、そう言ったとき、私はすかさず、こう言った。
「君のお母さんは、賢い人だよ」と。
「あなたも、お父さん、お母さんの近くで住みなさいよ」と。
言い忘れたが、IGさんは、ひとり娘。
それを聞いて、IGさんは、にっこりと笑った。
が、これはけっしてIGさんの両親のことだけを考えてでのことではない。
IGさん自身にとっても、そのほうがよい。
そうでなくても、……つまり家族の絆があっても、生きていくだけでたいへん。
こんな世相で、家族がバラバラで、どうやって生きていくというのか。
●日本の将来
とても悲しいことだが、日本の将来は、暗い。
去年の8月から始まった経済混乱を契機に、日本も、やがてすぐ他のアジアの国々と同等、あるはそれ以下になる。
日本人が外国へ出稼ぎにいかねばならなくなる時代は、すぐそこまできている。
これは可能性の問題ではない。
確実な数字として、そう予測されている。
わかりやすく言えば、きれいごとだけでは、子育てはできないということ。
それとも死ぬか、生きるかという瀬戸際に立たされたときでも、あなたは子どもに向かって、こう言うことができるか。
「親のめんどうはみなくてもいい。お前はお前で、自由に空をはばたけ」と。
羽ばたき方に、意味があるのなら、それもよいだろう。
が、それは怪しい?
それほどまでに意味のある仕事をしている人は、少ない?
……という悲観的な見方はさておき、現実は現実。
子育ても、その現実を見失っては、できない。
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