【第3章】
【少子化の中で、スポイルされる子どもたち】
★Those who educate children well are more to be honored than parents, for these gave
only life, those the art of living well. - Aristotle
子どもをよく教育するものは、両親より、称えられる。
なぜなら、両親は、命を与えるだけだが、子どもをよく教育するものは、生きる技術を与えるからである。
アリストテレス
●構造的な変化
私たちが若いころには、親のスネをかじり、遊びまくっている若い人を、ドラ息子、ドラ娘と呼んだ。
が、今では、ドラ息子、ドラ娘が主流。
そうでない若い人を探す方が、むずかしい。
「一億、総ドラ息子、ドラ娘」と言ってよい。
そんな状況が生まれつつある。
原因の第一は、飽食とぜいたく。
少子化が拍車をかけた。
英語では「スポイル(spoil)」という言葉を使う。
で、もう12年ほど前のことだが、アメリカ人の友人がこう言った。
「ヒロシ、日本の子どもたちは、みな、スポイルされているよ」と。
彼は日本へ来る前、アメリカで高校の教師を30年間していた。
退職後日本へやってきて、英会話の講師をしていた。
気になったので、私はその友人にこう聞いた。
「君は、日本の子どものどこを見て、そう言うのか?」と。
彼は、こう答えた。
「ときどきホームステイさせてやるのだが、何も手伝わない。
食事の用意をしているときも、遊んでいるだけ。
食後も、食器を洗わない。
風呂は、アワだらけ。
朝起きても、ベッドをなおさない。
何もしない」と。
反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた日本の高校生が、こう言って驚いていた。
「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。
日本の子どもたちは、構造的に変化した。
その原因として、日本の子どもたちのドラ息子、ドラ娘化がある。
●耐性
平たく言えば、生活への耐性がない。
許容度でもよい。
寛容度でもよい。
許認度でもよい。
わかりやすく言えば、「やさしさ」。
ともかく、相手をそのまま受け入れ、それを認める度量のことを、「耐性」という。
この耐性は、相手への「想い」によっても異なるが、それが広い子どももいれば、そうでない子どももいる。
そうでない子どものことを、昔は、ドラ息子、ドラ娘と呼んだ。
ささいなことで、相手を好きになったり、嫌いになったりする。
とくに(嫌いになる)部分がはげしく、露骨。
それを平気で態度で示したり、言葉で示したりする。
●思春期
Mさんという中学1年の女の子がいた。
頭は切れ、学校での勉強もよくできた。
市内の進学校に通っていたが、成績はクラスでも1、2番だった。
そのMさんが、ある日、私にこう言った。
「私ね、老人を見ると、生理的な嫌悪感を覚えるのね」と。
「生理的な嫌悪感」という言葉が強く印象に残った。
で、私が「その生理的嫌悪感って、何?」と聞くと、こう話してくれた。
「トイレでもさあ、便器にうんちがついていると、使う気しないでしょ。
あれと同じよ」と。
私はそのとき50歳を過ぎていたのではなかったか。
そろそろ老人組を意識し始めたころである。
で、私が反発して、「君だって、いつかはその老人になるんだよ」と諭すと、こう言い返した。
「私は、老人には、ならない!」と。
自己中心性も、ここまでくると、バカ。
頭の善し悪しではない。
ものの道理がわからないから、バカ。
●甘やかし
極端な甘やかしと、極端なきびしさ。
一貫性のない親の育児姿勢が、子どもをドラ息子、ドラ娘にする。
甘やかしにより、規範そのものが崩れる。
一方、アンバランスなきびしさが、子どもを反抗的にする。
わがままで、自分勝手。
思うようにことが運ばないと、キレる……。
一方で甘やかす。
子どもに気を使う。
過干渉というよりは、子どもの機嫌を取る。
欧米では、『子どもをだめにするためには、子どものほしがるものを何でも与えよ』という。
しかしこのタイプの親は、『子どもがほしがる前に、何でも与えてしまう』。
しかしその甘やかしに手を焼き、ときとして、きびしく接する。
はじめは、小さなすき間だが、それが繰りかえされるうち、やがてすき間が広がる。
(甘やかす)→(ますますきびしく接する)→(甘やかす)の悪循環の中で、親の手に負えなくなる。
一貫性のない親の育児姿勢が、子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。
このタイプの親には、共通点がある。
(1) 溺愛性(生活のすべてが、子ども中心)
(2) 育児観の欠落(どういう子どもに育てたいのか、その教育観が希薄)
(3) 飽食とぜいたく(どちらかというと、余裕のある裕福な家庭)
(4) 視野が狭い(目先のことしか、考えていない)
(5) 見栄っ張り(世間体や外見を重んじる)
(6) 代償的過保護(子どもを自分の思いどおりにしたいという思いが強い)
(7) 親自身も、ドラ息子、ドラ娘的(自分がドラ息子、ドラ娘的であることに気づかない)
これらの特徴と併せて、
(8)一貫性がない。
そのときの気分で、子どもに甘く接したり、きびしく接したりする。
とくに重要なのは、幼児期の前期(自律期)(エリクソン)。
この時期に一貫性のない育児をすると、子どもは自律性のない子どもになる。
●A君の例
A君(6歳、架空の子ども)を例にあげて、考えてみよう。
A君の父親は、もの静かな人だった。
一方、母親は派手好き。
裕福な家庭で、生まれ育った。
ほしいものは、何でも買い与えられた。
A君は、生まれたときから、両親の愛情に恵まれた。
近くに祖父母もいて、A君の世話をした。
A君は、まさに「蝶よ、花よ」と育てられた。
母親は、A君に楽をさせること、楽しい思いをさせることが、親の愛の証(あかし)と考えていた。
A君は、その年齢になっても、家の手伝いは、ほとんどしなかった。
いや、するにはしたが、とても手伝いとは言えないような手伝いをしただけで、みなが、おおげさに喜んでみせたり、ほめたりした。
「ほら、Aが、クツを並べた!」「ほら、Aが、花に水をやった」と。
が、やがて、A君のわがままが目立つようになった。
あと片づけをしない、ほしいものが手に入らないと、怒りを露骨に表現するなど。
母親は、そのつど、A君をはげしく叱った。
A君は、それに泣いて抗議した。
A君は、幼稚園へ入る前から、バイオリン教室、水泳教室、体操教室に通った。
夫の収入だけでは足りなかった。
A君の母親は、実家の両親から、毎月、5~8万円程度の援助を受けていた。
夫には内緒、ということだった。
A君は、そこそこに伸びたが、しかしそれほど力のある子どもではなかった。
そのためA君の母親は、ますますA君の教育にのめりこんでいった。
そのころすでにA君は、オーバーヒート気味だったが、母親は、それに気づかなかった。
「やればできるはず」式に、A君に、いろいろさせた。
A君がだれの目にもドラ息子とわかるようになったのは、年長児になったころである。
好き嫌いがはげしく、先にも書いたように、自分勝手でわがまま。
簡単なゲームをさせても、ルールを守らなかった。
そのゲームで負けると、大泣きしたり、あるいはまわりの人に乱暴を繰りかえしたりした。
人格の完成度が遅れた。
他人の心が理解できない。
自己中心的。
ほかの子どもたちとの協調性に欠けた。
幼稚園の先生が何か仕事を頼んでも、A君は、機嫌のよいときはそれをしたが、そうでないときは、いろいろ口実を並べて、それをしなかった。
小学2、3年生になるころには、母親でも、手に負えなくなった。
そのころになると、母親にも乱暴を繰りかえすようになった。
母親を蹴る、殴るは、日常茶飯事。
ものを投げつけることも重なった。
が、A君は、自分では、何もしようとしなかった。
学校の宿題をするだけで、精一杯。その宿題すら、母親に、手伝ってしてもらっていた。
……という例は、多い。
今では、10人のうち、何人かがそうであると言ってよいほど、多い。
が、何よりも悲劇的なのは、そういう子どもでありながらも、母親が、それに気づくことがないということ。
『溺愛は、親を盲目にする』。
A君の母親は、ますます献身的に(?)、A君に仕えた。
こういうとき母親がそれに気づき、私のようなものに相談でもあれば、私もそれなりに対処できる。
アドバイスもできる。
しかしそれに気づいていない親に向かって、「あなたのお子さんには、問題があります」とは、現実には、言えない。
言ったところで、そのリズム、つまり子育てのリズムを変えることは、不可能。
親にとっても、容易なことではない。
そのリズムは、子どもを妊娠したときから、はじまっている。
そんなわけで、わかっていても、知らぬフリをする。
が、やがて行き着くところまで、行き着く。
親自身が、袋小路に入り、にっちもさっちも行かなくなる。
が、そのときでも、子どもに問題があると気づく親は少ない。
「うちの子にかぎって……」「そんなはずはない……」と、親は親で、がんばる。
A君のドラ息子性は、さらにはげしくなった。
小学5、6年になるころには、まさに王様。
食事も、ソファに寝そべって食べるようになった。
母親が、そこまで盆にのせて、A君に食事を届けた。
母親は、A君のほしがるものを、一度は拒(こば)んではみせるものの、結局は、買い与えていた。
「機嫌をそこねたら、塾へも行かなくなる」と。
本来なら、こうした異常な母子関係を調整するのは、父親の役目ということになる。
が、A君の父親は、静かで、やさしい人だった。
(「やさしい」というのは、このばあい、「無責任」という意味だが……。)
家庭のことには、ほとんど関心を示さなかった。
仕事から帰ってくると、自分の部屋で、ひとりでビデオの編集をして時間をつぶしていた。
……というわけで、子どものドラ息子性、ドラ娘性の問題は、いかに早い段階で、親がそれに気づくか、それが大切。
早ければ早いほど、よい。
できれば3、4歳ごろには、気づく。
(それでも遅いかもしれない。)
というのも、この問題は、家庭がもつ(子育てのリズム)に、深く関係している。
そのリズムを変えるのは、容易なことではない。
1年や2年はかかる。
あるいは、もっと、かかる。
さらに親自身がもつ、子育て観を変えるのは、ほぼ不可能とみてよい。
それこそ行き着くところまで行き、絶望のどん底にたたき落とされないかぎり、親も、それに気づかない。
ある母親は、自分の子ども(中3男子)が、万引き事件を起こしたとき、一晩で、事件そのものを、もみ消してしまった。
あちこちを回り、お金で解決してしまった。
また別の子ども(高1男子)は、無免許で車を運転し、隣家の塀を壊してしまった。
そのときも、母親が、一晩で、事件そのものをもみ消してしまった。
こういうことを繰りかえしながら、親はドン底にたたき落とされる。
で、やっとそのころになると、自分の(まちがい)に気づく。
それまでは、気づかない。
ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなた自身も、その1人かもしれない。
が、ほとんどの人は、こういう文章を読んでも、「私には関係ない」と、無視する。
これは子育てがもつ、宿命のようなもの。
そこで教訓。
●親の責任
あなたの子どもが、わがままで自分勝手なら、子どもを責めても意味はない。
責めるべきは、あなた自身。
反省すべきは、家庭環境そのもの。
あなたの育児姿勢。
家庭のリズム。
あなたの人生観、それに子育て観。
子どもだけを見て、子どもだけをなおそうと考えても、ぜったいになおらない。
なおるはずもない。
この問題は、そういう問題である。
では、どうするか。
●子どもをよい子にしたいとき
「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。
それを一口で言ってくれ。
私は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。
「あんたの本を、何冊も読む時間など、ない」と。
私はしばらく間をおいて、こう言った。
「使うことです。使って使って、使いまくることです」と。
そのとおり。
子どもは使えば使うほど、よくなる。
使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。
それだけではない。
忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。
この忍耐力や根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。
ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。
●ドラ息子症候群
(1) ものの考え方が自己中心的
自分のことはするが他人のことはしない。
他人は自分を喜ばせるためにいると考える。
ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。
自分の思いどおりにならないと、不機嫌になる。
あるいは自分より先に行くものを許さない。
いつも自分が皆の中心にいないと、気がすまない。
(2) ものの考え方が退行的で、約束やルールが守れない
目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。
あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。
生活習慣そのものがだらしなくなる。
その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。
(3) ものの考え方が無責任
他人に対して無礼、無作法になる。
依存心が強い割には、自分勝手。
わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。
(4) バランス感覚が消える。
ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動することができない、など。
●原因は家庭教育に
こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。
エリクソンが説く、幼児期後期。
しかし一度この時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。
ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因がある。
また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもをなおそうとする。
あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねのけてしまう。
あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。
●子どもは使えば使うほどよい子に
日本の親は、子どもを使わない。
本当に使わない。
「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛だ」と誤解しているようなところがある。
だから子どもにも生活感がない。
「水はどこからくるか」と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。
「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさんが捨ててくれる」と。
あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、いい」と答えたりする。
生活への耐性そのものがなくなることもある。
友だちの家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。
話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。
そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。
子どもが2~4歳のとき(幼児期前期)が勝負で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。
●いやなことをする力、それが忍耐力
で、その忍耐力。
よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。
そういう力を勉強に向けてくれたらいいのですが……」と言う親がいる。
しかしそういうのは忍耐力とは言わない。
好きなことをしているだけ。
幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。
たとえば台所の生ゴミを始末できる。
寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。
風呂場の排水口にたまった毛玉を始末できる。
そういうことができる力のことを、忍耐力という。
こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。
そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。
その子どものお母さんは、こう話してくれた。
「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。
こういう子どもは、学習面でも伸びる。
なぜか。
●学習面でも伸びる
もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。
漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。
その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。
反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。
……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。
「何をやらせればいいのですか」と。
話を聞くと、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。
買物といっても、食材は、食材屋さんが毎日、届けてくれる。
洗濯も今では全自動。
料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされると、かえってじゃま。
テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。
●家庭の緊張感に巻き込む
子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
親が寝そべってテレビを見ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。
子どもを使うということは、親がキビキビと動き回り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。
たとえば……。
あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。
そしてそれをあなたの子どもが見つけたとする。
そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。
しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したほうがよい。
やらせることがないのではない。
その気になればいくらでもある。
食事が終わったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。
そこで洗わせる。
フキンで拭かせる。さらに食器を食器棚へしまわせる、など。
子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。
たとえば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。
庭の草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。
そういう雰囲気で包むことをいう。
何をどれだけさせればよいという問題ではない。
要はそういう子どもにすること。
それが、「いい子にする条件」ということになる。
●バランスのある生活を大切に
ついでに……。
子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。
(1) 生活感のある生活に心がける。
ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうことをわからせる。
あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るのだ」という意識をもたせる。
(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。
子どもの前では、ぜいたくは禁物。
『見せる質素、見せぬぜいたく』と覚えておくとよい。
(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。
「いやなことをする力……それが忍耐力」ということは、先に書いた。
そのために家事をさせる。
たとえばニュージーランドでは、学校から帰宅後、食事の前の時間は、子どもたちは家事を手伝う。
「学校の宿題はいつするの?」と聞くと、みな、こう答える。
「夕食後」と。
(4)生活のルールを守らせる。
「ウソをつかない」「約束を守る」。
子どもにそうさせろというのではない。
親が見本としてそれを見せ、子どもの体の中にしみこませておく。
(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。
便利イコール、善ではない。
快適イコール、善ではない。
欲望を満たすことに、慣れきった子どもは、条件反射的にさらに欲望を満たすようになる。
(6)バランスのある生活に心がける。
ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。
あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになっている生活。
こうしたアンバランスな生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。
チグハグになればなるほど、子どもはバランス感覚をなくす。
ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。
子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。
英語の諺にも、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。
それを忘れてはならない。
●子どもの金銭感覚
年長(6歳)から小学2年(8歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。
その金銭感覚は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。
が、それだけではない。
子どもはこの時期を通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。
そしてそれがそれから先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。
この時期の子どものお金は、100倍して考えるとよい。
たとえば子どもの100円は、おとなの1万円に相当する。
1000円は、10万円に相当する。
親は安易に子どもにものを買い与えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってからの、1万円、10万円に相当する。
「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を満足すること」に慣れた子どもが、将来どうなるか。もう、言べくもない。
さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくなったが、それでも「高価なものを買ってあげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。
より高価なものを買い与えることで、親は「子どもの心をつかんだはず」と考える。
あるいは「子どもは親に感謝しているはず」と考える。
が、これはまったくの誤解。実際には、逆効果。
それだけではない。
ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。
ある子ども(小2男児)は、こう言った。
「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行ってもらう」と。
そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおくれてしまう」と。
その子どもは、「おくれる」と言うのだ。
最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入りにくいものを、より早くもつことによって、自分のステイタス(地位)を守ろうとする。
物欲の内容そのものが、昔とは違う。
変質している。……というようなことを考えていたら、たまたまテレビにこんなシーンが出てきた。
援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答えていた。
「どうしてそういうことをするのか」という質問に対して、である。
しかも金銭感覚そのものが、マヒしている。
もっているものが、10万円、20万円という、ブランド品ばかり!
さて、誕生日。さて、クリスマス。
あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。
1000円のものだろうか。
それとも1万円のものだろうか。
お年玉には、いくら与えるだろうか。
与えるとしても、それでほしいものを買わせるだろうか。
それとも、貯金をさせるだろうか。
いや、その前に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。
どちらにせよ、しかしこれだけは覚えておくとよい。
5、6歳の子どもに、1万、2万円のプレゼントをホイホイと買い与えていると、子どもが高校生や大学生になったとき、あなたは100万円、200万円のものを買い与えなくてはならなくなる。
つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。
あなたにそれだけの財力と度量があれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。
やがてあなたの子どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。
そうなればなったで、苦労するのはあなたではなく、結局は子ども自身なのだ。
●親の責任
要するにものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。
こういう例は、教育の世界には多い。
子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、ない。
あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハキハキしないのでしょうか」は、ない。
もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子というのがいる。M君(小3)は、そんなタイプの子どもだった。
口グセはいつも同じ。
「何かナ~イ?」、あるいは「何かほシ~イ」と。
何でもよいのだ。
その場の自分の欲望を満たせば。
しかもそれがうるさいほど、続く。
そして自分の意にかなわないと、「つまんナ~イ」「たいくツ~ウ」と。
約束は守れないし、ルールなど、彼にとっては、あってないようなもの。
他人は皆、自分のために動くべきと考えているようなところがある。
そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。
「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」と。
そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼくはならない。バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資格などない」とか。
こうも言った。
「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。
M君の家は昔からの地主で、そのときは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。
いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。
教えることそのものが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「もっとほかに学ぶべきことがある」というところまで、考えてしまう。
そうそうこんなこともあった。
受験を控えた中3のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されてしまった。
悪質な万引きだった。
それを知ったM君の母親は、「内申書に影響するから」という理由で、猛烈な裏工作をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消してしまった。
そして彼が高校二2生になったある日、私との間に大事件が起きた。
その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそう呼んでいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。
折ったら、ヒロシはどうする?」と。
そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、私からその万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった!
とたん私は彼に飛びかかっていった。
結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、M君の母親は、私を狂ったように責めた。
(私も全身に打撲を負った。念のため。)
「ああ、これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。
が、M君の父親が、私を救ってくれた。
うなだれて床に正座している私のところへきて、父親はこう言った。
「先生、よくやってくれました。ありがとう。心から感謝しています。本当にありがとう」と。
こんな子ども(年中女児)がいた。
その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。
もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。
漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにしても、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。
その苦痛を乗り越える力が、ここでいう忍耐力だからである。
反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(できない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。
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2012年6月22日金曜日
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