2012年6月12日火曜日

A daughter who cast away her Mother

【掲示板への相談より】

●音信不通になってしまった長女

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

掲示板に、こんな相談が届いた。
親子断絶についてのもの。
名前をAさんとしておく。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【Aさんより、はやし浩司へ】

●失敗してしまった子育て
はじめまして。
子供の事で悩んでおり、いろんなサイトで解決策を見つけていたらここにたどり着きました。
うまく伝わるかどうかわかりませんが、ご意見を頂けたら幸いです。

現在私50歳、長女23歳、二女21歳です。

14年ほど前に離婚し、遠方に引っ越し母子家庭として生活してきました。
幸い(今のところ)職に困らない資格を持っており、裕福ではありませんが、離婚後も生活には不自由していません。

長女の事で悩んでいます。

二人の子供は、生まれた時から自分より幸せになってほしいと必死でした。
乳児期の日光浴から始まり、習い事や行楽、躾や勉強にも一生懸命になってしまい、まさに、ずっと昔の中日新聞に掲載されていた母親と酷似しています。

長女は、国立大学の附属中学に入学し、親子とも大学は地元の国立大学に進学希望でしたが、高校の担任の先生からせっかくなのでもっとランクの上をと勧められ、寮があるから経済的にも可能かと思い遠方の勧める大学に合格し入学しました。
その時までは、私も娘も明るい未来に期待し大喜びしました。

ところが、家をでたとたん疎遠になり凶暴になってしまいました。
メールをしても電話をしても応答なし。
かろうじで来た返事は「邪魔!」とか、「死ね」と。
仕送りはやめて家で手渡しにしたところ、1年に1度程度帰って来る程度でした。
それでもお金や物をあげたときだけは、満足して優しい面を見せるときもありました。
4年間で親から離れ、時間やお金の使い方や人生を学んでくれたらと、好きにさせていました。

そして卒業後の進路の話になった時、法科大学院に行きたい(法学部でした)と言い出しました。
御存じなように簡単な世界ではないため、受験料や日程、入学後の費用や生活、その後の道など専門外の私にもわかるように説明を求めましたが、返答はありませんでした。
受験費用の要求だけでした。

とりあえず、4年間の生活が酷かったので、(細かく説明すると長くなるので省略します)、距離的な面や将来性や経済的な面から、私が納得できる所なら協力するが、それ以外は協力できないことを伝えました。
結果、私も応援し本人も志望したところは不合格で、協力できないよと話していたことろに合格しました。

そこは本人も最初は乗り気ではなかったのですが、4年の後半ということもあり今から就職も難しいから、行きたいと言い出しましたが、協力できないという約束を貫いてしまいました。
その後、自分の給料では生活できないため地元で仕事を探し、なんとか卒業間際に就職が決まり、新卒で入社することが出来ました。

当然いやいや実家に戻り、家から通っていましたが帰ってきたくないとの理由で、毎日終電で帰宅。
職場が通うには遠いのでお金がたまったら、1人暮らしをする予定ではいましたが、数ヵ月後家出同然で出ていきました。
もうちょうど1年になります。
「死んでくれ」「ほっといてくれ」「二度と関わってくるな」等のメールが来て、今は音信不通です。
住所も言わず着の身着のままで出ていきました。

私は今は二女と二人で住んでおり、二女を頼りに、なんとか長女との消息はわかりましたが、二女も長女の身勝手ぶりに愛想を尽かし関わりたくないと言い、姉妹も疎遠です。

恥ずかしながら、過去の記事やサイトにあるとおり、今振り返ると“自己中心的な親”でした。
誉めるのも上手ではありませんでした。
厳しすぎました。
熱心なだけで優しい母親ではありませんでした。
でも、実は私自身も同じように育ちました。

そこでやっと質問です。

(1)法科大学院の反対は間違っていたのでしょうか?
私の目からは、家に帰ってきたくない手段にしか思えませんでした。
合格率や本人の意思や成績をみていると、黙って何百万も出すほど勇気はありません。
もちろんお互いの納得のもとなら借金をしてでも応援するつもりでした。
25歳過ぎて再出発するのも不安でした。

(2)長女とどうしたら和解できますか?
おそらく“無理”との回答かと思われますが、やはり仲直りとまではいかなくても、消息くらいは伝えてくれる程には改善したい。
下手に接触を求めると、もっと遠くに行ってしまいそうなので、家を出てからは連絡していません。
どう接触したらよいでしょうか。

自分の人生だけを生きなさいとの意見も拝見しましたが、日々の生活は趣味も仕事も充実しています。
昼間は仕事をし、夜は趣味のテニスに熱中し、寝る前は生活の一部でもある読書をし1日フル回転です。
土日は、試合に出て学生さながらに没頭しています。
それでも疲れた時は、たまに旅行にも出かけたりもしています。
そんな忙しい毎日でも、やはり子供のことは頭から離れるものではありません。
忘れられるものではありません。

お忙しいこととは思いますが、ご意見聞かせていただければ幸いです。

【はやし浩司より、Aさんへ】

●時代は、変わりました

 簡単に言えば、時代が変わったということです。
そうであってはいけないと私も思いますが、これも時代の(流れ)ですね。
いろいろ抵抗をしてはみますが、川の中に立てる竿程度の効果しかありません。
子どもたちは、子どもたちで、大きな川の流れの中に身を置き、その流れに身を任せていきます。
たとえば今、若い人たちに、「孝行論」を説こうものなら、それを「束縛」「拘束」と捕えます。
私が「あなたの親のめんどうは、だれがみるのか?」と質問すると、こう答えます。
「親が、子どもを束縛するものではない」とか、「拘束するものではない」とです。

 中には、こう答えた若者もいました(私のBLOGへの反論)。
30歳くらいの男性で、最近父親になったようです。

「私は子どもを自由に育てる。親のめんどうをみろと私は自分の子どもには言わない。子どもをそういうふうに束縛したくない。そういう子育てを目指します」と。
さらに「あなたも自分の老後が心配なら、息子さんに頼めばよい」とも。

 まだ子育てが何であるかも知らないような、また親の介護もしたことがないような若者がそう言うから、おかしい。
老親の親のめんどうをみるのは、民法上も、子どもの義務なのです。
その義務感そのものが、喪失しました。
悪しき西洋文化の影響と、私は考えています。

●皮肉

 もちろんそうでない子どもも多いです。
心がやさしく、ほっとするような温もりを感ずる子どもです。
が、皮肉なことに、いわゆる受験勉強とは無縁だった子どもほど、親子関係も、うまくいっています。
つまり親が、「金をかけ」「苦労をした子ども」ほど、その分だけ、それなりのエリートにはなりますが、その一方で、人間らしさを失っていきます。
(本人が、それに気づくことはありません。
これは脳のCPUの問題だからです。
自分の子どもにやさしいことをもって、私は「やさしい父親(母親)」と、思い込んでいる人は多いですが……。)

 で、いつこうしたキレツが始まるかということですが、幼児期にさかのぼります。
親は、子どものためと思い、「勉強しなさい」と言いますが、子どものとっては、それが「虐待」なのですね。
が、親はそれに気づかない。
気づかないまま、無理をしてしまう。
苦労をし、それこそ爪に灯をともすようにして、学費や生活費を工面する。
が、子どもにしてみれば、まさにありがた迷惑。

 そのキレツが、徐々に大きくなり、最終的には、断絶となるわけです。
Aさんのケースもそうですが、親は、「大学まで、苦労して出してやった」と考えがちですが、子どもの方は、そうは思っていません。
中には「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言う子どもさえいます。
つまり親の願いどおり大学へ行ってやったのだから、学費+生活費を出すのは当たり前と考えるわけです。

 今、ほとんどの大学生が、そう考えています。
つまり親に感謝など、していない。
親の苦労など、どこ吹く風で、遊んでいる。
「大学、遊園地論」が出るようになって、もう30年近くになります。

 もう一度、最近、あるニュースサイトに載っていた記事を、読んでみてください。
時代がどう変わったかわかりますよ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【資料の整理】(Yahoo・News 2012年6月より)

R25が首都圏・愛知・大阪に住む25歳から34歳の男性300人に実施したアンケートでは、「社会人になって(就職した後)、親からお小遣いをもらったことはありますか?」の問いに対し、

「今も継続的にもらっている」が3%、
「今もたまにもらっている」が11.3%、
「以前にもらったことはあるが、今はもらっていない」が30%、
「もらったことはない」が55.7%となっている。

「今も継続的にもらっている」「今もたまにもらっている」と回答した人に「どれくらいの頻度で、お小遣いをもらっていますか?」と聞いたところ、

最も多かったのは「月に1回程度」(27.9%)。
以下、「4~6カ月に1回程度」(23.3%)、
「2~3カ月に1回程度」(18.6%)、
「7~12カ月に1回程度」(18.6%)となっており、わずか1名ながら「毎週もらう」との回答もあった。

「1回にもらう金額」については、
「1万円以上~2万円未満」が最も多く44.2%。
以下、「1万円未満」(27.9%)、
「2万円以上~3万円未満」(18.6%)と、
3万円未満との回答が合計90.7%を占めているが、なかには「7万円以上~10万円未満」(4.7%)、10万円以上(2.3%)とかなり親に依存している人も。

ちなみに、親から援助してもらったお金をどのように使っているのかというと、
「食費」(48.8%)
「交際費」(44.2%)
「レジャー費」(37.2%)といった回答が多かった。

例えば人生の節目である結婚に際し、費用を親・親族から援助してもらった人は75.8%。
援助額の平均は196.9万円(ゼクシィ「結婚トレンド調査2011」より)。

また、新居を建てる際には54%の人が親・親族からの資金援助を受けており、そのうち1500万円以上の援助を受けた割合は11.4%(SUUMO「住居に関するアンケート2011」より)。

 これに対して、子ども側の言い分は、つぎのようになっている。

●「時々もらうものに対しては、親が子どもに威厳を保ちたいような感情があるので、喜んでもらっている感じです」(34歳男性)

●「社会人たるもの、必要な資金は自分で調達するべきだが、親の好意に甘えるのも時には必要。親もそれで喜んでくれるのであればなおさら」(28歳男性)

●「こちらから欲しいと言って貰う訳ではないし、これはこれでいいかと」(26歳男性)

●「極力避けたいが、キャッシングとか利用するよりはいいかなと思う」(34歳男性)

●「家族によって違うとは思うが、援助したりされたりすることで繋がりを持っていたいと思う」(26歳男性)

●「ちゃんと働いていて、さらに親から貰えるならいいと思う。使われなかったものは多くの場合、遺産として自分のところに最終的に入ってくるので、いつもらうのかという話」(29歳男性)

特に多かったのは金銭の授受によって、別々に暮らす親子のつながりが生まれるという意見。
実際、援助することに喜びを感じる親は少なくないため、仕送りを受け取ることが親孝行になるとの考えもあるようだ。

また、仕送りではなく、別の形で親から資金援助を受ける人も少なくない。
例えば人生の節目である結婚に際し、費用を親・親族から援助してもらった人は75.8%。
援助額の平均は196.9万円となっている(ゼクシィ「結婚トレンド調査2011」より)。
また、新居を建てる際には54%の人が親・親族からの資金援助を受けており、そのうち1500万円以上の援助を受けた割合は11.4%にも上る(SUUMO「住居に関するアンケート2011」より)。

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Aさんへ

 だから残念ながら、あなたのお嬢さんは、あなたに感謝など、していない。
「感謝」という言葉を使うと、たいていこう言い返してきます。
「私はその分、今度は自分の子どもに返していくからいい」と。
つまり親にしてもらった分は、自分の子どもに返していく、とです。

 おかしな論理ですが、これも現代の若者気質(かたぎ)ということになるのでしょうか。
彼らが言う「家族」には、自分と配偶者、それに子どもしかいません。
そこには両親の姿は、もとからないのです。

●法科大学の件

 あなたは賢明な選択をしました。
それほどまでに勉強をしたければ、自分で稼いで、自分で大学へ行けばよいのです。
4年間も、親のスネをかじったあげく、「また大学……」というのは、ドラ娘もよいところです。
(本人は、そうは思っていないでしょうが……。
「親の希望通り、大学へ行ってやった」と、心のどこかで考えています。)

 一方、親のほうは、「4年間も学費+生活費を出してやったのだから……」と考えがちです。
つまりこのあたりの意識が、たがいに完全にズレています。
仮に法科大学へ行ったとしても、何かとささいな理由を針小棒大にとらえ、あなたから去っていく可能性は、たいへん大きいでしょう。

 私の友人の息子は、親にこう言ったそうです。

「結婚式を、(地元の浜松でしてやるから)、結婚式の費用を出してくれ」と。
そこで親が、「半額くらいなら……」と答えると、「親なら、全額出すべきだ」と猛反発。
それを理由に、親との縁を切ってしまったそうです。
(子どもの側が、親との縁を切ったのですよ!) 

●意識

 悪い面ばかり書きましたが、先にも書きましたが、意識そのものがちがいます。
どちらが正しいとか、そうでないとか、そんなことを議論しても意味はありません。
たとえば私たちの世代(戦後生まれの団塊の世代)は、そのほとんどが、社会人になり、外に出ると、親への仕送りを欠かしませんでした。
私もそうしました。
現在、70代~の人となると、もっとそうでした。
仕送りの仕方は、人、さまざまでした。

 知人のUさん(70歳・女性)は、「ボーナスはすべて送った」と。
別の知人のF氏(70歳・男性)は、「盆暮れには、当時のお金で、10万円近く、親に渡した」と。
(大卒の初任給が、やっと2万円を超えた時代ですよ!)

 私のばあいも、結婚前から、収入の半分を実家へ送っていました。
それまでの学費を返す意味もありました。

 こうした意識は、日本人から、すでに消えました。
一方、少し前まで、東南アジアや中国から多くの人たちが日本へ働きに来ていました。
そういう人たちは、みな、母国の両親にお金を送っていました。
そういう話を聞くたびに、私は自分の青春時代を思い起こしました。

 が、今は逆転しています。
このあたりでも、盆暮れになると、都会から若い人たちが戻って来ます。
妻や子どもを連れてきます。
が、みやげをもってくる人は、ほとんどいません。
むしろ都会へ戻るとき、親から、お金をもらって帰るそうです。
また盆暮れに来るのは、「生活費を浮かすため」だそうです。
(中には、その旅費を、親に出させている息子や娘もいます。)

 つまりこれは「意識」、つまり彼らが言うところの「常識」の問題です。
私たちは、その「違い」を認めるしかありません。

●戦中派の意識

 一方、私は、最近、こんな経験をしました。
義弟と話をしているときのことです。
義弟(78歳)は、こう言いました。
「ぼくらの世代からみると、団塊の世代はいい気なもんだと思うよ」と。

 驚いて、思わず私は、こう聞きました。
「どうして?」と。

 私たちの世代は、私たちの世代なりに、「日本の繁栄を築いたのは私たち」という強い意識をもっています。
その私たちが、「いい気なもんだ?」と。

 義兄は、こう説明してくれました。
「君たちは、ぼくたちが敷いたレールの上を走っただけではないか」と。

私「そんなことないですよ。自分を犠牲にし、家族を犠牲にし、懸命に働きました」
義「しかし命を犠牲にしたことはないだろ。偉そうなことを言ってはいけない」
私「命?」
義「俺たちの世代はね、戦争を経験している。命がけで、日本を守った」と。

 70代、80代の人は、そう考えています。
戦中派の人たちです。
そうした意識については、考えたこともありませんでした。
つまり、私たちはいつも、自分のもつ意識を基本にものを考えます。
Aさんにしても、そうです。

 もう20年ほど前になるでしょうか。
こんな記事が、ある雑誌に載っていました。
私自身の育児観に、大きな影響を与えた一文です。
それについて書いた原稿を添付します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

私の子育ては何だったの?

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。ショックだった。
考えさせられた。
この手記を書いた人を、笑っているのでも、非難しているのでもない
。私たち自身の問題として、本当の考えさせられた。
そういう意味で、紹介させてもらう。

 『思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切にするということを、体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してきました。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。
毎日必ず机に向かい、読み書きする姿も見せてきました。
リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部屋も飾ってきました。

なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マイペースなのでしょう。
旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。
息子は出不精。
娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。

二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。
しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。
私の子育ては一体、何だったの? 
私はどうしたらいいの? 
最近は互いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?』(K県・50歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。
こんな相談があった。
ある母親からのものだが、こう言った。

「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプリントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。
が、3枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。
これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こう言った。
「昨日は何とか、2時間だけ授業を受けました。
が、そのまま保健室へ。
何とか給食の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」「2時間だけ授業を受けて、今日はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。
仮にこれらの子どもが、プリントを3枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「4枚やらせたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。
こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。
それが無理なら、D中学へ」と。
そしてその子どもがC中学に合格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限がないということ。
そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

+++++++++++++++++++++

●親が子育てでいきづまるとき(2)

 前回の投書に話をもどす。
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬ドキッとした。
しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴではなかったのか。
もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ?

(どうか、この記事を書いた、お母さん、怒らないでください。
あなたがなさっているような経験は、多かれ少なかれ、すべての親たちが経験していることです。
決して、Kさんを笑っているのでも、批判しているのでもありません。
あなたが経験なさったことは、すべての親が共通してかかえる問題。
つまり落とし穴のような気がします。)

そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。
親の独善と独断だけが目立つ。
「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。

この母親のしたことは、何とかプリントを3枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。
その中でも最大のパターンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。
「子どものことは私が一番よく知っている」というのを大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。

そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。
「こうすれば子どもは喜ぶハズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。
そのつど子どもの心を確かめるということをしない。
ときどき子どもの側から、「NO!」のサインを出しても、そのサインを無視する。
あるいは「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けないから、それがわかる。

私「明日の休みはどう過ごしますか?」
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」
私「緑花木センター……ですか?」
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」と。
あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息子は、「おもしろくなかった」と言う。
娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。
(1)よきガイドとしての親、
(2)よき保護者としての親、
そして(3)よき友としての親の三つの役目である。

この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。
とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。
はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。
あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。
結局はこの一点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。
それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気づいていないということ。
いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++++++++++

 子どもは、小学3年生ごろを境に、親離れを始める。しかし親が、それに気づき、子離れを始めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてのこと。

 この時間的ギャップが、多くの悲喜劇を生む。掲示板に書きこんでくれたFさんの悩みも、その一つ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●子どもは去っていくもの

 要するに、じょうずに子離れしていくということ。
自分の息子や娘に、友情や、深い慈愛を求めても意味はありません。
またそういう対象ではありません。
親のほうは、「私の……」という所有格をつけます。
が、子どものほうは、「親の……」という所有格をつけません。
そのあたりに意識のギャップがあります。

 Aさんの長女について言うなら、その原因は、ひょっとしたら、乳幼児期に始まっているかもしれません。
いちばん親の愛情を必要とするときに、下の妹が生まれてしまった。
長女にとっては、たいへんショックなことだったと推察されます。
現在、姉妹が仲が悪いのは、そのあたりに起因している可能性があります。
つまり長女にしてみれば、居心地の悪い世界だった?

●可能性

 とは言え、長女が戻ってくる可能性がないというわけではありません。
30歳前後の子どものばあい、戻ってくるということは、まずありません。
息子であれば、なおさらです。

 が、まだ若い。
脳の構造そのものが、まだフレキシブルです。
いつか、戻ってくる可能性は、じゅうぶんあります。
それに望みをかけろというのではありません。
戻ってきても、たいていのばあい、ギクシャクした親子関係は残ります。
再び会い、「お母さん、ごめん」「会いたかったわよ」と、ハッピーエンドで終わるということは、まずありません。
(安っぽい日本映画では、そういうシーンが、ありますが……。)

 すでに今、たがいの間に、大きな(こだわり)ができつつあります。
この(こだわり)が、たがいの間に、超えがたい「壁」を作ります。
たとえば子どものほうは、「葬式くらいなら、行ってやる」と考えているかもしれません。
が、親のほうは、「来てほしくない」と。

 つまり修復など考えないこと。
今、あなたがしているように、あなたはあなたで、好きなことをすればよいのです。
というのも、みな、外から見ると、うまくいっているように見えますが、それは外見。
それぞれの家庭が、それぞれの問題をかかえ、悩み、苦しんでいます。
悲しみにじっと耐えている家庭も、少なくありません。
……というか、みな、そうです。

 が、それも人生。
これも人生。
あとは、居直ればよいのです。

 先の原稿を書いたとき、つぎのような原稿も書きました。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

法句経より

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●「それ以上、何を望むのですか」
   
 親子とは名ばかり。
会話もなければ、交流もない。
廊下ですれ違っても、互いに顔をそむける。
怒りたくても、相手は我が子。
できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。
「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。
今、そんな親子がふえている。
いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。
夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言った父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。
狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。
そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。
ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。
死ぬのがこわい。
どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。
それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。
そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。
そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。
「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。
しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかりではない。
憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。
親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二~一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。(*浜松市AB幼稚園元園長)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

親バカ論

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●親バカ

 つまりね、Aさん、あなたは親バカだっただけ。
そう、親バカ。
(私も含め、みんなそうですから、どうか気分を悪くしないでください。)
「子ども……」「子ども……」と、子ども中心の世界で、親バカなことをしてしまった。
それだけのことです。

 親バカ論については、どこかに書いた原稿があるはずですから、探してみます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

親バカ論

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

【親バカ論】(2010年の原稿より)

●就職率50%

 大不況。
目下、進行中。
大卒の就職率も、50~60%とか。
事務所の隣人は、個人でリクルートの会社を経営している。
その隣人が、こう言った。

「実感としては、50%前後ではないですかね?」と。

つまり大卒のうち、2人に1人しか、就職できない。
きびしい!
 浜松市といえば、昔から工業都市として知られている。
HONDA、SUZUKI、YAMAHAなどの各社は、この浜松市で生まれた。
その浜松市でも、「50%」!

●親、貧乏盛り

 『子ども大学生、親、貧乏盛り』という。
私が考えた諺(ことわざ)である。
それについては、何度も書いてきた。

 で、子どもを大学へ送ることは、得か損かという計算をしてみる。
・・・といっても、学部によって、大きく、異なる。
医学部のばあい、勤務医になれば、勤務後2~3年目には、年収は2000万円を超える。
開業医になれば、月収は500万円を超える。
(月収だぞ!)

 一方、文科系の学部のばあい、学費も安いが、その分、学歴も、ティシュペーパーのように軽い。
英文学部にしても、高校の教科書より簡単なテキストで勉強しているところは、いくらでもある。
そんな学部を出ても、実際には、何ら、役に立たない。

 全体としてみると、それなりの資格のともなった学歴であれば、得。
資格をともなわない、ただの学歴であれば、損。
その結果、就職率50%ということになれば、何のための苦労だったのかということになる。

●3人に1人が、高齢者

 3人に1人が、高齢者。
そんな時代が、すぐそこまでやってきている。
現在、40歳以上の人は、老後になっても、満足な介護は受けられないと知るべし。
実際には、不可能。

 となると、自分の老後は、自分でみるしかない。
つまりそれだけの蓄(たくわ)えを用意するしかない。
で、たいていの人は、「自分の子どもがめんどうをみてくれる」と考えている。
が、今、あなたが高齢になった親のめんどうをみていないように、あなたの子どもも、またあなたのめんどうをみない。

60%近い若者たちは、「経済的に余裕があれば・・・」という条件をつけている。
「経済的に余裕があれば、親のめんどうをみる」と。
(この数字とて、ほぼ10年前の数字。)
実際には、みな、目一杯の生活をしている。
経済的に余裕のある人など、いない。
若い世代では、さらにいない。

●親バカ

 こうして順に考えていくと、子どもに学費をかけることが、いかに無駄かがわかってくる。
あえて言うなら、子どもを遊ばせるために、その遊興費を提供するようなもの。
が、何よりも悲劇なのは、そのためにする親の苦労など、今時の大学生にじゃ通じない。
当たり前。
「電話をかけてくるのは、お金がほしいときだけ」というのは、親たちの共通した認識である。

むしろ逆に、(してくれないこと)を、怒る。
「みなは、毎月20万円、送金してもらっている」
「どうして結婚の支度金を出してくれないのか」と。

保護、依存の関係も行き過ぎると、そうなる。
保護される側(子ども)は、保護されて当然と考える。
一方、保護するほうは、一度、そういう関係ができてしまうと、簡単には、それを崩すわけにはいかない。
罪の意識(?)が先に立ってしまう。

 どこか一方的な、つまり否定的な意見に聞こえるかもしれないが、こうして世の親たちは、みな、つぎつぎと親バカになっていく。

●老後の用意

 しかし私たちの老後は、さみしい。
蓄(たくわ)えも乏しい。
社会保障制度も、立派なのは、一部の施設だけ。
3人のうちの1人が老人という世界で、手厚い介護など、期待する方がおかしい。
となると、自分の息子や娘たちに、となる。
しかし肝心の息子や娘たちには、その意識はまるでない。

 ある友人は、こう言った。
「うちの息子夫婦なんか、結婚して3年目になるが、嫁さんなど、来ても、家事はいっさい手伝わない。いつもお客様だよ」と。

別の友人もこう言った。
その友人の趣味は魚釣り。
そこで釣ってきた魚を、嫁に料理をさせようとしたら、こう言ったという。
「キモ~イ、こんなこと、私にさせるのオ?」と。

 この話をワイフにすると、ワイフもこう言った。
「私の友だちのSさんなんかね、長男は、歩いて数分のところに住んでいるだけどね、毎週、実家へ子どもたちを連れて夕食を食べに来るんだってエ」と。

 で、私が、「食費はだれが出すの?」と聞くと、「もちろん友だちのSさんよ。長男たちは、それで食費を浮かせようとしているのね」と。
さらに「料理は、だれがするの?」と聞くと、「Sさんよ。嫁さんは、デンと座っているだけだそうよ。たまに食器は洗ってくれるそうよ。でもそれだけ」と。

 私が「ヘエ~~」と驚いていると、さらにワイフは、驚くべきことを口にした。
「それでいて、長男は、親のめんどうをみているのは自分と、思いこんでいるみたいね」と。

私「親のめんどう・・・?」
ワ「そうよ。弟夫婦たちが実家へ来ると、兄貴風を吹かして、弟夫婦に、『お前たちも、ときには、親のめんどうをみろ』って言ってるんだってエ」
私「あきれるね」
ワ「そうね。孫の顔を見せるだけでも、ありがたく思えというところかしら」と。

●何かおかしい?

 何か、おかしい。
何か、まちがっている。
しかし今は、そういう時代と思って、その上でものを考えるしかない。
子どもたちというより、その上の親たちが、そういう世代になっている。
その親たちに向かって、「子育てとは・・・」と説いても、意味はない。
言うなれば、ドラ息子、ドラ娘になりきった親たちに向かって、ドラ息子論、ドラ娘論を説くようなもの。
意味はない。

 言い換えると、私たち自身が、「甘えの構造」から脱却するしかない。
「子どもたちに依存したい」「依存できるかもしれない」「子どもたちが世話をしてくれるかもしれない」と。
そういう(甘え)から、脱却するしかない。
さらに言えば、「私たちの老後には、息子や娘はいない」。
そういう前提で、自分たちの老後を考える。

●私のケース

 私の息子たちが特殊というわけではない。
見た目には、ごく平均的な息子たちである。
中身も、ごく平均的な息子たちである。
だからこう書くといって、息子たちを責めているわけではない。
しかしときどき会話をしながら、その中に、「老後の親たちのめんどうをみる」という発想が、まったくないのには、驚く。
まったく、ない。
むしろ逆。
こう言う。

「相手の親(=嫁の親)は、~~してくれた」「どうしてパパ(=私)は、してくれないのか?」と。

 息子夫婦にしても、「家族」というのは、自分と自分たちの子どもを中心とした(親子関係)をいう。
目が下ばかり向いている。
が、それはそれでしかたのないこと。
息子たちは息子たちで、自分たちの生活を支えるだけで、精一杯。
私たち夫婦だって、そうだった。
が、それでも、お・か・し・い。

●満62歳にして完成

 ・・・こうして親は、子離れを成しとげる。
(甘え)を、自分の心の中から、断ち切る。
そして一個の独立した人間として、自分の老後を考える。

 というのも、私たちの世代は、まさに「両取られの世代」。
親にむしり取られ、子どもたちにむしり取られる。
最近の若い人たちに、「ぼくたちは、収入の半分を実家に送っていた」と話しても、理解できないだろう。
それが当たり前だった時代に、私たちは、生まれ育った。

 が、今は、それが逆転した。
今では子どもの、その子ども(つまり孫)の養育費まで、親(つまり祖父母)が援助する。
それが親(つまり祖父母)ということになっている。

 が、そこまでしてはいけない。
このあたりでブレーキをかける。
かけなければ、この日本は、本当に狂ってしまう。
(すでに狂いぱなし、狂っているが・・・。)

 少し前も、私は「車がほしい」というから、息子に、現金を渡してしまった。
それで私たちは、H社のハイブリッドカーを買うつもりだった。
それについて、まずオーストラリアの友人が、「渡してはだめだ」と忠告してくれた。
義兄も、「ぜったいに、そんなことをしてはだめだ」と言った。
「息子のほうが、今までのお礼にと、新車を買ってくれるという話ならわかるが、逆だ」と。

 私も親バカだった。
息子たちに怒れるというよりは、自分に怒れた。
心底、自分に怒れた。
何日か眠れない日がつづいた。
が、それが終わると、私の心はさっぱりとしていた。
息子たちの姿が、心の中から消えていた。
はやし浩司、満62歳にして、子離れ完成、と。

 それをワイフに話すと、ワイフは、こう言って笑った。
「あなたも、やっと気がついたのね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 子離れ 親離れ 依存性 甘えの構造 甘え 子どもへの依存性 老後 はやし浩司 親バカ論)

●親バカにならないための10か条

(1)必要なことはしろ。しかしやり過ぎるな。
(2)求めてきたら、与えろ。先回りして与えるな。
(3)一度は、頭をさげさせろ。「お願いします」と言わせろ。
(4)子どもに期待するな。甘えるな。
(5)親は親で、自分の人生を生きろ。子どもに依存するな。
(6)社会人になったら、現金は、1円も渡すな。
(7)嫁や婿の機嫌を取るな。嫌われて当然と思え。
(8)自分の老後を冷静にみろ。無駄な出費をするな。
(9)遺産は残すな。自分たちで使ってしまえ。
(10)少なくとも子どもが高校生になるころには、子離れを完成させろ。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ただし恨んではいけない

 が、ひとつだけ気をつけてください。

 私は『許して・忘れる』という言葉をよく使います。
しかしそれは自分以外の人に対して使う言葉。
が、「私」に対しては、どうか?
私に対して、『許して・忘れる』ことは、できるか?

 結論は、「NO!」です。
自分を許して、忘れるということはできない。
これは私の経験によるものです。
そこで「愛」は、一気に、「憎」に向かいます。
「愛憎は紙一重」というのは、そういう意味です。

 が、「憎しみ」は、たいへん危険です。
自分の心を腐らせます。
それについては、多くの賢者が、異口同音に書き残しています。
原稿を探してみます。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

憎しみについて

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●ネズミを殺すために、家を燃やす

 そこで重要なことは、子どもを恨まないこと。
恨みを感じたら、できるだけ早い段階で、それに気づき、原因を取り除くこと。
たいていは人間関係に起因する。
その人間関係を是正する。

 だからある賢人はこう言った。

『Hating people is like burning down your house to kill a rat ー Henry Fosdick
人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』(H・フォスディック)

 つまり人を恨んでいると、心、つまりその人の人間性全体まで、大きな影響を受ける、と。

 それについて書いた原稿を添付し、このエッセーを終える。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

+++++++++++++++++++++

人を恨んではいけない。
恨めば恨むほど、心が小さくなり、そこでよどむ。
よどんで腐る。
だからこう言う。
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。

解釈の仕方はいろいろあるだろう。
しかし簡単に言えば、(ネズミ)は(恨みの念)、
(家)は、もちろん(心)をいう。
(人生)でもよい。
ネズミを追い出すために、家に火をつける人はいない。
もったいないというより、バカげている。
「人を恨む」というのは、つまりそれくらいバカげているという意味。

+++++++++++++++++++++++++

●ある女性(67歳)

 東洋医学(黄帝内経)でも、「恨みの気持ち」をきびしく戒めている(上古天真論編)。

『(健康の奥義は)、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とす
る』『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』と。

 恨みは、健康の大敵というわけである。
しかし恨みから逃れるのは、(あるいは晴らすのは)、容易なことではない。
妄想と重なりやすい。
「あいつのせいで、こうなった」と。

 ものの考え方も、後ろ向きになる。
ある女性(68歳)は、ことあるごとに弟氏の悪口を言いふらしていた。
口のうまい人で、悪口の言い方も、これまたうまかった。
たいていはまず自分の苦労話を並べ、そのあと弟氏が何もしてくれなかった
という話につなげる。
同情を買いながら、相手が悪いという話につなげる。
自分がしたこと、あるいは自分がしなかったことをすべて棚にあげ、ことさら自分を飾る。

 まわりの人に理由を聞くと、こう話してくれた。
「親が死んだとき、遺産の分け前をもらえなかったから」と。
が、いくら悪口を言っても、何も解決しない。
ただの腹いせ。
愚痴。
聞くほうも、疲れる。

●復讐

 恨みといえば、「四谷怪談」がある。
近くテレビでも映画が紹介されるという。
恐ろしいと言えば、あれほど恐ろしい話はない。
「四谷怪談」と聞いただけで、私は今でも背筋がぞっとする。
「四谷怪談」にまつわる思い出は多い。
子どものころ、怪談と言えば、「四谷怪談」だった。
(はかに「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」というのもあった。
若い人たちは知らないかもしれない。)

 「四谷怪談」のばあいは、男のエゴに振り回されたあげく、1人の女性が
毒殺される。
その女性が復讐のため、幽霊となって男を繰り返し襲う。
そのものすごさ。
執念深さ。

 子どものころ映画館に入ると、通路の脇にローソクと線香が立てられていた。
それだけで私たち子どもは、震えあがった。
そのこともあって、「恨み」イコール「復讐」というイメージが、私のばあい、
どうしても強い。
そういうイメージが焼きついてしまった。
 
 先に書いた「恨みを晴らす」というのは、「復讐して、相手をこらしめる」
という意味である。

●詐欺

 自分の人生を振り返ってみる。
こまかいことも含めると、人を恨んだことは、山のようにある。
反対に自分では気がつかなかったが、恨まれたこともたくさんあるはず。
恨んだり、恨まれたり・・・。

 しかし結論から言うと、生きていく以上、トラブルはつきもの。
恨みも生まれる。
しかし恨むなら、さっさと事務的に処理して終わる。
「事務的に」だ。
そのために法律というものがある。
それができないなら、これまたさっさと忘れて、その問題から遠ざかる。
ぐずぐずすればするほど、その深みにはまってしまう。
身動きが取れなくなってしまう。

 こんな人がいた。

●深み

 当初、500万円くらいの私財をその不動産会社に投資した。
ついで役職を買う形で、さらに1000万円を投資した。
時は折りしも、土地バブル経済時代。
1か月で、1億円の収益をあげたこともある。
で、親から譲り受けた土地を、会社にころがしたところで、バブル経済が崩壊。
結局、元も子も失ってしまった。

 ふつうならそこで損切をした上で、会社をやめる。
が、その男性はそのあと、8年もその会社にしがみついた。
「しがみついた」というより、恨みを晴らそうとした。
土地の価格が再び暴騰するのを待った。

 で、現在はどうかというと、家も借家もすべて失い、息子氏の家に居候(いそうろう)
をしている。
今にして思うと、その男性は、(恨み)の呪縛から身をはずすことができなかった。
そういうことになる。

●心的エネルギー

 (恨み)の基底には、欲得がからんでいる。
満たされなかった欲望、中途半端に終わった欲望、裏切られた欲望など。
「四谷怪談」のお岩さんには、金銭的な欲得はなかったが、たいていは
金銭的な欲得がからんでいる。
しかし人を恨むのも、疲れる。

 私も若いころ信じていた知人に、二束三文の荒地を、600万円という高額
で買わされたことがある。
これは事実。
そのあとも10年近くに渡って、「管理費」と称して、毎年8~10万円の
現金を支払っていた。
これも事実。
(その知人はことあるごとに、私のほうを、「たわけ坊主(=郷里の言葉で、バカ坊主)」
と呼んでいる。)

 が、それから35年。
つまり数年前、その土地が、70万円で売れた。
値段にすれば10分の1ということになる。
が、おかげで私は自分の中に巣食っていた(恨み)と決別することができた。
それを思えば、530万円の損失など、何でもない。
・・・というほど、(恨み)というのは、精神を腐らす。
人間性そのものまで破壊する。
心の壁にぺったりと張りついて、いつ晴れるともなく、悶々とした気分にする。

●『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』

 私はこの言葉を知ったとき、「そうだった!」と確信した。 
『人を恨むというのは、ネズミを殺すために、家を燃やすようなものだ』と。
心を腐らすくらいなら、損は損として早くその損とは決別する。
決別して忘れる。
忘れて、一歩前に進む。
でないと、それこそ「家に火をつける」ようなことになってしまう。
つまり人生そのものを、無駄にしてしまう。
人生も無限なら、それもよいだろう。
しかし人生には限りがある。
その人生は、お金では買えない。

 実のところ私も、この7か月間、大きな恨みを覚えていた。
理由はともあれ、先にも書いたように、人を恨むのも疲れる。
甚大なエネルギーを消耗する。
だから自ら、恨むのをやめようと努力した。
が、そうは簡単に消えない。
時折、心をふさいだ。
不愉快な気分になった。

 しかし「家に火をつけるようなもの」ということを知り、自分の心に
けじめをつけることができた。
とたん心が軽くなった。
恨みが消えたわけではないが、消える方向に向かって、心がまっすぐ動き出した。
それが実感として、自分でもよくわかる。

 最後にこの言葉を書き残したHenry Fosdickという人は、どんな人なのか。
たいへん興味をもったので、調べてみた。

●Henry Fosdick

英米では、その名前を知らない人がないほど、著名な作家だった。
こんな言葉も残している。

The tragedy of war is that it uses man's best to do man's worst.
(戦争の悲劇は、人間がもつ最善のものを、最悪のために使うところにある。)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 恨み 恨み論 人を恨む ネズミを追い出す 家に火をつける)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●Aさんへ

 今のあなたは、たいへんつらい思いの中で、悶々としています。
心配と不安。
愛と憎。
自己嫌悪と反発。
忍び来る老後の影。

 戻ってくることのない過去への悔恨。
恨み、つらみ。
挫折感と空の巣症候群。
喪失感と損失感。

 しかし幸いにも、あなたをよく理解してくれるもう1人の娘がいる。
で、私のアドバイスは、ただひとつ。
長女のことは、棄てなさい。
「忘れろ」ではなく、「棄てなさい」。
消息をたずねるような愚かなことは、してはいけません。
未練だけが残ります。
いつそれが恨みに転化するとも、かぎりません。

 「勝手にどこかで生きていけばいい」と、割り切り、棄てます。
また長女も、それを望んでいます。
(今は、そうです……。)

 あとは身のまわりにある希望に、未来を託して、生きていく。
老後というのは、みな、そんなものです。
背中のどこかで、さみしさを感じ、そのさみしさを、腹の中でじっと押しつぶしながら生きていく。
ともあれ、こういう私たちにしたのは、私たち自身なのですから……。
許して忘れるなんてことは、こと「私」については、できないということです。

 でもね、Aさん。
「みな、そうですよ」という部分で、私も救われました。
たぶんあなたもそうでしょう。
人生はこれからだし、こうした挫折感を知ったものだけが、つぎのステップに進むことができます。
どうか、めげないで、前に向かって進んでください。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 人を恨む ネズミ はやし浩司 親バカ論 去った娘)2012/06/12記


Hiroshi Hayashi+++++++June. 2012++++++はやし浩司・林浩司

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