2011年10月24日月曜日

*What is the Internet for me?

●ネットの世界(10月24日記)

 最初にその変化を感じたのは、「2チャンネル」でのことだった。
当初、……といっても数年前のことだが、それをのぞいたときには、あまりの低劣さに驚いた(失礼!)。
しかし最近は、ちがう。
読み応(ごた)えがある。
内容も深い。
文章もしっかりしている。

 この世界も、確実に進化している。
たとえばニュースサイトにしても、10年前には、新聞社やテレビ局の「小出しニュース」しかなかった。
少しだけ一部を見せ、あとは新聞で……と。

 が、今はたとえば、ロイターやYahooなどは、新聞やテレビ以上の情報を提供している。
情報の質と量も、桁違いに多くなった。
もちろんそれに並行して、私たち(私?)の生活も、大きく変わりつつある。
たとえばテレビのニュースにしても、私はたまに見る程度。
新聞の記事にしても、ネットの記事の確認用。

●情報の質

 ほんの5、6前には、(確たる資料があるわけではないが)、ネットで得られる情報には、信頼感がほとんどなかった。
「本に書いてあった……」「新聞に書いてあった……」と言えば、みな黙った。
しかし「ネットに書いてあった……」と言っても、だれも本気にしなかった。

 が、今はちがう。
辞書や百科事典にしても、安心して読んだり、引用したりできるようになった。
もちろん中身も濃くなった。

 たとえばときどき世界の株価の動向を調べるときがある。
そういうときでも、たとえばBloombergを使えば、世界中の株価が、リアルタイムでわかる。
しかもどれも、詳細なグラフ付き。

 この先、ネットの世界はさらに進化する。
無限というか、そこには限界がない。
が、私が常々、不思議に思うことがひとつある。
たとえばYOUTUBE。

私は週に、10~15本のビデオをUPLOADしている。
が、どれだけUPLOADしても、制限なし。
期限なし。
現在、3300本近いビデオをUPLOADしているが、そういった情報は、どのような形で、どこへ蓄積されていくのだろう。

 膨大な情報量とは思うが、それが不思議でならない。
つまりこの世界は、底なし(?)。

●選択と淘汰

 が、情報量が多い分だけ、その一方で「選択」の問題がある。
へたをすれば、私たちは情報の洪水の中で溺れてしまう。
そこで必要な情報だけを取りあげ、それ以外は捨てる。
それをしないと、あっという間に、わけがわからなくなってしまう。

 たとえば私のこのメインのパソコンには、「お気に入り」がズラリと登録されている。
その数、500~1000。
フォルダーに格納してあるのもあるから、実際にはもっと多いかもしれない。

 そこで私はそのつど、使わなくなったサイトを削除する。
しかしその一方で、興味のあるサイトを、どんどん登録していく。
こうしてサイト、つまり情報源が淘汰されていく。

 もっとも利用者はそれでよいかもしれない。
しかし情報を提供する側は、そうではない。
淘汰されるということは、「消える」ことを意味する。
そこで提供する側は、より良質の情報を提供しようとする。
それが先に書いた、「質の向上」につながる。

 利用者は選択する。
そのつど提供者は、淘汰されていく。
選択と淘汰。
現在、それがネットの世界では、目まぐるしく繰り返されている。

●私のばあい

 私も、ほかのネットユーザーと同じように、ネットの利用者でもあり、同時に情報の提供者でもある。
利用者である部分については、大きな問題はない。

しかし提供者である部分については、そうではない。
「淘汰」という問題がある。
「淘汰される」ということは、先にも書いたように「消える」ことを意味する。
たとえば電子マガジン。

 今年の夏、10年近く利用させてもらった、Eマガ社が閉鎖された。
ひとつのマガジン社が消えるということは、(この世界では、本当に跡形もなく消えてしまうが……)、それまでに蓄積された原稿そのものが消えることを意味する。
これは私にとっては、恐怖以外の何ものでもない。

 そこで私は原稿の救出をしたが、その作業だけで、1か月もかかった。
が、それだけではない。

 たとえば私は、ホームページにしても、メインにしているサイトから、10~15本のサイトに枝分かれさせている。
それぞれが独立している。
その10~15本のサイトにしても、アクセス数がふえていくのもあれば、減っていくのもある。

 最近急速にアクセス数がふえているのが、YOUTUBEを紹介している「BW公開教室」。
これは現在、毎日1000~1500件もある。
「最前線の子育て論byはやし浩司」も、ほぼ同じ。

その一方で、1年前には、毎日500~1000件近いアクセスがあった「音楽と私」は、このところ100件前後で低迷している。

 情報を提供する側としては、アクセス数が多いサイトにどうしても「力」が入る。
そうでないのには、そうでない。
「音楽と私」は、このところ更新するのも、おっくうになってきている。
つまりこうして私自身が、情報を淘汰していく。

●この先

 この先もネットの世界は、どんどんと変化していく。
「ついていくだけで、たいへん」と書きたいが、このところ、そういうことはあまり考えない。
「どうすれば、私の書いたものを、私の死後も残せるか」と。
そんなふうに考えることが多くなった。
というのも、「変化」というのは、まさにエンドレス。
命には限界がある。

 エンドレスvs限界。

 エンドレスなものと闘っても意味はない。
負けるに決まっている。
だったらはじめっから負けを認め、その分のエネルギーを、「限界」のほうに使ったほうがよい。

「どうすれば原稿を残せるか」と。

 「書籍」という方法もあるが、私のばあい、毎月、単行本にして、3~4冊分の原稿を書いている。
そんな原稿を本にしてくれるような出版社は、ない。
また出版したところで、売れないだろう。
いや、それ以上に、あの書籍という世界は、窮屈。
こうして自由にものを書いている今の私を、空を飛ぶカモメにたとえるなら、書籍の世界は、「鳥かご」のようなもの。

 ああでもない、こうでもないという出版社からの注文を聞きながら、自分の思想を、ギュウギュウと本の中に押し込めていく。
だから「鳥かご」。

 本を書くのをやめてから、もう10年近くになる。
こうして自由にものを書くようになってから、もう10年近くになる。
だから私はもう、あの書籍の世界に戻ることはないだろうし、戻れない。

●賭(かけ)

 これは大きな賭(かけ)かもしれない。
実のところ先に書いたYOUTUBEにしても、もしYOUTUBE社が閉鎖ということにでもなったら、万事休す。
バックアップはどこにも保存していない。
仮にバックアップしてあっても、3300本近いビデオ(ほとんどが10~15分編集)を、再UPLOADするのは、時間的にも無理。

 同じように、ホームページの世界は、「金の切れ目が縁の切れ目」。
私が死んだら、それでおしまい。
(メインサイトは、有料サービスを利用している。)
が、フリーのホームページ・サービスを使えば、永遠ということはないにしても、10年単位程度には、そのままそこに残してくれる。

 だから私はあえて、フリーのサービスを利用している。
が、それで安心できるわけではない。
フリーということは、無料ということ。
これもいつ閉鎖されるか、わからない。
閉鎖されても、文句は言えない。

 そこで私はホームページのほうで原稿を保存しながら、同時にBLOGのほうでも原稿を発表している。
現在、7~8社から、同時に発表している。

 たいへんな作業に思う人もいるかもしれない。
しかし原稿は、コピペ(コピー&ペイスト)すればよい。
時間にすれば、毎回5分程度ですむ。

 が、これに文句を言ってきた人がいた。
「同じ原稿を、あちこちで出すな!」と。

 しかしそれは私の勝手。
しかもそれにはちゃんとした理由がある。

 最近はBLOGのサービス会社も安定してきた。
が、草創期にはそうではなかった。
それこそ雨後の竹の子のようにBLOGのサービス会社が生まれ、そして消えていった。
その「消えていく」とき、私の原稿も消えていった。
そういう苦い経験があるから、7~8社となった。

●毎月50万件以上!

 こうしてカウントを取っている分だけでも、毎月50万件以上のアクセスをカウントするようになった。
2年前には、30万件だったから、上昇傾向にあることには、ちがいない。
が、実際には、ハイパーリンクといって、サイトの一部に直接アクセスしてくる人も多い。
そういうアクセスも含めると、もっと多いはず。
あるいはその数倍はあるはず。

 もっともアクセス数が多いからといって、それは「数字」の話。
実感はない。
利益もない。
が、そうであるからこそ、別の楽しさがある。
言うなれば、未知の宇宙を航行するような楽しさ。
私の目の前には、漆黒だが、無限の宇宙が広がっている。
それに向かって進んでいくような楽しさ。

 ひょっとしたら、10年後には、アクセス数が、毎月500万件とか、1000万件になるかもしれない。
それを想像するだけでも楽しい。

 ……ということで、今朝は「ネットの世界」について考えてみた。

 みなさん、おはようございます。
はやし浩司 2011-10-24朝記


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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