●2011年10月5日夜(家族崩壊、遺産相続問題、K氏のケース)
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今日は庭の大掃除。
台風以来、はじめて。
被害こそなかったが、木々の枝や葉が
山のようになっていた。
が、昼からやや風邪気味。
薬をのんで、ごまかす。
こういうときは、生ニンニクがよい。
それを白いご飯に載せ、醤油を少しかけて食べる。
軽い風邪なら、それだけで吹き飛んでしまう。
が、今日は平日。
それもできない。
夕方になって、胃痛が始まった。
これは置き薬の胃腸薬をのんで、収まった。
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●K氏の話
K氏(75歳)には、6人の娘や息子がいる。
息子が3人、娘が3人。
現在、長男夫婦とは同じ敷地内で、同居中。
そのK氏が、おとといの夜、こんな話をしてくれた。
「この前の台風のときのことだがね、……浜松を直撃した台風15号だよ、あのとき、心配して電話をかけてきた息子や娘は、ひとりもいなかった。
娘が1人、浜北(浜松市の北部)に住んでいるんだが、私の方が心配して電話をしたよ。
まわりが畑で、平地になっているところに、住んでいるからね。
風当たりも強いだろうと……。
案の定、駐車場のシャッターがめくれあがってしまったとか」と。
現在、これが平均的な親子関係とみてよい。
私も3人の息子がいるが、やはり心配して電話をかけてきたのは、1人もいない。
(うち1人は、同居しているが……。)
が、K氏は、それについても、こう言った。
「今ではね、息子や娘のほうが、親に心配してもらうのが当たり前と考えている。
親子の立場が、逆転しているからね」と。
●逆転現象
こうした逆転現象は、いたるところで見られる。
が、今さらどうしてこなってしまったかを論じても、意味はない。
(私は15年も前から、論じてきたが……。)
そういう前提で、これからの親子関係を考える。
「では、私たち老人組は、どうすべきか」と。
が、問題はつづく。
K氏は、少し前から、息子や娘たちに向かって、相続放棄をしてくれと頼んでいる。
財産は、現在同居している息子夫婦と孫に残したいと考えている。
で、それぞに相続財産協議分割書を送った。
それに、「全財産を○○に相続する」と書いてもらうのが、いちばん手っ取り早く、楽。
だが、それに応じた息子や娘は、まだひとりもいないという。
K「たぶん、出た連中(5人の息子や娘)は、たがいに連絡を取り合っているんだろうね。
だれも返事をよこさないよ」
私「だったら早めに資産、とくに土地を手放したほうがいいですよ。あとでモメますよ」
K「モメるだろうな……」と。
●法の心
昔は長子相続制度があった。
現在は、それはない。
ないかわりに、身近にいて、親のめんどうを最後までみた息子(娘)が、大部分を相続するというのが、常識化している。……していた。
が、その常識も、現代の若い人たちには、通用しなくなってきている。
親のめんどうをみても、みなくても、「私には相続権がある」と。
悪しき法律第一主義の弊害である。
「法の心」というのを見失ってしまっている。
法の教条だけを抜き取り、それを盾にし、自分の相続分を主張する。
数値化といってもよい。
「6人で分けるのだから、6分の1!」と。
K氏はこう言った。
「1人、大阪に住んでいる娘夫婦が、貧乏でね。そいつだけは何とかしなければと思っている。しかしね、AとB。あいつらは、私よりはるかに豪勢な生活をしている。大学を出すとき、金もかかった。そういう息子や娘たちが、みな、平等というのも、おかしいと思いませんか」と。
●平等という不平等
平等という不平等。
が、これは法の心ではない。
法というのは、不合理、理不尽、不平等があったとき、はじめて表に出てくる。
「はじめに法ありき」というのは、法の精神に反する。
私はあの『行列のできる法律相談所』というテレビ番組を見ていたとき、こう感じた。
「法の精神を逸脱している」と。
「法律にこう書いてあるから、こうだ」と。
そういう論法を振りかざす弁護士が多いのには、驚いた。
たとえば刑事犯にしても、その被疑者の罪刑を問うときに、はじめて法が表に出てくる。
はじめから「~~をしたから、~~犯」と考えるのは、正しくない。
正しくないというか、まちがっている。
逆に言うと、仮に法に抵触しなくても、反社会的行為は反社会的行為。
罰せられないからといって、正当な行為ということにはならない。
K氏の遺産相続問題についても、同居している息子夫婦には、その分だけ相続分を多くすることはできる。
しかし実際にはそれをするには、裁判所での家事調停が必要。
しかし台風のときでも、見舞いの電話1本もよこさないような息子や娘たちが、遺産相続の時だけやってきて、「私も息子だから……」というのは、どう考えてもおかしい。
むしろ、そちらのほうが理不尽。
……とK氏は言う。
……私も、そう思う。
●ある教団
ともかくも、親子の逆転現象は、20年近くも前から始まっている。
私がそのころ出した、「受験に克つ子育て法」(三一書房)の中でも書いた。
「本末転倒論」というのが、それである。
しかし時代の流れというのは、恐ろしい。
そういうことを知っていた私でさえ、結局はその(流れ)には、無力でしかなかった。
子どもたちは子どもたちの世界で、自分たちの価値観を創りあげていく。
だから「うちの息子たちも、そうでしたよ」という話になってしまう。
K氏は、さらにこう言った。
「しかしね、林さん、あの拉致被害者のYさん夫婦ね。自分の命をかけて、娘のMさんを取り戻そうとしている。ああいう気持ちは、現代の若い人たちには理解できないかもしれませんね」と。
残念ながら、そうかもしれない。
5年ほど前だが、こんなことがあった。
1人の男性が、わざわざ新潟市から訪ねてきた。
話を聞くと、1人息子夫婦が、ある宗教教団(S会という狂信的なキリスト系カルト教団)に入信してしまったという。
その教団では、集団生活が基本で、たとえ相手が親でも、外部の人たちとの接触を禁止している。
その男性は、孫にも会えなくなった。
それをその男性はそれをつらがっていた。
……というか、教団まで出かけていっても、だれも取り合ってくれないという。
電話をすると、その1~2時間後には息子の方から、電話がかかってくる。
そのとき息子氏はこう言うという。
「もうぼくたち家族のことは、放っておいてほしい。電話もしないでほしい」と。
●家族論
「家族」に対する意識が変ってしまった。
少なくとも、私たちの時代の人間がもっている意識とは、ちがう。
どちらが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを論じても意味はない。
私たち古い世代は、去っていくのみ。
こうした世代間闘争で、古い世代が若い世代に勝ったためしは、ない。
簡単に言えば、私たちの世代は、「家族」というときには、そこには「両親」も含まれていた。
ばあいによっては、「祖父母」も含まれていた。
が、現代は、「家族」には、「両親」「祖父母」もいない。
「家族」というときは、自分たち夫婦とその子どもたちだけ。
悪しき欧米主義の影響と考えてよい。
欧米では、そうした「家族崩壊」が当たり前。
当たり前のまま、社会に定着し、常識化している。
それが戦後、日本にも浸透してきた。
その結果が「今」ということになる。
●変わる子育て観
当然、子育て観も変わりつつある。
なかなか子離れできない親たちがいる一方、早々と子離れを宣言する親もふえてきている。
ある娘(中2)が家出をした。
歓楽街を歩いているとき、補導委員に報道された。
で、補導委員が母親に電話をすると、その母親は、こう言った。
「そんな娘、どうなっても、私は構いません。放っておいてください」と。
が、意識というのは、一度できあがると、変えるのはたいへん。
というか、不可能。
よほどのことがないかぎり、一生、そのままつづく。
そこではげしい、世代間闘争が始まる。
「葛藤」という言葉のほうが適切かもしれない。
古い世代のほうが、はげしく葛藤する。
で、K氏も、今、葛藤している。
「あんなヤツらに遺産など、1円も分けてやらない」と言いつつ、別の心では息子や娘たちのことを心配している。
それが最初の話につながる。
「心配して、電話のひとつでもかけてきてほしい」と願う。
しかし息子や娘たちは、すでに別の意識をもっている。
「親の方が、子どもの心配をすべき」と。
それが世間の常識と納得している。
K「これからこの日本は、どうなるのでしょうね」
私「若い人たちが創っていくままですよ」
K「だって、林さん、自分たちだって、いつかは老人になるんですよ」
私「ハハハ、本人たちは、自分たちは老人にはならないと思っていますよ」
K「そんなバカな……」
私「ハハハ……。私もかつては、そうでしたから……」
K「そう言えば、私もそうだったなあ、ハハハ」と。
で、K氏は今、いろいろなことをしている。
が、ここには詳しく書けない。
生前に相続財産をあれこれ動かすことは、それ自体、脱税行為につながることが多い。
だからここには、詳しく書けない。
ごめん!
Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司
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