2011年10月12日水曜日

*Aren't we the Japanese?

【日本人としてのルーツを大切に!】




●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司


●今どきの中学生(なぜ、今、私たちは日本人なのか?)

●錯視

 私の孫のSの写真を見て、中学生(中3女子)が、こう言った。
「まったくの白人ね」と。
そこで私は、こう言った。
「アメリカではね、だれが見ても、孫のSを見ると、アジア人(東洋人)と言うらしいよ」と。
するとその中学生は、「ウッソー!」と。

 東洋的であるか、白人的であるかは、相対的なもの。
長く一方の世界に住んでいると、ほんのわずかなちがいが、大きなちがいになる。
「錯視」と言ってもよい。
同じ円でも、より大きな円に囲まれると、小さく見える。
より小さな円に囲まれると、大きく見える。

その中学生は、日本で生まれ育っている。
だから孫のSが、白人に見えるらしい。

 念のため、孫のSの写真をここに載せておく。

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●「私は欧米人」

 今でも「私は欧米人」と考えている子ども(小中学生)が多いのには、驚かされる。
理由を聞くと、「肌が白いから」と。
昨夜も、中学生たちと、そんな議論になった。
発端は、AKB48。
AKB48が、今度、外国でもプロデュース(?)されることになったという。

私「それはね、日光にそれだけ当たっていないからだよ」
子「そんなことはない。アジア人は、皆、黒い」
私「黒くないよ。マレーシアなんか行くと、ぞっとするほど美しい女性に出会う」
子「どうして……?」
私「血の交流を受けているからだよ」

子「血の交流って?」
私「そのつど歴史の中で、異邦人、つまり外国人の血が混ざっている。マレーシアのばあい、イギリス人の血が混ざっている」
子「外国人の血が混ざると、どうして美しくなるの?」
私「優性遺伝といってね、双方のよい遺伝子のみが伝わるからだよ」と。

●白い肌

 そこで私は、パソコンを開いた。
孫のSが、アメリカ人と並んで写っている写真はないかと、さがした。
1枚だけ、あった。

 それがつぎの写真。
孫のSが、幼稚園に通っているときのもの。

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 私はこの写真を見せながら言った。

「この写真を見れば、孫のSは、だれだって東洋人と思う。アメリカ人なら、即座にそれがわかる」と。

 孫のSも、ハーフだから、肌は白い。
胸などは透けるように白い。
それでもアジア人は、アジア人。
「白い」といっても、その白さがちがう。

私「つまりね、こういう議論そのものが、ナンセンス」
子「……?」
私「だからといって、日本人のほうが劣っているということではない。逆に、日本人のほうが、優性とか、白人のほうが優性とか、そんなことを論じても意味はない」
子「だってエ~。日本人は、中国人や韓国人とは、ちがうわ」
私「ちがわない。むしろ中国人や韓国人は、日本人を『下』、つまり劣等民族と思っているよ」
子「そんなことはない! 日本人のほうが、かっこいい!」

私「ア~ア、今、血の交流の話をしただろ。日本人は、極東の島国で、長い間、その交流を受けてこなかった。骨相学的にも、日本人は、世界でも、もっとも貧弱と言われている」
子「私、そんな話、信じない!」
私「信じないのは、君の勝手だけど、反対に世界の人とそんなことを論じても、かえって笑われるだけだから、やめたほうがいい。つまりナンセンス」と。

●ナンセンス

 私はオーストラリアの大学にいたころ、身長では、下から2番目だった(IHカレッジ)。
日本では、ごくふつうの学生だった。
当時の私は、身長166・5センチ。
体重は、50キロ前後。

 とくに気になったのは、足の長さだった。
私の足は短く、ひざが飛び出て、O脚だった。
乳幼児期の栄養不足と、「正座する」という習慣が、そういう足にした。

 困ったのが、パンツ(ズボン)。
私に合うパンツなど、どこにもなかった。
だから私はいつも子ども用のパンツをさがし、買っていた。
だからというわけでもないが、「身長」に対するコンプレックスは、乗り越えることができた。
180~190センチもあるオーストラリア人を相手にしても、自分を小さな人間と思うようなことはない。
来週、私の家にやってくるD君にしても、195センチ。
D君にしても、私を小さな人間と思っていないはず。
私もこの40年間、一度も、それを気にしたことがない。

●ゆがんだ優位性

 「日本民族がすぐれた民族」と思うのは、その人の勝手。
どこの民族でも、自分たちが最高と思っている。
それはそれでよい。

 しかしその返す刀で、他民族を、「劣っている」と考えてはいけない。
そう思ったとたん、その民族は、外の世界にはじき飛ばされる。
とくに私たち日本人は、である。
言い換えると、どうして日本人だけが、こういう錯視をするようになってしまったかということ。

 これも教育のなせるわざなのか?
それとも伝統的意識によるものなのか?
それとも島国民族の悲しさによるものなのか?
20年ほど前のこと。
オーストラリアでこんな経験をした。

●アボリジニー

 オーストラリアの友人とメルボルン市内の通りを歩いていたときのこと。
向こう側から日本人の女性たちが、5~6人、集団でやってきた。
ああした通りで甲高い声で、キャッキャッと騒いでいるのは、たいてい日本人だった。

 その手前に、1人のアボリジニーの男性が、道ばたの石段に座り込んでいた。
それを日本人の女性が目ざとく見つけ、まるで獣(けもの)でも見つけたかのように、さらに大声で騒ぎ始めた。
なぜ大声で騒ぎ始めたのか、私にはその理由がよくわかった。
もの珍しそうにそのアボリジニーをながめたあと、(こうした行為そのものが、たいへん失敬なことなのだが)、「ああ、気味悪い~」と。
日本語でそう言っていた。

 バカめ!
本当にバカめ!

 オーストラリアのアボリジニーは、アジア大陸から何派にわけて、移動してきた民族である。
私が学生時代に学んだ記憶によれば、大きく4つの「派」があったという。
そのひとつは、日本人とルーツをともにする。
つまりあのアボリジニーは、日本人にはるかに近い民族である。
遺伝子学的には、そうである。
そうした事実も忘れて、「ギャーッ!」はない。

●化粧

 化粧に化粧を重ね、それこそ1枚、皮がめくれるほど化粧を重ねる。
その結果、日本の若い女性は、今に見る若い女性になった。
化粧を否定する者ではないが、世界的に見ても、日本人は、化粧のしすぎ。

 オーストラリア人などは、今でも、あまり化粧をしない。
当時のオーストラリア人は、ほとんどといってよいほど、化粧をしなかった。
しても口紅程度。
アジア人の女性は、素顔のまま。
とくに中国系の女性は、そうだった。

 だから当時の日本人は、たしかに美しく(?)見えた。
が、それでもって、遺伝子が変化したわけではない。
白人になったというわけではない。
その証拠に……というわけでもないが、……ということで、最後に私はその中学生にこう話してやった。

私「もしそれがわからなければ、40代、50代の女性を見ればいい。もう化粧するのを、あきらめたような女性だ」
子「日本人は、みんな、きれいよ」
私「きれいとか、きれいでないとか……そういうことではなく、客観的に見る。そのときアボリジニーの人たちと、どこがどうちがうか、比べてみればいい」と。

 で、私はネットでアボリジニーを検索してみた。
ウィキペディア百科事典に、1枚、写真が載っていた。
10人近い、アボリジニーの子どもたちが写っていた。
それをその中学生に見せた。

私「いいか、客観的な目で、日本人と比べてみればいい。みな、日本人より、顔が整っていることがわかるはず」
子「……でも色が黒い……」
私「黒いのはしかたない。砂漠に住んでいるから。日本人でも農家の人は、みな、黒いよ」
子「でも、先生は、どうして日本人のことを、そんなに悪く言うの?」
私「言っていない。そういう議論そのものが、ナンセンスと言っている」と。

●日本人

 私がそれ以上に心配しているのは、日本人が「日本」を意識しなくなっていること。
その中学生も、話の途中で、何度もこう言った。

「ああ、私もハーフで生まれればよかった」とか、「フランスで生まれればよかった」と。

 10年ほど前だが、私にこう言った高校生がいた。
私が「ぼくたちは、戦後、ひもじい時代から、がんばってきた」と言ったときのこと。
「そんなの自業自得だ。ぼくもアメリカ人に生まれればよかった」と。

 それが最近は、国籍不明というか、「ネット人種」まで生まれてきた。
先週も、私が「ジョブズ氏(アップル社会長)」について、「時流に乗っただけ」と書いたときのこと。
「偉そうなことを言うなら、自分でやってみろ」(日本人)と。

 アップル社のホームパソコン(当時はそう呼んでいた)が、日本製のパソコンをつぎつぎと駆逐していった。
1978~9年にかけてのことだった。

 当時、アメリカは国策として、電子計算機事業に力を入れ、日本にも繰り返し圧力を加えてきた。
日本のBTRON(OS)がつぶされた背景にも、アメリカ政府の圧力があった。
結果、IBMは今に見るIBMになった。
当時の首相(田中角栄)には、それだけの知的能力はなかった。
土建業は土建業。
そういう流れを知っているから、「時流に乗っただけ」と書いた。

 行きすぎた国粋主義は危険。
しかしここまで無国籍人間がふえると、私は日本の将来を憂えずにはいられない。
今の若い人たちは、この先、平気で日本を捨てていく(?)。

●こだわり

 その中学生には言わなかったが、私が「日本」にこだわる、大きな理由がひとつある。
もし、このまま、(そんなことはありえなとしても)、日本が地球から消えてしまったら、私が今、こうして書いている文章は、どうなるかということ。

 有名人の文章は残るかもしれない。
それこそ時流に乗った人の文章は残るかもしれない。
が、私が今、こうして書いている文章など、まっさきに消えてしまうだろう。
もしそうなったら、今、ここでこうしてモノを書いていること自体、無駄になってしまう。
今の私には、それほど恐ろしい話はない。

 いつかどこかで、たとえ100年後でも、私の書いている文章を読んでくれる人がいるかもしれない。
そんな希望があるから、今、こうしてモノを書いている。

 そのためにも、私たち日本人は、しっかりと大地に、根を張らなければならない。
欧米人に「美」の基準を求め、顔をファウンデーションで白く塗りたくって、それでどうなる?
どうする?
首から下は黄色?
話が混乱してきたが、それこそまさに自ら「根」を切るような行為。

 日本人は日本人。
私たちのルーツはそこにある。
そのルーツを忘れて、国際化はない。

 最後にその中学生にこう言った。

私「ぼくたちは恵まれた世界に生まれたんだよ。食べ物にだって、困ったことがない」
子「……」
私「君たちはそれを当たり前と思っているかもしれないが、今、世界の3分の1の人たちは飢餓状態にある。それを思ったら、感謝しなくちゃあ」
子「……」
私「日本人でよかった、とね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 幼児教室 育児 教育論 Japan はやし浩司 今どきの中学生 2011/10/12記)


Hiroshi Hayashi++++++Oct. 2011++++++はやし浩司・林浩司

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