2011年10月30日日曜日

●山荘で、改

【私は私】「私とは何か?」(山荘の朝、居間で)

●山荘の居間

 こたつの天板の上には、昨夜飲んだ、チューハイの缶、ひとつ。
まだ半分、残っている。
ほかに、パソコンのモニター、ピーナツの袋、テッシュペーパー、お盆、それにメガネ・ケース。
無造作に散らかっている。

 コップにミネラル・ウォーターを注ぎ、それを飲む。
パソコンに電源をONにする。
時計を少し前に見たが、針は6時半を示していた。

 昨夜遅く、この山荘にやってきた。
着くとすぐ、ワイフは、DVDを見始めた。
私は、その横で、それをいっしょに見た。
星はつけようもないほど、つまらない映画だった。
途中で、ギブ・アップ。
猛烈な睡魔に襲われ、そのままふとんの中に。
寝たのは、午後11時ごろでは、なかったか。

●肉食

 まだ外を見ていないが、今日は、雨とか。
窓は薄暗く、外は静か。
鳥のさえずりも、コオロギの鳴き声も聞こえない。
ときどきやってくる、大きなあくび。

 昨夜食べたハンバーグが、腹の上のほうで、まだタプタプしている。
併せて食べた、エスカルゴがよくなかったかもしれない。
月に、1、2度、油っこいものを食べる。
そのたびに、腹の調子が悪くなる。

私の体は、90%が、ベジタリアン。
残りの10%が、肉食系。
肉類は嫌いではないが、どうも体に合わない。
胆嚢の機能が低下している?
自分では、そう思っている。
半年前にエコーで検査してもらったら、「胆石がありますよ」と。
ドクターは、そう言った。

 今日は、朝食を抜く。
昼と夜は、ソバ類。
今、そう決めた。

●脳(さて、本題!)

 ところで、昨日、こんな経験をした。
仕事に出かける前、私はこう思った。
「今日は、ヘルメットをかぶっていこう」と。
たしかに、そう思った。

 が、その出かける前、あれこれと雑務がつづいた。
教材を用意し、身支度を整えた。
その間中、私は、ヘルメットのことを忘れていた。
まったく忘れていた。
が、家を出る、その瞬間、私はヘルメットをさがした。
いつもなら勝手口の手すりに、それが掛けてある。
が、そこにはなく、床の下にころがっていた。

 私はヘルメットを拾いあげ、頭にかぶった。

●自転車 

 自転車にまたがりながら、こう考えた。
「雑務をしている間、『ヘルメットをかぶっていこう』という思いは、どこに消えていたのか」と。
脳のどこかに、記憶としては、あったはず。
しかし雑務をこなしている間には、それが脳から消えていた。
ヘルメットのことは、まったく忘れていた。

 が、家を出る瞬間、ヘルメットのことを思い出した。
床にころがっているヘルメットを拾いあげ、頭にかぶった。

●別の脳

 最近の脳科学によれば、私たちが(自分の意思)と思っている意思にしても、意識としてそれを認知する前に、すでに脳の別の部分が決定しているという。
もう少しわかりやすく説明しよう。

 たとえばあなたが台所へ行く。
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、それを飲む。
あなたは一連の行為、つまり(台所へ行く)→(冷蔵庫を開ける)→(ペットボトルを取りだす)→(水を飲む)という行為を、自分の意思でしたと思っている。
だれかにそう聞かれれば、あなたは、そう答える。
「私は私の意思で台所へ行き、私は水を飲んだ」と。

 しかしそれ以前に、・・・時間的なことはわからないが、30分とか1時間前に、すでに別の脳が、一連の行為をするように決めているという。
ばあいによっては、5分前かもしれない。
が、そのとき、私という「私」は、まだそれを意識していない。
つまり私たちが自分の意思と思っているものにしても、その大半が、・・・というより、そのほとんどが、すでに別の脳で作られている。
「もうすぐのどが渇く。お前は台所へ行って、水を飲んでこい」と。

 わかりやすく言えば、「私の意思」と思っているその「意思」にしても、別の脳に操られているだけ。

●ウソ発見器

 ひとつの例としてよくあげられるのが、ウソ発見器。
いくら言葉でウソを並べても、ウソ発見器は、別の脳の中の反応を観察している。
自分の意思では、その(別の脳)までは、ごまかせない。
だからウソ発見器は、ウソを見破ることができる。

 ・・・というふうに考えていくと、どこからどこまでが「私」なのか、よくわからなくなってくる。
ほとんどの人は、「私は私」と思って、行動している。
しかしそのほとんどは、別の脳がそれ以前に、勝手に決定している。
「私」という部分は、それに従って、行動しているだけ。

 先のヘルメットの話にしても、そうだ。
私は「今日は、ヘルメットをかぶっていこう」と、思った。
自分の意思で、そう決めた。
が、雑務の中で、そのヘルメットのことは忘れた。
「かぶっていこう」という意識さえなかった。

が、出かける瞬間、私はヘルメットをさがし、それを頭にかぶった。
それは私の意思だったのか。
それとも無意識のまま、別の脳に操られただけだったのか。

●レストランで

 昨日は、ほぼ1か月ぶりに、ハンバーグを食べた。
が、それとて、その意思は、昨日の昼過ぎには、別の脳が決めていたのかもしれない。
昨日は、朝食と昼食をかねたブランチを食べただけ。
しかも、いつもの半分。

 その一方で、このところ運動を毎日、2単位こなしている。
1単位は、30~40分。
ランニング、ウォーキングマシン、それに自転車。
全身がひと汗、ザッと出る程度を、1単位としている。

 仕事に行く前から、空腹感があった。
たぶん、そのときすでに別の脳が、「今夜はハンバーグ」と決めていたのかもしれない。
私はそれを意識として、意識することはなかった。
が、別の脳は、そう決めていた。

 仕事が終わり、その帰り道。
私とワイフは、いつもの行きつけのレストランに寄った。
「何を食べる?」「何にしようか?」「ハンバーグにしよう」と。

●ワイフ

 今、雨の音が聞こえてきた。
雨あしが強くなった。
ボタボタと雨どいをあふれて落ちる水の音がする。

 秋の今ごろは、いつも、近くのスギ林の枯れ枝が、雨どいを塞ぐ。
雨どいを詰まらせる。

 ・・・たった今、ワイフが寝床から起きてきた。
「おはよう」と言ったようだったが、私は何も答えなかった。
めんどうだった。
「風呂はどうする?」と、ワイフが聞いた。
「うん・・・」と気のない返事。

 私はこうしてパソコンのキーボードを叩いていたい。
それには理由がある。

●最後の砦(とりで)

 このところ自分の住む世界が、どんどんと小さくなっていくのを感ずる。
体力、気力、思考力、集中力・・・。
それらがどんどんと弱くなっていく。

 そこで私はいくつかのことを自分に決めた。
目標とか、そういった甘いものではない。
「義務」として、位置づけている。

 その第一。
どんなことがあっても、毎日、BLOGだけは、発行する。
週3回の電子マガジンだけは、発行する、と。

 BLOGについては、1日、10枚の原稿と決めている。
電子マガジンのついては、1回分20~30ページと決めている。
それは言うなれば、私の最後の「砦(とりで)」。
この砦を打ち破られたら、明日の私は、ない。

 市内の自宅に帰るまでに、何としてもその10枚を書きたい。
・・・何としても、書きあげたい。

●性欲からの解放

 話を戻す。

 私の脳の中に、別の「私」がいる。
それが裏から、私を操っている。
そのことは、60歳を過ぎると、よくわかるようになる。

 ・・・というか、私は、55歳前後に、それがわかった。
その前後に、私は「男の更年期」というのを経験した。
医学的に実証されたものではないが、そのころ、急速に性欲の衰えを覚えた。
いや、性欲はあったが、「女体」への関心が、ほとんどゼロになった。

 たとえば週刊誌に載っているようなヌード写真を見ても、どれも肉塊にしか見えなかった。
ときに豚の脂身(あぶらみ)のように感じたこともある。
そのときのこと。
それまでの私が、いかに性欲の奴隷であったかが、わかった。
だから私はある日、ワイフにこう言った。

「今のぼくならね、女湯にだって平気で入れるよ。裸の女の人と、湯船につかって、平気で世間話ができるよ」と。

 が、それはすがすがしいほどまでに気持のよい、解放感だった。

●性的エネルギー(リビドー)

 若い人たちに、いくらこんなことを言っても、理解されないだろう。
その渦中にある。
が、男性にしても、24時間、頭の中は「女」でいっぱいという人がいる。
そういう人にしても、自分が性欲に操られているだけとは思っていない。
自分の意思で、そうしていると思い込んでいる。
が、実際には、どの人もみな、別の脳で操られているだけ。
ついでに言えば、男がスポーツで目立ちたいと思うのも、女が化粧をするのも、別の脳に操られているだけ。

 その原点にあるのが、性的エネルギー(フロイト)ということになる。
そのエネルギーが、脳の奥深くから、・・・最近の研究によれば、視床下部あたりから、パルス信号として発信されているらしいが、そこから発信されている。

 このことは、ほかの動物を見れば、わかる。
動物だけではない。
植物にしても、そうだ。
どの生物も、生きる目的を、種族の存続に置いている。
種族の存続にはじまり、種族の存続に終わる。
残りのもろもろの行動は、言うなれば、「雑務」のようなもの。

●ドラマ

 が、だからといって、それが無駄とか、無意味とか言っているのではない。
それがあるから、人生も、また楽しい。
あの映画『タイタニック』にしても、もしジャックとローズがいなければ、ただの船の沈没映画。
沈没再現映画。
ジャックとローズがいたから、人々を感動させ、涙を誘った。

 人生も、また同じ。
私たちがもし、無機質なまま、種族の保存だけを考えて生きていたとしたら、そこからはドラマは何も生まれない。
もちろん感動も、生まれない。

 言い換えると、その「ドラマ」にこそ、生きる意味がある。

●予期せぬ変化

 先に、私は、私たちは別の脳に操られていると書いた。
それはその通りだが、その別の脳が、混乱するときがある。
たとえば別の脳が、その人の方向性を決めていたとする。
が、その方向性が、乱されたようなとき。

 それが他人との接触ということになる。

 「そろそろ喉が渇いてきた。台所へ行って、水を飲んでこい」と。
別の脳がそう決めていたところへ、突然、電話がかかってきた。
友人からの電話である。
「今、近くに来ているから、ちょっとそちらに寄る」と。

 とたんあなたは、行動計画を変更する。
「あと10分で、仕事の準備を終え、居間を片づけなければならない」と。
つまりそう考えたとき、あなたは別の脳の支配から、抜け出る。
あなたはあなたとして、行動を開始する。

 それを「ドラマ」という。

 やがて友人がやってきて、居間のソファに座る。
友人にお茶を出し、自分もお茶を飲む。
渇いたのどを、お茶でうるおす・・・。
ついでに友人のおもしろい話を聞いて、笑う。
それが「私」ということになる。

●生と死

 生と死。
それはだれにも、平等にやってくる。
が、「生」にしても、それは闘うもの。
闘って、勝ち取るもの。

 たとえば昨日も仕事から帰ってきてからすぐ、ウォーキング・マシンの上で30分、歩いた。
体というのはおもしろいものだ。
秋から冬にかけては、27分目に、汗がポタポタと下へ落ち始める。
正確に27分。

 もしそのとき、つまり仕事から帰ってきてから、こたつの中に座ってしまえば、それだけのこと。
しかし汗をかくことによって、細胞が活性化する。
そのあと、細胞のひとつひとつがプチプチとはじけるのが、自分でもよくわかる。
「生」は、そのあとやってくる。
つまり闘って、勝ち取るもの。
もちろん敵は、怠けた心。

●生きる意味

 私はEメールの署名のところに、こう書いている。
「Life is full of Dramas」と。
だれかの言葉だったが、だれの言葉だったかは、忘れた。
「人生はドラマでいっぱい」と。

 で、「なぜ生きているか」と聞かれれば、私は迷わず、こう答えるようにしている。
「ドラマを残すため」と。

 言い換えると、私がなぜ「私」であるかと言えば、そのドラマを残すからということになる。
別の脳に操られるままでは、ドラマは生まれない。
そこに「私自身の意思」を注入することによって、私は「私」を取り戻すことができる。
それがドラマということになる。

 さらに言い換えると、ドラマのない人生ほど、味気なく、つまらないものはない。
そのことは、10年を1日にして生きる老人、20年を1日にして生きる老人を見れば、わかる。
意味もなく、また意味を持たせることもなく、毎日同じことを繰り返している。
そういう人生からは、ドラマは何も生まれない。

●感動

 が、ドラマにも、軽重がある。
振幅の大小と言い換えたほうが、正確かもしれない。
さらにわかりやすく言えば、感動のあるなし。
感動の大きさが、ドラマのスケールを決める。

 近所の人に会い、立ち話をするのも、感動。
しかしその一方で、たとえばワールドカップで、ゴールを決めるのも、感動。
さらに言えば、喜怒哀楽の世界で、人を愛するのも、また憎むのも、これまた感動。
日々に葛藤し、もがき、苦しむのも、これまた感動。
そうした無数の感動を通して、私たちは身の回りに、ドラマを築きあげていく。

 それが「私」であり、生きる意味ということになる。

●ザマーミロ

 話が繰り返しになってきたので、この話はここまで。
今もはげしい雨が、外で降っている。
雨どいからこぼれ落ちるボタボタという音は、そのまま。

 気がつくと、ワイフがいつの間にか、私の横で眠っている。
動くものは、何もない。
いや、私がキーボードを叩くたびに、ペットボトルの水面が、かすかに、小刻みに揺れる。
それが蛍光灯の光を受け、チラチラと光を放つ。

 ・・・こうしてものを考え、キーボードで文にしているときだけ、私は私でいられる。
別の脳に支配されない、私。
きっと別の脳は、・・・もともと人間というのは、基本的には怠け者だから、こう叫んでいるにちがいない。

 「せっかくの土曜日なのだから、横になって休め」と。

 が、私はあえて、それに逆らう。
逆らって、私は自分の意思で、私の文を、こうして書いている。
「ザマーミロ! お前の言いなりになってたまるか!」と。
別の脳に向かって、そう叫ぶ。
それが私にとっては、楽しい。

(はやし浩司 2011-10-22記)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2011+++++++++はやし浩司

【今日、あれこれ】

●放射線物質汚染

 政府の発表で、どうしても納得できないのが、これ。

茶葉から規制値を超えた放射線を観測したとき・・・「お茶でも、飲むときはお湯で薄めるから、問題ありません」、
乾しシイタケから、やはり規制を超えた放射線を観測したとき・・・「乾しシイタケだから、料理したときには水分で薄められるから、問題ありません」と。

 つまり「濃度を薄めれば、問題なし」と。

 その延長線上にあるのが、表土のすき返し。
放射線物質で汚染された表土と、その下の土とを入れ替える。
それを「除染作業(?)」という、と。

●非論理

 どうしてこういう非論理的なことを言うのか、私には理解できない。
土を入れ替えるといっても、それは土をかき混ぜるだけ。
わかりやすく言えば、濃度を薄めているだけ。

 お茶にしても、10倍の水で沸かして飲めば、濃度は10分の1になる?
乾しシイタケにしても、料理にして食べれば、濃度は何分の1かになる?

 いくら濃度を薄めても、その分だけの放射性物質は、体内に取り込まれる。
いくら土の汚染濃度を薄めても、放射性物質は、そこに残ったまま。
どうしてそれを「除染」というのか。

 もしこんな非論理がまかり通るなら、規制値など、必要ない。
こう言えばよい。
「魚でも野菜でも米でも、みんな水で薄めて食べれば安全です」と。

●拡散

 この先、この日本では、大悲劇が始まるだろう。
福島の第一原発周辺の人たちだけではない。
東京都の人も、そしてこの浜松市の人も・・・。
がん性の病で、バタバタと人が死んでいく。

 「拡散」というのは、それをいう。
事実すでに、たとえば魚類にしても、約50%の魚から放射線が観測されている(日刊「ゲンダイ」紙・10・21号)。
とくに北海道方面から、南下してくる魚の汚染度が高いという。
この先、100%になるのは、もはや時間の問題。
 
 その一例を、日刊「ゲンダイ」からここに転載する。

●スーパーで検出された魚(日刊ゲンダイ紙より)

イオン店・・・茨城 イナダ(48ベクレル)
カツオ(13ベクレル)
       千葉 カツオ(22ベクレル)
       宮城 カツオ(14ベクレル)
          マイワシ(19ベクレル)(単位は1キログラムあたりの量)
(以上、日刊ゲンダイ紙より)

 この数値を見て、気がついたことがある。
たとえばカツオの放射線量をよく見てほしい。
茨城でも千葉でも、また宮城でも、放射線量が、13~22ベクレルの範囲にあるのがわかる。
産地はそれぞれ、宮城、岩手となっているが、魚の産地ほど、あてにならないものはない。
水揚げした港が、産地となる。
仮に福島県沖で取れた魚でも、御前崎港と水揚げすれば、「御前崎(浜松)産」となる。

 で、こうして数値を並べてみると、イオンのばあい、同じ産地の魚を全国に流している疑いが出てくる。
もちろんこの浜松でも、同じ魚が売られている可能性が高い。

 つまりこうして放射性物質は、全国に拡散されていく。
「私は浜松市に住んでいるから、だいじょうぶ」などと、高をくくっていると、たいへんなことになる。

 ちなみに他店におけるカツオの放射線量をここに載せる。

(参考)カツオについて

 イトーヨーカー堂  カツオ(8~17ベクレル)
 ユニー       カツオ(8~20ベクレル)
 ダイエー      カツオ(6~15ベクレル)
 西友        カツオ(5~11ベクレル)
(以上、茨城、千葉、埼玉、東京で測定)  

●正確な情報

 私たちが今、いちばん必要としているのは、正確な情報である。
イオンならイオンでもよい。
それぞれの魚に汚染度を、しっかりと表示してほしい。
あるいは店先に、放射線測定器を置いてほしい。

 売る側は、「風評被害」という言葉を使う。
しかし食べる側は、「健康被害」という。
この先予想される健康被害を考えるなら、風評被害など、何でもない。
健康被害は、「命」の問題。
風評被害は、「金(マネー)」の問題。

 風評被害程度のことで、ガタガタ言う方が、おかしい。

●大本営発表

 政府の立場もよくわかる。
今ここで、「日本は終わりました」と認めると、国そのものが、崩壊してしまう。
だからウソでも何でも、「日本はだいじょうぶ」という体裁を取り繕わなければならない。
今が、そのとき。

 だから政府(文科省)は、そのつど、放射線想定値を、低め、低めに発表する。
この手法は、あの大戦中の大本営発表と、何ら変わらない。

 あの大戦においても、軍国主義を先頭に立って推し進めたのが、ほかならぬ当時の文部省であった。
本来なら学術の府として、良識を旗印に、国民を先導すべき文部省だった。

 今、文科省は、その愚を再び犯そうとしている。
政府側にべったりと寄り添い、政府側のつごうのよい情報だけを流す。
つごうの悪い情報は、必要最小限にして流す。
ウソまでは言わないが、本当のことも言わない。
その前に、どうして文科省なのか?
どうしてこうした発表をするのが、文科省なのか?

 サッカー賭博を始めたときも、そう感じた。
どうして文科省なのか?

●自分で守る

 ともあれ、自分の「命」は、自分で守るしかない。
「健康」ではない。
「命」。

 ・・・ということで、私も放射線測定器を購入することにした。
今まで迷ったが、最近は国産のもので、安価なものが手に入るようになった。
(従来は、中国製、ロシア製のものが多かった。アメリカ製については、入手が困難だった。)

 魚類はもちろん、口にするものは、自分で調べてから食べる。
またそれくらいのことをしないと、「命」は守れない。
死ぬのがこわいわけではない。
アホなことで、「命」を無駄にしたくない。
その報告は、今日の昼にでもできると思う。
(現在は、山荘にいて、ネットがつながらない状態にある。)

【追記】(放射測定器についての報告)

 放射線測定器について。
どの製品にするか。
それを選ぶのがむずかしい。

 その瞬間の空間の放射線を測定する製品がある。
しばらくONにした状態で、1時間あたりの積算量を表示する製品がある。

 が、私がほしいのは食品の放射線量を測定する製品。
しかしこちらは装置がおおげさで、価格も100万円前後。

 空間放射線量については、この浜松市では、必要ない。
多くても少なくても、今のところ、どこかへ引っ越すつもりはまったくない。
だから調べても無駄。

 どうしようか?、と、今も悩んでいる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct.2011+++++++++はやし浩司

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