●教え育てる?(教育の原点とは)
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日本の教育は、「教え育てる」が基本になっている。
だから「教育」という。
しかしこの教育法は、日本では通用しても、
外国では通用しない。
英語国では「education」という。
「educe(引き出す)」が語源になっている(TK先生指摘)。
つまり引き出す。
「ちがいは何?」と考える人も多いかもしれない。
が、ちがいは、大きい。
わかりやすく言えば、本山教育が日本の原点。
「頭から小僧に叩き込む」。
それが教育。
一方欧米では、「引き出す」。
そのため「debate(討論)」が、教育の重要な柱になっている。
欧米の教育は、討論に始まり、討論に終わる。
ペーパーワークなど、たまにしか、しない。
韓国の朝鮮N報(新聞)の一部を紹介する。
日本の現状を客観的に見ている。
++++++++++以下、韓国・朝鮮N報、一部抜粋+++++++++++
米ハーバード大のマイケル・サンデル教授による「正義論」の授業は、大教室で熱い討論
が繰り広げられることで有名だ。
教室を埋め尽くす学生たちの国籍は多種多様で、これも授業の特徴の一つとなっている。
アジア系の学生も多い。だが、討論の場に日本人学生の姿はほとんど見られない。
昨年の時点で、ハーバード大に在学中の外国人学生(学部生)666人のうち、韓国人が42人、中国人が36人、シンガポール人が22人、インド人が20人だったのに対し、日本人はわずか5人だった。
++++++++++以上、韓国・朝鮮N報、一部抜粋+++++++++++
●幼児教室でも
私が主宰する幼児教室でも、討論を大切にする。
子どもたちに活発に発言させる。
ペーパーワークは、子どもたちを抑えるときに利用する。
(詳しくは、BW公開教室を観てほしい。
http://bwhayashi.cool.ne.jp/index.html
より)
しかしこの方法は、親たちには、受けがよくない。
「勉強というのは、机に向かってペーパーワークをするもの」という、明治以来の、
(あるいはそれ以前からの)、詰め込み教育が「教育」の柱になっている。
親たちもまた、それが教育と思い込んでいる。
反対にペーパーワークが多ければ多いほど、「プリントという証拠が残るため?」、
親は喜ぶ。
しかし現実には、ペーパーワークをさせることほど、楽な指導法はない。
教師は座って、○×をつけるだけ。
●討論しない日本人
日本の学生が討論しないというのは、世界の常識。
どこへ行っても、静かでおとなしい。
学生だけではない。
国際会議のような席でも、みな、ニンマリと笑いながら、座っているだけ。
それを朝鮮N報は、「討論の場に日本人学生の姿はほとんど見られない」と評した。
事実、その通りだから、これについては、反論のしようがない。
が、これを日本の教育の欠陥と言わずして、何という。
むしろ日本人は、(日本の教育者は)、自己主張する子どもを嫌う傾向にある。
そのことも、私の「公開教室」を観てもらえばわかる。
幼稚園や、学校教育とのちがいが、わかってもらえる。
私の教室では、静かに黙って教育を受けるような子ども(幼児)はいない。
が、それだけではない。
つまり討論するかしないかは、「個」の問題と深く結びついている。
そう言えば、これについてはいろいろな原稿を書いてきた。
いくつかを探してみる。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●大河ドラマ(2007年5月に書いた原稿より)
「絶対、見ないぞ」と思っていたが、チャンネルをかえるついでに、NHKの大河ドラマを見た。……しばらく見てしまった。何かの評定会議をしているシーンだった。
それを見て、びっくり。10年前の大河ドラマとそっくり。20年前の大河ドラマとそっくり。
武将たちが、それぞれ自分のセリフを言っていたが、その言い方が、ワンパターン。実にワンパターン。あんな演技なら、私にだって、できる。あなたにだって、できる。武将というのは、こういうものの言い方をするものだというような、決められた言い方。こういうときには、こういう表情をするものだという、実にわざとらしい演技。
自然さが、どこにもない。人間味が、どこにもない。
私も、20年ほど前のことだが、その会社の命運を決するような会議に出させてもらったことがある。昨日の大河ドラマのように、そこには、15人前後の役員が集まっていた。そして同じように、自分の意見を述べあっていた。
しかし雰囲気は、まるでちがう。それぞれの人が、それぞれの立場で、自分の意見を述べていた。どこかへつらいがちに、ものを言う役員。頭を下に向け、ポツリ、ポツリとしゃべる取締役社長。だまりこくったまま、ため息ばかりつく、別の役員などなど。大河ドラマの監督も、一度、そういうシーンをどこかで見てくるとよい。
領地を取っただの、取られただの、まるで餓鬼の会議。そこには、一片の正義もない。何のために、戦っているのか、戦うのか、その大義名分すら、ない。まったく、ない。民衆のために闘うとか、民主主義のために戦うとか、はたまた自由を求めて戦うというのなら、まだわかる。しかしそういう正義は、まったく、ない。
要するに、みな、我欲の追求だけが目的。そのための会議。のどに力を入れて、力んでいるだけ。見ているうちに、あのK国の軍人たちを連想してしまった。
大河ドラマというのは、こういうものでございます……という、まさに型にはまった演技。どうしてNHKは、10年一律のごとく、同じような番組ばかりつくるのだろう。
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以前(1999)、書いた原稿を
添付します。
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●日本の常識、世界の標準?
『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。
向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。
困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。しかし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。
欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。
まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あたかも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。
要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教えるのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。
日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。
日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になっているが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、などなど。
同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリアではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学んだことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。
日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいたかったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●大学生の親”貧乏盛り”
少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万7000円(九九年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまない。
アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40~50万円はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。
…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ!
そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。
一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなければならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。
しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。
欧米各国が、7~9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの十年間、毎年4~5%前後で推移している。
大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつの奨学金を渡せる!
が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのはそういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。
いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本人のこの後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも個人的利益の追求の場と位置づけている。
世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考えている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。
日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおくれている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。
「こんなところで、子どもを育てたくない!」と。
「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。
私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫のことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。
(1999年ごろ記)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●引く文化・押す文化
日本の子どもは、消しゴムのカスを、手前に払って、机の下に落とす。欧米の子どもは、向こう側に払って、机の上に残す。
考えてみれば、不思議なことだ。教えなくとも、日本の子どもたちは、いつの間にかそうするようになる。考えてみれば、日本の刀は、手前に引きながら、相手切る。欧米の刀は、相手のほうに突き刺しながら切る。ノコギリもそうだ。日本では引きながら切る。欧米では押しながら切る。
これを称して、日本の文化は「引く文化」。欧米の文化は「押す文化」と言った人がいた。たとえば「庭」。日本では、庭をつくるとき、視点を家の中に置く。つまり家の中に美しさを、引きこむようにして庭をつくる。欧米は反対に、外に向かって庭をつくる。
わかりやすく言えば、通りから見た美しさを大切にする。何でもないようなことだが、こうした文化は、教育にも大きな影響を与えている。
日本人は、周囲の価値を、自分の中に引きこむことを美徳とする。内面世界の充実を大切にする。一方、欧米では、自分の価値を、相手に訴えることを美徳とする。
日本人はディベイト(討論)がヘタだと言われているが、そもそも国民性が違うから、しかたない。いや、長い間の封建制度が、日本独特の国民性を作った。自己主張をして波風をたてるよりも、ナーナーですまし、「和」をもって尊しとすると、日本人は考える。
つまりそもそも風土そのものが、「個」を認める社会になっていない。特に教育の世界がそうだ。徹底した上意下達方式のもと、親も子どもも、いつもそれに従順に従っている。文部省が「体験学習だ」と言えば、体験学習。「ボランティア活動だ」と言えば、ボランティア活動。いつもすべてが全国一律に動く。親の側から、教育に注文をつけるということは、まず、ない。
そういう意味でも、日本人は、まだあの封建制度から解放されていない。体質も、それから生まれるものの考え方も、封建時代のままといってもよい。言いかえると、日本の封建時代が残したマイナスの遺産は、あまりにも大きい。
……と悩んでもしかたない。問題は、こうした封建体質から私たちをいかにして解放させるか、だ。一つの方法として、あの封建時代、さらにその体質をそっくりそのまま受け継いだ明治、大正、昭和の時代を今ここで、総括するという方法がある。歴史は歴史だからそれなりに正当に評価しなければならない。しかし決して美化したり、茶化したり、歪曲してはならない。
たとえば2000年のはじめ、NHKの大河ドラマにかこつけて、この静岡県で、『葵三代、
徳川博』なるものが催された。たいへんなにぎわいだったと聞いているが、しかしそういう形で、あの封建時代を美化するのはたいへん危険なことである。
あの世界にも類をみないほどの、暗黒かつ恐怖政治のもとで、いかに多くの民衆が虐げられ、苦しんだか、それを忘れてはならない。一方、徳川家康についても、その後、300年という年月をかけて、つごうの悪い事実は繰り返し抹消された。
私たちが今もつ「家康像」というのは、あくまでもその結果でしかない。つまりこうしたことを繰り返している間は、私たちはあのマイナスの遺産から抜け出ることはない。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●子育ての原点
スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一斉に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは本能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。
スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。
モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げる。スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。本能によるものなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはずである。
実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経験を武器として、自分たちの世代を生きる。そして親になったとき、自分たちが教えられたようにして、次の世代に知識や経験を伝える。
が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子育てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。
その第一。たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、ない。洗濯は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水道、
ガスはガス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから来ますか」と質問すると、「蛇口!」と答える。
同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利さに慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもないような知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方程式だ。
私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式はおろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。さらに高校二年で微分や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。
もうこうなると、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつというのか。こうした事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が満々ている」(学外研・I氏)と。
教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私たちが得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よく、かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。将来、子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるようにするのが、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 教育の原点 和をもって尊し educe education 個の教育)
●討論を大切に
「もの言わぬ従順な民」の時代は、もう終わった。
またそういう子どもを求めてはいけない。
少なくとも、そういう人間は、世界では通用しない。
日本の中では、それでよいとしても、一歩、外に出れば、そこは修羅場。
百戦錬磨の怪獣たちが住む、修羅場。
もの言わぬ従順な民が、どうしてそういう怪獣たちを相手に、勝負できるか。
現在の教育のあり方を、基本的な部分から、もう一度ながめ直してみる必要がある。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●Active Learning(生きた教育)vs Silent People(もの言わぬ民)
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バートランド・ラッセルは、つぎのように述べている。
Passive acceptance of the teacher's wisdom is easy to most boys and girls.
教師の知恵をそのまま受け入れることは、生徒たちにとっては楽なこと。
It involves no effort of independent thought, and seems rational because the teacher knows more than his pupils; it is moreover the way to win the favor of the teacher unless he is a very exceptional man.
自分で考えるという努力を必要としないし、それに教師は生徒たちよりもよく知っているという点で、教師のもつ知恵は、より道理的である。
Yet the habit of passive acceptance is a disastrous one in later life.
が、ものごとを受動的に受け入れるという習慣は、あとになって、たいへんなことだとわかる。
It causes men to seek a leader, and to accept as a leader whoever is established in that position...
受動的であると、リーダーを求めるようになり、その地位にある人ならだれであっても、その人をリーダーと受け入れてしまうようになる。
It will be said that the joy of mental adventure must be rare, that there are few who can appreciate it, and that ordinary education can take no account of so aristocratic a good.
精神的な冒険による喜びというのは、稀なことであり、それゆえにそれを楽しむ人はほとんどいない。そのためふつうの教育というのは、規律正しく貴族主義的であればあるほど、よいと言われる。
I do not believe this.
しかし私は、こんなことを信じない。
The joy of mental adventure is far commoner in the young than in grown men and women.
若い人たちのほうが、成人した人たちより、ずっとしばしば、精神的な冒険の喜びを経験している。
Among children it is very common, and grows naturally out of the period of make-believe and fancy.
幼い子どもたちほどそうで、成長とともに、空想の世界から自然と抜け出ていく。
It is rare in later life because everything is done to kill it during education...
むしろ歳をとればとるほど、教育を通して、それをつぶされてしまうため、そういうことが稀になる。
The wish to preserve the past rather than the hope of creating the future dominates the minds of those who control the teaching of the young.
未来を創造するという希望よりも、過去を保全するという願いのほうが、若い人たちを教育する教師の心を、より強く支配する。
Education should not aim at passive awareness of dead facts, but at an activity directed towards the world that our efforts are to create.
教育というのは、死んだ事実を、生徒たちに押しつけることを目的としてはいけない。そうではなくて、私たちの努力が創りあげる世界に向かって、生徒たちを活動的にすることを目的としなければならない。
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●死んだ教育vs生きた教育
教師はどうしても、保守主義に陥りやすい。
「教育」本来のシステムそのものが、そういう趣旨から出発している。
とくに日本のばあい、明治以来、「教え、育てる」が、教育の基本になっている。
最初に「教科書」を用意し、それを子どもたちに植えつける。
それが教育の基本になっている。
しかしオーストラリアでは、(当時は批判的な声も多く聞かれたが)、すでに小学3年生まで、教科書を使っていなかった(南オーストラリア州)。
それも私が直接確認したのは、25年以上も前のことである。
(最近のことは、知らない。)
また「教科書」という概念ではなく、彼らが使っているのは、「テキスト」である。
テキストブック、イコール、教科書ではない。
つまり世界的にみれば、日本の教育はバートランド・ラッセル風に言えば、「死んだ教育」ということになっている。
それが、基本になっている。
「創りあげる教育」ではなく、「上から下へ、押しつける教育」。
だからおもそろくない。
つまらない。
だから子どもたちは、よくこう言う。
「まだ、習っていない!」と。
何か新しい漢字を書かせようとしたり、新しい問題を解かせようとしたとき、など。
決まって、そう言う。
教育の受け方そのものが、受動的。
わかりやすく言えば、小学低学年時においてすら、すでにそう飼い慣らされてしまっている!
●では、どうするか?
教科書の廃止は当然としても、それに代わるシステムを創りあげなければならない。
「指針」のようなものでよい。
また教育現場にダイナミズムをもたらすために、EUのように大学の単位を共通化する。
同時に教育のクラブ化を進める。
重要な必須科目は、「学校」という場で教える。
しかしそうでない科目は、学校を離れたクラブで教える。
クラブを選ぶのは、子どもたちの自由。
フランスに住んでいるSさんは、最近、こんなメールをくれた。
「(2人)の子どもたちは、自転車クラブに夢中です」と。
まだ小学生である。
そういう子どもたちが、クラブを通して、夢中になれるものをもっている。
それをすばらしいと言わずして、何という。
もちろんその前に、やるべきことがひとつある。
職業の公平化である。
親たちは日々の生活を通して、社会の「格差」「差別」「不公平」を、いやというほど、感じ取っている。
こうした問題を解決しないまま、今、教育を自由化すれば、いわゆる受験産業だけが「クラブ」になってしまう。
それでは元の木阿弥。
が、皮肉なことに、この日本では、そうした格差、差別、不公平の恩恵を受けているのが、官僚たち、なかんずく文部科学省。
天下り先として機能している外郭団体にしても、ダントツに多い。
1800団体近くもある。
中には、ほとんど意味のない団体もある。
こうした団体が、日本の教育をがんじがらめにし、硬直化させている。
1500年もつづいた日本の官僚制度の壁は、あなたが考えているより、はるかに厚い。
その結果、どんな子どもが生まれるか?
それはあなた自身が、いちばんよく知っている。
「もの言わぬ、従順な民」。
あるいは、「もの考えぬ、従順な民」でもよい。
それがあなた自身ということになる。
日本の教育を真正面から批判してみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 生きた教育 バートランド・ラッセル もの言わぬ従順な民 格差 差別 自由な教育論)
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
2010年12月26日日曜日
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