●うつ病、私のばあい(Depression for my Case)
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今朝、うつ病についてのエッセーを書いた。
いくつかのBLOGに載せた。
で、驚いた。
昼までに、10件近い書き込みや、コメントが
あった。
こんなことは、めったにない。
改めて、みなさんの関心の深さに驚く。
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●病識
精神疾患の世界では、「病識のある・なし」で、症状の軽重が決まるという。
「私はおかしい?」と思っている人は、症状はまだ軽い。
治りやすい。
半面「私はだいじょうぶ!」とがんばっている人ほど、症状は重い。
治りにくい。
病識があれば、自分で自分の精神をコントロールすることができる。
自ら「治療」を考えることができる。
病識がないと、それができない。
肉体の病気とちがって、精神の病気は、脳のCPU(中央演算部)が変調するため、
自分でそれに気づくことがむずかしい。
そこで大切なことは、まず自分でそれに気づくこと。
それがうつ病にかぎらず、ほかの精神疾患も含めて、この種の病気と闘う第一歩
ということになる。
●擬似病識
「擬似病識」という言葉は、私が考えた。
つまり病識は病識でも、病識がありながらも、中には精神疾患に振り回されてしまって
いる人がいる。
病院へも通っている。
薬ものんでいる。
しかしそれ以上に、自分の精神の変調を分析することができない。
「おかしい」「おかしい」と思いながらも、その段階で思考を停止してしまう。
それを「擬似病識」という。
このタイプの人は、薬を常用しているだけに、かえって症状を悪化させてしまう。
言い忘れたが、向精神薬というのは、できるだけ最小限にとどめたほうがよい。
とくに脳間伝達物質や脳内ホルモンをコントロールするような薬物には、気をつけた
ほうがよい。
相手が子どもなら、なおさらである。
よい例が、リタリン。
一時はAD・HDの治療薬として、たいへんもてはやされた(2000年ごろ)。
しかし今は、治療薬としては、ほとんど使われていない。
●フィードバック
脳には「フィードバック」と呼ばれる特殊な反応がある。
たとえば脳内にAという脳内ホルモンが分泌されると、同時に、それを打ち消す
別の脳内ホルモンBが分泌される。
つまり(+)と(-)のホルモンが、たがいに打ち消しあう状態になる。
こうして脳は、脳内をいつもクリア(クリーン)な状態に保とうする。
脳科学の世界では、常識である。
よく似た例に、副腎皮質ホルモンと呼ばれる「治療薬」がある。
「魔法のホルモン」と、これも一時は、よく言われた。
「ステロイド」と言えば、「ああ、あれか」と思い起こす人は多いだろう。
しかし最近では、「悪魔の毒薬」という名前で呼ばれるようになった。
ステロイド剤を常用すると、肝心の副腎がホルモンを分泌しなくなってしまう。
つまり一時的には顕著な効果を得られても、そのあと猛烈な反作用が働く。
副作用も出てくる。
症状がかえって重くなってしまうことも多い。
こうした現象を知れば知るほど、脳内ホルモンの人為的操作には、慎重にならざる
をえない。
が、ここでひとつの重大な問題が生じてくる。
精神科医たちにしても、薬を処方しないことには、収入が得られない。
あるドクターはこう言った。
「カウンセリングだけでは、お金は取れません」と。
「5人近い看護士たちを、どうやって養っていくのですか」とも。
こうして薬漬けの患者がふえる。
●うつ病
私も30歳になったころ、不眠に悩んだ。
朝早く、目が覚めるようになってしまった。
そこで行きつけの内科へ行くと、いくつかの薬を処方してくれた。
が、カルテを見て、驚いた。
そこには日本語で、「うつ病」と書き込まれていた。
私はそれに反論した。
「先生、私はその病気ではないと思います」と。
するとそのドクターは、つぎつぎと私の症状を言い当てていった。
「数日前から仕事が気になることがあるでしょ!」
「何でも完ぺきにしないと気がすまないでしょ!」
「人に頼まれたりすると、断われないでしょ!」と。
「さすが!」と驚いていると、そのドクターはこう言った。
「実はね、林さん、私もそうなんですよ」と。
●心の風邪
うつ病を恥じることはない。
「まじめ病」ともいう。
軽重の違いはあるが、現代病のひとつ。
たった50年前とくらべても、日本人を包む社会は、大きく変わった。
たとえば私が子どものころは、父親たちは客と将棋をさしながら、仕事を
していた。
社会全体が、今よりはるかにゆったりとしていた。
家業は自転車屋だった。
それに比べ、今は、目まぐるしいなどというものではない。
分単位、秒単位で社会が動いている。
つまり人間がおかしくなったのではない。
社会が狂った。
事実、アメリカ人の3分の1が、うつ病もしくはうつ病状態にあると言われている。
日本人にしても、ほぼ同じ割合で患者がいると考えてよい。
だからこう居直ればよい。
ハハハ、我ら、天下のうつ病族よ!
まじめな人間ほど、そうなるのよ!、と。
うつ病といっても、今では何でもない病気。
「心の風邪」という言葉を使う人もいる。
つまりそれだけありふれた病気ということ。
気にすることはない。
仲よくつきあえばよい。
この道40年の患者がそう言うのだから、まちがいない。
●こだわり
うつ病との闘いを一言で言えば、「こだわりとの闘い」ということになる。
いかに、こだわりと闘うか。
それがポイント。
これには2つの方法がある。
(あくまでも素人判断。)
(1)ひとつは、ものごとにこだわり始めたら、できるだけ早い段階で、それを止め
ること。
もうひとつは、(2)(こだわり)を、別の分野に拡散させること。
とくに重要なのが、人間関係。
近親や家族関係。
悶々と悩み始めたら、要注意。
できるだけ早い段階で、考えるのをやめ、気分転換を図る。
映画に行ったり、旅行に行ったりする。
が、それだけでは足りない。
「こだわり」を拡散させる。
私のばあい、ほかの分野に興味をもつことで、こだわりを拡散させている。
社会問題、政治問題、教育問題など。
効果的なのは、UFO問題。
視野がぐんと広くなる。
宇宙的な視野から自分をながめることは、それだけでも楽しい。
つまりそういう形で、こだわりが一点に集中するのを防ぐ。
ほかに買い物もよい。
昨日も、SONYのPSP(ゲーム機)を、衝動買いした。
ネットの閲覧もできる、スグレもの。
私のばあい、(あくまでも私のばあいだが)、買い物依存症的なところがある。
新しい電子製品をいじっていると、それだけで気分がよくなる。
脳内でモルヒネ系のホルモンが分泌されるためらしい。
●仲よくつきあう
大切なことは、自分を異常と思わないこと。
前にも書いたが、「心の風邪」と呼んでいる人もいる。
あなたもなるし、私もなる。
だれだって、なる。
なって当たり前。
日本では「精神疾患」というと、偏見と誤解で、特別視する傾向がある。
もちろん軽重はあるが、基本的には、同じ。
つまり「私はうつ病」と、居直ればよい。
居直って、あとは仲よくつきあえばよい。
悪いことばかりではない。
私もうつ病を経験して、他人の心の苦しみや悲しみ、それに孤独が、よく理解
できるようになった。
それまでの私は、どこかチャラチャラした現代人(?)だった。
が、今は、四季折々の変化を見ながらも、そのつど、それをズシリと心の中で
受け止めることができるようになった。
もちろん人生の重みも、理解できるようになった。
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2010年の1月にも、同じような原稿を
書いていたのがわかりました。
それをそのまま掲載します。
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●うつ
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うつ状態というのは、それになった人でないと、
どういう症状なのか、わからない。
とくに心の健康な人には、わからない。
「気のせい」とか、「心の持ち方の問題」とか言って、
簡単に片づけてしまう。
そういう人に出会うと、うつ状態の人は、
絶望感すら覚える。
この病気だけは、理屈だけで割り切ることができない。
脳間伝達物質の偏(かたよ)りで発症するため、
本人自身の力では、コントロールできない。
たとえばよくある早朝覚醒。
これにしても、朝早く目が覚めてしまう。
目が覚めてしまうから、どうしようもない。
「もっと眠っていよう」と思えば思うほど、
頭が冴えてしまう。
たった今が、そうだ。
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●私のばあい
うつ病にも、さまざまなタイプがある。
が、それについて書くのが、ここでの目的ではない。
また書いても、参考にならない。
それに私は、その病気の専門家ではない。
が、私のばあいは、ひとつのことにこだわり始めると、どんどんとその深みにはまってしまう。
ふだんなら笑ってすませるような話でも、「ぜったいに許せない」とか、「あいつはまちがっている」とか、そういうふうになる。
神経は緊張状態にあるため、ささいなことで激怒したり、大声をあげたりする。
で、精神安定剤が効果的かというと、そうとも言い切れない。
そのときはぼんやりとした睡魔に襲われるが、1、2日もすると、かえって神経がいらだってしまう。
だからやや長期的な視点で考えると、こうした「精神薬」は、必要最小限にしたほうがよい。
とくに脳間伝達物質をいじるときは、そうしたほうがよい。
●タネ
うつ病には、かならず原因となっている(タネ)がある。
そのタネを、まず取り除くこと。
そのタネさえ取り除けば、ときとして、パッと気が晴れる。
で、私のばあい、精神的な負担感には、たいへん弱い。
心が過度に緊張するあまり、数時間もすると、ヘトヘトに疲れてしまう。
実際には、数時間はともかくも、1日もつづかない。
攻撃的に爆発するか、反対に、あきらめて、心の整理を先にしてしまう。
投げやりになることもある。
「負けるが勝ち」と逃げてしまうこともある。
どうであるにせよ、うつ状態というのは、本人にとっても、いやな状態である。
悶々とすればするほど、心が蝕(むしば)まれていく。
いじけたり、くじけたり、ひがみやすくなったりする。
●買い物
で、私のばあい、そういう状態になったら、こうする。
若いころから、何かほしいものがあったら、パッとそれを買う。
買ったとたん、胸がスカッとする。
(反対にほしいものを、長い間がまんしていると、悶々とした気分になる。
それがうつ状態を引き起こすこともある。)
これは脳の中の、どういう反応によるものか?
多分、ドーパミンがドッと分泌され、それが物欲を満たす。
その満足感が、脳内を甘い陶酔感で満たす。
言うなれば、麻薬をのんだような状態になる(?)。
これはあくまでも、私という素人の判断だが、たとえば買い物依存症なども、
似たような現象を引き起こす。
何かの依存症になる人には、うつ病の人が多い。
そのモノがほしいから買うのではなく、買うことにより、物欲を満たす。
喫煙者がタバコを吸ったり、アルコール依存症の人が酒を飲むようなもの。
●発散
どうであるにせよ、加齢とともに、うつ状態は、ひどくなる。
「初老性のうつ病」という言葉もある。
若いときとちがって、気分の転換がむずかしくなる。
一度、落ち込むと、それが長くつづく。
それに最近気がついたが、いろいろな病気を併発する。
頭痛、胃炎、それに心痛などなど。
体の弱い部分が、表に出てくる。
で、私のばあい、そうなったら、子どもを相手に心を発散するようにしている。
ときどきレッスンで、メチャメチャ、羽目をはずすことがある。
(YOUTUBEで、紹介中!)
落ち込んでいるときほど、そうする。
子どもたちも喜んでくれるが、同時に、それは私自身のためでもある。
レッスンが終わったあと、気分が変わっているのが、自分でもよくわかる。
●仲良くする
要するに、まじめな人ほど、この世の中では、うつ病になる。
そういう点では、この世の中は、うつ病のタネだらけ!
(たぶんに、弁解がましいが・・・。)
しかし私の印象では、うつ病というのは、仲良くつきあう病気で、闘うべき病気
ではないということ。
もちろん症状がひどくなれば、それなりの対処もしなければならない。
しかし症状も軽く、ときどき、慢性的に起こる程度いうのであれば、仲良く、つきあう。
だれだって、落ち込んだり、反対にハイになったりすることはある。
そう考えて、ジタバタしないこと。
できるだけ薬物の世話になることは、避ける。
一度、世話になると、それこそ、薬なしでは生活できなくなる。
私のばあいは、精神安定剤と熟睡剤、あとは市販のハーブ系の薬をうまく使って、
自分をコントロールしている。
漢方薬にも、よいのがある。
脳間伝達物質を調整するような薬は、よく効くのかもしれないが、そのあと起こる
フィードバックを考えると、こ・わ・い。
「フィードバック」というのは、ある種のホルモンを、人工的に体内へ取り入れると、
そのホルモンを中和しようとして、相対立するホルモンが分泌されることをいう。
それが長くつづくと、本来そのホルモンを分泌している器官が、ホルモンの分泌を
やめてしまう。
副作用のほうが、大きい。
ステロイド剤も、そのひとつ。
●長い間、ありがとう(?)
どうであるにせよ、老後は、みな、そのうつ病に直面することになる。
言うなれば天井の低い、袋小路に入るようなもの。
薄日は差すことはあっても、青い空など、もとから求めようもない。
友の死、知人の死がつづけば、なおさら。
大病になれば、さらになおさら。
で、おかしなことだが、私はこの正月、狭心痛(?)なるものを、覚えた。
そのときのこと。
「心筋梗塞で死ねるなら、本望」と。
いわゆるポックリ死である。
ふだんの私なら、心気症ということもあって、何かの病気を宣告されたら、それだけで
ガタガタになってしまう。
が、こと心筋梗塞について言えば、こわくない。
私の父親も、その心筋梗塞で命を落としている。
私は、やるべきことは、やった。
今さら、思い残すことは、ほとんどない。
これから先、10年長生きしたとしても、状況は同じだろう。
10年後に、今よりすばらしい文章が書けるという保証はない。
反対に脳みそは、不可逆的にボケていく。
息子たちは、みな、去っていった。
去っていっただけではなく、心も離れてしまった。
ワイフとの関係にしても、今は、どこかギクシャクしている。
落ちつかない。
ただオーストラリアの友人のB君だけが、このところ毎日のように、「オーストラリア
へ来い」「いっしょに住もう」と、提案してくれている。
希望といえば、それだけ(?)。
だから今は、こう思う。
「いつ、死んでも構わない」と。
一時の激痛ですむなら、それでよい。
それで死ねるなら、それでよい、と。
・・・しかしそう考えること自体、うつ病なのかも?
脳のCPU(中央演算装置)が狂ってくるから、自分ではその(狂い)はわからない。
「正常」と思いつつ、「異常」な考えをもつ。
「死んでもいい」というのは、どう考えても、異常である。
おかしい。
しかしこればかりは、どうしようもない。
心臓という、私の手の届かないところにある臓器の問題である。
あとは運命に命を任すしかない。
もし私がポックリと死んだら・・・。
そのときは、そのとき。
電子マガジンも、そこでおしまい。
BLOGも、そこでおしまい。
みなさん、長い間、購読、ありがとう!
(前もって、言っておきます。)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
(注)向精神薬
●向精神薬
何らかの精神的な病気をもっていて、薬(向精神薬)を服用している子どもがふえてい
る。そんな一人の母親から、「だいじょうぶでしょうか?」という相談をもらった。
もちろん私には、それについて答える権利はない。その立場にも、ない。
しかし私の経験では、「できるだけ、薬の世話にはならないほうがよい」とだけは、言え
る。こうした向精神薬は、それがきいている間よりも、その服用をやめたときの、反作用
がこわい。
もちろん副作用があるときもある。しかもこの種の薬には、悪性症候群を引き起こすも
のが多い。悪性症候群というのは、投与中に起こる、重い病態を総称していう。発熱、発
刊、頻脈など。
相手が子どものばあい、ドクターも、それなりに、きわめて弱い薬を使うといわれてい
る。もし不安なら、ドクターに直接、相談してみるのがよい。
なお今の診療システムの中では、精神科のドクターにしても、薬を処方しないことには、
金銭的な収入が入らないしくみになっている。だからどうしても、(治療)イコール(薬の
投与)ということになる。そういう事情も、どこかで知っておくとよい。
●児童相談所
このところ児童相談所の役割が、クローズアップされてきている。しかし、今ひとつ、
その活動がよく見えてこない……?
その児童相談所には、大きく分けて、4つの部門がある。実際には、こうして窓口が分
かれているわけではないので、「相談したいことがあります」という言い方で、窓口で話し
てみるとよい。
(1) 養育相談(養育が困難なばあい)
(2) 育児相談(非行問題など)
(3) 障害相談(子どもに何らかの障害があるとき)
(4) 育成相談(不登校、家庭でのしつけ問題など)
こうした問題が起きたら、迷わず、児童相談所に相談してみるとよい。決して、ひとり
で悩まないこと。苦しまないこと。
Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
● ありのままの自分(2004年10月に書いた原稿より)
(現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)。この二つが遊離すればするほど、そ
の人は、心理的に緊張状態におかれ、内面世界で、はげしく葛藤することが知られている。
よい例が、「役割形成」である。(本当の私)と、(現実にしている私)が、大きくちがっ
たりすると、精神状態は、きわめて不安定になる。大嫌いな男性と、無理やり結婚させら
れ、毎晩その男性に肌をさわられるような状況を思い浮かべてみればよい。そういった精
神状態になる。
遊離する理由は、いくつかある。
(1) 理想の自分を描き過ぎる。(こうでありたいという思いが強過ぎる。)
(2) そうでなければという思い込みが強過ぎる。(自意識が強力すぎる。)
(3) 自分をさらけ出すことができない。(人間関係をうまく結べない。)
(4) いい子ぶる。世間体、見栄を気にする。(仮面をかぶる。無理をする。)
(5) 自分に自信がもてない。(悪く思われることに、恐怖心をもつ。)
こうした状態が慢性的につづくと、ここでいう遊離が、始まる。が、それは心の健康の
ためには、たいへん危険なことでもある。
そのため、(現実の自分)と、(そうでありたいと思う自分)は、できるだけ、近ければ
近いほど、よい。ある程度の仮面は、必要だが、その仮面を、夫(妻)や、子どもにかぶ
るようになったら、お・し・ま・い。
だから良好な夫婦関係、良好な親子関係をつくりたかったら、まず、ありのままの自分
をさらけ出す。が、一見、簡単そうだが、実は、これがむずかしい。ばあいによっては、
生活のリズムそのものを、根本的な部分で変えなければならないこともある。
しかも、この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、自分で気が
つくのがむずかしい。本当の自分を知ったときはじめて、それまでの自分が、本当の自分
でなかったことを知る。それまでは、わからない。
私たちの体には、無数のクサリが巻きついている。同じように、心にも無数のクサリが
巻きついている。本当の自分の姿が見えないほどまでに、巻きついている。そういうクサ
リの一本、一本を知る。そしてそれらを、やはり一本、一本、ほぐしていく。本当の自分
が見えてくるのは、そのあとである。
●役割混乱
役割が混乱してくると、自分が何をしたいのか、何をすべきなのかが、わからなくなっ
てくる。これを、「自我同一性(アイデンティティ)の拡散」と言うらしい。
私も、高校時代の後半に、この「拡散」を経験している。(と言っても、そのとき、それ
がわかっていたわけではない。今から思い出すと、そうだったということになる。)
自分で、自分の進むべき方向性を見失ってしまった。
自信喪失、集中力の欠如、精神的不安、それに抑うつ感に悩まされた。自意識も過剰に
なり、人前に出たりすると、失敗してはいけないという思いばかりが先にたち、かえって
何も話せなくなってしまったこともある。
私は、「私が何をしたいのか」さえ、わからなくなってしまった。ただ毎日、学校へ行く
だけ。勉強するだけ。そんな生活になってしまった。今、思い出しても、おもしろいと思
うのは、当時、心のどこかで、ヤクザの世界に、あこがれたこと。あるいは戦争か何かが
起きて、日本中が、こなごなにこわれてしまえばよいと思ったこと。生きザマが、かなり
否定的になっていたようである。
しかしこうした現象は、決して、私だけのものではない。今でも、多くの中学生や高校
生は、同じような悩みをかかえて、苦しんでいる。
本来なら、そういう状態に子どもを追いこまないようにする。そのためにも、思春期に
入るころから、子どもの方向性をみきわめ、その方向性に沿った子どもの生きザマを、子
ども自身がもてるように、指導する。
私のことだが、私は、高校2年生の終わりまで、ずっと大工になるのが、夢だった。そ
のため大学にしても、工学部建築学科を考えていた。
その私が、高校3年生になるとき、文学部へと進路を変更した。つまりこのとき、私に、
「拡散」という現象が襲った。自我同一性、つまり「私」が、大混乱してしまった。
そんな私だが、今でも、ときどき、こう思う。あのとき、ニ流でも三流でもよい。どこ
かの大学の工学部へ入学していたら、そののちの私は、もっと生き生きと、自分の人生を
生きることがでいたのではないか、と。大工でもよかった。子どものころから、泥んこ遊
びが大好きだった。そういう仕事でもよかった。
今、多くの子どもたちを指導している。しかしときどき、こう思う。私がしたような失
敗だけは、してほしくない、と。だから幼稚園児にせよ、小学生や中学生にせよ、子ども
が、「~~になりたい」と言ったら、すかさず、私は、こう言うようにしている。「それは、
いい。すばらしい仕事だ。その仕事は、君にピッタリだ」と。
そういう前向きのストロークをいつも、子どもにかけていく。それがあって、子どもは、
自分の進むべき道を、自分で選ぶことができるようになる。自己の同一性を、確立するこ
とができる。
●自意識過剰
自意識が過剰の人は、少なくない。
だれも注目など、していないのに、自分では注目されていると思いこんでしまう。みな
が、自分に関心をもち、自分のことを気にしていると、思いこんでしまう。
このタイプの人は、もともと人間関係がうまく調整できない人とみてよい。自分を、す
なおにさらけ出すことができない。だからますます、自意識だけが、過剰になっていく。
この自意識は、悪玉なのか。それとも善玉なのか。昔からよく議論されるところである。
しかし自意識がまったくないのも、困る。しかし過剰なのも、困る。ほどほどの自意識が、
好ましいということになる。
自意識のおかげで、私たちは、自分をコントロールすることを学ぶ。「他人の中の自分」
を意識することができる。しかし度を超すと、今度は、かぎりなく自分だけの世界に入っ
てしまう。
そこでその自意識が過剰な人を分析してみると、その人の幼稚な自己中心性と関係して
いるのが、わかる。
「私は私」と考える原点にあるのが、自意識ということになる。しかし「私は私。だか
ら私は絶対」と考えるのは、自己中心性の表れということになる。その自己中心性がさら
に肥大化し、その返す刀で、他人の価値を認めなくなってしまうと、自己愛へと発展する。
自分は完ぺきと思うところから、完ぺき主義に陥ることもある。そしてそれが転じて、
自意識過剰となる(?)。自己愛の特徴の一つに、この完ぺき主義が、よく取りあげられる。
むずかしい話はさておき、自意識が過剰になると、社会生活(学校生活)に支障をきた
すようになる。こんなことがあった。
A君(小5)を何かのことでほめたときのこと。突然、そのうしろにすわっていたB君
が混乱状態になり、「ぼくだって、できているのに!」と言って、怒り出してしまった。B
君の顔は、どこかひきつっていた。
そのときは、ただ単なるねたみか、誤解かと思った。B君は、何かにつけて目だちたり
がり屋で、かつ、そうでないと、すぐ不機嫌になるタイプの子どもだった。
そこで自己診断。
つぎのような項目に、いくつか当てはまれば、自意識過剰な人(子ども)とみてよい。
( )いつも自分は目立った存在でありたいと思う。またそのように振る舞う。
( )自分をだれかが軽く扱ったり、軽く見たりすると、バカにされたと思う。
( )意見などを求められたとき、すばらしい意見を言わなくてはと、かえって
何も言えなくなる。自分で何を言っているかわからなくなってしまう。
( )いつも世間が、自分の注目しているように思う。自分は、そうした世間
の期待に答える義務がある。
( )私の価値は、私が一番よく知っている。それを認めない世間のほうが、
まちがっている。
( )自分が絶対正しいと思うことが多い。みなは、自分に従うべきと思う。
( )他人がほめられたり、他人の作品が賞賛されたりするのを見ると、自分
のほうが、すぐれているとか、自分ならもっとうまくできると思うこと
がある。
ほかにもいろいろ考えられるが、自意識過剰な人は、それだけ精神の発達度が、低い人
とみてよい。
反対に精神の発達度が高い人ほど、他人の喜びや悲しみを、すなおに受けいれることが
できる(共鳴性)。たとえばAさんが、「Bさんって、ステキな人ね」とあなたに話しかけ
たとする。
その瞬間、自意識の過剰な人ほど、「私のほうが……」という反発心を覚えやすい。「そ
うね」と言う前に、それを否定するような発言をする。「でもねえ……」と。だから結果的
に、自意識の過剰な人は、他人から嫌われるようになる。だからますます、他人から孤立
することになる。あとは、この悪循環。
自意識も、ほどほどに……ということになる。
(はやし浩司 自意識 自意識過剰)
●自己概念
「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。
この自己概念は、正確であればあるほどよい。
しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。
一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。
こんなことがあった。
ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。
「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。
つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。
事実、その通りだから、反論のしようがない。
で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。
ここで自己概念という言葉が、出てくる。
私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)だから「私のそばにい
れば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。そういう思いで、そう言った。
しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。
みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。
……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。
その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。
その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。
(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。
しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。
たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。
もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。
あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。
ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念)
●自分を知る
自分の中には、(自分で知っている部分)と、(自分では気がつかない部分)がある。
同じように、自分の中には、(他人が知っている部分)と、(他人が知らない部分)があ
る。
この中で、(自分でも気がつかない部分)と、(他人が知らない部分)が、「自分の盲点」
ということになる(「ジョー・ハリー・ウインドウ」理論)。
(他人が知っていて、自分では知らない部分)については、その他人と親しくなること
によって、知ることができる。そのため、つまり自分をより深く知るためには、いろいろ
な人と、広く交際するのがよい。その人が、いろいろ教えてくれる。※)
問題は、ここでいう(盲点)である。
しかし広く心理学の世界では、自分をよりよく知れば知るほど、この(盲点)は、小さ
くなると考えられている。言いかえると、人格の完成度の高い人ほど、この(盲点)が小
さいということになる。(必ずしも、そうとは言えない面があるかもしれないが……。)
このことは、そのまま、子どもの能力についても言える。
幼児をもつほとんどの親は、「子どもは、その環境の中で、ふさわしい教育を受ければ、
みんな、勉強ができるようになる」と考えている。
しかし、はっきり言おう。子どもの能力は、決して、平等ではない。中に平等論を説く
人もいるが、それは、「いろいろな分野で、さまざまな能力について、平等」という意味で
ある。
が、こと学習的な能力ということになると、決して、平等ではない。
その(差)は、学年を追うごとに、顕著になってくる。ほとんど何も教えなくても、こ
ちらが教えたいことを、スイスイと理解していく子どももいれば、何度教えても、ザルで
水をすくうような感じの子どももいる。
そういう子どもの能力について、(子ども自身が知らない部分)と、(親自身が気がつい
ていない部分)が、ここでいう(盲点)ということになる。
子どもの学習能力が、ふつうの子どもよりも劣っているということを、親自身が気
がついていれば、まだ教え方もある。指導のし方もある。しかし、親自身がそれに気がつ
いていないときは、指導のし方そのものが、ない。
親は、「やればできるはず」「うちの子は、まだ伸びるはず」と、子どもをせきたてる。
そして私に向っては、「もっとしぼってほしい」「もっとやらせてほしい」と迫る。そして
子どもが逆立ちしてもできないような難解なワークブックを子どもに与え、「しなさい!」
と言う。私に向っては、「できるようにしてほしい」と言う。
こうした無理が、ますます子どもを勉強から、遠ざける。もちろん成績は、ますますさ
がる。
言いかえると、賢い親ほど、その(盲点)が小さく、そうでない親ほど、その(盲点)
が大きいということになる。そして(盲点)が大きければ大きいほど、家庭教育が、ちぐ
はぐになりやすいということになる。子育てで失敗しやすいということになる。
自分のことを正しく知るのも難しいが、自分の子どものことを正しく知るのは、さらに
むずかしい。……というようなことを考えながら、あなたの子どもを、一度、見つめなお
してみてはどうだろうか。
(注※)
(自分では気がつかない部分)で、(他人が知っている部分)については、その人と親し
くなることで、それを知ることができる。
そこで登場するのが、「自己開示」。わかりやすく言えば、「心を開く」ということ。もっ
と言えば、「自分をさらけ出す」ということ。しかし実際には、これはむずかしい。それが
できる人は、ごく自然な形で、それができる。そうでない人は、そうでない。
が、とりあえず(失礼!)は、あなたの夫(妻)、もしくは、子どもに対して、それをし
てみる。コツは、何を言われても、それを聞くだけの寛容の精神をもつこと。批判される
たびに、カリカリしていたのでは、相手も、それについて、話せなくなる。
一般論として、自己愛者ほど、自己中心性が強く、他人の批判を受けいれない。批判さ
れただけで、狂乱状態になることが多い。
(はやし浩司 ジョーハリー理論 ジョンハリ理論)
●さらば、もう一人の『私』
自意識が過剰すぎると、(本当の自分)と、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、
遊離し始める。そのときどきにおいて、別々の自分に苦しむ。
そこで自意識過剰ぎみの人の多くは、自分の中の、二重人格性に苦しむことが多い。と
きどき、「本当の自分はどちらなのか」、それが、わからなくなる。
実は、私がそうだった。
私も、自分の中の二重人格性に苦しんだ。苦しむだけならともかくも、その二つが、私
の中で、よく衝突した。
私の中には、たしかに(本当の私)がいる。ずぼらで、いいかげんで、無責任。ぐうた
らで、鈍感で、自分勝手。その上、わがまま。まさにいいことなしの「私」である。
そういう私をを、(そうでありたいと願う、理想の自分)が、否定する。だからよけいに、
衝突した。
しかしあるときから、自分の中で、(本当の自分)を、すなおに表現するようにした。「私
は私」と、居なおるようにした。
「父親だから……」「夫だから……」という気負いを、はずした。ついでに、肩書きも、
はずした。ありのままの私を、そのつど、そのまま表現するようにした。だから一時期は、
人にこう言われたこともある。
「君は、教育者を名乗っているが、とても教育者らしからぬね」と。
が、そこが私の原点だった。私は、そこから出発した。
で、今だが、最近、やっと私は、もう一人の「私」と、決別することができた。そのこ
とだが、実は、こんなことがあった。
そのもう一人の「私」が、私に、何と、あいさつをして、私の中から、出て行ったのだ!
「長い間、お世話になりました」と。
そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「それは、『お世話になりました』
ではなく、『ご迷惑をおかけしました』でしょう」と。
実は、この2人の「私」が、私の中で衝突するたびに、私は、かなり精神的に不安にな
った。そしてそのトバッチリは、ワイフに向った。ワイフは、そういう私をよく知ってい
る。だから、「長い間、ご迷惑をおかけしましたのほうが、正しい」と。
さあ、あなたも、気負いをはずしてみよう!
あなたは、どこまでいっても、あなただ。
そう思ったとたん、あなたも、言いようのない解放感を味わうはず。あとは、そこを原
点として、前に進めばよい。
心を解き放て。体はあとからついてくる(英語の格言)。
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
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