●はやし浩司 2010-12-10
●消えたキジバト
二羽のキジバトの雛がいた。
数日前、一羽が行方不明になった。
昨日、もう一羽も行方不明になった。
まだじゅうぶん、飛べないはず。
昨日もワイフが、しばらくあちこちをさがした。
私もさがした。
が、どこにもいなかった。
『ドラえもん』の中に出てくる、タンポポの種の話を思い出した。
●子どもの巣立ち
子どもは巣立ったあと、無数の父親に出会い、無数の母親に出会う。子どもはたしかにあなたから生まれ、あなたによって育てられるが、決してあなたのモノではない。あなたが育てるのは、あくまでも一人の人間。そしてその人間は、やがてあなたから巣立ち、その子ども自身の人生を始める。
親としては、うれしくも、どこかもの悲しい瞬間でもある。自分の手で子どもの心をすくっているはずなのに、その心が、指の間からポタポタともれていく。その切なさ。そのはがゆさ。しかし親としてできることはもうない。ただ黙って、その背中を見送るだけ。
子どもは、子どもの世界で、それから先、無数の父親に出会い、無数の母親に出会っていく。私ひとりが、子どもの父親ではない。母親でもない。そう思うのは、それは同時に、私たちが子離れの、最後の仕あげをするときでもある。「お前の人生は、お前のもの。たった一度しかない人生だから、思う存分、この世界を羽ばたいてみなさい」と。
が、振りかえると、そこには秋の乾いた風。ヒューヒューと乾いたホコリを巻きあげて、枯れた木々の間で舞っている。心のどこかで、「こんなはずではなかった」と思う。あるいは「どうしてこういうことになってしまったのか」とも思う。しかし子どもは、もうそこにはいない。
願わくば、幸せに。願わくば、無事に。願わくば、健康に。
親孝行? ……そんなくだらないことは考えるな。家の心配? ……そんなくだらないことも考えるな。私たちは私たちで、最後の最後まで、幸福に生きるから、お前はお前たちで、自分の人生を思いっきり生きなさい。この世界中の人が、お前の父親だ。お前の母親だ。遠慮することはない。
精一杯、親としてそう強がってはみるものの、さみしいものはさみしい。しかしそのさみしさをぐっとこらえて、また言ってみる。「元気でな。体を大切にするんだよ」と。あの藤子・F・不二雄の「ドラえもん」の中にも、こんなシーンがある。「タンポポ、空をゆく」(第一八巻・一七六ページ)というのが、それ。
タンポポがガラスバチの中で咲く。それをのび太が捨てようとすると、ドラえもんが、「やっと育った花の命を、……愛する心を失ってはいけない」と、さとす。物語はここから始まるが、つぎにドラえもんは、のび太に、花の心がわかるグラス(メガネ)を与える。のび太は、そのグラスを使って、花の心を知る。
タンポポの心を知ったのび太は、タンポポを日当たりのよい庭に植えかえる。が、しばらくすると、嵐がやってくる。のび太はタンポポをすくうため、嵐の中で、そのタンポポに植木バチをかぶせる。こうした努力があって、タンポポはやがてきれいな花を咲かせる。のび太が「きれいに咲いたね」と声をかけると、タンポポは、「のび太さんのおかげよ」と、礼を言う。「こんないい場所へ植えかえていただいて、嵐から守ってもらって。のび太さんは、ほんとうにやさしくて、たのもしい男の子だわ」と。
そのタンポポの種が、空を飛び始めるとき、のび太は、こう言う。「いよいよだね」と。小さなコマだが、のび太が手をうしろに組み、誇らしげに空を見ているシーンが、すばらしい(一八六ページ)。そのあと、のび太はこうつづける。
「子どもたちが、ひとりだちして、広い世界へ飛び出していって……、きれいな花を咲かすんだね」と。
一人(一本)だけ、母親のタンポポから離れていくのをいやがる種がいる。「いやだあ、いつまでもママといるんだあ」と。それを見てのび太が、またこうつぶやく。「いくじなしが、一人残っている……」と。
タンポポの母親「勇気を出さなきゃ、だめ! みんなにできることが、どうしてできないの」
子どもの種「やだあ、やだあ」
のび太「一生懸命、言い聞かせているらしい。タンポポのお母さんも、たいへんだなあ」
タンポポの母親「そうよ、ママも風にのって、飛んできたのよ」
子どもの種「どこから? ママのママって、どこに生えていたの?」
タンポポの母親「遠い、遠い、山奥の駅のそば……。ある晴れた日、おおぜいの兄弟たちと、一緒に飛びたったの」
子どもの種「こわくなかった?」
タンポポの母親「ううん、ちっとも。はじめて見る広い世界が、楽しみだったわ。疲れると。列車の屋根におりて、ゴトゴト揺られながら、昼寝をしたの。夜になると、ちょっぴりさびしくなって、泣いたけど、お月さまがなぐさめてくれたっけ。高くのぼって、海を見たこともあるわ。青くて、とってもきれいだったわよ。やがてこの町について……。のび太さんの、お部屋に飛び込んだの」
子どもの種「ママ、旅をして、よかったと思う?」
タンポポの母親「もちろんよ。おかげできれいな花を咲かせ、ぼうやたちも生まれたんですもの」
子どもの種「眠くなっちゃった」
タンポポの母親「じゃあね。歌を歌ってあげますからね。ねんねしなさい」
子どもの種が旅立つ日。のび太はその種を、タケコプターで追いかける。
のび太「おおい、だいじょうぶか」
子どもの種「うん。思ったほど、こわくない」
のび太「どこへ行くつもり?」
子どもの種「わかんないけど……。だけどきっと、どこかできれいな花を咲かせるよ。ママに心配しないでと伝えて」
のび太「がんばれよ」
この物語は、全体として、美しい響きに包まれている。何度読み返しても、読後感がさわやかである。それだけではない。巣立っていく子どもを見送る親の切なさが、ジーンと胸に伝わってくる。子どもの種はこう言う。「ママに心配しないでと伝えて」と。タンポポの親子にしてみれば、それは永遠の別れを意味する。それを知ってか知らずか、のび太はこう言ってタンポポの種を見送る。「がんばれよ」と。私はこの一言に、藤子・F氏の親としての姿勢のすべてが集約されているように感ずる。
あなたの子育てもいつか、子どもの巣立ちという形で終わる。しかしその巣立ちは決して美しいものばかりではない。たがいにののしりあいながら、別れる親子も多い。しかしそれでも巣立ちは巣立ち。子どもたちは、その先で、無数の父親や母親たちを求めながら、あなたから巣立っていく。あなたはそういう親たちの一人に過ぎない。あなたがせいぜいできることといえば、そういう親たちに、あなたの子どもを託すことでしかない。またそうすることで、あなたは子どもの巣立ちを、一人の人間として見送ることができる。
さあて、あなたはいったい、どんな形で、子どもの巣立ちを見送ることになるだろうか。それを心のどこかで考えるのも、子育てのひとつかもしれない。
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●キジバト
断言するが、うちのハナ(ポインター種、猟犬)は、けっして雛を襲わない。
枝から雛が落ちてくると、ワンワンとほえて私たちに知らせるが、襲うことはない。
(子犬のときは。雛と戯れて、雛を殺してしまったことはあるが……。)
ハナは、人相はよくないが、心のやさしい犬である。
今では、キジバトのほうでもそれをよく知っていて、数メートル先でも平気で、エサを
食べている。
しかし、どこへ行ってしまったのか?
で、残るは、猫ということになる。
このあたりでも、猫を放し飼いにしている家は多い。
無責任極まりない飼い方ということになる。
猫だって、犬と同じように家の中で飼うべき。
外では、ひもをつけて飼うべき。
欧米の人たちは、みな、そうしている。
ハナの目を盗んでは、私の家の庭にやってくる。
猫に見つかったら、雛は逃げようがない。
どこかの猫に殺されたのかもしれない。
巣立ちとは言うが、あまりにも過酷な巣立ち。
窓の外の空にになった巣には、今朝も冬の白い光がさしこんでいる。
静かな朝だ。
色を変え始めた栗の葉が、小刻みに揺れている。
みなさん、おはようございます。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
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