はやし浩司 2010-12-04
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昨夜は仕事の帰りに、ワイフと、映画『Kiss&Kill』
(英語名:Killers)を観てきた。
が、これがどうしようもない駄作(ごめん!)。
あきれるほどの駄作(ごめん!)。
星など、つけようもない。
予告編を観て、「おもしろうそう」と思ったが、それはまちがい。
がっかり。
ドタバタ映画でも、ここまで中身のないドタバタ
映画となると、そうはない。
『トロン』『ロビンフッド』に期待をつなぎながら、
昨夜は冷たい冬の風が吹きすさぶ、夜の街を
歩いて帰った。
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●離婚
オーストラリアの友人の息子が、最近、離婚した。
2人の子ども(幼児)もいた。
理由は、(友人の話によれば)、妻が元カレと交際をつづけていたとのこと。
「やっぱり、昔の恋人のことが忘れられない」というようなことで、離婚したらしい。
が、こういう話は、一方的な意見だけを聞いて判断してはいけない。
(相手の話を聞く必要もないが……。)
家庭の事情は、複雑。
夫婦関係は、さらに複雑。
心の問題は、さらにさらに複雑。
そっと見守ってやることこそ、大切。
あとはそこを原点として、みな、明るく前向きに生きていけばよい。
●私たち
実のところ、私たち夫婦も、あぶない。
私はともかくも、ワイフは、いつも構えている。
「いったん、ことあれば!」と。
だから私は、1日とて、心の安まる日がない。
いっしょに寝るときも、「いっしょに寝ていいか?」と。
そのつど、ワイフの気持ちを確かめなければならない。
だからということでもないが、軽い口げんかをしただけで、「別れましょう」「離婚
しよう」となる。
が、離婚するのも、たいへん。
たがいの人間関係が、網の目のようにからんでいる。
ともにひとりでは、生きていかれない。
(ワイフは「お金さえもらえれば、ひとりで生活できる」と言っているが……。)
少なくとも、私には生活能力がない。
●抑圧
本来なら、心を開放し、言いたいことを言えばよい。
したいことをすればよい。
が、ワイフのばあい、子どものころから、何かいやなことがあっても、それを心の別室に
押し込め、やり過ごしてきた……らしい。
義兄や義姉は口をそろえて、「A子(=ワイフ)は、がまん強い子だった」と言う。
それが今でも、習慣になっている。
心理学の世界では、そうした心理状態を、「抑圧」という言葉を使って説明する。
表面的には、穏やかでやさしいが、それは仮面(ペルソナ)。
いったん、ことがあると、心の別室の中にたまった不満や不平を爆発させる。
別人のようになる。
何か一言、言うと、その10倍以上の反論となって返ってくる。
今も、基本的には、ワイフは私にさえ心を開くことができない。
むしろ夫婦げんかしたときのほうが、本当のワイフの心が外に出てくる(?)。
「私はあなたなんかと、結婚するつもりはなかった!」と。
●ケセラ・セラ
……と書いても、何も、私たち夫婦が特別というわけではない。
危機的な状況というわけでもない。
どこの夫婦も似たようなもの。
みな、同じような問題をかかえ、その中で懸命に生きている。
うまくいっている夫婦など、実際には、さがさなければならないほど、少ない。
私たち夫婦にしても、空の天気のようなもの。
曇りの日もあれば、雨の日もある。
もちろん晴れの日もある。
その晴れの日を利用して、旅行したり、映画を観に行ったりする。
要するにパーフェクトな夫婦関係を求めない。
ほどほどのところで、ほどほどに満足する。
あとはケセラ・セラ(なるようになる)。
それが夫婦円満(?)のコツではないか。
●秒読み段階
とは言っても、人生も秒読み段階に入った。
つい先日、「ともに長生きしましょう」と誓い合った友人が、8月1日に他界した。
あっけない他界だった。
信じられないほど、あっけない他界だった。
そういう友の死を経験すると、夫婦の問題など、どこかへ吹き飛んでしまう。
わかりやすく言えば、どうでもよくなくなってしまう。
実のところ、そのときも私は布団をかぶって寝ていた。
「あんなヤツ(=ワイフ)とは、二度と口をきかないぞ」と。
ちょうどそんなときワイフがやってきて、「NG先生が、亡くなったって……」と。
「ウソだろ?」「今、奥さんから電話があった……」と。
とたん夫婦げんかのことは、忘れてしまった。
私にしても、夫婦げんかどころではない。
明日どころか、今日の今日、ポックリ逝くかもしれない。
ワイフのようなつまらない人間(失礼!)のことで、心を煩わせているヒマはない。
●夫婦論
夫婦とは何か?
そこにいるのは、親以上の人間。
兄弟以上の人間。
親友以上の親友。
ときに私自身。
たがいの思い出が、そこにぎっしりと詰まっている。
が、それでいて、壊れるときは壊れる。
一度壊れると、今度は他人以上の他人になる。
ただこの年齢になってはじめてわかったことが、ひとつある。
それは「男」と「女」の関係ではなくなるということ。
脳内ホルモンが枯渇する。
若いときのように、「性」でたがいをつなぐということができなくなる。
加えて子育ても終わり、共通の目標も消え失せる。
あとに残るのは、純然たる一対一の人間関係。
一見太く見える人間関係だが、実際のところ、細くてボロボロ。
言うなれば、チョロチョロと燃える、残り火のようなもの。
消すこともできない。
だからその残り火に、たがいに手を向けながら、かすかな暖をとりあう。
慰めあう。
労(いたわ)りあう。
あとはその「日」が来るのを、静かにじっと待つ……。
……ここまで書いて、またあの『ミレーの落ち穂拾い』を思い出した。
原稿を探してみる。
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以前書いた原稿です。
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●夫婦VS育児
どんな夫婦でも、それなりのプロセスがあって、結婚し、子どもをもうける。たいていは恋愛→恋愛期間→結婚というプロセスを経る。それぞれの夫婦は、「私たちの恋愛だけは、ほかの人たちのとは、ちがう」と思いがちだが、それはどうか?
が、問題は恋愛ではない。男女が恋愛をする部分と、その男女が結婚し、子どもをもうけ、そしてそのあと、育児をする部分は、別の問題であるということ。
私はこれを、「夫婦の二層性」と呼んでいる。
つまり恋愛は、純粋に感情的な問題だが、育児では、男女の思想性、哲学性、社会観、人生観、それにそれまでにそれぞれが生まれ育ってきた過去が、真正面からぶつかりあう。
こうした二層性は、国際結婚をしたカップルを見ていると、よくわかる。たとえば今では、ニュージーランドの日本人学校の周辺にも、受験塾があるという。K式算数教室もあるという。
「日本へ帰ってからのことが心配だ」というのがその理由だが、その夫婦が、ともに日本人なら、それほど大きな問題とはならない。
たとえば夫が日本人で、妻が、ニュージーランド人であったとしたら……? あるいはその逆でもよい。
子どもの教育で、どう折りあいをつけるかは、そのつど、重大な問題となる。さらに、社会観、男女観、夫婦観となると、もっと深刻な問題となる。オーストラリアでは、夫が妻に向かって、「おい、お茶!(Hey,Tea!)」と叫んだだけで、離婚事由になるという。実際には、そういう夫はいない。
独特の教育観をもった夫と、親に溺愛されて育った妻。崩壊家庭に近い家庭環境で生まれ育った夫と、両親の愛に恵まれて生まれ育った妻。高学歴の夫と、学歴とは無縁の世界で育った妻などなど。
組みあわせはいろいろある。そういう夫婦が、子どもを間にはさんで、対立する。……つまりそういうケースは、多い。
そこで夫婦は、たがいに悩む。「夫は、甘い」「妻は、冷たい」「息子を、夫のようにしたくない」「妻は、放任すぎる」とか。
こういう対立があっても、夫婦の間が、しっかりとした愛情で結ばれていれば、まだ救われる。話しあいもじゅうぶん、なされる。子育ての調整もできる。
しかしそうでないときは、そうでない。『子は、かすがい』というが、裏を返せば、『子は三界の足かせ』となる。
そういうときは、どうするか?
答は簡単。あきらめて、現状を受けいれる。ジタバタしても、始まらない。たとえば妻(=母親)の側から見ても、夫(=父親)の教育をするのは、子を教育するより、何倍もむずかしい。
たとえばあなたの夫が、かなりのマザコンタイプであったとしよう。しかしそうしたマザコン性は、よほどのことがないかぎり、なおらない。あなたという妻の力くらいでは、どうにもならない。
マザコンであることが、その夫の、哲学になっていることも多い。そんな夫に向かって、「あなたはマザコンよ」と言えば、その先は、どうなるか?
育児にからんで、夫婦で対立するケースは、多い。教育の問題となると、さらに多い。だから、あ・き・ら・め・る。
料理でいえば、その場にある食材で、できるものを考えるしかない。食材がそろっていないのに、寿司をつくろうとか、ビーフカレーをつくろうとか、そういうふうに考えるから、ムリが生まれる。
あるもので、つくる。結局は、育児は、ここに行き着く。
いろいろな問題はあるだろう。弊害や悪影響もあるだろう。しかし全体としてみると、こうした問題は、一過性の問題で終わる。なぜなら、子どものもつ生きるエネルギーは、親が考えているより、はるかに大きく、強力である。やがて子ども自身がもつ、自己意識が育ってくれば、子ども自身が、そうした問題を乗り越える。
親がどう願ったところで、子は、親の願いどおりには、いかない。かりに夫婦の方向性が一致していても、だ。夫は息子をハーバード大へ。妻は息子を東大へ。しかし肝心の息子は、専門学校を出て、職人になった……というケースは、いまどき、珍しくも、何ともない。
ここで私は夫婦の「二層性」について書いた。
つまり夫婦は、恋愛、結婚というプロセスを経て、さらに子どもをもうけて、この二層性を経験する。しかしその子育ても終わると、再び、一層性にもどる。だから夫婦も、育児のことで、ムダにジタバタしないこと。
だから繰りかえす。
あきらめて、受けいれる。それよりも重要なのは、夫婦の信頼関係ということになるが、それについては、つぎに考える。
(はやし浩司 育児 子育て 夫婦の対立 対立)
●夫婦の信頼関係
夫婦の信頼関係も、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)で決まる。「絶対的」というのは、「疑いすら、もたない」という意味。
しかしそれはあくまでも基盤。信頼関係をつくりあげるためには、共通の目的、共通の苦労、共通の人生観をともにもたなければならない。しかしそれは1年や2年で、できるものではない。
もし若い夫婦の中で、「私たちはたがいに信頼している」「愛しあっている」と思っている人がいるなら、それは幻想と思ってよい。夫婦の信頼関係は、そんな生やさしいものではない。
少し視点がかわるが、年をとると、ものの見方が少し変わってくる。たとえば小学生や中学生の恋愛ごっこを見てみよう。「好きだ」「ふられた」「別れた」「取られた」などと、毎日のように騒いでいる。
しかし年をとると、やがて、中学生の恋愛ごっこも、高校生の恋愛ごっこも、それほど、ちがわないように見えてくる。さらに、高校生の恋愛ごっこも、若い男女の恋愛ごっこも、それほどちがわないように見えてくる。
当の本人たちは、「私たちは、高校生とはちがう」と思っているかもしれないが、まあ、これ以上のことを話しても、どうせ理解してもらえないだろう。
つまり私が言いたいことは、夫婦の信頼関係をつくりあげるためには、もうひとつ、「時間」「経験」「年輪」というファクターが、必要だということ。
が、最終的に夫婦の信頼関係を決めるのは、実は、「命」である。
私も、私のワイフには、たくさんの不満があった。ワイフにもあっただろう。しかし、自分で自分の人生を生きてみてわかることは、私の人生には、いつも「限界」があった。はっきり言えば、「たいした人生は、送れなかった」。それに「たいしたこともできなかった」。
「まあ、いろいろやってはみたけれど、私も、ごくふつうの平凡な男に過ぎなかった」と。そんな私が、たとえばワイフに、今以上のものを、どうして求めることができるかということになる。
あと、何年生きられるかということを考えると、なおさらである。10年か、20年か。私はそんなことを考えるとき、いつも、ミレーの『落ち穂拾い』の絵を思い出す。何ともさみしい話だが、しかし悪いばかりではない。あの絵に見られるような、そこには、深い、「味」が生まれる。
若い女性の肌も美しいが、しかしシワでゆるんだ肌も、これまた美しい。若いときはいやだったが、ワイフの腸内ガスのにおいも、これまた、悪くない。すべてを許し、すべてを受け入れていく。
信頼関係は、こうして熟成されていく。
だから私は、ふとこう思う。よく若い男女が、たがいに、「愛しているよ」「信じているよ」と言いあっているのを聞くと、つい、「バカめ」と思ってしまう。「たがいに疑っているから、そういう言葉を口にするのだ」と。
絶対的に愛しあい、信じあっていたら、そんな言葉など、ぜったいに出てこない。
……と、書きつつ、「偉そうなことは言えない」と思ってしまう。
私は本当に、ワイフを信じているかと聞かれると、どうも自信がない。そのことは、ワイフも同じだろう。
実は、まだたがいに苦労も足りないし、ここでいう「時間」「経験」「年輪」が、足りないように思う。
しかし最近では、あえて言わないようにしている。あの「愛しているよ」とか、「信じているよ」という、どこかフワフワとした風船のような言葉だ。
夫婦の信頼関係の問題は、これから先、私たち夫婦にとっては、じっくりと煮詰める問題ということになる。
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ジャン・フランソワ・ミレーの「落ち穂拾い」
で思い出したのが、つぎの原稿
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●不幸の形
幸福というのは、なかなかやってこないが、不幸というのは、こちらの都合など、お構いなしにやってくる。だから幸福な家庭というのは、みな、よく似ているが、不幸な家庭というのは、みな顔が違う。
その不幸が不幸を呼び、さらにつぎの不幸を呼ぶ。こういう例は少なくない。
両親は離婚。兄は長い闘病生活のあと、自殺未遂。母親は、再婚をしたものの、半年でまた離婚。そのあと、叔父の家に預けられて育てられたが、そこで性的虐待を受ける。その女性が、17歳のときのことだった。
そこで家出。お決まりの非行。そして風俗業。しかし悲劇はここで終わったわけではない。やっと結婚したと思ったが、夫の暴力。生まれてきた長男は、知的障害。夫は、やがてほかの女の家にいりびたるようになり、そして離婚。今、その女性は四五歳になるが、今度は乳がんの疑いで、入院検査を受けることになった……。
その人はこう言う。「どうして私だけが……?」と。
一つのリズムが狂うと、そのリズムをたてなおそうと、無理をする。しかしその無理が、さらにリズムを狂わす。だれしも不幸になると、そこがどん底の最悪、と思う。しかしその下には、さらに二番底、三番底、さらには四番底がある。
しかし人というには、皮肉なものだ。今、目の前にあるものを見ようとしない。見ても、その価値に気づかない。仮に見ても、「まだ、何とかなる」「こんなはずではない」と、自ら、それを打ち消してしまう。
だから賢明な人は、そのものの価値を、なくす前に気づく。しかし愚かな人は、そのものの価値を、なくしてから気づく。健康しかり。人生しかり。そして子どものよさ、またしかり。
あなたは、本当に幸福か?
それとも、あなたは本当に、不幸か?
ある腎臓病だった人が、こんな投書を寄せている。何かの雑誌で読んだ話だが、こんな内容だ。
その人は、10年近く、重い腎臓病で苦しんだ。そしていよいよというときになって、運よく、腎臓提供者が現れ、腎臓の移植手術を受けた。そしてそのあとのこと。はじめてトイレで小便をした。たまたま窓から、朝の陽光が差しこんでいたという。その人は、こう書いている。
「自分の小便が黄金色にキラキラと輝いていた。私はその美しさに、感動し、思わず両手で、自分の小便を受け止めてしまった」と。
何気なくする小便にしても、それは黄金にまさる価値がある。その価値に気づくか気づかないかは、ひとえに、その人の賢明さによる。言うまでもなく、賢明な人というのは、目の前にあるものを、そのまま見ることができる人をいう。
その女性は、「どうして私だけが……」と言う。しかし本当にそうか?
だったら、冷静に、見てみろ! 「私は幸福だ」と笑っている、愚か者たちの顔を。抜けたように、軽い顔を。彼らに、人生が何でえあるか、わかってたまるか! 生きるということが、どういうことか、わかってたまるか!
見てみろ! 目の前にある青い空を。緑の山々を。白い雲を、その向こうにある宇宙を。もしこの世界に、神々がいるとするなら、そしてその神々に奇跡を起こす力があるとするなら、今、私がここにいて、あなたがそこにいる。それこそが、まさに奇跡。それにまさる奇跡が、どこにある!
釈迦の説話にこんな話が、残っている。あるとき、ある男が釈迦のところにやってきて、こう言う。
「釈迦よ、私は明日、死ぬ。死ぬのがこわい。釈迦よ、どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。
それに答えて釈迦は、こう答える。「明日のないことを、嘆くな。今日まで生きてきたことを、喜べ、感謝せよ」と。
余談だが、釈迦自身は、「来世」とか、「あの世」をいっさい、認めていない。こういうあやしげな言葉(失礼!)を使うようになったのは、もっとあとの仏教学者たちで、しかもヒンズー教の影響を受けた学者たちである。今の日本に残る経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年を経て書かれた経典ばかりである。ウソだと思うなら、釈迦の生誕地に残る原始経典(『スッタニパータ』、漢語で、『法句経』)を読んでみたらよい。法句経のどこにも、釈迦は、あの世については書いてない。むしろ、釈迦自身は、あの世を否定している。(後世の学者たちが、ムリなこじつけ解釈をしている点はいくらでもあるが……。)
不幸だと思っている人よ、さあ、勇気を出して、目の前のものを見よう。目の前のものを見て、それを受け入れよう。こわがることはない。恐れることはない。恥じることはない。
不幸だと思っている人よ、さあ、そういう自分を静かに認めよう。あなたには無数の心のポケットがある。奥深く、心暖かいポケットである。そのポケットを、すなおに喜ぼう。誇ろう。あなたはすばらしい心の持ち主だ。
不幸だと思っている人よ、さあ、ゴールは近い。あなたはほかの人たちが見ることができないものを見る。ほかの人たちが知らないものを知る。あなたのような人こそ、人生を生きるにふさわしい人だ。人の世を照らすに、ふさわしい人だ。
あなたの夫にいかに問題があっても、あなたの子どもにいかに問題があっても、ただひたすら、『許して忘れる』。これを繰りかえす。それは苦しくて、けわしい道かもしれないが、その度量の深さが、あなたの人生を、いつかやがて光り輝くものにする。
……いや、かく言う私だって、本当のところ、何もわかっていない。本当のところ、何一つ、実行できない。しかしこれだけは言える。私たちが求めている、真理にせよ、究極の幸福にせよ、それは遠くの、空のかなたにあるのではないということ。私やあなたのすぐそばにあって、私やあなたに見つけてもらうのを、息をひそめて、静かに待っている。
過去がどうであれ、これからの未来がどうであれ、そんなことは、気にしてはいけない。今、ここにあるのは、「今という現実」だけ。私たちがなすべきことは、今というこの現実を、懸命に生きること。ただただ、ひたすら懸命に生きること。結果は必ず、あとからついてくる。
そう、私たちの目的は、成功することではない。私たちの目的は、失敗にめげず、前に進むことである。あの「宝島」をいう本を書いた、スティーブンソンもそう言っている。そういう有名な言葉をもじるのは、許されないことかもしれない。しかしあえて、この言葉をもじると、こうなる。
私たちの目的は、幸福になることではない。日々の不幸にめげず、前に進むことだ、と。
もしあなたが不幸なら、ほんの少しだけ、あなたより不幸な人に、やさしくしてみればよい。あなたより不幸な人を、ほんの少しだけ、暖かい心で包んであげればよい。それで相手は救われる。と、同時に、あなたも救われる。
あなたの子どもは、そこにいる。あなたはそこにいて、いっしょに生きている。友よ、仲間よ、それをいっしょに、喜ぼうではないか。この100億年という宇宙の歴史の中で、そして100億に近い人間たちの世界で、今、こうして心を通わすことができる。友よ、仲間よ、それをいっしょに、喜ぼうではないか。
不安になることはない。心配することもない。さあ、あなたも勇気を出して、前に進もう。不幸なんて、クソ食らえ! いやいや、あなたの身のまわりにも、すばらしいものが山のようにある。それを一つずつ、数えてみよう。一つずつだ。ゆっくりと、それを数えてみよう。
秋のこぼれ日に揺れる、栗の木の葉。
涼しい風に、やさしく揺れる森の木々。
窓には、友がくれたブリキの汽車の模型。
そしてその上には、息子たちの赤ん坊のときの写真。
やがてあなたは、心の中に、暖かいものを覚えるだろう。そしてその暖かさを感じたら、それをしっかりと胸にとどめておこう。それがあなたの原点なのだ。生きる力なのだ。
つぎに、不幸と戦う必要はない。今ある状態を、それ以上悪くしないことだけを考える。あなたは、ミレーが描いた、「落穂拾い」という絵を知っているだろうか。荒れた農地のすみで、三人の農夫の女性が、懸命に、落穂を拾っている。どういう心境かは私には、知るよしもないが、しかし私はあの絵に、人生の縮図を見る。
私たちは今、懸命に、「今という時」を拾いながら生きている。手でつまむようにして拾うのだから、たいしたものは拾えないかもしれない。もっているものといえば、小さな袋だけ。が、それでも懸命に拾いながら、生きている。しかしその懸命さが、人の心を打つ。つまりそこに、人生のすばらしさがある。無数のドラマも、そこから生まれる。
最後に一言。あなたは決して、ひとりではない。その証拠に、今、私はこの文章を書いている。そういう私がいることを信じて、前に進んでほしい。あまり力にはなれないかもしれないが、私も努力をしてみる。
(はやし浩司 ミレー 落穂 落ち穂 落穂拾い はやし浩司 落ち穂拾い)
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●落ち穂拾い
私がミレーの『落ち穂拾い』を思い出すときは、心が沈んでいるとき。
NG先生の死が、大きく影響している。
また1人、私のよき理解者を失った。
原稿を書いて送るたびに、批評を書いて寄せてくれた。
今日は通夜。
明日は本葬。
何ごともなかったかのように、冬の白い陽が、窓に映る栗の木の葉を揺らしているのが、
うらめしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 夫婦論 夫婦とは ミレー はやし浩司 2010-12-04)
Hiroshi Hayashi++++Dec. 2010++++++はやし浩司・林浩司
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