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子育て最前線の育児論byはやし浩司 12月 13日号
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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●恵まれた子どもたち(自律期の幼児)
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【自律期から自立期へ】(4~5歳児の心の発達と、自己主張)
「動物」をテーマに学習を進めました。
しかしこのビデオでは、子ども(年中児+年少児)の会話に注目してください。
エリクソンが解く、「自律期」「自立期」が、どういうものか、理解していただける
と思います。
子どもはこうして自己主張を繰り返しながら、自立していきます。
一見、扱いにくく見える子どもたちですが、こうした(伸びやかさ)を通して、子どもは
人格の核(コア)を形成していきます。
この核形成に失敗すると、以後、ナヨナヨした人格(?)の子どもになってしまいます。
たいへん重要な時期です。
と、同時に、ここに紹介する子どもたちは、環境的にも、また性格的、精神的にも、
たいへん恵まれた子どもたち(Gifted Children)です。
(1)
(2)
(3)
(4)
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(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 恵まれた子ども gifted children 幼児の自己主張 自己主張する幼児
幼児の自立期 幼児の自律期 エリクソン 自律 自立 はやし浩司
2010-11-05)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【GI様へ】(自己愛性人格障害について)
長い電話で、すみませんでした。
美里様(以下、M様)についてですが、かねてより、ある種の人格障害をもった人ではな
いかと判断しています。
「ある種」というのは、「自己愛性人格障害」という意味です。
簡単には、「自己愛者」といういいます。
(ただし「障害」というときは、「他者との良好な人間関係が結べない」という意味で、
使います。
他者と良好な人間関係が結べれば、「障害」ではないということです。)
要するに自己中心性が、極端な段階にまで、肥大化した人をさします。
決して好ましい人格とは言えません。
自分勝手でわがまま、好き嫌いが極端にはげしく、批判されると異常なまでに反発します。
またどんな場でも、自分がその中心にいないと気がすみません。
このことは、すでにGI様が、お気づきの上、かつご指摘になったとおりです。
念のため、DSMの診断基準をここに載せておきます。
++++++++++++++++++++
●自己愛性人格障害 (DSMの診断基準より)
Narcissistic personality
A 自己の重要さ又はユニークさをおおげさに感じること
(例:業績や才能の誇張、自己の問題の特殊性の強調)
B 再現のない成功、権力、才気、美貌、あるいは理想的なあいの空想に夢中になること
C 自己宣伝癖
(例:絶えず人の注意と称賛を求める)
D 批判、他者の無関心、あるいは挫折に際しての反応がそ知らぬふりであるか、憤激、
劣等感、羞恥心、屈辱感、または、空虚感といった目立った感情である
E 以下のうち少なくとも2項目が対人関係における障害の特徴である。
(1)権利の主張:それに見合っただけの責任を負わずに、特別の行為を期待すること、
(例:望むことを人がしてくれないと言って驚き、怒る)
(2)対人関係における利己性:
●自己の欲求にふけるため、又は自己の権力の拡大の為に他者を利用する。
●他者の自己保全や権利をないがしろにする。
(3)対人関係で、過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く特徴を持つ。
(4)共感の欠如:他者がどう感じているかわからない。
(注:以上、人格障害 DSMー3(第3版)「精神障害診断基準」(DSM-3/1980年)
より)
++++++++++++++++++++++
●GI様へ
これを読んでも、M様が、すべて診断基準通りと言うことに、お気づきかと思います。
またM様だけではなく、G様(あなた様のお姉様)も、すべて診断基準通りということに、
お気づきかと思います。
加えて加齢による、記憶力の低下、融通性の欠如などが現われ、さらにここにあげた
ような性格が、極端化してきているように判断しています。
前回も指摘しましたが、M様については、文字を読めない(簡単な手紙のようなものは
読める)という点から察しても、別の障害が疑われます。
M様の周辺には、本らしい本が1冊もないことに、ご注目ください。
それはそういう障害によるものです。
私もM様が、若いころから本を、まったく読めない……あるいは読まないということを、
聞いています
たとえば重要な法律書類を、「私はこんなもの読んでも、しかたない!」と言って、手で
払いのけられたような行為が、その一例とということになります。
本当に理解できないから、そういう行動に出るのです。
またそれを悟られるのを、極度に警戒します。
で、もしそうなら、識字障害者ということになります。
本来なら正式な診断機関で診断してもらうのがよいのですが、このタイプの女性に
かぎって、それをはげしく拒絶します。
自己愛者の特徴のひとつです。
自分を過大に自己評価する一方、他人にそれを否定されると、狂ったように反発します。
診断機関で診断を受けるなどということは、考えられないことです。
だから結局は、その周囲の人たちが、苦労するということになります。
●相手にしないこと
そこで重要なことは、M様にせよ、お姉様にせよ、そういう人たちに、引き回されない
ようにするということです。
わかりやすく言えば、心に大きなキズをもった人たちであることを理解し、その上で、
交際していくということです。
いちいち相手にしていると、今度はGI様自身が、相手のペースに取り入れられてしまい
ます。
ですから鉄則は、相手にしないこと。
できれば遠ざかること。
この一言に尽きます。
いろいろ不愉快に思っておられる気持ちは、よく理解できます。
私も別の世界で、似たような経験をしています。
参考までに、私が今まで書いてきた原稿を添付します。
どうか心安らかに。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●自己愛者( Narcissism person)
The more he or she is a self-centerness person, the lower his or her mental IQ is.
+++++++++++++++++++
自己中心性が極端なまでに肥大化した
状態の人を、自己愛者という。
+++++++++++++++++++
●ジコチュー
自己中心性(ジコチュー性)が、極端なまでに
肥大化した人を、「自己愛者」という。
自己中心性が強い分だけ、人格の完成度は、低い。
ほかに、たとえば異常なまでの完ぺき主義、
他人の批判を許さないなどの特徴がある。
その自己愛者については、たびたび書いてきたので、
ここでは、その先を書く。
私は、現在、こんな経験をしている。
私の身近にいる知人だが、このところ、認知症と
思われる症状が、急速に進んでいる。
アルツハイマー病の初期症状かもしれない。
ときどき、記憶の一部が、脳みそから欠けるように消えてしまう。
前の晩に何を食べたかを忘れるのは、よくあること。
が、その人のばあい、前の晩に食事をしたことそのものを、
忘れてしまう。
電話で話していても、一方的に、しゃべるだけ。
しゃべるだけならまだしも、しばらくすると、
また同じ話を繰りかえす。
そして私が何か、その人について批判めいたことを
口にすると、その瞬間、狂乱状態になってしまう。
「以前、その話はもう聞きました」と言っただけで、
ギャーッとなってしまう。
「私は、言っていない!」「どうして、そういうウソを言うの!」と。
言い忘れが、その知人というのは、今年、59歳になる。
女性である。
ワイフの長い友人で、いつしか家族ぐるみでつきあうようになった。
が、このところ、ワイフが言うには、「つきあいにくくなってきた」
「10年前には、ああではなかった」とのこと。
つまり、回りくどい言い方になってしまったが、認知症のはじまりには、
ものの考え方が、自己中心的になり、自己愛的な症状が出てくる。
言いかえると、自己中心性が出てきたら、あぶないということ。
(その人が、認知症というわけではない。あくまでも私が、
そう疑っているだけ。念のため。)
認知症になることによって、人格そのものが、崩壊してしまう人がいる。
そう考えれば、認知症の初期症状のひとつとして、ものの考え方が
自己中心的になったところで、何ら、おかしくはない。
+++++++++++++++
もう一作……。
+++++++++++++++
●自己概念
「自分は、人にどう思われているか」「他人から見たら、自分は、どう見えるか」「どん
な人間に思われているか」。そういった自分自身の輪郭(りんかく)が、自己概念というこ
とになる。
この自己概念は、正確であればあるほどよい。
しかし人間というのは、身勝手なもの。自分では、自分のよい面しか、見ようとしない。
悪い面については、目を閉じる。あるいは人のせいにする。
一方、他人というのは、その人の悪い面を見ながら、その人を判断する。そのため(自
分がそうであると思っている)姿と、(他人がそうであると思っている)姿とは、大きくズ
レる。
こんなことがあった。
ワイフの父親(私の義父)の法事でのこと。ワイフの兄弟たちが、私にこう言った。
「浩司(私)さん、晃子(私のワイフ)だから、あんたの妻が務まったのよ」と。
つまり私のワイフのような、辛抱(しんぼう)強い女性だったから、私のような短気な
夫の妻として、いることができた。ほかの女性だったら、とっくの昔に離婚していた、と。
事実、その通りだから、反論のしようがない。
で、そのあとのこと。私はすかさず、こう言った。「どんな女性でも、ぼくの妻になれば、
すばらしい女性になりますよ」と。
ここで自己概念という言葉が、出てくる。
私は、私のことを「すばらしい男性」と思っている。(当然だ!)
だから「私のそばにいれば、どんな女性でも、すばらしい女性になる」と。
そういう思いで、そう言った。
しかしワイフの兄弟たちは、そうではなかった。私のそばで苦労をしているワイフの姿
しか、知らない。だから「苦労をさせられたから、すばらしい女性になった」と。だから、
笑った。そしてその意識の違いがわかったから、私も笑った。
みんないい人たちだ。だからみんな、大声で、笑った。
●自分を知る
……という話からもわかるように、自己概念ほど、いいかげんなものはない。そこで、
私たちはいつも、その自己概念を、他人の目の中で、修正しなければならない。「他人の目
を気にせよ」というのではない。「他人から見たら、自分はどう見えるか」、それをいつも
正確にとらえていく必要があるということ。
その自己概念が、狂えば狂うほど、その人は、他人の世界から、遊離してしまう。
その遊離する原因としては、つぎのようなものがある。
(1) 自己過大評価……だれかに親切にしてやったとすると、それを過大に評価する。
(2) 責任転嫁……失敗したりすると、自分の責任というよりは、他人のせいにする。
(3) 自己盲目化……自分の欠点には、目を閉じる。自分のよい面だけを見ようとする。
(4) 自己孤立化……居心地のよい世界だけで住もうとする。そのため孤立化しやすい。
(5) 脳の老化……他者に対する関心度や繊細度が弱くなってくる。ボケも含まれる。
しかしこの自己概念を正確にもつ方法がある。それは他人の心の中に一度、自分を置き、
その他人の目を通して、自分の姿を見るという方法である。
たとえばある人と対峙してすわったようなとき、その人の心の中に一度、自分を置いて
みる。そして「今、どんなふうに見えるだろうか」と、頭の中で想像してみる。意外と簡
単なので、少し訓練すれば、だれにでもできるようになる。
もちろん家庭という場でも、この自己概念は、たいへん重要である。
あなたは夫(妻)から見て、どんな妻(夫)だろうか。さらに、あなたは、子どもから
見て、どんな母親(父親)だろうか。それを正確に知るのは、夫婦断絶、親子断絶を防ぐ
ためにも、重要なことである。
ひょっとしたら、あなたは「よき妻(夫)であり、よき母親(父親)である」と、思い
こんでいるだけかもしれない。どうか、ご注意!
(はやし浩司 自己概念 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教
育 子育て はやし浩司 自己概念 現実自己 アイデンティティ)
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●愛他的自己愛者(偽善者)
+++++++++++++++++
私の知人に、こんな女性(当時55歳くらい)がいた。
その女性は、何でも、ボランティア活動として、近所の
独居老人の世話をして回っているという。
そういう話を、その女性から直接、聞いた。
「どんなことをしているのですか?」と聞くと、
その女性は、ことこまかに、あれこれと説明してくれた。
で、あるとき、こんな会話をしたのを覚えている。
私がその話に少なからず感動し、「すばらしいことです」と
言ったときのこと。
その女性は、さらにこう言った。
「いえいえ、私なんか、何でもありません。
私の友人のHさんなんかは、独居老人の入浴を手伝っていますよ。
でね、入浴中に、老人が、便をもらすこともあるそうです。
が、Hさんは、そうした便を、手ですくって、外へ捨てていますよ」と。
さらに驚いたことに、話を聞くと、そのHさんというのは、まだ
20代の後半の男性と言った!
私は当時、この話を聞いて、心底、感動し、エッセーも書き残した。
しかし、である。
どうも、この話は、おかしい。
どこか、へん。
+++++++++++++++++++
●周囲文化
その人が善行をなすには、その人自身を支える、(周囲文化)というものが必要である。
たとえば自動車産業というものを考えてみよう。
自動車産業が生まれるためには、それを支える周辺の技術、研究、環境が必要である。
人材ももちろん、育成しなければならない。
そういった(周囲)もないまま、自動車産業だけが、忽然(こつぜん)と、
姿を現すということはありえない。
そこで私は、その女性の周辺に興味をもつようになった。
どういう生い立ちで、どういう人生を送ってきたか、などなど。
またその女性を支えている哲学は何か、とも。
しかし、である。
それから5、6年になるが、どこをどうつついても、その(周囲文化)というものが、
浮かび上がってこない。
それなりの基礎があったとか、経験があったとかいうなら、まだ話がわかる。
また会話をしていて、それなりの(深み)を感ずるというのなら、まだ話がわかる。
しかしそういうものが、まったく、ない。
だいたい、本を読んだことさえないという。
音楽も絵画もたしなまない。
そのうち私は、「どうしてそんな女性が、ボランティア活動?」と、疑問に思うように
なった。
が、やがていろいろな情報が入ってくるようになった。
●情報
その女性は、ケチの上に、「超」が三つも四つも重なるような女性である。
子どもの教育費すら、惜しんで出さなかったという。
2人の娘がいたが、「大学を出すと、遠くの男と結婚するから」という理由で、
娘たちには、大学へは行かせなかった。
が、世間体だけは人一倍気にしていた。
見栄っぱりで、虚栄心が強かった。
が、決定的だったのは、その女性が、一方でボランティア活動を他人に吹聴しながら、
その前後から始まった実父の介護では、虐待に近いことをしていたということ。
この話を、私はあるケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人から聞いた。
そのときには、「ヘエ~、あの女性がですか……」と言ったきり、言葉が詰まってしまった。
つまりその女性は、ボランティア活動を、自分を飾るための道具として利用していただけ。
口もうまい。
言葉も巧み。
それとなく会話の中に、自分の善行を織り交ぜながら、相手を煙に巻く。
結果として、他人に、自分はすばらしい人間と思わせる。
「明日、町内の会合があるそうですが、私は行けません。
主人に代わりに行ってもらいます。
私には、一人、近所で、気になっている老人がいますので、その人を見回って
あげなければなりません。
かわいそうな人でね。
子どもは1人いるのですが、数年に1、2度、やってくるかどうかという人です。
あわれなもんです。
先日も、何かの書類が必要だというので、その老人のために、私は半日かけて
書類を集めてやりました」とか、何とか。
つまり一貫性がない。
そこまで親身になって独居老人の世話をしているというのなら、それなりの一貫性が
なければならない。
その一貫性が、こちら側に伝わってこなければならない。
さらに言えば、そこに至るまでのプロセスに、(自然さ)がなければならない。
たとえば以前、ある大学の教授の家を訪問したときのこと。
たまたまそこに、カンボジアの難民キャンプから帰ってきたばかりという女性がいた。
その女性は、左手を怪(けが)したとかで、まだ大きな包帯を幾重にも巻いていた。
「暴動に巻きこまれて、怪我をしました」「それで休暇をもらって、日本へ帰ってきて
います」ということだった。
そういう女性と話していると、(自然さ)を感ずる。
深い人間愛というか、人間味を感ずる。
哲学や人生観を感ずる。
どこにもスキがない。
私がここでいう(一貫性)というのは、それをいう。
で、私たちの世界では、先に書いたような女性のことを、「愛他的自己愛者」、つまり、
「偽善者」という。
もっとも軽蔑すべき人間ということになる。
なるが、先に書いたケアマネの人は、こう言って教えてくれた。
「そういう女性だとわかっていますが、そういう人でも、何かと助かっています」と。
偽善がときには、真善になるということもあるということか。
私には、とてもマネできないことだが……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 偽善 偽善者 自己愛 愛他的自己愛 自己愛者 自己愛性人格障害)
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【世代性】(2010-11-07加筆)
●低俗性と低劣性
低俗性であることは、必ずしも悪いことではない。
俗世間とかかわりをもつ。
その中で豊かな人間関係を築いていく。
それがその人の人間的な幅を広くする。
たとえば回転寿司屋で寿司を食べたからといって、その人の人間性がさがるという
ことではない。
破れたジーパンで、山の中を歩いたからといって、その人の人間性がさがるということ
ではない。
が、低劣性は、別。
人の不幸話に聞き耳を立て、聞いた話をおもしろおかしく、別の人に伝えていく。
それだけではない。
この世界には「もまし」という言葉がある。
AさんとBさんを離反させるために、それぞれに告げ口を繰り返す。
若い人たちの話ではない。
50歳とか60歳、さらには70歳とかを過ぎた人が、それをする。
つまり他人のもめごとを作って、それを外から聞いて、楽しむ。
もめごとを作るから、「もまし」という。
●加齢とともに
とても残念なことだが、加齢イコール、人格の完成期というわけではない。
加齢とともに、むしろ低劣になっていく人は多い。
あるいは化けの皮がはがれていく?
若いころは、それなりの仮面をかぶる。
気力がそれを支える。
しかし加齢とともに、気力が弱くなり、ついで仮面がはがれていく。
言い替えると、若い人でも低劣な人は、いくらでもいる。
……というか、幼児でも低劣な幼児と、そうでない幼児がいる。
「そんな?」と驚く人もいると思う。
しかし事実は、事実。
ものの道理をしっかりとわきまえ、善悪を正しく判断できる幼児もいれば、
そうでない幼児もいる。
私が「理」からはずれたことをすると、すかさず、「先生、おかしい!」と言ったり
する。
そのちがいはといえば、自律性と自立性ということになる。
●世代性
今朝は、数年前に書いた「世代性」についての原稿を読みなおしてみた。
私たちはある年齢を超えたら、私たちが得た知識や経験、知恵をつぎの世代に伝えていく。
それを「世代性」という。
言い替えると、世代性の追求こそが、老後のあるべき姿ということになる。
知人のI氏(藤沢市在住)は、「還元」という言葉を使って、それを主張する。
「今まで生きてきた命を、若い人たちに還元していく」と。
「世代性」と同じ意味と考えてよい。
++++++++++++++++++
世代性について書いた原稿を、
加筆、訂正してみます。
++++++++++++++++++
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable
age.)
+++++++++++++++++
乳児期における信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。
人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。
が、誤解してはいけない。
出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。
こうした一連の心理作用を、エリクソンという
学者は、「世代性」と呼んだ。
+++++++++++++++++
我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。
その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。
その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。
それが世代性ということになる。
その条件として、私は、つぎの5つを考える。
(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)
この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。
エリクソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。
何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。
「無間地獄」。
つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。
大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。
が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。
「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。
さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎ
り、統合性の確立は不可能と言ってよい。
我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統
合性の確立)
(追記)
(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳
前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。
その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。
この問題だけは、そのときになってあわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。
……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。
孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。
しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。
もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
と。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老後の姿と考えるだろうか。
(付記)
統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問
してみるという方法がある。
「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。
ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくる
ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。
それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。
なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。
大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。
60歳をすぎれば、さらにそうである。
我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●高邁(こうまい)性
私はこの中で、つぎの5つの項目を並べた。
(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)
今、ここで問題になるのは、(4)の高邁性ということになる。
いかに高邁性を追求するか。
またそのためには、どうすればよいか。
それを決めるのが、思考力ということになる。
ものを考える力。
もう少し言葉の定義を狭くするなら、「思索力」ということになる。
思索力のある人を、思慮深い人という。
その思慮深さが、その人の高邁性を決める。
長い時間をかけて、高邁性を決める。
●低劣さvs高邁性
私はよくこう言う。
「バカな人からは、利口な人がわからない。
しかし利口な人からは、バカな人がよくわかる」と。
低劣さと高邁性を対比させるなら、低劣な人からは高邁な人がわからない。
高邁な人からは、低劣な人がよくわかる。
それはちょうど山登りに似ている。
下から見ると低い山に見える山で、登ってみると、意外と視野が広いのがわかる。
たとえば浜名湖(浜松市の西)の北端に、大草山という山がある。
標高150メートルくらいか?
山の下は湾になっていて、舘山寺温泉街が並んでいる。
そんな山でも、登れば、遠く、浜松市が一望できるから不思議である。
が、もちろん上には上がある。
つまり低劣さにせよ、高邁性にせよ、相対的なものに過ぎない。
いくら自分が高邁と思っていても、より高邁な人から見れば、低劣ということになる。
言うなれば、「上」には、際限がない。
(もちろん「下」にも、際限がないが……。)
●では、どうするか?
老後は、脳みその下に開いた穴との闘いである。
その穴から、知識や経験、さらに知恵までもが、容赦なく、こぼれ落ちていく。
そうでなくても、こぼれ落ちていく。
さらに加齢とともに、加速度的にこぼれ落ちていく。
……となると、私たちはそれ以上の知識や経験、さらには知恵を補充していかねば
ならない。
「若いときだけで、勉強は終わった」などというのは、とんでもない話。
中には70歳を超えても、一流大学卒という学歴をぶらさげて歩いている人もいる。
もちろん中身はゼロ。
冒頭に書いた、(もまし)を生きがいにして、生きている?
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と。
……ということで、私たちは常に「上」をめざす。
あくことのない探求心と努力。
その2つを武器に、「上」をめざす。
それでも高邁性は得られないかもしれない。
しかしあきらめたとたん、低劣の世界へと、落ちていく。
つまらない世間話やゴシップで、時間を無駄にする。
人生を無駄にする。
命を無駄にする。
さあ、今日も始まった。
がんばろう!
2010年11月7日朝記。
(はやし浩司 2010-11-07)
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 低劣性と低俗性 世代性と還元 老後の統合性の確立 自我の統合性)
(補記)
1か月ほど前、ある知人(62歳)と電話で話した。
知人には、1人の妹(55歳くらい)がいる。
その妹が、ときどき介護するフリをして実家へ行き、母親の隠し持っている現金を
盗んでくるという。
現在、母親は独り暮らし。
やや認知症(?)。
「どうしたらいいのかねえ?」という相談である。
こういうケースのばあい、回答はただひとつ。
「相手にしてはいけない」である。
そういう低劣な人間(妹)を相手にしていると、自分までその低劣な人間になって
しまう。
つきあえばつきあうほど、深みにはまってしまう。
「あきらめて縁を切ることですよ」と、私はアドバイスした。
私も親族の間で、似たような経験をしている。
低劣な人には、恐ろしいほどの魔力がある。
あの夏目漱石も、同じような問題をかかえ、悩んだ(『心』)。
高邁な精神世界と、低劣な親族間の問題で、自分の魂がバラバラになっていくのを
感じた、と。
人間も、60歳を過ぎたら、自分に正直に生きたらよい。
無理をして、つまりつまり自分の理性や知性をねじまげてまでも、つきあいたくない
人間とつきあうことはない。
したくもない(つきあい)をする必要もない。
どこまでも自分に正直に生きる。
それが重要。
私はそう考えて、その知人にはこう言った。
「頭とシッポ(=つまらない部分)は、妹さんにくれてやればいい。
私たちは中身(=大切な部分)を取ればいいのです」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 頭とシッポ 頭と尻尾 はやし浩司 2010-11-07)
Hiroshi Hayashi++++Nov. 2010++++++はやし浩司・林浩司
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2010年12月13日月曜日
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