●Who wants to live forever?
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よく知られた曲に、「Who wants to live forever?(だれが永遠に生きたいか?)」
というのがある。
いろいろなシンガーが歌っているが、私はグレゴリアンが歌うのが、好き。
おごそかで、それに重みがある。
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●どう死ぬか
「だれが永遠に生きたいか?、いや、だれもそんなことを望んでいない」と。
が、もし、私から(考える力)が消えたとしたら……。
「死んでもいい」とは思わないかもしれないが、「生きていても意味はない」と
思うかもしれない。
どこかのオバチャンと、意味のない会話をつづけるようになったら……。
(オバチャンでなくても、オジチャンでもよいが……。)
考えるだけでもゾッとする。
それにいつまでも無駄に生きて、ワイフや息子たちや、その家族の死を見るように
なったら、たぶん、今の私なら、それに耐えられないだろう。
生きていることをのろうようになるかもしれない。
人は、いつも、どう生きるか考える。
しかしそれではいつまでたっても、結論は出てこない。
そこで発想を変えて、どう死ぬかを考える。
その結果として、どう生きるかが決まってくる。
「永遠に生きよう」と思うから、苦しむ。
悩む。
しかし「永遠に生きても無駄」と考えることによって、その先に、生き様(ざま)が
見えてくる。
それがわからなければ、あのオバチャンたちの、とりとめのない、いつまでも
つづく無意味な会話に耳を傾けてみることだ。
(繰り返すが、オバチャンでなくても、オジチャンでもよい。
以下、すべて同じ。)
ペチャペチャ、クチャクチャ……と。
人生の晩年にあって、しかも人生の完成期にあって、その程度の会話しかできない。
そういう自分に恥じることもなく、ただしゃべりつづける。
「隣の息子がね……」「うちのダンナがね……」「娘の婿がね……」と。
●脳みその穴
ある年齢になると、脳みその下に、穴があく。
その穴から、知識や知恵、経験が、ボロボロとこぼれ落ちていく。
もっとも私がそれに気づいたのは、50歳も過ぎてからのことだった。
当時、こんなことがあった。
何かの原稿を書いているとき、「?」と思った。
「以前にも、同じことを書いたことがあるぞ」と。
そこで自分の原稿集をさがしてみると、ほとんど同じ内容の原稿があることを知った。
しかも私にとってショックだったのは、「遠い昔に書いた原稿」と思っていた
その原稿が、ほんの、その数年前に書いた原稿だったことだ。
つまりその数年の間に、自分が書いた原稿の内容すら、忘れてしまっていた。
以来、私はいつも自分の脳みそを疑ってみるようになった。
つまりそれまでの私は、脳みそというのは、進歩することはあっても、退化する
ことはないと信じていた。
とくに私が考えて、自分で書いた文章については、そうだった。
しかし実際には、書いた先から、ボロボロとこぼれ落ちていく。
●穴との戦い
脳みその穴にパッチを当てる方法は、残念ながら、ない。
それは健康法と似ている。
運動をやめたとたん、肉体は衰え始める。
不健康になっいくのを止める方法はない。
それと同じように、穴は穴として認める。
その穴からは、常に一定の知識や知恵、経験は、ボロボロとこぼれ落ちていく。
であるとするなら、それ以上のものを、上から補充していくしかない。
これも健康法と似ている。
放っておいたら、肉体の健康はどんどんと衰えていく。
であるとするなら、それ以上の運動をして、自分の体を鍛えるしかない。
日々の鍛錬こそが、健康法の秘訣ということになる。
が、それには常に、ある種の苦痛がともなう。
寒い朝に、ジョギングに出かけるような苦痛である。
あるいは難解な数学の問題を与えられたときのような苦痛である。
その(苦痛)を乗り越える勇気と努力が必要。
それがなければ、人間は、どんどんと、あのオバチャンになっていく。
●「♪だれが永遠行きたいか?」
「♪だれが永遠に生きたいか?」は、もともとは、SF映画の主題歌では
なかったか。
時代を超えて戦う、勇者と悪魔の戦いの映画だった思う。
映画そのものは、見るに耐えないというか、駄作(失礼!)。
で、主題歌だけが、ひとり歩きの形で、よく知られるようになった。
で、その曲を聴きながら、私はこう考えた。
「オバチャンのようになって、だれが永遠に生きたいか?」と。
……こう書くと、世のオバチャンたちは、怒るかもしれない。
しかしあえて言うなら、私が言うオバチャンというのは、こうした文章を
ぜったいに読まない。
電車やバスの中で、大声で、ギャーギャー、キャハハハと騒ぐことはあっても、
こうした文章は、読まない。
そもそも、そういう向上心をもっていない。
向学心もない。
あるいは、こういう文章を見せても、手で払いのけてしまう。
「私には、そういうものを読んでも、わかりません!」と。
(追記)
先日も、電車の中で、実にそれらしいオバチャンが、2人、こんな会話をしていた。
一部だけだが、こう言った。
「うちのあのバカ○(=弟の名前らしい)ったら、親の一周忌にも来なかった。
親の葬式に来ないようなヤツは、地獄よねエ」
「そうよ。親の一周忌くらい、どんなことがあっても、来るべきよねエ」と。
私の頭の中で、脳細胞がショートするのを感じた。
バチバチ、と。
それでその女性たちの会話に、耳を傾けた。
けっして盗み聞きしたわけではない。
向こうのほうから声が聞こえてきた。
……が、話の内容をコメントするつもりは、まったくない。
あまりにも愚劣で低劣。
言い忘れたが、年齢は2人も50歳くらい。
その話を電車を降りてからワイフにすると、ワイフはこう言った。
「ああいう人たちが、古い常識を、つぎの世代に伝えていくのね」と。
そう、そういう人たちが、(大勢)を作っていく。
そしてそれが大きな流れとなって、つぎの世代に伝わっていく。
が、この(大勢の流れ)を変えることは容易なことではない。
巨大な流れである。
私「そういう流れを変えないかぎり、日本は変わらないよね」
ワ「そうよね。100年後も、200年後も、同じようなことを言う人が
出てくるわ」
私「しかしいつも不思議だと思うのは、そういう女性たちでも、若いときがあった
と思う。そういう若いとき、何をしていたんだろう」
ワ「自分を変える暇など、なかったのよね」と。
本来なら、若い人たちが問題意識をもって、古い因習やタブー、それにカビの生えたような常識を変えていかねばならない。
しかしそれをしないまま、歳だけは取っていく。
そして大半の女性たちは、私が見たようなオバチャンになっていく。
それでいいのか、世の女性たち!
このままでいいのか、世の女性たち!
2009年12月12日土曜日
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