●エリクソンの心理発達段階論
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エリクソンは、心理社会発達段階について、
幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。
(1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築)
(3) 幼児期後期(自主性の構築)
(4) 児童期(勤勉性の構築)
(5) 青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)
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●子どもの心理発達段階
それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。
実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。
たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。
自律性や自主性についても、同じようなことが言える。
●無知
しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。
ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2~4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。
が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。
●心の開けない子ども
さらにこんな例もある。
ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。
こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。
が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。
●自律性と自主性
子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。
言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。
近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。
また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。
●児童期と青年期
児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。
勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。
自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。
たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。
こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたり
ということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。
●幼児と老人
私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。
センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。
しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。
その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。
●では、どうするか?
私たちはみな、例外なく、乳幼児期に作られた「私」の上に載っている。
「乗っている」と書くほうが正しいかもしれない。
そのために、「私」を知るためには、まず自分自身の乳幼児期をのぞいてみる。
ほとんどの人は「乳幼児には記憶はない」と思っているが、これはとんでもない誤解。
あの赤ん坊にしても、外の世界から、怒涛のように流れ込んでくる情報をすべて、
記憶している(ワシントン大学、メルツォフ、ほか)。
「記憶として取り出せないだけ」で、記憶として、ぎっしりと詰まっている。
言い換えると、あなたや私は、そのころ作り上げた(自分)に、それ以後、
操られているだけと考えてよい。
自分を知れば知るほど、それがわかってくる。
たとえば先にあげた、「子どものころから、だれにも愛想のいい子」と評されて
いた子どもというのは、私自身のことである。
私は、子どものころ、だれにでもシッポを振り、そのつど、「いい子」と思われる
ことで、自分の立場を取りつくろっていた。
中学へ入ってから猛烈に勉強したが、好きだったからしたわけではない。
どこか自虐的だった。
先にあげた、(1)攻撃型の変形と考えられる。
本来他人に向かうべき攻撃性が、自分に向かった。
が、それは「私」であって、「私」ではなかった。
私自身は、疑い深く、嫉妬深く、それだけに、だれにも心を許さないタイプの
子どもだった。
おとなになってからも、そうだった。
表面的には、だれとでもうまく交際したが、それはあくまでも表面的。
相手が一線を越えて、私の中に踏み込んでくるのを許さなかった。
また相手がたとえ心開いていても、それを理解できなかった。
あるいはその下心を疑った。
そんな私が現在の仕事を通して、自分に気づき、そしてやがてどうあるべきかを
知った。
教えている幼児の中に、自分に似た幼児を発見したのが、きっかけだった。
それが「自己開示」という方法である。
●自己開示
「自分のことを、他人に開示していく」。
「あるがままの自分を、まず他人に語っていく」。
「偽らず、思ったことを言い、文章にして書いていく」。
自己開示にも段階論がある。
最初は、自分の過去から話す。
つづいて心の中を話す。
最終的には、自分にとって、もっとも恥ずかしい話や、さらには性遍歴まで
開示していく。
(もっともそれは、他人といっても、身内のごく親しい人に対してで、
じゅうぶんだが……。)
その段階まで開示してはじめて、それを「自己開示」という。
私のばあいは、こうして文章にすることによって、自己開示をしている。
最初は、家族のことを書き、やがて自分のことを書いた。
……といっても、それにも、10年単位の時間が必要である。
「今日、気がついたから、明日から……」というわけには、いかない。
この問題は、「根」が深い。
乳幼児期の発達心理段階が、「本能」に近いレベルまで、脳の奥にまで
刻み込まれている。
自分の意思や理性の力で、コントロールできるようなものではない。
だから……と書けば、あまりにも見え透いているが、乳幼児期の子育てというのは、
一般で考えられているよりも、はるかに奥が深く、重要である。
それに気がつくかどうかは、ひとえに、「知識」による。
言い換えると、こと子育てに関して言えば、無知そのものが、罪と考えてよい。
(はやし浩司 Hiroshi Hayashi 林浩司 教育 子育て 育児 評論 評論家 子供 子供の問題 家庭教育 エリクソン 社会心理学 発達段階論 幼児の自立性
幼児の自主性 信頼関係 基本的信頼関係 自己開示)
(補記)
こうした発達段階には、連続性がある。
(信頼性の構築)→(自律性の構築)→(自主性の構築)→(勤勉性の構築)
→(自我の同一性の構築)へ、と。
そして青年期前期の(親密性の構築)→後期の(生殖性の構築)→老年期の
(統合性の構築)へとつながっていく。
当初の(信頼性の構築)に失敗すると、自律性、自主性がそこなわれる。
自主性がなければ、勤勉性は生まれない。
さらに(親密性の構築)に失敗しやすくなる。
具体的には、恋愛、結婚へと、自然な形で進めなくなる。
が、最大の問題は、老年期の(統合性の構築)ということになる。
人は、最終的に、(人間としてすべきこと)を発見し、そこへ自分を統合させていく。
この(統合性の構築)に失敗すると、老後そのものが、あわれでみじめなものになる。
悶々とした孤独感と悲哀感を闘いながら、それこそ1年を1日にして過ごすようになる。
何度も書くが、孫の世話と庭いじり。
それがあるべき老後の姿ではない。
理想の老後でもない。
私たちは、命の最後に、その「命」を、つぎの世代の人たちのためにつなげていく。
具体的には、真・善・美の追求がある。
その真・善・美の追求には、(終わり)はない。
それこそ死ぬまで、ただひたすら、精進(しょうじん)あるのみ。
「死」は、その結果としてやってくる。
(補記2)
私たちの世界から見ると、小学1年生ですら、大きな子どもに見える。
いわんや中学生や高校生ともなると、おとなというより、反対に若い父親や母親を
見ていると、高校生と区別できないときがある。
それはともかくも、そうした若い人たちが、たとえば異性との間でうまく恋愛感情が
育てられないとか、あるいは結婚までもちこめない、さらには、夫婦の性生活が
うまく営めないというのは、こうした心理発達段階の過程で、何らかの障害があった
ためと考えてよい。
が、こうした問題(障害)が起きると、どの人も、その時点での修復を試みる。
しかし先ほども書いたように、「根」は、もっと深いところにある。
その「根」まで掘り起こさないと、こうした問題の本質は見えてこない。
また本質を見ることによって、問題の解決の糸口を手にすることができる。
まずいのは、そうした「根」に気づかず、ただいたずらに、振り回されること。
というのも、愛情豊かで、かつ恵まれた環境の中で、スクスクと(?)、
心理的発達を遂げる人のほうが、実際には、少ない。
ほとんどの人が、それぞれの立場で、それぞれの環境の中で、何らかの問題を
かかえながら、おとなになっている。
問題のないおとなのほうが、少ない。
だから問題があるからといって、自分を責める必要もないし、過去をのろう必要も
ない。
(私も一時期、父や母をうらんだことがあるぞ。)
大切なことは、まず、「私」に気がつくこと。
あとは時間が解決してくれる。
「すぐに……」というわけにはいかないが、あとは時間が解決してくれる。
(補記3)
そういう意味でも、幼児教育のおもしろさは、この一点に凝縮される。
子どもを見ながら、いつもそこに「私」を見る。
「私の原点」を見る。
が、幼児を未熟で未完成な人間と見るかぎり、それはわからない。
幼児を「上」からだけ見て、「こうしてやろう」「ああしてやろう」と考えて
いる間は、それはわからない。
幼児に対して謙虚になる。
1人の人間として、認め、そこから幼児を見る。
すると幼児のほうから、「私」を語ってくれる。
「あなたは、こうして『私』になったのですよ」と、幼児のほうから話してくれる。
2009年12月12日土曜日
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