【常識の壁】
●思考のパターン化(思考回路の形成)
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同じことを繰り返す。
繰り返していると、やがて脳みそは、やがてそれを
パターン化する。
パターン化して、そのまま脳の中に叩きこむ。
これを「自動化」という。
たとえばコップを手に取り、お茶を飲む。
そのとき、手でどのようにコップを握るか、
それをいちいち考えてする人はいない。
手は自動的に動き、コップを手にし、それを
口に運ぶ。
これが自動化である。
もう少し複雑な自動化としては、タイピングがある。
パソコンに向かって、キーボードを打つときを、思い浮かべて
みればよい。
私もこうして文字をパソコンに向かって、キーボードを
打つとき、どこにどのキーがあるか、いちいち考えて打たない。
短い言葉なら、指がまとめて動く。
「まとめて」というのは、たとえば「言葉」と打つとき、
何も考えなくても、「KOTOBA」と、一気に指が動く。
「K」「O」「T」……というように、ひとつずつの
キーを意識して打つわけではない。
だからふつう、口で話すよりも速く、文字を打つことができる。
この自動化のおかげで、私は、能率よく、かつ無駄なく、自分の
仕事をこなすことができる。
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●思考回路
ある作業を繰り返していると、脳はそのパターンを認識し、それを記憶する。
脳の中に、一定の回路をつくる。
そうした回路のうち、作業に関する回路は、手続きが記憶されるという意味で、「手続き記憶」とも呼ばれている。
わかりやすく言えば、頭が覚えるのではなく、体が覚える。
(本当は、頭が覚えるのだが……。)
たとえばここに書いたタイピングにしても、最初は、一本の指だけでパチン、パチンと打つ。
が、慣れてくると、カチカチと打てるようになる。
さらに練習を重ねていくと、キーボードを見なくても、文字が打てるようになる。
同じような現象が、「思考」についても、起きる。
たとえば何かの問題にぶつかったとしよう。
そのとき私たちは自分のもつ思考回路に沿って、ものを考え、問題を解決しようとする。
たとえば暴力団の人は、(暴力)という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。(多分?)
お金や権力のある人は、お金や権力という手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。(多分?)
私のばあいは、ものを書くのが好きだし、「ペン」の力を信じている。
だからものを書くという手段を念頭に置いて、問題を解決しようとする。
人それぞれだが、さらに中身をみていくと、興味深い事実に気がつく。
●常識(?)
それぞれの人には、それぞれの(糸)が無数にからんでいる。
過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸、教育の糸、人間関係という糸、などなど。
そういう無数の糸にからまれながら、その人のものの考え方、つまり常識ができあがっていく。
アインシュタインは、「その人の常識は、18歳くらいまでに完成される」というようなことを書き残している。
「18歳」という年齢にこだわる必要はないが、かなり早い時期に完成されることは事実である。
そしてその常識は、一度形成されると、よほどのことがないかぎり、生涯に渡ってそのまま、その人のものの考え方の基本となる。
たとえばY氏(67歳)は、ことあるごとに、「お前は、男だろが!」「お前は、長男だろが!」「何と言っても、親は親だからな!」とか言う。
そういう言葉をよく使う。
何か問題が起こるたびに、そう言う。
それがY氏の常識ということになる。
そうした常識は、ルーツをたどっていくと、かなり若いころまで、さかのぼることができる。
Y氏は、若いころ、「親絶対教」として知られる、M倫理団体の青年部員として活躍していた。
●思考回路への挑戦
私が自分のもつ思考回路を疑い始めたのは、オーストラリアに留学していたときだった。
もちろんそのときは、「思考回路」という言葉すら、知らなかった。
そのことを書いたのが、つぎの記事である(「世にも不思議な留学記」(中日新聞発表済み))。
この中で、私は、私たちがもっている職業観ですら、環境の中で作られていくものだということを書きたかった。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●「外交官はブタの仕事」
そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。許可をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「おめでとう」と言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕事だ。アメリカやイギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。
彼は「ブタ」という言葉を使った。あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれとはまったくちがっていた。同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内で、と考えていたようだ。
また別の日、フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入るのか」と。「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、伝統ある軍隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になることイコ-ル、出世を意味していた。マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があった。軍人の場合、下から二階級昇進するだけで、家つき、運転手つきの車があてがわれた。
またイソロクは、「白人と対等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英雄だった。これには驚いたが、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民地になったという暗い歴史がある。
そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそんなこと言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあるごとに、日本へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言っていた。ほかに自慢するものがなかった。
が、国変われば、当然、価値観もちがう。私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選んだ。それが学生として、最良の道だと信じていた。しかしそういう価値観とて、国策の中でつくられたものだった。私は、それを思い知らされた。時まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
で、帰国後、私は大阪に本社を置く、M物産(当時は、東京と大阪の2本社制を敷いていた)に勤めるようになった。
そこで私は、ある日、こんな実験をした。
今にして思えば、それが、私が意識的にした最初の、思考回路への挑戦だったと思う。
私は自分の思考回路を、変えてみたかった。
それについて書いた原稿が、つぎのもの。
少し余計なことも書いているが、許してほしい。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●私の過去(心の実験)
私はときどき心の実験をする。わざと、ふつうでないことをして、自分の心がどう変化するのを、観察する。若いときは、そんなことばかりしていた。私の趣味のようなものだった。
たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くのに、わざと反対回りに乗るなど。あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行ったこともある。
一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。しかし私の考え方を大きく変えたのは、つぎのような実験をしたときのことだ。
私はそのとき大阪の商社に勤めていた。帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。そのときのこと。あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。その通路を歩いていると、たいていいつも、電車の発車ベルが鳴った。するとみな、一斉に走り出した。私も最初のころはみなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。
しかしある夜のこと、ふと「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。寮は伊丹(いたみ)にあったが、私を待つ人はだれもいなかった。そこで私は心の実験をした。
ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。それだけではない。プラットホームについてからも、横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り過ごしてみた。
それはおもしろい実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人が、どの人もバカ(失礼!)に見えてきた。当時はまだコンピュータはなかったが、乗車率が、130~150%くらいになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。そのため急いで飛び乗ったようなときには、イスにすわれないしくみになっていた。
英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「早く楽になろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、愚かな生き方の代名詞にもなっている格言である。
その電車に飛び乗る人がそうだった。みなは、早く楽になりたいと思って電車に飛び乗る。が、しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。
……それから35年あまり。私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高度成長期をがむしゃらに生きてきた。人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられるような人生だった。どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。
しかし今、多くの仲間や知人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。やっとヒマになったと思ったら、人生そのものが終わっていた……。そんな状態になっている。
私とて、そういう部分がないわけではない。こう書きながらも、休息を求めて疲れるようなことは、しばしばしてきた。しかしあのとき、あの心の実験をしなかったら、今ごろはもっと後悔しているかもしれない。
そのあと間もなく、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験が、商社をやめるきっかけのひとつになったことは、まちがいない。
【補記2】
やはり、「♪のんびり行こうよ……」は、いい歌です。私は何度も、この歌と歌詞に救われました。小林亜星さん、そしてそのコマーシャルを流してくれたM石油さん、ありがとう。
そうそうそのM石油。一度、入社試験を受けたことがあるんですよ。学生時代の話ですが……。そのあとM物産に入社が内定したので、そのままになってしまいましたが……。ごめん!
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
話は前後するが、私はこんな経験もした。
私の思考回路に、強烈な刺激を与えた事件だった。
同じく『世にも不思議な留学記』の中で、こんな原稿を書いた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●たった一匹のネズミを求めて(そのネズミになる)
●牧場を襲った無数のネズミ
私は休暇になると、決まって、アデレ-ド市の近くにある友人の牧場へ行って、そこでいつも一、二週間を過ごした。「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場で、彼の牧場だけでも浜松市の市街地より広い。その牧場でのこと。
ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波がさざめくように、波うっていた! 見ると、おびただしい数のネズミ、またネズミ。……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹いるかいないかという程度。しかも、それぞれのネズミに個性があった。農機具の間で遊んでいるのもいたし、干し草の間を出入りしているのもいた。
あのパイドパイパ-の物語に出てくるネズミは、一列に並んで、皆、一方向を向いているが、そういうことはなかった。
が、友人も彼の両親も、平然としたもの。私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そんなことをすれば、自然のライフサイクルをこわすことになるから……」と。農薬は羊の健康にも悪い影響を与える。こういうときのために、オーストラリアでは州による手厚い保障制度が発達している。
そこで私たちはネズミ退治をすることにした。方法は、こうだ。まずドラム缶の中に水を入れ、その上に板切れを渡す。次に中央に腐ったチーズを置いておく。こうすると両側から無数のネズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、水の中に落ちた。が、何と言っても数が多い。私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、それこそ絶え間なく、すくい出さねばならなかった。
が、三日目の朝。起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。友人に理由を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向かったかのどちらかだ」と。伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、即座には信じられなかった。移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。ネズミには、どれも個性があった。
そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り返してみた。が、ネズミはおろか、その死骸もなかった。一匹ぐらい、いてもよさそうなものだと、あちこちをさがしたが、一匹もいなかった。ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動していった。
●人間にも脳の同調作用?
私の研究テ-マの一つは、『戦前の日本人の法意識』。なぜに日本人は一億一丸となって、戦争に向かったか。また向かってしまったのかというテ-マだった。が、たまたまその研究がデッドロックに乗りあげていた時期でもあった。あの全体主義は、心理学や社会学では説明できなかった。
そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与えた。そこで私は、人間にも、ネズミに作用したような「力」が作用するのではないかと考えるようになった。わかりやすく言えば、脳の同調作用のようなものだ。最近でもクロ-ン技術で生まれた二頭の牛が、壁で隔てられた別々の部屋で、同じような行動をすることが知られている。そういう「力」があると考えると、戦前の日本人の、あの集団性が理解できる。……できた。
この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。それは私自身のことだが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。「一匹ぐらい、まったくちがった生き方をする人間がいてもよいではないか。皆が集団移動をしても、私だけ別の方角に歩いてみる。私は、あえて、それになってやろう」と。
日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をしていた。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●思考回路
何度も書くが、思考回路そのものは、「悪」ではない。
思考回路があるからこそ、私たちは日常の生活の中で、ものごとをスムーズに作業し、ものごとをスムーズに考えることができる。
手続き記憶を考えてみれば、それがわかる。
しかしこの思考回路は、ときとして、新しいものの考え方に対して、壁となって立ちはだかることがある。
新しいものの考え方を取り入れるのを、じゃまする。
それだけではない。
その返す刀で、新しいものの考え方を、「まちがっている」と排斥してしまうことがある。ときにはそれがその人の全人格的な思考回路になっていることがある。
たとえば「義理・人情」とかいう言葉をよく使う人がいる。
そういう人は、何かにつけて、この言葉に固執する。
そういう人がそれまでの思考回路を変更するということは、その人自身が自分の過去、つまりそれまで生きてきた人生そのものを否定することに等しい。
その分だけ、衝撃が大きい。
だからよけいにはげしく、抵抗する。
「オレは、義理・人情に命をかける」と。
……というような経験は、日常生活の中でもよくする。
そこで2つのことを提案したい。
(1) 常に新しい思考回路が組み込めるように、心の中に余裕(ROOM)を作っておくこと。
(2) 常に新しい思考回路をもった人と接する機会を、大切にすること。
つまり自分がもつ常識は、絶対的なものでないと、いつもどこかでそれを疑う。
一度思考回路ができてしまうと、『類は友を呼ぶ』のことわざ通り、人は居心地のよい世界を求めて、集まる傾向がある。
暴力団の人は、暴力団の人どうし。
ドクターの人は、ドクターの人どうし。
さらには老人の人は、老人の人どうし、と。
が、これは思考回路を固定化するという面で、危険なことでもある。
私は個人的には、子どもと接するのがよいと思うが、みながみな、そういう機会があるというわけではない。
子どもたちの思考回路は、いわば白紙の状態。
その(白紙)を見ながら、私たちは自分の思考回路に(色)がついていたり、あるいは(汚れていることを知ったりする。
……ということで、思考回路について、考えてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 思考回路 手続き記憶 手続き的知識 常識の破壊 常識への挑戦)
2009年12月26日土曜日
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