2009年12月29日火曜日

*Dass Mann

●『ただの人』(ハイデッガー)

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つい先日、12月になったと思っていたら、
もう今月もおしまい。
つい先日、2009年になったと思っていたら、
もう今年もおしまい。
つい先日、21世紀(2001年)になったと思っていたら、
もう2010年。

こうして日々は、容赦なく過ぎていく・・・。
過去へ過去へと、失われていく・・・。
・・・と、だれしも考える。
・・・と、だれしも考えやすい。

が、そういう考え方は、あまりにも通俗的。
長い歴史の中で、人は、そのように考えるように、
なってしまった。
つまり「数字」と「人生」を重ね合わせるようになってしまった。
が、そう考えてはいけない。
つまり「過ぎていく」と考えてはいけない。
「失っていく」と考えてはいけない。
何も過ぎていかない。
何も失っていかない。

そこにあるのは、今という「現実」。
現実があるだけ。
数字に惑わされてはいけない。
2009年だろうが、2010年だろうが、
そんなことは、私たちには関係ない。
私たちは、今という「現実」を懸命に生きる。
それだけを考えて生きる。

つまりこういうばあい、「数字」というのは、あくまでも
便宜上のものでしかない。

それがわからなければ、野に遊ぶ鳥や動物を見ればよい。
人間以外に、年や年齢を気にして生きている鳥や動物が
いるだろうか。
年齢にしても、そうだ。
気にならないと言えば、ウソになる。
しかし年や年齢という「数字」など気にしてはいけない。
気にする必要もない。
私たちは、今の今も、そこにある「現実」に向かって、
まっしぐらに進んでいく。
その上で、こう考えればよい。

「ああ、もうすぐ2010年なのか」と。

(2009年12月28日記)

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●年齢

 一度できあがってしまった(常識)を打ち破るのは、容易なことではない。
その地域全体の人が、同じように考えている。
そういうところでは、なおさら容易なことではない。

たとえばG県の田舎へ行くと、今でも年長風を吹かしている人は多い。
家父長風を吹かしている人も多い
たった数歳年上というだけで、威張っている。
父親というだけで、威張っている。

 こうした意識の根底にあるのが、「数字」。
年齢という数字。
言うなれば、「金持ちほど偉い」という、金権教の信者と同じ。
本来意味のないものにしがみつきながら、意味があるものと思い込んでいる。
それが意味がないものと、気がつくこともない。
またそれを認めることは、自己否定につながる。
そういう生き方そのものが、その人の哲学になっている。
だからよけいに、しがみつく。

●年齢という数字

 何歳であっても、私は私。
あなたはあなた。
今年が何年であっても、今年は今年。
今は今。
大切なのは、今、何歳かということではなく、今まで生きてきた蓄積が、私やあなたの中に、どれだけあるかどうかということ。
それがあればよし。
が、それがないなら、あなたが何歳であっても、あなたは、「ただの人」(ハイデッガー)。
数字という年齢をとることだけなら、だれにだってできる。
つまり、繰り返しになるが、「数字」には、意味がない。
まったく意味がない。
まず、私たちは、それを知る。
しっかりと肝に刻み込む。

●幻想

 ・・・こう書くと、「老人の強がり」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分がこの年齢になってみて気がついたことがある。
老人ほど、人生の経験者」というのは、ウソ。
「人格者」というのは、さらにウソ。
まさに幻想。
地位や肩書きなどというのは、その人を飾るカラスの羽のようなもの。
イソップ物語に出てくる、あの話である。
一羽のカラスが、自分を美しく見せようと、自分の体を、いろいろな鳥の羽で飾ろうとする。
それと同じ。
自分では美しくなったつもりでいるかもしれないが、まわりの人たちは、それを見て、「バカ」と思う。
笑う。

 老人になればなるほど、愚劣になっていく人は、いくらでもいる。
またそういう人のほうが、多い。
だから私は、あえて言う。
「年齢」という「数字」には、意味はない、と。

●中身

 大切なのは、今という「現実」を、どう生きるているかということ。
今という「現実」の中で、自分がすべきことを、しっかりとしているかどうかということ。
そのために、今という「現実」を、しっかりと見据えているかどうかということ。
それには、若いも老いもない。
いくら若くても、死んだも同然。
そんな人は、いくらでもいる。
いくら年を取っていても、前向きに生きている人は、いくらでもいる。
大切なのは、中身。
中身で決まる。
その中身の追求こそが、「生きる」ということになる。

 ・・・とは言いつつ、「数字」はたしかに節目にはなる。
そのつど今の自分を、反省することはできる。
もし年数という「数字」、年齢という「数字」がなければ、生活に対する緊張感も半減する。
「数字」があるから、そこから緊張感が生まれてくる。
(もちろん何ら緊張感をもたないで生きている人も、多いが・・・。)
言うなれば、ウォーキング・マシンでいうタイマーのようなもの。
タイマーがあるから、「がんばろう」という気持ちがわいてくる。
「2010年も、がんばるぞ!」と。

●今という「現実」

 ともあれ、節目としての2009年は、もうすぐ終わる。
で、振り返ってみれば、あっという間に終わった。
・・・というより、「数字」がどうであれ、私は今までどおり、前に向かって懸命に生きていく。
今という「現実」は、(今まで生きてきたこと)の結果であり、同時に、(これから生きる人生)の出発点でもある。
生物学的に言うなら、私たちは常に死に、常に生き返る。
だったら今そこにある「現実」に向かって、まっすぐに生きていく。
「過去」とか「未来」とかいう言葉に、惑わされてはいけない。
過去など、どこにも、ない。
未来など、さらにどこにも、ない。

 だから・・・。
今、できることは、今、する。
今、すべきことは、今、する。
懸命にする。

【補記】

 「数字」にこだわる人は多い。
先に書いたように、たった数歳年上というだけで、年長風を吹かしたりする。
このタイプの人は、当然のことながら、年号や年数にこだわる。
たとえばある宗教団体では、入信年月日によって、信者の上下関係が決まるという。
年齢ではない。
信仰していた年数で決まる。
だから、50歳、60歳の人が、30歳、40歳の人に、頭をさげたりする。
「信心歴が長ければ長いほど、その人は、上」というわけである。

 バカげた考え方だが、信仰の世界に入ってしまうと、それがわからない。
同じように、年長風を吹かす人もそうだ。
言うなれば、『年齢教』というカルトの信者。
「年上」というだけで、威張っている。
「年下」というだけで、「下」にみる。
偉そうに説教をしたりする。
それがおもしろいほど、極端なので、思わず笑ってしまう。
 
 このタイプの人は、当然のことながら、「長生きすればするほど、人生の勝利者」というふうに考える。
「数字」が、価値判断の基準となる。
だから幸福感も、「数字」による。
しかも相対的。
隣の人よりも、金持ちであれば、幸福。
隣の人よりも、貧乏であれば、不幸、と。
ふつうはケチで、小銭にうるさい。
そういう点では、一貫性(?)がある。

が、誤解してはいけない。 
長生きすることが無駄というのではない。
お金を稼ぐことが無駄というのではない。
しかしどちらであるにせよ、「数字」に毒されると、「人生」そのものを無駄にする。
それに気がつけば、まだよい。
ふつうはそれにすら気づかないまま、無駄にする。
そういう人は、どこまでもあわれで、かわいそうな人ということになる。
ハイデッガーの説いた、「ただの人」というのは、そういう人をいう。

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「ただの人」については、
たびたび書いてきた。
つぎのは2008年4月に
書いたもの。

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【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a “man”, so-called “das Mann”. But nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do toward the of the lives. Then how can we find it?

●生きているだけもありがたい

若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。

20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの人は退職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。

もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。

さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。

が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。

●老後の人間性

よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳をとれば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。

その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。

が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。

●老化する脳

そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて行く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなったことすらわからない。

先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったときのこと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。

が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。

生きがいの喪失である。

●統合性と生きがい

この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。

では、どうあるべきか?

老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。

この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつなぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。

つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。

●統合性の内容

統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。

程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の次元がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。

「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれば、みなに忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。

「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。

しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?

真理の探求を例にあげてみる。

●感動のある人生

こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほど、感動する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。

しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。

「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。

さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。

肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命をたどることになる。

繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」と呼んだ。

「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ハイデッガー ただの人 das Mann 統合性)


林 浩司++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●教師と女生徒

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数日前、どこかの高校教師が教え子と
性的関係をもったとかで、逮捕された。
高校教師の年齢は、36歳。
たびたびホテルで密会を重ねていたという。
で、それについて当の高校教師は、「まじめな恋愛
だった」と主張(=弁解?)しているという。
つまり(遊び)ではなく、(真剣)だった、と。

その男性教師に妻子がいたかどうかは、報道の
記事だけではわからない。
勤め先の高校を懲戒免職になったということは、
書いてあった。
懲戒免職は当然としても、しかしひょっとしたら、
その高校教師が主張しているように、その関係は
真剣なものであったかもしれない。
「女生徒のほうから、抱きついてきたりした」と
いうようなことも、書いてあった。

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●(女の子)が、「女」になるとき

 私は若いころから、幼稚園の年中児から、高校3年生まで、一日というサイクルの中で教えている。
最近は、生徒の数も減り、以前ほど密度は濃くはいが、それでも基本的には、今も同じ。
そういう教え方をしていると、子どもの変化が、やはり1日というサイクルの中で、わかるようになる。

 そうしたサイクルの中で、それまで(女の子)だった子どもが、「女」になっていく様子を、たびたび経験している。
何でもない女の子でも、性的な経験をしたとたん、「女」になる。
男の子については、わかりにくい。
しかし女の子は、それがよくわかる。
おもしろいほど(失礼!)、よくわかる。
艶(なまめ)かしくなるというか、強烈な(性)を外に向かって発するようになる。
「ウフ~ン」とか言って、体をよじらせたりする。

●積極的な女の子

 早い子どもで、中学2、3年生ごろからではないか。
最近は、携帯電話を介しての男女交際も活発になってきた。
もう少し低年齢化している。

 で、私も、若いころは、それなりに「男」に見られた時期もある。
何かを教えている最中に、足先で私の足を、ものほしそうに、こすりつけてきた女の子(中2)もいた。
電話で私を外へ呼び出した女の子(高2)も、いた。
いろいろあった。

 しかしいつもそれ以上に発展しなかったのは、相手の女の子のためというよりは、私自身に原因があった。
私は学生のころから、女性に対して、まったくと言ってよいほど、自信がなかった。
失恋したのも、大きな痛手となった。
加えて、私の世界では、ほんの小さな(うわさ)ですら、命取りになる。
いつも気がつかないフリをして、その場をやり過ごしてきた。

●油断

 で、私は何とか無事(?)、40数年を過ごしてきた。
「何とか」と書いたのは、そういった誘惑(?)と闘うというのは、簡単なことではない。
人間がもつ欲望というのは、それほどまでに強力。
あとは油断の問題。

 ただひとつ、事件になった教師と私のちがいと言えば、学校の教師にとっては、生徒と問うのは、向こうから来るもの。
私にとって生徒というのは、こちらから頭をさげて、来てもらうもの。
この(ちがい)が、そのまま(きびしさのちがい)となる。
それだけ。
だから今でも、「もしあのとき・・・」と考えるときがある。
言い換えると、私と先に書いた教師は、どこもちがわない。
この文章を読んでいるあなたとも、ちがわない。
あなたの夫とも、ちがわない。

 だからこういう記事を読んだりすると、その教師を責める前に、「自分でなくてよかった」と、ほっと胸をなでおろす。

●理性の力

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、そういう教師を擁護しているのではない。
逮捕され、懲戒免職になったところで、だれも同情しない。

が、その一方で、「だれがそういう教師を、石をもって打てるか」という問題もある。
マスコミは、鬼の首でも取ったかのように騒ぐが、ではそのマスコミに、それをする資格があるかといえば、それは疑わしい。
彼らがそういう事件とは無関係でいられるのは、そういう立場にいないから。
政治家とワイロの関係を考えてみれば、それがわかる。

先にも書いたように、人間の欲望というのは、それほどまでに強力。
理性の力でコントロールできるような、代物ではない。
ましてや、「女性との方から抱きついてきたりした」という状態であれば、防ぎようがない。

 ……では、どうするか?

 何度も繰り返すが、(1)厳罰主義を貫く。
(2)教師と生徒の個人的な接触の場を、なくす。

 この2点を徹底するしかない。
こうした対処法は、すでに欧米では、常識化している。
日本も早急に、欧米を見習うべきではないのか。

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