●天才たちの病跡学(パトグラフィー)
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世に知られた天才たちには、それぞれ
独特の病跡がある。
その研究をするのが、病跡学(パトグラフィー)。
たとえば、ニュートンやアインシュタインは、
「分裂病圏の学者」、
ダーウィンやボーアは、「躁鬱病圏の学者」、
あのフロイトは、「神経症圏の学者」と
言われている(「心理学とは何だろうか」より・
無藤隆・新曜社)。
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●ニュートンとアインシュタイン
「心理学とは何だろうか」によれば、ニュートンやアインシュタインの仕事には、つぎのような特徴があったという。
「経験的、感覚的、伝統的思考的、斬新的」(同書)。
そして彼らには一定の危機的環境があったという。
「思春期における性的同一性や、青年期における社会的同一性の動揺を契機とすることが多い。
その後も対人的距離の喪失、たとえば批判にさらされることや、有名になることが危機を招く」(同書)と。
そういった危機的環境の中で、ニュートンやアインシュタインは、今に見る業績を残す。
「創造性は自己や世界の危機に触発されるが、仕事の完成には、適当な対人的距離、現実との介在者、保護者が必要」(同書、飯田・中井・1972)と。
●インチキ番組
すこしわかりにくい話がつづいたので、簡単に説明する。
つまりそれぞれの学者には、それぞれの個人的背景があったということ。
そしてそれぞれの学者は、その背景の中で作られた問題をかかえていたということ。
が、ここで注意しなければならないことがひとつある。
先日(09年12月)も東京のXテレビ局から、こんな依頼があった。
何でも東大生を調べたら、約80%の学生が子どものころ、水泳とピアノをしていたという。
そこで「林先生(=私)に、それを裏付けるような発言をしてほしい」と。
つまり私に、「水泳やピアノは天才児をつくると、テレビの中で、発言してほしい」と。
どう話せばよいかを聞くと、「指先の刺激は、脳によい刺激を与える。それが結果として、頭のいい子どもを育てる」と。
しかし……。
この話は、おかしい。
完全に、おかしい。
「非行に走る子どもを調べたら、50%が女子だった。
だから女子は非行に走りやすい」と言うのと同じ。
(子どもの50%は、女子だぞ!)
この浜松市あたりでも、幼児期に、80%以上の子どもたちが、水泳やピアノをしている。
もっと多いかもしれない。
つまりXテレビ局の説は、まったくのナンセンス。
私がそれを指摘すると、それきり連絡は途絶えた。
ついでながら、どうして私に、そういう依頼が来たか?
恐らく、こういう事情ではないか。
Xテレビ局は、そういう珍説を組み立てて番組を作った。
しかしそんな珍説、まともな学者なら、だれも相手にしない。
が、地方に住む、彼らにすれば、私のようなザコ評論家なら、それに応じてくれるのではないか、と。
そう考えて、私に連絡してきた。
つまり私が言いたいのは、ニュートンやアインシュタインの過去がどうであれ、またどういう心の病気をかかえたにせよ、では同じような環境にあれば、みな、同じような天才になるとはかぎらないということ。
●ダーウィンやボーア
しかし、それでも興味深い。
「病跡学」というのは、そういう学問をいう。
ほかにも、ダーウィンやボーアについては、こうある。
危機的状況として、「住みなれた空間の喪失、たとえば故郷・友人からの別離、権威的人間の圧迫、板挟み状況」(同書)と。
その結果として、「創造性は社会的自立を契機として解放されるが、仕事の完成には、庇護的な空間、仕事を是認し、価値づけてくれる人、苦手な面を引き受けてくれる人の存在が必要」(同書)と。
ここまで読んだとき、ダーウィンやボーアの境遇が、私のそれと、たいへんよく似ていることに気がついた。
とくに「住みなれた空間の喪失、たとえば故郷・友人からの別離、権威的人間の圧迫、板挟み状況」という部分。
多少ちがうといえば、「喪失」したというよりは、私のばあい、「逃避」した、
故郷の友人たちと、別離したわけではないという点。
「権威主義的人間の圧迫」「板挟み状況」という2つの点については、酷似している。
言い換えると、それがどういうものであるか、私には、たいへんよく理解できる。
私の生まれ育った地方では、みな、たいへん権威主義的なものの考え方をする。
たった数歳年上というだけで、どの人も、兄貴風、親分風を吹かす。
年長の叔父、叔母となると、さらにそうで、自分では介護の「か」の字もしたことがないような叔父が、こう言ったりする。
「悔いのないように、親の介護しろよ」と。
もちろん何かにつけて、『ダカラ論』が、ハバをきかす。
「親だから……」「子だから……」と。
●ソクラテス
「私は私」と思っている人でも、その「私」は、まさに環境の産物。
よく知られた言葉に、こんなのもある。
『悪妻をもてば、夫は哲学者になる』と。
ソクラテスの残した言葉と言われている。
悪妻との葛藤がつづくと、それから生まれる悩みや苦しみを、夫は、哲学に昇華するという意味に、解釈されている。
つまりソクラテスの妻は、よほどの悪妻だったらしい。
……という話は別として、イギリスには、こういう格言もある。
『空の飛び方は、崖から飛び降りてから学べ』と。
要するに人は、どういう形であれ、追いつめられないと、真の力を発揮できないということ。
「危機的状況」というのは、それをいう。
私も親や兄の介護問題で、さまざまな面で、板挟み状態になったことがある。
悶々とした気分が毎日のようにつづいた。
が、そういう危機的状況があったからこそ、当時の私は、猛烈な勢いで文章を書いた。
同じく、「心理学とは何だろうか」の中に、フロイトやウィーナーについては、こう書いてある。
「学問を自己抑圧の手段として出発することが多いが、重大な葛藤状況を契機に、学問が自己解放の手段に転化し、そこで真の自己の主題を発見することが多い」(同書)と。
「悪妻をもつ」ということは、まさに「重大な葛藤状況」ということになる。
そこでソクラテスは、追いつめられ、自己解放の手段として哲学者になっていった(?)。
そういうふうにも考えられる。
2009年12月15日火曜日
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