2009年12月16日水曜日

*What should we be like when we get retired?

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      12月   16日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●希望

++++++++++++++++++++++++

希望があれば、まだ何とか生きられる。
その希望にしがみついていけば、まだ何とか生きられる。
希望が、私たちを前向きに、ひっぱってくれる。

++++++++++++++++++++++++

●講演活動

 「あなたにとって希望とは何か」と聞かれたら、今の私は、「講演活動をすること」と
答える。
今は、その講演活動が楽しい。
見知らぬ土地へ行って、見知らぬ人に会う。
そして最近は、できるだけその土地のどこかの、旅館やホテルに泊まるように
している。
それが楽しい。

 今日も、沼津市の女性から、講演依頼が入った。
喜んで引き受けた。
このところ私の心が伝わるのか、遠方からの依頼が多くなった。
こういうのを心境の変化というのか。
ほんの少し前までは、県外からの講演については、ほとんど断っていた。
昨年(08年)は、北海道からの講演依頼も、2件あった。
(もちろん断ったが……。)

 講演が1本入ると、その日に備えて体力と知力を整える。
今までの講演の中で、もっとも長かったのは、4時間。
が、今は、4時間は、とても無理。
自分でもそれがよくわかっている。

 知力も整える。
講演というのは、ボケた頭では、できない。
そんな頭で講演したら、わざわざ聞きに来てくれた人に、申し訳ない。
つまりそうした(緊張感)が、私を未来へと引っ張ってくれる。

 で、明日はK市まで行って、講演をしてくる。
夜7時半~からの講演会である。
ときどき、そういう講演がある。
「そういう講演」というのは、夜の講演会をいう。
そういう時間帯にするのは、仕事をもっている人のため。

●孤独vs希望

 そこで希望とは、何か?
あえて今の心境をもとにして考えると、(孤独)の反対側にあるのが、(希望)と
いうことになる。

 講演の依頼があるというのは、まだ人の役に立てるということ。
私の話を聞いてくれる人が、まだいるということ。
そういう(人)がいると想像するだけで、孤独が癒される。
つまりそれが(希望)ということになる。

 今は、その希望にしがみついて生きていく。
細い糸かも知れないが、その糸が切れたら、おしまい。
私はそのまま(孤独)の世界へと、落ちていく。

 が、講演には、もうひとつの意味がある。

●真理の探究

 歌手が歌を歌っているのを見たりすると、ときどき、こう思う。
「いいなあ、あの人たちは……」と。
ステージにあがって、いつも同じ歌を歌えばよい。
それで観客は喜んでくれる。
もちろんそれなりの準備とか苦労は必要かもしれない。

 しかし講演のばあいは、同じ話は、できない。
私もしたくない。
毎回、ちがった話をしたいし、ちがった話をする以上、さらによい話をしたい。
そのためには日々の鍛錬あるのみ。
その鍛錬を通して、より「真理」に近づく。

 もちろんそのためには、本を読んだり、考えたりする。
文を書いたりする。
その過程が楽しい。
とくにその向こうに、キラリと光るものを発見したときは、宝石を見つけたときの
ように、うれしい。
その光るものの向こうに、私の知らなかった世界が広がっている。

 講演というのは、あくまでもその(結果)でしかない。

●緊張感

 その講演だが、ときどき1年先とか、1年半先の依頼があるときがある。
今から思うと、そのときどうしてそんなことで迷ったと思うのが、こんな
ことがあった。

 ちょうど50歳になったころ、1年先の講演依頼があった。
そのときのこと、私はこう思った。
「1年先だって?」「そのときまで、私は生きているだろうか?」と。

 それからもたびたび、そういう講演依頼があった。
が、やがてそういう思いは弱くなり、今では1年先の講演でも平気で受けるように
なった。
反対に、「どんなことがあっても、そのときまで元気でいよう」と心に誓う。
そのために体力づくりと、知力の維持に努める。
大きな講演会のばあいは、その1週間ほど前から、運動量をふやす。
体調を整える。
先にも書いたが、こうした一連の緊張感が、私を前へ、前へと、引っ張っていく。

 言うなれば、馬の前につりさげられたニンジンのようなもの。
「いつかは食べられるかもしれない」という思いをもって、前に進む。
 
だから今の私には、うしろを振り向いている暇はない。
向きたくもない。
そうでない人たちは、そういう私を見て、「親戚づきあいが悪い」とか、
「先祖を大切にしない」とか、言う。
しかし今の私には、そういう考え方は、みじんもない。

●宗教観

 こんなことを言うと、親戚の人たちは、顔を真っ赤にして怒るだろう。
しかし私はこの1年の間に、仏壇を開いて、手を合わせたのは一度しかない。
信仰心といっても、そういう信仰心は、私にはない。
仏教徒かキリスト教徒かと聞かれれば、心は、キリスト教徒のほうに、近い。

クリスマスは、毎年祝うが、釈迦の誕生日など、祝ったこともない。
それに「寺」というと、どこもジジ臭くていけない。
(自分がジジイのくせに、そういうことを言ってはいけないのだが……。)
私の年齢になると、四国八八か所巡りというのを始める人もいる。
が、今の私には、とても考えられない。
(そのうち、世話になるかもしれないが……。)

●直送+散骨

 とは言っても、死に方を考えていないわけではない。
しかし私は、直送(病院から直接、火葬場で火葬)を望む。
葬式はまったく、不要。
みなが集まって、おいしいものでも食べてくれれば、それでよい。
で、そのあと、遺骨は、散骨でも何でもよい。
庭の肥料にしてくれても、一向に構わない。

 大切なのは、今を懸命に生きること。
悔いが残らないように生きること。
生きて、生きて、生きまくること。
そこに(死)があるとしても、そのときまで、前に向かって生きること。
言うなればそのとき残る私の死体は、ただの燃えカス。
そんなものを大切にしてくれても、意味はない。
うれしくもない。

 自信はないが、(希望)があれば、それは可能。
いつまでも前向きに生きる。
それが可能。
大切なことは、希望を絶やさないこと。

●希望論

 その希望は、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
努力によって、作り出すもの。
よく「私には生きがいがない」とこぼす人がいる。
しかしそれはその人の責任。
……というのは、少し言い過ぎということはわかっている。
しかし生きることの、本当のきびしさは、このあたりにある。

 だからエリクソンは、「統合性」という言葉を使って、こう説明した。
「人生の正午と言われている満40歳(ユング)から、その準備をせよ」と。
つまり40歳ごろから、老後の生きがいとなるものを、準備せよ、と。
(すべきこと)を発見し、その(すべきこと)の基礎を作っていく。
そして老後になったら、その(すべきこと)を、現実に(する)。
それを統合性の確立という。

 何度も書くが、「退職しました。明日からゴビの砂漠で、柳の木を植えてきます」
というわけにはいかない。
そんな取ってつけたようなことをしても、長つづきしない。

 で、統合性の確立には、ひとつ大切な条件がある。
無私、無欲でなければならないということ。
功利、打算が入ったとたん、統合性の確立は、霧散する。

●無への帰着

 釈迦も「無」を説いた。
あのサルトルも、「無の概念」という言葉を、最後に使った。
私から「私」を徹底的に取り去る。
その向こうにあるのが、「無」。

 もし「死の恐怖」「死という不条理」と闘う方法があるとすれば、それは
徹底的に、私から「私」を取り除くこと。
「私」がある間は、死は恐怖であり、死はあらゆる自由をあなたから、奪う。
が、「私」がなければ、あなたはもう、何も恐れる必要はない。
失うものは、もとから、何もない。

 ……が、これはたいへんなこと。
私のような凡人は、考えただけで、気が遠くなる。
はたして、それは可能なのか。
ひとつのヒントだが、昨年亡くなった母は、私に、こんなことを教えてくれた。

 元気なときは、あれほど、お金やモノにこだわった母だが、あるとき私に
こう言った。
「お金で、命は買えん(買えない)」と。

 それまでの母はともかくも、私の家に来てからの母は、まるで別人のように、
穏やかで静かだった。
やさしく、従順だった。
その母が、そう言った。
そして死ぬときは、身のまわりにあるものと言えば、わずかばかりの洗面具と、
食器類、それに何枚かの浴衣だけだった。

 母は母なりに、「無」の世界を作りあげ、その中で静かに息を引き取った。

●希望論

 では、最後にもう一度、希望とは何か、それを考えてみる。
私は先ほど、「希望とは、向こうからやってくるものではない。
自ら、作り出すもの。
努力によって、作り出すもの」と。

しかしここでいう希望というのは、ある意味で、世俗的な希望をいう。
「宝くじが当たるかもしれない」という希望と、それほどちがわない。
となると、真の希望とは、何かということになる。
それはあるのか。
またそれを自分のものにするのは、可能なのか。

 が、ここであきらめてはいけない。

 旧約聖書にこんな説話が残っている。
こんな話だ。

 ある日、ノアが神にこう聞く。
「神よ、どうして人間を滅ぼすのか。
滅ぼすくらいなら、最初から完ぺきな人間を創ればよかった」と。
それに答えて神は、こう言う。

「人間は努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 つまり人間は努力しだいで、神のような人間にもなれるが、そうでなければ、
そうでない、と。
それが「希望」と。

 神とは言わない。
しかし神のような人間になれた人は、自らの崇高さに、真の喜びを見出すかも
しれない。
この世のありとあらゆるものを、許し、受け入れる。
もちろんそこにあるのは、永遠の命。
死の恐怖を感ずることもない。
おおらかで満ち足りた世界。
私たちは努力によって、その神に近づくことができる。
希望といえば、それにまさる希望は、ない。

 言いかえると、どんな人にも希望はある。
希望のない人は、いない。
しかもその希望というのは、あなたのすぐそばにあって、あなたに見つけて
もらうのを、静かに待っている。
そしてひとたびそれを知れば、あなたは明日からでもその希望をふところにいだきながら、
前向きに生きていくことができる。

 ……ということになる。
もちろん私はまだそんな世界を知らない。
「そこにそういう世界があるかもしれない」というところまではわかるが、そこまで。
あくまでも私の努力目標ということになる。

 ともあれ、生きるには、希望が必要。
希望さえあれば、何とか生きていかれる。
が、希望がなくなれば、いかに世俗的な欲望が満たされても、そこに待っているのは、
むなしさだけ。
それがふくらめば、絶望。
それだけは確かなようだ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 希望論 希望とは 私の希望 講演 真の希望 私にとっての希
望)

+++++++++++++++++

●価値観の転換(ライフサイクル論)

+++++++++++++++++


(したいこと)から(すべきこと)へ。
中年期から老年期の転換期における、
最大のテーマが、これ。
ユングは、満40歳前後を、『人生の
正午』と呼んだ。
この年齢を過ぎると、その人の人生は、
円熟期から、統合期へと向かう。
ユングは、『自己実現の過程』と位置
づけている。


それまでの自分を反省し、では自分は
どうあるべきかを模索する。
事実、満40歳を過ぎるころになると、
(したいこと)をしても、そこにある種の
虚しさを覚えるようになる。
「これではいけない」という思いが、より強く
心をふさぐようになる。
同時に老後への不安が増大し、死の影を
直接、肌で感ずるようになる。


青春時代に、「私とは何か」を模索するように、
中年期から老年期への過渡期においては、
「私の使命とは何か」を模索するようになる。
自分の命の位置づけといってもよい。
そして(自分のすべきこと)を発見し、
それに(自分)を一致させていく。
これを「統合性の確立」という。


この統合性の確立に失敗すると、老年期は
あわれで、みじめなものとなる。
死の待合室にいながら、そこを待合室とも
気づかず、悶々と、いつ晴れるともない
心の霧の中で、日々を過ごす。


ただ、中年期、老年期、その間の過渡期に
しても、年齢には個人差がある。
レヴィンソンは、『ライフサイクル論』の
中で、つぎのように区分している
(「ライフサイクルの心理学」講談社)。


45歳~60歳(中年期)
60歳~65歳(過渡期)
65歳~   (老年期)


日本人のばあい、「自分は老人である」と自覚
する年齢は、満75歳前後と言われている。
また満60歳という年齢は、日本では、
定年退職の年齢と重なる。
「退職」と同時に発生する喪失感には、
相当なものがある。
そうした喪失感とも闘わねばならない。


そういう点では、こうした数字には、
あまり意味はない。
あくまでも(あなた)という個人に
あてはめて、ライフサイクルを考える。
が、あえて自分を老人と自覚する必要はないに
しても、統合性への準備は、できるだけ
早い方がよい。
満40歳(人生の正午)から始めるのが
よいとはいうものの、何も40歳にかぎる
ことはない。


恩師のTK先生は、私がやっと30歳を過ぎた
ころ、こう言った。
「林君、もうそろそろライフワークを
始めなさい」と。


「ライフワーク」というのは、自分の死後、
これが(私)と言えるような業績をいう。
「一生の仕事」という意味ではない。


で、私が「先生、まだぼくは30歳になった
ばかりですよ」と反論すると、TK先生は、
「それでも遅いくらいです」と。


で、私はもうすぐ満62歳になる。
「60歳からの人生は、もうけもの」と
考えていたので、2年、もうけたことになる。
が、この2年間にしても、(何かをやりとげた)
という実感が、ほとんど、ない。
知恵や知識にしても、ザルで水をすくうように、
脳みその中から、外へこぼれ落ちていく。
無数の本を読んだはずなのに、それが脳の
中に残っていない。
残っていないばかりか、少し油断すると、
くだらない痴話話に巻き込まれて、
心を無意味に煩(わずら)わす。
統合性の確立など、いまだにその片鱗にさえ
たどりつけない。


今にして、統合性の確立が、いかにむずかしい
ものかを、思い知らされている。


そこで改めて、自分に問う。
「私がすべきことは、何なのか」と。


(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ユング 人生の正午 ライフサイクル論 統合性の確立 はやし浩司
老年期の心理)

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もう1作、掲載します。

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●退職後の「?」(When we retire the jobs)


+++++++++++++++++


今朝、古いラジオを戸棚から、取りだした。
久しぶりにラジオを聴いた。
俳句についての講座の番組だった。
その中の特選作……。


ひとつは、「給料運搬人……」なんとかというもの。
もうひとつは、「光陰矢の如し……」なんとかというもの。
ほかにもいろいろあった。


共通していたのは、どれも長い間のサラリーマン勤めを終えた
男たちや、それを迎える妻たちの、どこか悲哀感の漂う
俳句だったということ。


ぼんやりと聴きながら、「そういうものかなあ?」
「そういうものでもないような気がする」と、
頭の中で、いろいろな思いが交錯するのを感じた。


+++++++++++++++++


私は俳句については、まったくの素人。
自分で作ったことは、あまりない。
が、どれもすばらしい俳句だった。
それはよくわかった。


で、私が気になったのは、俳句のほうではない。
その批評のほう。
何と呼んだらよいのか。
「俳句の先生」、それとも「指導者」?
「コメンテイター」?
要するに、視聴者からの俳句を選定し、批評を
加える人(女性)。
その人(女性)が、そのつど、こう言っていた。


「これからは、ゆっくりとお休みください」
「長い間、お勤め、ごくろうさまでした」
「退職後は、思う存分、お遊びください」などなど。


その人(女性)は、「私もこの年齢になり、(退職する人たちの気持ちが)、
理解できるようになりました」というようなことも
言っていた(以上、記憶によるものなので、内容は、不正確)。


しかし退職者というと、若い人たちは、どうしてそんなふうに、
とらえるのか。
「退職者は、こう思っているはず」という『ハズ論』だけが
先行している?
私はそう感じた。


とくに気になったのは、「退職後は、思う存分、お遊びください」という言葉。
私はその言葉を聞いたとき、若い人たちが、私たちの
世代を、そのように見ているのかと、がっかりした。


言うまでもなく、私もその世代の人間の1人。
しかし「遊びたい」という気持ちなど、みじんもない。
「遊べ」と言われても、遊ぶ気持ちにはなれない。
……だからといって、その人(女性)を責めているのではない。
それが世間一般の常識的な意見ということは、私にもわかっている。
それに若いときには、私もそう考えていた。
「退職したら、あとは悠々自適の隠居生活」と。


が、今はちがう。
「遊ぶ」ということに、強いむなしさを覚える。
またそんなことで、残り少ない自分の人生を、無駄にしたくない。


もちろん人、それぞれ。
退職の仕方も、人、それぞれ。
退職後の考え方も、人、それぞれ。
もちろん過ごし方も、人、それぞれ。
100人いれば、100通りの考え方がある。
退職の仕方がある。
私の考え方が正しいというわけではない。
中には、「遊びたい」と考えている人がいるかもしれない。
いても、おかしくない。


それはわかる。
しかし……。
私たちが求めるのは、そしてほしいのは、(怠惰な時間)ではない。
遊ぶための時間ではない。
(退職後の生きがい)、それがほしい。
(仕事)でもよい。
が、遊ぶための時間ではない。
だいたい遊ぶといっても、お金がかかる。
それに(遊ぶ)ということには、答がない。
「だからどうなの?」という疑問に対する、答がない。


繰り返す。
「遊んだからといって、それがどうなの?」と。
遊べば遊ぶほど、空しさがつのるだけ。
休むといっても、病院のベッドの上で休むのは、ごめん。
さらに言えば、休んだあと、どうすればよいのか。


退職者の最大の問題。
それは何度も書いてきたように、「自我の統合性」。
その統合性を、いかに確立するか、だ。


(自分がすべきこと)を発見し、そのすべきことに、
(現実の自分)を一致させていく。
(自分がすべきこと)を、「自己概念」という。
(現実の自分)を、「現実自己」という。
この両者を一致させることを、「自我の統合性」、
もしくは「自己の統合性」という。


自我の統合性の確立した老人は、すばらしい。
晩年を生き生きと、前向きに過ごすことができる。
そうでなければ、そうでない。
仏壇の仏具を磨いたり、墓参りだけをして、日々を過ごすようになる。
私の知人の中には、満55歳で役所を定年退職したあと、
ほぼ30年近く、庭いじりだけをして過ごしている人がいる。
年金は、月額にして、27~8万円もあるという。
しかしそんな老後が、はたして理想的な老後と言えるのだろうか。


その知人は、1年を1日にして、生きているだけ(失礼!)。
10年を、1年にして、生きているだけ(失礼!)。


だから私はその人(女性)にこう反論したい。


「これからは、ゆっくりとお休みください」だと!
バカも休み休み、言え、バカヤロー!、と。
私たちの年齢をバカにするな!
(少し過激かな?)


そのあと、ワイフとこんな会話をした。


私「給料運搬人というのも、かわいそうだね。自分の仕事をそんなふうに
考えていたのだろうか」
ワ「そうよね。さみしいわね。仕事を通して生きがいというのは、なかったの
かしら」
私「ぼくも仕事をしてきたけど、自分が給料運搬人などというふうには、
考えたことはないよ」
ワ「そうねエ……」と。


給料運搬人とその人が、そう感ずるならなおさら、退職後は、そうでない仕事を
したらよい。
生きがいを求めたらよい。
「世のため、人のため」とまではいかないにしても、何かできるはず。
もしここで、その人(女性)が言うように、ゆっくりと休んでしまったら、それこそ
自分の人生は何だったのかということになってしまう。


残り少ない人生であるならなおさら、最後のところで、自分を燃焼させる。
できれば思い残すことがないよう、完全燃焼させる。
それが今まで、無事生きてきた私たちの務めではないのか。
若い人たちに、自分たちがしてきた経験や知恵を伝えていく。
若い人たちが、よりよい人生を歩むことができるよう、その手助けをしてやる。


まだ人生は終わったわけではない。
平均寿命を逆算しても、まだ25年もある。
「遊べ」だの、「休め」と言われても、私は断る。
私には、できない。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life
after you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a
miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、
倫理、道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリク
ソンは、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわ
けにはいかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないか

り、統合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性
 統
合性の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40

前後である。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボラ
ンティア活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という
問題ではない。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめるこ
とがある。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自

してみるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってく

ものを感ずるときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。

++++++++++++++++

退職後の人生について書いたのが、
つぎの原稿です。
ちょうど1年前に書いたものです。

++++++++++++++++

●退職後の人たち

退職後の人たちの情報が、つぎつぎと入ってくる。
そういう人たちを、おおまかに分けると、おおむね、つぎのようになる。

(1) 道楽型(旅行三昧、趣味三昧の生活をする)
(2) ゴロゴロ型(何もしないで、家でゴロゴロする)
(3) 挑戦型(若いころできなかったことに、再挑戦する)
(4) 隠居型(息子夫婦などと同居。孫の世話などをする。)
(5) 奉仕型(何かのボランティア活動に精を出す。)
(6) 仕事型(そのまま関連の仕事をつづける。)
(7) 運動型(健康のためと称して、あらゆるスポーツをする。)

もちろんこれらの混合型というのも、ある。
しかし主にどれか、ということになると、たいてい1つに絞られる。
またどれがよいとか、悪いとかいうことではない。
人、それぞれ。
それぞれの人が、それでハッピーなら、それでよい。

ただ言えることは、どこかで「統合性の確立」をめざさないと、
老後もつまらないものになるということ。
統合性の確立というのは、(すべきこと)を見つけ、それに自分を
一致させていくことをいう。
(したこと)ではない。
(すべきこと)である。

私たちはみな、何かの義務をもって、この世に生まれている。
義務の内容は、人によって、みなちがう。
退職後は、その義務を果たす。
単純に考えれば、ボランティア活動ということになる。
が、これは一朝一夕には、できない。
「退職しました。明日からゴビ砂漠へ行って、柳の木の苗を
植えてきます」というわけにはいかない。
そんな取って付けたようなことをしても、長つづきしない。
使命感も生まれない。

で、老後というのは、みな、平等にやってくる。
例外はない。
その老後の準備をするのは、50代では遅すぎる。
エリクソンは、「40歳から……」と説く。
「40歳は人生の正午」と。
しかし実際には、40歳でも、遅すぎるのでは?

若いころからの積み重ねがあってはじめて、老後に統合性の確立が
できる。
しかも統合性の確立は、無視、無欲でなければならない。
何らかの利益につなげようと思ったとたん、統合性は霧散する。

で、私自身は、どうなのか?
私はだいじょうぶなのか?
またどの「型」に当てはまるのか?

が、私はまだ退職状態ではない。
あと9年は、現役でがんばる。
そのときまだ頭と体がだいじょうぶなら、さらにもう少し、がんばる。
統合性の確立がうまくできるかどうかについては、本当のところ、自信はない。
ないが、あえて言うなら、今、こうして文章を書くようなことが、
老後の生きがいになりそう。
少しでも多く、ものを書いて、若い人たちの役に立ちたい。 

++++++++++++++++++

さらに2年前に書いた原稿を
添付します。
内容が重複しますが、お許しください。

++++++++++++++++++

●自己の統合性

++++++++++++++

私は何をすべきか。
まず、それを考える。

つぎにその考えに応じて、
では、何をすべきか、
それを考える。

考えるだけでは足りない。
現実の自分を、それに
合わせて、つくりあげていく。

これを「統合性」という。

つまり(自分がすべきこと)と、
(現実に自分がしていること)を、
一致させる。

老後を心豊かに生きるための、
これが、必須条件ということに
なる。

+++++++++++++

●自分は何をすべきか

 定年退職をしたとたん、ほとんどの人は、それまでの(自分)を、幹ごと、ボキッ折ら
れてしまう。

 ある日突然、ボキッ、とだ。

 とたん、それまでの自分は何だったのか、と思い知らされる。金儲けだけを懸命にして
きた人も、そうだ。年をとれば、体力が衰える。気力も衰える。思うように金儲けができ
なくなったとたん、心は、宙ぶらりんの状態になってしまう。

 そこで「自己の統合性」ということになる。

 (自分がすべきこと)を、(現実にしている人)は、自己の統合性があるということに
なる。そうでない人は、そうでない。

 似たような言葉に、「自己の同一性」というのがある。こちらのほうは、(自分のした
いこと)と、(現実にしていること)が一致した状態をいう。青年期には、ほとんどの人
が、この同一性の問題で悩む。苦しむ。

 「自分さがし」とか、「私さがし」とかいう言葉を使う人も多い。自分のしたいことは、
そこにあるのに、どうしても手が届かない。そういう状態になると、心はバラバラになっ
てしまう。何をしても、むなしい。自分が自分でないように感ずる。

 しかし統合性の問題は、同一性よりも、もっと深刻。いくら悩んだとしても、青年期に
は、(未来)がある。しかし老年期に入ると、それがない。たとえて言うなら、断崖絶壁
に立たされたような状態になる。先がない。

 そこで多くの人は、その段階で、「自分は何をすべきか」を考える。「何をしたいか」
ではない。この年齢になると、(したいことをする)ということのもつ無意味さが、よく
わかるようになる。

 高級車を買った……だから、それがどうなの?
 家を新築した……だから、それがどうなの?
 株で、お金を儲けた……だから、それがどうなの、と。

 モノやお金、名誉や地位では、心のすき間を埋めることはできない。成功(?)に酔い
しれて、自分を忘れることはできる。が、そこには限界がある。(酔い)は、(酔い)。
一時的に自分をごまかすことはできても、そこまで。その限界を感じたとき、人は、こう
考える。

 「これからの余生を、どう生きるべきか」と。その(どう生きるべきか)という部分か
ら、「自分はどうあるべきか」という命題が生まれる。

 しかし大半の人は、そんなことを考えることもなく、老後を迎える。ある日、気がつい
てみたら、退職、と。冒頭に書いたように、ある日突然、ボキッと、幹ごと折られたよう
な状態になる。

 では、どうするか?

 多くの心理学者は、こうした作業は、40歳前後から始めなくてはいけないと説く。4
0歳という年齢を、「人生の正午」という言葉を使って説明する学者もいる。

50代に入ってからでは遅い。いわんや、定年退職をしたときには、遅い。働き盛りとい
われる40歳前後である。

 つまりそのころから、老後に向けて、自分の心を整えておく。準備をしておく。具体的
には、(自分を何をすべきか)という問題について、ある程度の道筋をつけておく。つま
りそれをしないまま、いきなり老後を迎えると、ここでいうような、(ボキッと折られた
状態)になってしまう。

 繰りかえすが、(したいこと)を考えるのではない。(自分がすべきこと)を考える。
この両者の間には、大きな隔(へだ)たりがある。というのも、(自分がすべきこと)の
多くは、(したいこと)でないことが多い。(すべきこと)には、いつも苦労がともなう。

 たとえば以前、80歳をすぎて、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がい
た。議会活動もしていた。賛同者を得るために、いくつかのボランティア活動もこなして
いた。その女性にしてみれば、乳幼児の医療費が無料になったところで、得になることは
何もない。が、その女性は、無料化運動に懸命に取り組んでいた。そこで私は、その女性
に、こう聞いた。

 「何が、あなたを、そうまで動かすのですか?」と。

 するとその女性は、こう言った。「私は生涯、保育士をしてきました。どうしてもこの
問題だけは、解決しておきたいのです」と。

 つまりその女性は、(自分がすべきこと)と、(現実に自分がしていること)を、一致
させていた。それがここでいう「自己の統合性」ということになる。

●退職後の混乱 

 しかし現実には、定年退職してはじめて、自分さがしを始める人のほうが、多い。大半
の人がそうではないのか。

 中には、退職前の名誉や地位にぶらさがって生きていく人もいる。あるいは「死ぬまで
金儲け」と、割り切って生きていく人もいる。さらに、孫の世話と庭いじりに生きがいを
見出す人も多い。存分な退職金を手にして、旅行三昧(ざんまい)の日々を送る人もいる。

 しかしこのタイプの人は、あえて(統合性の問題)から、目をそらしているだけ。先ほ
ど、(酔い)という言葉を使ったが、そうした自分に酔いしれているだけ。

 ……と書くと、「生意気なことを書くな」と激怒する人もいるかもしれない。事実、そ
のとおりで、私のような第三者が、他人の人生について、とやかく言うのは許されない。
その人がその人なりにハッピーであれば、それでよい。

 が、深刻なケースとなると、定年退職をしたとたん、精神状態そのものが宙ぶらりんに
なってしまうという人もいる。そのまま精神を病む人も少なくない。会社員であるにせよ、
公務員であるにせよ、仕事一筋に生きてきた人ほど、そうなりやすい。

 私の知人の中には、定年退職をしたとたん、うつ病になってしまった人がいる。私は個
人的には知らないが、ときどきそのまま自殺してしまう人もいるという。つまりこの問題
は、それほどまでに深刻な問題と考えてよい。

●では、どうするか?

 満40歳になったら、ここでいう自己の統合性を、人生のテーマとして考える。何度も
繰りかえすが、「私は何をしたいか」ではなく、「私は何をすべきか」という観点で考え
る。

 そのとき重要なことは、損得の計算を、勘定に入れないこと。無私、無欲でできること
を考える。仮にそれが何らかの利益につながるとしても、それはあくまでも、(結果)。
名誉や地位にしてもそうだ。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、利益はない。あくまでも(心の問題)。とい
うのも、(すべきこと)を追求していくと、そこには絶えず、(自分との闘い)が、ある。
その(闘い)なくして、(すべきこと)の追求はできない。もっとわかりやすく言えば、この問題は、(自分の命)の問題とからんでくる。追求すればするほど、さらに先に、目
標が遠のいてしまう。時に、そのため絶望感すら覚えることもある。

 損得を考えていたら、(自分との闘い)など、とうていできない。

たとえば恩師の田丸先生は、先日会ったとき、こう言っていた。「私がすべきことは、人
を残すことです」と。

 そこで私が、「先生は、名誉も、地位も、そして権力も、すべて手にいれた方です。そ
ういう方でも、そう思うのですか」と聞くと、「そうです」と。高邁(こうまい)な人物
というのは、田丸先生のような人をいう。

 そこで……というより、「では私はどうなのか」という問題になる。私は、自分の老後
はどうあるべきと考えているのか。さらには、私は、何をなすべきなのか。

 実のところ、私自身、自分でも何をすべきなのか、よくわかっていない。あえて言うな
ら、真理の探究ということになる。私は、とにかく、この先に何があるか知りたい。が、
この世界は、本当に不思議な世界で、知れば知るほど、そのまた先に、別の世界が現れて
くる。ときどき、自分が無限の宇宙を前にしているかのように錯覚するときもある。

 すべきことはわかっているはずなのに、それがつかめない。つかみどころがない。だか
らよく迷う。「こんなことをしていて、何になるのだろう」「時間を無駄にしているだけ
ではないのか」と。

 つまり、自己の統合性が、自分でもわかっていない。できていない。つまり私の理論に
よれば、私は、この先、みじめで暗い老後を送ることになる。

 だから……というわけでもないが、繰りかえす。

 40歳になったら、ここでいう「統合性」の問題を、真剣に考え始めたらよい。「まだ
先」とか、「まだ早い」と、もしあなたが考えているとしたら、それはとんでもないまち
がいである。子育てが終わったと思ったとたん、そこで待っているのは、老後。50代は、
早足でやってくる。60代は、さらに早足でやってくる。

 さあ、あなたは、自分の人生で、何をなすべきか? それを一度、ここで考えてみてほ
しい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
統合性 統合性の一致 統合性一致 自己統合性 自己の統合性 すべきこと 人生の目
標)

【付記】

 もうひとつの生き方は、何も考えないで生きるという方法。あるいはどこかのカルト教
団に身を寄せて、そこで生きがいを見出すという方法もある。

 しかし人間は、考えるから、人間なのである。もし、何も考えない人がいたとしたら、
その人は、そこらに住む動物と同じ。明日も今日と同じという日々を送りながら、やがて
そのまま静かに自分の人生を終える。

 そのことは、頭のボケた母を見ていると、わかる。母は、今、自分がどこに住んでいる
かさえ、ときどきわからなくなる。ワイフの顔を見て、別の人の名前で呼んだりする。し
かし食欲だけは、人一倍旺盛。食事の時間になると、血相を変えて、その場所にやってく
る。

 そういう私の母には、もう目標はない。何のために生きているのかという目的すら、な
い。何かにつけて、自己中心的で、もちろん、自分がすべきことなど、何も考えていない。
毎日、ものを食べるために生きているだけ。しかしそんな人生に、どれほどの意味がある
というのか。価値があるというのか。

 もちろん母は母で懸命には生きている。それはわかる。が、それでも、ただ、生きてい
るだけ。つまり考えないで生きるということは、今の母のような状態になることを意味す
る。母は、高齢だからしかたないとしても、私やあなたが、そうであってよいはずはない。

 私たちはこの世に生まれた以上、何かをなすべきである。その(なすべきこと)は、人、
それぞれ。みな、ちがう。しかしそれでも、何かをなすべきである。またそういう使命を
みな、負っている。

 要するに、ここで私が言いたいことは、老後になってから、その(なすべきこと)をさ
がそうとしても、遅いということ。老後といっても、長い。人によっては、30年近くも
ある。20歳から50歳までの年数に等しい。

統合性の問題は、いかにその期間を、有意義に過ごすかという問題ということになる。決
して、安易に老後を迎えてはいけない。それだけは、確かである。


+++++++++++++++++

もう1作、「同一性」について書いた
原稿を、掲載します。

+++++++++++++++++

●心理学でいうアイデンティティとは、

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容
認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、をいう(エリク
ソン)。

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 エリクソンは、アイデンティティの確立(自己同一性の確立)について、つぎの3つの
ものをあげる。

(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容
認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、である。

(1)独自性の追求

 「老人はこうあるべきだ」という目に見えない、圧力。それを加齢とともに、強く感ず
るようになった。どうしてか?

 たとえば私はあと1年で、「還暦(かんれき)」と呼ばれる年齢になる。「60にして、
還暦」の「還暦」である。十干と十二支の組みあわせでは、満60歳(数え年では、61
歳)のときに、干支(えと)に戻るので、「還暦」という。「暦(こよみ)が、還(かえ)
る」という意味である。

 で、ときどき人に、こう言われる。「林さんも、来年は還暦ですね」と。つまり私は、
そういうふうにして、まわりの人たちから、自分の年齢を作られていく。

ところで子どもの世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、いつの間にか男
の子らしくなっていく。女の子は、いつの間にか女の子らしくなっていく。遺伝子の作用
によるものだという説もあるが、遺伝子の作用だけでは、すべてを説明できない。

 まわりの人たちが、いつの間にか、男の子を男の子らしくしていく。女の子を女の子ら
しくしていく。子ども自身も、意識の外の世界で、自ら、男の子らしくなり、女の子らし
くなっていく。

 それと同じような現象が、現在進行形の形で、私の身のまわりで起こりつつある。私は、
今、老人にされつつある。だから、こう叫ぶ。

 「何が、還暦だ!」「くだらないこと言うな!」と。

 しかしその声には力がない。いくら叫んでも、その声は、そのままカスミの向こうに消
えてしまう。

 となると、「独自性とは何か」ということになる。いや、それを考える前に、いったい、
私には、独自性と言えるようものがあるのかということになる。服装だとか、髪型とか、
そういうものは、どうでもよい。大切なのは、中身だ。精神だ。その中身や精神の部分で、
独自性と言えるようなものがあるのか、と。

 どこかに(私らしさ)はあるにはあるが、いつも道に迷ってばかりいる。「これは!」
と思うような部分でも、相手やその周囲の人たちに、すぐ迎合してしまう。

 今の今も、そうで、生活自体が、加齢とともに、しぼんでいくのが、自分でもわかる。
体力も落ちた、収入も減った、正義感も薄れた、集中力もつづかない。そういう現実を前
にして、「では、どうすればいいのか」と考えることが多くなった。それが自分を、どん
どんと、老人臭くしていく。

 しかし私は、あえて、抵抗してやる。だれが老人臭くなっていくものか!

(2)統合性の容認

 いつの間にか、私は「教育評論家」ということになってしまった。しかしこの言葉は、
あまり好きではない。私は、したいことをしているだけ。書きたいことを書いているだけ。

 私は、ごくふつうの人間だし、ごくふつうの生き方をしている。聖人でもないし、君子
でもない。

 だから「教育評論家のくせに……」と言われることくらい、不愉快なことはない。とき
どき、そう言われる。とくにみなの前で、バカ話をしたようなときに、そうだ。しかもそ
れなりの人に、そう言われるならまだしも、そこらのオジサンにそう言われるから、たま
らない。

 「林さん、あんた、教育評論家だろ。その教育評論家がそういうことを言っちゃア、い
かんよ」とか、など。

 酒やタバコ、それに女遊びこそしないが、しかし性欲だってふつうにある。美しい女性
を見れば、抱きたくなる。裸を想像する。チャンスがあれば、浮気だってしたいと思って
いる。

 どうしてそういう私を、私自らが、否定しなければならないのか。つまり、それを否定
してしまうと、私は、私でなくなってしまう。エリクソンが説くところの、統合性がなく
なってしまう。

 仮面をかぶってはいけない。自分を偽ってはいけない。私は私である前に、人間なのだ。
その人間であることを、そのまま認めて生きる。スケベな話、大好き! どうしてそれが
悪いことなのか!

(3)一貫性の維持

 一貫性のあるなしは、一貫性のない人を見れば、それがよくわかる。これは極端な例だ
が、認知症か何かになった人を、見てみればよい。

 数日前に、何か仕事を頼んだときには、「いいですよ」「心配ないですよ」と言ってお
きながら、いざ、当日になると、不機嫌な顔をして、文句ばかり言う。こういう人は、つ
きあいにくい。その人がどういう人なのか、それさえわからない。

 子どもの世界でも、似たようなことを観察する。

 年長児(満6歳児)ともなると、その子どもらしさ、つまり人格の輪郭(りんかく)が、
明確になってくる。人格の核(コア・アイデンティティ)が確立してくるからである。教
える側からすると、「この子は、こういう子だ」という、(つかみどころ)ができてくる。

 が、不幸にして不幸な家庭環境、たとえば、育児放棄、無視、冷淡、虐待、家庭崩壊、
愛情飢餓を経験したような子どもは、この核形成が、遅れる。軟弱で、つかみどころのな
い子どもになる。ときに、何を考えているかさえ、わからなくなる。

 このことを、ここでいう一貫性にあてはめてみると、一貫性というのは、他人から見た
(つかみどころ)ということになる。その(つかみどころ)のある人を、一貫性のある人
といい、そうでない人を、そうでないという。

 わかりやすく言うと、自分がもつ一貫性などというものは、まったくアテにならない。
「私は一貫性がある」と思っている人でも、一貫性のない人はいくらでもいる。自分で、
そう思いこんでいるだけ。

 そこでこの一貫性を知るためには、一度、視点を、自分の外に置いてみなければならな
い。視点を外に置き、そこから自分を見つめなおしてみる。その時点で、自分には一貫性
があるかどうかを、判断する。

 あなたは、他人から見たとき、わかりやすい人間だろうか。あるいはあなたの子どもは、
あなたという親から見たとき、わかりやすい子どもだろうか。

 以上、こうして、「私らしさ」を求めていく。その私らしさができたとき、つまり(自
己概念)と(現実自己)が一致したとき、自己の同一性(アイデンティティ)が、確立さ
れたとみる。

 自己の同一性が確立した子どもは、どっしりとしている。落ちついている。多少の誘惑
ぐらいでは、ビクともしない。夢と希望をもち、自分で目標に向かって進んでいく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
アイデンティティ 独自性 統合性 一貫性 エリクソン 自己の同一性 老後の生き方 
退職後の生き方 統合性の確立 はやし浩司)


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