●2009年12月31日夜(大晦日)
●ちょうど1年前、こんなことを書いていた。
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Death is the great leveller.
(死ねば、みな、同じ。)
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「leveller」というのは、(皆を平等にするもの)という意味。
「ジーニアス英和辞典」には、「だれにでも平等に影響するもの」とある。
つまりどんな人でも、死ねば同じ、イコール、平等、ということ。
わかりきったことだが、それを受け入れるのは難しい。
「私だけは……」と思いたい気持ちもわかるが、例外はない。
で、金持ちも貧乏人も、地位のある人もない人も、名誉のある人もない人も、死ねば同じ。
つまり「Death makes us all equal(死は皆を平等にする)」。
ところで最近、私はこんなことを強く思う。
「死んだ人の時計は止まる」と。
たとえば私の隣人にR氏という人がいた。
亡くなって、もう5年以上になるが、その間、R氏についての時計は止まったまま。
ときどき「もう5年になるのか」と驚くときがある。
そう、私の記憶の中にあるR氏は、5年前のまま。
R氏との思い出にしても、ガラスの箱の中に閉じ込められたようになっている。
外から見えるには見えるが、断片的にしか見えない。
そこでじっとしているだけ。
外には出てこない。
言い換えると、私が死んだら、そのとき、私についての時計は止まる。
あなたが死んだら、そのとき、あなたについての時計は止まる。
こうして人はどこからともなくやってきて、またどこかへと去っていく。
この不思議さ。
この切なさ。
しかし元気なときには、それがわからない。
あえて(死)に背を向けて生きる。
(死)を蹴飛ばしながら生きる。
「金持ちになりたい」「地位や名誉がほしい」と。
しかしその果てに(死)が待っているとしたら、人は何のために生きているのか。
・・・そんなことを考えるのも、年末だからかもしれない。
で、少し前、郵便局でこんな会話を耳にした。
どこかの女性(90歳くらい)が、年金をおろした。
手には100万円ほどの札束を握っていた。
それについて、局員の男性が、大きな声でこう言っていた。
「あのね、おばあちゃん、ここでは1000万円までしか貯金はできないの。
国債も、1000万円までしか、買えないの」と。
それを理解できたのかどうかは知らないが、その女性はお金を手さげに入れて、
郵便局を、ヨタヨタと歩きながら出て行った。
足は大きく外側へわん曲し、腰も曲がっていた。
歩くのもままならないといったふうだった。
それを見てワイフは、「だいじょうぶかしら?」と言った。
私は、「何のために?」と言った。
お金がないのも困るが、しかしお金というのは、元気なときに使ってこそ、生きる。
「どうせ皆、平等になる」というのなら、なおさらである。
地位や名誉にしてもそうだ。
私も最近、こんな経験をした。
私が発行しているメルマガ(電子マガジン)が、2008年度の「マガジン・オブ・
ザ・イヤー」に選ばれた。
6万3000誌もあるということだから、名誉なことにはちがいない。
しかしその喜びというのが、ほとんどといってよいほど、わいてこなかった。
10年前、あるいは20年前の私なら、飛び上がって喜んだことだろう。
あるいは出版の世界だったら、どさっと大金が舞い込んできたことだろう。
しかしそこはインターネットの世界。
何も変わらない。
何も起こらない。
もちろんお金は入ってこない。
「HPのどこかで、宣伝してみよう」とは考えたが、「家族で祝賀会」というところ
までは考えなかった。
(死)という限界をそこに感ずるようになると、そういうことはどうでもよくなる。
私は私。
書きたいから書いているだけ。
それを他人がどう評価しようが、私の知ったことではない。
言い換えると、人は死に近づくにつれて、一次曲線的に、平等になっていく。
死がやってきたからといって、そのときストンと、平等になるわけではない。
すでに今、この瞬間、少しずつ平等に向かって、進んでいく。
だからこの格言をもう少し正確に書き換えると、こうなる。
「加齢は、人をより平等にする」と。
英語になおすと、「Aging makes man more equal」。
そしてこうも言える。
「死は、時計を止める」と。
英語になおすと、「Death stops each man’s clock」。
ホント!
死んだ人は、本当に静かだ。
何も語らない。
何も動かない。
私も、あなたも、やがてすぐそうなる。
これには、先に書いたように、例外はない。
Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司
●反省
昨年の終わりは、かなり沈んでいた。
それでこういう文章を書いた。
(私はここ数年、年末になると決まって、インフルエンザにかかる。
インフルエンザにかかると、ものの考え方が、どうしても悲観的になる。)
で、何のために生きているかって?
いろいろ考える。
しかしいつも答は堂々巡り。
で、結論は、同じ。
「たまたま生きているから、生きていくしかない」と。
簡単に言えば、そういうことになる。
生きている以上、前に向かって生きていくしかない。
その先のこと・・・?
どう考えたところで、なるようにしかならない。
だったら今、精一杯、前向きに生きていくしかない。
悪いことばかりではない。
いや、ここに生きているということ自体が、奇跡。
あのアインシュタインも、そう言っている。
まず、それを喜ぶ。
ものが見える。
音が聞こえる。
歩くことができる。
話ができる。
だれに対してというわけではないが、生きていることを感謝する。
そこでもう一度、『死ねば、みな、同じ』という言葉について、考えなおしてみる。
この言葉を反対側から読むと、『生きている人は、みな、ちがう』という意味になる。
つまり、こう考えてみたらどうだろうか。
『死ねば、みな、同じ』。
それはそのとおり。
が、だからといって、「生きていることには意味はない」と、とらえてはいけない。
『生きている人は、みな、ちがう』というところが、大切。
そこに、生きる意味があると考える。
つまりその(ちがい)を作るところに、生きる意味がある。
そう言えば、以前、私にこう言った友人がいた。
「林君、総理大臣だってね、10年もすれば、みなの記憶から消えていくよ。
20年もすれば、覚えている人もいない。
だからね、苦労して総理大臣になっても、意味はない。
人生はね、楽しむことだよ」と。
もちろん私たちは、名誉や地位のために生きているのではない。
名誉や地位というものがあるにしても、それはあとからついてくるもの。
ついてこなくても、構わない。
しかしそこに至るプロセスが大切。
プロセスの中から、無数のドラマが生まれる。
そのドラマに、生きる価値がある。
友人は、結論として、「楽しむこと」と言った。
それはそのとおりだが、では、どうやって、何を楽しむか。
さらに言えば、真の楽しみとは何か。
家の中でゴロゴロしながら、バラエティ番組を見ることが、その(楽しみ)とは、だれも思わない。
で、1年たった今、私はこう思う。
『死ねば、みな、同じ』と言った人は、何もできなかった自分を正当化するために、そう言ったのではないか、と。
みなと同じように生きてきただけ。
だからそれを居直るために、『死ねば、みな、同じ』と。
つまりつまらない人生を送った自分を、そういう言葉で慰めているだけ。
Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司
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