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彡彡人ミミ 彡彡彡彡彡
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子育て最前線の育児論byはやし浩司 12月 23日号
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MERRY CHRISTMAS!
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【ちょうど6~7年前に書いた原稿より、4作】
++++++++++++++++
原稿の整理をしていたら、たまたま
6~7年前に書いた原稿が出てきた。
いくらたくさんの原稿を書いていても、
読み始めたとたん、これはまちがいなく
私の原稿とわかる。
原稿というのは、そういうもの。
現在の「私」は、その上に乗っている。
++++++++++++++++
●先生を雑務から解放しよう!
全休職者のうち、約五二%が精神系疾患によるものとし、九七年度には一六一九人がそ
のため休職している。もちろんこれは氷山の一角で、精神科へ通院している教員はその
一〇倍、さらにその前段階で苦しんでいる教員はそのまた一〇倍はいる。
理由の第一は、多忙。今、教師は忙し過ぎる。雑務に続く雑務。ある教師(小二担任)
はこう言った。「教材研究? そんな時間がどこにありますか。唯一息を抜ける時間は授業
中だけです」と。が、それだけではない。こんなこともある。
俗に「アルツハイマー」と呼ばれる病気がある。脳障害の病気の一つ※だが、その初期
症状は、ひどい物忘れ。が、その初期症状のそのまた初期症状というのがあるそうだ。(1)
がんこ(自分の意見をゆずらない)、(2)自己中心性(自分が正しいと確信する)、(3)
繊細さの欠落(ズケズケとものを言う)など。しかも、だ。四〇歳から、全体の五%前後
の人にその傾向が見られるようになるという※。四〇歳といえば、子どもがちょうど中学
生になるころ。一クラスに三〇人の生徒がいたとすると、六〇人の親がいることになり、
そのうち三人が、あぶない(?)ということになる。家族の一人がアルツハイマーになる
と、その周囲の家族もたいへんだが、そのまた外にいる人も、何らかの影響を受ける。た
とえば学校の先生。
ある日一人の母親が、私のところへやってきて、こう言った。「小学校で英語教育をする
というが、そんな教育は必要ない」と。ものすごい剣幕である。しかしそれはそれから続
いた不毛の議論の、ほんの始まりに過ぎなかった。「学校五日制はおかしい」「中高一貫教
育には疑問がある」など。毎月のように電話やメールで、あれこれ言ってきた。
が、そのうち私のほうが疲れてしまい、適当に答えていると、最後はこう言った。「あんた
は教育評論家だそうだが、その資格はない。あんたが本を書けば、社会に害毒を流すこと
になる」と。これには私も怒った。怒って電話をすると、夫が出て、こう言った。「すみま
せん、すべてわかっています」と。そして数日後、夫から手紙が届いたが、それにはこう
あった。「妻の様子がおかしいので、今、病院へ通っているところです」と。もっとも私の
ばあい、それまでにもこのタイプの親は最初ではなかったので、それほどキズつかないで
すんだが、若い未経験の先生だと、そうはいかない。とことん神経をすりへらす。
結論から言えば、学校の先生には、まず授業に専念してもらう。そういう環境を用意す
る。ちょうど医療機関におけるドクターのよう、だ。原則として、先生を雑務から解放す
る。だいたい今のように、教育はもちろんのこと、しつけから果ては、子どもの心の問題、
さらには家庭問題まで押しつけるほうがおかしい。ある先生はこう言った。「毎晩親たちか
らのメールの返事を書くだけで、一時間くらいとられます」と。
こんな状態で、今の先生に「よい授業」を期待するほうがおかしい。たとえばカナダ(バ
ンクーバー市など)では、親が先生に直接連絡をとることすらできない。また原則として
先生は、授業以外のことでは一切責任をとらないことになっている。日本も方向性として
は、やがてそうするべきではないか。
●生活の豊かさ
人間の豊かさとは何か。人生の目的とは何か。五〇歳も半ばを過ぎると、そろそろそれ
について結論を出さねばならない。
私には六〇人近い、いとこがいる。その中でも一番の出世がしら(こういう言い方は好
きではないが)が、大阪に住むKさん。日本でも一、二を争う大学を出て、某都市銀行に
入社した。現役時代は、ドイツ支店の支店長まで勤めている。が、ちょうど同じ年齢のい
とこに、Bさんがいる。中学を出るとすぐ理容師の学校に進み、それ以後は長野の田舎に
こもり、理容院を経営している。魚釣りがうまく、今ではその地方では、「名人」というニ
ックネームで呼ばれている。
私はときどきこの二人のいとこを比較して考える。Kさんは、バブル経済崩壊のあと、
銀行を離れ、一〇年ほど前に子会社のT金融会社に出向。そののち、定年退職で今は宝塚
のほうで年金暮らしをしている。Bさんは、今でも理容院を経営しているが、魚釣りが高
じて、釣竿づくりに手を出し、Bさんが作る竿は、芸術品とまで言われるようになってい
る。
ひところ昔の尺度でみるなら、Kさんは勝ち組み、Bさんは負け組ということになる。が、
しかし今、こうして人生全体を振り返ってみると、私にはどちらがどうということが言え
なくなってしまった。KさんはT金融会社に出向する少し前私の家に遊びにきて、こう言
った。「女房のヤツがね、『私の人生は何だったのよ。返して』と言ってぼくを困らすのだ
よ」と。Kさんはともかくも、Kさんの出世を陰で支えてきた妻の悲哀も、また大きい。
一方Bさんは、その村の村長まで一目置く人物になっているし、かなりの財産もたくわえ
た。六〇歳を過ぎた今でも、毎日釣りざんまいの優雅な生活を楽しんでいる。
ただ一つ注意しなければならないのは、「楽な生活」がよいわけではないということ。こ
んなこともあった。街角で偶然、二五年ぶりにM氏(五四歳)に会ったときのこと。久し
ぶりのことで、近くのレストランで食事をすることにしたが、話していて、私はハタと困
ってしまった。何もないのだ。何も感じないのだ。
私と同じ五四歳なのだから、「この人も何かをしてきたはずだ」と思い、それを懸命にさぐ
ろうとしたのだが、かえってくるものが何もない。話を聞くと、休みはパチンコ、見るテ
レビは野球中継とバラエティ番組。新聞といっても、読むのはスポーツ新聞だけ、と。い
くら楽でも、私はそういう人生には、価値をみない。
もちろん今でもKさんは、いとこの中でも自慢のいとこだ。Kさんがする話は、私のよ
うな田舎者が知る由もない、雲の上の話でおもしろい。が、今、私にもう一度人生が与え
られ、Kさんか、それともBさんの人生のどちらかを選べと言われたら、私は迷わず、B
さんのほうの人生を選ぶ。今の自分の人生をみても、私の人生はBさんのほうに、はるか
に近い。
しかしこれだけは言える。人生の価値や意味などというものは、世俗の尺度では決まらな
いということ。つまるところ、その人がどれだけ自分の人生に納得しているかで決まる。
言いかえると、納得さえしていれば、それが他人から見てどんな人生であっても、気にす
ることはない。人間の豊かさというのも、それで決まる。地位や肩書きや名誉や財産では
ない。あくまでも自分自身である。
●日本の英語教育
小学校で英語教育が始まることについて、「必要ない」と言ってきた人がいた。「日本語
もロクにわからない子どもに、英語など教える必要はない」と。今どき、こういう意見がまかりとおることのほうが、私には理解できない。こんな話がある。
アメリカの中南部あたりでは、食べ物の味付けが、とにかく甘い。たとえば日本人だと、
ケーキのひとかけらすら、食べられない。それを彼らはパクパクと平気で食べる。一方、
日本へ来たアメリカ人は、日本の食べ物は、どれもこれも塩からいという。そうそう先日
もこんなことを言ったオーストラリア友人がいた。浜松駅におりたったときのこと。「ヒロ
シ、どうしてこの町はこんなに魚臭いのか」と。自分の味やにおいは、外国へ出てみては
じめてわかる。子育てもそうだ。
日本人の子育ての特徴を一言で言うなら、「依存性」ということか。子どもが親に依存心
をもつことに、日本人は甘い。日本では親にベタベタと甘える子どもほど、かわいい子イ
コール「いい子」と評価する。そして親は親で、一方的に子どもにあれこれしてしまう。
善意や親切を押しつけながら、押しつけているという自覚もない。それは自分自身がそう
いう子育てを受けたというより、自分も子どもに依存したいという思いから、そうなる。
ある女性(七〇歳)はこう言った。「息子を横浜の嫁に取られてしまいました」と。その女
性は、息子が結婚して横浜に住んでいることを、「取られた」と言うのだ。こうした子ども
を所有物か何かのように考える意識も、結局は依存性の表われとみる。ほかにこの日本に
は、忠誠心だの服従心だの、依存性を意味する言葉はいくらでもある。少し前には会社人
間という言葉もあった。日本人は互いに依存しあうことによって、自分の身の保全をはか
ろうとする。
こうした日本人のもつ問題点も、自分自身が外国に出て、外国を知ることではじめてわ
かる。観光客の目ではわからない。そこに住んで、そこの人たちと同じ気持ちになっては
じめてわかる。日本だけしか知らない人には、日本の味はわからない。浜松のにおいはわ
からない。外国を知るということは、結局は自分を知ることになる。英語教育というのは
そのための教育だ。
ただ北海道の端から沖縄の端まで、同じ教育をという発想もおかしい。英語を勉強したい
子どももいる。したくない子どももいる。教えたい親もいる。教えたくない親もいる。英
語教育が必要だという教育者もいる。必要でないという教育者もいる。だったら、そんな
のは個人に任せればよい。日本人すべてが同じ教育をという発想は、まさに全体主義の亡
霊でしかないでしかない。
そこで一つの方法として、カナダやドイツのように、クラブ制にしてはどうだろうか。費
用はドイツのように、「子どもマネー」を支給すればよい。ドイツでは子ども一人あたり、
一律二三〇ドイツマルク(日本円で一五〇〇〇円程度)が、最長子どもが二七歳になるま
で支払われている(二〇〇一年度)。そしてその分、学校を早く終わればよい。日本人もも
う少し教育をフレキシブルに考えるべきではないのか。
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●樹香庵(浜松市北区浜北・森の家)
++++++++++++++++++
今夜は、浜北にある、「森の家」に一泊。
このところ、こうしてどこかの旅館に
泊まるのが、楽しい。
「森の家」は、浜北森林公園の頂上付近にある。
その「森の家
の一角に、離れの形で、樹香庵がある。
「じゅこうあん」と読む。
純和風の別宅。
その樹香庵で、今、この文章を書いている。
+++++++++++++++++
●イチオシ
樹香庵は、10畳が2間。
一間は茶室風になっている。
風呂、トイレも北側にあって、申し分なし。
風呂は、小さいが、ヒノキ風呂。
浜松方面に来て、やや時間に余裕があるなら、イチオシの旅館である。
「やや時間に……」というのは、浜松駅からは、電車とタクシーを乗りついで、1時間ほ
どかかる。
(東名・浜松インターからだと、30分ほど。)
値段も、素泊まりで、1泊1人、8000円(2名宿泊のばあい)。
隣が、「まつぼっくり」という名前のレストランになっている。
食事は、そちらですますようになっている。
経営母体が変わるたびに、メニューも変わるが、今夜のそれは、悪くなかった。
(若い人には、量が少ないかな……?)
●掛け軸
こういうところで文章を書いていると、いっぱしの作家気分。
たった今、風呂から出て、部屋の中には、私、ひとり。
ワイフが交替で、今、風呂に入っている。
向こう側の日本間には、ふとんが2組、敷いてある。
床の間が、私の背中側にもあるが、向こうの和室にも、もうひとつ床の間がある。
掛け軸が掛かっていて、そこには、「日々是好日」と書いてある。
中国語で、「是」というのは、英語の「is」に相当する。
だから、「毎日、よい日です」という意味になる。
背中側の床の間にも、掛け軸がかかっている。
そこには、「一期一会」と書いてある。
今さら、意味を説明するまでもない。
ともに、生き方を象徴する言葉である。
●『日々是好日』
日々を満ち足りた気持ちで、楽しく過ごす。
生きる目的は、この4語に集約される。
私だって、そうだ。
朝起きると、まず、10分間の運動をする。
ウォーキング・マシンの上で、時速6キロで歩く。
かなり寒い朝でも、それで体は暖まる。
頭もスッキリする。
そのとき、こう誓う。
「今日こそは、がんばるぞ」と。
この言葉には、いろいろな意味がこめられる。
ひとつは、「今日こそは、有意義に生きてやる」という意味。
もっと言えば、「今日こそは、がんばったなあ」という1日にすること。
その第一の条件が、「今日は、好い日」ということになる。
なお『日々是好』というと、「日」という文字を書き加えて、『日々是好日』と書く人は
多い。
しかし正しくは、『日々是好』である。
●『一期一会』
では、『一期一会』はどうか?
いろいろに解釈する人がいる。
人との出会いは、その瞬間、その瞬間。
1回だけだから、真剣に会えというように、説明する人もいる。
「人との出会いを大切にしろ」と。
もともとは、千利休の弟子の山上宗二が、「一期に一度の会」と書いたことに始まる。
それを幕末の大老、井伊直弼が、『一期一会』にまとめたとされる(ウィキペディア百科事
典より)。
茶室には、どこも、この言葉がかかげられている。
が、私は若いころから、こう解釈していた。
「その瞬間、その瞬間は、1回しかないから、覚悟して生きろ」と。
そういう意味では、この言葉は、「今を生きる」という生き方に、つながる。
「今しかない。
だからその今を、懸命に生きろ」と。
どの解釈が正しいとか、そうでないとか、論じても意味はない。
それぞれの人が、言葉を読み、自分で何かを感じればよい。
自分流に解釈すればよい。
それを自分の中で、生かせばよい。
●中国文化
こうして純和風の一室に泊まってみると、「日本はやはり、中国の文化圏に属するのだな」
と知る。
四字五字熟語にしても、もともとは中国から入ってきたもの。
が、こう書くからといって、日本が、現在の中国の属国であるとか、そういうことを言っ
ているのではない。
現在の中国人もそうだが、私たち日本人も、その向こうにある、同じルーツの子孫という
こと。
どちらが「上」で、どちらが「下」などという議論そのものが、ナンセンス。
中国人の多くは、自分たちが「上」と思っているかもしれないが……。
また中には、和風建築は、日本独特のものと主張する人もいるかもしれない。
しかし全体としてみると、つまり国際的な視野でみると、中国式は中国式。
漢字を、ひらがなや、カタカナにした程度のちがいはあるかもしれない。
しかし「独自」とは、とても言いがたい。
そのことは、学生時代に、横浜の中華街へ行ったときにも、感じた。
たまたま何かの祭りをしていた。
それを見て、驚いた。
太鼓の鳴らし方、はやし方、どれも、私が子どものころ、郷里のM町で聞いたものだっ
た。
私は、日本の祭りは、日本独特のものだとばかり思っていた。
つまり基本に中国の祭りがあり、それをまねたというよりは、不完全なまま輸入して、日
本の祭りを作りあげた。
見よう見まねで、日本人は日本の祭りを作った。
あるいは(中国)→(朝鮮半島)→(日本)へと、文化が移入する過程で、少しずつ変
化したのかもしれない。
少なくとも、日本人が、オリジナルとして、自分で作りあげた祭りではない。
それを横浜の中華街で、見て、驚いた。
●「日の本」
日本を否定してばかりいては、いけない。
しかし前にも書いたが、日本のことを「日本」というが、「日本」、つまり「日の本(もと)」
という発想そのものが、日本人のそれではない。
「日本」という名前は、「日(=太陽)が昇る国」という意味である。
「日の本」というのは、中国、あるいは朝鮮半島から見て、そうだというにすぎない。
日本人が、自分の国の名前をつけるとき、「ここは日の本だ」などと、言うだろうか。
だいたいにおいて、「日本」を、「ニッポン」「ニホン」と、音読みにすること自体、おか
しい。
どうして「日本」という国名が、中国式の発音になっているのか。
また「日本」という国名は、中国人、もしくは朝鮮半島の人たちによって、つけられた。
さらに中国には、「倭国」と書いて、「日の本」と読んでいたという記録も、残っている。
詳しくは別の原稿で書いたので、ここでは省略する。
●愛国心
またまた日本を否定してしまった。
私の悪いクセだ。
不愉快に思っている人も、多いことと思う。
このところおかしな復古主義が、幅をきかせているから、こういう話になると、どうし
てもムキになる。
車が暴走しかけているから、ブレーキのかけ方が、どうしても強くなる。
今は、そういうときかもしれない。
ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、私は日本を嫌っているのではない。
好きとか嫌いとかは、感情として、あまり考えたことはない。
しかし人一倍、日本のことを心配している。
いつも日本のことを考えている。
外国から日本へ帰ってくると、心底、ほっとする。
日本がすばらしい国になることを、いつも心の中で願っている。
そういう気持ちを総称して、「愛国心」というのなら、私にも愛国心はある。
しかしこうした愛国心と民族主義は、区別したほうがよい。
「大和民族はすぐれている」と思うのは、その人の勝手。
しかしだからといって、その返す刀で、「ほかの民族は、劣っている」と思うのは、まちが
い。
ともに高い次元で、相手を認めあってこそ、民族主義は、光る。
そうでなければ、戦争の火種になるだけ。
とくに過激な国粋主義には、警戒したほうがよい。
●レストラン
どんどんと考えが、ひとり歩きしてしまった。
こんな部屋で、日本や民族について書くつもりはなかった。
もう少し、楽しい話題について、書くつもりだった。
……先ほど、隣のレストランで、夕食をとった。
今夜は森の家の招待ということもあって、無料。
あとでメニューを見たら、私の料理が、1300円。
ワイフのそれが、850円ということだった。
量的には、私たち夫婦には、多すぎるくらい。
私もワイフも、半分程度、残した。
というのも、数日前、体重計に乗ったら、62・5キロになっていた。
風邪気味だったので、食事の量をふやした。
とたん、このザマ。
あわてておとといから、ダイエット。
今朝は、60・5キロに戻っていた。
ホ~~~ッ!
そのレストランには、たくさんの人たちが、それぞれグループを作り、食事をしていた。
みな、楽しそうだった。
中には、口角に泡を飛ばして、議論している人たちもいた。
うしろの席に座った夫婦は、料理ごとに、デジタルカメラで写真を撮っていた。
前の席に座っていたグループは、大学のゼミか何かでやってきたようだ。
中央に教官らしき人を置き、みなが、その人の話を真剣に聞いていた。
人は、やはり人と関わりをもって生きる。
「いいなあ」とか、「うらやましいなあ」とか、そんなことを言い合いながら、
ワイフと夕食を食べた。
●DVD
夜も更けてきた。
時刻は、今、21:20。
パソコン上の時計では、そうなっている。
今日は昼寝をしなかった。
そのこともあって、今は、眠い。
目をあけているのが、やっと。
ワイフは、別のパソコンで、ここへ来るとき借りてきたDVDを観ている。
リチャード・ギア主演の『最後の初恋』。
私好みではない。
音声だけ聞こえてくるが、ネチネチした会話がつづく。
要するに、(お涙ちょうだい映画)?
「涙は出たか?」と聞くと、ワイフは、「ちょっとね」と。
一方、私が借りてきたのは、『デイブは宇宙船』。
「宇宙人」ではなく、「宇宙船」。
人間の形をした宇宙船という意味である。
パッケージの裏の解説しか読んでないが、おもしろそう。
楽しみ。
●明日
明日は勤労感謝の日。
休日。
とくに予定は、ない。
帰りに、別のパソコンショップへ寄るつもり。
ところでこのエッセーは、Open Officeを使って書いたもの。
最初は、どこかおっかなびっくりという感じだったが、今のところ問題、なし!
動作も安定している。
OOを使っているということすら、忘れていた。
MSのOfficeにない機能も、いくつかついている。
かなり気に入ってきた。
ワンクリックで、全画面表示にしたり、もとに戻すこともできる。
いいぞオ~~!
……ということで、就寝タイム。
少しのどが痛いので、うがいをしてから寝る。
2009年11月22日、夜。
結局、今日も、たいしたことができなかった。
「明日こそは、がんばろう」と、改めて心に誓う。
(注)雑誌などの記事によると、OO上では、複雑な図形や、レイアウトについて、
崩れることもあるそうだ。
しかし一般の人たちが、ふつうの状態で使うなら、何も、問題はないようだ。
私が確かめたのは、(Office2007と、Open Offfice)の互換性。
近く発売になる、Office2010との相性については、未確認。
ともあれ、Open Officeに、バンザ~イ!
(樹香庵の写真は、マガジン12月号のはじめに、紹介します。)
(注:一期一会について)
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。
参考までに、転載させてもらう。
『一期一会(いちごいちえ)とは、茶道に由来することわざ。『あなたとこうして出会って
いるこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を
大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』と言う意味の、千利休の茶道の筆
頭の心得である』と。
(補記)
●DVD『デイブは宇宙船』
発想はおもしろいが、中身が薄い。
陳腐。
そんなわけで、星は2つの、★★。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司
●気分
今日は、1日中、ずっと気分が晴れなかった。
原因はわからない。
俗に言う、「落ち込んだ状態」。
ときどき、こうなる。
何を考えても、否定的、悲観的。
平たく言えば、いじけている。
マイナス思考になっているから、批判だけで終わってしまう。
そこから何も生まれてこない。
こういうときは、あまり文章を書かないほうがよい。
書いても、よい文章が書けない。
……ということで、写真の加工をして、時間をつぶした。
HPの更新をした。
午後からは、ワイフと買い物に出かけた。
帰りにパソコンショップに寄ってみた。
新製品に、いくつか手を触れてみた。
で、ビビッときた。
「そうだ、あのレッツ・ノートを手入れしてみよう」と。
レッツ・ノートというのは、9年ほど前に買った、P社製の
ノート・パソコンをいう。
CF-L1。
骨董的価値がある?
当時はもっとも愛用したパソコンである。
価格は、22万円。
よく覚えている。
が、買ったときから、不調つづき。
最初の半年くらいは、ずっと、パソコンショップとメーカーの間を
行ったり来たりしていた。
それで直ったわけではない。
今でも、CDトレイは、殺したまま。
端子にビニールをはさんで、使えないようにしてある。
●古いパソコン
そのパソコンで、この文章を叩いている。
気持ちよい。
あのころの感触が、指先から戻ってくる。
ただ記憶媒体が、フロッピーディスクのみ。
たった今、USBメモリーを試してみたが、やはりだめだった。
CDが使えないから、ドライバーをインストールすることもできない。
何か、よい方法はないものか。
ところで光学マウスは、どうか?
ヘエ~~~?
光学マウスは、認識したようだ。
使えるようになった。
しかしUSBポートは、1つしかない。
だから文章を保存するときは、一度マウスをはずさなければならない。
それにフロッピーディスクは、あったかな?
画面全体は、薄黄色。
セピアカラーとまではいかないが、それに近い。
「かえって目にやさしくなった」と言って、自分をなぐさめる。
こういうのを心理学の世界では、「合理化」と呼んでいる。
●パソコン
こうして考えてみると、パソコンというのは、大切に使うものではない。
どうせ9年も使うと、ただの廃棄物。
ノート・パソコンなら、まだよい。
大型のデスクトップパソコンとなると、そうはいかない。
処分に困る。
ところでモニター一体型のパソコンというのを、今でも売っている。
しかしこれは私の個人的な意見だが、ああいうのは、買わないほうがよい。
パソコンを処分するとき、モニターまで処分しなければならない。
モニターが別になっていれば、またほかのパソコンで、再使用ということも可能。
そこで考えた。
人間の臓器移植のように、パソコンも、そのつど、より高性能の部品と交換
できればよい。
(たとえが悪くて、ごめん!)
最初から、そういう(作り)になっていれば、無駄がない。
ハードディスクやメモリーなどは、簡単に交換できる。
同じように、マザーボードやグラフィックボードも、交換できるようになると
よい。
そのためには、パソコンの規格化が、もっと進まなければならない。
果たして、それは可能なのか。
●たった9年!
しかしこのパソコンには、思い出が詰まっている。
このパソコンで、何冊か、本も書いた。
新聞のコラムも書いた。
たった9年前のことだが、遠い昔のことのように感ずる。
正確には、「2000年9月19日、購入」となっている。
私はパソコンにかぎらず、何か電気製品を買うと、裏に購入年月日の
シールを張ることにしている。
その間の9年で、パソコンの世界は、格段の進歩を遂げた。
この先も、さらにさらに進歩する。
●スパコン
ところで今、政府部内では、予算配分の見直し作業を進めている。
その作業の中で、スパコン(スーパーコピュータ)の開発予算が、削られる
ことになったという。
これに対して、その道の専門家たちが、猛反発しているらしい。
しかしこれについて、私の二男は、こう言っている。
「これからは、スパコンの時代ではない」と。
現に、CERN(スイスに本部を置く、量子加速器研究所)では、スパコン
ですら、役に立たないという。
そこで世界中の大型コンピュータを回線でつなぎ、それを使ってデータの分析や
解析を行っているという。
その数、約1万台。
そのほうがそれぞれの科学者にとっても、使いやすいのだそうだ。
二男はその技術者として、来月(12月)、スイスへ行くという。
スパコンにこだわる時代は、終わりつつあるのかもしれない。
つまりハードからソフトの時代へ。
似たような例に、ウィキペディア百科事典がある。
(私が勝手に、そう思っているだけだが・・・。)
何かの百科事典を書こうとすると、たいへんな作業になる。
20~50人単位の編集者が、数か月かけて、やっと1巻。
全巻完成するまでに、何年もかかる。
しかし世界中の人たちが、少しずつ書けば、あっという間に、百科事典が
できあがってしまう。
同じように、すべての分析を、1台のスパコンを使ってするよりは、1万人の科学者が、
1万台のパソコンを使って分析したほうが、早い。
もちろんそこから出てきたデータは、私たちがウィキペディア百科事典を利用するように、
みなで共有する。
この世界も、今、急速に変わりつつある。
「このままでは、日本はスパコンの世界から、はじき飛ばされてしまう」と
心配するのは、どうか?
それよりも重要なことは、それを使うソフトウェアの開発ということになる。
●後書き
夕食後、だいぶ心も落ち着いてきた。
いじけた心が、弱まってきた。
これならあと1~2時間で、精神状態は安定してくるはず。
よかった!
今日、のんだ薬。
葛根湯・・・頭が重かったから。
ハンゲコウボクトウ(半夏厚朴湯)・・・これは精神の安定にきく。
セパゾン半錠・・・同じく、精神の安定にきく。
午後になって、頭痛薬半錠・・・これは念のため。
さらに寝る前に、センナを少しのむつもり。
これは腸が、腫れぼったいから。
そうそうこれから20分間、ウォーキング・マシンの上で運動。
今日(11-23)は、勤労感謝の祭日。
明日から、また仕事。
がんばります!
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●11月20日
数日前、重いテレビを持ちあげた。
ブラウン管方式の32インチのテレビ。
バカなことをした。
重量は軽く100キロ近くはある。
おとな3人でも、運べない。
おかげで右のひざを少し傷めた。
軽い鈍痛がつづく。
このまま症状が収まればよいが、
持病になったら、たいへん!
母は、まずひざを傷めた。
それでやがて、歩けなくなった。
幸い自転車に乗るのは、何ともない。
ひざに体重がかからない。
これからしばらくは、自転車による
運動が中心になりそう。
●民主党にもの申す
民主党にとってOZ氏(どういう役職になっているか、私は知らない。
が、実質的に、民主党の支配者)は、最重要の人物かもしれない。
しかしそのOZ氏が、民主党のイメージをいかに悪くしているか、
それを一度、庶民(選挙民)の立場で、ながめなおしてみてほしい。
数日前も、OZ氏に関して、1億円の裏金問題が、発覚した。
OZ氏のコメントは、まだ読んでないが、「いかにも、そういうことをしそうな人物」と
いう点で、OZ氏のイメージは、たいへん悪い。
あのOZ氏を見て、誠実な人、あるいは正直な人というイメージをもつ人は、まずいない。
「OZ氏は民主党の生みの親」という気持ちは、よく理解できる。
しかし私たち選挙民は、OZ氏という個人を支持しているわけではない。
「民主党」という「党」を支持している。
つまりこの瞬間から、民主党は民主党として、党全体のあり方を考えなければならない。
OZ氏が、いつまでも親風を吹かしていると、民主党は、再び野党に転落する。
このところHT内閣の支持率が、ジリジリとさがってきている。
数日前には、何かの報道機関で、50%という数字が出てきた。
OZ氏の裏金問題が発覚する前の数字だから、今は、もっとさがっているかもしれない。
●6か国協議
K国は核兵器を放棄しない。
現在の体制がつづくかぎり、放棄しない。
核兵器そのものが、独裁政権というカルトの中で、本尊化している。
西洋人には理解しがたいことかもしれない。
この日本でも、『イワシの頭も信心から』と言う。
ひとりノー天気なのは、フランス。
あれこれ外交官を送りこみながら、かつてのC・ヒル国務次官補と同じことをしようと
している。
オバマ大統領にしても、あれほどブッシュ政権を批判しておきながら、やっていることは、
ブッシュ政権時代のそれと同じ。
ここまできたら……というより、今さら手遅れだが、K国の政権転覆を考えるしか、
解決方法はない。
今までにも、チャンスは何度かあった。
そういうチャンスを、アメリカや韓国のみならず、この日本も見逃してしまった。
その(結果)が今である。
(1990年の終わりごろ、K国は一度、崩壊の危機に陥った。
金xxも本気で中国北部への亡命を考えていた。
そのときあろうことか、120万トンのコメを送ってK国を救済したのが、
当時の日本のKN外務大臣である。
「これでK国が動かなかったら、責任を取る」と大見えを切ったが、結局、K国は
動かなかった。
KN氏がそのあと責任を取ったという形跡も、まったくない。)
結局、オバマ大統領も同じことを繰り返しながら、K国に時間を与えるだけ。
この先日本は、現在の体制がつづくかぎり、K国の核兵器にビクビクしながら生きていく。
そういう前提で、これからの外交政策を考えるしかない。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司
●大失態
+++++++++++++++++
この1か月半の間、教室への問い合わせや、
仕事の依頼が、パタリと止まってしまった。
「?」とは思っていたが、それほど気にして
いなかった。
……というか、気がつかなかった。
+++++++++++++++++
そこで昨日、たまたま自分から自分宛てに、メールを送信してみた。
送信はたしかにできる。
送信済みトレイに、メールは残る。
しかし肝心のメールがはね返ってこない。
ギョッ!
「?」と思いつつ、プロバイダーに連絡をとる。
が、「どこにも問題がありません」と。
原因はわからない。
相談にのってくれた女性は、「サーバーから 削除されているようですね」と。
メールだけではない。
ためしにフォームを使って、自分から自分宛に、仕事の依頼を書いてみた。
「フォーム」というのは、様式をこちらが定めて、そこへ相手に必要事項を
書いて送ってもらうというもの。
迷惑メールや、ウィルスを仕込んだメールを 排除するために、私は、それを
使っている。
それも戻ってこない。
つまり私宛のフォームも、私に届く前に、
どこかで削除されてしまう。
「?」。
そんなはずはない。
「???」と思いながら、あちこちをいじる。
が、どこもおかしくない。
ビスタ(OS)では、(新規メール作成)のすぐ上に、
(迷惑メール)設定のタグが並んでいる。
ときどき まちがえて クリックしてしまうことがある。
原因は、どうやらそのあたりにあるらしい。
(確かではないが……。)
で、昨夜は夜中の1時過ぎまで、パソコンと格闘。
ハラハラしながらの作業さった。
それにしても大失態。
この1か月半に、フォームを使って メールをくれた人もいるだろう。
ひょっとしたら、教室への問い合わせや、仕事の依頼も あったかもしれない。
そういう人のフォームは、どこかへ消えてしまった。
その可能性は大きい。
申し訳ないことをした。
と、同時に、インターネットの恐ろしさを、今一度、思い知らされた。
……で、こんな経験を思い出した。
その飲食店は、雑居ビルの2階にある。
しかしある日の午後、客足が パタリと止まってしまった。
いつもなら客でにぎわう夕食時になっても、客はゼロ。
私の行きつけの店だった。
恐る恐るその店に入り、私が「あの~、営業していますか?」と聞くと、「はい、
してます」と。
階段の入口に、「準備中」の看板が 立てられていた。
だれかがいたずらで、「営業中」から「準備中」へと、看板をひっくり返したらしい。
「悪いことをする人もいるもんだ!」と、店の主人は 怒っていたが、今回の
私の大失態は、その話と、どこか似ている。
Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司
●変わる 文章の書き方
明治、大正時代に出版された本を見ると、(読むのではなく、見ると)、
文字が ぎっしりと 詰まっているのがわかる。
昭和のはじめに書かれた本にしても、そうだ。
が、最近の本は 余白をたっぷりと とってある。
行間も広くなった。
文字数も 少ない。
大きなイラストが、散りばめてあるのも多い。
それを見ると、この20年の間に、本の作り方にしても 大きく変化したことが
わかる。
さらにここ10年、とくにインターネットを中心として、本の体裁だけではなく、
文章の書き方も さらに大きく、変わってきた。
文字を書くとき、「もったいない」という意識が 消えた。
以前は、余白が大きければ大きいほど、「紙がもったいない」と思った。
だから本を書くときも、一行を、40文字にするか、42文字にするかで、悩んだ。
40字にすると、読みやすい。
しかしその分だけ文字数が少なくなる。
42字にすると、感じがぐんと変わってくる。
行数にしても、1頁、15行にするか、17行にするかで、感じがぐんと変わってくる。
そのことで、出版社と、もめたこともある。
が、そういう意識が 消えた。
たとえば今、私はこの文章を書いている。
一文ずつ、一行に書くようにしている。
つぎの文を書くときは、改行する。
こんな書き方は、30~40年前には 考えられなかった。
当時は「もったいない」ということを、まず考えた。
が、今は、それを考えなくなった。
「読みやすくしよう」という意識が先に立つようになった。
(それでも意識というのは、おもしろいもので、こういう書き方をしていると、
今でも心のどこかで、もったいないと思う。)
ネットの世界では、当然のことながら 紙を使わない。
だからいくら余白を大きくしても、どうということはない。
それが文章の書き方にも、大きく影響し始めている。
この先、もっと余白は大きくなるだろう。
文と文の間が、スカスカになるだろう。
文そのものも、短くなるだろう。
英語のように、言葉と言葉の間に 空白を入れるという方法も一般化するかもしれない。
幼児向けの本では そういう手法を用いる。
「、」を入れるよりは、ずっと読みやすくなる。
今、ここに書いたことをもとにして、このエッセーを書いてみた。
みなさんは、この文章を読んで、どんな印象をもっただろうか。
これからは しばらく この手法で、文章を書いてみたい。
読みやすさを、自分なりに 追求してみたい。
(補記)
同じようなことは、デジタルカメラを 使うようになったときも経験している。
フィルムは使わないのだから、「損」という感覚は おかしい。
が、シャッターを 押すごとに、「もったいない」と感じた。
今回も、そうだ。
こうしてスカスカの文章を 書いていると、どうも気になる。
「これでいいのかな」と迷う。
私としては、文と文が、しっかりと詰まっている文章のほうが、文章らしく見える。
重みもある。
しかしこれも時代の流れ。
この先、紙を使った本は、どうあがいても消える。
そのとき文章は、その時代の書き方で書かれるようになる。
日本語について言えば、
(1) 漢字が、少なくなる。
(2) 一文一文が短くなる。
(3) スカスカになる。
(4) 文字と図形(写真)が混在するようになる。
100年後の人たちが、私が書いた文章をどう思うだろうか。
今、私は明治時代の人たちの書いた文章を読んでみる。
「読みづらい」と思う。
同じように、100年後の人たちは、どうだろうか。
私のこの文章を読んで、「読みづらい」と 思うだろうか。
もっともそのころまで、私の書いた文章は残っていないだろうが……。
言い忘れたが、こうして電子の世界で書いた文章は、「形」がないだけ、
消えるのも早い。
電源を落とせば、それですべてが消える。
本というのは、燃えても、カスが残る。
しかし電子の世界で書いた文章は、そのカスさえ残らない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 インターネット時代の文章 新しい文章 新しい文章の書き方)
Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司v
●映画『2012年』
昨夜遅く、映画『2012年』を観てきた。
午後9時20分始まりの、まさに深夜映画。
終わって劇場内の時計を見たら、午前0時を
10分ほど、回っていた。
2時間50分?
長い映画だった。
プラス、ものすごい映画だった。
星は4つの、★★★★。
破壊シーンが、ものすごかった。
そればかりが目立った。
それで星を1つ、減らした。
まさに究極の破壊映画。
まあ、何と言うか……。
「ここまでやるか!」というような、映画だった。
で、いくつか矛盾も ないわけではない。
たとえば映画に中では、現代版ノアの箱舟が 登場する。
世界中が水没する。
一部の人たちは、その箱舟に乗って、難を逃れる。
が、あの形では、押し寄せる水の圧力には、耐えられない。
私なら、箱舟を 球形にする。
構造を3層構造くらいにして、衝撃に耐えられるようにする。
(映画の中では、長細い宇宙船のような形をしていた。)
そしてそれを一度、山頂に固定する。
海の底に沈み、海面が静かになったあと、留め具を解除して、
海面に浮上する。
最後は 隆起したアフリカ大陸を めざすという設定になっている。
(最後のオチを話してしまって、ごめん!)
しかしどうせ隆起させるなら、太平洋の中央に、別の大陸を隆起させればよい。
新アトランチス大陸という設定も、おもしろい。
最大の矛盾は、地熱の急上昇。
太陽風の影響を受けて、地熱が急上昇する。
マグマの対流が 激しくなる。
それによって、地殻が不安定になる。
世界各地で、想像を絶する 地震が起こる。
世界中の大陸が 海の底に沈む。
こうした流れが 映画の(柱)になっている。
が、それによる地球温暖化は、どうなるのか。
映画の中では、地熱は急速に 冷却することになっている。
が、そういうことは ありえない。
その前に、海水は水蒸気化し、厚い雲を作るはず。
そうなれば温暖化は一気に進む。
映画の中では、最後にみな、青い空を見ることになっている。
しかしそういうことは、ありえない。
厚い雲は日光をさえぎり、真昼でも 真夜中のようになる。
つまりそうした科学性のなさが、あの映画の欠陥。
すごい映画だが、それは破壊シーンだけ。
それが繰り返し、つづく。
これでもか、これでもかと つづく。
そんなことも考えながら、あの映画を観ると、楽しいのでは……?
つまり アラさがし。
(あるいは、かえってみなさんの期待を つぶしてしまったかな?
もし そうなら、ごめん!)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov. 09+++++++++はやし浩司
●ヒマ(暇)論
++++++++++++++++++
「どうやって1日を 過ごそうか?」
……それを考えるのも、苦痛。
ヒマなときというのは、そういうもの。
もちろんヒマであることも、苦痛。
こういうのを ぜいたくな 悩みという。
しかし 世の中には、そういう
恵まれた人(?)も いる。
「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。
++++++++++++++++++
●「ヒマでヒマで……」
M氏は、今年65歳になる。
息子と娘がいたが、今は 2人とも、遠くに住んでいる。
私はどこか知らないが、M氏は、そう言った。
公務員を退職し、つい数か月前まで、郊外の公共施設で 働いていた。
週3日だけの 勤務だった。
が、そこも退職。
今は、悠々自適の隠居生活。
親の代からの 財産も ある。
そのM氏が、こう言った。
「毎日、ヒマでヒマで、どうしようもない」と。
「朝起きて考えること言えば、今日、1日を どうやって 過ごそうかということです」と。
●気がヘンになる
M氏は、こう言った。
「日中は まだ何とかなります。
草を買ったり、バイクを直したりします。
問題は、夕食後です。
昨夜も、2時間も 音楽を聴いて、ぼんやりとしていました」と。
で、私にこう聞いた。
「林さんは、どうしていますか?」と。
たまたまその前日、私は友人への クリスマス・カードを 作っていた。
今年は、手作りカードに 挑戦している。
色紙に 写真や絵を張りつけ、それを 本のように仕立てる。
「ぼくもねエ、ヒマだと気がヘンになってしまいます。
だからいつも 何かをしています」と。
●生きがい
M氏には話さなかったが、私のヒマつぶしといえば、インターネット。
ヒマなときは、まずパソコンに 電源を入れる。
とたん、したいこと、すべきことが、ドカッと、目の前に広がる。
趣味でもある。
道楽でもある。
が、それ以上に、今は、それが生きがいになっている。
文章を書くために、本や雑誌を読んだりする。
マガジンを発行するために、写真を撮ったりする。
HPの更新も、そのつど しなければならない。
やりたいこと、やるべきことが、あまりにも多い。
ヒマだとか、そんなことを言っている ヒマもない。
が、時として、ヒマになることがある。
●貧乏症
私のばあいは、軽いパニック障害がある。
少し前までは、「不安神経症」と言った。
簡単に言えば、「貧乏症」。
いつも何かに 追い立てられているような感じがする。
乳幼児期の 不全な家庭環境が、原因と考えている。
だからヒマであること自体が、苦痛。
何かをしていないと、気がすまない。
いつも、何かを している。
そういう私の反対側にいるのが、無気力な人。
燃え尽き症候群とか、荷降ろし症候群とかいう。
私の年代には、「空の巣症候群」というのも ある。
子育ても終わり、子どもたちが巣立ってしまうと、とたんに 無気力状態になる。
が、M氏のばあいは、少しちがうようだ。
「やりたいことは あるはずなのに、それが わからない」と。
●自己の統合性
青年期には、「自己の同一性」という問題がある。
同じように、退職後には、「自己の統合性」という問題がある。
(やるべきこと)をもち、現実に、(それをする)。
これを「統合性」という。
この構築に失敗すると、老後は、あわれで みじめなものになる。
M氏が そうだというのではない。
M氏はMしなりに、今のような老後を 夢見ながら、がんばって生きてきた。
しかし実際、それを手にすると、「何をしてよいか、わからない」、となる。
孤独であるのも いやなこと。
老後になっても、息子や娘のことで、心配の種が尽きない人もいる。
それも いやなこと。
そういう人たちから見ると、M氏の置かれた立場は、うらやましいとなる。
先に「ぜいたくな悩み」と書いたのは、そういう意味。
●「だから、それが どうしたの?」
そこでM氏が 見せてくれたのは、「太平洋一周、船の旅」という、パンフレット。
1人、150万円前後で、太平洋一周の旅ができるという。
行程は、日本→ハワイ→サンフランシスコ→ニュージーランド→オーストラリア
→東南アジア→中国→日本。
40日間の旅だという。
「で、それに参加しようかどうかで、迷っている」と。
私もときどき そうした旅行を考える。
が、そのまま シャボン玉のアワのように消えてしまう。
私のばあい、そういう旅行が、こわくて できない。
帰ってきたときの 虚しさを 想像するだけで、ゾッとする。
かえって虚脱感に襲われる……と思う。
つまりそうした旅行には、「だから、それが どうしたの」と、そのあとに
つづくものがない。
たとえばそれぞれの国の 教育事情を調べるとか、そういうことなら楽しい。
あるいは私自身が 子どもたちを連れて、何かの指導をするというのでもよい。
しかし帰ってきたとき、「ただいま!」だけでは、あまりにも さみしい。
一時的に ヒマをつぶすことは できても、そのあと、もっと大きなヒマが
襲ってくる。
それに耐える自信が、私には、ない。
●老人観察
老後には いろいろな問題がある。
しかし「ヒマ(暇)」について 考えたことはない。
M氏の話を聞きながら、「そういう問題もあったのか」と、驚いた。
で、さっそく、あちこちの 老人観察を始めた。
「みんな、どうして いるのだろう?」と。
もちろん 旅行を繰り返している人も いる。
趣味ざんまいの人も いる。
スポーツをしたり、孫の世話をしている人もいる。
人によって、みなちがう。
が、こういうことは 言える。
人間というのは 勝手なもの。
忙しいときには、休みが来るのを、何よりも楽しみにする。
が、休みになったとたん、何をしてよいかわからず、ヒマをもてあます。
人生を「曜日」にたとえるなら、月曜日から土曜日までが、仕事。
日曜日が、つまり退職後ということになる。
毎日が日曜日!
しかし、これも考えもの。
●私のばあい
で、私のばあいは、1、2年前に、ひとつの結論を すでに出した。
「私は 死ぬまで、現役で働く」と。
「過去は振り返らない。
前だけを見て、働く」と。
わかりやすく言えば、身のまわりに、「ヒマ」を作らない。
そういう私の人生を 横から見ながら、「かわいそうなヤツ」と思う人もいる
かもしれない。
自分でも、それがよくわかっている。
しかし いまだに(やるべきこと)が、何であるか、それがよくわからない。
統合性の確立があやふやなまま、今の仕事をやめてしまったら、それこそ
たいへんなことになる。
そのままボケ老人に向かって、まっしぐら!
ただ幸いなことに、先にも書いたように、私にはまだ、やりたいことが
山のようにある。
どこから手をつけてよいのか、わからなくなることもある。
で、今は、とりあえずは、新しいパソコンがほしい。
超高性能の、WINDOW7搭載の64ビット・マシン。
今夜も、ワイフに、それをねだったばかり。
誤解がないように言っておくが、パソコンというのは、電気製品ではない。
買ったあとも、実際、使えるようになるまでに、いろいろな作業がつづく。
その作業が、楽しい。
だから買うとしても、長い休暇の前。
……ということで、改めて、究極の選択。
(1) 一生、ヒマで遊んで暮らす。
(2) 一生、仕事で、死ぬ寸前まで働く。
どちらかを選べと言われたら、私は、迷わず、後者の(2)を選ぶ。
(すでに選んでいるが……。)
M氏の話を聞いて、ますます強く、そう思うようになった。
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