●頭のキレる子ども(Smart Kids)
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頭のキレる子どもと、そうでない子どもがいる。
どこがどうちがうか。
ひとつには、頭のキレる子どもは、スパスパと、
まるでかみそりで、ものを切るかのように、
ものを考える。
考えるというよりは、何かテーマを与えると、それに
食いついてくる。
切り込んでくる。
反応も早いが、反応の仕方も、的確。
無駄がない。
一方、そうでない子どもは、反応が鈍い。
頭の中で、思考が回り道をしているような感じになる。
モタモタしている。
テーマを与えても、「どうでもいい」といったふうに、
逃げてしまう。
先天的なちがい、つまり遺伝子のちがいによる部分もないとは
言わない。
それはある。
しかし結果としてみると、頭のキレる子どもは、
良循環の中で、ますます頭がキレるようになる。
そうでない子どもは、悪循環の中で、ますますそうでなくなる。
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●特徴
頭のキレる子どもの特徴を並べてみる。
たまたま私の目の前に、何人かの恵まれた子どもたち(小学生)がいる。
今日は、ワークブックの日。
月に1回は、ワークブックの日と定めて、学校の教科書に沿った勉強をしている。
しかしどの子どもも、1~2年分、飛び級をして、勉強している。
まず気がつくことは、(1)目つきが鋭いということ。
眼球は、その子どもの脳の中をのぞく、窓と考えてよい。
眼球の中をのぞけば、その子どもが頭のキレる子どもかどうかが、わかる。
動きに無駄がない。
時折、視線がキラッキラッと動くことがあるが、そのつどちゃんとした目的がある。
一方、そうでない子どもは、目つきそのものが、どんよりとした感じになる。
無目的に視線を動かす。
フワフワしている。
つぎに気がつくことは、(2)的確性。
頭のキレる子どもは、目的に向かって、まっすぐと切り込んでくる。
言い換えると、「集中力」ということになる。
その集中力がある。
同じ(10)の力をもっていても、(10)の力すべてを、一点に集中させる。
そうでない子どもは、力を拡散させてしまう。
つまり頭がキレるかどうかは、集中力で決まる。
さらに鋭い子どもになると、スキがない。
ツンとした緊張感に包まれる。
が、何よりも重要なのは、(3)切り込みということになる。
だから「キレる」という言葉を使うようになったのかどうかは知らないが、あたまのよい子どもは、どんどんと切り込んでくる。
「AだからB……BだからC……CだからD……」と。
ちょうどドミノ倒しのドミノのように、ちょっとしたきっかけを与えるだけで、「ハイハイ、わかりました!」と言って、自分で理解してしまう。
たとえばたまたま今、目の前の子ども(小3)が、こんな問題を解いている。
「体□、□草の□に入る漢字を書け」(小5国語ワークブック)と。
答は、「質」。
だから「体(質)、(質)草」。
しかし小学生が、「質草」という言葉を知っているわけがない。
で、私が「質だよ」と教えると、「質草って何?」と聞き返してくる。
そこで「お金を借りるとき、時計とかカメラを相手に渡すときがある。
それを質草というんだよ」と教えると、すかさず、「お金が返せなかったら、
取られてしまうの?」と。
私「お金が返せなかったら、時計とかカメラは、取られてしまうよ」
子「だったら、損だ。だれかにカメラを売ったほうがいい」
私「でも、お金を返せば、カメラは戻ってくる」
子「古いカメラでもいいの?」
私「もちろん価値のあるカメラでないといけないよ。
相手の人は、お金を返してもらえないときは、そのカメラをだれかに売って、お金を取り戻すよ」
子「高く売れたら、残りは、返してもらえるの?」
私「それはない」
子「だったら、やっぱり、損だ」と。
こういう会話が、ポンポンとつづく。
●習慣の問題
先にも書いたように、(遺伝子のちがい)は、否定できない。
「頭のよい親の子どもは、頭がよい」。
しかしそれとて、こうも考えられなくもない。
つまり子どもは、日常的に頭のよい親に接している。
親の影響を受ける。
そのため思考するという習慣を、自然と身につける。
たとえばこんなことがある。
私は小学生の高学年になると、中学生のクラスなどにその子どもを置いて指導する。
上級生の(勉強ぐせ)を、もらうためである。
この方法は、きわめて効果的である。
イギリスでも、カレッジ制度の中で、それが応用されている。
……というより、イギリスのカレッジ制度を、私は、まねさせてもらっている。
とくに頭のキレる中学生の間に置いたりすると、効果的である。
半年もすると、その上級生の勉強ぐせのみならず、思考力というか、思考回路そのものを身につけてしまう。
つまり頭がキレるようになる。
このばあい、脳の神経細胞(シナプス)が発達したというよりは、頭の中に新しい回路(ニューロン)ができたと考えるほうが、自然である。
つまり神経細胞は、生まれながらにして数が決まっているが、回路(ニューロン)は、環境によって、できる。
環境の中で、子どもは自ら、それを脳の中に作っていく。
私の書きたいことが、もうわかってもらえたと思う。
頭のよい子どもは、環境の中で、そうなっていく。
それが(考えるという習慣)につながり、さらにそれが良循環となって、頭のキレる子どもになっていく。
たいへん失礼な言い方になるかもしれないが、親がボケーッとした生活を、日常的にしていて、どうして子どもが頭のキレる子どもになるというのか。
子どもは日ごろの、何でもないような会話を通してでも、自らの思考回路を作っていく。
その逆の、極端な例が、野生児ということになる。
オオカミに育てられれば、オオカミ程度の思考力しかない子どもになる。
(野生児については、何度も書いてきたので、ここでは省略する。)
簡単に言えば、子どもは、頭のキレる人に接すれば、頭のキレる子どもになる。
そうでなければ、そうでない。
その責任の第一は、親ということになる。
が、親だけではない。
もちろん教師も、その中に含まれる。
頭のキレる教師に接すれば、子どもは、頭のキレる子どもになる。
そうでなければ、そうでない。
(教師だからといって、みながみな、頭のキレる人ばかりではないぞ!)
そういう意味では、「教育」というのは、ものを教えるだけが教育ではないということ。
むしろ(教えずして教える部分)のほうが、重要。
またそれから受ける影響力のほうが、子どもにとっては、大きい。
アインシュタインもこう書いている。
『教育とは、学校で習ったことをすべて忘れてしまったあとに、残っているもの』と。
……ということで、頭のキレる子どもについて、書いてみた。
が、誤解しないでほしい。
教える立場のものが、いつも教えるのではない。
その点、年齢は、あまり関係ない。
私のばあい、頭のキレる子どもに接すると、反対に、私のほうが大きな刺激を受けることがある。
相手は子どもだから、知識や経験こそ少ないが、こと頭のキレについては、上下はない。
実のところ、私自身は、頭のキレる子どもと接しているのが、楽しい。
教えていても、おもしろい。
ときに教える立場であることを忘れて、子どもとのやりとりに夢中になることがある。
ついでに……。
だからといって、私がどうと言うのではない。
しかしこういうことも言える。
「頭のキレる人には、頭のキレる人がわかる。
しかしそうでない人には、そうでない」と。
もっとわかりやすく言えば、「頭のよい人には、頭のよい人がわかる。
しかしそうでない人には、それがわからない」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 頭のよい子ども 頭のよい子供 頭のキレる子供 鋭い子供 子供の集中力)
【補記】
『バカな人には、利口な人がわからない。利口な人からは、バカな人がよくわかる』
『愚かな人には、賢い人がわからない。賢い人からは、愚かな人がよくわかる』
さらに、
『自分がより利口になってはじめて、それまでの自分がバカだったことを知る』
『自分がより賢くなってはじめて、それまでの自分が愚かだったことを知る』
また、逆にこうも言える。
『バカな人は、自分がバカということがわからない。利口な人は、自分がバカということがわかる』
『愚かな人は、自分が愚かということがわからない。賢い人は、自分が愚かということがわかる』
こうして考えていくと、いかに自分のことを知るのがむずかしいかがわかる。
私はこのことを、どこか認知症ぽい女性(60歳くらい)と話していて気がついた。
バカでもわかるようなくだらない話を(失礼!)、その女性は、私にくどくどと説明した。
そこで私が、「私は、そんなバカではないと思いますが……」と言うと、突然、大声で私にこう言った。
「私だって、バカじゃ、ありません!」と。
私は、「あなたが思っているようなバカではない」と言ったつもりだった。
またその女性を、バカと言ったわけではない。
が、その女性は「バカ」という言葉に、過剰に反応した。
自分がバカと言われたと、勘違いした。
私も、母を見舞うついでに、老人ホームにいる老人たちを観察させてもらったことがある。
そのとき気がついたが、ああいった施設にいる老人で、自分をバカと思っている老人はいないということ。
一日中、「飯はまだかア!」と、叫んでいる女性(90歳くらい)もいた。
食事がすんだ直後でも、そう言って叫んでいた。
そういう女性を、バカというのも、失礼なこと。
それは、よくわかっている。
しかしその女性は、私自身の近未来像。
私もやがて、その女性と同じようなバカになる。
まちがいなく、そうなる。
だから最後に、こうも言える。
『自分がバカになりつつあるときは、だれもそれに気がつかない』
『自分が愚かになりつつあるときは、だれもそれに気がつかない』と。
老後の恐ろしさは、まさに、ここにある。
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