●映画『ナイト・ミュージアム2』
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字幕版、『ナイト・ミュージアム2』を見てきた。
字幕版のほか、「日本語・吹き替え版」というのもある。
吹き替え版のほうは、ちょうど夏休みということで、
子ども向けということか。
星は3つの、★★★。
前作は、4つの、★★★★。
今回の「2」は、あまりにもドタバタ。
あれも、これもと、何もかも詰めすぎた。
結果、何がなんだか、訳が分からない映画に
なってしまった。
おもしろい映画だったが、それだけ。
ドタバタ、ドタバタ・・・。
それだけで終わってしまった。
だから星は、やはり3つ。
やはりこの映画は、子ども向け。
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●映画と文学
映画のもつアカデミック性は、文学のそれよりは
一般的に低く評価される。
(コミックと文学の関係も、それに似ている。)
映画はあくまでも娯楽、という考え方が、今でも根強い。
私自身も、心のどこかで、そう感じている。
しかしそれは偏見。
映画はそれ自体、すばらしい芸術。
絵画や音楽そのものが、そこへ凝縮されている。
文学と比較しても、なんら遜色がないばかりか、実はその逆。
絵画、音楽、文学の3つが一体化したのが、映画ということになる。
ときに、それ以上のものを表現する。
絵画、音楽、文学では表現できないものを、映画は表現する。
が、問題がないわけではない。
そのひとつが、(時の流れ)。
つまり映画は、製作者の意図したまま、私たち自身を操る。
ときに考えるスキを与えない。
たとえばもし映画を、政府のプロパガンダ(情宣活動)や、
どこかの宗教団体の洗脳教育用に使われたら、たいへんなことになる。
一方、本なら、ときどき読むのをやめたりして、時間を調整することができる。
批判をはさむこともできる。
映画では、それができない。
また文学のもつ(想像性)というのが、映画では、抹殺される。
つまり映画を見ながら、自分の想像力を働かせるということができない。
それ以上のものを、映画は、(現実)として、それを観る人に
押しつけてしまう。
たとえば本で、「水もしたたるような美人」という表現があったとする。
そういうとき私たちは、頭の中で、それぞれの美人を想像する。
が、映画では、その美人そのものまで、画像として出してしまう。
むずかしい話はさておき、映画と文学の最大のちがいは何かといえば、
(考える力)ということになる。
文学では、常に考える力を試される。
一方、映画では、考える力を必要としない。
「観れば、それでわかる」と。
が、もちろん映画には、文学にはない、すばらしい面がある。
それは過去や未来、あるいは遠い見知らぬ国を、先にも
書いたように、それを(現実)のものとして、見せてくれる。
いくら想像力を働かせても、想像できないような世界を見せてくれる。
ただもちろん映画にも限界がある。
たとえば私は今、ここまで40行前後の文章を書いた。
テーマは、「映画と文学」。
こうした文章にみられる、(論理性)というのは、映画にはない。
あるにはあるのだろうが、観る人にその力がないときには、
「ああ、おもしろかった」で終わってしまう。
だからあえて言うなら、映画を観たら、どこかでそれを(思想)として
消化しなければならない。
具体的には、その映画について考え、評論し、思想として抜き出させるものは、
抜き出す。
それをしないで、ただ観っぱなしにすれば、それこそただの娯楽で終わってしまう。
つまり読む側、観る側の姿勢のちがいによって、文学は文学になり、映画は映画に
なる。
で、最近、DVDで好んで借りてくるのが、実話もの。
昨夜も、オーストラリア映画の、『ディア・マイ・ファーザ(Dear My Father)』というの
借りてきた。
原作は、Raimond Gaita著※の、『Romulus, My Father』となっている。
舞台は、メルボルン市の郊外にあるバララートという、昔からある町。
(最後のエンディングのところで、ビクトリア州のMaldonで撮影、とある。)
今でも、開拓時代の面影を強く残す町として、多くの観光客が訪れている。
内容はともかくも、私はその主人公に興味をもった。
年齢は、私と同じ。
「1960年に、満13歳」とあった。
私も1947年生まれ、1960年には、満13歳!
最後のところには、こうあった。
「主人公のRaimondは、のちに、著名な作家、哲学者となった」と。
ビクトリア州で、哲学科のある大学といえば、メルボルン大学しかない。
大きな大学だから、私と接点があったとは思わないが、その主人公に
たいへん興味をひかれた。
確率論的には、どこかで顔を合わせているはず。
実際、ハウス(カレッジ)の同窓生には、そののち映画監督になったのもいる。
オーストラリア医師会の副会長になったのもいる。
それぞれがそれぞれの分野で、大成している。
哲学者になったのがいたとしても、なにもおかしくない。
最後にこうある。
Raimond Gaita grew up to become an acclaimed author and philosopher.
Romulus Gaita returned to live at Frogmore and eventually remarried.
He died in May 1996.
He is buried in the local cemetery close to Christina.
ライモンド・ガイタは、著名な作家、哲学者となった。
父のロムラス・ガイタは、フログモアに戻り、再婚した。
彼は1996年の5月の死去。
クリスチーナ(元妻)の近くの墓地に埋葬されている。
実話であるだけに、また実名で映画化されているだけに、元妻の2人の娘たちと
その家族の了解も取り付けたらしい。
「Special Thanks(感謝の意を捧げる)」として、実名と家族名が、それぞれ
公表されている。
内容は、静かな、あのオーストラリアの広大な牧場を舞台とした、どこまでも
静かな映画。
星はつけたくない。
オーストラリアが好きな人には、たまらない映画と思う。
「こういう人生があり、こういう環境で育った子どももいるのだなあ」と思いたい人には、
お勧め。
当時のオーストラリアといえば、世界でも2番目にリッチで、生活が楽な国として
ランクされていた。
メルボルン市にしても、世界でもっとも気候が温暖な都市として、知られていた。
その裏で、こういう世界もあったのか・・・、と。
物語は、1960年から始まる。
私がオーストラリアへ渡る、ちょうど10年前ということになる。
・・・いろいろ考える。
話を戻す。
いくら想像力が豊かでも、本を読んだだけでは、オーストラリアのあの広大な
牧場の景色は思い浮かんでこない。
登場人物の、ちょっとした動作やしぐさにしても、文章を通して読んだら、
日本人のそれをそれに重ねてしまうかもしれない。
映画がよくて、文学がつまらないと書いているのではない。
それぞれに一長一短があるということ。
ときにこうした映画を通して、たがいに補完しあうということもある。
が、残念ながら、映画のアカデミック性は、まだまだ弱い。
大学に、「映画学部」とか、「映画学科」というのが生まれるまでには、
まだ相当の時間がかかる。
(演劇学部というのは、あるが・・・。)
が、だからといって可能性がないわけではない。
映画を観て、人生を学び、真理を探究するという時代も、すぐそこまで来ているように
私は感ずる。
(補記)
このところ劇場へ足を運ぶと、『20世紀少年』とかなんとかいう、
どこかあやしげな映画の予告編が流される。
どこかの宗教団体と結託してできた映画、という説もある。
あるいはどこかの宗教団体を批判した映画、という説もある。
どこか不自然、かつ不気味?
もし、どこかの宗教団体が、あの映画制作を裏で操っているとしたら、
これは社会問題ということになる。
そうでないことを願うが、私はああいう映画は、お金を出してまでは観に
行かない。
予告編だけを観た印象では、イヤ~ナ感じ。
だいたいあんな映画が、第3作までつづくということがおかしい。
劇場映画として、劇場まであがってくるのがおかしい。
かなりの資金力が裏で働かなければ、とうていできない芸当である。
あやしいぞ!
おかしいぞ!
一度、本気で調べてみたい!
(注※)Raimond Gaita(ライモンド・ガイタ)
Gaita attended St. Patrick's College, Ballarat (Victoria) Melbourne High School(Victoria), University of Melbourne (BA Hons, MA) and University of Leeds (PhD). He is married to Yael Gaita, who is a teacher at The King David School, where she teaches Hebrew. He has two children, Katerina and Eva and two step children, Dahlia and Michelle.
ガイタは、聖パトリックのカレッジ、Ballarat(ビクトリア)、メルボルン高校(ビクトリア)、メルボルン(オナーBA、MA)大学とリーズ(博士)大学に通う。彼はヤエルGaita(その人はデイビッド学校王の教師)と結婚。彼女はヘブライ語の教授。彼には、2人の子供たち、カテリーナとエヴァと2人の継子(Dahliaとミシェル)がいる。
(注)正しくは「レイモンド」だが、オーストラリアでは、「ライモンド」と発音する。
また(オナーBA)というのは、成績優秀者に与えられる学位をいう。
Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司
●基本的人生論
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DVD『ディア・マイ・ファーザー』を
ほめてばかりいてはいけない。
DVDを観ながら、こんなことを考えた。
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●裏切られる夫
映画のストーリーを簡単に説明する。
夫と妻、それに主人公の息子(ライモンド)の、3人家族。
しかし妻は、つぎからつぎへと男を乗り替え、浮気し放題。
あげくの果てには、夫の友人の弟ともできてしまう。
そしてその弟との間に、子ども(主人公にとっては、
種ちがいの妹)まで作ってしまう。
が、夫は、静かにそれに耐える。
離婚を考えることもない。
妻はときどき夫のところへ帰ってきて、体を求める。
夫は、どこか冷やかさを残しながらも、そういう妻の求めに応ずる。
そういう家庭環境の中で、主人公の子ども(ライモンド)は成長していく。
で、最後は、妻は睡眠薬を飲んで自殺。
友人の弟も自殺。
夫は心を病み、精神病院へ……。
何とも悲惨なストーリーだが、それがこの映画の(柱)に
なっている。
●疑問?
この映画を観ていて、第一の疑問は、「それほどまでに、よくできた男というのは、
本当にいるのか?」ということ。
あるいは、「それほどまでに妻を深く愛せる男というのは、本当にいるのか?」でも
よい。
つまり(できすぎ)。
この(できすぎ)のところが不自然。
しかしこの話は、実話である。
となると、俳優が悪いということになる。
映画に出てくる夫は、ハンサムで、かっこいい。
頭もきれそうだし、生活力もありそう。
何かのラブストーリーの主人公になっても、おかしくない。
私たちは映画を観るとき、俳優を通して、その俳優の心をさぐる。
で、そこで脳みその中で、電気的ショートが起こる。
「こんなすばらしい夫をもちながら、どうして?」と。
……ということで、私は、事実は、少し違うのではないかと思う。
ライモンドの実際の父親は、どこか頼りなく、どこか抜けたような、どこか覇気のない
男性ではなかったか、と。
映画に出てくるような、かっこいい男性ではなく、風采のあがらない、なよなよした
男性ではなかったか、と。
これには、理由がある。
●基礎的人間性
仮にあなたの妻が、外出しては、浮気を重ねていたとしよう。
そしてその浮気相手と、子どもまで、作ってしまったとしよう。
そのとき、あなたなら、どのように反応するだろうか。
それをほんの少しだけ、頭の中で想像してみてほしい。
こういうケースのばあい、大きく分けて、2つの選択肢がある。
(1) 妻と大喧嘩を繰り返し、離婚を覚悟する。
(2) 妻の浮気を認め、妻のしたいようにさせる。
が、主人公ライモンドの父親(夫)は、(2)のほうを選択する。
となると、ライモンドの父親は、ものすごい人生観の持ち主ということになる。
あるいは妻に対して、神々しいほどまでの愛を感じているということになる。
すべてを許し、すべてを忘れる……。
が、ここで大きな壁にぶつかる。
それほどまでの(愛)となると、並大抵の努力では、自分のものにすることはできない。
幾多の苦労に苦労を重ねて、人生の極致に達した人だけがもちうる愛と考えてよい。
それにそこに至るには、熟成期間というのが、必要。
もし私のワイフが、そんなことを繰り返していたら、私なら、即、離婚を考えるだろう。
40年近くもいっしょに暮らし、もうすぐ62歳になる私にしてもそうだ。
つまり、それが「基礎的人間性」ということになる。
どんな人にも、その人なりの人間性というものがある。
その人間性を支える、(基礎)というものがある。
その基礎なくして、突然、その人が、神々しい愛をもつなどということは、常識で
考えても、ありえない。
空腹でおなかをすかした幼児が、自分のもっているパンを、友人に分け与えるようなもの
である。
●偽善
いくつかの例をあげてみよう。
(例1) Kさんは、周囲の人たちから、高い評価を受けていた。
ボランティアとして、近所の独居老人宅を回り、その世話をしていた。
が、自分の親の介護になったとたん、豹変した。
親を虐待した。
親を食卓へ連れてくるときも、首をつかんだまま、廊下を引きずっていた。
(例2) Xさんは、有名なタレントだった。A国の難民救済運動家として活躍していた。
週刊誌や月刊誌にも、写真がよく紹介された。
が、あるカメラマンが、思わぬ光景を目撃してしまう。
情宣用の写真撮影が終わると、Xさんは、赤子を抱いた手や体を消毒薬で
消毒していたという。
つまり写真撮影のためだけに、難民の赤子を抱いていた。
(例3) Yさんも、このところ孤児救済のチャリティバザーを繰り返している。
ラジオに出ては、ボランティア活動の重要さを説いている。
しかしそこに至る実績はゼロ。
若い時から、ホームレスの世話をしたとか、食事の炊き出しをしたとか、
そういう背景と言うか、積み重ねがあれば話は別。
Yさんをよく知る某テレビ局のディレクターは、こう教えてくれた。
「Yさんは、いつも2時間くらいかけて、化粧をしています」と。
こういうのを、私たちの世界では、「偽善」と呼ぶ。
善人ぶりながら、自分への評価を高め、最終的にはそれを自分への利益へとつなげていく。
こうした偽善を見破るのは、簡単。
どこかに(ちぐはぐさ)を感じたら、それは偽善と判断してよい。
●ディア・マイ・ファーザー
DVD『ディア・マイ・ファーザー』に話を戻す。
この映画が実話なら、私はやはり、俳優の選択ミスということになる。
ライモンドの父親は、家具職人である。
鉄の棒を熱で曲げながら、いろいろな家具を作る。
そういう職歴の男性が、こうまで高邁(こうまい)な愛を、はたして
もちうるものだろうか。
(何も、職人という職業がどうのこうのと言っているのではない。
しかしあまりにも、高邁すぎる?)
それに若い。
映画の中では、30歳前後の男性として登場している。
つまり基礎的人間性が、それなりにあるとしても、映画で表現されているほどはない。
……という点で、不自然。
私はその(不自然さ)を感じてしまった。
あとの判断は、映画を観た人に任せる。
「林の言ったとおりだな」と思う人もいるかもしれない。
あるいは「林の言っていることは、まちがっている」と思う人もいるかもしれない。
一度、そういう視点で、あの映画を観てみたらどうだろうか。
家庭で観て、損はない映画である。
よい映画であることには、まちがいない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 ライモンド レイモンド ディア・マイ・ファーザー オーストラリア映画 基礎的人間性 基礎人間性 周囲人間性)
Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司
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