●8月29日
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暑いといえば、暑かった。
しかし全体としてみれば、異常なほど、
涼しい夏だった。
その夏も、もう終わり?
気象庁の発表によれば、9月に入れば、
今度は残暑がきびしくなるとか。
今日は、8月29日、土曜日。
振り返ってみるが、今月も、何かと
あわただしく過ぎていった。
それだけ。
何かをやり残したという実感が、
ほとんど、ない。
たった今、大きなあくびが、出た。
このあくびが、この8月を象徴して
いる。
「これではいけない」と、気を引き締める。
やりたいことは、そこに山のようにある。
が、どれから手をつけたらよいのか、
わからない。
今日も、忙しい1日になりそう。
がんばるしかない。
自分の体に、ムチ打って……。
みなさん、おはようございます。
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●老害問題(価値ある老人をめざして)
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やがて……というより、もうすぐ、「老害」
という言葉が、日常的に使われるようになる。
現に今、若い人たちの老人を見る目が、
大きく変わりつつある。
「そこにいる老人」から、「そこにいては
いけない老人」へと大きく変わりつつある。
彼らの目に映る老人の姿そのものが、ちがってきた。
今後、私たち老人を見る、若い人たちの目が、
きびしくなることはあっても、やさしくなることはない。
が、ともすれば私たちは、老人の立場で、
自分たちの未来をどう守ればよいか、
それだけを考えやすい。
しかし本当の問題は、高齢化社会を
どうすれば守れるかではない。
どうすれば若い人たちに受け入れられる老人に、
私たちがなれるか。
それが本当の問題。
こうした問題を総合して、「老害問題」と、
私は呼ぶ。
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●健康な老人
もう30年近くも前のこと。
当時の三世代同居家庭の若い母親たちを対象に、私は、
祖父母(=同居の舅、姑)に何を望むかというアンケート調査をしたことがある。
その結果、第一の答が、「健康であること」であった。
(ついでに、第二が、「子どもの教育に口出しをしないこと」。)
今、調査をしても、同様の結果が出ると思う。
私たち老人族は、第一に、健康でなければならない。
そのための努力を怠ってはいけない。
老人の問題は、その老人だけの問題ではない。
家族全体の問題である。
「迷惑をかけないからいい」という問題ではない。
(老人が同居している)ということ自体が、みなに迷惑をかけている。
もっと言えば、私たちが老人であること自体が、みなに迷惑をかけている。
つまり老人の問題は、自分のためというよりは、家族全体の「和」
のための問題と考えるべき。
こんなことを言う人がいた。
「親の介護が3年つづくと、兄弟姉妹はメチャメチャになる」と。
先日、健康診断に行ったら、そこにいた看護士の女性が、そう教えてくれた。
つまり介護問題はこじれやすく、それが原因で、兄弟姉妹関係がメチャメチャになる。
そういうケースが多い、と。
老人というのは、できるだけギリギリまで健康でいて、死ぬときは、さっさと死ぬ。
それが理想ということか?
要するに、家族には迷惑をかけない、ということ。
老人問題は、それに始まって、それに終わる。
……とまあ、書くのは簡単なことだが、実際には、そのようにうまくはいかない。
「死ね」と言われても、死ねるものではない。
さりとて生きていくのも、むずかしい……。
多くの老人は、最後は、「死ぬこともできないから、生きている」という状況に
追い込まれる。
わかっていても、どうしようもない。
それ以上に、私たちは無力。
加齢ともに、さらに無力になっていく。
●勤労寿命
人間には3つの寿命がある。
(1)絶対寿命、(2)平均寿命、それに(3)健康寿命。
絶対寿命というのは、その年齢を超えて生きることはないという寿命をさす。
現在、満130歳が、絶対寿命と言われている。
それ以上の年齢を生きた人はいない。
平均寿命については、すでにみなさんご存知のとおり。
問題は、健康寿命。
ふつう平均寿命から、10歳を引いた年齢が、健康寿命と言われている。
満84歳が平均寿命なら、健康寿命は、満74歳ということになる。
死ぬまでの、最後の10年は、病魔との闘いということになる。
そのため平均寿命を延ばすことも大切だが、健康寿命を延ばすことのほうが、
もっと大切。
健康というのは、(病気のない)状態をいう。
もう少しつっこんで言えば、(死の恐怖を感じない)状態をいう。
で、さらにこれら3つに、もうひとつ寿命を加えるとしたら、(4)勤労寿命というのも
ある。
いくら健康でも、庭いじりと、孫の世話だけで、老後を過ごせといっても無理。
老人には老人の生きがいが必要。
(生きがい)なくして、長い老後を生き延びることはできない。
その(生きがい)となると、働くことを考えるのが、いちばんわかりやすい。
働くことによって、私たちは社会とのつながりを維持することができる。
その働ける限界を、「勤労寿命」という。
勤労寿命は、健康寿命からさらに10年を引いた年齢をいう。
健康寿命が、満74歳なら、満64歳ということになる。
●徴兵制
これから書くことは極論ということは、私もよく承知している。
あくまでもひとつの(例)として理解してほしい。
その上で、私は、こう考える。
現在、世界で、徴兵制を敷いていない国は、そうはない。
とくにこのアジア地域で、徴兵制を敷いていない国は、この日本だけ。
だからといって、徴兵制を敷けということではない。
それに賛成しろというのでもない。
しかしこの日本が、かろうじて平和を維持できているのは、日本人がそれだけ平和的
であるからではない。
平和を守っているからでもない。
さらに言えば、日本人のもつ哲学観が、それだけすぐれているからでもない。
戦後、65年の長きにわたって、日本が平和を守れたのは、たまたまアメリカ軍という、
世界最強の軍隊が、日本に駐留しているからにほかならない。
あるパキスタン人(友人)は、こう言った。
「日本が核武装していないだってエ? とんでもない。そう思っているのは、君たち
だけだ。君たちの国には、アメリカ軍が駐留しているではないか」と。
つまり日本以外の世界の人たちは、「日本は核武装している」と、思っている。
核武装していないと思い込んでいるのは、この日本人だけ。
『核の傘』というのは、そういう意味である。
日本の平和というのは、言うなれば薄氷の上に立った楼閣のようなもの。
さらに言えば、日本という国は、丸裸のうさぎのようなもの。
で、こうした事実を冷静に積み重ねていくと、その先に浮かび上がってくるのが、
「徴兵制」ということになる。
その徴兵制について、たとえばこんな徴兵制はどうか。
「満60歳になったら、5年間、徴兵義務を負う」と。
これに対して、「老人に戦争は無理」と思う人も多いかと思う。
しかしそれは、使用する武器の問題。
年齢の問題ではない。
老人用に、携行する武器を軽くするとか、いくらでも方法はある。
今では戦争の仕方も、大きく変わってきた。
戦闘機は無理でも、戦車くらいなら、私でも操縦できる。(……と思う。)
それに若い人たちを戦場へ送るよりは、はるかに合理的。
若い人たちには、(未来)という人生がある。
が、私たち老人には、すでに(過去)という人生しかない。
若者が死ぬか、老人が死ぬかと問われれば、私たち老人が死んだ方がよい。
もし「満60歳になったら、5年間、徴兵義務を負う」ということになったら、
私たち老人を見る若い人たちの目も、少しは変わってくるのではないだろうか。
徴兵制を例にあげたが、これはあくまでも(例)。
老人たちにも、しなければならないことがある。
できることがある。
それが(老人)ということになる。
●老害問題(私たちが老害にならないために……)
私は(老害問題)を考えるたびに、そこにあのユダヤ人問題を重ね合わせてしまう。
第二次大戦前のドイツと、現在の日本は、よく似ている、と。
戦前のドイツには、ユダヤ人たちが、1千万人単位で住んでいた。
そういうユダヤ人たちが、ドイツ社会に同化することもなく、自分たちの宗教をもち、
自分たちの言葉で話した。
ドイツの経済を牛耳るようになった。
もちろんドイツが迎えた人たちではなかった。
そのほとんどは、今で言う、違法難民であった。
その結果、こうした事実が、あの忌まわしい、ユダヤ人虐殺へとつながっていく……。
問題は、あれほどまでに高い文化を誇った、ドイツで、そういう虐殺事件が起きたという
こと。
多くの日本人は、「日本人は、あんな残虐なことはしない」とか、「日本人の私たちは
ちがう」と思っている。
しかし本当に、そうか?
そう断言できるか?
ユダヤ人虐殺事件はともかくも、これからの日本で、似たような事件が起きないか、
私はそれが心配でならない。
3人に1人が、75歳以上の後期高齢者になったとき、ひょっとしたら、老人排斥運動
が始まるかもしれない。
表立った行動をする人はいないだろうが、人々の心の奥深くで、それは静かに進行する。
現に今、医療機関において、後期高齢者に対する治療拒否などの問題が、起きつつある。
●やるべきことを見つけよう!
老人たちよ、けっして今の立場に安住してはいけない。
安住したまま、若い人たちを、上から見下ろしてはいけない。
老人たちだけの別世界を作り、自分たちをその中に隔離してはいけない。
たとえばこんな光景を想像してみるとよい。
あるみやげものセンターに、一台の大型のバスが止まった。
見ると、60歳以上の老人たちが、ゾロゾロとバスを降りてくる。
どこかの観光地を回ってきた団体である。
一方、みやげものセンターでは、20代、30代の若い人たちが、声を張り上げて、
こう連呼する。
「いらっしゃいませ!」と。
せわしく動き回りながら、老人たちの落とすお金を、ねらっている……。
こういう光景が、ごく日常的なものになったとき、はたして私たちは、それを
望ましい社会の姿と言ってよいのだろうか。
もちろん老人には老人の言い分がある。
それはよくわかる。
わかるが、しかしそうした言い分だけでは、若い人たちが感じ始めている矛盾を、
溶かすことはできない。
老人は老人で、自分たちが生きてきた人生を、若い人たちに還元していかねば
ならない。
「命」を、還元していかねばならない。
「還元」という言葉は、藤沢市に住むI先生が教えてくれた言葉である。
すばらしい言葉だ。
知恵や知識を伝え、人生の先輩として、どう生きるべきかを伝えていく。
それをしてはじめて、私たちは、「老人」と胸を張ることできる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 命の還元 老人問題 はやし浩司 老害)
2009年8月29日土曜日
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