●8月6日(The Day of A-Bomb in Hiroshima)
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2009年8月6日。
今日は原爆記念日。
朝、8時15分に、サイレンが鳴った。
「ああ、そうだった」と思って、一瞬、息を止めた。
先日、豊田町の(ゆや会館)で、原爆資料展を開いていた。
そのとき見た、痛々しい写真が、脳裏を何度もかすめた。
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●もし……
ナチスドイツによる、ユダヤ人大量虐殺を知って、多くの日本人は、こう思う。
「私たち日本人は、ああいう残酷なことはしない」と。
あるいはアメリカ軍による原爆投下を知って、多くの日本人は、こう思う。
「日本人は、ああいう爆弾は使わない」と。
しかし本当に、そうか?
自信をもって、あなたは、そう言い切ることができるか。
もしこの日本に、100万人単位のアジア系流民たちが住むようになり、
日本の経済を牛耳るようになったとしたら……。
日本の文化に同化せず、彼らの宗教を信じ、彼らの言葉を話したとしたら……。
そしてあなたの隣に住み、あなたの家より立派な家に住むようになったとしたら……。
100万人なら、まだよい。
それが200万人となり、300万人となったとしたら……。
それでもあなたは、「私たち日本人は、ああいう残酷なことはしない」と、
自信をもって言い切れるだろうか。
原爆についてもしかり。
敗戦直前、日本軍も原爆の開発をもくろんでいた。
ドイツへ研究者も派遣していた。
もしあのとき日本軍が原爆をもっていたとしたら、日本軍は容赦なく、それを使って
アメリカ軍を攻撃していただろう。
●日本の現実
こうした残虐な行為を止めるゆいいつの方法があるとすれば、私たち1人ひとりが、
高い文化性をもつことでしかない。
高い人間性でもよい。
ふつう程度の文化性や、人間性では、足りない。
現に、シラーやゲーテ、ベートーベンを生んだドイツですら、それを食い止めることは
できなかった。
ジェファーソンやワシントン、リンカーンを生んだアメリカですら、それを食い止める
ことはできなかった。
日本に、こうした世界に誇ることができるような賢人がいるか?
今までに、いたか?
残念ながら、答えは、NO。
まず、この現実に、目を向けなければならない。
つらいことだが、まず、それを認めなければならない。
●一億、総ギャグ化
が、現実は、逆。
日本人は、ますます逆の方向に進みつつある。
その一つの例として、あのお笑いタレントをあげたい。
どこかの県の知事になった、あのお笑いタレントである。
(こう書くと、不愉快に思う人が多いことは、認める。
先日も、それについて書いたら、私のBLOGに、「お前は、何様のつもりか?」と
書き込んできた人がいた。)
何もお笑いタレントが、政治家になってはいけないと言っているのではない。
また、その政治家が悪いと言っているのではない。
彼とて、有権者に選ばれたから、知事になった。
あの県では、長い間、プロの政治家(?)による汚職事件が、相次いだ。
そういういきさつは、ある。
が、それでも、つまり全体として見たとき、日本人は今、一億が、総ギャク化している
としか、私には思えない。
あろうことか、当の県知事は、「総裁候補にしてくれるなら、衆議院議員に鞍替えしても
いい」というようなことまで言った。
こうした動きを見ていると、日本人が本来もっていた、あの(まじめさ)そのものが、
どこかへ消えてしまったとしか思えない。
その流れの中で、お笑いタレントが、府知事になったり、県知事になったりする。
そういう現実を、だれも、おかしいと思わない。
私は、それが「おかしい」と言っている。
誤解があってはいけないので、再度、確認しておきたい。
人生哲学を語りながら、その中に(ジョーク)があるなら、それはそれでよい。
しかし今の日本には、(ジョーク)ばかりで、人生哲学がない。
きちんとした政治論をもっている人が、たまにジョークを口にするのはよい。
(笑い)も、その中から、生まれる。
たとえば県知事になるにしても、それだけの実績があるならよい。
民衆とともに歩きながら、少しずつ積み重ねあげてきたという実績である。
が、その実績がない。
ないまま、ある日突然、知名度だけを武器に、中央からやってきて知事になる。
この日本では、まじめに生きようとすればするほど、バカらしさを覚える。
社会そのものが、そういうしくみになってしまった。
その一例として、お笑いタレントをあげた。
私は、それが問題だと言っている。
●悪人の餌
話は変わるが、たまたま数日前、1人の女優が覚せい剤所持と使用で、逮捕された。
先に、夫が逮捕され、その夫が、妻(=その女優)も使用していたことを認めた。
その女優は、ある公的機関の、「覚せい剤撲滅運動」のポスターにも顔を出している。
これはほんの一例だが、こうした矛盾は、いたるところにある。
たとえば難民救済運動。
どこかの有名タレントが、ある日を境に、突然、慈善運動家に変身したりする。
それ以前に、たとえば、若いときからボランティア活動をつづけてきたとか、
ホームレスの人たちに炊き出しをしてきたとか、そういう実績があれば、話もわかる。
そういう実績もないまま、「ある日を境に、突然」である。
しかも将棋で言えば、いきなり「王手!」。
その運動のトップとして、君臨する。
雑誌やテレビを通して、さも私は善人でございますといった、様子をしてみせる。
私は、それがおかしいという。
おかしいだけならまだしも、本当に困っている人に対して、失礼。
許しがたい冒涜と断言してもよい。
そういう知名人たちは、一見助けるフリをしながら、困っている人たちを、
その実、食い物にしている。
どこかの県の知事になったお笑いタレントにしても、その疑いがないとは言わない。
(もちろん、そうであると、断言しているわけでもないが……。)
が、ふつうの常識のある人なら、自分に恥じて、つまりおこがましくて、そういうことは
できない。
要するに、私は、「仮面」には注意したほうがよいと言っている。
悪をなすことは、悪いことだが、悪人を助けることは、もっと悪い。
昔、恩師の故松下哲子先生は、いつも、私にこう言っていた。
『悪人の餌にだけは、なってはいけませんよ』と。
●高い文化性
高い文化性にせよ、人間性にせよ、それを養うには、(思考)しかない。
思考こそが、人間が人間である、ゆいいつの証(あかし)ということになる。
また思考によって、人間は人間であることを保つことができる。
数日前もワイフとこんな会話をした。
「もし裸の若い女性が部屋の中に入ってきて、こう言ったとする。
『抱いて!』と。
すてきな女性だ。
あたりにはだれもいない。
そのとき、それを断るというのは、ふつうの男なら、かなり勇気のいることだ」と。
あるいは道で、大金の入った財布を拾ったときでもよい。
賄賂(わいろ)を、テーブルの前に、ドカッと積まれたときでもよい。
そういうとき、それを断る勇気が、あなたにはあるだろうか。
つまりそういうときに、私たちは、自分の文化性を試される。
人間性を試される。
そのとき、「私は、まちがったことはしない」と言って、それを断ることができれば、
それはそれでよい。
そうでないなら、言葉はきついが、「偉そうなことは言うな」となる。
つまりその延長線上に、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺がある。
広島、長崎への原爆投下がある。
●もし……
「戦争、反対!」「原爆、反対!」と叫ぶのは、簡単なこと。
大切なのは、それを口にする前に、高い文化性と、人間性が、自分の中にあるかどうか
ということ。
それがあってはじめて、私たち日本人は、世界に向かって、「日本人は平和を
愛する国民です」と言うことができる。
世界の人たちを納得させることができる。
戦後、たまたま日本が平和を守れたのは、日本人が、それだけ平和を愛する
国民だったからではない。
また平和を守ったからでもない。
アメリカ軍という世界最強の軍隊が、日本に駐留していたから、である。
もしアメリカ軍が駐留していなかったら、日本は繰り返し、戦禍にのみ込まれていたはず。
スターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・K国……。
そういう国々が、日本に対して報復戦争をしかけてきたはず。
そのつど日本は、メチャメチャになっていたはず。
また報復されてもしかたないようなことを、日本軍は、戦争を通して、してしまった。
アメリカにしても、最後の最後まで、「Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)」を
合言葉にしていた!
仮にあのとき日本軍が原爆をもっていたとしたら、一時的には優位になっていたかも
しれない。
が、今ごろは、北海道から沖縄まで、日本は完全な廃墟と化していたにちがいない。
「日本」「日本人」という言葉すら、この地球上から消えていたかもしれない。
それが現実。
まぎれもない現実。
8月6日。
今年もまた、去年と同じようなことを考えた。
(追伸)
ついでに一言。
あどけない小学生に、平和宣言など、させてはいけない。
平和を守るのは、私たちおとなの責務。
こういう場で子どもを利用するのは、どこかのテロ組織が、自爆攻撃用にと、
子どもを利用するのと同じ。
「平和目的ならいい」「戦争目的は、だめ」というのは、おとなの勝手な論理に
すぎない。
あるいはどこでどう、線を引くというのか?
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6年前に書いた原稿を、そのまま紹介します。
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●子どもによる平和宣言(Declaration for Peace by Children)
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今年も、広島、長崎で、子どもを使った
平和宣言がなされた。
それについて、私はかねてより、「子どもに
そんなことをさせてはいけない」と書いて
きた。
平和を守るのは、おとなである私たちの
責任。
子どもたちの未来を守るのも、おとなで
ある私たちの責任。
子どもを使うのは、卑怯だ!
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8月8日、韓国で奇妙な事件が起きている。
どこかに立てこもった一群の中の子どもたちが、韓国の大統領である、イ大統領を
口汚く、ののしっているという。
文章を簡潔にして、紹介させてもらう。
+++++++++以下、朝鮮N報++++++++++++
「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」
先月23日、体験学習のためソウルにやってきた地方の小学生たちが、曹渓寺(ソウル市鍾路区)に立てこもっている、「狂牛病(BSE)の危険のある米国産牛肉の全面輸入に反対する国民対策会議」(以下、対策会議)の芳名録に書いた、文や動画が公開され、韓国社会は衝撃を受けた。
この小学生たちは10歳前後、小学3~5年生の子どもたちだった。「立てこもっている人たちがけしかけた」という学校側の主張と、「自発的に書いた」という対策会議側の主張は食い違っている。
これについては警察の捜査で明らかになるだろう。
+++++++++以上、朝鮮N報++++++++++++
少しわかりにくい話なので、解説してみる。
現在、ソウルの曹渓寺というところに、アメリカ産の牛肉の輸入に反対する団体が、立てこもって、それに反対しているという。
その寺の芳名録に、その小学校を訪れた子どもたちが、芳名録に書き込みをした。
それが冒頭にあげた、文章である。
「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」と。
これについて、(1)立てこもっている人たちが、子どもたちにけしかけた。(2)子どもたちが自主的に書いたと、意見が分かれているという。
が、どちらであるにせよ、つまりけしかけられたにせよ、自主的に書いたにせよ、その背後には、(おとなたちの意思)が、感じられる。
少なくとも、こうした言葉は、子どもたちだけの発想では生まれない。
そこで日本の子どもたちによる、平和宣言。
私は、平和宣言がまちがっているというのではない。
それ自体は尊いものであり、世界に向かって宣言して、当然である。
しかし、子どもを使って、それをしてはいけない。
5年前(03年)に、こんな原稿を書いたことがある。
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●子どもによる平和宣言
よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、平和を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……というより、ほとんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たまたま、この原稿を書いている今日も、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(03年2月8日)があった。疑問がないわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解できる。
しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそういうふうに利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、戦争だとか、平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思っているに決まっている。
しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、戦争のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっている人には、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ性(さが)は、そんな甘いものではない。
たとえば戦後、つまりこの58年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、日本人がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。日本が、戦後、58年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカという強大な軍事力をもった国に、保護されていたからにほかならない。
もし日本がアメリカの保護下になかったら、60年代には、中国に。70年代には、韓国や北朝鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまっていなかった。フィリッピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そういうことをされても文句は言えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。
しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めていない。中には、今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を容認するわけではないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。
わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというのは、まったくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、もろく、こわれやすい。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和であるとしても、その底流では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いている。つまり、平和を口にするものは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦う意思、その戦う勇気のあるものだけが、平和を口にすることができる。
子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくらい、バカげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみればよい。子どもに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言でもよい。環境保護宣言でもよい。
そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういうことを言わせてはいけない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守ります」などと言っているという。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかるが、そんなことはありえない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。
そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見ると、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、オーストラリアの子どもたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たことがあるとでもいうのだろうか。残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気でさせる国というのは、全体主義国家か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。
「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎのように話している。
「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべったりできなかったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよかったと思っています」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の声である。
子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私たちおとなの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)
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さらに進むと、自爆攻撃がある。
テロリストたちは、まだあどけない子どもを利用して、アメリカ軍などに対して、ゲリラ攻撃をしかけている。
一度、その指導風景がテレビで紹介されていたが、指導者らしき男は、子どもたちに向かってこう説明していた。
「死んでも、この世とまったく同じ世が、向こうの世界にある。だから恐れるな」と。
もしそうなら、テロなどしても意味はないということになるのだが、それはともかくも、子どもを使うということは、そういうことをいう。
平和宣言だからよい。
ゲリラ戦だからよくない。
そういうふうに線引きすること自体、まちがっている。
それこそ「平和のための戦争」ということになれば、どんな戦争だって、
肯定されてしまう。
どうであるにせよ、おとなたちは、自分が信ずる「正義」に従って、子どもを利用する。
それぞれのおとなたちは、それぞれの思惑をもって、子どもを利用する。
つまり「正義」ほど、いいかげんなものもない。
私はそれがおかしいと言う。
それがわからなければ、もう一度、最初に引用した、朝鮮N報の記事を読みなおしてみることだ。
(子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子供による平和宣言 子どもの平和宣言)
(補記)
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この原稿を書いて、4か月になる(03年)。いろいろな原稿を書いているが、4か月前に書いた原稿という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言させることに、全面的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで平和の尊さを確認させるという点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」とは、どうしても思えない。
いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国から数万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。
「私たちは、○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学生による平和宣言などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。
繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しかしその平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっていては、平和は絶対に守れない。
同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言いません」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとなったら、戦争も辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」と逃げてまわるのは、平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。
また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたのは、それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもない。日本がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領され、その保護下にあったからである。
私は60年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、感情というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変わっていない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜ぶ韓国人はいても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて平和宣言をする。そのオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が戦争を求めているのではない。どうか誤解のないように!)
今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間に、5~6発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験もするかもしれないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。そうなれば日本は、もうおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、生活をしなければならない。
小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私の悪いクセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分たちの政治的エゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの人権がある。その人権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、猿まわしのサルのように利用してはいけない。
(030628)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
平和論 日本の平和 日本人 広島 原爆の日 はやし浩司 子どもによる平和宣言 子供による平和宣言)
2009年8月8日土曜日
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