2009年8月17日月曜日

*My Elder Brother, Junzi

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 彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   17日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【兄、準二のこと】

●兄のこと

 私が「兄のことを書こうか?」と提案すると、ワイフは、すかさず、
「書いたら」と。
「このまま何も書き残さなかったら、あなたの兄さんは、本当に消えてしまうわ」と。
そう、本当に消えてしまう。

 結婚をしていない。
子どももいない。
おそらく生涯、「女」すら知らなかった。
一度だけだが、この浜松へ遊びに来たとき、私は兄をトルコ風呂へ連れていこうとした。
兄に「女」を経験させてやりたかった。
しかしそのもくろみは、はかなくも失敗した。
それについては、いつかどこかで書くことになるだろうと思う。
が、ともかくも私の兄は、そういう兄だった。

 まったく頼りなく、まったくふがいなく、まったくどうしようもなかった。
私の兄は、そういう兄だった。

●記憶

 私より9歳年上だった。
そのこともあって、私には兄といっしょに遊んだ思い出が、ほとんどない。
一度とて、ない。
母は兄を嫌っていたし、それがそのまま私の心になっていた。
私が中学生になるころには、すでに私は兄というより、兄の存在を
負担に感ずるようになっていた。

 今から思うと、兄が見せていた一連の症状は、自閉症のそれだった。
事実、晩年、グループホームへ入居してから、自閉症と診断されている。
が、当時は、「自閉症」という言葉すらなかった。
そういう兄を、母は、「家の恥」と考えていたようだ。
母は親意識が強く、そのこともあって、兄を家の中に閉じ込めるようになった。
「外で遊ばせると、みなにいじめられるから」というのが、その理由だった。
友だちと遊ぶことさえ、禁じた。

●M町

 私が生まれ育った岐阜県のM町は、昔から和紙の生産地として、よく
知られている。
由緒ある町というよりは、気位の高い町で、M町の人たちは、M町以外の
町を、「下」に見ていた。

 たとえば生活ができなくなって、M町から出て行く人を、M町の人たちは、
「出ていきんさった(=出ていった)」という言葉を使って、軽蔑した。
M町では、「出ていきんさった」という言葉は、そのまま負け犬を意味した。
だれがそう教えてくれたわけではないが、私は子どもながらに、その意味を
よく知っていた。

 私の実家は、そのM町の中心部にあった。
祖父の時代からの自転車屋で、祖父の時代には、現在のスポーツカー専門店
のように、華やかな商売だったようだ。
祖父は祖父なりに、財産を築いた。

●負担

 話は飛ぶが、私が高校生のとき、こんなことがあった。
近視が進んだ兄を連れて、岐阜の町へ行った。
M町から岐阜の町までは、当時、「美濃町線」と呼ばれる電車が走っていた。
チンチン、ゴーゴーと音を出して走るところから、私たちは、「チンチン電車」
と呼んでいた。

 私は兄を連れて、その電車に乗った。
母に言いつけられて、そうした。
私にはいやな一日だった。

M町にも、いくつかメガネ屋はあったが、度数を選んでかけるだけの簡単な
メガネ屋ばかりだった。
兄に合うメガネがなかった。
それで私は兄を岐阜の町まで連れていった。
電車で、1時間半ほどかかった。

 そこでのこと。
いろいろな検査がつづいたが、兄はすでにそのころ、まともに返答できる
だけの能力はなかった。
メガネ屋の男の質問を、私が兄に伝える形で、私が間に立った。
そのときのこと。

 メガネ屋の女性が、私にふとこう聞いた。
「この人は、あなたの兄さんですか」と。
私は突然の質問にあわてた。
で、そのままこう口走ってしまった。

 「いいえ、ぼくの兄ではありません。うちで働いている小僧さんです」と。

●自転車屋

 兄がなぜ、あのような兄になってしまったかについては、理由はよくわからない。
覚えているのは、兄は、いつも父や母に、叱られていたということ。
自転車屋といっても、店先は、全体でも7坪もなかった。
そこに20台前後の自転車を並べ、その隙間で、父や兄は、自転車を組み立て、
修理し、そして売っていた。

 兄にとっては息の詰まるような職場だったにちがいない。
兄の症状が悪化したのは、兄が中学校を卒業してから後のことではないか。
それまでの兄は、アルバムを見る範囲では、ごくふつうの兄だった。
何枚かみなと笑って写っている写真もあるが、どれも明るく、さわやかな
笑顔をしている。

●飛び降りる

 そんなある日、……少し話が過去に戻るが、何かのことで、私が兄を
いじめたことがある。
何をしたかは覚えていない。
何かの意地悪をしたと思う。
私が小学3、4年生のころだった。

言い訳がましいが、私は腕白な子どもだった。
また当時は、弱い者いじめなど、日常茶飯事。
罪の意識は、まったくなかった。
戦後の混乱期ということもあった。
家庭教育の「か」の字もない時代だった。
少なくとも、私の家は、そうだった。
私はその中で、その時代の子どもとして、育った。

 そのとき、兄は、あの二階の階段の最上段から、下へ飛び降りた。
止める間もなかった。
飛び降りるといっても、身を守る姿勢をまったく取らないまま飛び降りた。
そのまま1階の板間まで、ドスン、と。
 私はそれを見て、驚いた。
驚いて母のところへ走った。
「準ちゃんが、階段から落ちた!」と。

 が、母は、意外なほど、冷静だった。
まったくあわてるふうでもなく、こう言って、吐き捨てた。
「準ちゃんは、わざと、そういうことをするでエ」と。

●犠牲

 全体として、あのころの過去を振り返ると、兄は、「家」の犠牲になった。
その一言に尽きる。
 家にしばられ、家から一歩も、外へ出ることを許されなかった。
母が出さなかった。
私のほうから理由を聞いたわけではなかったが、母はいつも口癖のように
こう言っていた。

 「準ちゃんは、みなにいじめられるから」と。
そしてこうも言った。
「準ちゃんは、生まれつき、ああいう子だった」と。

つまり生まれつき、問題のある子どもだった、と。
そう、兄は、いつも孤独だった。
母からも、見捨てられていた。

●代償的過保護

 少し専門的な話になる。
そういう兄の話をすると、当時の母と兄の関係を知る人は、みな、こう言う。
「浩司君(=私)、あんたは、まちがっているよ。
お母さん(=私の母)は、兄さんをかわいがっていたよ」と。

 しかしこれはうそ。
最近の発達心理学での言葉を使えば、「代償的過保護」ということになる。
一見「過保護」だが、「子どもを自分の支配下に置き、自分の意のままに操る
こと」を、代償的過保護という。

 過保護には、その底流に、親の愛がある。
しかし代償的過保護には、それがない。
そこにあるのは、親のエゴ。
加えて、私の母は、親意識が、人一倍、強かった。

●「お姫様」

 母は、その年齢になるまで、実家のK村では、「お姫様」と呼ばれていた。
実家は農家だったが、そのあたりの農地を支配していた。
大地主だった。
兄弟は母も含めて、13人。
母は9番目前後に生まれた、最初の女の子だった。
だから母は、生まれながらにして、わがままいっぱいに育てられた。……にちがいない。
当時のことを知る人が、私にこう教えてくれた。
 「豊子さん(=私の母)は、お姫様と呼ばれていましたよ」と。
農家に生まれ育ちながら、結婚するまで、土を手でいじったことは一度もなかった。
いつだったか、母が自慢げにそう話してくれた。

 そのお姫様が、自転車屋の跡取りの父と結婚した。
二度目の見合いで結婚を決めたという。
実際には、私の祖父と、母の父親との間で、結婚が決められてしまった。
つまり母を見そめたのは、私の父ではなく、祖父ということになる。

 そう、母は、お姫様だった。
自転車屋という商人の家に嫁ぎながら、生涯にわたって、自分の手を
油で汚したことはない。
一度もない。
ドライバーを握ったことさえ、ない。
これについても、私がとくに聞いたという記憶はないが、母は、よく
こう言った。

「わっち(=私)はなも、結婚したとき、じいちゃん(=祖父)が、
『女は、店に出るな』と言いんさったでなも(=言ったから)」と。
つまり祖父の言いつけを守って、店には出なかった、と。

●斜陽

 私が高校生になるころには、私の家はすでに斜陽の一途をたどっていた。
近くに大型店ができ、そこで自転車を売るようになった。
もう少し早く、私が中学生のころには、そうなっていた。
祖父はそのころ引退し、道楽でオートバイをいじって遊んでいた。
もちろん収入はない。

 私は祖父の威光が、年々、薄くなっていくのを感じていた。
しかしそれは私にとっては、たまらなく、さみしいことでもあった。
祖父あっての、「林自転車屋」だった。
それが世間の目だった。
私にも、それがよくわかっていた。

●父、良市

 父は、もともとは学者肌の人だった。
ふだんは静かで、暇さえあれば、黒い、油で汚れた机に向かって、何かを
書いていた。
いつも書いていた。

 が、酒が入ると、人が変わった。
今で言う、「酒乱」である。
酒が入ると、大声を出し、家の中で暴れた。
家具を壊し、食卓をひっくり返した。

 私が5、6歳のときには、すでにそうなっていた。
私には、暗くて、つらい毎日だった。
父を恨んだ。
酒をうらんだ。
父に酒を売る、酒屋をうらんだ。

●レコード

 兄のゆいいつの趣味は、レコード集めだった。
わずかな小遣いを手にするたびに、兄はそのお金をもって、近くのレコード店へ
足を運んだ。

 当時は表(A面)に一曲。
裏(B面)に一曲だけの、シングル盤というのが主流だった。
それでも値段は300~400円前後だったか?
うどんが、150円前後で食べられた時代だったから、けっして安い趣味ではなかった。
が、兄は、私が高校生のときには、すでに数百枚のレコードをもっていた。
そのレコードを、一枚ずつていねいに分類し、それを1ミリの狂いもなく、きれいに
並べてしまっていた。

 私はすでにそのころ、兄のレコードには手を触れていけないことを知っていた。
たった一枚でもレコードが抜けただけで、兄は、それに気づき、パニック状態になった。
動かしても、兄は気づいた。
「レコードがない」と、ボソボソと言いながら、混乱状態になった。
そんなわけで、兄のレコードのあるその一角は、聖域というか、近づくことさえでき
なかった。

 その一方で、兄は、レコードの最初の一小節を耳にしただけで、即座に、その曲名と
歌手の名前を言い当てることができた。
神業にちかいものだった。
特殊なこだわりと、才能。
今から思うと、まさにそれが自閉症によるものだった。

●大学生

 兄との思い出は、そういうこともあって、ほとんどない。
兄は兄で、私の知らない世界で生きていた。
一方、私は三男という末っ子のよさをフルに利用して、思う存分、自由に生きた。
「自由」というより、「放任」だった。

 長男の賢一は、私が5歳のときに、日本脳炎で他界している。
つづいて兄が生まれ、姉が生まれた。
その姉とも、5歳、年が離れていた。
姉と私の間に、もう1人兄が生まれたが、生まれると同時に、死んだ。

そういうこともあって、母も、私には手が回らなかった。
今から思うと、それがよかったのかもしれない。
私は毎日、あたりが真っ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んだ。
学校から帰るときも、やはり家に着くのは、とっぷりと陽が暮れてからだった。

 私の家には、私の居場所すらなかった。
それに父の酒乱があった。
今でも私は夕焼けを見ると、言いようのない不安感に襲われる。
その時刻になると、父が酒を飲み、通りをフラフラと歩いていた。
私にはつらい少年時代だった。

 私ですらそうだった。
いわんや、兄をや。

●金沢へ

 私はそのあと大学生となって、金沢に移った。
母は、「国立でないと、大学はだめ」と、いつも言っていた。
当時は、国立と私立では、学費が、まるでちがっていた。
私が通った金沢大学のばあい、半期(6か月)ごとに、学費は6000円。
月額1000円だった。
一方、私立は、たとえば私立の歯学部に入学した友人がいたが、入学金だけで、
300万円。
私はその額を聞いて、それこそ度肝を抜かれるほど、驚いた。
「300万円!」と。
 その額は、私には理解できないものだった。

 その学費についても、母は口癖のようにこう言った。
「みんなが苦労して作ったお金だ」と。

●恩着せ

 私の母の子育ての基本は、「恩着せ」だった。
そのつど私に、恩を着せることで、私を縛った。
兄や姉に対しては、どうだったかは知らない。
しかし私には、そうだった。

 「産んでやった」「育ててやった」と。
私が大学生になると、「学費を出してやる」「出してやった」と。
が、それにはいつも別の修飾語がついた。

 「このお金を作るのに、どんだけ(=どれほど)、苦労したかわからない」と。
そしてそのつど、その苦労話を、ことこまかく説明した。

●姉

 私には5歳違いの姉がいる。
その姉とは、よく遊んだ。
遊んだといっても、たがいの間には、しっかりとした垣根があった。
当時は、男児が女の遊びをするということだけでも、ありえないことだった。
住む世界がちがった。

 それに姉は、私とは別の世界に生きていた。
お琴に日本舞踊。
徹底したお嬢様教育。
それを、そのまま受けていた。
そのこともあって、私は姉が台所で料理を手伝ったり、料理をしている姿を見た
ことがない。

 母には母の思いがあったのだろう。
しかし私はすでに中学生のときには、その虚栄を見抜いていた。
母は、M町でも名家と呼ばれていた、Y家の妻や、K家の妻たちと、同等、もしくは
それ以上の立場をとりつくろいながら、生きていた。
だから私はこう思った。
思っただけではなく、口に出して言ったこともある。

「自転車屋の女将(おかみ)さんが、医者や酒屋の奥さんとつきあって、どうする?」と。
が、この言葉は、いつも母をそのまま激怒させた。
姉のお嬢様教育は、その延長線上にあった。

●稼業

 私は触覚を、四方八方に延ばしていた。
延ばすことができた。
目はいつも外を向いていた。
兄が家に閉じ込められた分だけ、私は外の世界で、自由に生きた。

 兄は、たしかに「家」の犠牲者だった。
「林家(け)」と、「家(け)」をつけるのもおかしい世界に住みながら、その
「家」に縛られた。
同業の人には失礼な言い方になるかもしれないが、たかが自転車屋。
跡取りとして、守らなければならないような稼業でもない。
当時すでに、自転車店業は、同じ商店業の中でも、番外化していた。

 汚れ仕事だった。
それにこの世界は、まさに弱肉強食。
より大型店ができるたびに、より弱小店は、弊店に追い込まれた。
あるとき祖父が、近所の時計店が新装オープンしたとき、その店に招待された。
そしてその店から帰ってきて、私にこう言った。

 「浩司、時計屋ではな、皿一杯の時計だけで、このうちの自転車すべての
値段と同じだぞ」と。

 つまり家にある20台の自転車すべての値段と、時計屋にある、皿(トレイ)
にある時計の値段と同じ、と。
「時計屋には、そういう皿が、10~20枚もある!」と。

 私はそれを知って、祖父が受けた以上のショックを受けた。
その自転車屋について、母は、こう言った。

 「勉強しんさい(=しなさい)。でなければ、この自転車屋を継ぎんさい」と。
しかしその言葉は、私に死ねと言うくらい、恐ろしい言葉だった。
私は兄を見て育っている。
その兄と同じになれというくらい、恐ろしい言葉だった。

●仕送り

 そんなわけで、私の実家の家計は、私が中学生のころには、火の車だった。
大学生のときも、毎月の仕送りは、下宿代の1万円だけ。
あとは、アルバイトで稼ぐしかなかった。

 姉は私が大学生のとき、農家の男性と結婚した。
農家といっても電信会社に勤務していた。
母は、この結婚に大反対した。
何度も、「うちのM子は、あんな男と結婚するような娘ではない」と。
が、姉は、その男性と結婚した。
母には、不本意な結婚だった。
姉へのお嬢様教育が、こなごなに壊れた瞬間でもあった。

 その結婚のときにも、私の家には現金がなかった。
それで近くにあった借家を売ることになった。
私はその売買に、直接関わった。
法科の学生ということもあった。
値段は、150万円。
当時としては、文句のない値段だった。
そのお金がどう使われたかは知らないが、姉の結婚式は、それなりに派手な
ものだった。

●家族

 私は大学生になることによって、家を飛び出すことができた。
そのあとも、オーストラリアへ留学し、商社へ入社しと、自由気ままに自分の
人生を生きた。
 が、実家のことは、いつも気になった。
重い石のように、頭から離れることはなかった。

 母の恩着せは、そのころもつづいた。
電話をするたびに、「お前を大学まで出してやった」と、これまた口癖のように言われた。
そしてそのつど、あの愚痴とも、抗議ともわからない、ネチネチとした苦労話。
「親の恩を忘れんさるな(=忘れるなよ)」と。
最後は、いつもその言葉で終わった。

 が、私と母の関係は、私が高校生のときに、すでに切れていた。
そういう母だったから、一方、私はそういう息子だったから、いつも衝突を繰り返して
いた。
断絶という状態がつづき、母の私に対する気持ちは、憎しみに変わっていた。
母はことあるごとに、親戚の人たちには、こう言っていた。

 「子どもなんて育てるもんじゃ、ねえ(=ない)。
どうせ親は捨てられるだけじゃ」と。

●自我群の苦しみ 

 そうでありながらも、私の心の中には、「絆(きずな)」が、しっかりと刷り込まれて
いた。
本能に近い部分にまで、刷り込まれていた。
それを断ち切るのは用意なことではない。
実際には、兄や母が他界した今でも、それはつづいている。

 私は自分で収入を手にするようになると、その半分は、実家に送金した。
したくてしたわけではない。
が、そこには、私の(誇り)もあった。
私は子どものころから、そして大学生になってからも、肩身の狭い思いをしていた。
が、仕送りをすることで、そうした思いを、跳ね飛ばすことができた。
そういう思いもあった。

 が、母は母で、そうした私の思いとはちがった角度で、私をながめていた。
平たく言えば、「金づる」。
私から容赦なく、お金を奪っていった。
病弱な父。
そしてあの兄。
収入など、あってないようなものだった。
加えて母の虚栄は、私が子どものころのままだった。

●金づる

 盆と暮れ。
それに数か月に1度、あるいは2度帰るというだけの関係になった。
兄との関係は、ますます疎遠になっていった。

 私が結婚したあと、あちこちへ連れていってやったことはある。
しかしたがいに心が通うということはなかった。
兄とは、ふつうの会話すらできなかった。
兄は、私の知らない、閉ざされた心の中に住んでいた。
私も、家族には、心を開けなかった。

 調子のよいお世辞と、世間話。
口のうまい人間ばかり。
面従腹背というか、表ではニコニコ笑いながら会話をし、いったん裏へ入ると、たがいに
口汚くののしりあった。

母ですら、表と裏では、まるで別人だった。
世間では、「よくできた苦労人」、
さらには、「仏様」と呼ばれていた。

 しかし家の中では、ちがった。
ことあるごとに、人を中傷し、罵倒した。
好き嫌いがはっきりしていた。
母に一度嫌われたら最後。
「江戸の仇(かたき)は長崎で」というようなことを、母は平気でしていた。

 私はいつしか、……30歳になる前には、すでにただの「金づる」に
なっていた。

●重圧感

 だれでもそうなのだろうが、一度巣立ってしまうと、実家との関係はそこで
切れる。
共通の思い出をつくることもない。
母は、私たち家族を、そのつどていねいに迎えてはくれたが、すでに他人以上の
他人になっていた。
言葉の使い方で、私には、それがよくわかった。

 母との関係ですら、そうであった。
いわんや、兄をや、ということになる。
私にとって、兄、準二は、家のお荷物、あるいは、家の家具のような存在だった。
実家に帰っても、小遣いを渡すのは、私のほう。
話しかけて、あれこれと世話を焼くのも、私のほう。
誓って言うが、兄が生涯、私におごってくれたものと言えば、ラーメン一杯だけ。
それも兄の意思からではない。
母にせかされて、そうした。

 弟の私ですらそうなのだから、兄は、さらに孤独な世界へと追いやられた。
友もなく、親には見捨てられ、そして兄弟とのつながりもなかった。
いつも独りで、レコードを聞いていた。

●母との確執

 30歳になったころだと思う。
ワイフの実家(浜松市)の近くに、授産施設のようなものができた。
身体や精神に障害のある人たちが共同で仕事をし、支えあうという施設である。

 当時としては、まだ珍しい施設だったが、私は最初に、その施設に兄を入れること
を考えた。
浜松へ来れば、私の自宅から、その施設に通えばよい。
ワイフも、快く同意してくれた。

 が、これに猛然と抵抗したのが、母だった。
狂ったように抵抗した。
すでにそのとき父も他界していた。
母にしてみれば、兄を手放すということは、稼業の廃止ということになる。
母としては、ぜったいに譲れない一線だった。

 私と母は、毎日、毎晩、電話で怒鳴りあうような喧嘩をした。
激しいものだった。
で、それを1週間から10日ほどつづけたところで、私のほうがギブアップ。
当時の私には、自転車屋を一軒開業することなど、何でもなかった。
仕事は順調だった。
収入も多かった。
私は、もし母や兄が望むなら、浜松で、自転車屋を開業する覚悟でいた。
その覚悟も、そのまま霧散した。

 「母もいっしょに浜松へ」という考え方もあった。
が、母には、M町を「出る」ことなど、想像もつかなかった。
私には、それがよくわかっていた。

●兄の性癖

 兄にも、問題があった。
ゆがんだ性癖という問題だった。
私の家に遊びにやってきたときも、ワイフの入浴をのぞく、私のスキをみては、
ワイフに抱きつく、あるいは留守番をさせておくと、ワイフの下着を手で触れて
遊ぶ、など。

 やがてワイフは、そういう兄に、恐怖感を覚えるようになっていた。
だから私は兄が私の家にいるときも、また私たちが私の実家に帰ったときも、
ぜったいに、兄とワイフを、2人だけにはしなかった。

 さらに兄は、ことあるごとに、病院へ入院した。
そこでも看護婦さんに抱きついたり、下半身を露出させたりした。
そういう話を知っていたから、兄との同居には、それなりの覚悟が必要だった。

 私はこう考えた。
「兄の問題は、一度、母と切り話さなければ、解決しない」と。

 兄は、今で言う、マザコン。
度を越したマザコンだった。
母と兄は、強烈な相互依存関係で成り立っていた。
「共依存」という関係である。

 そういうこともあって、それ以後、私は、兄を引き取るという話は、
二度としなかった。

●思い出

 兄は、毎月の仕送りとは別に、何かほしいものがあると、私に電話をかけてきた。
裏で母の意図を感じたこともある。

「テレビが見られない」
「冷蔵庫が使えなくなった」
「ステレオが壊れた」と。

 そのつど言われるまま、その金額を、送った。

 が、そのほとんどは、悲しい思い出でしかない。
あるとき高校の同窓会に出ることになった。
そのとき、恩師へのみやげということで、その直前に買ったジョニ黒(ウィスキー)
を、もっていった。
が、その朝見ると、栓が抜いてあった。
上から数センチ分、ウィスキーが減っていた。
兄が口をつけたことは、すぐわかった。
だから兄に、「どうしてこんなことをする!」と怒鳴った。
が、その声は、むなしく宙に消えた。

 すでにそのころ、兄はまだ40歳前だったが、兄はことの善悪の判断すら、
じゅうぶんできなくなっていた。
異常までの母の過干渉。
それが原因だった。

 しかし本当の悲しい思い出といえば、私は兄の存在を意識して、結婚式が
できなかったこと。
よく「お金がなかったから」と、書くことはあるが、もうひとつ、大きな
理由があった。
私は酒乱の父や、今でいう自閉症の兄を、みなの前で、どう紹介すればよいのか。

●愛情

 これはあくまでも結果論だが、母に、一微でも兄に対する愛情があれば、
私の家庭は大きくちがっていただろうと思う。
実際、そういう子どもをかかえながらも、明るく、さわやかに生きている親は多い。
今どき自閉症にせよ、何かの情緒障害にせよ、何でもない。
それを恥ずかしいとか、そういうふうに考える人は、いない。
だいたいこの世の中には、まともな人はいない。
あるいはどういう人を、「まともな人」というのか。

 子どもの心は、母親によって作られる。
母親が嫌っている人は、子どもも嫌う。
母親が好意をもっている人は、子どもも、好意をもつ。
ウソだと思うなら、あなた自身の心の中をのぞいてみるとよい。

 私が兄を嫌っていたのは、私のせいではない。
母が嫌っていた。
私はそれを敏感に受け継いでいた。

 だから……。
もし「私の母に、一微でも兄に対する愛情があれば、私の家庭は大きくちがって
いただろうと思う」と。
この思いは、今でも変わらない。

●母との確執

 結局、私は母に、生活費を仕送りしつづけた。
47歳を過ぎるまで、そうした。
が、そのとき、事件が起きた。
それについては、前にも書いた。
母は、私から土地の権利書を言葉巧みに取り上げると、無断で、それを他人に
売ってしまった。
私が泣いてそれに抗議をすると、母は、こう言って、私の言葉をはねのけた。

「親が、先祖を守るために、子の金を使って、何が悪い!」と。

 一事が万事。
私の母というのは、そういう母だった。

●音信途絶

 以後、10年ほど、母との音信は途絶した。
1、2度、さみしさに耐えかねたのか、母から電話があった。
しかし会話にならなかった。
一言、「すまなかった」と謝ってくれたら、私は母を許すつもりでいた。
が、母のもつ親意識は、それをはるかにしのぐものだった。

兄の存在は、もっと軽かった。
「知ったことか!」と、吐き捨てながら、心にのしかかる重荷を脇へやった。
が、事情を知らないノー天気な親類は、どこにでもいる。

 わずか数歳、年上というだけで、安易なダカラ論をぶつけてくる人もいた。

「親だからな……」とか、「親は親だで……」とか。

 私はそのつど、心臓をえぐられるような苦痛を覚えた。
さらに中には、私の家庭を、興味本位でのぞいてくる人もいた。
興味本位である。

「浩司君、今朝、君の夢を見たよ」とか何とか言って、電話をかけてくる。
こちらの内情をさぐる。
それが私には、よくわかった。

●親の介護

 母は、晩年、最初に軽い認知症になった。
そのこともあって、それまでのうっぷんを晴らすかのように、兄に、きびしく当たる
ようになった。
情け容赦ない言葉を、そのつど、兄に浴びせかけた。
「お前なんか、どこかへ行って、死んで来い」とかなど。

 外の世界では、「仏様」と呼ばれていた。
おだやかで、やさしく、静かで落ち着いた表情をしていた。
が、それは仮面。
私には、それがよくわかっていた。
母がまだ元気なうちには、私も、母によく脅された。

「お前は地獄へ落ちるぞ」とか、など。
母も、また、実のところ、心を開くことができない、かわいそうな女性だった。
息子の私に対してでさえ、心を開くことができなかった。

●兄の病状

 そのころから兄の病状は、一気に悪化した。
持病の胃病は慢性化し、毎週のように病院通いがつづいた。
胃潰瘍で、1、2か月単位で入院することも重なった。

 で、見舞いに行くと、そこにかならず、母や姉がいた。
そして私の姿を見かけると、かいがいしく、兄の背中をさすってみせたりした。
「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉は、今では知らない人はいない。
が、私には、それがわかっていた。
母が私の前でしてみせたのは、まさに、それだった。

 兄は私が見舞うと、「仕事をしてエ(=したい)」「してえ」と駄々をこねた。
悲しそうな声で、「ぼく、工場で働くで……」と言ったこともある。
私はその言葉が、胸に突き刺さった。
症状こそちがえ、私のもっている傷と同じ傷を、兄はもっていた。

 その翌日、私は100万円の貯金をおろすと、それをすべて1000円札に換え、
兄に届けた。
母には、「これはぼくが準ちゃんにあげたお金だ。絶対に横取りするな」と、
何度も釘をさした。

 が、そのお金も、やがて母のものとなった。

●兄の涙

 時間は飛ぶが、兄の様子がおかしいと連絡を受けて、兄を見に行ったことがある。
ライターで障子の紙に火をつける。
マジックインクで、車のナンバーに落書きをする。
ごみを近所の家に放り込む。
勝手に他人の家にあがりこむ、など。

 うつ病が悪化していた。
が、残念なことに、兄の周辺には、母も含めて、理性的な会話ができる人は1人も
いなかった。
姉は姉で、そのつど、パニック状態になった。
精神的にも、かなり混乱していた。
で、私はネットで拾いあげた記事をプリントアウトして、それをみなに渡したこともある。
が、だれもそれに目を通そうとすらしなかった。

 兄が心療内科の門をくぐったのは、そのときがはじめてだった。
私が兄を病院へ連れていった。

 その前のこと。

 私が寝室にいる兄のそばに行くと、兄は、自分でふとんをかけ直していた。
子どものころから、1センチ単位で、ふとんをきちんと並べて寝ていた。
が、その兄は、私の姿を見ると、突然、ポロポロと涙をこぼし始めた。

 よほどつらかったのだろう。
私はポケットからハンカチを取り出すと、それで兄の目をふいてやった。

●擁護

 こう書くからといって、全責任が母にあるというのではない。
母とて、あの時代の申し子に過ぎなかった。
また母には母の、「運命」という無数の糸がからんでいた。
母も、その「糸」に操られていただけかもしれない。

 不本意な結婚。
わがままな性格。
無知、無学。
慢性的な貧乏。
潔癖症などなど。

 母だけが特別であったというよりは、もし母と同じような環境で生まれ育ち、
父のような人間と結婚したら、だれだって母のようになったかもしれない。
言い忘れたが、母の実家は、戦後、農地解放でほとんどの田畑を取り上げられてしまった。
それ以後は、往年の繁栄など見る影もないほど、やせ細った貧しい農家になってしまった。
そういうこともあったのだろう。

母は私からお金を吸い上げると、せっこらせっこらと、母の実家へ、それを渡していた。
「先祖を守るために、親が子のお金を使って、何が悪い!」という言葉は、そういう
ところから生まれた。

●兄と母

 まず兄が姉の家に、3か月、いた。
それから兄はグループホームへ入った。
つづいて母が、2年間、姉の家に、いた。
そのころ、私が兄を、3か月、私の家で預かった。
つづいて1年と11か月、母は、浜松に住んだ。

 兄は2008年の8月に、母は同じ年の10月に、それぞれ他界した。
その兄と母の死について、当時、書いたのが、つぎの原稿である。
そのまま紹介する。

++++++++++++++++++++

兄の死

++++++++++++++++++++

●兄の歯

 先日私の兄が死んで、火葬されたときのこと。
私は兄の下あごの骨が、どういうわけか、気になった。
遺骨をつぼにみなが詰めるときも、私は、下あごだけを、じっと見つめていた。
それは雪のように美しかった。
紙のように薄かったが、形はしっかりと整っていた。
が、その美しさが、かえって不思議だった。

 兄は子どものころから歯が弱く、年中、虫歯に悩まされていた。
夜中じゅう、「歯が痛い」と泣いていたのも、よく覚えている。
そんなこともあってか、最後の10~15年間は、すべての歯は抜け、
総入れ歯をしていた。

下あごには、そのためか、一本も、歯は残っていなかった。
総入れ歯にしたと聞いたとき、私は、「それでよかった」と思った。
兄は、少なくともそれで、虫歯の痛みからは解放された。

で、今朝、歯科医院へ行ってきた。
歯にも定期検診というのがある。
今日は、その日だった。
で、歯垢を取り除いてもらっているとき、兄のあの下あごの骨を思い出していた。
「私も死んだら、ああなるのか」と。
そういう気持ちを察したのか(?)、いや、そんなことはありえないが、
歯科医師のK先生は、こう言った。

「1本でも歯が残っていれば、その歯が役にたちますよ」と。

どういう意味でK先生がそう言ったのかは知らない。
その1本をたよりに、ほかの入れ歯が入れやすいということか。
あるいは総入れ歯は、よくないということか。

 兄は死んだが、この先、10年や20年など、あっという間に過ぎてしまうだろう。
つぎの瞬間、私の体が、兄のようになったところで、何ら、おかしくない。
だれかが私の遺骨を拾いながら、私が思ったように、「美しい」と思うかもしれない。
兄のあの下あごが、私のものだったと考えても、何ら、おかしくない。
現に今、私は満60歳になってしまった。
若いころは、自分が60歳になるとは、とても信じられなかった。

 やがて私も、この世から消える。
いつかだれか、私の遺骨を見ながら、同じように思うかもしれない。

 生きているとき、兄は、私にとっては、小さな存在でしかなかった。
しかし死んでからの兄は、日増しに大きくなりつつある。
……というより、毎日、兄のことを考えている。

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母の死

+++++++++++++++++++++++

●最後の会話

11月11日、夜、11時を少し回ったときのこと。
ふと見ると、母の右目の付け根に、丸い涙がたまっていた。
宝石のように、丸く輝いていた。
私は「?」と思った。
が、そのとき、母の向こう側に回ったワイフが、こう言った。
「あら、お母さん、起きているわ」と。

母は、顔を窓側に向けてベッドに横になっていた。
私も窓側のほうに行ってみると、母は、左目を薄く、開けていた。

「母ちゃんか、起きているのか!」と。
母は、何も答えなかった。
数度、「ぼくや、浩司や、見えるか」と、大きな声で叫んでみた。
母の左目がやや大きく開いた。

私は壁のライトをつけると、それで私の顔を照らし、母の視線の
中に私の顔を置いた。
「母ちゃん、浩司や! 見えるか、浩司やぞ!」
「おい、浩司や、ここにいるぞ、見えるか!」と。

それに合わせて、そのとき、母が、突然、酸素マスクの向こうで、
オー、オー、オーと、4、5回、大きなうめき声をあげた。
と、同時に、細い涙が、数滴、左目から頬を伝って、落ちた。

ワイフが、そばにあったティシュ・ペーパーで、母の頬を拭いた。
私は母の頭を、ゆっくりと撫でた。
しばらくすると母は、再び、ゆっくりと、静かに、眠りの世界に落ちていった。

それが私と母の最後の会話だった。

●あごで呼吸

朝早くから、その日は、ワイフが母のそばに付き添ってくれた。
私は、いくつかの仕事をこなした。
「安定しているわ」「一度帰ります」という電話をもらったのが、昼ごろ。

私が庭で、焚き火をしていると、ワイフが帰ってきた。
が、勝手口へ足を一歩踏み入れたところで、センターから電話。
「呼吸が変わりましたから、すぐ来てください」と。

私と母は、センターへそのまま向かった。
車の中で焚き火の火が、気になったが、それはすぐ忘れた。

センターへ行くと、母は、酸素マスクの中で、数度あえいだあと、そのまま
無呼吸という状態を繰り返していた。
「どう、呼吸が変わりましたか?」と聞くと、看護婦さんが、「ほら、
あごで呼吸をなさっているでしょ」と。

私「あごで……?」
看「あごで呼吸をなさるようになると、残念ですが、先は長くないです」と。

私には、静かな呼吸に見えた。

私はワイフに手配して、その日の仕事は、すべてキャンセルにした。
時計を見ると、午後1時だった。

●血圧

血圧は、午前中には、80~40前後はあったという。
それが午後には、60から55へとさがっていった。
「60台になると、あぶない」という話は聞いていたが、今までにも、
そういうことはたびたびあった。
この2月に、救急車で病院へ運ばれたときも、そうだった。

看護婦さんが、30分ごとに血圧を測ってくれた。
午後3時を過ぎるころには、48にまでさがっていた。
私は言われるまま、母の手を握った。
「冷たいでしょ?」と看護婦さんは言ったが、私には、暖かく感じられた。

午後5時ごろまでは、血圧は46~50前後だった。
が、午後5時ごろから、再び血圧があがりはじめた。

そのころ、義兄夫婦が見舞いに来てくれた。
私たちは、いろいろな話をした。

50、52、54……。

「よかった」と私は思った。
しかし「今夜が山」と、私は思った。
それを察して、看護士の人たち数人が、母のベッドの横に、私たち用の
ベッドを並べてくれた。
「今夜は、ここで寝てください」と。

見ると、ワイフがそこに立っていた。
この3日間、ワイフは、ほとんど眠っていなかった。
やつれた顔から生気が消えていた。

「一度、家に帰って、1時間ほど、仮眠してきます」と私は、看護婦さんに告げた。
「今のうちに、そうしてください」と看護婦さん。

私は母の耳元で、「母ちゃん、ごめんな、1時間ほど、家に行ってくる。またすぐ
来るから、待っていてよ」と。

私はワイフの手を引くようにして、外に出た。
家までは、車で、5分前後である。

●急変

家に着き、勝手口のドアを開けたところで、電話が鳴っているのを知った。
急いでかけつけると、電話の向こうで、看護婦さんがこう言って叫んだ。
「血圧が計れません。すぐ来てください。ごめんなさい。もう間に合わないかも
しれません」と。

私はそのまままたセンターへ戻った。
母の部屋にかけつけた。

見ると、先ほどまでの顔色とは変わって、血の気が消え失せていた。
薄い黄色を帯びた、白い顔に変わっていた。

私はベッドの手すりに両手をかけて、母の顔を見た。
とたん、大粒の涙が、止めどもなく、あふれ出た。

●下痢

母が私の家にやってきたのは、その前の年(07年)の1月4日。
姉の家から体を引き抜くようにして、抱いて車に乗せた。
母は、「行きたくない」と、それをこばんだ。

私は母を幾重にもふとんで包むと、そのまま浜松に向かった。
朝の早い時刻だった。

途中、1度、母のおむつを替えたが、そのとき、すでに母は、下痢をしていた。
私は、便の始末は、ワイフにはさせないと心に決めていた。
が、この状態は、家に着いてからも同じだった。

母は、数時間ごとに、下痢を繰り返した。
私はそのたびに、一度母を立たせたあと、おむつを取り替えた。

母は、こう言った。
「なあ、浩司、オメーニ(お前に)、こんなこと、してもらうようになるとは、
思ってもみなかった」と。
私も、こう言った。
「なあ、母ちゃん、ぼくも、お前に、こんなことをするようになるとは、
思ってもみなかった」と。

その瞬間、それまでのわだかまりが、うそのように、消えた。
その瞬間、そこに立っているのは、私が子どものころに見た、あの母だった。
やさしい、慈愛にあふれた、あの母だった。

●こだわり

人は、夢と希望を前にぶらさげて生きるもの。
人は、わだかまりとこだわりを、うしろにぶらさげながら、生きるもの。
夢と希望、わだかまりとこだわり、この4つが無数にからみあいながら、
絹のように美しい衣をつくりあげる。

無数のドラマも、そこから生まれる。

私と母の間には、そのわだかまりとこだわりがあった。
大きなわだかまりだった。
大きなこだわりだった。

話しても、意味はないだろう。
話したところで、母が喜ぶはずもないだろう。
しかし私は、そのわだかまりと、こだわりの中で、12年も苦しんだ。
ある時期は、10か月にわたって、毎晩、熱にうなされたこともある。
ワイフが、連日、私を看病してくれた。

その母が、そこにいる。
よぼよぼした足で立って、私に、尻を拭いてもらっている。

●優等生

1週間を過ぎると、母は、今度は、便秘症になった。
5、6日に1度くらいの割合になった。
精神も落ち着いてきたらしく、まるで優等生のように、私の言うことを聞いてくれた。

ディサービスにも、またショートステイにも、一度とて、それに抵抗することなく、
行ってくれた。

ただ、やる気は、失っていた。

あれほどまでに熱心に信仰したにもかかわらず、仏壇に向かって手を合わせることも
なかった。
ちぎり絵も用意してみたが、見向きもしなかった。
春先になって、植木鉢を、20個ほど並べてみたが、水をやる程度で、
それ以上のことはしなかった。

一方で、母はやがて我が家に溶け込み、私たち家族の一員となった。

●事故

それまでに大きな事故が、3度、重なった。
どれも発見が早かったからよかったようなもの。
もしそれぞれのばあい、発見が、あと1~2時間、遅れていたら、母は死んでいた
かもしれない。

一度は、ベッドと簡易ベッドの間のパイプに首をはさんでしまっていた。
一度は、服箱の中に、さかさまに体をつっこんでしまっていた。
もう一度は、寒い夜だったが、床の上にへたりと座り込んでしまっていた。

部屋中にパイプをはわせたのが、かえってよくなかった。
母は、それにつたって、歩くことはできたが、一度、床にへたりと座ってしまうと、
自分の手の力だけでは、身を立てることはできなかった。

私とワイフは、ケアマネ(ケア・マネージャー)に相談した。
結論は、「添い寝をするしかありませんね」だった。

しかしそれは不可能だった。

●センターへの申し込み

このあたりでも、センターへの入居は、1年待ちとか、1年半待ちとか言われている。
入居を申し込んだからといって、すぐ入居できるわけではない。
重度の人や、家庭に深い事情のある人が優先される。

だから「申し込みだけは早めにしておこう」ということで、近くのMセンターに
足を運んだ。
が、相談するやいなや、「ちょうど、明日から1人あきますから、入りますか?」と。

これには驚いた。
私たちにも、まだ、心の準備ができていなかった。
で、一度家に帰り、義姉に相談すると、「入れなさい!」と。

義姉は、介護の会の指導員をしていた。
「今、断ると、1年先になるのよ」と。

これはあとでわかったことだったが、そのとき相談にのってくれたセンターの
女性は、そのセンターの園長だった。

●入居

母が入居したとたん、私の家は、ウソのように静かになった。
……といっても、そのころのことは、よく覚えていない。
私とワイフは、こう誓いあった。

「できるだけ、毎日、見舞いに行ってやろう」
「休みには、どこかへ連れていってやろう」と。

しかし仕事をもっているものには、これはままならない。
面会時間と仕事の時間が重なってしまう。

それに近くの公園へ連れていっても、また私の山荘へ連れていっても、
母は、ひたすら眠っているだけ。
「楽しむ」という心さえ、失ってしまったかのように見えた。

●優等生

もちろん母が入居したからといって、肩の荷がおりたわけではない。
一泊の旅行は、三男の大学の卒業式のとき、一度しただけ。
どこへ行くにも、一度、センターへ電話を入れ、母の様子を聞いてからに
しなければならなかった。

それに電話がかかってくるたびに、そのつど、ツンとした緊張感が走った。

母は、何度か、体調を崩し、救急車で病院へ運ばれた。
センターには、医療施設はなかった。

ただうれしかったのは、母は、生徒にたとえるなら、センターでは
ほとんど世話のかからない優等生であったこと。
冗談好きで、みなに好かれていたこと。

私が一度、「友だちはできたか?」と聞いたときのこと。
母は、こう言った。
「みんな、役立たずばっかや(ばかりや)」と。
それを聞いて、私は大声で笑った。
横にいたワイフも、大声で笑った。
「お前だって、役だ立たずやろが」と。

加えて、母には、持病がなかった。
毎日服用しなければならないような薬もなかった。

●問題

親の介護で、パニックになる人もいる。
まったく平静な人もいる。
そのちがいは、結局は(愛情)の問題ということになる。
もっと言えば、「運命は受け入れる」。

運命というのは、それを拒否すると、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしそれを受け入れてしまえば、向こうから、尻尾を巻いて逃げていく。
運命は、気が小さく、おくびょう者。

私たちに気苦労がなかったと言えば、うそになる。
できれば介護など、したくない。
しかしそれも工夫しだいでどうにでもなる。

加齢臭については、換気扇をつける。
事故については、無線のベルをもたせる。
便の始末については、私のばあいは、部屋の横の庭に、50センチほどの
深さの穴を掘り、そこへそのまま捨てていた。
水道管も、そこまではわせた。

ただ困ったことがひとつ、ある。
我が家にはイヌがいる。
「ハナ」という名前の猟犬である。
母と、そしてその少し前まで私の家にいた兄とも、相性が合わなかった。
ハナは、母を見るたびに、けたたましくほえた。
真夜中であろうが、早朝であろうが、おかまいなしに、ほえた。

これについても、いろいろ工夫した。
たとえば母の部屋は、一日中、電気をつけっぱなしにした。
暖房もつけっぱなしにした。
そうすることによって、母が深夜や早朝に、カーテンをあけるのをやめさせた。
ハナは、そのとき、母と顔を合わせて、ほえた。

いろいろあったが、私とワイフは、そういう工夫をむしろ楽しんだ。

●鬼

それから約1年半。
母の92歳の誕生日を終えた。
といっても、そのとき母は、ゼリー状のものしか、食べることができなくなっていた。
嚥下障害が起きていた。
それが起きるたびに、吸引器具でそれを吸い出した。
母は、それをたいへんいやがった。
ときに看護士さんたちに向かって、「あんたら、鬼や」と叫んでいたという。

郷里の言葉である。

私はその言葉を聞いて笑った。
私も子どものころ、母によくそう言われた。
母は何か気に入らないことがあると、きまって、その言葉を使った。
「お前ら、鬼や」と。

●他界

こうして母は、他界した。
そのときはじめて、兄が死んだ話もした。
「準ちゃん(兄)も、そこにいるやろ。待っていてくれたやろ」と。

兄は、2か月前の8月2日に、他界していた。

母の死は、安らかな死だった。
どこまでも、どこまでも、安らかな死だった。
静かだった。

母は、最期の最期まで、苦しむこともなく、見取ってくれた看護婦さんの
話では、無呼吸が長いかなと感じていたら、そのまま死んでしまったという。

穏やかな顔だった。
やさしい顔だった。
顔色も、美しかった。

母ちゃん、ありがとう。
私はベッドから手を放すとき、そうつぶやいた。

2008年10月13日、午後5時55分、母、安らかに息を引き取る。

++++++++++++++++++++

●終わりに……

先日、従弟(いとこ)の1人と、電話で話した。
子どものころから、いちばん、仲のよい従弟である。
その従弟が、私の母や兄について、聞いた。
死んだことについて、聞いた。

 が、私はウソは言えなかった。
だから正直に、こう答えた。
「今は、ほっとしている」と。

 そう、ほっとしている。
が、もちろん兄や母の死を喜んでいるわけではない。
しかし悲しみより、解放感のほうが、先に来る。
私にとっては、長い、長い、60年間だった。
重苦しい、60年間だった。
一日とて、気が晴れることがなかった。

 と、同時に、私にとって家族とは何だったのか、それを改めて考える。
もちろん多くの人は、家族に心の拠り所を求め、そこで心を休める。
が、私には、それがなかった。
それができなかった。

 だから、……というわけではない。
弁解するつもりもない。
また私の家族を反面教師とするには、私にはあまりにも重過ぎる。
私は私で、今のワイフと結婚し、私の家族をもうけた。
「何とか幸福になりたい」と思いつつ、その気負いばかりが強かった。
その後遺症は、そのまま私の息子たちに残ってしまった。
息子たちは息子たちで、私とは別の形で、家族を求めて苦しんでいる。

 ほかに他意はない。
私と同じような境遇に苦しんでいる人たちのために、この原稿を書いた。
1人でも多くの人が、「家族自我群」という「幻惑(=呪縛感)」から解放されることを
願う。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【世界おもしろジョーク集(PHP)】より

●「糞の世界」……考えさせられた!

+++++++++++++++++++++

いつもトイレの中で、「世界おもしろジョーク集」
(PHP版)を読んでいる。
おもしろい。

その中にこんなのがあった。
(あらすじで、ゴメン!)

+++++++++++++++++++++

●善人vs悪人

 ある日、牛車にのった農夫が通りかかると、道端で一羽の小鳥が、寒さで今にも
死にそうなのがわかった。
そこでその農夫は、まだ温もりの残る牛の糞で、小鳥の周りを包んでやった。
小鳥はそれで元気になった。
元気になって、歌を歌い始めた。

 しばらくすると、別の農夫がそこを通りがかった。
歌声に誘われてそこを見ると、一羽の小鳥が牛の糞の中に埋もれているのがわかった。
そこでその農夫は、小鳥の周りから牛の糞を取り除くと、その糞を遠くへ投げ捨ててやった。

 そのあとまもなくして、小鳥は寒さで、死んでしまった。

 この物語には、3つの教訓がある。
一つ目は、あなたを糞の世界に閉じ込める人が、悪人とはかぎらないということ。
二つ目は、あなたを糞の世界から助け出してくれる人が、善人とはかぎらないということ。
そして三つ目は、糞の世界では、けっして歌を歌わないということ。

●糞の世界

 ここでいう「糞の世界」とは、どういう世界をさすのか?
私はこのジョークを読んで、すぐさま、「裏社会」のような世界を連想した。
暴力と犯罪、女とカネ、それに麻薬が飛びうような世界である。

 「小鳥」とは、純粋無垢な、若者?
つまり農夫は、今にも死にそうな小鳥を助けるため、その小鳥を、温かい牛の糞で、包んでやった。
おかげで小鳥の命は助かった。
だから教訓のようになる。
「あなたを糞の世界に閉じ込める人が、悪人とはかぎらないということ」と。

 二つ目の教訓も、同じよう考えて、理解できる。

 が、問題は三つ目である。
どうして「糞の世界では、歌を歌ってはいけないのか」。

●歌を歌う

 私はこのジョークを読んで、しばらく考え込んでしまった。
トイレから出てからも、ずっと考えた。
が、どうも意味が、よくわからない。
そこでワイフに相談すると、ワイフは、あっさりと、こう教えてくれた。

 「要するにね、目立ってはだめということじゃ、ナア~イ」と。

 さすが裏社会を生きてきたワイフ。
ズバリと言い当てた。
つまり裏社会で生きる人間は、目立たず、静かに生きろということか。
たとえばマフィアの親分が、自伝を書いたら、どうなる?
自伝でなくても、たとえばBLOGのようなものを出したらどうなる?
たちまち警察の目にとまり、ああでもない、こうでもないと文句をつけられ、その
親分は、たちまち刑務所送りになるかもしれない。

 だから「静かにしていろ」と。

 ほかのジョークのようには笑えなかったが、発想そのものが、おもしろい。
日本人の私たちにはない発想である。
「農夫と小鳥と糞」という取り合わせが、おもしろい。

●静かに生きる

 糞にもいろいろある。
私が今、住んでいるこの世界も、(現代社会)という観点から見ると、「糞のような世界」
ということになる。
アウト・ローの世界とまではいかないが、それに近い。
フリーターの世界というのは、そういう世界である。

 私ははからずも、その糞の世界に入ってしまった。
ずっとその世界で生きてきた。
今も、糞の温もりを感じながら、生きている。
結構、居心地もよい。

 が、その世界で、こうしてモノを書いている。
先のジョークでいう、歌を歌っていることになる。
過去において、そういう私を、糞の世界から取りだそうしてくれた人も、いない
わけではない。
が、私は自ら、断ってきた。
そして今、満61歳。
今では、糞の世界から出たとしても、出たあと、行く場所すらない。
だから今の世界に、このままいるしかない。

 そういう私は、静かに生きたほうがよいのか。
そのほうが身の安全のためには、よいのか。
そこまで深く考える必要はないのかもしれないが、しかしこのジョークには、
いろいろと考えさせられた。
(プラス、おもしろかった!)


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