2009年8月31日月曜日

*Farewell, Rotten Politics of Japan!

●日本の総選挙(General Election of Japan, Farewell to the Rotten Politics of Japan!)

We feel something has been changing rapidly and dynamically. We hope this would be the end of rotten politicsof Japan.

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昨夜は、眠い眼(まなこ)をこすりながら、
夜遅くまで、選挙報道をテレビで見ていた。
結果は、みなさんご存知の通り。

民主党が、最終的に308議席。
自民党が、119議席。
民主党の完全圧勝で終わった。

これからは、30代を中心とした若い人たちが、
政治の中心を担うことになる。
すばらしいことである。

言い換えると、今までの自民党政治は、あまりにも
ドロドロしかった。
薄汚かった。
カネと権力。
言うなれば、腐敗したゴミの山。
それがその底流で、渦を巻いていた。

今回の総選挙は、一応、それを一掃してくれた。
これから先のことはわからないが、民主党政権の
これからに、強く期待したい。

がんばれ、民主党!

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●AS首相

 それにしても醜いのが、AS首相。
この場に及んでも、自分の責任を認めるどころか、安倍首相、福田首相の辞任劇を、
敗因の理由にあげている。
自分だって、国民の審判を受けて総裁になり、総理大臣になったわけではない。
そのAS首相が、そう言う。
そのおかしさ。

今回の敗因の理由の第一は、もちろん、AS首相、彼自身にある。
それを棚に上げて、テレビ画面に向かって、さかんに「自民党の3分の2の支持を得て、
総裁になった」と主張していた。
「私には責任はない」と言わんばかりの口調である。
自己矛盾もはなはだしい。

 本来は、選挙までの暫定内閣として発足したAS内閣。
そのAS内閣のAS首相は、そのつどああでもない、こうでもないという理由を
こじつけて、政権の座に居座った。
その見苦しさ。
つまりその結果が、今回の総選挙ということになる。

 本来なら自民党内部でさえ、袋だたたきにあってもしかたない立場。
ところがその袋叩きする人すら、今の自民党には、いない。
AS首相は記者の質問に答えて、「政治は大きなうねりの中で、よいときもあれば、
悪いときもある」というようなことを言っていた。
が、それはどうか?
へたをすれば、自民党は、このままバラバラになってしまうだろう。
もともと主義主張、つまり正義が(柱)にある党ではない。
金(マネー)と権力。
この2つだけで、これから先、どうやって自民党をひとつにまとめていくつもりなのか。

 先ほどざっと世界の報道記事に目を通してみた。
世界中が、速報の形で、日本の総選挙の結果を伝えていた。
「日本は今、大きな転換期を迎えた」というのが、おおかたの見方である。
そう、今、日本は、大きく変わりつつある。
この流れは、もうだれにも止められない!

(8月31日記)

*August 31st 2009

彡彡人ミミ      彡彡彡彡彡
| ⌒ ⌒ |   MM ⌒ ⌒ MM
q 0―0 MMMMM ∩ ∩ MM m
(″ ▽ M ⌒ ⌒ M″ v ゛)/ ̄)
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      8月   31日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【特集】

「HOP STEP 子育てジャンプ」(600作)を、HPに収録しました。
興味のある方は、どうか、見てください。

http://kosodatejump.ninja-web.net/

一部を紹介します。

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ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(571)

●ほかの子どもとじょうずにつきあう法

 子どもの社会性は、同年齢の子どもとの接触の中で、鍛(きた)えられる。たとえば双
子の子どもがいる。一般論として、双子は、いつももう一人の兄弟(姉妹)との間で鍛え
られるので、その社会性があることが知られている。わかりやすく言えば、ほかの子ども
とも、じょうずにつきあう技術にたけている。

 その社会性は、つぎのようにして判断する。

 たとえばブランコを横取りされたようなとき、社会性のある子どもは、その相手に向か
って、「どうして取るのよ! 私、今、使っているでしょ!」と、やり返すことができる。
そうでない子どもは、たとえば柔和な笑みを浮かべて、ブランコを明け渡してしまったり
する。

 社会性のある子どもには、つぎのような特徴がある。(1)他人に対して押すときは押
し(自己主張し)、引くときは引く(遠慮する)という行動が明確で、わかりやすい。ワ
ーワーと自己主張しても、まちがっているとわかると、「そうね」などといって、自分の
非をすなおに認める。人格の「核」が明確で、教える側からすると、「この子はこういう
子」という「つかみどころ」が、はっきりしている。

だれに対しても、心を開くことができ、性格のゆがみ(ひねくれ、いじけ、つっぱり、ひ
がみなど)がない。心を開いている子どもは、親切にしてあげたり、やさしくしてあげる
と、その親切ややさしさが、そのままスーッと心の中にしみこんでいくのがわかる。子ど
もらしく、うれしそうな顔をして、それにこたえる。

 (以前、嫌われる子どもについて、調べたことがある。その結果、不潔で臭い子ども。
陰湿で性格が暗く、静かな子ども。性格が悪い子ども、ということがわかった(小四児、
三〇名について調査)。このタイプの子どもは、嫌われるだけではなく、いじめの対象と
もなるから注意する。

 子どもの社会性をつくるためには、乳幼児期から、心静かで、愛情豊かな環境で、同年
齢の子どもと一緒に遊ばせるのがよい。子どもの世界というのは、いわば動物の世界のよ
うなもの。キズつけたり、キズつけられたりしながら、互いに成長する。

親としてはつらいところだが、そうした環境が、子どもをたくましくする。まずいのは、
親子だけのマンツーマンだけの環境で育てること。「ものわかりのよい世界」は、それだ
け居心地がよい世界かもしれないが、それは子どもにとって、決して好ましい世界ではな
い。

 こうした社会性は、年長児(満六歳)前後には決まる。この時期、社会性のある子ども
は、その先もずっと社会性のある子どもになる。そうでない子どもはそうでない。それ以
後は、どちらにせよ、そういう子どもだと認めたうえで、対処するしかない。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(572)

●「あの子は臭い!」・嫌われっ子、親の責任

 「どんな子が嫌われるか」を調査してみた。その結果、(1)不潔で臭い子ども。(2)
陰湿で性格が暗く、静かな子ども。(3)性格が悪い子ども、ということがわかった(小
四児、三〇名について調査)。

 不潔で臭いというのは、「通りすぎたとき、プンとヘンなにおいがする」「口が臭い」
「髪の毛が汚い」「首にアカがたまっている」「服装が汚い」「服装の趣味が悪い」「鼻
クソばかりほじっている」「鼻水がいつも出ている」「髪の毛がネバネバしている」「全
体が不潔っぽい」など。子どもというのは、おとなより、においに敏感なようだ。

 陰湿で性格が暗いというのは、「いじけやすい」「おもしろくない」「ひがみやすい」
「何もしゃべらない」など。「静か」というのもあった。私が「誰にも迷惑をかけるわけ
ではないので、いいではないか」と聞くと、「何を考えているかわからないから、不気味
だ」と。

 またここでいう性格が悪いというのは、「上級生にへつらう」「先生の前でいい子ぶる」
「自慢話ばかりする」「意地悪」「わがままで自分勝手」「すぐいやみを言う」「目立ち
たがり屋」など。一人、「顔がヘンなのも嫌われる」と言った子どももいた。

 ここにあげた理由をみてわかることは、親が少し注意すれば、防げるものも多いという
こと。特に(1)の「不潔で臭い子ども」については、そうだ。このことから私は、『嫌
われっ子、親の責任』という格言を考えた。たとえばこんなことがあった。

 A君(中一)は、学校でいじめにあっていた。仲間からも嫌われていた。A君も母親も
それに悩んでいたが、そのA君、とにかく臭い。彼が体を動かすたびに、体臭とも腐敗臭
とも言えない、何とも言えない不快なにおいが、あたりを漂った。風呂での体の洗い方に
問題があるようだが、本人はそれに気づいていない。

そこである日、私は思いあまって、A君にこう言った。「風呂では、体をよく洗うのだぞ」
と。が、この一言が、彼を激怒させた。彼にしても、一番気にしていることを言われたと
いう思いがあった。彼は「ちゃんと洗っている!」と言いはなって、そのまま教室から出
ていってしまった。

 幼児でも、臭い子どもは臭い。病臭のようなにおいがする。私は子どもの頭をよくなで
るが、中には、ヌルッとした髪の毛の子どももいる。A君(年中児)がそうだった。そこ
で忠告しようと思ってA君の母親に会うと、その母親も同じにおいがした……!

 子どもの世界とはいえ、そこは密室の世界。しかも過密。さまざまな人間関係が、複雑
にからみあっている。ありとあらゆる問題が、日常的に渦巻いている。つまりおとなたち
が考えているほど、その世界は単純ではないし、また表に現れる問題は、ほんの一部でし
かない。ここにあげる「嫌われっ子」にしても、だからといってこのタイプの子どもが、
いつも嫌われているということにはならない。しかし無視してよいほど、軽い問題でもな
い。

いじめの問題についても、ともすれば私たちは、表面的な現象だけを見て、子どもの世界
を論ずる傾向がある。が、それだけでは足りない。それをわかってほしかったから、ここ
であえて、嫌われっ子の問題を取りあげてみた。





ホップ・ステップ・子育てジャンプbyはやし浩司(573)

●子どものわがまま(1)

●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道
具をバッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせ
に、バッグの中に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の
意味すら理解できない。そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、
ただひたすら、じっと待つ。

S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出
してしまった。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子ども
は泣くことによって、その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。しかし
その日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声を
聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすので
すか!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。

●親が先生に指導のポイント

 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話
をしていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッと
ふいてくれるような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、
意味がない。第一に、その意識がない。

「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あるいは子どもに楽
をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがいになっている
ケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を書い
て渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですか
ら、こういうときには、こう指導してください」と。

●泣き明かした母親

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうし
てですか」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのでは
ないかと、心配で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱
暴だ」「不親切だ」と、反対に遠ざけてしまう。

S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。
そのあと母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こ
ういうケースは今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたと
きのこと。そこの園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚
で用意してあげないと、親は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。


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つづきは、どうか、HPの中で……


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【ある夫婦の問題】

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東北のある県にお住まいの、TRさん(男性)より、
夫婦の問題についての相談がありました。

それについて、考えてみたいと思います。

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【TRさんより、はやし浩司へ】

お忙しいところ申し訳ございません。

今家の中は妻と娘の問題で騒然、混沌としておりどう解決していけばいいかわからない状
態です。先生のお知恵をいただき何とか解決の糸口を見つる事が出来ればと思っています。
宜しくお願いします。

妻とは職場結婚し20年経ちます。私は整形外科医師で、妻は元看護師です(結婚と同時
に退職)。結婚当初から気に入らないことがあると、1週間でも口を利かなくなり私を無視
するところがありました。離婚を匂わせる発言も数回ありました。私はどちらかと言うと
家族の絆・連帯を重んじたいほうで、家内にはそれも重荷になっていたようです。

1年3か月前ちょっとしたことで家内が激高し、それ以来寝室は別で、家庭内別居の状態
が続いています。元々お互いにセックスレスだったこともあり、今は家内に触れただけで
大声を上げて嫌がるようになってしまいました。

激高したちょっとしたことについて少し書きます

・・・早めに病院に行かねばならず、・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・車庫内で家内は興奮し近所に聞こえるような大声で泣きながら怒り始めたの
で、平謝りに謝った。翌日自動車会社に私から電話謝罪し、「たいした傷ではないので大丈
夫ですよ」と言ってもらった。

その日以来、寝室は別になった・・・

対外的に妻は非常に良い人で、幼稚園や小学校でお母さん連中に慕われています。私の両
親にも献身的で、祖父母が存命だった時は、病院への送り迎えや母が仙台で手術を受けた
ときなどは家族のために、ウィークリーマンションを借りたり、下準備を全て行ってくれ、
至れり尽くせりで、家族は感謝していました。

また私の父が2年3か月前に亡くなり、F市で暮らしていた母と統合失調症の弟が2人残
されたので、3か月ほど前I市の我が家から500メートルはなれたところのマンション
を借りるのにも尽力してくれました。

でも私には家庭内別居になってから「おはよう」「おやすみ」「おかえり」などの基本的な
挨拶さえも全くありません。

12歳になる長女は、3歳頃から、「どうして、どうして」といいながら2~3時間は泣く
ことがしばしばありました。家が微妙な状態になった頃突然受験すると言って、中学受験
を決意しました。私が殆どマンツーマンで勉強を見ました(家庭教師もつきましたが)。今
は片道1時間半かかるM町までバスと電車を乗り継いで通学しています。

しかし今だ1週間に1回くらいは、「自分だけどうして、どうして」と、2~3時間大声で
幼児返りのようにして泣き続けます。私立中学入学当初は「一番になる」と豪語していま
したが、最近は反抗期も重なり、イライラが強く腰を据えて勉強できなくなってきていま
す。中間テストの2週間前は椅子に座ったと思ったら、数秒で立ち上がることを繰り返し、
下の子供が寝ると歯磨きをし始める有様に成りました。

もちろん成績も200人中180位くらいでした。「こうやって自分は落ちこぼれていくん
だ」と、自分に言い聞かせているようにつぶやきます。今は下の子と帰ってきてから2~
3時間遊んで(と言うより遊んでもらって)、下の子が寝る9頃から1時間かけて、10分
くらい宿題をして寝てしまいます。

制服も帰ってきてからどんなに注意しても脱いだままにしています。「勉強したほうがいい
のでは」などというと、「今しようと思っていたところなのに、言われたからやらない!」
と拒絶します(言わなかったら殆どしません)。

下の子には思いっきり意地悪をすることが多く、家内は娘を怒ります。娘はここぞとばか
り、「下の子ばかりかばってどうして自分だけ怒られなければならないの、下の子の方が悪
いのに」と言ってまた泣きます。

家内にダッコを求めますが、家内は仁王のように腕組みして立ちはだかり、私に対するの
と同じように、「触られたくない」と、拒絶します。弟との差を感じてますます娘は泣きま
す。

長男は今のところ明るい社交的な子に育っており、母の愛情も充分受けています。でも家
庭内のギクシャクのためか、切れやすくなってきています。

私の対応としては、出来るだけ家庭内で明るく振舞い家内が嫌な (しつこくする)ことを
出来るだけ避けるようにしています。でも家内は冷たい・・・

離婚相談のA先生に、円満になれるように相談し始めたところです(家内に内緒で)。家内
に第三者に入ってもらって相談することで建設的になれればと話を持ちかけましたが、「そ
れは修復したいと思っている人のすることで、私はこの家にも子供にも未練がない。親権
もくれてやる。あなたにしても、子供にしても帰ってくるのが苦痛だ。私を早く一人にさ
せて。」と言います。

全てが本心でないのでしょうけど、私に対することは本心と思われます。「子供には両親が
必要だし、下の子が20歳になるまでは我々の責任だ」と説得していますが、最近は内心
そこまで持たないのではと思います。

家内の精神面がかなり荒廃していると思われ、精神科の先生にも相談し安定剤を処方した
ことがありますが、「私は精神病なんかではない!」と言い、1回内服してくれただけで拒
絶されました。それからは何か相談しても、(娘のことに関しては会話がかろうじて出来ま
す)、「精神病の人に聞かないで」と言われてしまいます。

出来るだけ家内を解放し、実家のT市に少しでも帰るよう仕向けていますが、外へ向けて
の完ぺき主義の家内は、夏祭りの準備などで殆ど帰れないようにがんじがらめになってい
ます。

今まで家族のためにと思って頑張って働いていたのに、私も死にたい気持ちになったりし
ています。ただこのまま私が死んでしまったら子供たちがかわいそうで、母と妹も引っ越
してきてどうしようもないし、私が弱ったらだめと言い聞かせています。

わたしの精神もかなり磨り減っており、本を片っ端から本を読んだり、Y先生の「悟りの
子育て」などを読み漁っています。

とに角怒らずに子供を過保護かもしれないけど、抱きしめるようにしています。
ダブルベットで上の子と私は一緒に寝ています。下の子のベットで家内は寝ていますが、
私の部屋が涼しいので、下の子もダブルベットに来るようになり、3人で川の字に寝るこ
とが多くなりました。

このままでは子供の精神が壊れてしまうのではないかということと、家内も相当壊れてき
ているのではないかと言うことが心配でなりません。最近は、(家内にだけ秘密)、両方の
家族に実情を説明し、サポートを期待しています。

あと私に出来ることは何でしょうか?
このまま現状維持で子供は大丈夫でしょうか?
やはり子供が巣立ってから離婚になるのでしょうか、子供のために今離婚したほうが良い
のでしょうか?

無理難題の質問してしまい申し訳ありません。
何卒ご回答宜しくお願いします。

【はやし浩司より、TRさんへ】

●運命論

 こうした問題は、離婚問題にかぎらず、やがて流れるところに流れ、そこで解決します。
その(流れ)を感じたら、身を任すこと。
離婚問題、子どもの問題も、その結果として、自然に解決していきます。

(流れ)、……それを私は「運命」と呼んでいますが、この運命というのは、それに
逆らえば、キバをむいて、あなたに襲いかかってきます。
しかしそれを受け入れてしまえば、向うからシッポを巻いて逃げていきます。
(現在は、きばをむいて、あなたに襲いかかっている状態です。)

今のあなたは、(離婚する決意もできず)、同時に(関係を修復する決意もできず)、その
はざまで、悶々と苦しんでいます。
つまり「このままではいけない」という気持ちと、「何とかしたい」という気持ちの中で、
はげしく葛藤しています。
「何かをしなければならない」という気持ちと、「何をしたらいいのだ」という気持ちの
中で、です。

 こうした心の状態は、心理学でいう、『フリップ・フロップ理論』で、説明されます。
つまりどちらにころぶこともできず、フラフラの状態ということです。
もともとは、無神論の人が有神論に、有神論の人が無神論になるときの心理状態を
説明したものです。(日本では、この理論を知っているのは、私だけかと思います。)

 が、こうした状態に、人は、それほど長くは耐えられません。
はげしい葛藤がしばらくつづいたあと、コロリとどちらかに倒れます。
だから私は勝手に、『コロリ理論』と訳しています。

 そうそう私が言う「運命論」というのは、今はやりの、スピリチュアル(霊的)な
ものではありません。
私たちには、それぞれ無数の目に見えない糸がからんでいます。
家族の糸、社会の糸、環境の糸、生い立ちの糸などなど。
その(糸)がときとして、私たちの進む方向を、勝手に決めてしまいます。
で、振り返ってみると、そこに(道)ができているのを知ります。
私はそれを「運命」と呼んでいます。

●離婚
 
 順に考えていきます。

 まず離婚ですが、離婚そのものが、子どもの心に影響を与えるということは、あり
ません。
子どもはそのつど状況を受け入れ、それに適応していきます。
が、離婚に至る、家庭騒動は、子どもに大きな影響を与えます。
はげしい夫婦喧嘩、対立、騒動、言い争い、いがみあい、など。
(子どもというのは、環境的な変化には、すばらしい適応能力を示します。
が、愛情の変化には、たいへんもろいということです。)

子どもが乳幼児であれば、基本的不信関係、基底不安の原因となることもあります。
心の開けない子どもになったり、慢性的な不安感をいつも覚える子どもになったりします。
最近の研究によれば、おとなになってからうつ病になる人のほとんどは、乳幼児期の
親子関係(とくに母子関係)に起因するというところまでわかってきました(九州大学)。

 だから家庭騒動は、最小限に。
離婚するにしても、「明るく、さわやかに」(某タレント談)が、鉄則です。

●潔癖症 

 で、奥さんの潔癖症が、気になります。
神経症のひとつということになっていますが、こだわりが強い分だけ、やはり心の病を
もっておられるように感じます。
病識があればよいのですが、いただいたメールによれば、その病識がないようですね。
こういうケースのばあい、奥さんが平常なとき、「それが本来の姿」と、奥さんに
気づかせるのがよいわけです。
が、家族(=夫のあなた)では無理です。
 
 たとえばTRさんが、その話題をもちだせば、とたんに烈火のごとく、奥さんは、
それに反発してしまうでしょう。
だからカウンセリング……ということになります。
どなたか間に入って、奥さんと冷静に話せる人がいらっしゃるとよいのですが……。
(あるいは奥さん自身は、すでにそれに気づいておられるのかもしれません。
自分でもどうしようもなく、自己否定から自暴自棄になっておられる可能性もあります。)

 私は、こだわりの強さと、心の緊張状態から、奥さんのうつ病を疑っていますが、
そのあたりのことは、一度専門医に相談なさってみられたらどうでしょうか。
(奥さんも、そういう点では、表面的にはともかくも、不幸にして不幸な家庭環境に
育った女性とみてよいのでは(?)。
とくに奥さんと、奥さんの母親との関係が、乳幼児期に、不全だったように感じます。)

●子どもの進学

 つぎに12歳の長女の進学問題についてです。
この際、子どもの進学問題については、あきらめなさい。
つまりTRさんの手に負えるような問題ではないということです。
が、鉄則があります。

(1)「なるようになれ!」と、自分の心から進学問題を切り離すこと。
(2)「許して、忘れる」を貫くこと。
(3)「暖かい無視」を忘れないこと。
(4)「求めてきたときが、与えどき」と心得て、すかさず、必要なことはしてやること。

 これが「あきらめる」の意味です。
「捨てろ」とか、「育児放棄しろ」とか、そういう意味ではありません。
もちろんお嬢さんを切り離せということではありません。
切り離すのは、「進学問題」だけです。
どんなに成績が悪くても、「友」として、子どもの横に立つということです。

 で、その上で、私は、『あきらめは、悟りの境地』という格言を考えました。
そこは実におおらかで、すばらしい世界です。
子育ての極致のようなものです。
あなたも勇気を出して、あきらめてみてください。
気が楽になりますよ。
「お前の分は、オレががんばってやるからな」と宣言すればよいのです。

 あとは娘さんが、自分で自分の道をさがし、求めていくでしょう。
親としてはつらくも、さみしいときかもしれませんが、TRさんのできることにも
限界があるということです。
で、しばらくは迷い、悩んだりしますが、その分だけ、お嬢さんは、たくましく
育っていきます。
私たち親ができることと言えば、子どもをうしろから見守るくらいなことだけです。
子どもが巣立つときというのは、そういうものです。

●自分を追い込まないこと

 はげしく葛藤しているということは、この時点においては、結論を出さないこと。
そのほうが、賢明かと思われます。
『迷っているときは、結論を急がない』『悩んでいるときは、結論に向かわない』が、
原則です。

 重要なのは、とくに奥さんに対して、未練を残さないように、(あるいは反対に深い愛情
を感ずるまで)、心の整理をしておくことではないでしょうか。
「別れれば、まったくの他人」、あるいは反対に、「死ぬときは、いっしょ」と、心の覚悟
をどちらかに決めること。
また決まるまで、自分の心を見つめること。

 その覚悟ができるまで、「急がない」が、原則です。

 私も事情は異なりますが、同じような立場になったことが、数回、あります。
で、こういうときはジタバタしない。
(流れ)を感じたら、その(流れ)に身を任す。
コロリとどちらかに倒れるまで、待つ。
結論はそのあと、自ずと出てきます。
そしてそのとき、きわめて自然な形で、離婚もでき、また子どもの問題も解決します。
「何だ、こんなことだったのか!」とです。

 今、TRさんは、「子どもが20歳になるまで」とか、「娘の進学が心配」とか、
いろいろと自分を追い込んでいます。
心理学的には、TRさんは、自責型人間ということになります。
(奥さんは、それに対して、他責型?)
あまりそういうふうに、考えない方がよいです。
こうした問題は、なるようにしかならないし、またなるようになっていくものです。
もう少し肩の力を抜いて、無責任になるところは、なる。
ズボラになるところは、ズボラになる。
あるいは、仕事に没頭する……。
幸いにもすばらしいご職業をおもちなのですから、それこそ好き勝手なことができるはず。

 私たち夫婦も、月例行事のように夫婦喧嘩をしています。
しかしそういうときは、(こんなことを、おおっぴらに書くと、叱られそうですが)、
「女など、本気で、相手にしない」です。
(結構、男尊女卑思想に染まった部分もありますので……。)

 私など、一年中、「母親」という女性の世界で生きていることもあって、いつもそう
感じています。
「女など、本気で、相手にしない」です。
(私のワイフはワイフで、「男など、本気で、相手にしない」と考えていますよ。)

 それに離婚と言っても、いまどき、何でもないことです。
日本人も、20数%の人が、離婚を経験しています。
アメリカの離婚率より、やや低いかな……というところです。
5組に1組、あるいは5人に1人ということです。
あまりおおげさに考える必要はありません。

●もし、できれば……

 もし、できれば、負けを認めるという方法もあります。
プライドはみな、捨てて、こう言うのです。
「お前を愛している。お前なしでは生きていかれない。もう一度、ゼロからやりなしたい。
協力してほしい」と。

 奥さんの前で、心を丸裸にしてみるのです。
心底、心から、そう叫んでみるのです。
離婚するにしても、またしないにしても、一度は、その関門を通りくぐらなければなり
ません。
「やるだけのことはした」という思いが、仮に、それが奥さんに通じなくても、あなたの
心をさわやかにします。

このとき、子どもを理由(ダシ)にしてはいけません。
「修復しよう」という下心も捨てます。
ありのままに、ありのままのあなたの心を語ります。
TRさんは、TRさんだけのことを考えて、行動すればよいのです。
またそれが(すべて)です。

 あなたの真心が伝われば、奥さんの心もそれで溶けるはず。
が、溶けなければ、それまで。
あとは(流れ)に静かに身を任せます。
運命を受け入れ、それに身を委ねます。

●私のこと

 話は変わりますが、私も、最近、「故郷」とは縁を切る覚悟をしました。
言うなれば、故郷との離縁です。
(簡単なようで、これは実際には、たいへんなことですよ!)
今度、法事をすませたら、それでおしまい。
親戚づきあいも、なし。
ご愛想も、体裁もなし。
ついでにxxとも、お別れ。
自然のなりゆきで、そうなりました。
が、実にさわやかな気分です。

 家族自我群(呪縛感)の中で、もがき苦しんでいるときは、ほんとうにたいへんでした。
運命をのろい、運命にさからっていたからです。
が、まず最初に、(いい子)ぶるのをやめました。
誤解を解く努力も、やめました。
どうせその程度の人たちなのですから、言いたいように言わせておけばいい。
いろいろ口は出しても、何もしてくれないことがわかったからです。
1人、2人ではない。
全体として、縁を切る。
そういうふうに考えて、運命を受け入れました。

 それ以上に大切なことは、残りの人生を、楽しく有意義に生きることです。
私はすでにやるべきことはした。
じゅうぶん、した。
だからだれにも、うしろ指をささせない!
そういう思いが、私を、今、支えてくれます。
「逃げる」のではなく、「過去の亡霊を断ち切って、前に進むのです」。
どうか、参考にしてみてください。

 (いただきましたメールの転載許可に、感謝します。)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●7月31日

+++++++++++++++++++++

今日で、2009年7月は、終わり。
その7月を、総括してみる。

が、大きな動きはなかった。
日々、平穏にして、無事。
生活にも、これといって、変化はなかった。
今日は6月30日と、だれかが言っても、
「そうだろうな」と思う。

この1か月は、そんな1か月だった。

+++++++++++++++++++++

●日々の記録

 ダイエットは、そろそろ終盤。
現在、(今朝、起きたとき)、体重は、60・7キロ。
体脂肪率も、21~22%に低下。
あとは、この体重を維持するだけ。

 運動は、よくした。
昨夜も、9時過ぎに、全速で40分近く、自転車で走った。
日中にも、5キロほどウォーキングしたから、合計で2単位、運動したことになる。
今日も、同じくらい、運動をするつもり。

 それから今月から、近くの温泉に通い始めた。
料金は、1人、1300円+消費税。
いつも入浴後、2階にあるレストランで食事をしている。
それが楽しみ。
 しばらく、週に1度、曜日を決めて通うつもり。
(平日は、ガラガラで、のんびりできる。)

 映画は、3~4本、観た。
これはボケ防止用。
ボケ防止用だから、劇場で観なければ意味がない。
家の居間で観ていると、ワイフは、いつもそのまま眠ってしまう。

 文化的なことは、あまりしなかった。
本は、単行本を、4~5冊、雑誌も、4~5冊、買った。
それだけ。


●持病

 健康といっても、私の年齢になると、(今の状態)を維持するだけでもたいへん。
それができれば、御(おん)の字。
で、ひとつ気をつけていることがあるとすれば、持病をつくらないこと。
このことは、母を介護しているときに学んだ。

 60歳を過ぎると、持病のあるなしで、その人の健康は、大きく影響を受ける。
持病が急速に拡大するのも、このころ。
私が知るかぎりでの話だが、ひざ関節、腰などを傷(いた)める人が多い。
もちろん内臓疾患、成人病もある。
50歳くらいまでは、体力と気力で、カバーすることができる。
しかし60歳を過ぎると、体力と気力が急速に衰えてくる。
とたん内側に隠れていた持病が、どんと表に出てくる。

 80歳を過ぎても健康な人というのは、その持病がない。
だから持病を作らない。
体の不調を感じたら、すみやかに治す。
(今の状態)を保つ。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●足跡

私のBLOGや掲示板、それにYOU・TUBEのほうに、いろいろと
書きこみをしてくる人がいる。
たいていは好意的なものだが、中には、批評を通り越して、非難、さらには、口汚く
ののしるものもある。
先日も、私のYOU・TUBEの動画について、こう書いてきた人がいた。
「こんなひどいレッスンを受ける子どもたちが、かわいそう。即刻、教室を閉鎖すべし」
と。

しかしYOU・TUBEのばあい、「足跡」がそのまま残るしくみになっている。
コメントを書いた人を逆追跡すると、その人が制作、アプロードした動画を、そのまま
見ることができる。
つまりその動画から、その人を特定することができる。
その人は、そんなことも知らず、私の動画にコメントを書きこんだらしい。

それにしても、ほんの一部だけを見て、「閉鎖すべし」はない。
何が気に食わなかったのか……?
……というより、私はその女性をよく知っている。
10年ほど前、私の教室に怒鳴りこんできた女性である。
「あなたは、先祖を否定している。そういう人間は教師としてふさわしくない!」と。
(Rデザインの、Kさんですね!)

 どこかの宗教団体に属しているらしい。
が、そのときは、私は訳もわからず、しばらくしてからその女性に電話すると、
夫にあたる男性が出た。
その男性は、「すみません」「すみません」だけを繰り返した。
妻の行状に、かなり困っているといった様子だった。

 ついでに言うと、私は一度だって、「先祖」なるものを否定したことはない。
人、それぞれ。
ただ言えることは、私自身も、つぎの世代の人たちにとっては、その「先祖」に
なる、ということ。
私は、私。
つぎの世代の人たちは、つぎの世代の人たち。
だからつぎの世代の人たちに、恩を着せるようなことだけは、したくない。
つぎの世代の人たちは、つぎの世代で、勝手に生きていけばよい。
私という「先祖」に遠慮する必要はない。

 そういう思いが私にはあるから、私は「先祖」という言葉を口にしたことはない。
そういう私の生き様を、その女性は、「否定した」ととらえた。……らしい。

 話は脱線したが、BLOGにせよ、HPにせよ、何かの書きこみをするときは、
じゅうぶん注意したほうがよい。
何らかの足跡が残る。
その足跡から、その気になれば、あなたが書いたということが、わかってしまう。
こんな例が、ある。

 2年ほど前だが、同じように、同じようなことを書いてきた女性がいた。
が、文章に、独特の特徴があった。
(今回も、「即刻」「閉鎖すべし」という2語に特徴があった。)
そこでその文章から、いくつかの言葉を抜き出し、ヤフーの検索エンジンにかけてみた。
するとズバリ、同じような文章が、いくつか検索できた。

 よほど文章を書きなれた人は別として、そうでない人は、同じような文句を使って、
同じような文章を書く。
その女性は、別のBLOGに、別のコメントを書いていた。
そして「Yxxxx」というハンドル・ネームを残していることまでわかった。

 そこで今度は、「Yxxxx」というハンドル・ネームを検索してみた。
すると、同じ名前を、メールアドレスの一部に使っていることもわかった。

……ということで、私はその女性が、神奈川県のC市周辺に住む、YYという
女性であることまで知ることができた。

 だから私はそのコメントの返事に、こう書いた。

「神奈川県C市のYYさん、かなりきびしいコメントですね。
たいへん参考になりました」と。

 みなさんも、コメントを書きこむときは、くれぐれも、注意したほうがよい。
もしそれが犯罪につながるような内容であれば、そのまま警察に通報される
ことにもなる。
そうなれば、「ただの書きこみです」では、すまなくなる。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

●パソコンは、ほしいときが華(はな)。

 パソコンは、高価な買い物であることにはちがいない。
10~20万円といっても、命が短い分だけ、高価。
長く使っても、せいぜい2年。
それに合わせて、周辺機器を買いそろえたりすると、かなりの金額になる。

 そのパソコンについて、最近こんなことを考える。
「買ったら、損なのか、それとも買わなければ、損なのか」と。

 で、私の得た結論は、こうだ。
「買わなければ、損」。
それには理由がある。

 少し前、何かのことで、ひどく落ち込んだときがある。
何をするにも、おっくうになった。
もちろんパソコンに向かうのも、いやになった。
もちろん頭の中は、からっぽ。
休眠状態。
文章を書こうにも、アイディアそのものが浮かんでこない……。

 言うなれば、私は認知症の疑似体験をしたということになる。
(あるいは、本当に認知症になりつつあるのかもしれない……。)
が、もし本当に認知症になってしまったら、それこそパソコンどころではなくなって
しまう。
文章が書けなくなってしまう。
考えることもできなくなってしまう。

 だからそのあとワイフに私は、こう言った。
「新しいパソコンがほしいと思っているうちが、華(はな)だね」と。
つまり「パソコンなんか、いらない」と私が言い出したら、私は、お・し・ま・い。
それを思ったら、新しいパソコンを買うことなど、何でもない。
それにあえて付け加えるなら、パソコンは、現代の必需品。
「生きるための道具」と言い換えても、けっして、過言ではない。

 で、話は変わるが、今、我が家には、ひとつだけ「家宝」と言えるようなものがある。
古九谷焼きの布袋様(ほてい様)の置き物である。
江戸時代のものだと思うが、年代はわからない。
しかし精緻な作りは、ほかにはない。
恐らくその道の職人が、何か月以上もかけて作り上げたものにちがいない。
値段をつければ、数百万円以下ということはないだろう。
昔、私の祖父が、「浩司、これひとつで、家が一軒、建つ」と言っていたのを覚えている。

 その置き物を見ながら、ときどき「パソコンと置き物とどちらが価値があるか」と
考える。
布袋様の置き物のほうは、これから先も、何代もその価値を保ちつづけるだろう。
一方、パソコンのほうは、それこそ2年ごと、長くて5年ごとに、その寿命を終える。
大切に磨いて使っても、意味はない。
で、これについても、私の結論は、こうだ。

 布袋様の置き物のほうは、売ってはじめて、その価値が出る。
それまでは、ただの置き物。
見た人が、「ほほう、これはすばらしいですね」と言って、それで終わってしまう。
で、その布袋様を売ったとする。
数百万円なら数百万円でよい。
問題は、そのお金を、どう使うか、だ。
どう、有効に使うか、だ。

 一方、パソコンのほうは、今を生きる私を側面から支えてくれる。
その道具としての、パソコンがある。
だからやはり最新のものが、ほしい。

 たとえば今、原稿ファイルを読み出そうとすると、読み出すだけで、10分ほど
時間がかかる。
そのファイルは、約3万ページもある。
それを書き換えたあと、保存をかけると、今度は、20分ほど時間がかかる。
HPについては、保存をかけるだけでも、ちょうど2時間10分ほど時間がかかる。
こうした問題が解決できるなら、10~20万円は、安い。

私「もしぼくが、新しいパソコンに興味を示さなくなったら、ぼくはおしまいだね」
ワ「そうね。新しいパソコンがほしいと言っているうちが、華(はな)よね」
私「そうだね。ぼくもそう思う。そういう気持ちが消えないように、がんばるよ」と。

 だから、今、「買う」といっても、心のどこかで、「買わなければならない」
という、おかしな意思が働く。

(布袋様は、写真に撮って、近々、マガジンHTML版のほうに載せておきます。)

 
Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

●二男のラジオ番組

 前から話には聞いていたが、二男が、ときどきラジオのトーク番組に出るように
なった。
今朝も、それを聴いた人がいて、その話をしてくれた。
「息子さんが出てましたよ」と。

昨年までは、ときどき、「これからラジオで話すよ」という連絡が届いたりしたが、
最近は、ない。
ないから、それを聴いた人から、連絡を受けて知る。

 息子の活躍を耳にするのは、うれしい。
何というか、手にしたバトンを、もうひとりの「私」に手渡すような気分である。
もう少し大げさに言えば、「分身を残した」感じ。
「これでぼくも、死ねるなア」と。

 ラジオの中では、今、本を書いているようなことを言っていたとか。
二男は子どものころから、独特の感性をもっている。
数年前も、一時帰国した折、地元の中学校で講演をした。
そのときのこと。
二男は、破れたTシャツを着て、講演をした。
ギターを弾きながらの講演だったという。
私にはそういうマネはできない。
言い換えると、二男という息子は、そういう息子である。

 本名は、「林宗市(はやし・そういち)」。
どこかでその名前を耳にしたら、どうか、よろしく。
現在は、アメリカのインディアナ州立大学で、スパコン(スーパーコンピュータ)の
技師をしている。
世界中のスパコンをつないで、ひとつにするという、とんでもない仕事を手がけている。

 先に「うれしい」と書いたが、ソラ恐ろしい感じすらする。


Hiroshi Hayashi++++++++JULY・09++++++++++はやし浩司

【意思論】

++++++++++++++++++

脳細胞というのは、それぞれひとつずつは、
ON/OFFのスイッチにすぎない。
そのスイッチが無数に集合化されると、
そこに「意思」が生まれる。

私たち人間が、その一例ということになる。

もちろん脳を解剖しても、そんな意思は、
どこにもない。
そこに見えるのは、神経細胞(ニューロン)と、
それから延びる神経突起だけ。
神経突起のつなぎ目(シナプス)だけ。

たとえば私の名前は、「はやし浩司」だが、
脳のどこかに、「はやし浩司」という文字が
書きこまれているわけではない。
こと脳ということになれば、偉大な哲学者の
脳も、そこらのオジサンの脳も、見た目には
同じ。
電子顕微鏡でいくらのぞいても、(ちがい)すら、
ぜったいにわからないだろう。

++++++++++++++++++

●一寸の虫にも……

 「一寸の虫」という言葉は、よく耳にする。
しかしあのハチ(蜂)ほど、頭のよい虫はいない。
しっかりとした意思も、もっている。

 ときどき首をかしげて、何かを考えている様子を
見せることがある。
その姿は、人間のそれ、そっくり。
あまりにもそっくりなので、ときに思わず、笑ってしまう。

 が、本当に驚くべきことは、あんな小さな脳の中で、
そうした思考力や、意思をもっているという事実。
さらに最近、こんなことにも、驚いた。

●たったの66MB!

 私は原稿を書きながら、一定の分量になると、「総集編」
というファイルに、それを追加していく。
その「総集編」が、現在、約3万ページになった。
1ページが、約1600文字である。

 私にとっては、この10年の、「命」そのものということになる。
つまりこの10年分の原稿が、3万ページ。

 で、それをパソコンの中のハードディスクだけではなく、
外付けのハードディスクなどにも、分散して保存している。
つい先日は、USBメモリーの中にも、保存した。
たまたま4GBのメモリーを、1000円前後で売っていた。
それでそれを買い、3万ページの原稿を、保存してみた。

 が、驚いたのは、そのあとのこと。
それでそのメモリーは、私の原稿で、さぞかしいっぱいになった
だろうと思い、プロパティを開いて調べてみた。
ところが、使用したのは、たったの66MB!

 4GBのメモリーに保存すれば、4000分の66!
全体の1・7%!
この分で計算すると、4GBのメモリーをいっぱいに
するには、この先、約580年もかかることになる!

 私はそのUSBメモリーを指先でクルクルといじりながら、
「ぼくの命は、こんなものか」と、がくぜんとした。

●USBメモリーに「意思」はあるか

 脳は、構造的には、ON/OFFのスイッチのかたまり。
USBメモリーも、基本的には、その脳と同じ。
ということは、USBメモリーに、人間、あるいはハチと
同じような(意思)があると考えても、おかしくない。
 
 ハチと比べても、きわめて希薄な意思かもしれないが、
電流が流れたとたん、USBメモリーは、そこに蓄えられた
情報とは別のことを、考える。

 たとえば私が総集編の原稿を、そのUSBメモリーから
呼びだしたとする。
そのときUSBメモリーは、「めんどうだな」とか、
「今日は疲れている」くらいのことは、考えるかも
しれない。

 ON/OFFだけのスイッチだから、そんなことは
考えないだろうと、あなたは思うかもしれない。
しかし私たちの脳だって、基本的には、USBメモリー
と、その構造において、どこもちがわない。

●水からの伝言(水伝)

 少し前、『水からの伝言(略して、「水伝」ともいう)』という、
これまた奇想天外な説を主張した学者(?)がいた。
エセ科学もよいところ。
科学性、ゼロ。
再現性、ゼロ。
デタラメ、インチキ!

 が、驚いたのは、このことではない。
地方によっては、教育委員会レベルで、この説を信奉し、
各学校で、それをもとに、「美しい言葉」運動が始まったこと。
(この静岡県でも、始まった!)

 が、その「水」に、本当に意思がないかということになると、
私はそうは思わない。
理屈で考えれば、構造的に、ON/OFFになっている物質には、
すべて(意思)があるということになる。
「水」とて例外ではない。

 しかし私がいう「水」というのは、太平洋全体規模の「水」をいう。
が、それとてきわめて希薄なもので、「美しい氷の結晶を作るか、
作らないか」ということまで決めるほどの意思ではない。
ひょっとしたら、太平洋全体の水の意思を統合しても、一匹のハチが
もつ程度の意思かもしれない。
(が、それとて、宇宙的規模になると、ものすごいことになるが……。)

●意思論

 そこで最後に、もう一度、「意思」について考えてみる。
つまり私が言いたいことは、(生物)だけが、意思をもっていると
考えるのは、正しくないのではないかということ。

 現に、コンピュータは無生物だし、USBメモリーにいたっては、
ただの(物)。
しかしその中には、「私」が、ぎっしりと詰まっている。
もしこのUSBメモリーが、たとえば人工知能のようなソフトと
結合すれば、そこに別の「私」、つまり(意思)をもった「私」が、
生まれるかもしれない。

 「今、何をしてほしいですか?」と問いかけると、コンピュータが、
「暑いから、換気をしてほしい」とか、答えたりする。
もちろん「どうすれば、意思として認識できるようにすることができるか」
という問題もある。
コンピュータでいうなら、(解読ソフト)のようなものが、必要。
最低限、マイクやスピーカも、取り付けなければならない。
が、それはともかくも、こう考えていくと、ありとあらゆるものに、
意思があるということになる。

 海にも、地球にも、太陽にも、宇宙にも……、と。
ただ誤解してはいけないことは、仮にあったとしても、その意思は、
人間がもつ意思、(あるいはハチでもよいが)、そうした意思とは、
きわめてかけ離れた意思であるだろうということ。

 仮に人間との間の疎通装置のようなものができたとしても、人間には
理解できないものと考えるのが正しい。
逆に言うと、宇宙的規模からこの地球をながめると、人間とハチの
誤差など、問題にならない。
似ているというより、まったく同じ。
つまり海や、地球や、太陽や、宇宙がもっている意思(?)は、
それくらい人間の意思とは、かけ離れているということ。

 ……とまあ、話がかなりオカルト的になってきたので、この
話は、ここまで。
しかしこれだけは言える。

 私やあなたには、たしかに(意思)がある。
しかしその(意思)はどこから、どのようにして生まれてくるのか、
そのメカニズムは今もなお、深い謎の奥にあるということ。
言いかえると、「私」を知るということは、それほどまでに
むずかしいこと、ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 意思論 意思とは はやし浩司 水からの伝言 水伝
意思について)


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2009年8月30日日曜日

*Divorces of Old Couples in Japan

【熟年離婚】(17% of old couples have been divorced now in Japan)

●ふえる熟年離婚

厚生省大臣官房統計情報・人口動態統計課の「人口動態調査」によると、昭和25年から平成7年までの間に、離婚率は、4・6倍になったという。

 その中でも、結婚生活20年以上の熟年夫婦の離婚率は、3・5%から、16・9%にまで上昇しているという。17%といえば、ほぼ5組に1組ということになる!

 実は、私の知人の中にも、今、離婚の危機に立たされている人が、何人かいる。しかしそういう人たちと会って話をしてみると、どこまでが冗談で、どこから先が、真剣なのか、わからなくなってしまう。そのわからなさこそが、この熟年離婚の特徴の一つかもしれない。

知人「もう、5年も、セックスレスだよ」
私「本当かあ!」
知人「寝室も別々だよ」
私「本当かあ!」

知人「だからさ、オレにも、愛人がいてさ」
私「本当かあ!」
知人「家内も、今ごろは、どこかの大学生と、飲み歩いているよ」
私「本当かあ!」と。

 そんな調子で、会話がかみあわなくなってしまう。が、それでいて、その奥さんからは、こまめに礼状が届いたり、電話がかかってきたりする。離婚の雰囲気など、どこにも感じさせない(?)。

 で、それを話題にする私のほうも、疲れた。私の実感では、「離婚する」「離婚する」と、騒ぐ人ほど、離婚しない。本当に離婚する人は、静かに、だれにも悟られずに、離婚する……ということか。

 その熟年離婚には、大きな特徴がある。今までの経験をまとめてみると、こうなる。

(1)夫の知らないところで、妻側が、先に離婚の決意をかためてしまう。
(2)それまでは表面的には、従順で、家庭的な妻であることが多い。
(3)夫の職業は、ほとんどが会社勤めのサラリーマン。会社人間であることが多い。
(4)夫は、まじめタイプ。むしろ、家庭思い。家族思い。家庭サービスもしている。
(5)共通の趣味や、目的がない。休日などは、バラバラの行動をすることが多い。
(6)妻側から離婚を申し出られると、夫は、「どうして?」と、ろうばいしてしまう。
(7)子どもの結婚など、子育てが終わったときなどに、離婚しやすい。

 ほかにもいろいろあるが、実は、私たち夫婦も、あぶない。しかし私のように、「あぶない」「あぶない」と思っている夫婦は、離婚しない。それを知っているから、「多分、だいじょうぶだろう」と、自分では、そう思っている。

 そこでこうした熟年離婚を防ぐには、どうしたらよいかということになる。が、それとて、つまり、「防ぐ」という発想とて、一方的に、夫側の勝手にすぎない。夫としては、離婚されたら困るかもしれない。しかし一方の当事者である、妻側は困らない。離婚を望んでいる。

 だから「防ぐ」という発想そのものが、夫側のものでしかない。妻側にすれば、「どうすれば、離婚できるか」。さらには、「どうすれば、夫の束縛から解放されて、自分らしい人生を、もう一度、生きることができるか」ということが、問題なのだ。

 事実、熟年離婚する妻たちは、こう言っている。「残りの人生だけでも、私らしい生き方を、してみたい」と。だから、「防ぐ」という発想そのものが、そぐわない。そういう妻たちにとっては、かえって迷惑になる。

 そこで、これはあくまでも夫側の立場の意見だが、熟年離婚を防ぐためには、とにかく『協同意識』をもつしかないのではないかということ。共通の目的が無理なら、趣味でもよい。たがいに、たがいの心の補完をしあうような活動をしなければいけない。土日になると、夫は、ひとりで魚釣り。妻は、テニス仲間と旅行……というのでは、あぶないということ。

 で、私たち夫婦も、その熟年離婚の予備軍のようなものだから、偉そうなことは言えない。しかし最近、私は、こう思う。

 夫は、夫で、妻の生きがいを、いっしょにさがし、育ててやる。それが熟年離婚を防ぐ、最大の方法ではないか、と。「私は夫だ。お前らを食わせてやっている」という発想では、熟年離婚されても、文句は言えない。

 そう言えば、離婚の危機にある(?)と思われている、冒頭にあげた知人たちは、どの人も、どこか権威主義的。夫意識が強すぎるのでは? 「男は仕事だけしていれば、一人前」「それでじゅうぶん」「妻は家庭に入って、家事をすればよい」と、日常的に、そんなふうに考えているような感じがする。つまり、そういう発想をする夫ほど、あぶないのでは?

 今夜もワイフに、「おい、今じゃあ、5組に1組が熟年離婚する時代だそうだよ。20年間も結婚生活をしていてね……」と話すと、ワイフは、どこか感慨深げ。「じゃあ、私たちも……」と言いそうな雰囲気だった。うちも、あぶないなア~。

【補記】

 どうせ17%も、熟年離婚するなら、そういう熟年離婚を、積極的に考えなおしてみたら、どうだろうか。夫婦も、いつまでも「結婚」というワクにとらわれないで、自由に、自分たちの時間を楽しむとか……。そういう発想で、たがいの関係を、もう一度、つくりなおす。

 もっと言えば、「結婚」という概念を、一度解体した上で、つくりなおす。こういう時代になったのだから、いつまでも、旧態依然の結婚観にしがみついているほうが、おかしいのかも?

Hiroshi Hayashi++++はやし浩司

●疑似・熟年離婚

++++++++++++++++++

9月x日、私は故郷のM町と、絶縁する。
言うなれば、「熟年・離縁」。
故郷と言いながら、私にとっては、腐れ縁。
思いも枯れた。
未練も枯れた。
言い残すことは、何もない。
いろいろ言いたいことはある。
あるが、今さら言いたくもない。
言ったところで、何も変わらない。
説明しても、どうせわからないだろう。
どうにもならない。
いや、それ以上に、私の人生も、秒読み段階に入った。
だからきれいさっぱり、自分の心の中から消す。
だから「熟年・離縁」。

++++++++++++++++++

●熟年離婚

 人は時として、ひとつの人生を生きながら、別の人生を経験する。
ひとつの例が、「熟年離婚」と「熟年・離縁」。
まったくちがうようで、中身は同じ。
心の動きは同じ。
今、私は熟年・離縁を経験しながら、他方で、熟年離婚を経験しつつある。
が、どうか心配しないでほしい。
私とワイフが離婚するわけではない。
そのつもりもない。
あくまでも「熟年・離縁」。

つまり人の心は複雑なようで、ときに、定型化することができる。
似たような例を経験しながら、それをもとに別の経験を定型化することができる。
わかりやすく言えば、私は今、熟年・離縁を経験しながら、「熟年離婚もこんな
ものだろうな」と、想像することができる。

●なぜ離縁?

 いつかゆっくりと、それについて書くときがやってくるだろう。
今はまだ、そのときではない。
話せば長くなる。

 要するに、失望の連続。
裏切られることはあっても、何もよいことはなかった。
が、「それでも……」と思って、故郷にしがみついてきた。
私なりに(縁)を大切にしてきた。
つまりそれも限界に来たということ。
だから離縁!

 もっとも私は故郷を離れて、40年以上になる。
正確には44年!
いまだに故郷にしばられるほうがおかしい。
おかしいが、しばられた。
ずっとしばられた。
その呪縛感には、相当なものがあった。
だから今の気持ちは、「もう、たくさん!」

●香典抜き

 もちろんきっかけは、ある。
私はずっと絶壁のフチに立っていた。
その私を背中から、どんと押すような事件があった。
「事件」というのも、大げさに聞こえるかもしれないが、事件は、事件。
ワイフは、「あの男のやりそうなことね」と言った。
わかってはいるが、私の背中を押すには、じゅうぶんなパワーがあった。

 何と、私の肉親の葬儀のとき、間に立って、香典抜きをしていた親類がいた。
ほかの親類から預かった香典を、自分の懐(ふところ)に入れていた。

それは「浩司君、ところで……」という話から、始まった。
「こんなこと聞きにくいのだけど、ぼくが出した香典、君に届いているだろうか?」と。

 私が「届いていない」と答えると、声にもならないような声を出して、その人は
「ハア~」と言って、驚いた。
そのまま黙ってしまった。

 こうした香典抜きが、いかに親戚関係を破壊するものか、葬儀を経験したことのある人
なら、わかるはず。
私はその親戚づき合いが、つくづくいやになった。
愛想(あいそ)も尽きた。

「あのNS氏というのは、そういう男ですよ。私も、さんざんだまされた。
しかしそこまでやるとはねエ……!」と私。

●熟年離婚

 つまらない話を書いたが、そういう意味では、(貧乏)というのは、恐ろしい。
金銭的な貧乏が、時として、その人の心まで貧しくする。

私「まあ、私は無視します。あんな男、相手にしたくありません。定職ももたず、かわ
いそうな男です」
相「しかし、ぞっとするような話です……」
私「だから葬儀のあと、あなたのところに電話を入れていたのですね」
相「そうだったのか。そうだったんだ。浩司君とぼくが、連絡を取り合っていないか、
それを確かめるために、ね」
私「ハハハ、そこまでやるとはねエ……」と。

 で、そのとき私は、理解できた。
熟年離婚を申し出る、妻の気持ちが、である。
グググッと怒りが増幅し、それが頂点に達したとき、突然、急に、心の中がすっきりする。
許したのではない。
受け入れたのでもない。
「もうどうでもいいや」というニヒリズムが、心を満たす。
そのとたん、ス~ッと、心がすっきりする。

●熟年離婚に至るまで

 そこで自分なりに心の中を整理してみる。
そして自分が熟年・離縁に至った過程を、熟年離婚のそれに当てはめて考えてみる。
つぎのが、それである。

(1) 疑問期…「これでいいのか」という疑問をもち始める。
(2) 反復期…疑問と否定を繰り返す。
(3) 確認期…「これでいい」という確信をもちはじめる。
(4) 決断前夜…身辺の整理を始める。
(5) 決断期…未練をふっきり、決別を決断する。

 最大の問題は、「悪人としての顔を、どう吹っ切るか」ということ。
私を悪く思っている人を、心の中で、どう処理するかということ。
イギリスの格言に、『2人の人によい顔はできない』というがある。
どちらか一方の人によい顔を見せることはできても、もう一方の人にまで
よい顔を見せるのはむずかしい。
どちらかに好かれれば、どちらかに嫌われる。
嫌われることを恐れていたら、ときとして、真の友を失うこともある。
熟年離婚についていえば、自分の最後の時間を失うことになる。

 内容について考えてみよう。
ただしこれは、先にも書いたように、私の(熟年・離縁)をもとにして
書いたものであり、(熟年離婚)には、そのまま当てはまらないかもしれない。
「似ている?」という点で、私自身が経験した(熟年・離縁)をもとに、
熟年離婚を考えてみた。

(1) 疑問期…「これでいいのか」という疑問をもち始める。

 現状への不信感がつのる。(夫への不信感がつのる。)
重苦しい日々がつづく。(悶々たる日々がつづく。)
やがてその原因や理由に気づくようになる。(なぜ、そうなるか、それを考える。)
現状を打開しようとする。(空漠とした日々に耐えられなくなる。)

(2) 反復期…疑問と否定を繰り返す。

 「これでいいいのか」という疑問。(「夫婦というのは、どういうものか」と悩む。)
「これでいい」「しかたない」という否定。(自分を納得させる。)
(怒り)と(絶望感)でもよい。(妥協と衝突を繰り返す。)
その2つが、交互に心の中に現れては消える。
家族、親類、社会……もろもろの「糸」にからまれる。(とくに子どもの問題。)
もがく。
苦しむ。

(3) 確認期…「これでいい」という確信をもちはじめる。

 苦しんだ分だけ、心が研ぎ澄まされてくる。(ものごとを割り切るようになる。)
拾い出すものと、棄てるものを、選び分ける。(みなによい顔ができないことを知る。)
それらを天秤にかけながら、取捨選択を繰り返す。(居直る。)
「みなにいい顔はできない」ことを知る。

(4) 決断前夜…身辺の整理を始める。

 身辺の整理を始め、同時進行の形で、心の準備を整える。(覚悟を決める。)
未練の燃焼。(思い残すことがないよう、準備する。)
後悔しないことの確認。
前に向かって進む勇気の確認、(うしろを見ない。振り返らない。)など。

(5) 決断期…未練をふっきり、決別を決断する。

 過去を消し、未来だけを前に置く。
行動として、それを表現する。(離婚を申し出る。)

●2人の人によい顔はできない

 どんな形であるにせよ、また人知れずそれをしたところにせよ、
それをよしとしない人は、かならず現れる。
そういった人にとっては、理由など、何でもよい。
(自分たちから去っていくこと)自体が、悪であり、まちがっているという
ことになる。

 似たような現象は、カルト教団でもよく見られる。
カルト教団にしてみれば、去っていくこと自体、まちがっているということに
なる。
理由があるとしても、あとから理由、つまりこじつけすぎない。

「あいつは親の面倒すら、ロクに見なかった」
「親の一周忌すら、簡単にすませた」
「私への借りを踏み倒した」などなど。

 いろいろ理由をこじつけて、あなたを非難する。
自分から去っていく人間を肯定することは、そのまま自己否定につながる。
だから(去られる側)は、周囲を巻き込んで、援軍を求める。

 熟年・離縁を覚悟する人は、そうした人たちすべてとも縁を切る。
誤解を解くという方法も残されているが、それには相当のエネルギーが必要。
また残された時間は、それほどない。
だから、「思いたければ、勝手に思え」という方法で、居直る。
居直るしかない。
「すべてを断ち切る」という覚悟をもつしかない。

●悪役一筋

 たとえば私は、親類の中では、悪役だった。
遠くに住むことをよいことに、母は、私を悪役に仕立てた。
何かつごうの悪いことがあると、すべて私の責任にした。
その中でも、最大の問題が、祖父が残し遺産の相続問題。

 祖父が他界し、数年後に父が他界した。
祖父は3筆の土地を残した。
その土地を自分名義のものするため、母は、私を悪役に仕立てた。
「私は遺産などいらないが、息子の浩司がうるさいから、判を押してくれ」と。
親戚中に泣きついた。
つまり私がうるさくて困っているから、遺産相続放棄の書類に判を押してくれ、と。

 が、私はそういうことを母がしているとは、まったく知らなかった。
また遺産相続について、私が口を出したことは、一度もない。

 結局母は、自分の思い通りに、ことを運んだ。
同時に、私は、悪者になった。

 誤解と言えば誤解だが、私自身も、最終的には利益を享受するという点で、
それ以上のことは、何も言えなかった。
また当時の私にしてみれば、いくら誤解を解くためとはいえ、親の悪口を言うことは
許されないことだった。
私は沈黙を守った。
叔父の1人に顔面を数発殴られたこともあるが、それでも沈黙を守った。

●熟年・離縁

 しかしこれも人生。
私の人生。
世の中には、もっと複雑で、不愉快な運命を背負って生きている人がいる。
またそういう人の方が、多い。

 みな、それぞれが、それぞれの運命を背負いながら、懸命に生きている。
私もそうだし、あなたもそうである。
その(懸命さ)こそに、生きる意味がある。
無数のドラマも、そこから生まれる。

 私の母にしても、一時は、私は母を恨んだ。
心の水が枯れるまで、恨んだ。
しかし今はちがう。
「母は母で、あの時代を懸命に生きた」という思いの方が優勢である。
かく言う私だって、たいした人生を送っているわけではない。
偉そうなことを言える立場ではない。
もし私が母と同じ立場に置かれたら、私もやはり母と同じことをしていただろう。
それを考えると、どうも自信がもてない。

 で、9月X日。
私は故郷のM町と、縁を切る。
怒っているからでも、また不愉快に思っているからでもない。
人生には、結末というものがある。
その準備として、縁を切る。

 私の故郷は、ここ浜松市である。
それをさらに確固たるものにするため、縁を切る。
だから今、さばさばとした気持ちで、
本当にさばさばとした気持ちで、こんな歌を歌う。

「♪さらば、ふるさと、さらば、ふるさと、ふるさと、さらばあ~」と。
(ただし歌のような涙は、一滴も出ない!※)

 恐らく熟年離婚をして夫のもとを去っていく妻も、似たような気持ではないか。
夫には、理解できないかもしれないが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 熟年離婚 熟年離縁 熟年・離縁)

(注※:補記)

♪『故郷を離るる歌』(ドイツ民謡)

 園の小百合、撫子、垣根の千草、
 今日は汝(なれ)を眺むる最終(おわり)の日なり。
 おもえば涙、膝をひたす、さらば故郷(ふるさと)。
 さらばふるさと、さらばふるさと、故郷さらば。

*National Election of Japan

●衆議院議員選挙(8月30日)

++++++++++++++++++

浜松7区。
3人の立候補者がいる。

順に、
(1) 現職の、片山S氏衆議院議員・元官僚・自民党)
(2) 前職の、城内M氏・元官僚・元自民党)
(3) 新人の、斉木T氏・元アナウンサー・民主党)

+++++++++++++++++++++

今日(29日)までの予想によれば、この7区だけは、週刊誌によって、みな、ちがう。
片山氏優勢というのもあれば、城内氏優勢というのもある。
新人の斉木氏について言えば、「新人」ということで知名度が低い。
しかし「民主優勢」の流れに乗って、他の2人の候補者に肉薄しつつある。

 こういうとき、浮動票の王様を自称する私は、むずかしい選択に迫られる。
浮動票層には、浮動票層としての、プライドがある。
哲学もある。

 その第一。
自分の入れる票は、死に票にしたくない。
ぜったい敗れるとわかっている候補者には、貴重な一票は入れない。

 その第二。
浮動票は、言うなればバランス票。
バランス感覚を重要視する。
本来なら、今回のように、自民党ベタ負けとわかっているというときには、
自民党に一票を入れるということも、当然、考える。
民主党のベタ勝ちというのは、浮動票層の望むところではない。
またそれは日本の民主主義制度にとっても、よくない。

 が、今回は、異変が起きた。
「激戦区」というよりは、「混戦区」。

 片山氏と城内氏は、いうなれば同じ穴のムジナ。
城内氏は、もともと自民党。
当選すれば、自民党に復帰する。
自民党系の票は、片山氏と城内氏の2人で、分け合う形になる。
こうなれば、斉木氏有利!

 一方、城内氏と斉木氏の関係も、それに似ている。
城内氏は、地元では人気度が高い。
片山氏と一対一の一騎打ちになれば、今回は、城内氏が勝つはず。
これに対して斉木氏は、民主党優勢の流れに乗っている。
反自民党の票は、城内氏と斉木氏の2人で、分け合う形になる。
こうなれば、片山氏有利!

 つまり三つ巴の混戦状態。
地元の雰囲気からすると、(あくまでも私の印象だが……)、
城内氏が有利、そのあとを、片山氏と斉木氏が猛追しているといった
ところか。

 が、自民党の片山氏に票を入れても、死に票になる。
今回は、当選は無理。
そこで城内氏に入れるか、斉木氏に入れるか……?
そのとき第一に考えるのが、城内氏が元自民党であること。
(繰り返すが、当選すれば、当然、自民党に復帰。)
斉木氏が民主党であること。

 自民党か民主党かということになれば、今の流れからすれば
民主党ということになる。
が、先にも書いたように、城内氏の支持基盤は固い。
となると、最終的にそれを決めるのは、私たち浮動票層ということになる。
つまり、投票率。
投票率で決まる。
投票率が高ければ高いほど、斉木氏(民主党)に有利になる。
(一方、投票率が低ければ低いほど、片山氏に有利になる。)

 現在までの予想によれば、明日のこの7区の投票率は、80%近くになると言われて
いる。
ということは、斉木氏が、がぜん有利ということになる。

 では、どう判断したらよいのか。

(1) バランス感覚が働かない

 今回の選挙で特徴的なのは、本来なら働くはずのバランス感覚が、
働かないということ。
AS首相は、昨日、「自民党の支持率が低いのは、今までの自民党に責任が
ある」というような発言をした。
これなどは、言い逃れもよいところ。
AS首相という人は、自分のことがまるでわかっていない。
わかっていないから、鉄槌を加えてやるしかないということになる。

 AS首相は、こう述べている。

『……自民党にとって、今回の衆院選で、与党が「3分の2」を失うというのは早くからの既定路線だった。AS首相は衆院解散後「与党で過半数なら、引き続き信任をいただいたことになる」と、事実上の勝敗ラインを過半数の241議席に設定した』と。

(もしここで自民党が善戦したということにでもなれば、AS首相の続投
が決まってしまう。
それだけは生理的にも、許せない。)

 ……ということで、私は明日の投票率をにらみながら、だれに一票を入れるかを
決める。
投票率速報をにらみながら、夕方遅く投票所に向かうつもり。

投票率が低いようであれば、XX氏。
投票率が高いようであれば、YY氏。
同時に片山氏だけには、勝たせたくない……。

(GOOD NEWS)

 今回の選挙で、自民党が大敗北を期したとしたら、自民党の派閥そのものが
消滅することになる。
あの悪名高い、派閥政治の終焉。
親分(領袖)が落選する。
資金の流れも、止まる。
族議員も消える。
つまり派閥そのものが、成り立たなくなる。

 これはとてもすばらしいことだ。
どこかのタブロイド紙は、「日本の革命」と書いていたが、まさに「革命」。
「革命」と言うにふさわしい。
明日、その日がやってくる。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++はやし浩司

2009年8月29日土曜日

*How do old people like us live and die?

●8月29日

++++++++++++++++++

暑いといえば、暑かった。
しかし全体としてみれば、異常なほど、
涼しい夏だった。
その夏も、もう終わり?
気象庁の発表によれば、9月に入れば、
今度は残暑がきびしくなるとか。
今日は、8月29日、土曜日。

振り返ってみるが、今月も、何かと
あわただしく過ぎていった。
それだけ。
何かをやり残したという実感が、
ほとんど、ない。
たった今、大きなあくびが、出た。
このあくびが、この8月を象徴して
いる。
「これではいけない」と、気を引き締める。
やりたいことは、そこに山のようにある。
が、どれから手をつけたらよいのか、
わからない。

今日も、忙しい1日になりそう。
がんばるしかない。
自分の体に、ムチ打って……。

みなさん、おはようございます。

++++++++++++++++++

●老害問題(価値ある老人をめざして)

+++++++++++++++++++

やがて……というより、もうすぐ、「老害」
という言葉が、日常的に使われるようになる。
現に今、若い人たちの老人を見る目が、
大きく変わりつつある。

「そこにいる老人」から、「そこにいては
いけない老人」へと大きく変わりつつある。
彼らの目に映る老人の姿そのものが、ちがってきた。
今後、私たち老人を見る、若い人たちの目が、
きびしくなることはあっても、やさしくなることはない。

が、ともすれば私たちは、老人の立場で、
自分たちの未来をどう守ればよいか、
それだけを考えやすい。
しかし本当の問題は、高齢化社会を
どうすれば守れるかではない。
どうすれば若い人たちに受け入れられる老人に、
私たちがなれるか。
それが本当の問題。

こうした問題を総合して、「老害問題」と、
私は呼ぶ。

+++++++++++++++++++

●健康な老人

 もう30年近くも前のこと。
当時の三世代同居家庭の若い母親たちを対象に、私は、
祖父母(=同居の舅、姑)に何を望むかというアンケート調査をしたことがある。
その結果、第一の答が、「健康であること」であった。
(ついでに、第二が、「子どもの教育に口出しをしないこと」。)

 今、調査をしても、同様の結果が出ると思う。
私たち老人族は、第一に、健康でなければならない。
そのための努力を怠ってはいけない。
老人の問題は、その老人だけの問題ではない。
家族全体の問題である。
「迷惑をかけないからいい」という問題ではない。
(老人が同居している)ということ自体が、みなに迷惑をかけている。
もっと言えば、私たちが老人であること自体が、みなに迷惑をかけている。
つまり老人の問題は、自分のためというよりは、家族全体の「和」
のための問題と考えるべき。
こんなことを言う人がいた。

「親の介護が3年つづくと、兄弟姉妹はメチャメチャになる」と。

 先日、健康診断に行ったら、そこにいた看護士の女性が、そう教えてくれた。
つまり介護問題はこじれやすく、それが原因で、兄弟姉妹関係がメチャメチャになる。
そういうケースが多い、と。

 老人というのは、できるだけギリギリまで健康でいて、死ぬときは、さっさと死ぬ。
それが理想ということか?
要するに、家族には迷惑をかけない、ということ。
老人問題は、それに始まって、それに終わる。

 ……とまあ、書くのは簡単なことだが、実際には、そのようにうまくはいかない。
「死ね」と言われても、死ねるものではない。
さりとて生きていくのも、むずかしい……。
多くの老人は、最後は、「死ぬこともできないから、生きている」という状況に
追い込まれる。
わかっていても、どうしようもない。
それ以上に、私たちは無力。
加齢ともに、さらに無力になっていく。

●勤労寿命

 人間には3つの寿命がある。
(1)絶対寿命、(2)平均寿命、それに(3)健康寿命。

 絶対寿命というのは、その年齢を超えて生きることはないという寿命をさす。
現在、満130歳が、絶対寿命と言われている。
それ以上の年齢を生きた人はいない。

 平均寿命については、すでにみなさんご存知のとおり。
問題は、健康寿命。
ふつう平均寿命から、10歳を引いた年齢が、健康寿命と言われている。
満84歳が平均寿命なら、健康寿命は、満74歳ということになる。
死ぬまでの、最後の10年は、病魔との闘いということになる。

 そのため平均寿命を延ばすことも大切だが、健康寿命を延ばすことのほうが、
もっと大切。
健康というのは、(病気のない)状態をいう。
もう少しつっこんで言えば、(死の恐怖を感じない)状態をいう。

で、さらにこれら3つに、もうひとつ寿命を加えるとしたら、(4)勤労寿命というのも
ある。

 いくら健康でも、庭いじりと、孫の世話だけで、老後を過ごせといっても無理。
老人には老人の生きがいが必要。
(生きがい)なくして、長い老後を生き延びることはできない。

その(生きがい)となると、働くことを考えるのが、いちばんわかりやすい。
働くことによって、私たちは社会とのつながりを維持することができる。
その働ける限界を、「勤労寿命」という。
勤労寿命は、健康寿命からさらに10年を引いた年齢をいう。
健康寿命が、満74歳なら、満64歳ということになる。

●徴兵制

 これから書くことは極論ということは、私もよく承知している。
あくまでもひとつの(例)として理解してほしい。
その上で、私は、こう考える。

現在、世界で、徴兵制を敷いていない国は、そうはない。
とくにこのアジア地域で、徴兵制を敷いていない国は、この日本だけ。

 だからといって、徴兵制を敷けということではない。
それに賛成しろというのでもない。
しかしこの日本が、かろうじて平和を維持できているのは、日本人がそれだけ平和的
であるからではない。
平和を守っているからでもない。
さらに言えば、日本人のもつ哲学観が、それだけすぐれているからでもない。
戦後、65年の長きにわたって、日本が平和を守れたのは、たまたまアメリカ軍という、
世界最強の軍隊が、日本に駐留しているからにほかならない。

 あるパキスタン人(友人)は、こう言った。
「日本が核武装していないだってエ? とんでもない。そう思っているのは、君たち
だけだ。君たちの国には、アメリカ軍が駐留しているではないか」と。

 つまり日本以外の世界の人たちは、「日本は核武装している」と、思っている。
核武装していないと思い込んでいるのは、この日本人だけ。
『核の傘』というのは、そういう意味である。

日本の平和というのは、言うなれば薄氷の上に立った楼閣のようなもの。
さらに言えば、日本という国は、丸裸のうさぎのようなもの。
で、こうした事実を冷静に積み重ねていくと、その先に浮かび上がってくるのが、
「徴兵制」ということになる。

 その徴兵制について、たとえばこんな徴兵制はどうか。
「満60歳になったら、5年間、徴兵義務を負う」と。

 これに対して、「老人に戦争は無理」と思う人も多いかと思う。
しかしそれは、使用する武器の問題。
年齢の問題ではない。
老人用に、携行する武器を軽くするとか、いくらでも方法はある。
今では戦争の仕方も、大きく変わってきた。
戦闘機は無理でも、戦車くらいなら、私でも操縦できる。(……と思う。)

それに若い人たちを戦場へ送るよりは、はるかに合理的。
若い人たちには、(未来)という人生がある。
が、私たち老人には、すでに(過去)という人生しかない。
若者が死ぬか、老人が死ぬかと問われれば、私たち老人が死んだ方がよい。

 もし「満60歳になったら、5年間、徴兵義務を負う」ということになったら、
私たち老人を見る若い人たちの目も、少しは変わってくるのではないだろうか。

 徴兵制を例にあげたが、これはあくまでも(例)。
老人たちにも、しなければならないことがある。
できることがある。
それが(老人)ということになる。

●老害問題(私たちが老害にならないために……)

 私は(老害問題)を考えるたびに、そこにあのユダヤ人問題を重ね合わせてしまう。
第二次大戦前のドイツと、現在の日本は、よく似ている、と。

 戦前のドイツには、ユダヤ人たちが、1千万人単位で住んでいた。
そういうユダヤ人たちが、ドイツ社会に同化することもなく、自分たちの宗教をもち、
自分たちの言葉で話した。
ドイツの経済を牛耳るようになった。
もちろんドイツが迎えた人たちではなかった。
そのほとんどは、今で言う、違法難民であった。

 その結果、こうした事実が、あの忌まわしい、ユダヤ人虐殺へとつながっていく……。
問題は、あれほどまでに高い文化を誇った、ドイツで、そういう虐殺事件が起きたという
こと。
多くの日本人は、「日本人は、あんな残虐なことはしない」とか、「日本人の私たちは
ちがう」と思っている。
しかし本当に、そうか?
そう断言できるか?

 ユダヤ人虐殺事件はともかくも、これからの日本で、似たような事件が起きないか、
私はそれが心配でならない。
3人に1人が、75歳以上の後期高齢者になったとき、ひょっとしたら、老人排斥運動
が始まるかもしれない。
表立った行動をする人はいないだろうが、人々の心の奥深くで、それは静かに進行する。

 現に今、医療機関において、後期高齢者に対する治療拒否などの問題が、起きつつある。

●やるべきことを見つけよう!

 老人たちよ、けっして今の立場に安住してはいけない。
安住したまま、若い人たちを、上から見下ろしてはいけない。
老人たちだけの別世界を作り、自分たちをその中に隔離してはいけない。
たとえばこんな光景を想像してみるとよい。

 あるみやげものセンターに、一台の大型のバスが止まった。
見ると、60歳以上の老人たちが、ゾロゾロとバスを降りてくる。
どこかの観光地を回ってきた団体である。

 一方、みやげものセンターでは、20代、30代の若い人たちが、声を張り上げて、
こう連呼する。
「いらっしゃいませ!」と。
せわしく動き回りながら、老人たちの落とすお金を、ねらっている……。

 こういう光景が、ごく日常的なものになったとき、はたして私たちは、それを
望ましい社会の姿と言ってよいのだろうか。
もちろん老人には老人の言い分がある。
それはよくわかる。
わかるが、しかしそうした言い分だけでは、若い人たちが感じ始めている矛盾を、
溶かすことはできない。

 老人は老人で、自分たちが生きてきた人生を、若い人たちに還元していかねば
ならない。
「命」を、還元していかねばならない。
「還元」という言葉は、藤沢市に住むI先生が教えてくれた言葉である。
すばらしい言葉だ。
知恵や知識を伝え、人生の先輩として、どう生きるべきかを伝えていく。
それをしてはじめて、私たちは、「老人」と胸を張ることできる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 命の還元 老人問題 はやし浩司 老害)

2009年8月28日金曜日

*How should we get older?

●60キロ(肥満論)

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体重が60キロになった。
(4か月前には、68・5キロ!)
喜んでいたら、義兄も60キロという。
妻の義姉も、60キロという。

見ると、義兄のほうは、丸々と太っている。
腹もポカリと丸く突き出ている。
「兄さんが、……それで60キロ?」と驚いていると、
「そうだと」と。
横にいた義姉も、「私もよ・・・」と言った。
それを聞いて、笑った。

同じ60キロといっても、太り方は、さまざま。
義兄のばあいは、小さな相撲取りといった風。
メタボリック。
見た感じでは、70キロ以上。
一方、義姉は、典型的なずん胴(ごめん!)。

私のばあいは、このところ骨と皮だけといった
風になってきた。
同じ60キロなのに、どうしてみな、太り方が
ちがうのだろう?
義兄と私は、身長は、それほど変わらない。

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●太り方

「りんご太り」とか、「洋ナシ太り」とかいう言葉がある。
内臓脂肪の付き方で、太り方がちがってくるそうだ。
「りんご太りのほうはよくないが、洋ナシ太りはよい」とか、言う。
正確には・・・

リンゴ型肥満(内蔵脂肪型)・・・ビール腹とも言われる。
中年男性に多い太り方。
内臓につく脂肪は生活習慣病を引き起こしやすいと同時に、
体内で悪玉物質の量を増やすので、糖尿病、脳梗塞、高血圧など、
成人病にかかる確率も、非常に高くなるといわれている(All About HP)。

洋ナシ型肥満(皮下脂肪型)・・・お尻、下腹、太ももなど下半身を中心に脂肪がつき、
女性に多く見られる太り方。
皮下脂肪は妊娠や出産時のエネルギー源となるため、あまり減らしすぎても危険だが、
皮下脂肪が蓄積されて代謝されないままでいると、セルライトができやすくなるので
注意が必要(同HP)。

 そこで私は、そもそも「りんご」とか「洋ナシ」という言葉が、日本人の体形には
合っていないのではないかと思うようになった。

 りんご太りは、「たぬき太り」「太鼓腹太り」「すいか腹太り」と言い換えればよい。
洋ナシ太りは、「ずん胴太り」「短足太り」「アヒル太り」と言い換えればよい。
アメリカで見る洋ナシ太りの人は、見るからに、それとわかる。
体の前部と後部の両方に、お尻がついているといった風。
日本人には、ああいう体形の人は、珍しい。
(最近、ふえてきたようには思うが・・・。)

 要するに、肥満は健康に悪いということ。
太り方は、そのあとの問題ということになる。

 そこで私の哲学。

『食べたら損(そこ)ねるのか、食べなければ損(そん)なのか』。
結局は、そこへ行きつく。

 よけいに食べれば、損(そこ)ねる。
食べたら、損(そん)なのである。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●温泉の注意書き

+++++++++++++++++++

このところ毎週のように、温泉街のひとつに
ある温泉浴場に、足を運んでいる。
最近オープンしたばかりの、温泉浴場である。

そこでのこと。
毎回のように、注意書きがふえているのに
気がついた。

最近見たのには、こうあった。
「おむつ、尿取りパッドなどを使用している
方の入浴は、ご遠慮ください」と。

おむつというのは、赤ん坊のそれをいう。
それはわかる。
尿取りパッドというのは、老人のそれをいう。
それも一応、わかる。
わかるが、40代、50代の女性でも、
日常的に尿漏れを起こしている人は多い。
(男性は少ないと思うが・・・。)

しかしこれから先は、こういう注意書きが、どんどんと
ふえてくるのでは・・・?
要するに、「老人の入浴は、遠慮してくれ」と。

++++++++++++++++++++++

●嫌われる老人

 このところどこへ行っても、老人の姿が目立つようになってきた。
温泉だけではない。
映画館でも、バス旅行でも、そしてレストランでも・・・。
通りをふらふらと歩いている老人も、目立つようになってきた。
やがて75歳以上の、後期高齢者の数が、人口の3分の1、つまり
3人に約1人になると言われている。

 そうなったとき、私たち老人族は、どう扱われるのか。
想像するだけで、さみしくなる。

 老人は、老人特有の臭いがする。
いわゆる「加齢臭」というのである。
映画館へ入ったようなとき、それがプンと臭うときがある。
そういう臭いがすると、(私たち自身も老人の仲間なのだが・・・)、即、席をかわる
ようにしている。
が、それは明日の、私たち自身の問題でもある。
やがて映画館の入り口にも、こういう注意書きが並ぶようになるかもしれない。

「加齢臭のある方の入場は、お断りします」と。

 が、それはしかたないとしても、マナーの悪い老人が多いのも事実。
気力が弱くなるせいか、自分で自分を律することができなくなる。

 痰を吐く。
服装がだらしなくなる。
入浴の仕方が、いいかげんになる。
態度が横柄になる。
マナーを守らなくなる。
もちろん加齢臭を放つ。

 つい先日は、コンビニで、ウンチを漏らしたまま歩いている老人を見かけた。
ズボンの後部が、下痢か何かで、べっとりと汚れていた。
そういう老人が、コンビニで買い物をする!

 世の中がそういう老人を受け入れてくれればよい。
「老人というのは、そういうもの」と理解してくれればよい。
が、そうは寛大ではない。
寛大でないことは、若い人たちのBLOGを読めば、よくわかる。

「昨夜、車をぶつけられた。相手は70のクソジジイだった」とか何とか。
「老人」というだけで、白い目で見られる。
差別される。
こうした傾向は、今後加速することはあっても、減速されることはない。

●新たな老人問題

 今はまだ、社会のほうも遠慮している。
表だって、老害論を説く人は少ない。
しかしこうした(やさしさ)も、いまや、風前のともしび。
そのエネルギーは、爆発寸前といってもよい。

 温泉にしても、映画館にしても、バス旅行にしても、さらにレストランにしても、
そのうち年齢制限が設けられるようになるかもしれない。
「65歳以上の方は、ご遠慮ください」とか、なんとか。

 さらに深刻な問題として、(事実、そうなりつつあるが・・・)、がんなどの重病の
ばあい、ある一定年齢以上の老人は、治療そのものを拒否されるようになってきた。
私の実母も、実兄も、そして義兄も、それを経験している。

 自分がそういう立場になったら、どうするか?
いさぎよく死ぬか?
その覚悟は、できているか?

 今のままでは、あと10年を待たずして、全国の火葬場は、飽和(満員)状態に
なるという。
今の今でさえ、夏場や冬場には、3~4日待ちというのは、当り前。
そこで東京都では、大型船を改造して、船そのものを火葬場にする構想まで考えられて
いる。

 火葬場ですら、そうなのだから、そうなれば、老人は、満足な治療すら
受けられなくなる。
さらに一歩進んで、「もう、死んでください」となるかもしれない。

●老人よ、自分の存在価値を高めよう!

 こうした老人問題に対処するためには、老人自身が、自分の存在感を高めることでしか
ない。
わかりやすく言えば、(価値ある老人)になること。
若い人たちから見て、「老人は必要な存在なのだ」と思ってもらえるような老人になること。

 名誉や地位や財産ではない。
過去の名誉や地位をぶらさげれば、かえって嫌われるだけ。
(価値)である。
(存在価値)である。
そのための努力を怠ってはいけない。

 代替的な方法として、「お金を貯める」という方法もあるかもしれない。
お金で老後を買う。
あるいは息子や娘に依存するという方法もあるかもしれない。
息子や娘にめんどうをみてもらう。
しかしこうした方法では、今度は、私たち自身の(生きがい)を満たすことはできない。
それについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略するが、
やはり結論は、ここにくる。

「私たちは私たちで、自分の存在価値を高めるしかない」である。


+++++++++++++++++++++++++++

●親と子、意識のズレ

+++++++++++++++++

私が母に嫌われていると知ったのは、
私が40歳も過ぎてからではなかったか。
それまでは、そう思っていなかった。
母の気持ちを、みじんも疑わないでいた。
「母は、私を好いているはず」と。

しかも嫌われたのは、私が高校2、3年生のころ。
そのころの、私は、「荒れた」。
気持ちがすさんでいた。
親というより、「家」そのものが、私には
負担だった。
居場所もなかった。
それに自分が進むべき方向さえ定まらなかった。
やや遅い思春期だったが、たぶん、母には、
それが理解できなかったのだろう。

数日おきに、「親に向かって何てこと言う!」
「うるさい、このバカヤロー!」と、まあ、
よく覚えていないが、そういうような言い争い
をよくしたと思う。

母は、悪玉親意識が強かった。
親風をよく吹かした。

が、それでも私は幻想を抱いていた。
「親だから……」という幻想である。
「親だから、どんなことがあっても、私を嫌う
はずがない」と。

しかしいつしか母は、私を恨むようになった。
私が結婚したことについても、そうだった。
「浜松の嫁に、息子を取られた」と、
親類にはもちろん、近所の人たちにまで、
泣きついていた。

+++++++++++++++++++++

●似たような話

 冒頭に書いたのは、私と私の母についての話である。
しかし似たような話は多い。
たまたま今日も、耳にした。
こういう話である。

 Aさん(女性、40歳くらい)は、現在、近くの特別養護老人ホームで介護師を
している。
その女性が話してくれた。

 ひとりの老人(女性、80歳)がいるのだが、その老人は、ことのほか、自分の娘
(50歳)を嫌っている。
どう嫌っているかについては、ここに書いても意味はない。
が、介護師をしているその女性には、それがよくわかる。
が、肝心の娘には、それがわからないらしい。
「自分が見舞いに来たことで、母親は喜んでいるはず」と思い込んでいる。
しかしその女性(80歳)は、娘が見舞いに来るのを、何よりもいやがっている。
 
●思い込み

 だれにでも、(思い込み)というのはある。
一般的には、自己中心性の強い人ほど、思い込みがはげしい。
一度、「こうだ」と思い込んだら、そのワクから抜け出せない。

私「そういうのをありがた迷惑というんだよ」
ワ「そうね。でもその女性(50歳)には、わからないのよ」
私「どうしてだろ?」
ワ「親だから、娘の自分が見舞いに行けば、喜ぶはずと思い込んでいるのね」
私「……う~ん、そういうケースは多いよ。ぼく自身が、そうだったからね」と。

 (思い込みのはげしさ)という点では、よくストーカーが例にあげられる。
ストーカー行為を繰り返す男性にせよ、女性にせよ、(思い込み)から始まる。
「相手は、自分のことをきにかけているはず」
「相手は、自分のことを好きなはず」
「嫌っているフリをしているだけ」と。

 親子の間でも、似たような(思い込み)が、起きることがある。
ここに書いた女性(50歳)も、その1人ということになる。

●なぜ、起きるか

 こうした思い込みは、なぜ起きるか。
ほかによくある例が、うつ病タイプの人の思い込み。
このタイプの人は、ひとつのことにこだわり始めると、そのことばかり考えるようになる。
脳みそのカベに、そのことがペタリと張り付いたような状態になる。
その結果、取り越し苦労、ぬか喜びを繰り返す。
繰り返しながら、どんどんと深みにはまっていく。

 では、私のばあいは、どうだったか。

 ひとつには、これはずっとあとになってからワイフが教えてくれたが、私はかなりの
マザコンだったということ。
学生時代、野口英世の母、シカの手紙を読んで、涙をこぼしたことさえある。
窪田聡の『かあさんの歌』は、日本が誇る名曲と思っていたこともある。
森進一の歌う、『おふくろさん』でも、そうだった※。

 しかし自分が親になってみて、急速に、私の中のマザコン性は、消えていった。
というより、仕事を通して、マザコンタイプの子どもたちを観察するうち、自分の中の
マザコン性に気がついた。

 そのマザコン性は、乳幼児期の刷り込みによって、作られる。
人間にも、ある種の鳥類に見られるのと同じ、(刷り込み)があることが、わかってきた。
0歳から生後7か月前後までの期間と言われている。
この時期を、とくに「敏感期」と呼ぶ人もいる。

 子どもは、こうして作られた(刷り込み)を基盤に、成長する。
成長しながら、修正する。
その鍵を握るのが、父親ということになる。
イギリスでは、『母親は子どもを産み育てるが、父親は、子どもに狩の仕方を教える』
と教える。

 父親の役目は、(1)母子関係の是正と、(2)社会性の構築である。
が、その父親の存在感が薄いと、子どもは(刷り込み)を修正できないまま、マザコン化
する。
私のばあい、父親の存在感がきわめて薄い家庭に、生まれ育った。

●隠れマザコン

私「自分の中から、マザコン性が抜けないかぎり、親、とくに母親に対して、幻想を
もちつづけるだろうね」
ワ「理想の女性像を、母親に求めるわけね」
私「そう。だから、マザコンタイプの男性のばあい、離婚率が高いと言われている」
ワ「理想像を求められたら、妻だって疲れてしまうわ」
私「そう、まったく、そのとおり」と。

 そのマザコン性が、子どもの側の心を盲目にする。
書き忘れないうちに書いておきたいことがある。

 ふつう「マザコン」というと、「男性」を想像する人は多い。
しかし女性にも、マザコンは多い。
(ひょっとしたら、男性より女性のほうが多いかもしれない。)
男性のマザコンは目立つが、女性のマザコンは、同姓であるという点で目立たない。
たとえば母親と娘がいっしょに風呂に入っていても、それを「おかしいこと」と思う人
は少ない。

 私は女性のマザコンを、「隠れマザコン」と呼んでいる。

●容赦なかった、私の母

 私の母は、そういう母だったから、私からお金を(まきあげる)のは、平気だった。
「取る」とか、「奪う」などというようなものではなかった。
「まきあげる」。
容赦なかった。

長男が生まれたときも私のアパートへやってきて、母は、貯金全額を、
もって帰っていった。
私は私で、マザコンだったから、そういう母の行為をみじんも、疑わなかった。
母は、そのつど言葉巧みに、こう言った。
「私が、あなたの代わりに、貯金しておいてやる」と。

 ワイフはそういう母を、薄々疑い始めていた。
が、私は、「ぼくたちがもっているより、安全だから」と、そのつどワイフを説得した。
そういう関係が、それからあと、25年以上もつづいた。

●その女性(50歳)

 冒頭にあげた女性(50歳)のばあい、「自分は母親に好かれている、すばらしい
娘」と思い込んでしまっている。
母親への依存心も、その分だけ、強い。
自分が本当は嫌われているにもかかわらず、それすら客観的に判断することもできない。
そのため、自分勝手な行動を繰り返す。
その仕方は、被害者を追いかけ回す、ストーカーと、そっくり。
どこもちがわない。

 で、この話には、つづきがある。
……というか、ここまで現在形で書いたが、実は、過去の話である。

 最近(09年の春)、その女性(50歳)の母親が、他界した。
それについて、その女性(50歳)は、こう言っているという。

「施設に入れないで、私がめんどうをみてやればよかったア」と。
そして母親が他界したあと、毎週のように墓参りをしているという。
その女性(50歳)は、いまだに自分のことが、まるでわかっていない。
恐らく死ぬまで、自分の(思い込み)に気づくことはないだろう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
マザコン 自己中心性 親の気持ちがわからない娘 刷り込み 敏感期 思い込み 思い込みの激しい人 人の心がわからない人)

(注※…日本には、この種の「マザコン・ソング」が多い。
母親を実際以上に美化し、たたえ、そしてそこに理想的な女性像を織り込む。
すべてを許し、すべてを受け入れてくれるような女性である。
しかしそんな女性(=母親)など、どこにもいない。
いるはずもない。
本能的な母性愛というのは、子どもに対してのものであり、夫に対してのものではない。
またそういう女性を求めてはいけない。

もし「どうしても……」と考えるなら、どこかの寺の観音様でも拝んでくればよい。
……というのは言い過ぎかもしれないが、夫の側にマザコン性が強すぎると、
その分だけ妻側に負担感がます。
この負担感が、夫婦関係そのものを、ぎくしゃくさせる。
おかしくする。
「マザコン男性の離婚率は高い」というのは、そういう理由による。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 マザコン マザコン夫 離婚率)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

*Aug 28th 2009

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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【子どもの言葉】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「先生は、S? それともM?」

+++++++++++++++++

中学生のSさんが、突然、私にこう
聞いた。

「先生、先生は、S? それとも
M?」と。

ギョッとした。が、そこはとぼけて、
「服はみんな、Mサイズだよ。下着は
Sかな?」と。

するとSさんは、「そうじゃないわよ。
先生は、サド? それともマゾ?」と。

+++++++++++++++++

 学生言葉というのがある。学生しか通じない言葉である。あとで以前、それについて書
いた原稿を添付しておくが、今度は、「SとM」。

 そこでSさんに、話を聞くと、こう教えてくれた。

 「いじめる側に回って、いじめるのが好きな人を、Sというのよ。反対に、いじめられ
る側に回って、いじめられるのを楽しむ人を、Mというのよ」と。

私「いじめられて楽しい人なんているの?」
S「いるわよ。そういう趣味の人も」
私「それはおかしいよ。趣味だなんて……」
S「いじめられる側って、結構、気楽なものよ」
私「あのねえ、そういう考え方をするバカがいるから、いじめの問題は、いつまでもつづ
くんだよ」と。

 しかしサドとか、マゾとか、そういう言葉が、中学生の子どもの口から出てくるとは、
想像もしていなかった。ホント!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの心をつかむために

 あなたは子どもの世界(小学生)を、どれほど知っているだろうか。つぎの言葉の中で、
意味を説明できるのが、いくつあるか、答えてみてほしい。

●アブトロニック
●ムッチョ
●ホグワーツのグリフィンドール
●マッチョ(流行語)
●ブルーアイズ、アルティミッドドラゴン
●かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
●SAKURAドロップ
●桃色の片思い

 8問のうち、5~6問までわかれば、あなたはすばらしい親と考えてよい。子どもの心
をしっかりと、つかんでいる。

 正解は、つぎ。

○アブトロニック……10分で腹筋を600回、振動する美用具、19800円
○ムッチョ……筋肉モリモリ、「ムキムキマッチョ」……筋肉モリモリの人。
○ハリーポッターの通う全寮制の学校と、宿舎名
○マッチョ……筋肉モリモリ(ムッチョの最近の言葉)
○遊戯王の裏ワザ……ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴ
ンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨する。
○モーニング娘の、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
○宇多田ひかるの「SAKURAドロップ」
○松浦あやの「桃色の片思い」

 あなたも一度、子どもの前で、こう言ってみたらどうだろう。「あのね、ブルーアイズ・
ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、
ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨するんだってね。あなた知っている?」と。

あなたの子どもは目を白黒させて、あなたを尊敬するようになるだろう。一度、試して
みてほしい。女子だったら、「私、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっちの中で、
やっぱりかごちゃんが一番、すてきだと思うわ」と。コツは、さりげなく、サラリと子
どもの前で言うこと。

●子どもの言葉

●子どもの言語能力(Language Ability of Children)
What is the difference between men and apes? T. Sawaguchi says it is the difference
between men who has language ability and the apes which do not have language ability.
It means to improve the language ability is an essential part of education, especially
when the boys or girls are at the proper age for the education.

++++++++++++++++

ついでに……、
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」
と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

私も、そう思う。

++++++++++++++++

澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力の
あるなしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルにな
ってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、
要するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたという
ことか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分
の子どもに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうは
ともかくも、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中
でも前頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかか
わりがあることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達
時期には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある
時期がくると、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかく
も、ある時期に、適切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまり
ない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳か
ら5・5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考
えることができる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、
もう遅い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、
定着した思考プロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わから
ない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成され
るのではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養ってお
く必要がある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、
このことは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳)

【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

(特集)【思春期の子どもの心】□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●子どもの心がつかめない(?)

+++++++++++++++++

心がつかめない娘(小6)について、
そのお母さんから、こんな相談があり
ました。

この問題について、考えてみたいと
思います。

+++++++++++++++++

どこからお話ししていいのか分りません。沢山の問題があるように思うのですが・・・。
どうか、少しでも、問題点が整理できればと、こちらのHPに投稿させて頂きました。

事の始まりは、先日娘の担任の先生から電話があったことです。

「実は、P子さん(=私の娘、小6)が、最近、A子さんにひどい言い方をしているよう
だ。下校中、上下関係があるように見える」と言われました。それがたいへん、気になり
ました。

さらに、「実は去年の冬ごろ、ちょっとした事件がありまして」と、聞かされました。

先生の話の内容は、こういうことでした。娘のP子が、B子さんに本を貸したのですが、
なかなか返してくれないので、「返して」と言ったところ、B子さんは、「私は借りていな
い」と言ったとのこと。

「確かにB子さんに貸したはず」と娘は言いましたが、しかし別の子から、「あっ、私、借
りてるよ」と、本を渡されました。娘はB子さんに謝り、この件は終了しました。

ところが、その後、B子さんが、「私のペンがない!」と騒ぎ出しました。周りの友人も手
伝って、探したところ、それが娘のP子の筆箱の中に、あったというのです。「あっ、その
ペン私のじゃない?」と、B子さんが言ったといいます。それを見ていた先生も中に入り、
娘に聞くと、「違う、これはお母さんに買ってもらったもの」と答えたというのです。

先生は「じゃあ、お母さんに聞いてもいいですか?」と、娘のP子に訪ねると、「ダメ」と
答えたというのです。

それはおかしいなーと、いうことで、周りからも疑われた。・・・・と、いう事がありまし
た。先生は、「もう、このことは済んだことなので、いいのですが・・・・。しかしP子さ
んが、A子さんにひどく当ることなどを、とても心配しています。おうちでも話しあって
みてください」と言いました。

 初耳でした。でも、結果として娘はみんなの前で泥棒にされてしまったのでしょうか。
とにかく、真実を知りたいと、私は、娘に聞いてみました。

まず、A子さんのことですが、娘のP子は、「思い当たることはない、何の事を言っている
のかわからない」と言いました。無意識でも、つまりこちらがその気でなくても、相手が
傷ついているとしたら、とっても悲しい事だから、これから気をつけてねなどと、話しま
した。次にペンの事を聞いたのですが、その話になるろ、娘は泣きだしてしまいました。

 ・・・・実はこのずっと以前から気になっていたのですが、子どもたちは文房の交換を
しているようです。「このペンどうしたの? この前買ったペンはどこ行ったの?」と私が
P子に聞くと、屈託なく、「うん、友達が交換してっていうからいいよって」とか言います。

私「え? 何で?」
娘「どうしても欲しいって言うし、交換ならいいかなって。それに断る理由がないから」
とのこと。

これもショックでしたが、きちんと「物をもっと大切にして欲しい。簡単に交換しないで
ほしい。。。」などなど沢山話しこれからはしないでねと、そのときは、そういう話で終わり
ました。

 で、本題ですが、「ペンのことだけど、こんなことがあったんだって? そのペンはどう
したものなの?」と聞くと、娘はなかなか答えようとしませんでした。そこで(1)持っ
てきてしまった、(2)拾った、(3)自分で買った、(4)その他の中のどれ?、と聞くと、
やっとの事で、「交換したもの」と言いました。

「じゃあ何であの時、そういわなかったの?」と聞くと、泣くばかりです。泣いて泣いて、
やっと聞けたのが、「交換しようって言われてしたのに、Bちゃんがどうしてそんな事を言
い出したのか分らなくって」と。

私「あなたは泥棒だと、他の人はそう思うよ、それでもいいの?」
娘「盗んだと思われてもいい。それでも自分の思いは言えない」と。

 最近、大きくなってきて、少し手が離れてきたと思って手を抜いてしまったと、我にか
えりました。低学年のころは、毎日のように主人と夜、子どもたちのことについて話し合
っていたのも、最近ではしていない事にも気付かされました。

で、昔からの悩みの種は、娘(相談の娘小6・この下に小3の妹がいます)の、対人関係
についての問題です。

私が働いていたため、娘が1歳半のときから保育園へ預けました。教育熱心で有名な保育
園でしたが、右を向きなさいと指示されても、右を向かないような娘でした。そんなわけ
で、先生も、娘にかなり手を焼いていたようでした。何度も主人と呼び出されては、「お宅
の子は人を見る」とこんこんと言われました。

人見知りが極端にはげしく、突然話し掛けられたりすると、かたまって口を閉ざしたり、
下を見る、隠れるなどの行為をしました。ですから、極力休日は、家族で一緒にのんびり
ゆったり、栄養を蓄えるつもりで、常に皆で横に手をつなぎ、時には後ろに回り背中をな
でながら過ごしていました。

小学校の入学時には、「大丈夫、なにも心配要らないよ」と、ぽんっと送り出したりしまし
たが、当時は、本当に元気よく通っていました。が、大人に理解されにくい性格は中々変
わることもなく、「こう思ってるんだよ!」などと、口にした事は無いようです。

が、その一方で、娘は、地道に努力するタイプで、昨年、放送委員になったのですが、家
で練習し、運動会やおひつの放送も、物怖じせず、こなしていきました。

一時期、これは、何かの障害なのではないかと、悩みました。が、素人判断も出来ず、な
んとかやっていけていましたので・・・・。

現在も、三者面談などでは体をこわばらせ、手に冷や汗をかいています。落ち着きがなく
なり、なんとか作り笑いをしてみせたりするのですが、それも先生にはふざけているよう
に見えるのか、あまりよい印象は与えていないようです。

 そのような関係の先生ですが、今回の話し合った結果を、その先生に連絡しました。

私としては、なんとか、先生にだけでも誤解を解きたい。このままでは娘のP子がかわい
そうとの思いで話しました。

先生は「分りました。ペンの事は申すんでしまった事なので、(確かに時がたちすぎている)、
今さら蒸し返すのも何ですのでやめます」と言ってくれました。またペンのことについて
は、「やはりあのペンはB子さんのものだったわけだ。でも、B子さんは、交換した気は全
く無いですよ」とのこと。私は「また相談にのって頂きたいので、よろしくお願いします」
と言えただけです。

先生は、本当に娘のことを心配しているのか不安になりました。なぜ先生は、娘の側を少
しでも見ようとしてくれないのでしょうか。私は常に平等を心がけ、こちらが悪いのでは、
と思いながら話を聞くようにしているのですが。。。

長々とすみません。娘から話しを聞いて、娘には、「お母さんは、あなたを信じている。本
当に信じている。世界で一番の味方だから」「分った、お母さんが守ってあげる。心配しな
いで。でも、努力しようね」と、言いました。

A子さんには本当に申し訳ない事をしたと思っています。とてもおとなしい子です。B子
さんは、大人うけする、ハツラツとしたとても気持ちのいい子です。クラスのリーダー的
存在。親友の子と喧嘩をした時だけ、娘に愚痴を言いにくるようです。

私は今、娘に何をしたらいいのか。先生に何を言ったらいいのか。主人とも話し合ってい
ますが、行き詰まってしまっています。

本当に長くなって申し訳ありません。毎晩、この問題を考えていると、眠れません。アド
バイスをお願いします。
(大阪府、KR子、P子の母親より)

【はやし浩司より、P子さんのお母さんへ】

 メール、ありがとうございました。

 まず、最初に、一言。

 この種の問題は、たいへんありふれた問題です。はっきり言えば、何でもない問題です。

 まず、A子さんについてですが、A子さんは、P子さんに、いじめられていると訴えた
だけのことです。ただP子さんには、その意識はなかった。つまり(いじめている)とい
う意識がないまま、結果として、いじめているという雰囲気になってしまった。それだけ
のことですが、これも(いじめ)の問題では、よくあることです。

 B子さんとの本のトラブルについては、P子さんが、ウソを言っているだけのことです。
何でもない、つまりは、子どもの世界では、よくあるウソです。一応たしなめながらも、
おおげさに考える必要は、まったくありません。

 思春期の子どもは、自立を始めるとき、それまでになかったさまざまな変化を見せるよ
うになります。フロイトの説によれば、イド(心の根源部にある、欲望のかたまり)の活
動が活発になり、ときとして、子どもは欲望のおもむくまま、行動するようになります。

 ウソ、盗みなどが、その代表的なものです。万引きもします。性への関心、興味も、当
然、高まってきます。しかしそういう形で、つまり親や社会に対して抵抗することで、子
どもは、親から自立しようとします。

 ですから、ここに書いたように、一応はたしなめながらも、それですませます。あなた
のように、子どもを追いつめてはいけません。これはP子さんの問題というよりは、完ぺ
き主義(?)のあなたのほうに問題があるのではないかと思います。

それともあなたは、子どものころ、あなたの親に対して、ウソをついたことはないとでも
言うのでしょうか? ものを盗んだことはないとでも言うのでしょうか? 親の目の届か
ないところで、男の人と遊んだことはないとでも言うのでしょうか? もしそうなら、あ
なたは修道女? (失礼!)

 もしP子さんに問題があるとするなら、乳幼児期に、母子の間で、しっかりとした信頼
関係が結べなかったという点です。母子の間でできる信頼関係を、心理学の世界では、「基
本的信頼関係」といい、それが結べなかった状態を、「基本的不信関係」といいます。

 この信頼関係が基本となって、その後、先生との関係、友人関係、異性関係へと発展し
ていきます。

 そのころの(不具合)が、今、P子さんの対人関係に、影響を与えているものと思われ
ます。が、しかしそれは遠い過去の話。今さら、どうしようもない問題です。

 ですから今は、「うちの子は、人間関係を結ぶのが苦手だ」「他人に心を開くのが苦手だ」
「外では無理をして、いい子ぶる」「自分の心の中を、さらけ出すことができない」と、割
り切ることです。だれでも、ひとつやふたつ、そういう弱点があって、当たり前です。

 大切なことは、そういう子どもであることを、認めてあげることです。認めた上で、P
子さんを理解してあげることです。「なおそう」とか、そういうふうに、考えてはいけませ
ん。(どの道、今さら、手遅れですから……。)

 あとはP子さん自身の問題です。もしP子さんが、もう少しおとなになり、人間関係の
問題で悩むようなことがあったら、ぜひ、私のHPを見るように勧めてあげてください。
あるいはマガジンの購読を勧めてあげてください。無料です。同じような問題は、そのつ
どテーマとして、マガジンでもよく取りあげていますので、参考になると思います。

 で、今、あなたの目は、P子さんのほうに向きすぎています。そんな感じがします。し
かも、P子さんへの不信感ばかり……! 心配先行型の子育てが、いまだにつづいている
といった感じです。

 ですからあなたはあなたで、もう少し、外に向かって目を向けられたらどうでしょうか? 
多分、あなたはP子さんにとっては、うるさい、いやな母親と映っているはずです。たか
がペンぐらいの問題で、親からここまで追及されたら、私なら、机ごと、親に向かって投
げつけるだろうと思います。ホント! 今では、ペンといっても、いろいろありますが、
100円ショップで、3~5本も買える時代です。

 いわんや子どもが泣きだすほどまで、子どもを追いつめてはいけません。またこの問題
は、そういう問題ではないのです。

 さらに学校の先生も、それほど、おおげさには考えていないはずです。先にも書きまし
たが、こうした問題は、まさに日常茶飯事。ですから、先生がP子さんのことを悪く思っ
ているとか、娘が誤解されてかわいそうとか、先生が親側に立ってものを考えてくれない
とか、そういうふうに考えてはいけません。

 またP子さんに向かって、「信じている」とか何とか、そんなおおげさな言葉を使っては
いけません。また使うような場面ではありません。繰りかえしますが、たかがペン1本の
問題です。わかりやすく言えば、P子さんが、B子さんのペンを盗んで、自分の筆箱に入
れた。それだけのことです。

 多少の虚言癖はあるようですが、それもこの時期の子どもには、よくあることです。(も
ちろん病的な虚言癖、作話、妄想的虚言などは、区別して考えますが……。)

 あなたにも、それがわかっているはず。わかっていながら、P子さんを追いつめ、P子
さんの口からそれを聞くまで、納得しない。つまりは、あなたは、完ぺき主義の母親とい
うことになります。

 P子さんは、いい子ですよ。放送委員の一件を見ただけでも、それがわかるはず。そう
いうP子さんのよい面を、どうしてもっとすなおに、あなたは見ないのですか。あなたが
今すべきことは、そういうP子さんのよい面だけを見て、あなたはあなたで、前を見なが
ら、前に進む。今は、それでよいと思います。つまりは、それが(信ずる)ということで
す。言葉の問題ではありません。

 またこうした問題には、必ず、二番底、三番底があります。あなたはP子さんの今の状
態を最悪と思うかもしれませんが、しかし、対処のし方をまちがえると、P子さんは、そ
の二番底、三番底へと落ちていきますよ! これは警告です。

 反対の立場で考えてみてください。私なら、家を出ますよ。息が詰まりますから……。
P子さんが、家を出るようになったら、あなたは、どうしますか。外泊をするようになっ
たら、どうしますか。

 ですから今は、「今以上に、状態を悪くしないことだけを考えなら、様子をみる」です。

 だれしも、失敗をします。人をキズつけたり、あるいは反対に人にキズつけられながら、
その中で、ドラマを展開します。悩んだり、苦しんだり……。そのドラマにこそ、意味が
あるのです。子どもについて言えば、そのドラマが、子どもをたくましくします。

 P子さんは、たしかにいやな思いをしたかもしれませんが、それはP子さんの問題。親
のあなたが、割って出るような問題ではないのです。親としてはつらいところですが、も
うそろそろ、あなた自身も、子離れをし、P子さんには、親離れをするよう、し向けるこ
とこそ、大切です。

 とても、ひどいことを言うようですが、私はあなたの相談の中に、子離れできない、ど
こか未熟な親の姿を感じてしまいました。あなたはそれでよいとしても、P子さんが、か
わいそうです。

 で、たまたま昨夜、『RAY』というビデオを見ました。レイ・チャールズの生涯をつづ
ったビデオです。あのビデオの中で、ところどころ、レイ・チャールズの母親が出てきま
すが、今のあなたに求められる母親像というのは、ひょっとしたら、レイ・チャールズの
母親のような母親像ではないでしょうか。

 最後に、もう一言。

 こんな問題は、何でもありませんよ! 本当によくある問題です。ですから、「A子さん
に申し訳ない」とか、B子さんがどうとか、そんなふうに考えてはいけません。今ごろは、
A子さんも、B子さんも、学校の先生も、何とも思っていませんよ。

 あなた自身が、心のクサリをほどいて、自分のしたいことをしたらよいのです。心を開
いて! 体は、あとからついてきますよ!

 すばらしい季節です。おしいものでも食べて、あとは、忘れましょう! 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
子どもの虚言 子供の虚言 盗み)

+++++++++++++++

いくつか、今までに書いた
原稿を添付しておきます。

+++++++++++++++
 
【信頼関係】

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外で
はない。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本
である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、
反対にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような
調子で、答えてあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人
間関係を結ぶことができる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基
本的信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。
これを第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、
友だちとの世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用して
いくことができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、
第三世界での信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後
の信頼関係の基本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親
側の情緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあ
い、子どもは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、
人間関係になる。これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分
野で現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ね
たみ症状などは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、
良好な人間関係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れ
る。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安
心して」というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分
をさらけ出しても、気にしない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意す
るのは、親の役目ということになる。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなこと
に注意したらよい。

● 「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
● 子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じよう
に接する。
● きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くな
るというのは、避ける。
(030422)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
信頼関係 親子関係 親子の信頼関係 基本的信頼関係 不信関係 一貫性)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司 

【感情の発達】

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに
発達する、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということにな
る。これらの感情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展してい
く。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)〇歳~一歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)一歳前後~二歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的
な感情の形成期。

(複雑感情形成期)二歳前後~五歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情な
どの、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。
しかしその日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が
仕事を休んで、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼ
したのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさで
ある。そこで授業が終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。する
と、Uさんは、こう言った。「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と
涙が出てきちゃった」と。Uさんは、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成
するということ。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反
対の立場で考えてみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感
情は、いつごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。
では、小学生だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、
すでに今の感情をもっていたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前
後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見
るたびに、すぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、
まるで子どもあつかいしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るの
もつらいような踊りをさせてみたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜
ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうまん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカ
にするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。また
そういう前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき
年長児たちにこう言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。する
と子どもたちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌
っている。もうそろそろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだ
ろうか。「幼稚園」ではなく、「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。
あるいは英語式に、「プレスクール」でもよい。しかし「幼稚園」は、……?
(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
基本感情 人間的感情形成 感情形成期)

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【不安なあなたへ】

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメール
をもらった。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き
離したいと思い、サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっ
しょについてきそうな雰囲気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなり
ません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まず
いない。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れて
しまう。不安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げる
ものではなく、乗り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえし
ているうちに、心に免疫性ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自
動車。私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、
心配でならなかった。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、
「事故を起こさなければいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、と
きどき仕事先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワ
イフは、「まだよ」と言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたと
たん、ザワザワとした胸騒ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四
時間か五時間。途中で食事をしても、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし
高速道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だ
けが、ジリジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、
今、着いたよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ご
ろ浜松に着いたけど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもであ
る。そこで「あぶなくなかったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周し
てきたから」と。北海度! 一周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなっ
た。「勝手にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、
横浜と浜松の間を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復
するのは、私たちがそこらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何
時に出る」とか、「何時に着く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのこ
とで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。
この埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

● 親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
● 何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
● しかしその友だちとは、仲がよい。
● そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
● が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
● そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」
と言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るような
もの。子どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れるこ
とになる。そんなわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなこと
は、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、
過干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になり
やすい。子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、
この母親のばあいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもに
どうあってほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いてい
る。「いつも私の子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うち
の子は、ダメになってしまうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけない
ことは、今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従
的になるのは、そもそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。
決してその友だちによって、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、
親から見れば、もの足りないことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地
のよい世界なのである。つまり子ども自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式
の指示を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親
の姿勢に反発するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかた
ないとしても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親
にも、できることと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがあ
る。そのあたりを、じょうずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができな
い親は、そうでないということになる。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いつ
いたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私
は私で勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう
何でもない、ごくふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから
気づく。健康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。
だれに感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とく
に「人間」はそうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこ
ちら側の問題ということになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言
にも、『相手はあなたが相手を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、
これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見
えるのは、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるというこ
と。価値観の限定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他
人もそうでなければならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引き
こもりが、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっ
ていることすら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれな
い。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るように
なった。が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワ
ルガキ仲間」だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな
遊びを教えたらしい。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものこ
ろは、あんな子と遊んでほしくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていま
した」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子ど
もに見えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起
き、その問題が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。と
たん、問題が解決するのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があると
みてよい。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなこ
とでも、だ。たとえば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子
ども自身は、指しゃぶりをしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものが
ないのと同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令し
たり、禁止したりしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、
そういう友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、
あくまでも親の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そ
ういう友だちを、子ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそ
うであるように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのよう
なもので、たとえ親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなけ
れば、あなた自身のことで考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、
いちいち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものこ
ろ、あなたはそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威
主義の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育
てが、どこか押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかり
が強く、このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩
を着せやすい。何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三
〇歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。
親なんてさみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいるこ
とを、「嫁に取られた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、
子どもを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題とい
うことになる。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、
モノでもない。「親子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから
親子でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそ
れまでは母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母
に話したとき、母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩
れてしまった。私が二三歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大
学を出て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶
望の底にたたき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会
でも、自分の職業をみなに、話すことができなかった。

●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子ども
は生きている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは
事実である。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、
さらにはよい仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似
ている。「うちの子は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲー
ムをしながら、「エメラルドタウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものよう
なもの。あるいは、どこがどう違うのというのか。(だからといって、それがムダといって
いるのではない。そういうドラマに人生のおもしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよ
い。またそこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、こ
の世界から消えてなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人
間どうしが、今、いっしょに、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あな
たは子育てにまつわる、あらゆる問題から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだ
けではすまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。
しかしその子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなた
はダメな子だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子ど
もは自己不信から、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなって
しまう。へたをすれば、一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内
容は別として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の
根底にある、「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか
心配先行型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は
何かといえば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わ
だかまり」があったことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼
児期、少女期にあるのではないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。
あなた自身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていな
かった可能性があります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関
係を結ぶことができなかったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップ
を経て、形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許され
る」という絶対的な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑い
をいだかない」という意味です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあ
と、園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなりま
す。どこかいい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出す
ことができないからです。

さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自
分の子どもすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、
あらゆる信頼関係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的
には、夫や子どもに対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を
感じたりしやすくなります。子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」とい
う意味で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的
にどうこうというのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、
親に対して、全幅に心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそう
なら、「恵まれた環境」ということになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こ
うした問題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国という
か、こと子育てについては黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始
めます。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じ
ような手法を用います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言え
ば、自分の中の過去を知るということです。まずいのは、そういう過去があるということ
ではなく、そういう過去に気づかないまま、その過去に振りまわされることです。そして
結果として、自分でもどうしてそういうことをするのかわからないまま、同じ失敗を繰り
かえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりま
すが、やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになりま
す。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるい
はさらに、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青
年期にかけて、不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成り
たっているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとし
たら、あなたが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、
本当にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子ども
を嫌っているのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の
子どもを判断しているのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つ
です。

 (1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭け
ればせまいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これ
は私の経験ですが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければ
なりません。(当然ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言
っていたのでは、仕事そのものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面
のときから、その子どもを好きになります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかし
これだけは言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。
とくに幼児については、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。
ですからASさんも、一度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさ
わしくない子どもかどうか、一度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前
にもう一つ大切なことは、あなたの子ども自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるよ
うにしかならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作
るようなものです。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の
関係が、今の関係というわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとし
ても、それはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある
程度は干渉できても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰
りかえし起きてきます。たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなと
き、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるか
どうかということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに
反対する権利はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どん
な友だちを選んだとしても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題と
いうことです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、
判断して、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずる
のです。「うちの子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずは
ない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っ
ていると、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子
どもだと思っていると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そ
してあなたの前で、自分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、た
いがいの人間関係は、ますます悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バ
トルを繰りかえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。
こうした例をみてみてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということ
です。とくに、姑が嫁にもつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思う
と、何かにつけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えよう
と、ますますよい嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。
こうした相乗効果が、たがいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていま
せんか。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題という
ことになります。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあな
たは悪くない面まで、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子
どもは、あえて自分の悪い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不
思議なもので、自分をよい子だと信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せよう
とします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも
言えます。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験し
ておくことは、それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間にな
ることが知られています。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要と
いえば必要なのです。むしろまずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子ど
ものときは、優等生で終わるかもしれませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、
さまざまな問題を引き起こすようになります。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですから
これからのことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなこと
は、何度も起きてきます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが
子ども。そして子育て。そういう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設
計図に子どもをあてはめようとすればするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設
計図から離れていきます。そして「まだ前の友だちのほうがよかった……」というような
ことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だちとつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三
番底」とか呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(1) 相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもし
ろい子ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあ
げてね。きっと喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコント
ロールします。

(2) あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まってい
るわ」「あなたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。
これから先、子どもはあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき
子どもは、あなたの信頼をどこかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかける
ようになります。「親の信頼を裏切りたくない」という思いが、行動を自制するということ
です。

(3) 「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あき
らめは、悟りの境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。
子どもというのは不思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。
伸びも、そこで止まります。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始め
ます。「まだ何とかなる」「こんなはずではない」と、もしあなたが思っているなら、「この
あたりが限界」「まあ、うちの子はうちの子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いな
おすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったとこ
ろもあるかもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことに
ついて、また何か、わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼
します。
(030516)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
さらけ出し 子育て不安 育児ノイローゼ)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

休みます。


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2009年8月27日木曜日

*Aug 27th 2009

●新しい試み(WEBCAMERAを使って、YOUTUBEに直接アプロード)



++++++++++++++++++++

インターネットの世界には、「YOU STREAM」
というサービスがある。
これは言うなれば、私設の放送局のようなもので、
これを使うと、話したことが、リアルタイムで
HPなどにアプロードできる。
みなさんに楽しんでもらえる。

が、問題がある。
せっかくアプロードしても、1年を待たずして、
削除されてしまう。
(あるいは半年くらいか? 確かめていない。)
しかしこれでは使い物にならない。

一方、YOUTUBEのほうは、今のところ、10年前に
アプロードした動画も、そのまま残っている。
今後のことはわからないが、今のところ、息が長い。

が、これにも問題がある。
カメラに向かって話したことを、直接アプロード
する方法もあるらしいが、何度試しても、うまくいかない。
(どこかに操作ミスがあると思うが、それがよくわからない。)

そこで今は、一度、ビデオカメラに動画を収めて、
編集したのち、YOUTUBEにアプロードしている。
が、これには、けっこう時間がかかる。
10分程度の動画をHPに載せようとすると、
編集するのに、5~8分。
ファイル変換に、3~4分。
アプロードするのに、7~8分。
どんなにはやくやっても、計30分前後もかかって
しまう。

そこでいろいろ考える。
手元に「防犯24時」というソフトがある。
XPパソコン時代に購入したもので、今でも
使えるかどうかわからない。
しかしこの「防犯24時」には、撮った動画を
即、ファイル化してくれる機能がついている。
それを使えば、あとはYOUTUBEにアプロード
するだけ。

そうすれば、毎朝、文章ではなく、生の
声で、「みなさん、おはようございます」と
話しかけることができる。……はず。

試してみない手はない。
朝のルーティーン(日常行事)が終わったら、
さっそく試してみたい。
アプロードした動画は、別枠で新設した
BLOG上で、公開するつもり。

ともかくも、8月27日。
みなさん、おはようございます!

今日はやや湿った空気。
どこか肌寒さを感じるが、心地よい。
もうすぐ9月だなあと、今、そう思った。

+++++++++++++++++++

(追記)

たった今、WEBCAMERAを使って、
直接動画を、YOUTUBEにアプロードしてみた。
今度は、うまくできた。
が、音声がうまく録音できない。
マイク自体の性能が悪いのか?
設定が悪いのか?

どうであるにせよ、あとは小さな問題。

よかった!
……と、自分で喜んでいる。
ハハハ。

+++++++++++++++++++++

(追記2)

結局、5回トライアルしてみた。
音声が録音されない原因はよくわからないが、マイクは、ヘッドフォンのもの、
スピーカーは外付けの大型のものを、それぞれ使っている。
それが原因ではないか?

……ということで、いろいろ試行錯誤の結果、やっと満足に録画、録音できるように
なった。
この日記に添えて、YOUTUBEでのあいさつ、第一号をBLOGに公開してみる。

ホ~~ッ!


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

2009年8月26日水曜日

*I cut off my chestnut tree of my yard

*Keep Studying until we die!

●学問のすすめ(福沢諭吉)

(未完成原稿)

++++++++++++++++++++++

いまだに学問を否定する人が多い。
それには、驚かされる。
本当に驚かされる。
学問無用論すらある。
(「学歴無用論」ではない。「学問無用論」である。)

「学問」という言葉に問題があるなら、「学識」
でもよい。
重要なのは、学識。
いくら学歴や学問を否定しても、学識まで
否定してはいけない。

++++++++++++++++++++++

●福沢諭吉

 あの福沢諭吉は、こう書いた(『学問ノススメ』)

『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの者を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして、おのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは、何ぞや。その次第甚だ明らかなり』と。

 『学問のすすめ』については、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『・・・原則的にそれぞれ独立した17つのテーマからなる、初編から十七編の17の分冊であった。 1872年(明治5年2月)初編出版。以降、1876年(明治9年11月25日)十七編出版を以って一応の完成をみた。その後1880年(明治13年)に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本された。その前書きによると初出版以来8年間で、合計約70万冊が売れたとの事である』(ウィキペディア百科事典より抜粋)と。

●1872年(明治5年2月)

1872年(明治5年2月)というから、2009-1872=137年前ということ
になる。

 遠い昔に思う人もいるかもしれないが、137年というのは、私の年齢(61歳)に
してみれば、たったの2倍強にすぎない。
で、この137年の間に、教育、教育を取り巻く環境、人々の教育観は大きく変わった。
といっても、明治の昔にはどうであったか。
それについては、ただ想像するだけでしかない。
が、手掛かりがまったくないかというと、そうではない。
私のばあい、子どものころを思い出せば、その片鱗をかぎ取ることができる。

●学歴時代

 学問を鼓舞するために、学歴が利用された。
あるいは江戸時代の身分制度を、別の形で温存させるために、学歴が利用された。
明治の終わりですら、東大生のほとんどが、華族、士族、豪商の子弟たちで占められた。
(詳しくは、別のところで……。)
そういういきさつはあるが、結果として、世界に名だたる学歴制度というの
が、日本に生まれた。

 私が子どものころには、「学卒」、つまり大学卒と言われる人たちは、
それだけで一目置かれた。
ところが身近にいる人というと、学校の教師か、医者くらいなもの。
そのため学校の教師や、医者は、飛びぬけた存在だった。
「学校の先生がこう言った」と言うだけで、親たちですら、黙った。

●高学歴時代

 それが今では、さらに一歩進んで、大学などというのは、当り前。
修士号か博士号をもっていないと、一人前に扱われないという時代になった。
それがさらに一歩進んで、今はもう、学歴をぶらさげて生きる時代ではない。
「学歴より中身」というわけである。

 この意見には異論はない。
まさにそうあるべきだし、またそれが正しい方向ということになる。
が、こうした(流れ)に対して、その一方で、学問そのものを否定する人が多いのには
驚かされる。

 (学歴の否定)が、一足飛びに、(学問の否定)につながっている(?)。
若い人を中心に、しかも中高校生あたりにも、そのように考える子どもは多い。
これには驚かされる。

●勉強より部活

 たとえばこの浜松市あたりでも、約60%前後の中学生は、受験勉強すらしていない。
たいはんは、「部活でがんばって、推薦で高校へ入る」などと考えている。
「有名進学校なんか入ると、勉強でしごかれるから、いや」などと言う子どもも多い。
つまり頭から、勉強、つまり学問を否定してしまっている。

 が、このことと、(学歴の否定)とは、まったく別問題である。
学歴というのは、あくまでも結果。
しかしいくら学歴を否定しても、学問、つまり学識まで否定してはいけない。
またそういう考え方は、まちがっている。

●50歳
 
 満50歳前後になると、その人のそれまでの生きざまが、そのまま集約され、表に
出てくる。
それまでにどんな生き方をしてきたかが、大きな(ちがい)となって表に出てくる。

 こんなことがあった。

 それまでにほぼ20年ぶりに、X氏という名前の男性(私と同年齢)と会った。
通りで会って、そのまま喫茶店に入った。
しばらくは会話がはずんだが、そのあとがつづかない。
どんなことをしているのかと聞くと、X氏は、こう言った。

「趣味は、プロ野球の実況中継を見ること。
天気のよい日は魚釣り。
雨の日は、パチンコ・・・」と。

 そういう生活が積み重なって、X氏は、X氏のような人物になった。

●学識

学識のある人からは、学識のない人がよくわかる。
が、学識のない人からは、学識のある人がわからない。
それはちょうど山登りに似ている。
どんな小さな山でも登ってみると、意外と視野が広いのがわかる。
下から見上げているときは、それがわからない。

 だから学識のない人は、自分に学識がないことに気づかない。
「私も平均的だ」とか、「ふつうだ」とか、思ったりする。
だからといって、私には、学識がある。
X氏には学識がないと言っているのではない。

 学識のあるなしは、相対的なもの。
学識のある人でも、さらに学識の高い人から見れば、学識の低い人ということになる。
恩師のTK先生から見たら、私など、いまだにヒヨコ以下かもしれない。

●学識の否定

 その学識を否定する。
そうでない人には、信じられないような話だが、実際には、そういう人もいる。
ある人は、こう言った。

 「林君、いくら偉くなっても、死ねばおしまいだよ。
10年もすれば、総理大臣ですら、忘れさられる」と。

 名誉や地位についてはそうかもしれない。
しかし名誉や地位にしても、あとからついてくるもの。
その前に立つのが、(学識)ということになる。
学識は残る。
人から人へと、(心)の形で残る。

(そう言えば、たった今、インターネットを通して、こんなニュースが飛びこんで
きた。
あのおバカ首相が、またまた大失言。
昨日は、どこかで、「貧乏人は結婚するな」式のことを言った。
今日は、豪雨の被災地で、こう言った。
「引き続き捜索にあたっている方々が努力しておられると思うが、ぜひ遺体が
見つかるように今後とも努力をしていただきたい」と。
「行方不明者」と言うべきところを、「遺体」と言った。

 あきれるというよりも、あのAS首相をながめていると、「学識とは何か」、
そこまで考えさせられる。)

 名前を残すか、残さないかということになれば、AS首相は、確実に名を残す。
「自民党を解体した、最後の総理大臣」として。
つまり学識のあるなしは、名を残すかどうかということとは、関係ない。
あくまでも個人の問題。
個人の(知的世界)の問題。

●雲と泥

 福沢諭吉は、「知的世界」の重要性を説いた。
なかんずく、「知的世界の広さ」の重要性を説いた。
『学問ノススメ』という本は、そういう本である。

『……今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明らかなり……』と。

 「人間はみな、同じ。同じだが、人によって、雲と泥ほどのちがいがある」と。

 そのちがいは、何によって生まれるか。
それが、言わずと知れた、「学識」ということになる。
つまり学ぶことを忘れたら、人間は「サル」(福沢諭吉)になりさがる。

 そこで……。
いきなり結論ということになるが……。

 さあ、あなたも本を開こう。
考えよう。
そして文を書こう。
それは遠くて険しい道かもしれない。
しかしほんの少しでも視野が広がれば、あなたはそれを喜びに感ずるはず。
その喜びは、ほかのありとあらゆる喜びにまさるものであることを知るはず。
そしてそれこそが、人間が人間であるという証(あかし)ということになる。

●補記

 福沢諭吉の時代から、ほぼ140年。
人間を取り巻く知的環境は、大きく変わった。
が、その分だけ、人間が賢くなったかといえば、それは疑わしい。
たとえばそのあと、日本人にしても、福沢諭吉が説いたように、もっと
知的世界を広め、磨いておけば、あの太平洋戦争はなかったかもしれない。

 現在にしてもそうだ。
21世紀に入って10年にもなるのに、どうして今、武士道なのか?
福沢諭吉らは明六社に参画し、封建時代の清算を試みた。
が、それはきわめて中途半端なもので終わってしまった。
あるいはそれにつづく軍国主義の台頭とともに、しぼんでしまった。

 ついでながら、たいへん興味深いのは、福沢諭吉が、あの『忠臣蔵』を、
批判しているということ。
たいした批判ではないのだが、当時としては、たいへんな批判だったにちがいない。
『学問ノススメ』の中の「赤穂不義士論」が、それである。

 その中で福沢諭吉は、『国法の貴きを論ず」において、赤穂浪士の討ち入りは私的制裁であって正しくないと論じている。さらに、浅野内匠頭が切腹になったのに吉良上野介が無罪になったことの不当性を、本来は幕府に訴えて、裁判により明らかにすべきであると論じている』(第6編、ウィキペディア百科事典より抜粋)と。

 これに対して、猛烈な批難の嵐が巻き起こった。
「義士を、批判するとは何ごとぞ!」と。

 福沢諭吉は、「こうげきばり ちやうじやう ゑんきん けふはくじやう たうらい
ちうこく しんぺん あやう ばあい」(=攻撃罵言の頂上を極め、遠近より脅迫状の到来、
友人の忠告など、今は、ほとんど、身辺も危うきほどの場合に迫れり)」と書き残して
いる。

 わかるかな?

 赤穂の浪士たちは、暗殺劇を試みるのではなく、正々堂々と裁判で闘えばよかった
と福沢諭吉は説いた。
まさに正論である。
この正論に対して、福沢諭吉は、身の危険を感ずるほどの脅迫にさらされた。
『しんぺん あやう ばあい(身辺も危うき場合に迫れり)』と。

 今でも、毎年12月を迎えると、『忠臣蔵』が、顔を出す。
NHKの大河ドラマとしても、繰り返し取り上げられている。
が、『忠臣蔵』が問題というのではない。
この(進歩のなさ)こそが、問題なのである。
140年を経た今でさえ、何も変わっていない。
それが問題なのである。

 学識を磨くには、日々の鍛錬あるのみ。
立ち止まったとたん、学識は後退する。

(注:中途半端な原稿のまま、発表します。推敲、校正は、また後日します。ごめん!)
09年8月26日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 学識論 福沢諭吉 赤穂浪士論 忠臣蔵)

*Consciousness vs Unconsciousness

●意識vs無意識

++++++++++++++++++++++

 簡単に説明してみよう。
まず、意識を、(意識)と(無意識)に分ける。
今どき、こんな単純な分け方をする人はいないが、ここではそうする。

 つまり(今、意識している意識)を、(意識)という。
それに対して、意識できない意識、それを(無意識)という。
(意識)というのは、わかりやすい。
今、あなたは考えたり、思ったりしていることが、(意識)ということになる。
では、無意識とは何か。
それがわかりにくい。
平たく言えば、それ以外の、表に出てこない意識を、(無意識)という。

 これを簡単に図示すると、つぎのようになる。

――――
意識
====
無意識
――――

意思として自覚する(意識)。
意識として自覚しない(無意識)。
今は、そう考えて、話を先に進める。

ここで、それぞれの強弱を、仮に3段階に分けてみる。

するとそれぞれの組み合わせは、9通りになる。
(意識が強くて、無意識が強い人)、(意識が強くて、無意識が中くらいの人)、
(意識が強くて、無意識が弱い人)……、と。

その中でもわかりやすいのを、3通り、ここに書き出してみる。

(1)(意識・強)-(無意識・強)……精神力の強固な人
(2)(意識・中)-(無意識・中)
(3)(意識・弱)-(無意識・弱)……精神力の軟弱な人

そこでさらに一歩、話を進めてみる。
たとえば(意識が強くて、無意識が弱い人)と、反対に(意識が弱くて、
無意識が強い人)を考えてみる。

(4)(意識・強)-(無意識・弱)……臨機応変に自由に行動できる人
(5)(意識・弱)-(無意識・強)……がんこで、融通がきかない陽と

 たとえば、たいへんがんこな子どもがいる。……いたとする。
一度、こうと言い出したら、テコでも動かなくなるタイプである。
たとえばこんな子ども(年中児)がいた。

 幼稚園でも、自分の座る席が決まっていた。
それ以外の席には、座らなかった。
先生がいくらていねいに指導しても、「ぼくは、この席!」と譲らなかった。

 ズボンもそうだった。
毎日、幼稚園へはいていくズボンが決まっていた。
「青いズボン」と決めると、毎日、そればかりをはいて、幼稚園へ出かけた。
母親が、いくらほかのずぼんを勧めても、それは、はかなかった。

 こうした(こだわり)は、自閉傾向(自閉症児のことではない)のある子どもに、
共通して見られる症状である。
いわゆる(根性)とちがうところは、(理由)がないということ。
理由もなく、「この席でないといやだ」とか、「青いずぼんでないといやだ」とか言って、
カラにこもる。

 このタイプの子どもは、(意思の力)というよりも、その子どもを裏から操る、
(無意識の力)のほうが、強いということになる。
先の分類法によれば、(5)の(意思・弱)-(無意識・強)というのが、それに当たる。

●(意識・強)-(無意識・弱)

 反対に、意識が強く、無意識の力が弱いばあいは、どうか。

 このばあいは、意識できる意思が強く、無意識の世界からの影響を受けないので、
臨機応変に、自分で考えて、自由に行動する。
無意識の世界から、いろいろな命令があがってきたとしても、それすらも、自分の
意思でコントロールしてしまう。

 ただ誤解していけないことは、無意識の力が弱いからといって、それだけ無意識の
世界が狭いということではない。
脳のもつキャパシティは、同じと考えてよい。

●発達段階

 これらのことは、子どもの発達段階を観察してみると、納得がいく。

 いわゆる3~4歳期の、幼児期前期の子どもを観察すると、(言われたことをきちん
と守る)という習性があるのがわかる。
何か母親が言ったりすると、「幼稚園の先生がこう言ったから」と、かたくなに
言い張ったりする。
最初にきちんとした形で入った情報を、絶対的と思い込む。

 そのため、この時期は、(しつけ)がしやすい。
エリクソンは、「自律期」と呼んでいるが、それはそういう理由による。

 しかしその幼児でも、満4・5歳を過ぎると、なにごとにつけ、急に反抗的に
なってくる。
母親が、「新聞をもってきて!」などと言うと、「自分のことは自分でしな」などと
言い返したりする。

 つまり(決められたこと)を、自由な意思で、コントロールするようになる。
上記の分類法によれば、(4)の(意識の力が強くなり)-(無意識の力が弱くなった)
状態を考えればよい。

●思考の融通性

 思考の融通性は、(意識の力)と(無意識の力)の強弱によって決まる。
意識の力が強く、無意識の力が弱ければ、融通性があるということになる。
これを(a)の人と呼ぶ。

 反対に、意識の力が弱く、無意識の力が強ければ、融通性がきかなくなる。
ものごとに、よりこだわりやすくなる。
これを(b)の人と呼ぶ。

 が、それはあくまでも相対的な力関係に過ぎない。
意識の力が弱い人でも、さらに無意識の力が弱ければ、融通性のある人ということに
なる。
このばあいは、軟弱な印象を、人を与える。
覇気がない。
何か指示すると、だまってそれに従ったりする。
同じ融通性がある人といっても、(a)の人のような、強い意識の力を感ずることはない。

●応用

 この分類法を使うと、子どもの様態が、より明確に区分できるようになる。

 たとえば、かん黙児の子どもについて言えば、(意識の力が弱く)-(無意識の力
が強い)ということから、上記(5)のタイプの子どもと位置づけられる。

 反対に、AD・HD(注意力欠陥型多動性児)のばあいは、(意識の力が強く)-
(無意識の力が弱い)ということから、上記(4)のタイプの子どもと位置づけられる。

 このことは年齢を追いかけながら、子どもを観察してみると、よくわかる。
たとえばかん黙児の子どもにしても、AD・HD児にしても、加齢とともに、症状が
緩和されてくる。
自己管理能力が発達し、自分で自分をコントロールするようになるためである。

 で、そのとき、かん黙児の子どもにしても、(がんこさ)はそのまま残ることは多い。
一方AD・HD児のばあいは、もちまえのバイタリティが、よいほうに作用して、
自由奔放な子どもになることが多い。
モーツアルト、チャーチル、エジソン、さらには最近では、あのアインシュタインも、
子どものころ、AD・HD児だったと言われている。

●無意識の世界

 話はぐんと変わるが、ダメ押し的な補足として、こんなことを書いておきたい。

 催眠術という「術」がある。
あの催眠術を使って、被験者に、たとえば「あなたはキツネになった」と暗示をかけると、
あたかもキツネになったかのように、ピョンピョンとはねたりする。
こうした現象は、(意識の世界)が、(無意識の力)に支配されたことによって起こると
考えると、わかりやすい。

 意識の世界で、いくら「私はキツネではない」と思っても、無意識の力の前では、
無力でしかない。
それだけ無意識の世界の力が強力であるとも考えられるが、言い換えると私たちは、
意識の力と、無意識の力の、絶妙なバランスの上で行動しているということになる。

 意識の力だけで行動していると思っても、常に無意識の力の影響を受けている。
しかし意識の力だけで行動しているわけではない。
無意識の力だけで行動しているのでもない。

 それをわかりやすくするために、上記(1)~(5)の仮説を立ててみた。
「私」をよりよく知るための、ひとつのヒントにはなる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 無意識 意識 意識vs無意識論 意識の強弱)

*A Child is the Representative of the Family

●子どもは、家族の「代表」

++++++++++++++++++++

子どもは、家族の「代表」。
代表にすぎない。
今では、それは、常識。
子どもに何か問題があったとしても、
それは子どもだけの問題ではない。
家族全体の問題。
そのように、考える。
またそのように考えないと、子どもの問題は
解決しない。

しかしそれだけでは足りない。
足りないという話を、今までの経験を交えながら
書いてみたい。

+++++++++++++++++++

●優等生

 その母親(当時60歳)は、自分の息子(33歳)をさして、「うちの子ほど、
すばらしい息子はいない」と言った。
自分の息子をさして、「すばらしい」と言う親は、珍しい。
外国では多いが、日本では珍しい。
そこで私はその息子氏に会ってみたくなった。
が、その日は、その直後にやってきた。

 ある葬儀に出たときのこと。
その息子氏は母親のそばに寄り添うように、そこに座っていた。
「ああ、これがあの息子か」と、私は思った。
思いながら、私はその息子氏にあれこれと話しかけてみた。

 が、第一印象は、言うなれば、完璧に近いほど、マザコン。
穏やかで、おとなしいが、覇気がなく、静か。
私が話しかけても、はにかむだけ。
満足な返事もない。
どこかの電気会社の下請け企業で、技術者として働いているということだった。

私「仕事はどう?」
息「うん、まあまあ」
私「暑いときは、たいへんだね」
息「うん、ふふふ……」と。

●同一性の確立

 親はそれぞれの思いをもって、子育てを始める。
自分の夢や理想、思いを子育てに凝縮させる。
自分なりの(子ども観)をもつ人も多い。
それ自体は、悪いことではない。

 が、親が思い描く子ども観を、子どもに押し付けてはいけない。
「求める」ことまではしても、押し付けてはいけない。
それが度を越すと、過干渉となる。

 その息子氏は、母親の過干渉で、人格そのものまで、押しつぶされてしまっていた。
思春期前期から、思春期にかけて、自我の同一性の確立に失敗した。
私は、そう判断した。
だから人格の「核」がない。
「この人は、こういう人だ」という(つかみどころ)を「核」という。
その「核」がない。

 軟弱で、ひ弱。
たしかに(いい人)だったが、それだけ。
面白みがない。
迫力もない。 

●過干渉

 原因は、ここにも書いたように、母親にあった。
口うるさい人だった。
葬儀の席だったが、そんなとことでさえ、こまごまとしたことを、矢継ぎ早に
指示していた。
「あの扇風機を、こちらに向けなさい」
「ざぶとんを、あの人に出しなさい」
「お茶をわかしてきなさい」と。
息子氏は、黙ってそれに従っていた。

 つまりこうした親子のリズムが、その息子氏をして、そのような息子にした。
が、ここで最大の問題は、息子氏のことではない。
母親自身にその自覚がないということ。
先にも書いたように、母親自身は、そういう息子を、「すばらしい子ども」と誤解して
いた。

●病識

 精神病の世界にも、「病気意識(病識)」という言葉がある。
「私はおかしい」「へんだ」と思っている人は、まだ症状が軽い。
しかし「私はだいじょうぶ」「何でもない」とがんばる人ほど、症状は重い。
まったく病識のない人さえいる。

 同じように、自分の子どもの問題点に気がついている母親は、まだよい。
指導ができる。
そうでない母親は、指導そのものが、できない。

 たとえば年中児(4~5歳児)でも、親の過干渉が原因で、精神そのものまで
萎縮してしまったような子どもがいる。
けっして少なくない。
10人のうち、1人はいる。
程度の差も含めれば、10人のうち、2~3人はいる。

しかしそういう子どもの親ほど、「うちの子どもはできがいい」と思い込んでいる。
またそういう子どもにしようと、無理をしている。
で、その一方で、ほかの子どもを、「できの悪い子ども」として、排斥してしまう。
自分の子どもから遠ざけてしまう。

●極端化

 小さな世界に閉じこもり、自分だけの世界で、子育てをする親がふえている。
以前はそれを「核家族」と呼んだ。
今は、「カプセル家族」と呼ぶ。

 このタイプの家族は、大きく2つに分けられる。

(1) 親たち自身が高学歴で、外の世界の価値を認めない。
(2) 親たち自身が低学歴で、外の世界の価値を理解できない。

 どちらであるにせよ、一度カプセルの中に入ってしまうと、その狭い世界で、
自分だけの価値を熟成させてしまう。
結果として、独善的になったり、社会から孤立化したりする。
これがこわい。

 一度カプセルの中に入ってしまうと、同じ過保護でも極端化する。
過干渉でも極端化する。
これが子育てそのものを、ゆがめる。

●A君(小2)の例

 A君は、幼児期のときは、まだ明るかった。
何かの勉強をしていても、楽しそうだった。
が、小学校へ入学したとたん、表情が暗くなった。
もともと勉強が得意ではなかった。
言葉の発達も遅れ気味だった。
そのため母親が、かかりっきりで、A君を指導した。
A君は、月を追うごとに、やる気をなくしていった。
私の教室でも、フリ勉(勉強をしているフリをする)、
ダラ勉(ダラダラと時間ばかりかけて、何もしない)、
時間つぶし(ほかの作業をして、時間をつぶす)などの症状が見られるようになった。

 こうなると、つまりこの時期に一度、こうなると、症状は、ずっとつづく。
「直る」のは、ほぼ不可能とみてよい。
(ますます勉強から遠ざかる)→(無理な家庭学習が日常化する)の悪循環の
中で、症状は、ますますひどくなる。
それ以上に、学校での学習量がふえる。
学校での勉強が追いかけてくる。
A君はその負担に、ますます耐えられなくなる。

●迷い
 
 こういうケースでは、親にそれを告げるべきかどうかで悩む。
親にそれだけの問題意識があればよい。
が、そうでないケースのほうが多い。
「まだ何とかなる」「うちの子にかぎって……」「やればできるはず」と。
それにこの時期、「過負担を減らしましょう」と言うことは、親にしてみれば、
「勉強をあきらめなさい」と言うに等しい。
親がそれを受け入れるはずがない。

 とても残念なことだが、親というのは、行き着くところまで行かないと、自分では
気がつかない。
これは子育てというより、家庭教育のもつ宿命のようなもの。
私の立場では、自分のできる範囲で、また自分の世界で、(最大限)、指導するしかない。
この世界には、『内政不干渉の大原則』という原則もある。

 で、実際問題として、この時期、それを親に告げると、私のほうにはその意図が
なくても、親は、「拒否された」ととる。
そのまま私のところを去っていく。

●いい子論

 話を戻す。
そんなわけで、「いい子論」は、家庭によって、みなちがう。
子育ての目標がちがうように、みなちがう。
冒頭に書いた息子氏について書く。

 母親は、かなり権威主義的なものの考え方をする人だった。
「親絶対教」の信者でもあった。
「先祖」「親孝行」という言葉をよく使った。
ものの言い方が威圧的で、一方的だった。
一見穏やかで、やさしそうな言い方をする人だったが、それは仮面。
息子氏や、ほかの娘たちが口答えでもいようものなら、烈火のごとく、それを叱った。
「親を粗末にするヤツは、地獄に落ちる」が、その母親の口癖だった。

 息子氏はそういう環境の中で、ますます萎縮していった。

 で、悲劇は、その数年後に起きた。
妻のほうが、一方的に離婚を宣言し、子どもを連れて、家を出てしまった。
息子氏の母親は、息子氏の妻(嫁)を、はげしくののしった。
が、そういう面もなかったとは言わない。
いろいろあったのだろう。
しかし離婚を宣言した妻の気持ちも、よくわかる。

 「あの息子と、あの姑(しゅうとめ)では、だれだって離婚したくなる」と、
私は、そのときそう思った。

●では、どうするか

 「まず、自分を知る」。
それが子育てにおいては、必須条件ということになる。
この世界では、無知は罪悪。
無知であることを、居直ってはいけない。

 そのためには、もしあなたの生活がカプセル化しているなら、風穴をあけ、
風通しをよくする。
もしそれでも……ということであれえば、私が用意した「ママ診断テスト」を
受けてみてほしい。
(私のHPより、「最前線の子育て論」→「ママ診断」へ。)
平均的な母親たちと、どこがどうちがうかを知ることができる。
平均的であればよいということにはならないが、自分の子育てを、ほかの人と
比較することはできる。

 つぎに、たとえば学齢信仰、学校神話、出世主義、権威主義に毒された子育て観を
改める。
世界も変わった。
世間も変わった。
しかし子育ての基本は、変わっていない。
子育ての基本は、1000年単位、2000年単位で、繰り返されるもの。
その原点に立ち返る。

 というのも、子どもというのは、子ども自身が自ら伸びる(力)をもっている。
あらゆる動物や、植物がそうである。
その(力)を信じ、その力を(引き出す)。
それが子育ての原点ということになる。
言うなれば、子育ての原理主義ということか。
しかし何かのことで迷ったら、そのつど原点に立ち返ってみる。
意外とその先に、「道」が見えてくるはず。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
子育ての原理主義 無知は罪悪 萎縮する子ども 過干渉 いい子論 はやし浩司 
よい子論 覇気のない子供 家族の代表 代表論 子供の問題)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司